私の尊敬する選手だった男~長嶋茂雄編

 私は中学2年生でプロ野球に目覚め、毎晩欠かさず、試験があろうと、勉強は9時からと決めて、観ていたジャイアンツファンです。V9時代から引退、そして負け続けた監督就任・・・そして今懸命にリハビリをされているミスタージャイアンツ、長嶋さん。

 日本テレビのジャイアンツおやじ、徳光アナウンサー、私はあなたの気持ちが痛いように解ります。

お姿を拝見しなくなって、テレビは観なくなったものの、心は同じです。私じは今、すっかり親父さんモードになっています。

プロ選手としての長嶋選手は、その打撃力のみならず三塁手とNagasima001 しての守備も注目されました。長嶋選手はライン際の打球の処理に難点があるため、欠点をカバーすべく三塁線に近く、そして深めに位置していました。そのため、長嶋とコンビを組む遊撃手(初期には広岡達朗、のちに黒江透修)は長嶋の分まで守備範囲を広めにとっていたのです。しかし彼は、時に通常の守備範囲を超え、本来であるならば遊撃手が捕るべき打球にまで反応し、猛烈なダッシュとともに捕球を試みる場合も多く、観るものを圧倒させました。

イージーゴロにさえ鋭いダッシュをみせる長嶋氏の守備は、プロ経験者からは「簡単なゴロを難しく見せる」と評されたりしました。一方、フライ飛球などは「見せ場がない」と、遊撃手に任せるということもしばしば。それゆえ、当時から守備の堅実さでは三宅秀史(同時代のタイガースにおける正三塁手)に軍配を上げるファンや解説者も少なからずいました。しかし、長嶋氏の派手なアクションをまじえた守備は、トンネルなどの単純なエラーですら、多くの観客に喜ばれたのです。どんなプレーもありなんです。たまりませんでした、あの爽快感は・・・

 1974年10月12日、中日ドラゴンズの優勝が決まり、巨人の10連覇が消えると、長嶋は現役引退を表明した。翌々日の10月14日、後楽園球場で行われた優勝したドラゴンズとのダブルヘッダーの第1試合で、長嶋はホームランを放ちました。これが現役最後のホームラン(通算444号)です。また、大卒での通算2471安打は日本最多記録であり、この先これを抜く選手はなかなか出ないであろうとも言われていました。 第2試合の最終打席はショートゴロ(ダブルプレー)であった。

 引退セレモニーでは『わが巨人軍は永久に不滅です!!』という、あまりにも有名な言葉を残しましたね。兄も外野スタンドの金網に捕まって、泣いたそうです。

 1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜しました。川上流の緻密な用兵と作戦重視のスタイルではなく、投・打の力量差がそのまま勝敗につながることを理想としていることを端的にあらわした言葉です。「哲のカーテン」と揶揄された川上監督時代とは対照的に、マスコミとのコミュニケーションを重要視しました。    それゆえ、川上監督時代のスタッフはほぼ一掃され、新生長嶋巨人軍の選手達には「シンデレラ・ボーイ」と名付けられました。又、球団初の非日系の外国人選手であるデーブ・ジョンソン内野手を獲得し、自らの後継三塁手としました。

長嶋監督は自らの背番号を「90」に変更し、現役時代の「3」は永Nagasima002 久欠番となりました。この「90」は当時小学生の息子・一茂のアイディアといわれています。「現役のときは3つの3があった(打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9。これに0を付け加えて90番にしたら?」という言葉がきっかけになったそうです。しかし、迎えた1975年のシーズンは長嶋氏の構想が裏目に出て、球団創設以来初の最下位に終わりました。そのため、オフには日本ハムファイターズから高橋一三投手・富田勝内野手との交換で「安打製造機」と呼ばれた張本勲を獲得。外野手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手。その結果、翌1976年、1977年と優勝を果たしますが、日本シリーズではともに阪急に敗れました。同年、ヤクルトから倉田誠投手との交換で浅野啓司投手を獲得しました。

 (1980年前後)になると長嶋の采配が「カンピューター野球」(論理的に説明することができない、長嶋独自の勘・ひらめきによる野球)と揶揄されることも常となり、また、OBによる批判も数多く出るようになりました。前監督である川上氏が、週刊文春の座談会で長嶋の
後継監督について語ったことは、長嶋批判の象徴的な出来事であったと言えるでしょう。また、王さんの衰えも明らかであり、チームの成績は芳しくありませんでした。

 長嶋氏の指揮する巨人の低迷を憂慮した務臺光雄ら読売新聞社幹部は、1980年のシーズン終了前には長嶋の監督解任を決断しました。10月21日に行われた記者会見で長嶋氏は「男のけじめ」と、みずから不振の責任を取り辞任することを表明しましたが、自身が「辞任」を知らされたのは、会見の直前のことであったといわれています。解任が発表されると、一連の読売新聞社および巨人の措置に激怒した一部のファンによる、読売新聞・スポーツ報知の不買運動が起きたほどでした。

 長嶋氏以後、藤田元司監督(1981年?1983年、1989年?1992年)、王監督(1984年?1988年)が監督に就任し、リーグ優勝5度、日本一も2度達成しますがが、プロ野球全体、そして巨人の人気は低下していきました。V9時代の巨人にはじまり、そのOBである広岡や森祇晶などにより確立されたシステマティックな野球は管理野球(長嶋の前任者だった川上監督時代の流れを汲む野球)と評され、かつての長嶋氏のように個人技が際立つということがみられなくなったことによる人気の低下と考えらていました。

 Jリーグの創設を翌年に控えた1992年には、巨人は2位でシNagagsima003 ーズンを終了、2年連続で優勝を逃したこともあり、国民的スポーツとしての野球を再活性化するためのキャラクターとして長嶋の復帰が求められました。読売グループ内の事情を考えても、長嶋氏の復帰を阻む最大の障害であると考えられていた務臺光雄氏が1991年に死去し、現役時代から親交のある渡邊恒雄が読売新聞社社長に就任したことが、長嶋氏の監督再就任を容易にしました。ふたたび現場に復帰することとなった長嶋の新しい背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)となり、同年のドラフト会議において当時、星稜高等学校の松井秀喜(現:ニューヨーク・ヤンキース)を引き当てました。

 ここまで長嶋氏を愛し続けた国民を私は全力で愛し返したいです。アンチ巨人でも長嶋さんは好きということはよく聞きます。そういう方々を含め、これからも体調を気遣って見守っていってあげようではありませんか。

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私の好きな作詞家~北原白秋編

こんな梅雨の季節には、童話や童謡がなぜか懐かしくなります。詩人・歌人。童謡作家でもある北原白秋氏の詩は、優しく、鬱陶しい気分を変えてくれます。

こんな詩がありましたね。

夏の日なかのヂキタリス、
釣鐘型に汗つけて
光るこころもいとほしや。
またその陰影(かげ)にひそみゆく
蛍のむしのしをらしや。

そなたの首は骨牌(トランプ)の
赤いヂヤツクの帽子かな、
光るひもなきその尻は
感冒(かぜ)のここちにほの青し、
しをれはてたる幽霊か。

ほんに内気な蛍むし、
嗅げば不思議にむしあつく、
甘い薬液(くすり)の香も湿る、
昼のつかれのしをらしや。
白い日なかのヂキタリス。

 これは『蛍のイメージを綴った詩です。真夏のヂキタリスの花、その釣鐘状の花の中に隠れ、ぼうっと光る蛍の愛しさ。

 蛍の首のその赤は、トランプのジャックの帽子の色だ。また弱々しい光るその尻は風邪でもひいてるように空ろだ。
消えかかった幽霊のようにボヤッとしている。

その気弱なニオイを嗅ぐと妙に蒸し暑く、甘い薬の香りが漂ってくるようだ。けだるい真夏の白い日中にヂキタリスが咲いている。

そういった意味の詩なのだと思います。夏になるとこんな光景を、観たことも無いのに頭に浮かびます。詩は私にはよく理解できませんが、これが曲をともなって1つの歌になった時、イメージがパアーっと明るくなり、哀愁をおびてその歌の風景が浮かびます。

白秋氏は、 詩集 、 歌集、句集、 童謡・作詞、校歌・応援歌と幅広く人々が口ずさめる詩を残してくれました。

、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の唱歌『待ちぼうけ』などはつい人を待っている時に口からでていることがあります。

詩を自分で書けたら、と白秋氏を羨望のまなざしで見ている雨の日でした。

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私の好きな演出家~久世光彦編

Gadenn  私が久世さんの名をおぼえたのは、紛れもなく向田作品をテレビで観ていた時でした。演出家、プロデューサーとして「寺内貫太郎一家」、「時間ですよ」などテレビ史に残る数多くのテレビドラマを製作しました。女性問題が週刊誌で騒がれ1979年に独立、1980年にカノックスを設立。1987年に出版された処女作『昭和幻燈館』を皮切りに、作家活動を本格的に開始。小説・評論・エッセイなど幅広く執筆活動を行いました。50歳を過ぎてのスタートにもかかわらずその活躍は目覚しく、独自の耽美的な作風を確立して多くの文学賞を受賞。他にドラマ作成の現場の戦友であった向田邦子さんを巡るエッセーが人気を博しました。

 2006年3月2日、虚血性心不全のため都内の自宅で死去。生 前はどんな病気でも入院することを嫌っていたそうです。軽い糖尿病を患っていた他、数年前には副交感神経関係の手術を受け、脳梗塞からの回復の途上でもありましたが、死の直前まで仕事を抱えており、多くの関係者を驚かせた急逝でした。

私にとってもとても悲しい出来事でした。向田さんの作品を誰よりも愛し、理解していた方だと思います。

 『向田邦子 久世光彦 終戦記念BOX』は特に好まれている作品群で、終戦60周年を記念し向田邦子原作、久世光彦氏がディレクターを務めた「終戦記念」TVドラマ5作品をBOX化です。戦時中の母親と娘の生きる姿を描いています。『いつか見た青い空』『言うなかれ、君よ別れを』『蛍の宿』『昭和のいのち』『あさき夢みし』を収録しています。これだけでも久世さんの才能があふれんばかりに触れることができます。

 久世さんが手がけられたこのドラマシリーズでは、戦争はあくまで背景として描かれていて、ここでも主役は「家族の日常」です。戦時下でも変わらない心のふれあいと微妙なずれが、久世さん独特の美意識によって色彩豊かに描かれています。

 このシリーズで一番印象に残っているのは、「蛍の宿」のラストシHosino001 ーンです。 戦争が終わった日の午後、まばゆいばかりに輝く海に向かって末娘役の田畑智子さんが砂浜を駆けて行くシーンは鮮烈でした。

「いつか見た青い空」のラストのナレーションも感動的でした ・・・・・あの日の空は青かったと誰もが言います。何かが終わったのか、それともこれからはじまるのか、私にはよくわかりませんでした。私たちは四人で青い空を見ていました。いつまでも、いつまでも・・・
ナレーターの黒柳徹子さんは読みながら声をつまらせ、涙を流されたそうです。

 戦争を体験された世代としては、久世さんの世代が最後になるのでしょう。戦時下の人々の暮らしを身近な日常として描くことは、後の世代の作家には出来ないことです。そういう意味でも、この作品が素敵な装丁のDVDとして残されることを嬉しく思います。
 あらためて、久世光彦さんのご冥福をお祈りします。

 向田邦子原作、久世光彦がディレクターを務めた名作TVドラマシリーズの平成9年から13年までの作品をBOX化では母と3人の娘が暮らす一家と落語家の触れ合いを綴る『空の羊』ほか、『終わりのない童話』『小鳥のくる日』『あ・うん』『風立ちぬ』を収録されています。
毎年お正月を少し過ぎたころに放送されていた、久世光彦演出の向田作品。毎回、話の構成は大体同じなのですが、つい見入ってしま作品の魅力。その理由としては、向田作品の持つ「力」でしょう。一見すると、堅実で、礼儀正しく、朗らかな「完璧」な家庭。しかしながら一人ひとりの人間には何かわだかまりやら秘密があって、ふとしたときにそれが露呈される。家庭の持つ「陰」の部分が非常に旨く描き出されているからこそ、この作品は時代を超えて共感されるのではないでしょうか。

 そして忘れてはならないのは、この作品を演じる役者たち、加藤治子さん、小林薫さん、田中祐子さん。ちょっとしたしぐさにもその時々の心情が表現されており、かつそれが自然なだけに引き込まれてしまいます。このような豪華な定番キャストに挑戦する「旬」の俳優たちも、普段とは異なった一面を見せていて、この点もこの作品群の大きな魅力となっているように思われます。

 また、TVの演出やプロデューサーで名を馳せた久世さんが、小説家として一躍メジャーにのし上がった作品が『一九三四年冬―乱歩』でした。この作品で1994年の第7回山本周五郎賞を受賞。その年の第111回直木賞にもノミネートされるも、非常に高い評価と「もはや直木賞のカテゴリーを越えている」等の否定的な意見と賛否両論となり、受賞には至りませんでした(その時の直木賞受賞作の一つは同じく山本賞にノミネートされながらも久世氏の前に落選した海老沢泰久の『帰郷』でした)。

1934年、乱歩は新聞に連載していた小説「悪霊」を突然自分の都合で打ち切るというGadenn007醜態を世間に晒し、数ヶ月間姿を隠していた。打ち切りの理由は「構想の未熟」であったと言う(乱歩の構想は「アクロイド」だったらしい)。本作はその空白の期間を作者があり余る想像力で補い、乱歩のそして時代の様子を描いたもの。乱歩に対する作者の愛情がヒシヒシと伝わります。 乱歩は友人に紹介されたホテルに泊まり新作を書こうとする。ところが、このホテルが怪しいのだ。ホテルの雰囲気自身が怪しいし、美青年のボーイ、謎の麗人、その他の怪しい宿泊客等、いかにも乱歩好みの状況。この状況に押されように、乱歩は新作(勿論作者の作中作)を書き始める。その名は「梔子姫」。
 物語は、乱歩が数々の謎に満ちた出来事に刺激を受けながら、この「梔子姫」を書き上げるまでを描いています。

この作中作は素晴らしい出来で、エロティシズムに溢れた怪異譚の傑作。乱歩自身の作品に優るとも劣らない幻想的作品です。そして、最後に仕掛けが用意してある全体の構想も見事の一言に尽きます。
 戦前の東京の様子・雰囲気も見事に描かれ、作者の研究ぶりが窺がえます。乱歩への愛情が産んだ乱歩ファンへの最高のプレゼントであり、構成も確かな耽美小説の傑作といえるのでしょう。このような作品を読みながら久世さんを偲ぶのも、ファンである私達のできることではないでしょうか。 もう少し詳細を調べて久世さんの足跡を辿ってみたいと思うのでした。

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私の好きな作品~『第三の時効』

またまた横山さんの作品におぼれている私です。ひさびさのサスペンスですね。

 15年前、本間ゆき絵がレイプされ、その夫が殺害されるという事件が起きた。捜査は捜査一課二班が担当しながらも、犯人と思われる武内は逃亡し何も手掛かりのないまま時効成立の時を迎えようとしていた。捜査一課一斑・森隆弘は捜査一課長・田畑から時効成立防止のため、助っ人として二班の捜査に参加するよう命じられる。武内は海外渡航した記録があるため、表向きの時効の1週間後に真の時効(第Kaii21 二時効)が存在するというのだ。この事件のカギを握っているのは、武内との間に産またゆき絵の子供・ありさ。その事実を知っているはずの武内が、第一時効の成立後に彼女と接触を試みるだろうとの予測していた。しかし、二班班長・楠見は初め森に事件とは関係ない判事の素行調査を命じる。森は不満を感じつつ判事の調査をし、その後任せられたありさの張り込みを続けた。が、とうとう第一時効成立の瞬間を迎える。ここからが本当の勝負だと刑事達は息巻くが、めったに現場にも現れない楠見との連携が取れぬまま着々と第二時効が迫っていた。

  表題にもなってる本作ですが、タイトルどおり時効、すなわち公訴時効期間が問題になってます。そして殺人の時効15年が第一の時効で、海外渡航による時効停止期間が第二の時効となっています。では第三の時効とは何か? 法的にも論理的にもアクロバティックな荒業です。現実にはほとんど不可能でしょうが、本作の場合には伏線もちゃんと張ってありますから納得です。 

 ただ、作品は内容とは別のところで少々引っかかりを覚えました。
 本作では殺人の時効期間が15年として扱われています。初出時(平成14年)は確かにこれで良かったのです。しかし、実は平成16年に刑事訴訟法が改正されまして、殺人の公訴時効は15年から25年になりました(刑訴法250条)。で、文庫版は平成18年に出版されましたので作中と現在の法律との間で齟齬が生じていることになります。このことを以って本書は間違ってる、みたいなことを言うつもりは全くありません。殺人の時効が15年だった時代は確かにあったわけですから、それが25年に訂正されてたりしたら逆に興醒めというものです。
 でも、法律に詳しくない方が本作を読むと、殺人の公訴時効は今でも15年なんだなぁ、とは思っちゃうでしょう。それはよろしくないと思うのです。ですから、こういう場合には解説でフォローするか、もしくは巻末に注釈などを入れるとかするべきだったと思いますし、二刷以降(アイヨシの手元にあるのは初刷)からでもやるべきだと思います。
 細かいことと思われるかも知れません。ただ、助産婦→助産師とか精神分裂病→統合失調症なんかの変更にはすごい素早い対応がされたように思うのですが、それに比べると今回の場合は2年前の法改正であるにも関わらずちょっと鈍感なようにも思いました。

囚人のジレンマ
 本書収録の短編の中のマイベストはこれです。
 囚人のジレンマを物語の軸に、一班、二班、三班がそれぞれ担当する事件と、三つ班を監督する立場にある田畑第一捜査課長の組織人としての苦悩 が描かれています。複数の事件が同時進行するモジュラー形式は警察小説ならではの醍醐味ですが、それを読
者に分かりやすく伝える著者の手法には卓越したものがありますね。 部下が無能だと上司が苦労するのは当然ですが、有能なら有能で上司の苦労は絶えないという、結局組織人である以上苦労からは逃れられないわけですが、だったら、有能でいいから事件を挙げてくれという田畑課長はカッコいいと思います。報われないでしょうけど・・・ 横山作品の警察短編としては珍しくホロリとさせられるものがあります。情と論理の交錯が物語を奥深いものにしていることに驚かされます。

密室の抜け穴
 これもまた巧みです。被疑者はいかにして刑事たちの監視を逃れて密室から脱出したのか? 密室ものというよりは消失ものといった方本格ミステリ的には正確かもしれませんが、その謎が会議室という密室で解かれるという二重の密室の趣向が憎らしいほど見事に決まっています。解決に至る論理性と意外な真相は本格ミステリとしても傑作だと思います。それでいて、会議室の中で行なわれる責任のなすりあいという真剣勝負は手に汗握るものがありますし、イヌワシの雛のたとえで物語を引っ張る展開も見事です。ちなみに、岡嶋二人の短編に同じタイトルのものがありますが(『記録された[→fukkan.com]』収録、講談社文庫)、内容的に両者は全くの別物ですので念のため。

ペルソナの微笑
 間接正犯というのは、他人の行為を利用して自己の犯罪を実現する正犯のことでHaruoinoue、法律用語なわけですが、そんな一般にはなじみのない概念も横山氏にかかればすんなりと読めてしまう作品に仕上がるのですから不思議なものです。
 操る側が操られる側になる入れ子構造とでもいうべき物語の構図が後期クイーン問題を彷彿とさせる、というのは考えすぎでしょうが、なかなかに味わい深い作品だと思います。

モノクロームの反転
 一家三人殺害、しかも一人は小学校に上がる前の子供ということで、田畑課長は三班だけでなく手の空いていた一班も事件に投入します。
 一プラス一がいくつになるのかが問題になるわけですが、お約束どおり、一班と三班は手柄を競い合います。縄張り争いに情報の断絶といった露骨なまでの殺伐とした争いに、いっそ清涼感を覚えつつも、最後になって一班班長朽木と三班班長村瀬の間で行なわれるやりとりにホッとさせられます。なるほど、モノクロームの反転とは良くぞ名付けたものです。もちろん、一義的には目撃証言の真実を暗示したものではあるのですが、巧妙なタイトルだと思います。

 以上、各短編それぞれが傑作です。
 加えて、それぞれの短編の通奏低音として流れているのが各班同士の対立です。一班の班長朽木は犯人の心理に容赦なく緻密に迫る正攻法のやり手、二班の班長楠見は女性を物扱いするフェミニストならずとも非難したくなるダメ人格ですがその思考は冷徹そのもので違法スレスレの手段も辞さない策略家、三班の班長村瀬は事件の真相が早見えする天才肌と、それぞれの班長が有能にしてキャラが立っています。こうした捜査班内部の争いはこれから先もとても楽しみなので、ぜひ少しでも早い時期に続編が出ることを切にお願いします。

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 私の好きな作品~『クライマーズ・ハイ』

 ご存知横山秀夫氏の作品です。実は映画化されていたことを知らなかったので最近本で読みました。

1985年、群馬県御巣鷹山で起きた日航機墜落事故をめぐって翻弄される地元の新聞記者たちの姿を描く社会派ドラマ。実際に記者として日航機墜落の取材をした作家・横山秀夫s氏」が自らの体験を反映した同名小説を、映画『金融腐蝕列島 [呪縛]』の原田眞人監督が映像化しました。地元新聞社の熱血漢デスクを『ALWAYS 三丁目の夕日』の堤真一が演じたほか、『殯(もがり)の森』の尾野真千子ら実力派が集結。感情が激しく交わる濃密な1週間の人間ドラマに圧倒されれます。

 あの夏の惨劇――直後に動き出す地元新聞記者たちの闘Higashiyama_work15s い。編集局内の確執や販売局との対立といった事態に直面し、ブンヤ魂が熱くほとばしる。カオスの中、脇役たちが活写され、局内の管理職・蛍雪次朗、遠藤憲一、でんでんら個性派キャラは、ここぞとばかり全開でした。単なる事件記者ものではないのです。あれから23年経った現在から、極限状態の中を無我夢中で生きた全権デスク・堤真一が、トラウマともなった過去を思い起こし、今また新たな「山」に登り直すという構成を採っています。つまり、1985年の墜落事故は彼の心象風景でもあるのです。

原田眞人氏の演出は、サスペンスフルではあっても、相変わらず内面の掘り下げにもどかしさを感じさせ、時折インサートされる現代のパートは、過去とうまく反照し合わないらしいです。立て籠もった若者たちの描写を一切捨象した権力礼賛映画「突入せよ!『あさま山荘』事件」の原田は、何を血迷ったのか、今度はもっと遺族側を描こうと画策したようです。だが、原作者・横山さんから受けた「君は『クライマーズ・ハイ』がやりたいのか? 日航機墜落事故がやりたいのか?」という示唆が効いたようで、未曾有の悲劇そのものを描くだけの映画では終わらず、あの事故を通過した主人公の、組織という父性からの自立、息子との関係を修復し自身が父性を確立するというテーマは貫かれました。極度の興奮によって感覚が麻痺した状態を脱し、挫折を乗り越えて成長するという
物語の核心はかろうじて担保され、映画的醍醐味が味わえる佳作に仕上がっているそうです。

 1985年8月12日、乗員乗客524名を乗せた日航機123便が、群馬と長野の県境に墜落、その一報が北関東新聞社に入る。編集部で全権デスクに任命された悠木和雅は記者として扱う一大ニュースに対する興奮を禁じえないが、中央紙とのスクープ合戦や組織や家族との衝突を経て、命の重さに対しわき上がる使命感を覚えます。
 
 新聞社デスクの、ひりひりするような、日々の葛藤を、臨場感たっぷりに描いていますね。思わず感情移入させられ、その場で、ビジネスの、大小のさまざまな摩擦の中にいる感覚を味わえます。これらの瑣末なしかし影響度合いの大きな日常の葛藤と、大惨事、人の生死という、エポック・メイキングな出来事とを、錯綜させて、主人公の苦悩のほどを、描いています。

 新聞社でのキャリアを、寒村の記者とし終えた主人公ですが、なんと手ごたえある、人間らしい人生だったでしょう。これもまた、猪瀬直樹の「日本凡人伝」を彷彿とさせる、凡
人でありながら、筋を通した人物の、ドラマでだと思います。 責任を負った者がそれを果たそうとするも、壁に阻まれ思い通りにならない歯痒さに共感する方が多いと思います。阻む「壁」は、時には自分自身の揺らぎであったり、組織であったり、人であったりと様々。

日航機事故を巡る新聞社を描写しながら、現実に対応していく人々の生き様が描かれ、人の弱さと強さが浮き彫りにされます。
生きていれば思い通りにならないことは沢山あって、主張や妥協を経て、着地点を見つけるのも一苦労だなと思ってしまいますね。安西の「下りるために登るんさ」というのも、彼が目指した着地点でえした。読み終えて、自分にとって、何か見出したい着地点はあるのだろうかと自問が残ります。また、何かに対して「クライマーズ・ハイ」な状況になったことがあるかと鑑みるに、無い。何だかそれも哀しい・・・。

 横山さんの作品は今1冊も目を話せないところですね。

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私の好きな作品たち~大森寿美男編

☆久々の脚本家のお話です。コメディから時代劇まで幅広いジャンルをこなす、スペシャリストです。10代で演劇活動を始め、劇団「自家発電」を旗揚げし、作・演出を手掛けました。1990年代前半には渡辺えり子主宰の「劇団3○○(さんじゅうまる)」の公演「1の1の6」(1990)、「クレヨンの島」(1991)、「月に眠る人」(1993)等に出演。1997年には「男的女式(おとこてきおんなしき)」が第3回劇作家協会新人戯曲賞にノミネートされました。同年オリジナルビデオ「新・静かなるドン」で脚本家としてデビューしました。

『泥棒家族』(NTV)、『トトの世界~最後の野生児~』(NHK BS2)にKawaguti03 おいて“社会に対する確かな視線”が評価され、当時史上最年少33歳で第19回(2000年度)向田邦子賞を受賞しました。

 『泥棒家族』は、ごく普通に暮らしている家族が、泥棒を仕事にしていることを知ったひとり息子の困惑。戸野島家に旅行に出ていた祖父の久作(津川雅彦)が帰ってきた。光彦(長谷川純)は父の洋介(舘ひろし)、母の奈津子(南果歩)とともにだんらんを楽しむというもので、そんなある日、光彦は友人の映子(盛内愛子)の父親から娘に近づくなと言われました。訳が分からない光彦は、家の秘密を探り、大量のかぎを見つける・・・・

 これが、普通実は自分の親もおじいちゃんも泥棒だとわかったっら、すごくシリアスで、おもたい内容のはずなんですが、すっとぼけてユニークなセリフの連発で、シリアスに全然ならないんです。おじいさんは孫をあとつぎにするべく、昔ながらの技を教えようとすけるのですが、孫はその気にならなりません。父は「自分からこの仕事を好きになってもらってやってほしい」とゆっくり見守るスタンス。息子は自分の家族が泥棒の仕事をしてることを、納得できなくてお父さんに問いただすけど「職業に貴賎はないだろう?」と言いかえされてしまうわけです。

 おじいさんもお父さんも泥棒とゆう仕事にポリシーを持ってなんだか職人みたいなふうな描き方なんですね。仕事部屋で、マンションのマスターキーをせっせと作っていたり、(あのアイカギ作りのキカイでが・・・・と研磨してる)、ねらいを定めた家の写真の現像とかてるのが、妙に感心してしまいました。プロですね。
 

この泥棒一家と対照的に描かれてるのが、刑事の一家です。刑事は津川を刑務所の常連として知っていて、軽蔑してるけど、実は自分の家庭は崩壊しているのでした。娘の万引きをきっかけに夫婦仲がわるくなり、妻が家出中。この娘は本当はいい子なので、両親のことを気に病んでいます。そして、ハセジュンの彼女でもあるんですね。この刑事は仕事熱心なのはいいけど、家庭をかえりみないタイプで、奥さんになかなか素直になれない。このちゃんとした世間からみたらいい家庭が実はバラバラで、泥棒で世間に顔向けできないけど家族円満ってゆう対比がとってもおもしろい設定だったです。泥棒が刑事の家族の心配を本気でしてたり。最後は泥棒一家の息子が彼女のために一肌ぬいで、彼女の両親を和解させるのですが。
 キャストを見ても、ハセジュンやその彼女がまだまだ子供っぽさのほうが濃い顔だちなので、あどけなさがとてもこのドラマにはあってましたね。舘ひろしも、こんな地味で、おかしみのある男の役もできるんだ~と、認識をあらためました。(あまり舘ひろしのドラマって
見たことなかったから)あと、藤井君や、シルヴァが泥棒に入られた住人役でてましたね。

 ただ面白いだけでは終わらないのが向田邦子賞です。故・向田邦子さんのテレビ界における偉業をしのび、その名を永く放送界に記録すると共に、テレビドラマの脚本の質的向上と発展を期すために1982年に制定された。毎年、最も優れた脚本作家を年間賞の形で表彰しています。そこにノミネートされるだけでも大変なことなのに、賞を取ってしまう、これは、私が脚本家さんをこよなく愛している証でしょう。

☆『トトの世界~最後の野生児~』は、1999年、週刊「漫画アクション」にて連載、その斬新なストーリーで人気を博したさそうあきら氏の話題作を新進気鋭の脚本家、大森さんが果敢にもドラマ化に挑戦。心に傷を抱える少女・真琴が、言葉を話せない野生の少年・トトに出会います。少年は真琴から言葉を教わり、真琴は少年から忘れていた大切なものをもらい、そして、自分を取り戻してゆく…。現代を生きる人にコミュニケーションの原点、そして言葉の持つ意味を深く問いかける珠玉の物語です。

☆向田賞を取った方は殆ど、NHKの大河ドラマに携わっていますよね。大森さんは『風林火山』で話題になりましたね。

☆私が好きな作品はこのほか、『星になった少年』は暫くみなかったので編集に携わっている事を知りませんでしたが、よかったですね。
 
☆『一番大切な人は誰ですか?』もいい作品でしたよね。東京郊外の鴨下町の交番に一人の警察官(巡査部長)松ヶ谷要(岸谷五朗)が赴任してきます。初めての街、しかし、結婚して間もない妻の路留(牧瀬里穂)と新しい生活切り開いていく希望にあふれた街であったはずでしたが.....。ある日、商店街をパトロールに出た要は、ある女子中学生を見かけて驚いてしまう。彼女は、小南(小林涼子)、別れた妻東子(宮沢りえ)についていった娘だったのでした。東京郊外の鴨下銀座商店街を舞台に、前妻と娘に偶然再会してしまった警察官の要とその妻路留、前妻の東子と娘の小南の4人の心の葛藤を描いたホームドラマでした。

暗くなりがちなストーリーを脚本の大森寿美男の軽妙で味のある台詞によって、ちょっとほろ苦くもユーモアと暖かみのあるドラマに仕上がっています。特に要のことがまだ心の中にありながらも、一人の働く女性として生きていく、どこかか弱さを残した芯の強い女性を演じているりえさんの演技が印象的でした。

その宮沢さんも撮影後の会見で「東子という女性に出会えて本当に良かったです。」と述べています。
 交番の住所録から東子を訪ねた要は、東子の友人坂下(内藤剛志)から離婚してから洋裁店を経営している東子の苦労を聞かされます。
また、東子の経営するアトリエTOCOのシャッターがベンゼンで落書きされ不安になっていた東子と娘の小南に、要は次第に心を動かされていく・・・そして「あんな落書きされて、一人で商売いていくのが怖くなった。」と言った東子の言葉を思い出した要は、自らバイクで向かってくる犯人に飛び掛り拘束。一方、路留は川辺でお互い偶然素性を知らない小と出会い親しくなりますが、小南は路留の持っていた「鬼平犯科帳」の本から路留が父の新しい妻だと気づいてしまいます。路留もまた偶然見つけたアルバムから小南が要の娘であることを知ることに。東子は自分の店を手伝うようになった若い川口という男(忍成修吾)に店のお金を全て盗まれてしまいます。川口はコンビニ強盗の容疑者でした。要への想いを断ち切れていない東子は、盗難のショックと寂しさから思わず要に抱きついてしまいます。そして「要ちゃん、助けてよ!」とすがる東子に、要は「助けるよ。お前をこんな目にあわせた奴、許しておかないから!」と言って東子を抱きしめる
のでした。
 一方、お互いの素性を知った路留と小南は心の中でわだかまりを持ちながらも仲良くなり、小南は要の家に出入りするようになります。そして、母を励まそうとした小Hosino003南は路留の提案で「アトリエ・トーコ」のホームペ-ジを立ち上げます。早速八丈島から仕事の依頼が入りますが、小南が路留と付き合っていることを知った東子はショックを受け、路留から携帯を渡された小南を見た東子は激しく動揺し小南を責めてしまいました。そして東子は要に「あなたが来たおかげでメチャクチャクチャ。」と言って怒りをぶちまけました。そして、「どうすれば今の小南と君を助けられる?」と東子にところにやってきた要に、落ち込んでいた東子は「私が寂しいときどうするんだった!」と言ってキスしてしまって・・・ショッピングセンターで見知らぬ男小沼(村田充)からデジタルカメラをもらって いた小南は、小沼に拉致されその自宅に監禁させられてしまうのです。小南からのメールで事態を知った要は小南を助け、小沼をボコボコに殴ってしまい謹慎処分を受ける。謹慎中に八丈島に逃避行した要と小南、小南は父へのわだかまりをぶつけ「(離婚を)何でもないと思っていた自分が一番嫌いだった」と訴え、自分を救った父に「ありがとう!」と言うのです。そして八丈島から帰った要は思わぬ光景を目にします。何と東子の家に路留が来ていたをしてしまのでが・・・。路留を捜す要はケンカに巻き込まれ警察手帳を失くしてしまい、どうにか路留を見つけた要に、路留は自分の胸のわだかまりをぶつけたりします。要は「一人で辛くなるな。君には俺がいるんだ!」と言い、路留も「ごめんね。辛くさせて!」と言って家へ戻るのです。警察手帳が見つかり八丈島への辞令がくだった要は最後に東子に会いに行きました。「ありがとう!東子でいてくれて。」と言った要の頬をはった東子は「もうこれで思い残すことは無い!」と要に告げ、二人は涙を流しながら別れるのです。

☆DVDがあったらもう一度観たいです。これからもっと羽ばたいて欲しい脚本家さんです。

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私の好きな作品立たち~カズオ・イシグロ編

 特に好きな作品を選べといわれると、やはり『日の名残り』でしょうか。1993年に英米合作で映画化され、ジェームズ・アイヴォリー監督・アンソニー・ホプキンス主演『日の名残り』として公開されましたね。

 第二次世界大戦が終わって数年が経った「現在」、執事スティーブンスは新しい主人ファラディ氏の勧めでイギリス西岸のクリーヴトンへと小旅行に出かけます。前の主人ダーリントン卿の死後、親族の誰も彼の屋敷ダーリントンホールを受け継ごうとしなかったのをアメリカ人の富豪ファラディ氏が買い取ったのですが、ダーリントンホールでは深刻なスタッフ不足を抱えていました。ダーリントン卿亡き後、屋敷がファラディ氏に売り渡される際に熟練のスタッフたちが辞めていったためでした。人手不足に悩むス Annri006 ティーブンスのもとに、

 かつてダーリントンホールでともに働いていたベン夫人から手紙が届きます。ベン夫人からの手紙には現在の悩みとともに、昔を懐かしむ言葉が書かれていました。ベン夫人に職場復帰してもらうことができれば、人手不足が解決すると考えたスティーブンスは、彼女に会うために、ファラディ氏の勧めに従い、旅に出ることを思い立つ。しかしながら彼にはもうひとつ解決せねばなない問題がありました。彼のもうひとつの問題、それは彼女がベン夫人ではなく旧姓のケントンと呼ばれていた時代からのものだった。旅の道すがら、スティーブンスはダーリントン卿がまだ健在で、ミス・ケントンとともに屋敷を切り盛りしていた時代を思い出します。

 今は過去となってしまった時代、スティーブンスが心から敬愛する主人・ダーリントン卿は、ヨーロッパが再び第一次世界大戦のような惨禍を見ることがないように、戦後ヴェルサイユ条約の過酷な条件で経済的に混乱したドイツを救おうと、ドイツ政府とフランス政府・イギリス政府を宥和させるべく奔走していました。やがて、ダーリントンホールでは秘密裡に国際的な会合が繰り返されるようになりますが、次第にダーリントン卿はナチス・ドイツによる対イギリス工作に巻き込まれていくのでした・・・

再び1956年。ベン夫人と再会を済ませたスティーブンスは、不遇のうちに世を去ったかつての主人や失われつつある伝統に思いを馳せ涙を流すが、やがて前向きに現在の主人に仕えるべく決意を新たにします。屋敷へ戻ったら手始めに、アメリカ人であるファラディ氏を笑わせるようなジョークを練習しよう、と・・・

 事からイメージされるのは、推理小説の登場人物くらいで、あまり現実感がないので、イギリスのお屋敷の一流の執事たるものは、どうあるべきかという読み物として読んでしまうと単なるボヤキ、あるいは「執事の品格」になってしまいます。

時代背景が、第一次世界大戦と第二次大戦の挟間で世界が大きく動く歴史をふまえて読むと、もう少し、理解ができるものと思います。 ダーリントン卿にお仕えした執事の仕事の達成感と寂しさ、ダーリントン卿が失脚して、新しくアメリカから来たファラディ様に仕え、イギリス流とは違ったジョークを勉強しなければならない苦痛感・・・

執事のスティーブンが、ファラディ様の好意で休暇を取り、フォードを借りて、かつて一緒に働いた女中頭ミス・ケントン(ミセス・ベン)からもらった手紙を頼りに、彼女に会いに行く物語。スティーブンの執事としての人生・スティーブンとケントンの恋物語・ダーリントン卿の衰退とイギリスの衰退という時代背景がうまく溶け込んでいます。
 執事が物語を淡々と語るので、物語に引きこまれていきます。 こうした静かなイギリス的なものを読むのもいいのかもしれません。

 その時だったと存じます。男がこう言ったのは――「人生、楽しまなくっちゃ。夕方がいちばんいい。私はそう思う。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が一番いい時間だって言うよ」 「たしかにおっしゃるとおりかもしれません」と私は言いました。
 私はここに残り、今の瞬間を――桟橋のあかりが点燈するのを――待っておりました。先ほども申し上げましたが、楽しみを求めてこの桟橋に集まってきた人々が、点燈の瞬間に大きな歓声をあげました。その様子を見ておりますと、あの男の言葉の正しさが実感されます。
 たしかに、多くの人々にとりまして、夕方は一日でいちばん楽しめる時間なのかもしれません。では、後ろを振り向いてばかりいるのをやめ、もっと前向きになって、残された時間を最大限楽しめという男の忠告にも、同様の真実が含まれているのでしょうか。(本文から)

 『浮世の画家』で超一流の絵師だったはずの主人公を描いたイシグロさん。物語はその彼が抱く「悔恨」の念を軸に紡がれて行きます。まるでメトロノームでテンポを測りながら書いたように、冷静で崩れることのない文章。戦後の日本をここまで微細に英語で描き上げた作品があったことに驚かされました。一方で、イシグロ・ワールドがこの作品で一つのスタイルを確立したことが読み取れます。ここを起点にして、The Remains of the Day や The Unconsoled や When We Were Orphans が造り出されて行ったたのだな、というのがよく解りま
す。後の作品に較べると少し小ぶりなところはありますが、何かのエキスパートである主人公が心の中にある小さな塊に胸を痛めることでストーリーが展開して行きながら、背景に時代、社会、民族といった問題が大写しに現れ出でる、という構図はこの作品でも見事です。

ミュージシャンになりたかったイシグロさんが、ひょんなことから作家になって、最初に書いた二つの作品が日本を舞台ものにていた、ということに大きな親近感を抱いた私でした。

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私の大好きな作品~『気くばりのすすめ』

Kennji  鈴木建二氏をご存知でしょうか?元NHKエグゼクティブアナウンサー(理事待遇)。1988年、定年退職。「目線」を造語したことで知られます。兄は映画監督の鈴木清順氏です。

 何故私が鈴木さんが好きなのか・・・今で言うと久米宏さんや古舘伊知郎さんのような存在といえばいいのでしょうか。非常に頭がよく、頭も切れて、笑いのセンスもある、まさに理想的な存在です。その鈴木さんが大分以前、書かれた本なのですが、今でも多くの人に読まれている『気くばりのすすめ』と言う作品です。

 コミュニケーションをとる上で大切なことの一つである"気くばり(思いやり)"。本書では、著者自身の経験、会社、家族などのシチュエーションから、気くばりとはどのようなことかや、人間関係を円滑にするためのヒントが具体的に書かれています。

書かれている内容はすぐに実践できるものも多く、ちょっとしたことから自分を変えたい、"あの人"との距離を縮めたいを考えている方には是非読んでいただきたい本です。

 「母と父が愛を絆として結ばれたおかげでこの世に誕生して以来、人生の全ては出会いによって編み上げられていく」・・・気くばりのバックボーンに"感謝"や"敬意"を感じませんか?

 「人間的価値というものは、平凡な事柄の連続である日常生活の中で学び取られるものであって、その集積がその人間の全人格をあらわすのである」・・・習慣こそ才能ですね。私はこれを"人生の大数の法則"と呼んでいます。

 「話をすることは人間関係をつくるもっとも重要な基本だが、話というと、しゃべることと錯覚していることが多い。話は話す人と聞く人がいてはじめて成立する行為なのである。そして、話すことよりも聞くことのほうが大切なのである。」・・・全ての人がとは思っていませ
んが、人ってどうしてこんなにお喋りなんでしょうか?それはさておき、何事も相手が必要なことを忘れてはいけません。
 
 「自分の気持ちを声の大きさで表現することは、かえって損することに気がつかないのである。」・・・こっそりと、ささやくように話すと相手はその話に重要さを感じ、特別な扱いを感じるそうです。これは使えそうです。

 「拶の"挨"という字は、「開く」という意味であり、"拶"は「迫る」という意味だ。つまり挨拶というのは、「心を開いて相手に迫る」ことなのである」。・・・なぜ挨拶を始めにするのか。その意味を理解できました。挨拶はコミュニケーションの中で一番大切なことだと思いまし
た。

このように、最近あまり使われなくなった言葉の一つに「気くばり」があります、この本を読んでいただければ分かりますが、日常生活における気の使い方、考え方がいかに大事であるかということが歴史などを例として面白く簡単な言葉で描かれています。中学生、高校生ぐらいの方からでも十分に楽しめると思うので是非、読んでもらいたいですね。

 鈴木さんは台本は決してスタジオには持ち込まず、すべて丸暗記していました。また、スタジオの入口で渡された台本は、3回目を通すだけで丸暗記できるという逸話も残されています。ただし、セリフについては、台本に書かれている記述のほかに、自分で取材した資料の検討を行い、推敲を重ねた上で、自分の言葉に置き換えて放送に臨んでいました。こうした姿勢は、「台本を見ながらそのまま放送する番組
ほど、視聴者にとってつまらないものは無く、アナウンサーとしてもプロとは言えない。また、他人の書いた台本に書かれた事は、たとえ完璧に調査したものであっても50パーセントの事実でしかなく、それに自分で調べた事実を加える事で100パーセント以上の事実にして、初めて自分の言葉で話す事が出来る。ましてや、何が起きるか分からない中継放送では、台本自体不要である」と言う持論によって導き出されたものでした。こうした芸当は「職人芸」と呼ばれ、「最後の職人アナウンサー」と言われたほどです。

 私も気配りできているかどうか、いつも気にかけているようで、なされていないと感じることが多いので、いつも気にかけていたいものです。

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私の好きな写真家~星野道夫編

 私は欲知らなかったのですが、星野さんの写真に癒される人が多いのに驚き、記事を書くことにしました。

1978年アラスカ大学の入試を受け、入試では、英語(英会話)の合格点には30点足りなかったのですが、学長に直談判して野生動物管理学部に入学。その後アラスカを中心にカリブーやグリズリーなど野生の動植物やそこで生活する人々の魅力的な写真を撮影しました。しかしアラスカ大学の方は結局中退してしまいました。1989年には『Alaska 極北・生命の地図』で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞しました。

 「シンラ」の記者によれば、事故の一週間ほど前、朝食時に一頭のクマが一行に気がついて近寄ってきたという。こういう時、普通、人が大声を上げたりすればクマはHosino003逃げていくのだが、このクマはいくらそうしても怯まず、石を投げてようやく追い払ったそうだ。 そのクマがやっと立ち去るとき、星野さんは 「イヤな奴だな。」とつぶやいたといいいます。
 クリル湖畔はマッキンレーほど人は多く入らないだろうが、研究者などが寝泊まりするロッジも数ヶ所あり、ここのクマはかなり人に慣れていたようでした。
 イヤな感じがあったにもかかわらず、ロッジではなくテントで寝ていたのは、集団での仕事で自分の空間が欲しかったからなのか。そしてどこかに、そばに人がいるという安心感があったからなのか。
 アラスカで、しかもいつものように単独であったならば、こんなことにはならなかっただろうに。

 星野さんの親友が語って下さいました。

 「新聞や雑誌にも意外にたくさん取り上げられていたので知っているかもしれないが、今年の8月、カムチャッカ半島のクリル湖畔でテレビ番組の取材中にヒグマに襲われて亡くなった。夜、テレビの他のスタッフは小屋で寝ていたのだが、彼だけは小屋のすぐそばに自分用のテントを張って眠っていて、そこを襲われた。最初、この事を新聞で読んだ時、信じられなかった。写真集を出すほどアラスカで多くのグリズリーを撮り、クマの行動については熟知していたはずの人がなぜ襲われたのか。「サケが川を上る時期は、エサが豊富だから人を襲うような事はない。」とテレビのスタッフに言っていたそうですだが、その判断が甘かったのでしょうか。
 僕が最初に星野道夫を知ったのは栄の丸善で見つけたWWFのカレンダーだった。確か1989年のカレンダーだったと思う。そこには雪を戴いたマッキンレー山をバックにどこまでも続く草紅葉の原野にたたずむムースや、ワタスゲの穂が逆光に輝く草原に群れるカリブーなどアラスカの野性動物の姿があった。僕はスケールの大きい、しかも悲しげな 詩情のあるそれらの写真にすっかり魅せられて、3年ほど続けて星野道夫のWWFのカレンダーを買った。どの写真にも突き放すような厳しく、人間のことなど歯牙にもかけない雄大なアラスカの自然が写しとられていた。

 最近は西表島やらバリ島やら、南の島も大好きになってしまったが、もともと僕は北方指向で、学生時代は東北や北海道など北の山ばかり登っていた。その延長上にあるアラスカは、一番近い氷河の見られる場所(当時はソ連なんて行けるHosino001 所とは思っていなかった)として僕の長きにわたる憧れの地であった。
 その夢がかなったのは結婚して4年目の1986年のことだった。まだ「地球の歩き方」のアラスカ版なんてないころで、旅行会社でアメリカのドライブマップである「MILE POST」をコピーさせてもらって持って行った。レンタカーを借り、キャン場にテントを張りながら約一週間、アンカレッジ周辺やデナリ(インディアンの言葉で“偉大なる者”の意味でマッキンレー山を指す)国立公園などを巡った。その時の事を思い出すと本当に夢のようで、ろくに英語をしゃべれもしないくせによく行ったなと思う。

 アラスカの8月はもう秋の入り口で予想よりもずっと寒く、ハイウェイの両側に何処までも続くピンク色のヤナギランの花が移り行く季節を象徴していた。楽しみにしていたアンカレッジ南のポーテージ氷河では、氷河の割れ目の神秘的なブルーを実際に見ることができ感動したが、冷たい雨に打たれて長居はできなかった。天気はずっとはっきりせず、何度もにわか雨に降られ、何度も虹を見た。3日間いたデナリでもマッキンレーの山頂が見えたのはほんのわずかだったが、マッキンレーではその前々年、植村直己が冬季単独登頂後 に遭難していたこともあって、白い山容がはるか原野の上に浮かび上がったとき少々ジンと来た。

 アラスカは本当に広大だ。野性動物もたくさんいるのだがあまりにも広すぎて目立たない。最も目についた哺乳類は車にはねられてハイウェイに横たわるジリスかもしれない。ムースも見たかったのだが、とうとう一度も目にすることはなかった。国立公園内ではシャトルバスのすぐ近くにグリズリーが何度も出てきて驚かされたが、かえってサファリパークみたいで感動が少なかった。むしろ谷を隔てた遙か遠くに、ゴマ粒のようなグリズリーが2、3頭ゆっくりと歩いていくのを見た時のほうがアラスカの広さが感じられ、 
  「本物のグリズリーだ。」という気がした。

 あのアラスカ行きはわずか一週間ではあったが僕にとっては本当に大きな旅で、その後数ヶ月はボーッとしていた。星野道夫のカレンダーはそのときの厳しく大きなアラスカの自然を思い出させてくれた。そしてちょうどその頃、小説新潮の臨時増刊というかたちで「マザー・ネイチャーズ」というグラフィック雑誌が発行され、そのなかでまた星野道夫の写真に出会うことができた。その雑誌には毎号と言っていいほど彼の写真が掲載されていたし、第2号からは「イニュニック(エスキモーの言葉で「いのち」の意味)」と題してアラスカの生活を綴った文章も書き始めていた。とくにうまいとは思わなかったが、アラスカの自然や、アラスカの人々に対する彼の愛情がひしひした伝わってくる文章だった。
 

 僕の手元には5号までしかないので「マザー・ネイチャーズ」がいつまで続いたかは知らないけれど、1994年1月からは月刊誌「シンラ」に引き継がれた。最初は後継誌とは知らず、女房が買ってきたものを「昔あったマザー・ネイチャーズによく似ているが、あっちの
ほうが良かったな。」などと言いながら読んでいた。自然指向の雑誌「シンラ」は今では僕の愛読誌になっているが、読み続けるきっかけになったのは池澤夏樹氏の「ハワイイ紀行」という連載のせいだった。彼は「マザー・ネイチャーズ」の創刊号にも文を書いていたのだが、そのころのはちっとも記憶に残っていなくて、「ハワイイ紀行」ではじめてその情景描写の的確さに魅せられた。あとから彼が埼玉大学の物理学科を中退していることを知り、その描写が理科系のセンスによるものだと納得した。

 「ハワイイ紀行」以後、彼の作品を拾い読みしていたのだが、「南Hosino002 鳥島特別航路」という文庫本で僕はもっと前に池澤氏に出会っていた事を知らされ驚いてしまった。この本1989年から90年にかけて、日本交通公社発行の雑誌「旅」に連載されていた記事を集めたもの で、その中の五島列島の章は確かに読んだ覚えがあった。普通の紀行文と少々毛色が変わっていて、火山性の五島列島の成り立ちや波に削られた断崖の地層の描写など、随分専門的だなと感じ、記憶に残っていたのだった。(この機会に本棚を探したら、このときの「旅」が出てきた。1989年1月号だった。)
 

 星野道夫の「イニュニック」も「シンラ」創刊2年目の1995年1月号から「ノーザンライツ(北半球のオーロラのこと)」として連載が再開された。連載は彼の死によって中断されてしまったのだが、「シンラ」10月号に星野道夫レクイエムとして池澤氏が追悼文を書いている。星野と池澤の結びつきは、おそらく「マザー・ネイチャーズ」の頃から雑誌を介して始まったのではないかと思うが、その追悼文の中で、星野道夫がアラスカへ定住することになったきっかけについて、びっくりするような事を書いていた。
 

 星野道夫とアラスカの関わりの一番の始まりは、神田の古本屋で見つけたアラスカの本に載っていたエスキモーの村の空撮写真に魅せられ、19歳の時にその村へ行き、一夏を過ごしたことであることは、彼の著書「アラスカ、光と風」で知っていた。しかし、すっかりアラスカに行ってしまうきっかけになったのは、中学以来の親友が山で死んだことだったと言うのだ。
 

 星野がTと書いている友人は1974年の夏、妙高連山の焼山の頂上付近でキャンプしているときに、10年以上活動の無かったこの火山の突然の噴火に巻き込まれ、仲間の2人と共に亡くなっている。そして、この時亡くなった3人は僕の大学の同じ学科の3年先輩にあたる。
 僕が千葉大に入学したころ、松戸の園芸学部の食堂の前に三本のベニバナトチノキが植わっていて、誰かから登山中に亡くなった先輩がいる事を聞いた。 そのトチノキは同級生が植えた追悼の記念樹だという。その木はおそらく僕が入学する前年か前々年に植えられたもので、その名のとおり、薄紅色の花がまだ薄くて柔らかい黄緑色の葉陰に揺れていた。
 

 入学後、山登りを始めていた僕に、山で死ぬということを目に見Hosino004 える形で表していたその トチノキを、いつも僕は特別な想いで見ていた。当時珍しかったその花の写真を撮った記憶があったので、学生時代の古いアルバムを探してみたら、少々色褪せてはいたけれど、確かにあのマロニエの写真が残っていた。
 池澤夏樹の追悼文を読むと、星野道夫がアラスカの自然と同じように、ヒグマに対しても愛情を持ち、そして良く知っていたのが分かる。
 星野はアラスカのクマのなかで最も危険なのは、国立公園にいるクマだという。大勢の観光客が訪れる国立公園では、本来、クマが人間に対して自然に保つ距離が取れない状況になってしまっている。人間との距離感が麻痺してしまっているクマとの遭遇は事故が起こりやすいというのだ。

 池澤氏は書います。
 「彼は基本的に銃を持たない。銃をもつと銃に頼りすぎて、動物と対面する場面で必要な緊張感を失い、不用意な行動をしてしまう。その方が問題だと考えていた。グリズリーと何度も関わって、そのたびにグリズリーがその時々きちんと的確に自分の感情を表現するのを読みとっている。だから手の中に銃があるばかりに、脅威でもないものを脅威と妄想して撃ってしまう方を恐れた。クマを軽んずるのではない。クマに対して必要にして充分なだけの畏怖の念が彼にはあったのだ。」

 

 「シンラ」の記者によれば、事故の一週間ほど前、朝食時に一頭のクマが一行に気がついて近寄ってきたという。こういう時、普通、人が大声を上げたりすればクマは逃げていくのだが、このクマはいくらそうしても怯まず、石を投げてようやく追い払ったそうだ。 そのクマがやっと立ち去るとき、星野は「イヤな奴だな。」とつぶやいたという。
 クリル湖畔はマッキンレーほど人は多く入らないだろうが、研究者などが寝泊まりするロッジも数ヶ所あり、ここのクマはかなり人に慣れていたようだ。イヤな感じがあったにもかかわらず、ロッジではなくテントで寝ていたのは、集団での仕事で自分の空間が欲しかったからなのか。そしてどこかに、そばに人がいるという安心感があったからなのか。アラスカで、しかもいつものように単独であったならば、こんなことにはならなかっただろうに。
 

 植村直己が遭難したときにもまさかと思った。彼は本当に用意周到な人で、南極点への犬ぞりによる単独到達が夢で、エスキモーから犬ぞり操縦の技術を習い、予行演習として犬ぞりによる単独北極点到達とグリーンランド縦断までなし遂げてしまった。あんな用心深い、忍耐強い人が遭難死するとは思ってもみなかった。
 そして、あんなにクマのことを良く知っていた星野道夫がヒグマに襲われて亡くなるとは。自然相手に絶対ということは無いと分かっていても。『アラスカに、カリブーやムースやクマやクジラと一緒に星野道夫がいるということが、ぼくの自然観の支えだった。
 彼はもういない。僕たちはこの事実に慣れなければならない。残った者にできるのは、彼の写真を見ること、文章を読むこと、彼の考えをもっと深く知ること。彼の人柄を忘れないこと。それだけだ。』

 星野道夫の死は、今年の夏、僕にとってほんとに衝撃的な出来事だった。僕にとっての星野道夫の死の意味を整理しておかないと、どうにも落ちつかない感じだった。今思えば、僕のあのアラスカ旅行は夢を叶えるために努力ができた最後の旅だったような気がする。歳をとるに従って夢などという青臭い一途な憧れを持ち続けるなんて気恥ずかしくなってしまうし、若さ故の漠然とした不安といったものも日々の生活のなかで擦り切れてしまった。
 アラスカは僕にとっては、そんな忘れてしまいがちになる感情を思い出させてくれるものだった。そのアラスカへの想いを星野道夫がいでいてくれた。
 星野道夫が亡くなり、もう彼の写真や文章によって、心のアルバムにアラスカのページが増えることは無くなってしまった。そろそろこのアルバムを本棚に納める時期かもしれない。」と。

 もうすぐ星野さんの一周忌がやって来ます。長かったような、早かったような。それにしても、その著書を通してしか知らない男の死を、単なる一読者でしかないはずの自分がなぜこうも悼み続けるか。今までこのような経験はなかったのに。これこそたぶん、星野さんの言葉が持つ力なのだと思います。彼の文章の中にはいつでも優しい笑顔をした等身大の男の姿が見ええます。ひどく近しい場所、まるですぐそばに彼が立っているように。勿論、星野氏は写真家であり、彼の写真集はどれも見る者に深く感銘を与えずにはおかないのだけれど、それでも、写真しか見たことがなかったならば、それほど影響はなかったと思う。写真もすばらしいけれど、それと同じくらいに大きいのは、やはり彼の言葉の力なのです。

 星野さんの文章は非常に平易です。本当にやさしくわかりやすのです。漢字さえ知っていれば子供にだってそれなりに読めるでしょう。もっと言ってしまえば、今時、普通なら恥ずかしくてとても書けないだろうと思うくらい純真純情な言葉が並んでます。汚れたものが何もないのです。誰にもとても真似などできないくらい。もし他の誰かがこんな文章を書いていたら、読者は赤面するか胡散臭そうに放り投げるに決まっています。にもかかわらず、星野さんという男性の書いた文章だから、それは非常に力強く深みがあって、真実なのす。結局、信用ということなのでしょうか。大自然を相手にしながら、美辞麗句を使用して大言壮語するわけではない、非常にささやかな感想を何となくはにかみながらぼそぼそと漏らしているような、そういう男が書く文章なら信用できないわけがないと思うのです。

 変わりゆく自然を、過ぎ去った歴史を、年老いあるいは若くして亡くなってゆく人々を、惜しみながらも、常に現在という瞬間を肯定してゆく生命の力、軽やかで明るいオプティミズム、そのような人生に対する彼の態度もまた、その言葉に力を与Hosino005 え輝きを添えている・・・
変わりゆく悲しみは年老いてゆく悲しみと共通していますね。しかし決して変化と老いとを否定はしません。むしろ積極的に肯定してゆこうとします。その上で、しかもなお、変わらずに守ってゆかなければいけないものは何か見据えようとしています。そのため、星野さんは見る者、見守る者なのですね。長い長い時間をかけて。熊が冬眠から目覚め活動する瞬間を見るために、何日も待ち続ける。あるいはカリブーの季節移動を一カ所で待ち続ける。いつ通るかも知れない、もしかしたら通らないかも知れないのに。ただ待つだけの日々。それだけの余裕が彼にはある。彼は決して性急に結果を求めはしない、答えを出そうとはしない・・・

『混沌とした時代の中で、人間が抱えるさまざまな問題をつきつめてゆくと、私達はある無力感におそわれる。それは正しいひとつの答が見つからないからである。が、こうも思うのだ。正しい答など初めから存在しないのだと……。そう考えると少しホッとする。正しい答をださなくてもよいというのは、なぜかホッとするものだ。しかし、正しい答は見つからなくとも、その時代、時代で、より良い方向を模索してゆく責任はあるのだ。』

『「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。』(『旅をする木』)

 星野さんの眼差しはとても優しい。それはおそらく、結果を重視し最優先する社会を離れてしまった者の眼差しだからでしょう。

ふと思うのです。そもそも、時間には結果など無い。時間には、延々と過ぎ去って行く、その流れだけがあるのだと。生きていることとは、過ぎ去り続けることで、結果を出すことではないのだと。星野さんは「時の流れを観照し続けた人」なのだと思います。彼のことを思う時、人の一生の短さが、何千年何万年という比較しようもない時間の流れに対して直に繋がっている、そのことをいつも再確認させられる気がしました。

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私の好きな作品~『町長選挙』

 伊良部一郎医師の人気シリーズ第3弾。残念ながらまだ文庫化されていませんが、人気ぶりからして時間の問題でしょう。本書は従来のテイストに加え、話題性と社会性を盛り込んでおり、伊良部医師もいよいよ表舞台にご登場かという印象を強く与えてくれました。某新聞社の会長兼球団オーナーの威厳ぶりや時代の風雲児と呼ばれた某社社長の人哲学などを描いた「オーナー」や「アンポンマン」といった作品は、懐かしい感慨めいた雰囲気に満ちていました。「カリスマ稼業」もおそらく同様ででしょう。

 話題性を優先する大衆メディアは報道内容が偏重し、十分なRock031 論議や総括をすることなく、次なる話題に飛びつき読者の関心を巧みに誘導する効能を有しています。むろんメディアのみの責任ではありませんが、メディアの作用は実に大きいですよね。かつての某IT企業による球団獲得・その後のラジオ放送社買収騒動事件は多くの人にとってすでに「過去のもの」として記憶されているでしょう。「時価総額世界一」と豪語された人生哲学も今では嘲笑の対象とみなされているのかもしれません。本書はいずれもそうした主題を「過去の話題」としてではなく、そこに潜む人間の深層心理とともにヘビーな作風というよりは新鮮な趣をもった内容として再生されてくれているような気がしました。

 本書は表題の「町長選挙」の他に「オーナー」「アンポンマン」「カリスマ稼業」という4つの作品が収録されています。

 『オーナー』は京グレートパワーズ(読売ジャイアンツ)のオーナーである、大日本新聞(読売新聞)社長の田辺満雄(渡辺恒雄)は新聞社の社長というだけでなく政財界に幅広く影響力を持っています。自身がマスコミの社長ではあるもですが、マスコミに諂うことを嫌い、1リーグ制導入を容認する発言で選手会およびファンにも嫌われていました。ナベマンというどっかの料亭のよーな渾名を付けられ連日マスコミの取材攻勢に合っていましたが、ある日突如として暗闇が怖くなってしまったのです。

 医者に見てもらうことを決めたナベマンは知り合いの日本医師会の委員長でもある伊良部総合病院の医院長に連絡を取り付けます。

てっきり自分のレベルなら自宅まで往診してくれるものと信じて疑 わなかったのですが、「いやだよーん」と拒否されてしまところなどとてもおかしいです。普通なら通院などありえないのですが、外出先の通り沿いに伊良部総合病院があったため顔を出してみることにしてしまいました。伊良部の元を訪れたナベマンは伊良部が自分に敬意を示さないどころか、命令口調で問診をすることに立腹していました。更に「例の」マユミちゃんの「とりあえず注射」を不覚にも打たれてしまいます。
 当然のように伊良部に憤りを覚えたナベマンはパニック障害を忘れようと努力あしますが症状は更に悪化してしまいます。そして、旧知の会社社長の退任パーティに参加した際、会場で伊良部の姿を見かけます。伊良部は大勢の前で「パニック障害、なおった?」とわけのわからないことをごちてナベマンをあたふたさせますが、パーティの帰り取材にあった際、またもやパニック障害に・・・
果たしてナベマンは病気を治せるのか?エンディング付近はいつの間にか「イイ話し」になっているところがさすがです。

 『アンポンマン』は、ITベンチャー企業ライブファスト(ライブドア)社長の安保貴明(堀江貴文)は今や飛ぶ鳥を落とす勢いでその事業を拡大しており、テレビでその姿を見ない日はありませんでした。安保貴明という名前より、世間的にはアンポンマン(ホリエモン)という呼び名が浸透しています。そんな安保は「稼いで悪いか?( 稼ぐが勝ち )」のサイン会でひらがなの「ま」が書けない自分に気づきます。秘書の美由紀(乙部綾子)は字が出てこない安保の様子を以前にも見ており一度治療を受けるように勧めていました。

 美由紀の進言もあり、安保は伊良部総合病院に出向きました。キーボードがなければひらがなさえも書けなくなった安保への伊良部の診断は若年性アルツハイマー。IT業界の寵児とも呼ばれるアンポンマンは診断内容を甘受できるわけもありませんRock184。非生産的な作業は安保は最も不快視するため、ひらがながかけなくても何の問題もないと判断し、業務を続けるが公開討論テレビ番組に参加しても文字が浮かばない安保。状況はますます悪化していくのです・・・そして治療のため(?)に伊良部が安保を連れて行ったところは・・・最後にキチンとアンポンマンが自信を取り戻すのはこのシリーズの定番なのですが、ホリエモンの現況を考慮すると今となっては、ある意味自信を取り戻さない方がよかったのかも・・・と思ってしまいます。

 『カリスマ稼業』は悪く、マネージャーの久美に精神安定剤を貰うように依頼しました。久美はバンド仲間で精神科の看護婦を務めている友人がいるので貰ってくることにしましたが、その友人こそがなんとマユミちゃんなのです。久美はクスリを貰ってくるため伊良部総合病院にいったのですが、注射を打たれて帰って来てしまいました。自然体が売りの白木でしたが、寝付けないのと同時に最近痩せなくてはいけないという強迫観念に囚われていました。
 午前中人前で過食気味に食べたお菓子を消化すべくどこか運動できるところを探していました。そしてたどり着いたのが伊良部総合病院だったのです。
 

 白木は早速エクセサイズマシンを病院内で組み立て運動を開始。普通なら「何やってるの?」というところですが、伊良部はこともあろうにそのマシンを白木から取り上げて自分で運動しはじめてしまいます。伊良部に暴言を吐いて病院を辞した白木でしたが、ふと我に返ると自分でも精神的におかしいなあと思い始めていました。
 

 数日後、白木に熱血大陸( 情熱大陸 )の取材が舞い込んできます。自然体であることを見せようとした白木だったが、ひょんなことから伊良部総合病院の精神科に通っていることがばれてしまいます。白木は次回の役作りのためと取り繕ったが是非とも取材したいとのオファーを断りきることができず、撮影クルーと一緒に伊良部の元を訪れてしまったのです・・・
 このラストもなかなか秀逸です。白木もこれで肩の荷が下りたことでしょう。でも、伊良部の功績というよりもマユミちゃんの活躍じゃないのでしょうか?・・・

 そして『町長選挙』です。この作品だけは有名人が出てきません。東京から数時間かけて船を乗り継いでやっとたどり着く離島、千寿島。
 ここでは小倉と八木という農業と土建屋という二者が有力者であり、日々熾烈な戦いが繰り広げられていました。その千寿島に東京都の職員として就職した宮崎は離島研修ということで赴任してきました。
 千寿島では町長選挙の真っ只中であり、役場でもその話題で持ちきりです。この島では小倉か八木かどちらについているかによってその後の待遇も変わってくるといいます。

 宮崎もその例に洩れず、両陣営からどちらにつくのかはっきりしろと言われ困惑気味。
そこに、父の意向(と見栄)により2ヶ月間千寿島に赴任することになった伊良部と日給3万円で離島赴任を受け入れることになった、マユミちゃんがやってきます。小倉、八木両派は伊良部の父が医学会での重鎮であることを知り、実弾(賄賂)攻撃に走ります。
 

 宮崎も両陣営から実弾を掴まされ、悩んでいましたがが、貰えるものは貰っちゃえという伊良部の発言に少なからず心が揺れるのです。
 前回の選挙結果は5票差という僅差だったため、小倉・八木も死に物狂いでした。選挙で重要となる浮動票として両者で読めていないのは島に住む老人達でした。千寿島の老人達はしたたかで「自分達に最終的に利益をもたらす公約を掲げる方に投票する」と最後までどちらに着くか表明していませんでした。

一方老人の心を最も掴んでいたのは、実は伊良部でした。伊良部Rock179 は病院で特に治療をするわけでもなく、老人達の話し相手になっていただけででしたが、それが老人達には嬉しかったようなのです。小倉、八木達は老人達の浮動票を確保すべく、更に伊良部に接触を図ります。ヒートアップした島を伊良部は治療できるのか・・・

 伊良部と時の人達の会話も想像していてかなり可笑しかったのですが、やはり表題の町長選挙のノリが本来の伊良部なのかなと思いました。
 しかし、伊良部一郎の産みの親、奥田英朗は凄いですね。このキャラをどう見せるかというところにかなり神経を割いているのではないでしょうか?伊良部は既に奥田英朗の机の上から飛び出して一人歩きを始めているように思います。
 全編一話完結のお話しなので、今まで「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」を読んでいなかった人でもこの「町長選挙」から読んでみても全く問題ないです。ホントにおかしな精神科医の登場ですね。

 私、伊良部先生のキャラ、大好きです。

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