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2009年2月 2日 (月)

私の好きな作品たち~保坂 和志編

 学卒業後の1981年、小説を書く時間のありそうな職場として西武百貨店のコミュニティ・カレッジに就職、哲学や現代思想のワークショップを企画しました。30歳を目前にして尻に火がつく思いで書いたという「ヒサの旋律の鳴り渡る」「グノシエンヌ」(とも
に未発表)の制作を経て、1990年、『プレーンソング』を『群像』に発表しデビューしました。1993年「草の上の朝食」で野間文芸新人賞受賞。同年に会社を退職

『プレーンソング』を読んだのは随分前のことですが、「何を書くのか」を充分に推敲してから書き始めた作品だと感じました。それは事件でもなく、出来事でもなく、「思考そのもの」なのだと思うかたらです。語り手を取り巻く登場人物も興味深いですね。

猫のことなら何でも言い当てる学生時代の友人ゆみこ。何かを積み上げていKaii006く思考のなさを感じる競馬仲間の石上さん。世界観のようなものが奇矯な思い込みのうえに成り立っている同じく競馬仲間の三谷さん。語り手の部屋に突然転がり込ん でくる面々もすこぶる個性的です。しつこくしゃべり続けて調子にのり続けますが、実は遊園地にも海にも行ったことがないアキラ。風呂からあがったばかりで顎を上に向けながらワイシャツの一番上のボタンをとめる島田。黙々と近隣の野良猫に餌をやりにいくよう子。作者の分身のような、この作品の解説者のような、ビデオをまわすゴンタ。保坂和志の会話文は素晴らしいと思います。地の文では思考を、会話の文ではその技巧を堪能できるのです。

最初の第一文から最後の最終文まで味わい深いものでした。「プレーンソング」とは「単旋聖歌・典礼歌・グレオリオ聖歌」や「神の恩寵」という意味ですね。読んでいて、1ページ前に登場人物が何をやっていたか、それがとりあえず、まったく思いだせない・・・。勿論、それも作者の戦略のうち。受動的な主人公、まわりの人たちの会話に流されて、そのうねるような思考がうねるような文章とシンクロして、いつの間にかページをめくっているという、その技術。そこには、決して何も起こらない話では無いと思いました、表面的には・・・ では、この小説が何故こんなに奇妙なのかといえば、実は、この小説には「中心」がないのす。猫を探したり、海行ったり、部屋に人が転がりこんできたり、競馬行ったりしてるますが、そのどれもが物語の中心にならず、あっさり流されてしまうのです。
 ゴンタは、ある出来事が起こったとき、その出来事でなく、その出来事をなんとなく見ている人のほうに動きが生まれ、そっちのほうが大事なんだよ、と主張するのです。それは著者の主張でもあるのでしょう。
 つまり、この小説は、この小説の外で起こった何かの出来事(それは何かわからないけど)を見ているキャラクタたちの姿を描いた小説になってるのです。凄いことだと思いました。ある意味大江健三郎氏の文と似ていると思いました。

『この人の閾』での内容は、何人かで街を歩いたりしながら、目に入るものについてたわいもないことを話したり考えたりしているというもの。ふつうは会話の中に人間関係がうかびあがってくるのだけれど、この本の中の作品では、それぞれの人物が個人として周囲の事物に感じていることが浮かび上がってきます。それはよくみるととてもおもしろいものなのです。

 もう一編での舞台は小田原の民家。「汚くしてるけどおいでよ、おいでよ」というので、およそ十年ぶりに会ったこの人は、すっかり「おばさん」の主婦になってい・・・でも、家族が構成する「家庭」という空間の、言わば隙間みたいな場所にこの人はいて、そのままで、しっくりとこの人なのだった…。37歳の「ぼく」が今は子供が二人いるふつうの主婦になってしまった一年上の女性の
先輩、真紀さんに会いにきた。と書くと背徳の香りがしてしまいそうですが、そういう香りは完全にシャットアウトされています。
 真紀さんは最近『失われし時を求めて』とか哲学の本とか時間のかかる本ばかり読んでいるそうだ。でも、そうして頭の中に保存されたものは、感想を残すこともなく、いずれあとかたもなく消えてしまう。『三四郎』の広田先生が「偉大な暗闇」とよばれていたことを思い出しました。
芥川賞を受賞した表題作をはじめ、木漏れ日にも似たタッチで「日常」の「深遠」へと誘う、おとなのための四つの物語です。

 思考というのは並列的で、矛盾を含んでいるのに対し、文章は直列で、整合性がとれていなければならない。ふつう思考から文章を変換するときは、小さなもの余計なものは省いて、できるだけコンパクトにしようとするのですが、保坂和志氏の場合には、一見意味のないような思考の流れを切らずにそのまま文章に埋め込もう としているのです。そんな文体です。

『カンバセイション・ピース』も目が放せない頭も殻に出来ない絶品です。

 「自分が頭を洗っている姿くらい自分自身の目でみたことない姿はないのにKaii012、私はその姿を自分自身の目で見たのと同じぐらい知っている」というくだりがありますが、私もそう思うことがあります。記憶の中にある自分は、いつも他人の視点から見えている自分です。だいたい小学生の頃僕はおちつかないよそ見ばかりしている子供だったのですが、覚えているのはそんな自分を後ろから俯瞰でみている自分の視線。時には前から見ていたりもする。ドッジボールをする自分を校舎から見ていたり。どういうわけか視点が他者の視点になっている。そんなこと考えたこともなかったのですが、この本にしっかりと文章にされているのを読んで鳥肌が立ちました。そんな描写が至る所にあるこの本は、じっくりと読み返なければなりません。
「人間が神を信じていた頃、人間は神という存在を想定することによって、自分たちのできないことを神が代行してくれると考えていたわけだけれども、それは本来人間のなかにあったはずだ。」という文章が心に残って消えません。

 カフカを読みながら書いてきたその後の作品も多分私は読むでしょう。

『小説の自由』・・・小説は読後にテーマや意味を考えるものではない。小説はそのような固定した〈名詞〉でなく、読むたびに読者に向かって新しい世界観や人間や「私」についての問いを作りだす、終わることのない〈動詞〉の集積なのです。誰よりも小説を愛している小説家が、自作を書くのと同じ注意力で、実際の作品を精密に読んでみせる、驚くべき小説論です。つい唸りたくなる作品ばかりなので・・・

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