2010年5月17日 (月)

自由を奪われるということ『ホワイトナイツ』 白夜(1985)

 この映画は何度映画館に通ったことか、数え切れません。ストーリーはとてもシンプルなのですが、ダンスシーンや脱走シーンetcはこの配役で成り立ったともいえるのではないでしょうか。

 ロンドンから東京に向う国際線が、白夜のシベリアのとある空港に不時着した。乗客の世界的なダンサー、ニコライ(ミハイル・バリシニコフ)は負傷しながらも、身元のわかるパスポートやクレジットカードをちぎってトイレに流した。彼は8年前、人生と芸術の自由を求めてアメリカに亡命し、祖国ソ連では犯罪者となっているのだ。病院のベッドで意識を取り戻したニコライに、KGBのチャイコ大佐(イエジー・スコリモフスキー)が笑みを浮かべていた。「おかえり、ニコライ」。ニコライは重傷者として拘留されマネージャーのアン(ジェラルディン・ペイジ)は、他の搭乗者と一緒に西側に移されることになった。
 

 チャイコはニコライを新装されるキロフ劇場に再び登場させようと考え、その説得役として黒人のレイモンド(グレゴリー・ハインズ)とン連人妻ダーリヤ(イザベラ・ロッセリーニ)の夫婦に彼を預けた。

 レイモンドは、かつてアメリカの国策に反対し、ニコライとは逆にソ連に亡命したタップダンサーである。だが、亡命当時は優遇された彼も、今ではシベリア公演のみが与えられた「自由」だった。監禁状態同様のあつかいにニコライは、レイモンドとダーリャをKGBの手先だと批難した。芸術の自由を得るために母国を捨反目しあった2人だが、やがて互いの立場を理解し、ニコライはダンスをすることを了解。

公けには意識不明とされたまま、彼はレイモンド夫妻とともにレニングラードヘ移された。
 一方アンは、ニコライの身柄引渡しをアメリカ大使館に求めたが、交渉は難航していた。レニングラードでニコライは、かつての恋人ガリナ(ヘレン・ミレン)と再会、8年間の時間を2人は感慨深くふり返るのだった。ニコライが脱走を企てたとしてチャイコはダーリャを連れ去った。

 ニコライはリハーサルを開始した。2人は見事なダンスを繰り広げる。
 そして彼はダーリャに想いを寄せているように装い、彼女を取り戻した。そのころガリナはニコライのソ連脱出の決心に負け、秘かにアメリカ大使館と接触、脱出工作を手助けした。綿密な計画通りに3人はKGBの目を盗んで脱出を開始。だが、レイモンドはチャイコの目をそらすため、自らオトリとなり、ニコライとダーリャはアメリカ大使館に駆け込んだ・・・。
 何日か経ったある日。深夜、レイモンドはチャイコに車で連れ出された。処刑か?不安に襲われるレイモンド。。。。g(oo映画より抜粋)

 ニコライの創作ダンス、レイモンドのステップが合った時、もう2人の間には友情が芽生えていたと思います。レイモンドにしても出来るならアメリカへ帰りたいと思っていたとはず。でも手立てを知らなかった。。。執拗なまでに付きまとうKGBのチャイコ大佐。

 照り続け、沈む事の無い白夜。。。気がおかしくなると人は言います。

自由を求めただけなのに、自由な芸術を模索しただけなのに、監獄のように見張られる日々です。

 3人の脱走劇は、ある高級な一室に押し込められ、ニコライがダーリアにちょっかい出したという前提で喧嘩を始め、それを録音したテープを流し続けることで3人が部屋に居るように見せかけ、窓から縛ったシーツで階下まで降りると言う計画でした。

 ところがチャイコ大佐が帰ってきてその頭上に3人目のレイモンドが。。。
レイモンドは引き返して2人を脱出させ、部屋から出て行き、チャイコ大佐に自分の妻を寝取られたと告白し、ウォッカを2人で飲み、酔いつぶらせようとします。でもテープの音声が同じ会話の繰り返しということを突き止められ、レイモンドは監獄に。

 数日経ったある夜、レイモンドは暗い道を『まっすぐ歩け!』と言われ、後ろから銃殺されるとばかり思っていましたが、向こうからも人が歩いてきて『ハーイ、同士』と言ってすれ違うのです。
 あっけに取られたレイモンドを待っていたのは、妻のダーリア、そして固く結ばれたニコライの顔でした。もう、私は何度観てもこの場面は忘れられません。

 この映画で私が得たものは、亡命とは名の通り、命がけであり、一度自由を奪われた人間は半ば諦めて新しい人生を見つけそのかごの中で生きなければならないこと。そしてお互いの国の人質交換が名誉の為になされるとい事実です。そして国境を超えようと、色が何色であろうと信じ合えるということです。

 そして、ラストに流れたライオネル・リッチーの『Ssy you Say me』は名曲としてグラミー賞を取りましたね。ではこの曲をお聞き下さい。

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2010年5月14日 (金)

キャンセルのはしり『ミケランジェリ』

 

 ミケランジェリ家は、アッシジの聖フランチェスコの末裔と伝えられています。3歳から音楽教育を受け、最初はヴァイオリンを学びましたが、間もなくピアノに切り替えたそう。10歳でミラノ音楽院に入学。父親の主張により、一時期医学を学んだこともありました。1938年、18歳で国際イザイ音楽祭に参加。一次予選の演奏から早くも注目を集めますが、初見が苦手であったことが災いし、第7位の入選に留まります。
翌1939年、ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝し、審査員長のアルフレッド・コルトーから『リストの再来』と賞賛されました。コレが私が彼に惹きつけられる所以でしょう。

 第二次世界大戦中はファシズムに対するレジスタンス運動の闘士としても活躍しました。そういう魂がこもった音が彼の音ふだったのかもしれません。でもショパンの曲などは、そんな荒荒しさはみじんも感じません。 

 1920年にブレシア近郊の小さな町に生まれ、1955年にルガーノで亡くなった彼は、誰もがその名とその音楽を知っている、20世紀最高のピアニストです。その信じられないような精神的規律、唯一無二の完璧な技術、形式に対する禁欲的な意識、そして表現における圧倒的なスケールで、彼の芸術に感銘を受た人は多いことでしょう。もっとも、彼の演奏を実際に聴く機会があったらの話ですが。
 

 そう彼は、公演をキャンセルすることで有名でした。キャンセル魔だったことは、生前から伝説となっていました。でも、このピアノの天才の人となりについては、それ以外は誰も知りません。彼自身が「自分には私生活はない。練習しているか、研究しているか、教えているかだ」と語っているように、私生活がほとんど知られていない芸術家の一人でもあります。作家のコード・ガーベンは17年間にわたり、この謎めいた天才とともに仕事をしたそうです。

 レコード・プロデューサーとして、あるいは協奏曲の指揮者として、時には、猛烈なスピードで走る自動車の同乗者として。。。公私にわたり身近にあった者のみが知る天才の素顔と、綱渡りのような交友を綴る一方で、その芸術の真実を探求著作で紹介しています。
 私は本は一切読んでいません。この旋律に共鳴したのです。

 完璧にコントロールされた技術と高い精神性、そして作品に捧げられる献身的情熱とが結晶となった彼
の音の世界は、まさに演奏芸術の頂点を究めた表現活動であり、余人の追随を許さない高みにあったと
私は思っています。

 キャンセル魔、過敏なまでに神経質な対人関係、録音嫌いなど、彼にまつわるエピソードは尽きることがありません。本来彼は非常に強い完璧主義からコンサートのキャンセルを頻発し、次第に年間に「実際に」とり行われた演奏会が10回に満たないという例も珍しくなくなっていきました。しかし、その貴重な演奏会が更に評判を呼び、一層ミケランジェリというピアニストを伝説に押し上げていったのでした。Tanaka001

 しかもこうしたうわさ話は、時に一人歩きし虚像をいたずらに大きくしてしまった感すらありますが、
ひとたび彼の演奏を耳にすれば、その神秘的なまでの美しさは聴く者すべてを虜にし、紛れもないミケランジェリの音と音楽の世界があることを確信させてくれます。
 そしてピアノ演奏の測り知れない奥深い領域へと聴き手を導 くとともに、音楽がいかにかけがいのない表現活動であるかを再確認させてくれたのです。

 日本にも3度来日していますが殆どがキャンセル。。。どんなにファンが残念がってもこれだけは譲れない所だったのでしょう。

こんなエピソードがあります。ドイツ・グラモフォンに録音した有名なショパンの録音は僅か3時間足らずで録音されたという話です。ノーミスの完璧な演奏ができたため、録り直すことがなかったため。その代わり、録音に至るまでピアノが満足できる状態になるまで偏執的にこだわるなど、演奏会にしても録音にしても実際にピアノを弾くまでに至る準備は大変なものだったそうです。

 紹介した曲はあまり有名な曲ではありませんが、ミケランジェリという人となりが解る、というか、変に身構えなくても聴ける曲を選びました。ご堪能下さい。お顔はやはり神経質そうですが(笑)。

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2010年5月12日 (水)

私の好きな作品たち~F・スコット・フィッツジェラルド編

 私は翻訳された作品しか知らないのですが、村上春樹氏の『ノルウェイの森』の主人公も、そして『ライ麦畑で捕まえて』の主人公もなぜか『グレート・ギャツビー』を読んでいてそれに感化された方も多いのではないでしょうか。

 春樹氏は自分が読んだだけでは飽き足らず、一昨年、御自分で翻訳してしまわれましたね。確かに訳し方で随分印象が変わるので、私の兄はこの翻訳家はいいよなんて言って洋書を読んでいましたっけ。

 私も春樹氏の影響で『グレート・ギャツビー』を読みました、が、私が読んだ頃は第2期の映画化が終わった直後で、ロバート・レッドフォード、ミア・ファローが脚光を浴びる形になりましたが、アカデミー賞衣装デザイン、編曲賞を受賞しました。監督はジャック・クレイトン氏でした。

   貧しさの中から身を起こし、裕福になったジェイ・ギャッツビーRobato_001 は、フィッツジェラルド、あるいはアメリカそのものにつきまとう、金や野心、貪欲さ、進歩主義信仰などの強迫観念を象徴しているようです。
「ギャッツビーは、緑の灯火を信じていた。お祭り騒ぎは、年々かげりを見せはじめているというのに、未来は明るいと信じていた。いざ、その時が来て、明るいはずの未来が素通りしていっても、たいした問題ではない。明日になれば今日より速く走ることができるし、
大きく手を広げることもできるから…そしてすがすがしい朝が――」
   夢の実現と崩壊を描いたこの小説は、「アメリカンドリーム」に一種の警鐘を鳴らす作品なのでした。
  この小説は、デイジー・ブキャナンに対する、ギャッツビーのかなわぬ思いを描いたラブストーリーでもあります。2人の出会いは、物語の始まる5年前。若きデイジーはケンタッキー州ルーイヴィルの伝説の美女、ギャッツビーは貧乏な将校でした。2人は恋に落ちますが、ギャッツビーが海外出征している間に、デイジーは、粗暴だが非常に裕福なトム・ブキャナンと結婚してしまうのです。
 戦争から帰ってきたギャッツビーは、なりふりかまわず、富とデイジーを追い求めることに没頭し、やがて、当初は目的にすぎなかった富が、デイジーを手に入れるための手段になっていく・・・「彼女の声は金でいっぱいだ」これは、ギャッツビーが、この小説の中で
も特に有名なシーンで発する賛辞の言葉です。

 言語が違ってしまうと醸し出す雰囲気も当たり前のように変わるものですが、村上さんの描くギャツビーは、まさしく僕のイメージのギャツビー、いえ、アメリカで学ぶフィッツジェラルドの描こうとしたギャツビーそのものなのです。
 フィッツジェラルドの著作の中では、構成力と登場人物の性格づけという意味においても最高傑作かと思います。

 1920年代は間違いなくフィッツジェラルドが最も輝いたときでした。1922年に出版された二作目の長編小説『美しく呪われし者』は未熟な部分もあった前作に比べ格段の進歩を遂げていました。そして1925年には『グレート・ギャツビー』が出版されています。

 後世、この作品によってフィッツジェラルドは、1920年代アメリカのいわゆる「ジャズ・エイジ」や「フラッパー」の象徴としてのみならず、20世紀アメリカ文学全体を代表する作家の一人として認められるようになります。しかし発表当時は、流行作家が背伸びして書いた文学寄りの作品という程度の受け取られ方で、批評家の受けは良くても、支持層であった若い読者にはあまり歓迎されず売れなかったそう。

 この世紀の名作が正しい評価を受けるのはフィッツジェラルドの死以降であり、生前には絶版になった時期Sizuka003_2 すらあるそうです。この頃フィッツジェラルドは執筆の合間をぬってヨーロッパに旅行に出かけています。パリや南仏のリヴィエラではアメリカを抜け出してきたアーネスト・ヘミングウェイらと出会っているのです。

 しかしフィッツジェラルドは1920年代の終わり頃から4つ目の長編に取りくみ始めましたが、生活費を稼ぐ為に収入のいい短編を書かざるを得ず執筆は遅滞していました。

 1929年のウォール街での株価大暴落に端を発する世界恐慌、さらには1930年には妻のゼルダが統合失調症を発症し彼の生活に暗い影が差し始めます。1932年にゼルダ夫人はボルチモアの病院に入院し、フィッツジェラルドは一人で家を借りて長編小説に取り組み始めました。この作品の主人公である、若く将来を約束された精神科医ディック・ダイバーは彼の患者であった富豪の娘ニコルと恋に落ちます。

 不安定な妻に翻弄され転落していく主人公を美しい文章で描いたこの作品は、『夜はやさし』と題して1934年に出版されました。批評家の中には『グレート・ギャッビー』でなくこの作品こそが彼の最高傑作であると考える人もいます。
 しかし恐慌下のアメリカでフィッツジェラルドは既に過去の人となっており、作品の売り上げは芳しいものではなありませんでした。絶望からしだいにはアルコールに溺れるようになっていきました。

春樹氏の場合には 彼自身がどこかで言っていましたが 翻訳、自作の短編、自作の長編、エッセイを書き分けていくことで自分のバランスを取っているとのこと。その意味でも 翻訳を抜きにして春樹氏はは語れないと思うようになりました。そんな春樹氏が始めに訳したのが『マイ・ロスト・シティー』でした。

 春樹氏の翻訳の仕事の中では カーバーの紹介が一番目立ちますが 実はフィッツジェラルドから始めたというのは案外知られていない事実ではないかと思います。最近でこそ ギャツビーを訳したことで 村上とフィッツジェラルドの関係が目立つようになりましたがついこの間までは あまりり知られていなかったのだと思います。もっとフィッツジェラルド氏の短編集なども翻訳していただきたいものです。

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2010年5月 9日 (日)

妖艶なまでに美しく『エゴン・シーレ』

     『ぼくは思う。"現代的な"芸術などありはしない。
      在るのはただ一つの芸術、永遠に続く芸術だけである』

 鋭い言葉を残したエゴン・シーレ。

当時盛んであったグスタフ・クリムトらのウィーン分離派、象徴派、スカー・ココシュカに代表される表現主義のいずれにも属さず、独自の芸術を追求した画家でした。

 1906年、ウィーン美術アカデミーに入学し、アカデミックな美術教育を受けます。翌1907年にはクリムトと知り合っています。美術アカデミーの保守的な教育方針はシーレの肌に合わず1909年、仲間たちとともに退学。1911年、それまでクリムトのモデルを務めていた、ヴァリ・ノイツェルという当時十代の女性をクリムトから紹介されました。ヴァリという女性はその素性が不明なのですが、1911年からほぼ4年間にわたりシーレと同棲生活を送り、『死と少女』をはじめとする多くの作品のモデルとなっています。

 クリムトに大Egonsireきな影響えお及ぼされたと思われがちですか、かく言うクリムトもシーレには大きな影響を受けていたに違いありません。

 エゴン・シーレを外から知るには、シーレの舞台となったウィーン がヨーロッパ第4の大都市であり、オーストリア=ハンガリー二重帝国が残響していたこと、『性の科学』と『性の文学』の分離運動の嵐がふきまくっていたことを忘れてはいけないのでしょう。

 シーレは28歳年長の画家クリムトとは師弟というよりは生涯を通じた友人という関係にありました。エロスが作品の重要な要素になっている点はシーレとクリムトに共通していますが、作風の面では両者はむしろ対照的と言えるでしょう。

 世紀末の妖しい美をたたえた女性像を描き、金色を多用した装飾的な画面を創造したクリムトは「表現対象としての自分自身には興味がない」として自画像をほとんど残しませんでした。

 これに対して、シーレの関心はどこまでも自分の内部へと向かい、多くの自画像を残しました。自画像を含むシーレの人物像の多くは激しくデフォルメされ、身をよじり、内面の苦悩や欲望をむき出しにしていいます。自慰にふける自画像、陰部をあからさまに露出した女性像などの大胆な表現は21 世紀の今日の鑑賞者にも驚きを与えます。確かなデッサン力に裏付けられたシーレの作品の価値が国際的に評価されるようになるのは、20世紀後半になってからででした。

 その自画像はデッサンを含めて一つとして似たものはないのにも関わらず、そこにはどう見てもアンドロギュヌス(男性と女性の 2つの性をそなえた存在)がいっぱい現れています。そのアンドロギュヌスは当然に男であって女であるけれど、それとともに神であって人であり、少年と少女であり、男娼と娼婦であって、また着衣であって裸体の、性交と自慰の、二重化されつづけるアンドロギュヌスだったのでしょう。観ていて男女の交わり、関わりが、とても美しいのです。

細い線のデッサン画にまず心を惹かれました。そして少し暗い色使いも塗り方一つとっても、
もうお気に入りです。でも28歳でスペイン風邪で亡くなりました。これほどの多数の絵を残してくれたことに感謝です。いつか、彼についての本も読んでみたい、そんな作家でした。

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2010年5月 4日 (火)

私の好きな作品たち~森絵都編

 私が初めて触れた森さんの本は、なんと『にんきものの本シリーズ』の『にんきもののひけつ』という絵本でした。それも立ち読みで・・・。

 でもその印象が強かったので普通の童話作家ではないと思い、また、ネットで調べてみました。すると直木賞をとっていることが解り、『永遠の出口』あたりから「オトナ」を意識した作品を手がけるようになり、『いつかパラソルの下で』が直木賞候補になるなど、本好きにとっては、新刊チェックがはずせない書き手の一人であることが解りました。
  
 児童文学の世界では既に数々の文学賞を受賞している人気作Jannsenn02 家の森絵都さん。一般文芸に進出したのは最近ですが、前作の『いつかパラソルの下で』は直木賞候補にもなり、話題を呼びました。

『風に舞いあがるビニールシート』は「市井でこつこつと一生懸命働く人たちをテーマに書いてみたい」ということで生まれた短篇集です。国連難民事務所に勤務している表題作の主人公・里佳は上司のエドと恋愛し、七年間の結婚生活の末、二年前に離婚。そのエドがアフガニスタンで死に、立ち直れないでいる彼女を、エドが救った難民の少女に会ったという記者が訪ねてきて……。
 我が儘なオーナーパティシエのために雑務をこなす秘書、捨て犬の世話をするボランティア、時間に追われる社会人学生、仏像に魅入られた修復師。温かなユーモアに満ち溢れた筆致で紡ぎだされるハートウォーミングでちょっぴり泣ける一冊です。

 森絵都という作家は、少なくとも今までは、いわゆる「オンナコドモ」向けの作品を多く書いてきた作家でした。でも、このことから想像されがちな「感覚派」の書き手ではない気がします。
 
 彼女は、「甘い」だとか「切ない」だとか、曖昧なニュアンスにいたずらに使うことをしませよね。そういう感覚の薄い皮膜の奥にあるもっと硬質で確かな「何か」を突き詰めていこうとする、文章も「思いつき」で書かれたものではなく、語彙の選び方ひとつとっても、かなり練られていると思うのです。辛くても辛くても苦しくても、それでも生きていくんだ。寂しくなんかないんだ。 周囲に壁をつくって一人でひきこもって過ごしていた主人公が強く、強く自分の力で生きていくようになるまでの流れがとても自然です。これは『リズム』で感じたことです。

 登場人物たちのセリフ以上に、描写によってメッセージを伝えてくれる稀有な書き手だと感じます。
 素直に読めば読むほど、スッと受け入れられると思います。

 重いテーマを軽やかに、心に染みる物語として、森さんは読者の前に差し出してみせた。ストーリーテリングの力、生き生きとした会話、丁寧な心理描写、じーんとくるエピソード。何よりも読者が、限られた情報を頼りに「真」として生きる「ぼく」と一緒に、少しずつ「真」自身を、周りの人を理解していくしかけが効いている。いろいろなことを知った「ぼく」がとりかえしのつかない「真」の人生を思って涙するのと一緒に、読者も同じ痛みを味わうことになるのだ。終盤、「自殺」を「殺人」と置き換えた「ぼく」の言葉が、説教くさくも空疎にも軽はずみにも響かず、すとんと心に収まるほどに。さて「ぼく」の再挑戦は、失われた「真」の人生は・・・
 さまざまな色合いを秘めた人たちで構成される『カラフル』な世界。その魅力的で複雑な世界を生き抜くヒントがぎっしり詰まった作品ですね。

 『つきのふね』はあの日、あんなことをしなければ…。心ならずも親友を裏切ってしまった中学生さくら。進路や万引きグループとの確執に悩む孤独な日々で、唯一の心の拠り所だった智さんも、静かに精神を病んでいき・・・。近所を騒がせる放火事件と級友の売春疑
惑。先の見えない青春の闇の中を、一筋の光を求めて疾走する少女を描く、奇跡のような長編です。

 私の好きな作品ばかり紹介しましたがまだまだあります。ふと考えさせられる作品ばかりだと思い、お勧めしようと考えました。

ちょっと苦手と言う方は物語や翻訳作品をお勧めします。ギスギスした日常から開放されることも大切ですよね。

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2010年4月28日 (水)

バッハの偉大な演奏者『グレン・グールド』

 世界的に人気の高い、この方を私は迂闊にも知りませんでした。「私は彼を崇拝している」。。。この言葉が私を動かしました。
後日、「聴いてみて」と送られてきたCDを聴いたり、youtubbeの動画を観たりしていくうちにその素晴らしさに魅せられました。

 グールドは、一般的なクラシックのピアニストとは一風異なるレパートリーの持ち主でした。デビュー以来、グールドは活動の基盤をバッハにおいてました。その傾倒ぶりは、彼のバッハ作品の録音の多さはもとより、彼の著述からもうかがい知ることができます。Kurudo001_2

 グールドの興味の対象はバッハのフーガなどのポリフォニー音楽(複数の異なる動きの声部が協和しあって進行する音楽)のことでした。
 バッハは当時でももはや時代の主流ではなくなりつつあったポリフォニーを死ぬ直前まで追究しつづけましたが、そうした時代から隔絶されたバッハの芸術至上主義的な姿勢に共感し、自らを投影したと思われています。

 グールドのデビュー当時、バッハの作品は禁欲的な音楽であると考えられていていました。精神性の高さを重視したピアノ演奏が支持されていたのです。また、19世紀末から始まったチェンバロ復興運動の流れから、その鍵盤曲はチェンバロによって演奏するのが正統であるとの考えが広まりを見せていました。こういった事情により、ピアノに華やかさを求める演奏者・聴衆はバッハを避ける傾向にありましたが、グールドは、デビュー作「ゴルトベルク変奏曲」の録音において、旧来のバッハ演奏とは異なる軽やかで躍動感あふれる演奏を、ピアノの豊かな音色と個性的な奏法により実現したのです。

 発表当時の評価は大きく分かれました。しかしその後、ピアニストに限らず多くの音楽家に与えたインパクトは甚大であったことは確かです。その後も、様々なバッハの鍵盤作品について大胆な再解釈を行い、バッハ演奏について多くの業績と録音を残しました。
 こうして、グールドは、リヒテルが『バッハの最も偉大な演奏者』と評したように、バッハ弾きの大家としての名声を不動のものとしていきました。

 バッハの『ゴルドベルク変奏曲』を聴くことそのとたん、ゆっくりとにバッハが染まりながら広がっていいく。。。
 グールドのピアノは音一つ一つが柔らかく、そのように弾きたいがために自前の低めの椅子をコンサートホールにまで持ち込む、まるで小さな子供が弾いてるような格好でした。

 極端に猫背で前のめりの姿勢になり、時に大きな手振りでリズムを取るといった特異な奏法と斬新な演奏で世間の注目を集めました。坂本龍一氏は、この伝統的には正しくない姿勢について、上半身の力が過度にかからず、音が非常に清潔でクリアになっていると指摘しています。

 伝統的な「正しい姿勢」による奏法は、強大なフォルテを生み出すことが可能である反面、一つ一つの音の精度を下げているという考え方です。

 ピアノという楽器の中で完結するようなピアニズムを嫌悪し、自分は「ピアニストではなく音楽家かピアノで表現する作曲家だ」と主張していたのですが、第1の業績が斬新で完成度の高いそのピアノ演奏であることは異論のないところでしょう。

 もう一つ、私が驚いたのは、ピアノを弾きながら口ずさむと言う行為でした。この動画はまさに良く表していますが、スタジオ録音でも歌うので、「ノイズが入る」と注意すると、グールドは黙ってピアノを弾くことはできないとして生涯この癖が直ることは無かったそうです(笑)。しかしこの歌声によって現在弾いている曲の隠れた旋律や主題を分かりやすく聞くことができるのも事実です。

 グールドは、作曲者Kurudo002_2 のように演奏をします。演奏にあたっては、楽譜が指定したテンポ、強弱、アーティキュレーション(はっきり区別すること)、装飾記号などを勝手に変更したり、分散和音の一部を強調して繋いで新たな声部を作ったりしたそうです。また、和音を分散和音にしたり、当時のピアノ演奏の慣習になかった上方から下方へのアルペジオ(リズム感や深みを演出する演奏方法)、いわゆる逆アルペジオを大胆に使ったことでも有名でした。とりわけ、ゴルトベルク変奏曲の主題アリア第11小節の逆アルペジオは反響が大きく、その後、多くのピアニストが倣うようになりました。

 モーツァルトの演奏においては、装飾記号の無視がはなはだしく、モーツァルトの装飾性を軽蔑したと言われます。さらに、グールドは、意図的に反復記号を無視して演奏するため、当時リヒテル等から批判されていました。

 そうまでしてして貫いた彼の姿勢には頭が下がります。
『芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある』という言葉は特に有名です。

 他にもこんな言葉が残っています。

 『グールドは私にとって永遠のアイドルだ』(ウラディーミル・アシュケナージ)
 『グールドより美しいものを見たことがない』レナード・バーンスタイン)
 『結局、彼は正しかった』(ユーディ・メニューイン)

 これからは作曲者だけでなく、奏者にも多いに眼を向けていこうと思います。でもグールドは奏者ではなく作曲・編曲の名手だと私は思います。

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2010年4月20日 (火)

映画『シンドラーのリスト』

 私が兄と一緒に映画を見に行く時は、どうしても重いテーマのものとなってしまいます。この作品もそのなかの一つです。
あえて原作と比べすに観た作品で、眼を覆うシーンやシンドラーのしたことは所詮、偽善ではないかと当初は思ってしまいました。

 私はこの作品のことを忘れかけていましたが、ある癒しのCDにこの作品のテーマ曲があり、それを聴いて思い出さずにはいら
れなくなりました。音楽も感極まる素晴らしいものでした。

 スピルバーグ監督でアカデミーを総なめしたことから、ご存知の方も多いと思いますが、ます、大まかなあらすじを。。。

 39年、ポーランド南部の都市クラクフにドイツ軍が侵攻した。ドイツ人実業家のオスカー・シンドラー(リーアム・ニーソン)は、一旗揚げようとこの街にやって来た。彼は金にものを言わせて巧みに軍の幹部たちに取り入り、ユダヤ人の所有していた工場を払い下げてもらう。ユダヤ人会計士のイツァーク・シュテルン(ベン・キングズレイ)をパートナーに選んだシンドラーは、軍用ホーロー容器の事業を始める。

 41年3月、ユダヤ人たちは壁に囲まれたゲットー(居住区)に住むことを義務づけられる。シュテルンの活躍で、ゲットーのユダヤ人たちが無償の労働力として、シンドラーの工場に続々と集められた。事業はたちまち軌道に乗り、シンドラーはシュテルンに心から感謝したが、彼の差し出すグラスにシュテルンは決して口をつけようとしなかった。シンドラーはドイツ人の愛人イングリートをはじめ、女性関係は盛んな男だった。別居中の妻エミーリェ(キャロライン・グッドール)は、そんな奔放な夫の生活を目撃し、彼の元を去った。43年2月、ゲットーが解体され、ユダヤ人たちはプワシュフ収容所に送られることになった。ゲットーが閉鎖される当日、イングリートを連れて馬を走らせていたシンドラーは、小高い丘からその様子を目撃した。親衛隊員たちは住民を家畜のように追い立て、抵抗する者、隠れようとする者、病人など、罪もない人々を次々に虐殺していった。その悲惨な光景の中、シンドラーの目に赤いコートを着た少女が隠れるところが映る。(このコートの赤はパート・カラーで示される)収容所に着任したアーモン・ゲート少尉(レイフ・ファインズ)は所内を見下ろす邸宅で、酒と女に溺れる生活を送る一方、何の感動もなく無造作に囚人たちを射殺していた。シンドラーは地獄図に耐えかねて、生産効率の向上という名目でユダヤ人労働者を譲り受け、私設収容所を作ることを許可してもらう。シンドラーは、ゲートのメイドとして働くヘレン(エンベス・デイヴィッツ)にも希望を与える。

 44年、敗色濃いドイツ軍は、ユダヤ人をアウシュヴィッツをはじめとする死のキャンプに送り込みはじめた。シンドラーはチェコに工場を移すという理由で、ユダヤ人労働者を要求する。急ぎリストアップされたのは1200人。途中、女性囚人がアウシュヴィッツへ移送されたが、シンドラーは役人にワイロを渡し、彼女たちを救い出す。彼の工場は武器弾薬の製造にも、徹底して不良品を作ることで抵抗する。やがて45年、ドイツ無条件降伏。ユダヤ人は開放された。ユダヤ人たちの感謝の念と涙に見送られながら、″戦犯″であるシンドラーは彼らに別れを告げた。(goo映画より抜粋)

 第二次大戦下、1200人のユダヤ人をナチスの虐殺から救った実在のドイツ人実業家の姿を、ドキュメンタリー・タッチで描いた大作です。第66回アカデミー賞では最優秀作品賞・監督賞ほか、7部門を受賞。トマス・キニーリーの同名ノンフィクション小説を「レナードの朝」のスティーヴン・ザイリアンが脚色し、「ジュラシック・パーク」のスティーヴン・スピルバーグが映画化。製作はスピルバーク、「ジュラシック・パーク」のジェラルド・R・モーレン、「ソフィーの選択」でプロダクション・デザイナーを務めたブランコ・ラスティグの共同。エグゼクティヴ・プロディーサーは、スピルバーグ作品のほとんどを手がけているキャスリーン・
ケネディ、撮影はヤヌス・カミンスキー。音楽は、監督とは14度目のコンビとなるジョン・ウィリアムス。主演は「ダークマン」のリーアム・ニーソン。共演は「ボビー・フィッシャーを探して」のベン・キングスレイ、「嵐が丘」(92)のレイフ・ファインズによって創られました。

 この作品では好対照に描かれている人物が2人います。1人は勿論主人公であるオスカー・シンドラー。彼は次第にユダヤ人解放者となっていき、最後には英雄として名を残すようになります。そしてもう1人は中盤か登場するナチスの将校、アーモン・ゲート。非情に不安定な気性の彼は、無機質的にユダヤ人を処刑することもあれば、ユダヤ人の女性に愛情を見せることもある。。。でも彼の行ったことは間違いなく悪行であり、最終的に彼は処刑されてしまいます。

 最初の段階でシンドラーにユダヤ人を保護するだけの力はありませんでした。彼らを雇い、事業を成功させることによって初めて、その可能性を生み出したのです。彼のユダヤ人保護が可能になるのはその後なのです。そして彼はその時、善意に目覚めます。
 自分にならこの悲惨な状況から少しでも多くのユダヤ人を救うことが出来ると知るのです。最初はアーモンを遠回しに説得しようとします。しかしこれは敢え無く失敗します。

 ユダヤ人虐待とは根拠も何もない、とてもナンセンスな、常軌を逸した恐るべき行為なのです。そのアーモンを、シンドラーは説得します。それは彼に「許す」ということを教えることでした。「許す」というのは王の選択であり、とても高度な選択です。人の過ちを「許す」ことによって威厳を示せ、と言うのです。これはアーモンにとっては願ってもない助言でした。自分の異常な行為を制御することが出来ると思ったからです。そしてそれからアーモンはユダヤ人のちょっとしたミスを許すようになりますが、すぐに我慢できなくなり、少年を射殺することで彼の善意は失われてしまいます。アーモンの善意は、シンドラーと違って、有事においては非情にもろいものでしかなかったのですね。

 シンドラーは率直にユダヤ人たちを労働力として雇うことで彼らを救うという手を考えます。そしてそれは成功をおさめます。これには危険もつきまとったことでしょう。彼の目論見がナチスに露呈すれば、シンドラーはおろか、彼の雇ったユダヤ人全てが処刑されるでしょうから。あるいはさらにナチスを反動的にさせたかもしれません。しかし彼は最後まで自分の信念を貫きました。

 シンドラーが逃亡する際、シュターンは『1100人の命を救った』と言います。しかしシンドラーは『もっと努力すれば救えた』と泣き崩れるシーンは忘れることが出来ません。『あんなパーティーをしなければ数十人救えた、このバッチだって一人は救えた。』そうつぶやくシンドラーも、最初のうちはシンドラーにすがる人々に対し、『私は慈善事業をしてるんじゃない!!』と憤慨する場面もあり、それこそ普通の人間だとも感じたものでした。

誰かが努力をすれば、状況はもう少しよくなっていたのではないかと悔やめば悔やむほど、新たな後悔が襲ってきます。シンドラーの尊い行いに感動しただけでなく、実際もう少しでもユダヤ人を救えなかったのかとやりきれない気持ちになりました。

 人間の善意は、時と場合によっては非情にもろく、必要なときに存在しない不確かなものという面があると思います。それでもこの映画は人間の善意を否定していません。善意は必ず人の中に存在すると信じたい。。。シンドラーの非常に立派な行い、そしてそういう点で非常に戦争とは悲惨なものなのだと思い知らされます。考えれば考えるほど辛くなるかも知れませんね。

 美しい音楽が物語をより一層盛り立てます。今になって観たことを良かったと思える映画でした。

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2010年4月17日 (土)

高嶋哲夫『イントゥルーダー』

 サントリーミステリー大賞を授与したときから読み始めたのですが、魅力的な作品を書いていらっしゃる方です。

 年々実力を発揮している高嶋さん。
 
 25年前の恋人に『あなたの息子が重症です。』こんなことを言われて動揺しない男性はいないでしょうね。
妻がいて、年頃の娘がいる、無視できぬ地位と名誉もある、そんな東証一部上場の東洋電子工業副社長にしてスーパーエンジニアの羽嶋浩司は、その日初めて自分に息子がいることを知ったのです。

 浩二の経営する東洋電子工業は現在TE2000という、完成すれば間Bekusnnsuki001 違いなく世界最高の演算速度を実現させるであろうスーパーコンピュータ開発の真っ只中で、もうすぐ完成し、プレスリリースを迎えるというところまで来ていました。東洋電子工業の最高技術責任者CTO(chief technology officer)である浩二もこの時期は文字通り寝る間もないほど多忙な日々を迎えていました。そんな中での奈津子の電話だったが一度も会ったことがないとは言え自分の息子の慎二が重体であることを聞くのです。

病院に駆けつけた浩二は、慎二が新宿区歌舞伎町でひき逃げ事件に遭ったことを知らされます。。。

 この息子の松永慎二はユニックスというソフトウェア開発会社に勤めていました。ユニックスは7年前に設立された会社で顧客管理システム、製造業関連の技術計算などのシステムを幅広く手がけており浩二も注目していた会社です。元々コンピュータ分野の資質があったのか、遺伝によるものなのかは分からないが松永慎二のコンピュータの知識は切れ者のみが集うと評判のユニックスでも一目置かれる存在でした。母子家庭に育った慎二は幼少の頃、自分の実の父が東洋電子工業の羽嶋浩二であることを知り、父を目標に日々努力し続けていました。

 深夜の新宿の路上で轢き逃げ。少なくないドラッグの影響。慎重で潔癖症な慎司には似つかわしくない最期……。
 
 羽嶋は慎司の足跡を追った。慎司のアパートを訪ね、慎司の友人を訪ね、恋人を名乗る2人の女性と知り合い、多くのことを知っていきます。

 パリのインターナショナルスクールに通い、日本に帰ってからはアメリカンスクール。羽嶋と同じ大学の同じ学部に入り、東洋電子工業を受験したこと、チェスが強く、手先が器用で模型作りが上手く、女の子にはモテたが冷たい部分もあったこと、礼儀正しくよい青年だという人も、冷酷で無慈悲な人間だという人もいた自分の息子の過去に引き込まれていく父の姿に痛々しささえ感じました。
 
 知れば知るほどにわからなくなる人間像に、父は戸惑いを隠せません。いったい、慎司とはどういう人間であったのか。
 
 原発建設を巡る汚職、暴力団、流行のドラッグ、スーパーコンピュータへのイントゥルーダー(侵入者)……慎司を取り巻く陰謀の源を追い、彼の人生を追体験する中で、羽嶋は「父親」になっていきます。一度も会うことなく死のうとしている息子のためにできることは何なのか考え始めます。事故原因を調べるうち、裏に原発建設計画の存在が浮かび上がり、彼にも魔の手が伸びてくるのです。

 巨大な組織悪に対し個人が戦いを挑むという構図。サイコパス(神経病質)全盛の時代にあって、アナクロとも言える正統な「社会派」ミステリーを世に問いたところに、この新人作家の意気が感じられます。

 そして終盤、慎二と浩二にAndei009 しか分からない息子から父へのメッセージを目にしたとき、物語に感動が生まれます。主人公とは言葉を交わさずじまいだった息子への父親としての愛情も無理なく描かれています。ドラマ化された時、『25年目の父子愛』とサブタイトルがついたのがよく解ります。
 
 高嶋さんはは原子力工学を熟知しており、現存する原発に関して事実であるかどうかは別として、工学的見地での小説としての記述に間違いは無いのでしょう。

 問題は、この小説の筋書きがフィクションとして読み過ごせるのかどうかだと思います。個人的な感想としては、小説の中に散りばめられた個々の事件は別としても、大枠の経緯や結果としての事実関係があまりにも現代の問題と酷似しており、今読み返してみると
衝撃を覚えずにはいられません。

 
 理工系の作家さんの作品はは数字で割り切れる、割りと淡々としている風に私は思っていたのが、そうではないと確信させてくださったのが高嶋さんや東野圭吾さんでした。

 『M8』、『トルーマン・レター』なども読みたい作品です。

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2010年4月 2日 (金)

藤野 千夜『夏の約束』

 女性作家が苦手な私でも芥川賞では女性作家さんの登場は避けて通れません。それがこの方男性だったのは驚きでした。そして偶然なのか1966年生まれの作家さんが多いことにも驚かされます。

 ゲイのカップルの会社員マルオと編集者ヒカル。ヒカルと幼なじみの売れない小説家菊江。男から女になったトランスセクシャルな美容師たま代……少しハズれた彼らの日常を温かい視線で描き、芥川賞を受賞した表題作に、交番に婦人警官がいない謎を追う「主婦と交番」を収録した、コミカルで心にしみる作品集『夏の約束』。

 著者のプロフィールに作品のキャラクターの重なり具合は、ホモセクJannsenn047 シャルなカップルが手を繋いで歩いている場面を小学生がはやし立てたり、トランスの美容師を話している姿を見た同僚が「あれ女性?」としつこく聞いてくるような、社会を生きていく上で波風の立つ部分もしっかりと描写されているので、全てではないにしても、「私小説」めいた部分があるのかといった所感を読んだ人に抱かせられます。

 けれども通読すれば、そういった生きる上での苦労めいた話以上に浮かび上がって来る、優しさを尊ぶ空気のようなものが感じられて、「社会派」とか「ジェンダー」とかいったカタめの単語を並べなくても、楽しめる小説だというとこが解りました。

 ホモセクシャルにトランスセクシャルといった登場人物たちの性癖にばかり注目が集まりがちなのは、本編でもそういった点がシチュエーションに絡んで来るし、作者自身のプロフィールがプロフィールだから仕方がないのでしょう。

 でもそこを抜いても人間たちの慈しみ合う関係の気持ちよさのようなものが全編に空気のように漂っていて、弱肉強食やら勝ち組負け組なんて言葉がもてはやされる、このギスギスした世の中に光明を与えてくれているような気がするのです。

 男と女という性の枠組を越えたところに生れる、若い人々の日常と夢の行方を追った作品で、摩擦に傷ついたり苛立つことはあっても、それを受け止めて生きる姿勢を自然のうちに備えているのではないでしょうか。その開かれた雰囲気が作品の風通しをよくし、一般社会に通じるものがありますね。

 作者の登場人物の関係がハマり過ぎたと言って投げたり見送ったりせず、虚心坦懐に読み、街に暮らす大人たちの優しさを欲しお互いに寄り添い生きていく様に、明日を楽し生きる方法を見つけようと思います。そんな作品でした。
 
「『夏の約束』は、一読するとあまりにも軽すぎて、これではいささか……と首をかしげそうになるのですが、このように軽妙に書ける技量の背後には、したたかな文章技術というツボを刺す長い鍼が、本人が意識するしないにかかわらず隠されているものだ。」
というのが宮本輝さんの書評でした。

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2010年3月29日 (月)

アルビノーニのアダージョの秘密

 私はこの曲をアルビノーニの曲と信じてきましたが、調べてみると、ジャゾットと言う音楽学者が、ザクセン国立図書館から受け取ったアルビノーニの自筆譜の断片を編曲したと称して、『ト短調のアダージョ』を出版していたことが解りました。この作品が『アルビノーニのアダージョ』として親しまれるようになると、ジャゾットの名もアダージョの編曲者としてとりわけ有名になったのだそうです。

 ジャゾットは、自分は編曲したのであって、作曲したのではないと言い張りましたが、現在では完全なジャゾットの創作であることが判明しました。自筆譜の断片が公表されたためしがなく、ジャゾットはバス声部のみが該当の部分だと述べており、しかもこの曲の版権はジャゾットが持っていたということでした。

 アルビノーニはトマゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニ(1671年6月8日 ヴェネツィア - 1751年1月17日 ヴェネツィア)といい、イタリア・バロック音楽の作曲家で、生前はオペラ作曲家として著名であったが、今日はもっぱら器楽曲の作曲家として記憶され、そのうちいくつかは頻繁に録音されています。

 ヴェネツィアでは、ビッフィ以外の音楽家との交流はなかったようですが、多くのイタリア都市においてオペラ作曲家として名を上げ、たとえばヴェネツィア、ジェノヴァ、ボローニャ、マントヴァ、ウディーネ、ピアチェンツァ、ナポリなどでは有名でした。この頃になると器楽曲をふんだんに作曲し、1705年以前に、ほとんどのトリオ・ソナタやヴァイオリン協奏曲を作曲しましたが、その後は1719年まで、独奏楽器のためのソナタやオーボエ協奏曲を作曲するに留まっています。そして1720年代から作曲家アルビノーニの足取りはつかめなくなるのです。一体何があったのでしょう。

 多くの同時代の作曲家とは異なり、教会や貴族の宮廷に地位を得ようとした形跡が見当たらず、独自の財源によって、独力で作曲する自由を得ていたと言われています。

1742年にフランスで、アルビノーニのヴァイオリン・ソナタ集が「遺作」として出版されたことから、研究者から、アルビノーニはその頃には亡くなっていたと推測されてきました。しかしながらアルビノーニは、ヴェネツィアで人知れず生き延びていたそうです。生地のサン・バルバラ小教区の記録によると、アルビノーニは1751年に糖尿病により、「79歳」で亡く、なったとあります。

『アルビノーニのアダージョ』に話を戻しましょう。よく聴くと他のバロックとは違いがあることにお気付きでしょう。この作品は、トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され、その断片は第二次世界大戦中の連合軍によるドレスデン空襲の後で、旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見されたと伝えられてきました。作品は常に「アルビノーニのアダージョ」や「アルビノーニ作曲のト短調のアダージョ、ジャゾット編曲」などと呼ばれてきました。しかしこの作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかったのです。

 こんな背景の中、私はこの曲が好きになったのは、悲哀、哀愁をおび、アルビノーニの音に対する自由を感じるからなのでしょう。雄渾多感な旋律と陰翳に富んだ和声法ゆえの親しみやすい印象から通俗名曲として広まり、クラシック音楽の入門としてだけでなく、ポピュラー音楽に転用されたり、BGMや映像作品の伴奏音楽として利用されたりしたのも、もとはアルビノーニの皇帝音楽からの逃避と考えられるのではないでしょうか。

 本当にクラッシックのお好きな方には受け入れ難いかもしれません。でも私はジャゾットの曲であろうと、この曲を愛してやみません。

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