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2009年4月 1日 (水)

私の尊敬する大統領~ジョン・F・ケネディ編

 私はケネディ大統領の英語はとても美しく、聞きやすいものだというところから興味っを持ち始めましたが、まもなく死去され、本当に残念でなりませんでした。幼い私は『ジョン・F・ケネディ』と名付けられた文庫本を買い、読めない漢字が多い中、夢中で読んだり、暗殺についてのドキュメントを何度の見たりしていました。

 ケネディ中尉が率いる魚雷艇、PT-109は、1943年8月2日にソロモン諸島のニュージョージア島の西を哨戒していた時に、大日本帝国海軍の駆逐艦・天霧との偶発的な接触事故によって船体を引き裂かれました。彼は痛めていた背中からデッキにたたきつけられましたが、負傷者を命綱で結びつけ3マイル遠泳して、なんとか小さKenedi001 な島にたどり着いたと言います。その接触事故を目撃した僚艇の乗員は、PT-109の乗員全員の戦死を確信し、基地に帰還後の報告でも乗員全員の戦死を報告(天霧側でも艇員全員が戦死したものと思い込んだ)。ゆえに友軍の捜索・救出開始まで一週間近くかかってしまい、助かったPT-109の乗員たちは飢えと渇きに苦しみました。そして、友軍による数日の探索後に島民2人に出会い、ココナッツに刻んだメッセージが元で救助された(このココナッツは後年、ホワイトハウスの執務室に暗殺の日まで置かれていたといいます)。この時の部下を見捨てなかった勇敢な行動が、後の政治家としての資質評価に大きく寄与したとされました。

 1960年11月8日の大統領選挙は歴史に残る接戦でリチャード・ニクソンに勝ちますが、43歳で当選したケネディは最も若い大統領および最初のカトリック教徒でした(セオドア・ルーズベルトはケネディより若い42歳で大統領になったが、ウィリアム・マッキンリーが暗殺された後を埋めるため自動的になったもので、選挙で選ばれた大統領はケネディが史上最年少です)。その選挙運動に関するセオドア・H・ホワイトの1961年の著書『 TheMaking of the President 1960 』は、ベスト・セラーであるだけでなく、しばしば高校と大学のアメリカ政治と歴史のコースの中で補足のテキストとして使用されているほどです。

 ケネディはキューバ危機が去った1963年6月10日に、アメリカン大学の卒業式において『平和のための戦略 (THE STRATEGY OF PEACE)』という演説を行ないました。この演説の中でケネディは、「私の言う平和とは何か? 我々が求める平和とは何か? それはアメリカの戦争兵器によって世界に強制されるパックス・アメリカーナではない。そして墓場の平和でもなければ奴隷の安全性でもない。(中略) ソ連への我々の態度を再検討しようではないか。(中略) 我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を呼吸している。我々はみな子供たちの将来を案じている。そして我々はみな死すべき運命にある。(中略) 我々の基本的、長期的なジュネーブでの関心は全面的かつ完全な軍縮である。この軍縮は段階的に行われるよう計画され、平行した政治的な進展が兵器に取って代わる新たな平和機構を設立することを可能にするものである」と語りました。
 さらに米英ソの間で核実験禁止条約に関する話し合いを始めることを明言し、「他の国が核実験をしない限り、アメリカも再開することはない」と宣言しました。この演説はノーカットでソ連の新聞やラジオで伝えられました。その後、1963年7月25日、米英ソの間で部分的核実験禁止条約 (PTBT) を締結することになるのです。

 ケネディの失敗はベトナム戦争を止めなかったことだと散々聞かされていましたが、果たしてケネディ大統領の思惑はどこにあったのでしょう。ケネディはベトナム戦争からの早期撤退の可能性を検討し始めていました。1963年9月3日に、ケネディはテレビのインタビューに対し、「サイゴン政府が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的にはこれは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争―ベトナム人対共産主義者の戦い―で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ。我々は彼らを支援し続ける用意はある。しかしベトナム国民がこの努力を支持しなければこの戦争には勝てない。私の見るところ過去二ヶ月の間にサイゴン政府は民衆から遊離してしまっている」と答えました。

 そして10月31日には、「1963年の末までに軍事顧問団を1000人引き揚げる予定」であることを発表ししました。そして11月の反ディエムクーデターの後には、マクナマラ国防長官が年内の1000人の顧問団の引き揚げを再確認するとともに、1965年までの軍事顧問団の完全撤退を発表しましたが、ケネディ暗殺のため撤退計画は頓挫したと言われています。
 2003年発表のドキュメンタリー映画「The Fog of War」では、マクナマラ国防長官とジョンソン大統領の電話の録音記録が紹介され、ジョンソンがケネディのベトナム撤退に強く反対であったことの直接的な証拠を提示しています。アメリカによるベトナムへの軍事介入
はジョンソン大統領によってより増強され、泥沼化したというのが事実なのです。

 また、人種差別の問題では、ケネディはそれまでは議会との対立を避け公民権法案の提出を見合わせていましたが、アラバマ州立大学に2人の黒人学生が入学した1963年6月11日夕方、公民権運動を助けるためにより強い処置を講ずる時期が来たと決断し、議会へ新しい公民権法案を提案、テレビで大統領執務室から直接国民に訴えかけました。「リンカーン大統領が奴隷を解放して以来100年間の猶予が過ぎた、彼らの相続人、彼らの孫は完全に自由ではない」と言いました。アメリカは多くの国家および背景の人、そして人は皆平等に作られたという原理によって設立されたことを訴え、ケネディはアメリカ人がみな彼らの皮膚の色にかかわらず、アメリカで幸福な生活を楽しむべきであることを明らかにしました。この演説の中でケネディは人種差別を単なる憲法や法律上の問題ではなく、「道徳的危機」であると断じたのです。
 ケネディは議会に対する説得にも力を入れました。6月19日に法案を議会に送るとともに、法案に関する特別メッセージを送りました。その中でケネディは「この法案の提出は、単に経済的効率のためでも、外交的配慮のためでも、ましてや国内の平穏を保つためでもない。ただ何よりもそれが正しいことだからだ」と訴えました。この公民権法はケネディ政権下では成立しませんでしたが、人種差別廃絶に対し積極的な姿勢を持っていたジョンソン政権下で議会を通過し、1964年、公民権法として成立することとなりました。

 これほど愛された大統領がいるでしょうか・・・

なのに暗殺事件・・・暗殺の理由と暗殺者は多くの説があり、いまだに結論が得られていなません。その主な原因は、証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、また大規模な証拠隠滅が行われたと推測できる事象が多くあるためです。例えば、暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、ダラス市警察本部でジャック・ルビーに射殺されました。この射殺事件にもケネディの暗殺事件の真相の隠蔽行為(口封じ)であるとする意見があります。暗殺事件の最初の公式調査委員会は、事件の一週間後1963年11月29日にリンドン・B・ジョンソン大統領によって招集された。その委員会は、最高裁長官アール・ウォーレンによって率いられ、ウォーレン委員会の名称で知られるようになりました。10か月の調査後、1964年9月末にウォーレン委員会報告書が公表されます。委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとしました。オズワルドの単独犯行説はローン・ガンマン・セオリーと呼ばれます。委員会は暗殺時に三つの弾丸が発射れ、二発の弾丸がケネディ大統領とコナリー知事を命中。その弾丸は全てリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード車列の後方にあったテキサス教科書倉庫から発射した物として結論を下しました。

委員会の判断:
・一発は車列から外れたと考えられる。(三発の内の何射目かは特定できない。)
・ケネディ大統領の上背部に命中した弾丸は、首の正面近くに貫通し、コナリー知事を負  傷させたと思われること。
・最後の弾丸は大統領の頭部に命中し致命傷となったこと。

 ウォーレン委員会の報告による致命傷を与えた銃弾の方向Kenedy002 (魔法の銃弾)委員会は教科書倉庫の6階で3つの薬莢が発見されたことに注目しました。また、ライフル銃は近くに隠されたことが判明した。委員会はケネディとコナリーは別々の弾丸で傷つけられたのではなく、両者とも同じ弾丸で傷ついたとするのが適当だと提示した。弾丸はほとんど形状を保ったまま担架(stretcher)の左腿付近から発見された。この説はシングル・バレット・セオリーとして知られるようになった。いくつかの弾道の証拠は弾丸がそのような軌道を描くことが可能であると示唆したが、多くの主張がこの点で一致しない。魔法の銃弾は1発の弾丸がそのような多くの銃痕を残すのは不可能であることを揶揄的に表現したものです。委員会はさらにセキュリティ面の不備を指摘した。指摘は大統領が旅行する際のセキュリティ増加に帰着しました。銃弾の入り口とされるコナリー知事の背部(右半身)の傷は、出口とされる胸部(右半身)の傷より小さかった。銃弾の入り口とされる右手首(甲側)の傷は出口(掌側)よりも大きかったといいます。この問題について、胸部を貫通した銃弾が回転し、前後逆に手首に侵入したとする「回転説(Tumbling Theory)」がありました。

 暗殺の真相は未解明であり、様々な陰謀説が流れています。ケネディの暗殺は現在に於いてもアメリカ社会に暗い影を投げ掛けているのです。
 ケネディ本人を始めとして、
実弟のロバート・ケネディは1968年の大統領選挙の予備選中に暗殺。
末弟のエドワード・ケネディはチャパクィディック事件で政治家としての求心力を失う。
実の妹のローズマリー・ケネディはロボトミー手術を無理やり受けさせられ、知能が後退して性格が粗暴になる(2005年死去)。
息子のジョン・F・ケネディJr.は自家用機を操縦して別荘へ向かう途中、大西洋上で墜落し不慮の死を遂げている。

等、多くの家族が不慮の死を遂げたり、不幸に見舞われていることから『悲劇のケネディ家』と言われています。

 私より上の世代にとってもやりきれない思いを心のどこかに隠している人たちがきっといると信じています。ジョン・レノンの死も強烈な印象を多くの若者に残しましたね。

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コメント

Thank you ever so for you post.Much thanks again. Really Great.

投稿: fleshlight video | 2016年7月 9日 (土) 11時02分

Muchos Gracias for your blog.Really looking forward to read more. Really Cool.

投稿: these casino details | 2015年6月 5日 (金) 09時15分

こんばんわ。
今晩は少し暖かいようですね。

ケネディの暗殺も鮮烈な思い出として残っています。デビューも鮮烈でしたね。今のオバマ大統領以上に。数々の新しい政策で世界の注目を集め。
銃殺されたシーン、オズワルド暗殺場面も何度も放映されショックを受けたことを憶えています。
斬新な政策は敵も多く、真相はもっと別なものだと思うのですが、踏み込んだらキリはないようですね(^_^;)

東西の対立も激しかったですがまだあの時代、競い合い活気があったようですね。
ソ連が潰れ、アメリカも基本の敵を見失ったのか、なんか政治も経済も活気がないようですね。

投稿: KOZOU | 2009年4月 3日 (金) 21時45分

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