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2009年4月

2009年4月30日 (木)

私の心の記憶~実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

 1972年、あなたはテレビに釘付け、新聞を読みあさりはしませんでしたか?あのあさま山荘立てこもり事件にたんを発したと思われた赤軍派のことを。

 この映画は、日本赤軍との関係も深い若松孝二監督が、革命を叫ぶ若者のそばから1972年の連合赤軍・あさま山荘事件に迫る人間ドラマ。殺害される運命の遠山美枝子を坂井真紀、中心メンバーである永田洋子を並木愛枝、坂口弘をARATAが熱演。狂信的な連合赤軍メンバーの革命への夢が、悪夢へと至るプロセスが臨場感たっぷりに描かれます。壮絶なリンチシーンは目をそらしたくなるほど衝撃的ですが、それ以上に彼らの思いが圧倒的な力強さで表現されています。

 ことの発端は、ベトナム戦争、パリの5月革命、中国文化大革命Dorakuroa02 など、世界中が大きなうねりの中にいた1960年代。日本でも学生運動が熱を帯び、連合赤軍が結成されました。革命戦士を志した坂口弘(ARATA)や永田洋子(並木愛枝)ら若者たちは、山岳ベースを設置し訓練をはじめます。厳しい訓練に追い詰められ、メンバーによる仲間同士の粛正が壮絶を極めていきます。

 これは、理想の名の下に懸命に生きたのに、取り返しのつかない過ちを犯してしまった若者たちと失われた命の峻厳な記録です。60年代から70年代初め、この国を憂い、革命を夢見て起ち上がり、その反市民性ゆえ社会の闇へと追いやられた若者たちがいました。

 映画は客観的に事実を積み上げ、彼らを決して美化せず、ひたすら観念的に純化していく未熟な姿を時系列に追いました。やがて、数十挺の銃だけでは「革命」など実現しえないことに気づいたのか、欺瞞と不安を埋め合わせるかのように仲間の精神的な向上を追求し、その粛正は凄惨なリンチへ・・・当時はその猟奇性ばかりが喧伝されましたが、本作のカメラアイは、彼らが平和と他者の幸福を願った誠実な若者だった事実を伝えつつ、冷徹な眼差しと確かな愛情をもって批判的に捉え、慟哭しています。最後の銃撃戦の最中、最年少の高校生戦士の発するにもなだれ込んできます。あれから36年経った今も、戦うべきは「国家」なのでしょうか。いえ、何も考えず皆と同じだと感じることで安堵する個々の顔がない、ただ思いつきと思いこみで動き、消費に明け暮れる怪物・・・そう、国家も何もかもまるごと呑み込んでしまった「大衆」こそが撃つべき相手ではないかとさえ思えてきます。あの事件を正視してこなかったすべての日本人に向け、挫折した彼らの精神の中から希望のかけらを見出せないかと真の「総括」を問う、若松孝二渾身のメッセージをしっかりと受け留めなければならないでしょう。

 1972年2月、日本中がテレビに釘付けとなったのは5人の若者たち が、長野県軽井沢の「あさま山荘」に立てこもり、警察との銃撃戦を展開したからでした。彼らは、革命に自分たちのすべてを賭けた「連合赤軍」の兵士たち。その後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、日本の学生運動は完全に失速する・・・この時期まで学生運動が行われていた事など露とも知らなかった幼かった私に怒りさえ覚えました。あの時代に、何が起きていたのか。革命戦士を志した若者たちは、なぜ、あそこまで追いつめられていったのか。なぜ、同志に手をかけたのか。なぜ、雪山を越えたのか。なぜ、山荘で銃撃戦を繰り広げたのか。あさま山荘へと至る激動の時代を、鬼才・若松孝二が描くいた本作は、2008年ベルリン国際映画祭「フォーラム部門」招待作品に選出され、第20回東京国際映画祭「日本映画・ある視点」部門では作品賞を受賞しました。

 しかし、私の諸先輩達は、世で言うところの団塊の世代は、どの様に思い、今という時代を生きているのか私には想像も出来ないのだろうと思います。ただあんな形で学生運動が失速したと言っていいのでしょうか。

 この「実録・連合赤軍」はそういう地平で語れない、数多くの矛盾に満ちた日本の戦後史の重要な側面を語る映画であり、それは世界に影響を与えた政治運動の軌跡を記録した巨大なアーカイブスとなった事業だと思うのですが・・・

 何がすごいと思ったのか?と問われれば、連合赤軍が辿った一連の事件をなぞるだけでも膨大であるのに、この映画は、敗戦国日本が米国の覇権主義の手先となって、朝鮮やインドシナの戦乱への協力と引き換えに国際社会に復帰し、国内経済を復興してゆく過程を描き、日米安保制定、第二琉球処分(外国軍基地付き返還)、三里塚紛争という社会矛盾を敏感に感じ、学費値上げや待遇改善など身近な問題からその異議申し立てを始めた学生たちの意識の高揚と行動から、緻密に語っていることだ。誰も言わないけれど、連合赤軍が決して特殊ではなく、あの時代の誰もが〝わたしだったかもしれない〟と思わせる内なる事件だったことを浮かび上がらせる映画として、学校では絶対に教えてくれない日本戦後史のタブーを丁寧に駆け足で描いてゆきます。そして愚かで間違っていただろうが確かにそこにヒトが必死に生きていた姿を映画は的確に冷徹に語ってくれます。
 総括という名のリンチ殺人や山荘での銃撃戦など、連合赤軍の起こした事件の一つひとつは、はっきり云って「革命ごっこ」と馬鹿にしてもおかしくありません。それは太平洋戦争で「お国のため」「鬼畜米英」「神国」などと信じ込んで叫んだこととほとんど変わりはないように思えます(事後首謀者がのこのこ生き残っていたことも共通点として滑稽)。・・・運動の中身をどうこう云う資格はないけれど、日本の左翼運動の大衆化の可能性を急速に減退させた一連の事件をまさしく「日本史」として記録した映画であり、あの事件、あの時代に関心のある者には決して避けては通れない映画であると思います。

 連合赤軍は京浜安保共闘と赤軍派がコンジャンクションした組織であり、既成の左翼思想に物足りなさを感じた左翼大学生とそれに洗脳された専門学校生や高校生、労働者たちによって組織化されていました。しかし、トロツキズムを基盤とする共産主義がスターリニズム共産主義と如何に違っているのかを自分自身の理論として確立するには、専門学校生や高校生、労働者たちの学習量では追いつけなかったようです。(※日本共産党は反日共系を一派一絡げにして、全員トロツキストと呼んでいます。)
 悲劇はこの格差によって引き起こされますが、共産主義を具現化しようとして先鋭化していく連合赤軍という集団に、百姓の身分でありながら士道を追及するあまり、局中法度により仲間を切腹や斬首に追い込んだ新撰組をダブらせてしまうのです。そして、スターリンへのアンチテーゼでトロツキーを選択した連合赤軍が“スターリニズムの血のDorakuroa01粛清”を犯してしまう行為は、勇気がなかったといった
“1フレーズ”は映画内でも少年が叫び、実際には獄中で森が自分を総括しています。しかしこれだけでは解決出来ない筈です。
 連合赤軍メンバーの多くは所謂、一流大学の学生でした。中でも黒澤明監督作品の「わが青春に悔なし」でも題材にした京都大学の反権力、反骨主義が極左集団の知識の拠り所となりますが、そこには超一流大学の東京学、一橋大学、東京工業大学の学生は一人もいません。全員が旧・国立二期校、或いは早稲田、慶応という、超一流大学の滑り止め校へ進学した挫折感が鬱屈とした感情に構築され、それを満たすためにイデオロギーへ傾斜していったのでしょう。更なる無力感は連合赤軍たちが救済しようとした市井の一般市民たちによって警察機構へ通報され逮捕されたことにもあります。

 殆どの一般学生も積極的にデモ等に参加していた安保闘争は、映画の冒頭のドキュメントでも描かれている東京大学の学生だった樺美智子さんの死に見てとれます。彼女はラジカリストではなく、デモがある日にたまたま時間があったから参加したノンポリ学生に過ぎなかったということを聞きました。当時、“手には朝日ジャーナル、心に少年マガジン”という一世を風靡した言葉がそれを物語っているといえるでしょう。
 映画のクライマックスは浅間山荘攻防戦ですが、国家権力のエリートである東京大学法学部卒の幹部キャリア警察官の遠望深慮によって、この浅間山荘事件を宣伝材料と利用され、国民は左翼系学生運動自体を支持しなくなり、国家権力の中に取り込まれていくのです。日本の左翼系学生運動の終焉を意味したエンディングが見事な映画です。
 連合赤軍が渇望した共産主義は毛沢東の文化大革命やポルポト政権による自分の国の市民を大量虐殺に辿り着きました。人間は、必ず理想を求めては、いつも最悪のモノを生み出してしまう存在なのです。…共産主義を実現した国家は皆無に等しいのですから。

 とにかく考えさせられる映画でした。(と、ここでチャンチャンは無しです)

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2009年4月29日 (水)

私の好きな作品たち~『愛は静けさの中に』

 もう何年前になるでしょうか、この映画を劇場で観たのは・・・知っている方は少ないかもしれませんので、あらすじから・・・

 ジェームズ・リーズ(ウィリアム・ハート)は、片田舎の聾唖者の学校に赴任して来ました。11年生の7名の生徒を受け持つことになったリーズは、彼らと対面した後、食堂でサラ・ノーマン(マーリー・マトリン)という若く美しい女性を見かけます。校長Marimanntonn001 (フィリップ・ボスコ)の説明によると、サラは5歳の時からここで学び、昔は優秀な生徒だったが、今は学校掃除係をしているという。彼女に興味を抱いたリーズは、自分の殼に閉じこもろうとするサラを根気強く説得していきます。イタリアン・レストランで食事をした際、聞こえるはずのない音楽に合わせて踊るサラの姿を見たリーズは、かたくなに心を閉ざし続ける彼女をなんとか救いたいと、遠路はるばるサラの母(パイパー・ローリー)を訪ねました。そして、サラの姉の男友達とデートをするほどだった彼女が笑い者にされるなどして、心を閉ざしてしまったことを知ります。その事実をサラにぶつけたリーズは、彼女から、かつて姉の作ったリストの順番に従って男友達に求められるまま体を与えたことをうち明けられました。思いもかけぬ告白に心みだされつつも、サラを愛していることを知ったリーズは、人目をしのんで1人プールで裸で泳ぐサラのもとにいき、愛を告白、プールに飛び込みました。そして2人は、水深き沈黙の世界で、かたく抱き合うのだす。父兄会の席で、日頃の教育の成果を披露し、生徒達と手をとって喜ぶリーズ。そんな姿に嫉妬し興奮したサラは手に5針も縫うけがをしてしまいます。感情表現えお余りにすらないさらでした。校長に強く叱責されたリーズは、サラと一緒に暮らすことを決意します。サラと順調な同棲生活を続けていたある日、リーズは思わず彼女に自分の名前を呼んでくれるように語ってしまいます。かなわずとも遠き願いである禁句の一言を発したリーズの目の前で、心なしかサラは悲しそうでした。
 ある日、パーティで、経済学者で数学の天才の女性聾唖者マリアン・レッサー(リンダ・ボブ)に出会ったサラは、自分が無能力であることを痛感し、自分を哀れんで一緒に暮らしていると興奮してリーズに言い放つと、泣きながら夜の街に飛び出していきました。何日たっても母の許から戻ろうとしないサラを気にかけてリーズは、大学にいく資金を貯めるため美容院で働いていた彼女を窓越しに見ると、その場を立ち去りました。胸中を思うと胸が張り裂けんばかりの光景でした。家に帰り、リーズが来たことを母から聞いたサラは、卒業パーティで生徒達と別れの挨拶を交わすリーズの前に現われました。愛し合いながら離れ離れになった2人は自分のいたらなさを認め合い、永遠に手をとり合って生きることを、強く、それぞれの心に誓うのでした・・・

 これを観たとき、聾唖者の苦悩と絶望に胸打たれ、リーズのもとを去り、必死で美容師の道を歩もうとするノーマンにいたいけな気もちになった事を思い出します。

 そして耳が聞こえないとはどんなだろうとプールの中に身体うを沈め、何も聞こえない中に身をおいてみるリーズ・・・

 2人にはそれまでまるで違う生き方をしてきて、リーズは家に帰ると心地よい音楽を聞く週間があったのが、聞こえないノーマンには理解出来ず、そんなすれ違いの日々を送っていました。お互い時運の領域を侵されたくないという気持ちが、結婚当初はあったように思います。県下になって思わず口にした『ファッキュー』をノーマンはセックスしたいと勘違いをしてしまう始末・・・ノーマンはノーマンなりにこれではいけないという思いを募らせていたのでしょう。家を出る決心は高まっていき、一人立ちできるようにならなければ、何をやっても今までの繰り返しと考えたのでしょう。その過程は映像になっていませんが、いつも一人、プールの中に身をおいていた時、こんな事を決意させたのでしょう。リーズを愛していたから、彼女は変わったのだと私は思いました。

 一度でいいから名前を呼んでくれと願うー男と言葉の無い世界で深い愛に生きようとするー女・・・この言葉を意識しながら観ていくと、それぞれのキャラクターの内面がより理解できると思います。落ち着いた感じの映画ですが心に響く作品です。

 実際、聾唖者の方々は相手の言葉は口を見て理解できても、自分のからに閉じこもって、話せたらいいのに、とか、話して表現したいという希望を捨てている方が多いでしょう。手話が全てを表せるものだとは私にも解りません。

 私達は普通に生活していれば、聞きたい音も聞きたくない音も否Wiriamuhart002 応なしに耳に入ってきます。それは不快な音楽だったり声だったりするわけです。しかしこの音が無けれ人はコミュニケーションをとれません(特別な修練を積まない限り)。人と関わり合うことは恐らく一生続くだろうし、人間の本能とも言えるでしょう。会話をする時によく「沈黙が恐い」と言います。余り親しくない人との間に漂う何とも言えない気まずい空気。この映画はその空気を見事に表現しているシーンがあります。聾唖の女性学者に招待されたパーティーでの孤立感や、卒業パーティー(?)で再会した二人がベンチに腰掛けるあの距離感。沈黙は決して無ではなくその奥に爆発しそうな感情の固まりが蠢いているとサラは言いたかったのではないだでしょうか。「声にならない声を聞け」と。ちょっと野暮ったい気もしますが邦題の「愛は静けさの中に」というのは非常に的を得た表現だと思えてなりません。

 私の好きな作品の2位か3位にいつもいて、不自由な身体で生き抜いてる人々を常に忘れず、五体満足で生まれた事に感謝せずにはいられないのでした。

 ただ気になるのは、『相は静けさの中に』でラストに2人が会うシーンで終わっていますが、本当にハッピーエンドなのだろうかと、問いたい気持ちは残ったのですが・・・皆さんはどう思われましたか?

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2009年4月28日 (火)

私の好きな作品たち~トマス ハリス編

 『羊たちの沈黙』で一斉を風靡した原作者です。これ以前にレクター博士は登場しており、それが、『レッド・ドラゴン』です。

 内容は、かつて「人食い」ハンニバルこと殺人鬼の精神科医ハンニバル・レクター博士を逮捕したFBIアカデミー教官のウィル・グレアムは、目下世間を騒がせている一家惨殺事件の犯人を捜し求めていました。事件の全体図を把握しかねてReddragon001_2 いるグレアムは、なんとしても犯人の人物像を掴むべく、ハンニバルの収監されている療養施設へと赴きます。

 ハンニバルは、異常殺人鬼でありながら極めて高い知能を有しており、檻の中で料理や専門分野の書物を読み、科学雑誌にめざましい論文を執筆していました。ハンニバルのもとには、各地から彼を崇拝する様々なサイコ的人物からの手紙が届きます。その中には、殺人鬼の熱烈なファンレターも混じっていたのです。
 殺人鬼は、自分の持つ障害への劣等感や厳格な祖母へのトラウマに悩まされていました。しかしある日出会った、ウィリアム・ブレイクがヨハネ黙示録の情景に基づいて描いた水彩画『大いなる赤き竜と日をまとう女』に魅せられてしまいました。殺人鬼は「赤き竜」レ
ッド・ドラゴンを自分と同一視し、いつかは自分も竜になるのだと信じて凶悪犯罪を重ねていました。
 グレアムはハンニバルから殺人鬼のヒントを得て犯人を追い求めますが、同時にハンニバルはひそかにその殺人鬼と「文通」していました・・・。

 満月の夜に連続して起きた一家惨殺事件は全米を震撼させました。次の満月までに犯人を逮捕すべく、元FBIアカデミー教官のグレアムは捜査を開始します。彼は犯人像の手がかりを得ようと、以前連続殺人事件で逮捕した精神科医のレクター博士を、収容先の異常犯罪者専用の医療施設に訪ねた。犯人は次の殺害計画を練る一方でこうした動きを新聞で知り、グレアムをつけ狙い始める―究極の悪ハンニバル・レクター衝撃の初登場作。

 異常犯罪者とそれを追う捜査官というのは非常によくあるパターンですが、このシリーズはそこにある意味人間を越えた絶対的な存在としてのレクター博士を登場させ、犯罪者の方はそれに憧れ、捜査側はその力を借りて犯人に迫ろうとするというアイデアが素晴らしいと思います。レクターは凶悪な犯罪者で人肉まで喰らってしまう異常者であるのに、何とも言えない魅力も漂わせ、悪を憎む気持ちを持ちながらも知らず知らず惹かれていってしまうグレアムの苦悩も伝わってくるし、犯人の生い立ち、心理描写も緻密に作り込んであって本当に奥深い物語になっていると思います。最後の方では、少し犯人にも同情したくなるような気持ちにさせられました。
 タイトルの元にもなっているウイリアム・ブレイクという画家の描いた「大いなる赤き竜と日をまとう女」という絵にもすごく惹かれました。(実在の作品です)何とも言えない悪魔的な魅力を持った絵です。

 第2作目が『羊たちの沈黙』です。当然のことながら、89年、「このミステリーがすごい!」海外編でダントツ第1位になっています。
 小説と映画では、彼のかつての患者の一人であり女性を誘拐し皮を剥いでいるバッファロー・ビルに関する情報を得るため、若きFBI訓練生のクラリス・スターリングが、投獄されている社会病質の精神科医のもとに送られます。当初、クラリスと対面したレクター博士は「アカデミーに帰りなさい、クラリスお嬢さん」とすげなくあしらうのJodyfosuta ですが、彼女が囚人の一人に辱められたことに怒り、その非礼への償いとして最初のヒントを与えます。その後、クラリスの少女時代の記憶、秘められた過去の話と引き換えに、博士は彼女へ事件解決のアドバイスを与え続けていきます。白眉は、小説のタイトルともなった「子羊」とクラリスの関係が明らかになるくだりなのでしょう。
 この告白を聞いた博士は、初めてクラリスを「対等な存在」として接するのであり、博士の特徴たる丁寧な言葉づかいの一環である「ありがとう、クラリス」という言葉も、異なった重みを持って読者に響きました。
 作品を通して特徴的なのは、徹底して客観的な描写と綿密な科学的・医学的知識、それぞれの人物の精緻なキャラクター、破綻の無いストーリーです。クラリスとレクター博士との関係だけではなく、クラリスとアーディリアとの友情、クロフォードの妻ベラに対する愛情といった善の人間関係、あるいはバッファロー・ビルの倒錯した世界に見られる負の表現が、重苦しくも一種の荘厳さを以て、作品に迫力を与えました。

 そして『ハンニバル』は、トマス・ハリスの小説のハンニバル・レクター博士を主人公としたハンニバル3部作の3作目。『レッド・ドラゴン』『羊たちの沈黙』から続く完結編です。

 連続殺人犯バッファロー・ビルの逮捕を描いた『羊たちの沈黙』から十年後。FBI特別捜査官クラリス・スターリングは部下と共に麻薬組織との銃撃戦のなか、赤ん坊を抱いた組織の女ボスを射殺しました。そのことがきっかけでマスコミに叩かれ、FBI上官ポール・クレンドラーの嫉妬と執着も加わりFBI内部で窮地に陥ります。
 傷心のクラリスの元にハンニバル・レクター博士から慰めの手紙が届いきました。イタリアのフィレンツェが博士の居所と知り、逮捕に備えて密かに調査を始めます。その一方で博士による診療中、自らの顔面を犬に食わせ、瞼さえも無いままに寝たきりの身にされた大富豪のメイスン・ヴァージャーは、素顔を見せては恐怖に怯える少年の涙を冷蔵保存し、それをすすることで自らを慰めながらも、特別に交配し空腹の時には人間さえも食うように訓練した凶暴な豚を飼育し、機会があれば博士を食わせようと懸賞金をかけて復讐を企てていました。
 他方、イタリアの名家出身のパッツィ刑事は、ひょんなことからレクター博士を発見し懸賞金に加えて手柄を立てようと試みるますが、逆に博士に見破られ非業の死を遂げます。
 イタリアから逃亡した博士とクラリスが必ず接触するであろうというメイスンのもくろみは的中し、博士を拉致することに成功します。
捕らえられ拷問を受ける博士は痛みを堪えるべく色鮮やかな記憶の回廊に逃避・・・。そこへ博士を救出・逮捕すべく現れたクラリス。
彼女の奮戦によって博士は窮地を脱するが、怪我を負い博士の治療を受けます。博士を殺害し損ねたメイスンは、博士によって心の枷を
解かれた妹(かつて彼女はメイスンに性的虐待を受けていた)によって殺されます。メイスンと通じ、クラリスを窮地に追い込んだクレンドラーは博士の手に落ち、自分の脳を食わせられるという罰を受けて殺されました。
クラリスは博士に治療を受ける中で、父の死という心の傷を博士によって癒され、博士も幼少時に失った妹の存在をクラリスに重ねることにより、彼の心の傷も癒されていたのです。クラリスは博士から二度と解けることのない暗示をかけられ、そのまま2人で暮らし始めるのでした。この結末には思わず、頷いていた私なのでした。

 その後、『ハンニバル・ライジング』があるのですが、残念ながら読んでいません。何でも、ハンニバル・レクター博士の幼少期・青年期を描いた作品だそうです。どういう生い立ちをしてきたか、とても興味深いのですが、怖い、ひょっとしたら一番怖いかもしれません ね。

 トマス・ハリスは、地方紙「ニューズ・トリビューン」の記者ののち、ニューヨークのAP通信社でレポーター兼編集者となり、この間に犯罪の世界に関して貴重な洞察を得、のちに最初の小説を書くきっかけになったそうです。パレスチナゲリラによる、スーパーボール会場への飛行船によるテロという奇想天外なアイデアで、1975年『ブラック・サンデー』を執筆。ベストセラーとなりました。なお、同作品は映画化もされましたが、パレスチナ問題という微妙な問題を扱っていたため、日本では公開直前に中止に追い込まれました。

 大衆の前に姿を現すことがなく、非常に謎の多い人物だそうです。30年の作家生活で作品はこれら5作しかないという、寡作な作家です。

作品は全て映画化されていますので、GWどこにも行かない方は是非ご覧下さい。

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2009年4月27日 (月)

ちょっと気になる作品たち~松岡圭祐編

 実はこの方、TVに出ていたころから存じませんでした。ベストセラーを探していてたまたま、連休もあることだし、ディズニーのことでも書いてみようかと資料を探していた時、多くの作品が注目を揚げている松岡さんの作品に出会いました。

 1997年10月に、小説『催眠』を発表。この作品はシリーズ化されることになりました。同シリーズは、催眠現象の実体を描いたものです。1999年5月に、小説『千里眼』を発表し、同様にシリーズ化された。元航空自衛官で臨床心理士の岬美由紀というヒロインが登場するシリーズで、北朝鮮の工作船や同時多発テロ・イラク戦争など、国際的時事問題を盛り込んで、それを松岡流の料理の仕方で見せるのが特徴です。『催眠』『千里眼』とも、それぞれ第一作は映画化されました。

 でも私が注目したのは、『ミッキーマウスの憂鬱』でした。東京ディShagaru004 ズニーランドでアルバイトすることになった21歳の若者。友情、トラブル、恋愛…。様々な出来事を通じ、裏方の意義や誇りに目覚めていくというお話です。秘密のベールに包まれた巨大テーマパークの“バックステージ”を描いた、史上初のディズニーランド青春成長小説といえるでしょう。ディズニーランドに派遣されることになった派遣社員・後藤。 夢と希望の国に対する情熱にあふれているものの やることは微妙にからまわり。 憧れの場所で働くうちに、その内情を知り、失望するのですが・・・

 暴露本?と思うほど、リアルに描かれるディズニーランドの舞台裏。 正社員と準社員の間の争いや、そこで働く人々の軋轢を描きながら ミッキーマウスの着ぐるみ紛失という「事件」が描かれます。 後藤はちょっとずうずうしくて、夢見がちな主人公ですが ディズニーランドへのあこがれがいっぱいで、 ディズニーランドの内幕を知る感想は、共感させられました。 読後は「青春小説」のあおりにふさわしい、さわやかな印象です。  あまりにドラマチックな展開や、子供っぽい主人公には、読んでて恥ずかしくなってしまいますが、読み終えた後、仕事に対する熱い気持ちが湧いてきました。自分もディズニーランドで仕事してみたい、もしくは、それぐらい楽しく仕事に気持ちを注ぎたいって思いました。
 でもこの話は子供たちにはしないほうがいいですね。子供にとってミッキーやミニーはあくまでミッキーとミニーなのですから。

 また『千里眼』シリーズの『優しい悪魔』はスマトラ島地震のショックで記憶を失ったインドネシア人女性。その莫大な財産を独占しようとする弟が片っ端からあたった記憶快復療法の可能性は2つに絞られた。不可能を可能にするメフィスト・コンサルティング・グループ
のダビデなる男、そして千里眼の異名をとる岬美由紀。今、ここに因縁の2人の運命が交差する。歴史を意のままに操るダビデの隠された日常と生い立ちが初めて明かされる、書き下ろし新シリーズ第9弾。下巻では岬美由紀を亡き者にせよとメフィスト本社から最後通告を受けたジェニファー・レイン。さもなくば自身が闇に葬り去られる。ついに二人の正面きっての対決の時。ジェニファー・レインの最後の48時間が幕をShagaru011 開けた・・・。 毎回の如くスピード感があり、良く練られたプロット、読者さえ騙すギミック。 感動あり笑いありのまさに娯楽小説様様です。 ついに、謎のイタリア人ダビデの正体が明かされます。 なぜ、いつも美由紀の前に現れるのか? そして、ジェニファー・レインとの決着。 美由紀の新たな旅立ちを予感させるラスト。 千里眼シリーズの総纏め的な作品になってます。 ただ、上下二巻に分ける必要があるのか?と大人の事情に突っ込むのは野暮なのでしょうか。

 『千里眼とニュアージュ 完全版』でも 謎多き町で恵梨香はダビデと出会います。 一方、IT産業の帝王・陣場輝義は、埋蔵金発掘プロジェクトを推し進めていた。巨額のカネをめぐる熾烈な利権争い。その果てに、美由紀が地下200メートルで見た""真実""とは!?

 『催眠』は、ある嵐の晩、ニセ催眠術師・実相寺則之の前に突然現れた色白の女。稲光が走り雷鳴がとどろく中、突如女は異様にかん高い声で笑い出し、自分は宇宙人だと叫び始めた──肝を潰す実相寺の前で、その女が見せた異常な能力とは? そして女の前に現れた東京カウンセリング心理センターの催眠療法科長・嵯峨敏也が見抜いた女の能力の秘密とは? 複雑な精神病理と医療カウンセリングの世界を一級の娯楽作品に仕立てた話題のベストセラーです。

  ああ~読みたい!!きっと期待にこたえてくれるでしょう。

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2009年4月26日 (日)

私の好きな作品たち~国木田独歩編

  国木田氏といえば『武蔵野』と答える私。独歩の規定する武蔵野とは狭義では雑司が谷から入間、立川までの範囲でその中に所沢や田無(西東京)、そこから布田、登戸を挟んで下目黒の範囲となっています。昨年、西東京市の周辺環境を眺めた時、最初に思い浮かんだのが本書「武蔵野」ででした。クヌギ等の雑木林が鬱蒼とOgura_work08s 茂り、なぜか散歩したくなる武蔵野は確かに日本全国を探してもこの武蔵野地区にしかありません。
 東京のベットタウンとして開発され尽くした感のある同エリアですが、大阪等の大都市と比較しても圧倒的な緑を大切にし一種のグリーンベルト的な存在として名残を残しているのは、住民が武蔵野を心から大切にしていることの裏付けだと思います。今後もこの武蔵野を大切にし、孫の代になって孫が散歩する時、国木田独歩の武蔵野を思い浮かべるよう、この自然を残していきたいものです。

 『武蔵野』は、私にとって、最良の本の一つです。『武蔵野』は、国木田独歩が、失恋の不幸を味わった後、明治29年の秋から翌年(明治30年)まで、その心の傷を癒すべく、当時は水車の村であった渋谷で生活した際、自分が見た自然を言葉で残した作品です。こ
の本の中で、私が大好きな一節を、以下に御紹介します。

--自分が一度犬をつれ、近所の林を訪い、切り株に腰をかけて書(ほん)
  を読んで居ると、突然林の奥で物の落ちたやうな音がした。足もとに
  寝て居た犬が耳を立ててきっとその方向を見詰めた。それぎりで有っ
  た。多分栗が落ちたのであらう。武蔵野には栗の木も随分多いから。--

  (国木田独歩『武蔵野』より)

 何と美しく、静寂な世界でしょうか。--かつて、こんな世界(自然)が、本当に有ったのです。--独歩は、この様な静寂の世界で、神を身近に感じていたのに違いありません。田園や雑木林の描写も美しくて、 今は消え去った東京郊外への憧れがかき立てられます。 玉川上水へのピクニックと冬の雑木林の描写が気に入っています。 独歩は女っ気もなく、ひたすら田舎歩きが好きだったようです。
 

 『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』は、近代的短編小説の創始者独歩の中・後期の名作を収録。理想と現実との相剋を超えようとした独歩が人生観を披瀝する『牛肉と馬鈴薯』、酒乱男の日記の形で人間孤独の哀愁を究明した『酒中日記』、生き生きとした描写力を漱石がたたえた『巡査』、ほかに『死』『富岡先生』『少年の悲哀』『空知川の岸辺』『運命論者』『春の鳥』『岡本の手帳』『号外』『疲労』『窮死』『渚』『竹の木戸』『二老人』が収録されています。自然なるもの、この世において唯一無二のもの、ごく当たり前で童の思考のようですが、「習慣(カストム)」によって意識することさえなくなる、非常に重要なことに気づかされました。どことなく、運命論や西洋的な思考が漂っている気がします。

 ここで自己紹介。幼名を亀吉、のちに哲夫と改名しました。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがあります。 田山花袋氏、柳田国男氏らと知り合い「独歩吟」を発表。詩、小説を書きましたが、次第に小説に専心。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後『運命論者』『竹の木戸』などで自然主義の先駆とされる。また現在も続いている雑誌
『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されています。

 1892年2月から1994年の2年間柳井に居住。 1893年2月3日、没後出版されることになる日記『欺かざるの記』を書き始めます。 同年、蘇峰に就職先の斡旋を依頼。蘇峰の知人でジャーナリストの矢野龍渓から紹介された、大分県佐伯の鶴谷学館に、英語と数学の教師として赴任し(1893年10月)、熱心に教育を行います。でもGohho54 、クリスチャンである独歩を嫌う生徒や教師も多く、翌1894年6月末に退職。
 同1894年、『青年文学』に参加。民友社に入り徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となる。この年起きた日清戦争に海軍従軍記者として参加し、弟・収二に宛てた文体の「愛弟通信」をルポルタージュとして発表し、「国民新聞記者・国木田哲夫」として、一躍有名となりま
した。帰国後、日清戦争従軍記者・招待晩餐会で、キリスト教婦人矯風会の幹事 佐々城豊寿の娘信子と知りあう。熱烈な恋に墜ちるのですが、信子の両親から猛烈な反対を受けてしまいます。信子は、母豊寿から監禁されたり他の男との結婚を強要されたといいます。

 独歩は、信子との生活を夢見て単身で北海道に渡り、僻地の田園地帯に土地の購入計画をする。「空知川」はこのことを綴った短編です。
 1895年11月、信子を佐々城家から勘当させることに成功し、蘇峰の媒酌で結婚。逗子で二人の生活が始まったが、あまりの貧困生活に耐えられず帰郷し両親と同居します。翌年信子が失踪し協議離婚となり、強い衝撃を受ける。この顛末の一部はのちに有島武郎によって『或る女』として小説化された(偶然ですがが同作には鳩山和夫がモデルの人物も登場する)。なお、信子側からの視点では、信子の親戚の相馬黒光が手記「国木田独歩と信子」を書いており、独歩が、理想主義的ではあったがその反面、かなり独善的で男尊女卑的な人物であったことが、記されています。 

 二葉亭四迷の訳「あひゞき」に影響され、『武蔵野』(「今の武蔵野」改題)「初恋」などを発表し、浪漫派として始まる。1901年に初の作品集『武蔵野』を刊行しますが、当時の文壇で評価はされませんでした。さらに「牛肉と馬鈴薯」「鎌倉夫人」「酒中日記」を書きます。1903年発表の『運命論者』『正直者』で自然主義の先駆となりました。そして、独歩は自然主義運動の中心的存在として、文壇の注目の的になっていたのでした。

 短編が多いので古書扱いかもしれませんが、他の作品も少しずつ読んでおおらかな気持ちになりたいと思います。

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2009年4月25日 (土)

私の好きな作品たち~ギュスターヴ・フローベール

 若い頃は解った気になって、読んだのですが、さすがに難しい・・・と思っていました。そこでまた『ボヴァリー夫人』を読み返し、新たな思いを感じることができました。

 文学上の写実主義(リアリズム)を確立し、その系譜はギ・ド・モーパッサンに引き継がれました。でもl、それにとどまらず、多くの後世の作家に影響を与え、バルガス・リョサ、ウラジミール・ナボコフ、ヌーヴォー・ロマンの作家たちはその言語による創造に言及します。サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』は、よく知られていますね。日本での研究者には、中村光夫氏や蓮實重彦氏がいらっしゃいます。
 現実におこった事件を題材にした『ボヴァリー夫人』(1857年)は、写実主義文学の傑作とされます。その『ボヴァリー夫人』は、雑誌連載終了後、風俗紊乱の罪に問われ裁判となりますが、結局は無罪となりました。

 田舎の医者シャルル・ボヴァリーの妻、エンマ・ボヴァリーがヒロMyusha001 インとなり、平凡な生活から抜け出そうと無謀な恋に走り、破綻に陥るまでを描いた作品です。自由間接話法や非主観的視点など、現在の小説の技法のほとんどが使われているといわれました。 実際にあった事件をモデルに、写実主義的な手法で描かれた傑作です。『親和力』の無自覚的な乳幼児に対する冷酷な扱いに対し、「《女性美》のアウラを演出する小道具ないしはフェティッシュとしての乳幼児」の扱いの冷酷さを、自覚的に描写しているのがフロベール『ボヴァリー夫人』なのです。

事実、ウラジーミル・ナボコフやバルガス・リョサ、ヌーヴォー・ロマンの作家たちも高く評価しています。 中でもシャルル・ボードレールが発表した書評には、フローベールがいたく気に入り、よくぞ理解してくれたと喜びと感謝で満ち溢れた手紙を送っています。

 フローベールは執筆前に、物語の重要な舞台であり故郷でもあるフランスのルーアンを歩き回り、非常に詳細に記録した取材ノートを残しています。「ボヴァリー夫人」を読みながらルーアンを歩くと、風景描写がかなり正確であるのに驚くそうです。エンマが逢瀬を重
ねていた大聖堂や彼女を破滅に追いやった薬剤師のモデルとなった家は、今日も世界中から大勢の観光客が訪れています。主人公エンマのように理想と現実のギャップに苦しむ状態は、ボヴァリスムと言われるようになりまた。

『懐妊を知った)エンマは最初大きな驚きをおぼえた。やがて、早く産んでしまって、母になるとはいったいどんな気持か味わってみたくなった。しかし、存分に金をかけて、ピンクの絹カーテンのついた舟型の揺籃や、刺繍した赤ちゃん帽を買うことができないので、むかっ腹をたてたエンマは、赤ん坊のお支度一式を念入りに取りそろえるのをあきらめて、選り好みもせず、夫に相談もぬきにして、村の仕立屋のおかみへ一括注文してしまった。そんなわけで彼女は、母性愛が徐々にかき立てられる、あの出産の準備段階をじっくり楽しむ機を逸した。エンマの愛情はおそらくそのために子どもの顔を見る前からいくらか弱められたのである。』

 この節は怖さは今なおアクチュアルだと思います。エンマが産んだ新生児はただちに里子に出されますが、突然子供に会いたくなったエンマは「産後六週間の安静期間が済んだかどうか暦で確かめもせずに」外出したところ、互いに憎からず思っているレオン青年とたまたま出くわし、乳母の家まで同行することになります。乳幼児の養育が「責任と能力を要する大事な仕事」と広く認識されるに至ったのは20世紀に入ってからだった、と、確かどこかで読んだような。それまでは、女性が「乳幼児の母」たることによってなにがしかの自己愛の満足を得ようとするならば、赤子を抱いて「聖母マリアの活人画」を気取ってみるくらいが関の山だった、ということかもしれなません。
  フランス印象派の画家ドガは、生涯独身をとおし、周囲の人間に対する辛辣な警句と、もの事についての皮肉まじりの寸評によって、人間嫌いであったと言われています。そのため、ドガの私的な生活を知る者は少ないのですが、画家の晩年に、身辺の世話をした姪ジャンヌ・フェブルの回想録は、ドガの人間像とその芸術を考えるうえで貴重な証言となっています。ドガの書斎へも自由に出入りした彼女は、整然と並べられた蔵書を目にします。そこには、コルネイユやラシーヌなど古典の戯曲から、同時代の作家モーパッサンの小説にいたる多くの書物があり、私たちはジャンヌの記憶の糸を手繰りよせながら、文学好きで、また実際にいくつかの巧みなを残す詩人でもあった、画家の文学遍歴を辿ることが出来るのです。しかし、彼の絵画に比較して多少饒舌であると思われました。舞台の踊り子や競馬場の馬を題材に彩った誌の霊感の源泉や、友人たちへの書簡や警句に散在する、文学的な内容についてあれこれ詮索することは、ドガ芸術の本質を理解するうえで、あまり有益なものではないでしょう。ただジャンヌは以下のような、見逃すことのできない証言を残しているのです。「ドガはフロベールをとても賞賛していました。書斎に並べられたフロベールの小説を、彼は繰り返し読むことを楽しみにしていたのです。そのなかにはフロベールの書簡集もあり、クロワッセにおいて書き綴られたルイーズ・コレ宛の孤独な手紙の一節などはほとんど暗誦していた程です。 ルイーズ・コレは、フロベールより11歳年上の女流詩人で、彼が愛した女性のひとりです。」フロベールは『ボヴァリー夫人』を執筆中、数多くの手紙をその文学的隠遁の地、ルーアン近郊のクロワッセからルイーズに書き送りました。書簡には、彼女に会えない寂しさを訴えたものから、意外なほど悪戯っぽい彼の性格を伺わせる冗談などがちりばめられていますが、フロベールのそうした個人的な苦痛や快楽以上に興味深いのは、『ボヴァリー夫人』の草稿を前にした文学者としての頻闘の言葉です。

フロベールは遅筆な作家でした。しかし、『ボヴァリー夫人』を完成させるのに5年の歳月を掛けた時、彼は文学史上まれにみる、人間感情のリアルな表現を獲得していたのです。   それは平凡な現実を平凡なまま描くということでした。彼の小説には、英雄的な行為を誇示する主人公も、高尚な修辞法による慇懃な描く写も見い出すことはできません。1852年1月16日付のルイーズ宛書簡には、「美しい主題とか醜い主題というようなものは存在しない、(中略)文体はそれ自体で、ある絶対的なものの見方なんですから。」(『ボヴァリー夫人の手紙』工藤庸子編役・筑摩書房・1986年)ある美術史家は、ドガの肖像画を論じて、もっぱら身内をモデルにした画家ドガにとって、肖像画というジャンルは、もはや個人の社会的立場や性格・心理を表現するものではなく、むしろ人間の動きや周囲の状況といった対象をとりまく雰囲気を表現するための言い訳に過ぎず、誰が描かれているのかということ以上に、人物の色彩の微妙な感触、複雑な構図による大胆な画面構成など、どの様に描かれているのかということが重要であり、すでに肖像画というジャンルは、彼のなかでは崩壊していたのだというのです。ここで、絵画における表現様式(どう描くか)を小説の文体(いかに描くか)に置き換えてみると、フロベールは、すでに印象派を予言していたと言えるのではないでしょうか。そう考えながら、ドガの絵画をもう一度ゆっくり見ていくと、彼のルネサンス絵画の模写、プッサンやアングルなどへの敬意の真意は、実は伝統のなかに培われた技法への配慮であり、私達は、悪戯に伝統を墨守するあまり、伝統の本質を見落として、表向きの尊敬と皮相な模倣によって、剽窃による折衷主義に陥った同時代の多くのサロン画家と、ドガを明確に切り離して考えねばならないのだろうと思います。

 『感情教育』は、19世紀も半ば、2月革命に沸く動乱のパリを舞台に多感な青年フレデリックの精神史を描く。小説に描かれた最も美しい女性像の一人といわれるアルヌー夫人への主人公の思慕を縦糸に、官能的な恋、打算的な恋、様々な人間像や事件が交錯していきます。ここには、歴史の流れと人間の精神の流れが、見事に融合させられています。フローベール最円熟期の傑作。大学に入るためパリにやってきた主人公が出会うのはアルヌーという美術商の妻。「アルヌー夫人」という人の妻。この2人を囲む、その仲間の気まぐれな青年たちと大人たち、それにパリが横糸。縦糸には気まぐれな偶然と歴史です。 フレデリックに絡むのはアルヌー夫人だけではありません。娼婦やブルジョワの貴婦人、幼なじみとの関係が交錯。恋と同じでフレデリックは、法律Resonance222 家になる、詩人になる、思想家になる、政治に身を投じる、と態度を目まぐるしく変貌させます。友人たちと政治談議をしたり遊興に走ったり、娼婦のもとに通ったり。きっと才智もあるのでしょうが「生一本でやらない」から成功しない。情熱も行動力も、転がり込んだ遺産もあるのに、彼はそれ以上何も手にできない。それに周りの青年たちも、みじめな日常にすり減らされ同じように埋没してしまいます。主人公の性格は、一言で言って「浮薄」。バルザックやロシア文学の主人公のような強迫観念じみた激しい感情=思想=理想が無いのがこの人の特徴です。いつの時代にも、どこにでもいる人物。何らかの理念と繋がっている倫理的葛藤や性格的偏執がありません。
 したがってその行動は、ひたすら周囲に流され、場当たり的で、態度はどこか傍観者的なものに思えます。だからこの小説には劇的場面があまり無いのではないのではないのでしょうか。美しいが無意味な描写が抑揚無く続く箇所が多く、こういう性格の主人公を、あえて革命と不倫という人間社会における最も激しい感情・思想・理想の葛藤と、強迫観念じみた偏執の争闘劇に遭遇させてみようというのが作者の趣向なのでしょう。人を食った趣向ではありますが、その結果作品の基調は、革命と恋愛の一切を喜劇として没理想的・シニカルに描くものになっています。それが最も良く出ているシーンは、革命宴会の場面です。どの理想家も聖人じみた人物も実務的に誠実に世を変えようとする人も、みな卑小でみみっちく滑稽に描かれています。この作品は人間に絶望し、社会から自己疎外してきたインテンツ型人間フローベールが、思う存分、この世の全て、全ての人間を嗤ってみせることで憂さを晴らそうとしたものです。

 革命と恋愛の持つ祭りの要素ー人と人との間の壁が一時的に崩れ落ち融和されるような気持ちーと、その融合感に魅せられる人間の孤独心と押し潰されてきた自尊心とが、犀利なタッチで抉り出され意地悪く嗤われています。人生と歴史の「華」である、恋愛と革命とが共に嗤われているのです。でも、作者の芸術家としての腕前が最高度に発揮された作品でもあります。したがって思わず陶酔させられてしまうシーンは多くありました。カタカナの名前が覚えられない私でも結構読めちゃいました。でもちょっとしんどいですね・・・

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2009年4月24日 (金)

私の好きな作品たち~志賀直哉編

 志賀直哉氏といえば誰もが『暗夜行路』や『城の崎にて』 を思い浮かべるでしょう。私もそうです。

 現在奈良県奈良市高畑町に旧邸宅が「志賀直哉旧居」として保存されており見学を行うことができます。1925年に京都山科から奈良市幸町に引っ越してきた志賀氏は、奈良公園に隣接し若草山の眺望も良い高畑に居宅を1929年に建設しました。この際設自ら設計に携わり、1938年から鎌倉に移り住むまでの10年間を家族と共にこの家で過ごしました。数寄屋造りに加え洋風や中国風の様式も取り入れており、洋風Kaii13 サンルームや娯楽室、書斎、茶室、食堂を備えたモダンかつ合理的な建物ででした。志賀氏はここで「暗夜行路」のほか「痴情」、「プラトニック・ラブ」、「邦子」などの作品を執筆したそうです。
志賀氏を慕って武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄、若山為三、小川晴暘、入江泰吉、亀井勝一郎、小林多喜二、桑原武夫ら白樺派の文人や画家・文化人がしばしば訪れ、文学論や芸術論などを語り合う一大文化サロンとなり、いつしか高畑サロンと呼ばれるようになりました。書斎や2階の客間からは若草山や三蓋山、高円山の眺めが美しく、庭園も執筆に疲れた時に散策できるように作られています。

 生前、東大寺別当の上司海雲とは特に親しく長い付き合いをしていたそうで、奈良を去り東京へ帰った後も「奈良はいい所だが、男の児を育てるには何か物足りぬものを感じ、東京へ引っ越してきたが、私自身には未練があり、今でも小さな家でも建てて、もう一度住んでみたい気がしている」と奈良への愛着を表しています。 志賀氏のサロンの一部は上司海雲に引き継がれていきました。

 白樺派の作家であるが、作品には自然主義の影響も指摘されます。無駄のない文章は小説の文体のひとつの理想と見なされ評価が高く、そのため作品は文章修業のための模写の題材にされることもあるほどです。芥川龍之介氏は、志賀氏の小説を高く評価し自分の創作上の理想と呼びました。当時の文学青年から崇拝され、代表作「小僧の神様」にかけて「小説の神様」に擬せられていましたが、太宰治氏から長篇小説『津軽』の中で批判を受けて立腹し、座談会の席上で太宰を激しく攻撃、これに対して太宰氏も連載評論「如是我聞」を書いて志賀氏に反撃したことがありました。これは有名な話なのでご存知だと思いますが、小林多喜二氏は志賀直哉氏に心酔しており、作品の評を乞うたこともありますが、多くのプロレタリア文学作家が共産党の強い影響下にあることを指摘して「主人持ちの文学」と評し、プロレタリア文学の党派性を批判しましいた。

こういうことはともかく、
 
 作品『暗夜行路』は、志賀直哉唯一の長編小説で晩年の穏やかな心境小説の頂点に位置づけられる作品で四部構成になっていますね。
祖父と母との過失の結果、この世に生を享けた謙作は、母の死後、突然目の前にあらわれた祖父に引きとられて成長する。鬱々とした心をもてあまして日を過す謙作は、京都の娘直子を恋し、やがて結婚するが、直子は謙作の留守中にいとこと過ちを犯します。苛酷な運命に直面し、時には自暴自棄に押し流されそうになりながらも、強い意志力で幸福をとらえようとする謙作の姿を描いた作品です。

 特に最初の方は芸妓を相手に友人と遊んでいるだけで一体それを通して何を書きたいのかが、なかなか読み取ることができませんでした。途中の展開でも、ここまで細かく主人公の心情を描いて何をしたいのか、と感じる部分も多く見られました。しかしそれでも不思議と退屈だと感じずに最後まで小説を読み進めることがでます。その理由はさっぱりわからないのですが、あるいは淡々とした文章のリズムと、主人公の心理描写を自然体で描いていることが大きいのかもしれないとも思えました。そんな起伏に乏しい作品ではあるのですが、もちろん山となる部分も存在します。そのひとつが主人公の出生の秘密とおとの関係なのでしょう。この小説を恋愛小説だと言う人もいるらしいのですが、、それも一面では正しいと感じさせる流れですね。
 若者らしく性欲にふりまわされながら、自身の一番親しいお栄に思いを告白する流れが、淡々とした心理描写で描かれており、それが丁寧で読ませる力があるのです。それに伴う謙作の不愉快も、栄花を通して抱く「一人の人が救われるという事は容易な事ではないと思った」という感慨も、胸にすっと染み込んでくるようで滋味深いものがありました。

 後篇の妻の不義という展開は前篇よりもシリアス度が増して読ませる力があります。
不義を許そうと思いながら、それをどこまで許せているのか自分でもしっかりわかっていない主人公の心理と、自分は許されないのではないか、というひがみを持っている妻の直子との微妙な葛藤が適度な緊張感が生んでおり、スリリングに読むことが出来ます。
 子供の死という事件も踏まえた丁寧な展開と描写のため、夫婦の緊張感がより伝わってくるのが大変興味深い作品に仕上がっている気がします。

 そして主人公が大山に行くことで、夫婦の間で心情の変化が生Kaii003 まれる流れがじんわりとした感動を呼んでいます。まだ妻の不義を疑う気持ちはあるけれど、相手を思いやる心の様子は温かく、妻のラストの思いもさわやかで読後感も嫌な気分になりませんでした。
 自然と一体化する、ある種悟りの境地に似た主人公の山での場面も、真の意味での赦しと救いを見るようでした。
 志賀氏の作品は「私小説」「心境小説」などといわれる我が国特有のジャンルに分類されます。この系統の作品は色々形を変えて書き継がれていますが、残念ながら質は低下するばかりで、現在では先行作品を読まずに誰でも書ける薄っぺらなカラオケ文学の台頭を許している状態です。大江健三郎氏や谷崎潤一郎氏の作品のように物語を追求した文学は確かに面白いですが、虚飾を排し人間の存在をそのまま鏤刻したような文学も素晴らしいものです。若い人たちも食わず嫌いせずに、こうした作品の本質的な素晴らしさを知って頂きたいと思います。

 また、『城の崎にて』『濠端の住まい』は、高等学校の頃、国語の時間に読まされた人も多いと思いますが、時を経て、成人して大分経ってから読んでみると別な意味で感慨深いものになります。よくこんな、話にもならない事が小説として、読ませるものだと、改めて信じ難い作品に感嘆。それも、自然な流れで、充実した時間を経過した後の満足な読後感が凄いです。それと、志賀氏は動物が好き、というか、気になる方で、動物が困ったり右往左往したりする、そんな状態を子供のような興味の目線で、見事に描写します。決してサディスティックな病的なそれではないのですが、なんか、動物がやっつけられているような、そういう状態が気になるらしい心の清い方のような気がします。そこから、「生」のなにかが、説明ではなく、訴えかけてくる。かといって、詰まらない「意味付け」などは行わず、ただ、「経過」として、それが描かれ、その描写が、主人公=作者=読者の意識の推移を共にする・・・「小僧の神様」は、下手をすると小学生のときに読まされかねない作品だが、理解するのはまず無理だと思います。一体に、志賀氏の小品は優しそうにみえますが、或る年齢を経ないと、頭の問題ではなく、理解は出来ないと思うのです。「小僧の神様」は確かに「小説の神様」の名に恥じない作品です。「雨蛙」は、志賀自身が、やや、失敗したところもある事を別な文章で述べており、阿川弘之氏の「志賀直哉」にもその辺りの事は書かれていますが、数回読んだ感じから言うと、若干、終盤の実家に戻る場面は、聊か作り物めいてもいるが、気になるというほどでもありません。私は個人的には、「邦子」(本書未収)とともに、志賀直哉氏らしくない作品で、やや「暗夜行路」の終盤の片鱗に通じる作品として、好ましいほうです。「雨蛙」を、川端康成Kaii4 が絶賛していたとのことも、さもありなんと思う。川端氏なら、若い妻「せき」の初心なようで底知れない「女」の面と、意表を衝かれての驚愕が、同時に、せきに対する「いとをしさ」になる主人公の気持ちを、もっと鋭く審美的に書いたような想像も出来るので、だから、ある面、志賀の表現が野暮ったい気もします。が、むしろ、その野暮ったさ、下手さ加減(?)が、私には却ってリアリティを感じるし、「何時かあった話」として、真摯に耳を傾けることができました。 私小説の衰退は純粋に作家の才能に帰すべき問題ですが、残念ながらジャンルそのものへの批判に繋がることも多く、本作のような古典的名作を必要以上に敬遠させる要因にもなっています。大江健三郎や谷崎潤一郎の作品のように物語を追求した文学は確かに面白いです。でも、虚飾を排し人間の存在をそのまま鏤刻したような文学も素晴らしいものです。若い人たちも食わず嫌いせずに、こうした作品の本質的な素晴らしさを知って頂きたいと思います。

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2009年4月23日 (木)

私の好きな作品たち~有島 武郎編

 また、古い小説を引っ張り出して、読みふけっていました。そこに有島 武郎氏の『或る女』がありました。そして『小さき者へ・生れ出づる悩み』も掘り出しました。どちらかというと後者のほうが記憶にあって『或る女』は私が幼くて読むには早過ぎたように思います。
 『小さき者へ・生れ出づる悩み』、は「前途は遠い、そして暗い。しかしおそれてはならぬ、恐れぬものの前に道は開ける。行け、勇んで、小さきものよ」と言われる通り、自分を小さき者と思うことで、自分を過大に評価しすぎなかったことが出来たのだと思います。そう、昔はこの言葉にどれだけ勇気を貰った事か・・・

 深く生きることについて考えさせられた作品でした。表題作二編は息子と、画家を志す友人へのメッセージとなっています。両作品の最後、 行け。勇んで。小さき者よ。と、 君よ!と、強く訴えかける部分は深く感動させられます。
 これから強く歩んでいかなければならない息子たちに、画家を志すにも周囲の環境がなかなか許さない友人に、強く、夢をあきらめずに進んでいってほしい。その思いが文章の中に溢れ出ています。
 今、メディアなどで学生の自殺の問題が大きく取り上げられていますが、この作品はそれらの人生に悲観している人たちを勇気づけるのに十分ですし、こんなことがいえるのか解りませんが、生きる事の素晴らしさを感じさせてくれます。 読んで損は無いです。というか、是非読んでいただきたいと思っています。

 「生まれ出づる悩み」は、主人公は職業作家でありながら思うよKaii002 うな作品を生み出せず悩む(=題名)。一方、偶然に知り合った青年は漁師を続けながら絵を描いているという境遇ですが、その才能と執念は驚くべきものがありました。 芸術を志す者が誰でも感じるであろう、己の才能への疑念と、他者の才能に対する羨望と嫉妬を素直に描いた作品で、その素直さで逆に印象に残ります。
 「小さき者へ」は息子へのメッセージですが、文学として昇華されているか否かは疑問。ただし、いずれも作者が自身の感情をそのまま表現している事にある種の感慨を覚えます。私小説とは異なるのですが、作者を取り巻く環境を率直に表現して読者の共感を呼ぶ作品集です。今読み返すとあの頃見えなかった作者の苦悩もよく理解できますね。

『或る女』も読み返してみて、自由奔放に生きてきた女が最後に陥る虚無の孤独地獄を描いたものです。 この話のラスト三分の一は全て主人公の葉子の主観から見た人物と世界で描かれていて おそらく葉子から観た世界と他の登場人物から観た世界は全然別の世界だったことでしょう。全ての善意が悪意に見えてしまう恐怖。 自分の思い込みの世界に嵌りきり自分の内なる世界に嵌り込んで自滅していく女を 突っ放して描いているのがこの小説の醍醐味です。 葉子はどんな女だったのでしょう?それを一言でいうとタクトのある女。と著者によって本文中に説明されています。女学生の制服をひとつ着るのでも、他の女学生とは一風変わった着こなしをする。男の気を引くような素振り、科を作って見せる。媚を売ると言ってもいいのですが、そこまで100%自尊心を捨ててもいない・・・自負があるようで、ないような女なのかと写りました。自立しているようでしていない女・・・男にすがって生きている癖に、自分勝手に生きている葉子。自分に夢中になる男をバカにしてせせら笑っている・・・結婚してもすぐ飽きて、次の人生にさっさと乗り換える始末です。外国に行ってみたり、戻って来てみたり・・・
 船員の倉地だけが葉子の思うままになりませんでした。だからこそ葉子は彼に執着しました。自分より強い、自分より自我の強い、そして人格の大きい男を愛する女・・・縋りつき抱きついても、振り捨てられ、殴られることを好む女。理智より情熱を愛する女。それが「或る女」葉子の真実なのかと唖然とする作品です。

 この作品の時代は20世紀の冒頭に設定されています。つまり1901年の9月初旬から翌年の夏に限定されているのです。20世紀最初の大事件は、01年9月6日の米国大統領マッキンレーの狙撃事件がありましたね。14日に大統領が死んだあと、この小説の主人公の葉子は米国行きの船に乗ろうとしていました。歴史的出来事と小説の時間とが密な関係を持つ手法を、有島武郎は、トルストイとフローベールから学んだと思われます。
彼は欧米の近代文学の熱心な読者ででした。『或る女』には、作品の構成によって主人公の内面の闇をつぎつぎに描き出していく複雑な手法が取り入れられています。冒頭の新橋の発車のシーンでは、車中で前夫木部に出会い、人々の侮蔑を強く意識する女の気持ちを的確に描いています。ここに、自由で独自な生活を望んでいる葉子の強い態度と、世間から逃げて強い男にささえられようとする弱々しい女心の矛盾が表現されているのだと思いました。
 20世紀初頭の日本で、女性が独立して自由と恋愛をまっとうすることが、どんなに困難な生き方であったかを、この小説は、男女の心の深い洞察と、時代の風潮の精密な観察でもって描き出しています。私は有島武郎氏の小説作法から、ずいぶんいろいろと教えられてきた気がします。

 『カインの末裔』も読み逃すと勿体無い作品です。そもそもカインの末裔)はKaii006キリスト教において聖書に登場する人のことらしく、類の起源と人間の宿命を諭す概念ですが、作品は昭和初期にできた美術館に飾られてる薄暗い風景画みたいな印象を受けました。絵の具を塗り捲った重たい雰囲気はで、まず単純に、イチゴとかレモンと かの対極にある生活の描写に圧迫されます。自然や世の中に対して抗えず、こうもままならないのが人間なのかと。そして人間とは何なのかについて有島氏らしい言葉が述べられています。
『カイン』とは旧約聖書に出てくるアダムとイブの息子で、農業に従事しており、また世の中で初めて人殺しをした。本作の中にはカインだとか、聖書の世界はでてきません。しかしここでカイン末裔というタイトルが付いているところに、小説の中に神の視座を意識します。しかし神はすべてを語りません。この主人公をカインの末裔だとしているのか、人間が皆カインの末裔だとしているのか。難しいけれど、上手く自らを制御できない主人公から、人間のあり方のようなものを示唆しているような気がする小説でした。私の読み方がまだ浅いのだと思います。うまく説明が出来なくてすみません。

 でも今後も『白樺派』の作家さんには注目していくつもりです。

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2009年4月21日 (火)

私の好きな作品たち~アントニオ・ビバルディ

 有名な「四季」の作曲者、アントニオ・ビバルディは、大作曲家であるとともにバイオリンの名手としても名高く、バロック時代後期の演奏様式や演奏技術にも改革と発展向上をもたらしました。

 1720年代初め頃は、マントバにあるヘッセン = ダルムシュタットの領主だったフィリップ公の楽長を務め、その間2曲のオラトリオなど女子音楽学校のための作曲を続け、またベネチアやフィレンツェなど各地でオペラを上演しました。
 1723年同校は、各地で名声を博したビバルディを引き留めるために、彼がベネチアにいる間は、最低月2回演奏会を行うよう契約しました。死亡年は 1743年7月と信じられていましたが、1741年7月28日に ビーンの貧民墓地へ埋葬されたという記録が発見され、現在ではその7月下旬に旅行先のビーンで客死したものと見なされています。

 イタリアのヴェネツィアに生まれ、オーストリアのウィーンで没しました。サン・マルコ大聖堂付きオーケストラの一員であった、理髪師でヴァイオリニストの父親からヴァイオリンを学び、10歳より教会付属の学校に入り、25歳で司祭に叙階されます。赤毛であったことから「赤毛の司祭」と呼ばれるようになったそうです。祭になると同時にヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院 (Ospedale della Pieta)でヴァイオリンを教えはじめ、2年後には作曲と合奏を教えるようになります。その後多くの曲を作り、演奏旅行で各地を回りました。
彼の残した作品は、

・500を超える協奏曲(ヴィヴァルディは、写譜屋が写譜するよりも早く、協奏曲の全パートを作曲できると豪語していたといわれている)
・52のオペラ(現在見つかっているオペラの数。ヴィヴァルディ自身は94のオペラを作ったと書簡に記している)                            Sasakura_work06s       
・73のソナタ
・室内楽曲
・シンフォニア
・オラトリオ(現在自筆譜が残っているのは勝利のユディータのみ)
・宗教音楽(モテットなど)
・カンタータ

など多岐に渡ります。

 実はヴィヴァルディは、「四季」という曲は作っていません。彼は、協奏曲をたくさん作りました。題名はついていないものも多く、「○○協奏曲○○調作品○○番」などと呼ばれます。協奏曲を1曲しか作っていなければ、「パッヘルベルのカノン」のように、「ヴィヴァルディの協奏曲」という曲名になるのでしょうが、「ヴィヴァルディの協奏曲」は何百とあって、それだけでは区別がつかないので、このとっつきにくい呼び方をされます。中には、わかりやすい標題がついているものもあって、「喜び」「狩」「恋人」...こういうのは記憶に残りやすいですね。そういう中に「春」「夏」「秋」「冬」という標題の曲があります。つまり、それぞれが、独立した曲なのです。

 協奏曲「春」、協奏曲「夏」、協奏曲「秋」、協奏曲「冬」を、連続して演奏したり、1枚のレコードにまとめて録音したりするときに、「四季」と呼ばれたのが、定着しました。「四季」でひとつの協奏曲、ではなく、「協奏曲集」です。とはいうものの、最初に楽譜を出版するときに、この4つは、楽譜集の始めの4曲として、つながって印刷されていたので、作曲者自身、4曲の間に関連性はあると見なしていたようです。あなたは、どの四季がお好きですか?私は「冬」です。スターダストが見えるくらいのキーンとした寒さが身を引き締め、スターダストが見えるくらいのキーンとした寒さが身を引き締め、そんな中、暖を囲みながら聞いている「冬」はたまりません。私はバロック音楽が好きで、バッハからこのバロック後期とよばれたヴィヴァルディの曲は痛んだ心や悲しみを癒してくれます。

 「協奏曲」とは、合奏パートとソロ楽器による編成の音楽です。ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲『皇帝』」など、有名な曲がたくさんあります。オーケストラをバックにアリアを歌うプリマドンナの役を、1台のピアノとかヴァイオリンとかが務めている、と例えれば、なんとなくイメージがわくでしょうか。

「四季」でその役を務めているのは、1台のヴァイオリンです。ヴィヴァルディはパッヘルベル同様、バッハ以前の古い時代の人です。この時代の協奏曲は、合奏パートもそれほど大きくはありません。曲の規模も、後世の大曲に比べたらかわいいものです。

普通、協奏曲は、「速い楽章」「ゆっくりとした楽章」「速い楽章」の3つの楽章から出来ています(3番目が「もっと速い楽章」になることも、多くあります)。この構成は、後の時代の大作でも受け継がれています。つまり、「春」だけで、3つの曲から出来ていて、それは他の季節も同様です。有名な「春」の最初のメロディは、言うまでもなく「第1楽章」の最初ですから、テンポも速く、春の到来を宣言するような勢いを持っています。続く「第2楽章」は、うららかな日差しの中でまどろむ羊飼いを表現し、本当に気持ちよい眠りに誘われ
そうなゆったりとしたテンポの音楽です。「第3楽章」は、第1楽章よりもっとアップテンポで、春の訪れを喜び踊る人々の音楽。このイメージはヴィヴァルディ自身が楽譜の中に書いているものです。1曲の協奏曲の中には、様々な音のドラマがあPc028_2 ります。聴き終わった時、ひとつの物語を見終えた、読み終えたような充実感がありますよね。

 クラッシックはどうも・・・という方でも絶対何処かで聞いているんで すよね。聞いていて気持ちがいい、だからなのか病院のBGMはクラッシックが多いですね。待ち時間が長いとイライラしますが、クラッシックが流れていると、ふと耳を傾けたり、知っている曲だと一緒
にハミングしたり・・・眠っちゃう人のほうが多いですけど・・・ただで聞けるのに勿体無いと私なんか思ってしまうんですがね・・・

 ちなみにバロックとは、ポルトガル語 barocco (いびつな真珠)が由来であるとされ、過剰な装飾を持つ建築を批判するための用語として18世紀に登場したそうです。転じて、17世紀から18世紀までの芸術一般におけるある種の様式を指す語として定着しました。

 過剰な装飾のない音楽、これが音を楽しむ原点なんですね。

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2009年4月20日 (月)

私の好きな作品たち~ 尾崎 紅葉編

 私は古い時代の作品を読むと、ほーっとする癖があり、時折昔の本を引っ張り出しています。 尾崎 紅葉さんは、明治18年山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され明治期の文壇の重きをなしました。明治30年から『金色夜叉』を書きますが、未完のまま没した。泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生がいました。

 明治16年に東大予備門に入りますが、それ以前から緑山と号Higashiyama_work21s して詩作にふけり、入学後は文友会、凸々会に参加し文学への関心を深めました。そして明治18年、山田美妙、石橋思案、丸岡九華らとともに硯友社を結成、回覧雑誌『我楽多文庫』を発刊しました。最初は肉筆筆写の雑誌でしたが、好評のために活版化するようになったとのこと。明治21年、『我楽多文庫』を販売することになり、そこに「風流京人形」を連載、注目を浴びるようになりました。しかしその年、美妙は新しく出る雑誌『都の花』の主筆に迎えられることとなり、紅葉と縁を絶つことになるのです。

 明治22年、「我楽多文庫」を刊行していた吉岡書店が、新しく小説の書き下ろし叢書を出すことになります。「新著百種」と名づけられたそのシリーズの第1冊目として、紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』が刊行されました。戦国時代に材をとり、戦で死んだ若武者を弔う二人の女性の邂逅というストーリーと、会話を口語体にしながら、地の文は流麗な文語文という雅俗折衷の文体とが、当時の新しい文学のあらわれとして好評を博し、紅葉は一躍流行作家として世間に迎えられた。このころ井原西鶴に熱中しその作品に傾倒、写実主義とともに擬古典主義を深めるようになります。

 大学在学中ながら読売新聞社に入社し、以後紅葉の作品の重要な発表舞台は読売新聞となる。『伽羅枕』『三人妻』などを載せ、高い人気を得た。このほか「である」の言文一致を途中から試みた『二人女房』などを発表、幸田露伴とともに明治期の文壇の重鎮となり、この時期は紅露時代と呼ばれました。

 明治28年、『源氏物語』を読み、その影響を受け心理描写に主を置き『多情多恨』などを書きました。そして明治30年、『金色夜叉』の連載が『読売新聞』で始まりました。貫一とお宮をめぐっての金と恋の物語は日清戦争後の社会を背景にしていて、これが時流と合い大人気作となったのはご存知の通りです。以後断続的に書かれることになりますが、もともと病弱であったためこの長期連載が災いし、明治32年から健康を害しました。療養のために塩原や修善寺に赴き、明治36年に『金色夜叉』の続編を連載(『続々金色夜叉』として刊行)しましたが、3月、胃癌と診断され中断。10月30日、自宅で没しました。紅葉の墓は青山墓地にありますが、その揮毫は、硯友社の同人でもある親友巌谷小波の父で明治の三大書家の一人といわれた巌谷一六によるものであったそうです。

 紅葉の作品は、その華麗な文章によって世に迎えられ、欧化主義に批判的な潮流から、井原西鶴を思わせる風俗描写の巧みさによって評価されました。でも一方では、北村透谷のように、「伽羅枕」に見られる古い女性観を批判する批評家もありました。国木田独歩は、その前半期は「洋装せる元禄文学」であったと述べています。山田美妙の言一致体が「です・ます」調であることに対抗して、「である」の文体を試みたこともありましたが、それは彼の作品の中では主流にはなりませんでした。ただし、後年の傑作『多情多恨』では、言文一致体による内面描写が成功しています。1893年の『心の闇』では口語の口調にしばられていた言文一致体に「である」調を導入し、客観描写に耐える文章語として確立しました。

 紅葉は英語力に優れ、イギリスの百科事典『ブリタニカ』を内田魯庵の丸善が売り出したときに、最初に売れた3部のうちのひとつは紅葉が買ったものだったといいます。その英語力で、英米の大衆小説を大量に読み、それを翻案して自作の骨子としてとりいれたものも少なくありまん。晩年の作『金色夜叉』の粉本(絵手本)として、バーサ・クレイの『女より弱きもの』が堀啓子によって指摘されました。

  一高の学生の間貫一の許婚であるお宮鴫沢宮は、結婚を間近にして、目先の金に目が眩んだ親によって、無理やり富豪の富山唯継のところへ嫁がされます。それに激怒した貫一は、熱海で宮を問い詰めますが、宮は本心を明かしません。貫一は宮を蹴り飛ばし、復讐のために、高利貸しになります。一方、お宮も幸せに暮らせずにいました。やがて、貫一は金を捨て、お宮と再会し・・・。

 1940年頃に企画された中央公論社版の『尾崎紅葉全集』の編集過程で、創作メモが発見され、貫一が高利貸しによって貯めた金を義のために使い切ること、宮が富山に嫁いだのには、意図があってのことだったという構想の一端が明らかにされました。しかし、戦渦の中でこの全集が未完に終わったこともあって、再評価というほどにはなりませんでした。

 『伽羅枕』は お仙が12歳の時、西岡屋の商売が傾き、養父は失意の内に亡くなります。母子の生活はさらに困窮し、養母に諭され、お仙は「死んだつもりになって」島原に売られることになるのです。
 14歳で里花という太夫なったお仙は、やがて大坂の隠居に身請け されるが、太夫になった日がまさしく「一代の大邪淫、大妄語、大殺生、大貪婪、世間にあらゆる悪業仕尽くしの発端」となったのでした。
最初にお仙を身請けした老人はすぐに故人となり、その後もお仙の相手となる男ことごとく悲惨な目に合い、命を落とす羽目になりました。
 お仙は28歳で髪を落とし、その後62歳まで、亡き遊客たちのの菩提を弔う生活を送っているというところで物語は終わっています。

『多情多恨』では、多く人を好かない、多く人に好かれぬ鷲見柳之助にとって,妻は命でもありました。その最愛の妻を亡くし悲嘆にくれる鷲見は、最初ひどく嫌いであった友人の妻に深切にしてもらううち,まめやかに夫の世話を焼くその姿にひかれるようになる.朴訥な男が情をかけてくれる人物に傾いてゆく過程を描いた、紅葉の代表作とも言われる秀作です。

 『多情多恨』のなかで女性の衣装を描写するところがいくつかありますが、紅葉は実に細かく描写しています。このあたりは西鶴の衣装描写にそっくりです。また主人公の柳之助が亡き妻を偲んで涙に暮れるのは『源氏物語』の影響だといわれていますが、なるほど、柳之助は泣き通しです。いつも泣いている・・・
 私は読んでいて、泣いている柳之助よりもむしろ、柳之助の無頓着さ、そのHigashiyama_work25s友人葉山の寛容さ、そして葉山の妻お種の時に優しすぎる態度に不信を感じてしまいました。特に柳之助という男は、私に言わせれば実に図々しく思えます。そして実に無頓着な男です。
 友人の家に住み、それまでは大嫌いだった友人の妻お種の優しい態度に接するうちにいつしかその妻に恋心を抱くのですが、自分ではそれに気づいていないようです。 亭主が出張でいないときに「いつまでもやっかいになりたい」とか「病気でもしたら貴方にお世話してもらうつもりです」と言ったり、「お種さんが自分の寝付くまで枕元についていてくれるなら満足であろう」などと願ったり・・・こういう男性は大概嫌われますよね。
 亭主が出張中、柳之助が悶々として眠れず、ついには夜中にお種の枕元へ忍び込むにいたっては「柳之助、行動する前に回りへの影響を考えなさい!!」と小説の中の柳之助に怒る私でした。そう思って読んでいるところへ、あやしいぞと危険を察知した舅が登場したときにはほっとしたりして。
 明治29年。日清戦争に勝利して軍人が威張っている時代に紅葉はこの小説を書いたんですね。当時にしてはめずらしい口語文で書かれて
いますから読みやすいです。 ところで、この話に続きがあるとしたら、その後どういう展開になっていったんでしょうね。読者の想像をかきたてる終わり方でした。でも私は『金色夜叉』より『多情多恨』のほうが趣があって、いとおかし(趣がある)の心持でした。

 他にも今の先駆といっていいほどの作品が沢山あります。私など到底完読は出来ないでしょう。

やはり昔の作家はしっくりきますね。歳のせいでしょうか・・・

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2009年4月19日 (日)

私の好きな作品たち~メンデルスゾーン編

 誰もが知っているメンデルスゾーン。あまりにも有名で、お話になりませんね。では彼の違った一面も・・・

多数の言語を自在に操り、青年になる頃にはドイツ語のみならず、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語までも話していました。音楽のみならず詩や絵(水彩画)にも興味を持ち、いくつかの作品が残っているそうです。特に水彩画に関しては趣味として楽しんでいたのにも関わらず、本職の画家顔負けの実力を持っていました。
 作曲以外の彼の最も重要な業績はまず、それまで独立していなかった指揮者という職務を独立させ、自らも極めて有能な指揮者として率先して範を示し、弟子たちに指揮法を教え、現在にまで至る指揮法を確立した創始者であるという点です。

 同様に極めて重要な業績として、その当時すでに忘れ去られMurillo01 ていた大バッハの楽譜を自ら発掘してその価値を見抜き、同様に演奏困難などの理由で早くも忘れられつつあったベートーヴェンの作品をもこよなく愛し、自分の作品だけでなく彼らの作品を好んで積極的にパイプオルガン、ピアノないしオーケストラの曲目として取り上げ続け、貴族にも大衆にも大バッハやベートーヴェンの価値を広く知らしめた点が挙げられる。また、友人のシューマンが発見したシューベルトの遺作、交響曲ハ長調D944(第8番『ザ・グレート』)を初演したのもメンデルスゾーンでした。

 さらに、自らがオルガニスト、ピアニストあるいは指揮者となり、それまで古い楽曲を演奏する習慣のなかった音楽界に、古くても価値¥ある作品を敬意を払って演奏するという音楽作法を確立し、ピアニストやオーケストラの演奏活動を大いに盛んにしたことも、メンデルスゾーンの大きな功績と言えます。

 メンデルスゾーン家は1812年以降ベルリンに居を構えますが、フェリックスも含めてユダヤ人としていわれなき迫害を受けることが多く、それは改宗後も大して変わりませんでした。にも関わらず、フェリックスの業績・影響力は極めて強く、終生ドイツ音楽界の重鎮として君臨し続けました。音楽への情熱が彼をかりたてたのか、差別など彼にすれば些細な事だったのかもしれません。多くの人々に音楽を聞かせたかったのでしょう。あの『結婚行進曲』もメンデルスゾーンの曲だと知っていましたか?身近な存在に感じませんか?

 デュッセルドルフの音楽祭の監督を経て、メンデルスゾーンは、1835年にライプツィヒのゲヴァントハウス交響楽団の音楽監督に就任します。交響楽団は良く訓練されており、幼友達のフェルディナンド・ダーヴィッドをコンチェルトマイスターに迎え、メンデルスゾーンと
って絶好の音楽環境が作られる。 2年後の幸福な結婚も加わり、メンデルスゾーンの音楽活動は実り豊かな時期を迎える。メンデルスゾーンは押しも押されぬ名声を得ることになりました。
 ところが、ベルリンとの関係は終わったわけではありませんでした。1840年になると、メンデルスゾーンの国際的名声に触発されたプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、メンデルスゾーンをベルリンに招聘しました。メンデルスゾーンは、ライプツィヒの仕事をしばし中断し、ベルリンに赴き、任務につくことになります。しかし、この話は、紆余曲折を経、1845年になって、メンデルスゾーンはベルリンに残ることを最終的に拒否することになります。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の招請は、音楽を愛好するというよりは、名声の
上がったメンデルスゾーンを自分のもとに置きたいという気持ちから出たもので、結局メンデルスゾーンの活動の場を何等提供しなかったためでした。このプロイセンの王室との問題の心労もあって、この頃からメンデルスゾーンは体の不調を訴えるようになります。そのメンデルスゾーンに決定的なショックを与えたのが1847年5月の姉ファニーの突然の死でした。メンデルスゾーンの四つ年長の姉ファニーも同様に音楽の才能があり、音楽の道に進みたがっていたにもかかわらず、メンデルスゾーン本人も含め、家族の皆は、女性が主婦以外の道を進むことは考えられないことだと思っていました。当時の社会の意識が偲ばれます。プの音楽家にはなりませんでしたが、ファニーはメンデルスゾーンの終生の良き理解者であり、精神的支えであり、また、自らも多くの作品を残しています。
 ファニーを追いかけるように、メンデルスゾーンも、同じ年の11月にライプツィヒで亡くなりました。メンデルスゾーンの遺体はベルリンに運ばれ、メンデルスゾーン家の墓地に葬られました。今、訪れてみると、姉ファニーの墓と並んでメンデルスゾーンの墓があります。もっとも、二人とも墓石は新しく、メンデルスゾーンの墓は、単純な白い十字架でした。

 メンデルスゾーンは、生前は高い名声を誇っていましたが、その後のドイツでの評価はさほどでもありませんでした。調べてみると、これには、リヒャルト・ワーグナーの反ユダヤ宣伝、反メンデルスゾーン宣伝が大きく影響していると思われます。

 ワーグナーは、メンデルスゾーンよりいくつか年が若いのですが、神童のメンTana01デルスゾーンと違い、年をとるまで芽が出ませんでした。
 そこで、メンデルスゾーンに近づき、自分が世に出るのを助けて もらおうとしましたが、同時にメンデルスゾーンに激しい嫉妬を感じていたようです。ワーグナーは、メンデルスゾーンが亡くなるとともに反メンデルスゾーン宣伝を始め、妻のコジマとともに胸糞の悪くなるような反ユダヤ宣伝を展開しました。ワーグナーの品性がうかがわれますが、これが、後のナチスの反ユダヤ宣伝につながって行くのは、火を見るよりも明らかです。

 神童と呼ばれ、モーツアルトにも劣らない才能っを持った彼も周知のように、ユダヤの家系です。でも並の家系ではありませんでした。メンデルスゾーン家は、プロイセンのユダヤ人の家系の中でも最も名家で、最も裕福でした。そして、ナチスの抑圧に遭う1930年代まで、多くの銀行家、科学者、芸術家を生んでいます。

 メンデルスゾーンの親の世代には、ユダヤ人の解放は更に進み、それとともに当時のドイツ市民社会の発展を象徴するサロンを主催する女性も、メンデルスゾーンの親戚の中から沢山輩出しました。メンデルスゾーンの父親は銀行家でしたが、お金があるだけではユダヤ人の社会的解放は達成できず、教養が大切なことを骨に沁みて理解していました。そのため、子供の全人的教育に極めて熱心で、作曲や指揮、ピアノ演奏に神童と評判の高い息子にも、モーツァルトやパガニーニのように音楽に特化した英才教育を強制することはありませんでした。
 メンデルスゾーンは、ギリシャ語や絵画にも才能を発揮し、ベルリン大学ではフランス革命史を受講し、大哲学者ヘーゲルの美学の講義も受けています。特筆すべきは、メンデルスゾーンは、12歳で初めてゲーテに会って以来、ゲーテが亡くなるまで、ずっとその恩顧を得たことです。

 そして、全部で48曲残された「無言歌」は、当時のドイツ・ロマン派音楽の中で作曲されたピアノの性格的小品集の中でも、最もよく知られた傑作の1つとなっています。これらの曲は、曲想が優美で温かく、技巧的にも難しくないことから、発表の当初から多くの人々に愛されてきました。ピアノ独奏用の「性格的小品集」は、シューベルトの『4つの即興曲D899』が発端であると言われていますが、このメンデルスゾーンの『無言歌集』やシューマンの初期のピアノ作品群の影響を受けて、多くの作曲家たちがこの分野で種々の名作を書いてきました。

 全48曲にはそれぞれ表題がありますが、メンデルスゾーンが自Murillo05 分でつけた表題は5曲しかありません(注:この記事ではこれらは『』の括弧を使用します。それ以外の曲名は《》の括弧を使用する)。3曲の『ヴェネツィアの舟歌』(作品19-6, 30-6, 62-5)と『デュエット』
(作品38-6)、『民謡』(作品53-5)は作曲者のオリジナルの題名であります。それ以外の曲名は大半は楽譜出版社などが曲想からつけたものがほとんどですが、楽譜の冒頭にある発想標語からついた標題もあります。最も有名な《春の歌》(作品62-6)はその一例であり、他に《葬送行進曲》(作品62-3)、《紡ぎ歌》、(作品67-4)、《子守歌》(作品67-6)も楽譜の冒頭の発想標語からついた題名です。この4曲については、作曲者オリジナルの5曲と同様にみなして差し支えないでしょう。それ以外の曲名は、楽譜の版によってまちまちな場合もあり、その他の39曲の題名について、以下の一覧表では日本で最も普及したものを紹介すると、
   ~第1巻~
1.ホ長調、アンダンテ・コン・モート 《甘い思い出》 (1831年作曲)
2.イ短調、アンダンテ・エスプレッシーヴォ 《後悔》 (1832年作曲)
3.イ長調、モルト・アレグロ・エ・ヴィヴァーチェ 《狩の歌》 (1832年作曲)
4.イ長調、モデラート 《ないしょの話》 (1829年9月14日作曲) 作曲年代が確認できる最も早い時期の曲。《信頼》という表題で呼ばれることもある。
5.嬰ヘ短調、ピアノ・アジタート 《不安》 (1831年作曲) 《眠れぬままに》と呼ばれることもある。
6.ト短調、アンダンテ・ソステヌート 『ヴェネツィアの舟歌 第1』 (1830年10月16日作曲) 『ヴェネツィアの舟歌』と題した3曲は、いずれもメンデルスゾーンが自分でつけた表題である。これはその第1番に当たる。

  以降第8巻まであり。このように短調と長調が程よく混ざり合っているところが私が彼の曲を好きな理由でもあります。

天才にも色々あるなと感じた瞬間でした。

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2009年4月18日 (土)

私の好きな作品たち~モディリアーニ

 私が大学生の頃、モディリアーニの絵画が好きな女の子がいて、その頃私はゴッホや東山魁夷氏の絵に夢中になっていたので、『この絵のどこに惹かれるのかしら・・・』と思っていましたが、彼女の部屋を訪ねて、何度もその絵を見ているうちに私も不思議な事に、気になり始めました。

 モディリアーニはイタリアベニスアカデミーを卒業後の1906年、Mojiriani007 パリへ移住しました。1907年と1912年にはサロン・ドートンヌ、1908年、1910年、1911年の各年にはアンデパンダン展に出品しています。最初は彫刻家を志し、1915年頃まではアフリカ、オセアニア、アジア、中世ヨーロッパなどの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていました。しかし、資金不足と粉塵による健康の悪化などの理由により断念せざるを得ませんでした。でも、その間に残した一連のスケッチからは、後の作品の特徴であるフォルムの単純化の過程を知ることができます。また、絵画の代表作の大部分は1916年から1919年の間に集中して制作されています。モディリアーニの絵画のほとんど は油彩の肖像画であり(風景画はわずか3点)、顔と首が異様に長いプロポーションで目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっていますが、これは自身の彫刻の影響が指摘されていまあす。なお、初期にはピカソの「青の時代」やポール・セザンヌの影響を受けた絵を制作しています。
 
 1917年にはベルト・ヴァイル画廊にて、生前唯一の個展を開催しましたが、裸婦画を出展したのが元で大騒ぎとなり、一日で裸婦画を撤去する事態となりました。同じ年、後に妻となり、裸婦像などの絵画モデルを務めた画学生ジャンヌ・エビュテルヌと知り合っています。
 彼女を内妻とし、1918年に長女ジャンヌをもうけるも、貧困と持病の肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生の末、1920年1月24日に結核性 髄膜炎により35歳で亡くなりました。。彼の二人目の子を妊娠していた妻のジャンヌもアメデオの死の2日後、後を追って自宅から飛び降り自殺・・・この時妊娠9ヶ月だったといいます。ジャンヌの遺族の反対もあり、二人の遺体は10年後になってようやくパリのペール・ラシェーズ墓地に一緒に埋葬されました。1歳2ヶ月で両親に先立たれたモディリアーニの娘ジャンヌ(1918-984)はモディリアーニの姉に引き取られ、フィレンツェで育てられたが、はじめは両親をめぐる事実を知らされていありませんでした。後年、自らも美術に携わり、ドイツ表現主義やエコール・ド・パリ、ゴッホなどの研究を経て、父モディリアーニの研究にも従事したそうです。

 20世紀を代表するエコール・ド・パリの画家。エジプトやアフリ カなどの原始美術と故郷イタリアに息衝くシエナ派など古典芸術の厳格性を融合させ、縦に引き伸ばされたかのような面長の顔とアーモンド形の瞳による独自の人物画を確立。類稀な造形性と抒情的で画家自身と同調するかのような独特な人物表現は以降の現代芸術に多大な影響を与えました。友人・知人、恋人などを描いた肖像画や裸婦像、少年・少女など子供を描いた作品がとりわけ有名ですが、数点の風景画も残されています。また彼は驚異的な集中力で作品を一気に仕上げる(早描き)ことが知られており、モデルを前に4時間足らずで作品を仕上げたとの逸話も残されていっます。モディリアーニの代表作『背中を見せて横たわる裸婦』。
 ビュテルヌと出会い、画家として最も精力的に活動をおこなった時期 である191Mojiriani_0037年に手がけられた作品であり、モディリアーニの代表的な婦作品はこの頃に集中して制作されていいます。非常にしなやかで官能的な肢体の曲線を露わにソファーに横たわる裸婦像はモディリアーニの裸婦の典型であすが、画家は同時期に、おそらくスペイン・バロック絵画の巨匠ディエゴ・ベラスケスによる傑作『鏡を見るヴィーナス(ロークビーのヴィーナス)』や、新古典主義の巨匠アングルの傑作『グランド・オダリスク』の構図に基づいた裸婦作品『右肩越しに見る裸婦』を手がけており、古典的な美と、『腕を広げて横たわる裸婦(赤い裸婦、クッションの上の裸婦)』などで示された古典的圧から開放された奔放な(女性)美との融合が見られる本作は、モディリアーニの裸婦作品の中でも特に注目すべき点のひとつでです。また寝そべりながらも、画家の特徴的な表現のひとつであるアーモンド型の瞳の視線は、観者に向けられているのではなく、モデルと対峙することによる画家の自己反映とも解釈することができますね。さらに本作の暖色を多用した怠惰的で退廃的な色彩表現や、画面左上から右下へと流れる裸婦の大胆な姿態や画面展開も、モディリアーニ独特の美的世界観の反映であり、本作の大きな見所です。

 彼の絵のモデルは殆どが首を傾げていますね。それが観者に注がれているのではなく、自己反映とするならあば、私にはそれが、『何故?』とか『可愛そう』と言いたげな顔に見えてしまいます。慈愛に満ちたようにも思えます。イエス・キリストが十字架にはりつけられてうな垂れている姿まで想像してしまうのです。
  
 私ももっと彼を知る為に『モディリアーニの恋人』や『モディリアーニ モンパルナスの伝説』を読んでみようかと思っています。

 モディリアーニの肖像画は時に私の悲しみと共に涙を流してくれるそんな風に絵画を鑑賞するのは私の悪い癖・・・です。

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2009年4月17日 (金)

私の好きな作品たち~宮藤官九郎編

 ある日、『オーラの泉』を観てみると、ゲストは官九郎さんでした。彼のプロフィールは、

大学在学中、劇団「大人計画」に参加。
2002年、バンド「グループ魂」でメジャーデビュー。
2002年、ドラマ「木更津キャッツアイ」の脚本を担当。
2003年、第41回ゴールデン・アロー賞特別賞を受賞。
2005年、ドラマ「タイガー&ドラゴン」の脚本を担当。
2005年、映画「真夜中の弥次さん喜多さん」で監督デビュー。
2005年、映画「クワイエットルームにようこそ」に出演。

と誰もが観たことのある作品作りをしています。特に若い世代には人気の監督さんです。

毎日欠かさずにすること
 →家族と奥さんに「ありがとうございます」と心の中で言う     Munku3

・好きな言葉
 →低姿勢

・人生の転機
 →大学を中退した時

・一番充実感を感じる瞬間
 →ドラマのシナリオを書き上げて、シーンナンバーをふる時
だそうです。

低姿勢・・・とは以外な言葉でした。「ねばならぬ」が大嫌い、と美輪さん。→やってはいけないことがあると、何でだろうと思う、と宮藤さん。→理由を説明されても納得がいかない。自分で自分を「型」に入れているが、「型」は大嫌い。→ドラマでは「型」にはめるのが嫌。→時代劇にバイクを出したり、と意外性を出している。父親の厳しさは全て「型」、と江原さん。→それを言われ続けていたから、父親という存在があるだけで責められている気がしてしまう。魂のテーマは「型」と江原さん。→型があるか無いか。自分の行動も頭の中で脚本を書いている。→現場の状況に合わせて毎日雰囲気を変えている・・・etc

 こんなふうに人を観察するのはいかがなものか?と思いながらつい見てしまいました。

『木更津キャッツアイ』で騒がれて『大様のブランチ』にも出演していましたね。私なんかは、昔の野田秀樹さんを思い出しました。

頭の構造自体万人と違うのではとまで思いましたね。映画では直木賞を受賞した金城一紀の恋愛青春小説『Go』は、宮藤脚本、窪塚洋介主演、行定勲監督で映画化されました。映画も日本アカデミー賞8部門制覇など、評価の高い話題作になりました。
 
『ピンポン』では松本大洋の漫画を映画化。素晴らしい俳優陣を迎え、友情、情熱、それぞれのトラウマ、そして成長を、笑いを交えて描いた痛快青春映画でした。
 
『69 sixty nine』では69年に高校生だった村上龍の、当時を描いた自伝的青春小説を映画化したものでした。
 
『少年メリケンサック』はNHK大河ドラマ「篤姫」で歴代最年少ヒロインを演じ、いまや押しも押されぬ国民的女優に大飛躍した宮崎あおい(24歳)、同じく「篤姫」や「ラスト・フレンズ」で鮮烈な印象を残した俳優の瑛太(27歳)、さらに「篤姫」や「薔薇のない花屋」、映画『花より男子ファイナル』、主演映画『イキガミ』などクセのある役どころを演じた松田翔太(24歳)、映画『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』や『奈緒子』を皮切りに、ドラマ「貧乏男子 ボンビーメン」「ごくせん 第3シリーズ」「ガリレオΦ」「ブラッディ・マンデイ」とメディアで顔を見ない日がないほど大車輪の活躍だった三浦春馬(19歳)、ドラマ「扉は閉ざされたまま」「1ポンドの福音」「風のガーデン」「男装の麗人・川島芳子の生涯」 と多彩な作品に出演した女優の黒木メイサ(20歳)、「コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命」や「流星の絆」など高視聴率ドラマで大活躍した女優の戸田恵梨香(21歳)の6名がおりなすコメディ(?)です。もうご覧になられた方が多いと思いますが、ただただ面白い映画です。佐藤浩市さんは三谷監督が壊しちゃったから、また怪しい役で出てきます。
 
 TBS系で10月から放送された金曜ドラマ『流星の絆』も人気作家東野圭吾さんと官九郎さんのタッグが絶妙でした。

 書籍では、宮藤官九郎と「HIGHLEG JESUS」総代・河原雅彦が、「演劇ぶっく」連載コラムを加筆訂正、語りおろしや撮りおろしを加えた『河原官九郎』、『私のワインは体から出て来るの』、永作博美、的場浩司、阿部サダヲ、相田翔子、羽生善治、及川光博等との対談集『妄想中学ただいま放課後』、大人計画サイトにて、5年間で1,064通の相談コーナーの中から約150の悩みと答えをまとめた本『宮藤官九郎の小部屋』などがあり、きっとまた頭がエビみそのようになりそうな本が満載です。

 これからもエンタテイメントとして楽しめる作品を作ってください。

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2009年4月15日 (水)

私の好きな作品たち~いとう斗士八編

 いとう斗士八さんという名前はよく観ますがどんな作品を手掛けてきた脚本家さんなのか、私も実はよく解っていませんでした。でも『家なき子』、お昼の『温泉へ行こう』くらいは知っていますよね。後は2時間ドラマの巨匠といえるほど、単発が多い作家さんなのです。

 ザ・テレビジョン第1回ドラマアカデミー賞最優秀作品賞・ザ・テレビジョン特別賞受賞(ピュンピュン&池田動物プロダクション)・主演女優賞受賞(安達祐実)・主題歌賞受賞対象作品。天使の顔をした11歳の少女は「金」しか信じない悪魔だった!?貧乏と世間の冷たさの中で育った相沢すず(安達祐実)は金に異常に執着するように。家を失った彼女は親類を渡り歩きますが、その先々で受けるイジメと闘いつづけます。脚本の高月真哉は野島事務所の若手。御都合主義の展開が逆に伝統的な物語性の持つ面白さを生み出して中高生を中心に賛否両論の人気をよびました。犬の名前は企画書の手伝いをした龍居由佳里がわが子の名前にしたところそのまま採用されてしまったといいます。「同情するなら金をくれ!」と叫ぶ主人公の台詞は1994年の流行語大賞を受賞しましたね。なお一部資料では、この台詞が「同情するなら金をくれ!」ではなく「金おくれ!」が正しい、との記述があります。本放送開始時の宣伝資料では確かに「金おくれ」との記載がみられます。

 映画では、クリスマス・イヴの夜、すずは相棒リュウの為にケーキを盗み、販売員に捕まってしまいます。人々の嘲りと同情の視線の中、すずを助けたのJansem_work06s は、サーカスの団長・磯貝でした。しかし彼は、身寄りのない子供たちを安く買っては、団員としてこき使っている悪党で、すずもまたそのサーカス小屋に連れて行かれるのでした。ところが、その小屋にはすずの意地悪な叔母・京子と、その娘・真弓がいました。真弓たちのいじめに遭うすず。しかし、そんな彼女に優しく接する少女がいました。その少女の名は恵。実の兄のように慕っている稔という青年と共に、サーカスの花形である空中ブランコ乗りとして活躍している少女です。でも、恵は生れつき心臓が弱く、練習中に倒れてしまいます。そんな彼女を見て稔とすずは、稔の実の父親であるらしい、県会議員の南条に恵の手術代を借りに彼の元を訪れますが、けんもほろろに取り合ってもくれませんでした。そこで、医師・黒崎に頼むことを思いついたすずは、彼の病院へリュウを走らせ、自分は恵の代わりを務めようと、稔の指導の下、空中ブランコの練習に励むのです。「いそがいサーカス」の公演初日、リュウに案内されてやって来た黒崎によって恵の応急手術が行われました。恵は一命をとりとめ、すずも空中ブランコを成功させます。しかし、中央政界への進出をもくろんでいる南条にとって、自分の過去の汚点となる稔と恵は邪魔な存在。そこで、恵が入院した病院の医師を買収して、恵を殺害した南条は、続いて稔とすずをサーカスのテントごと、事故にみせかけて焼死させようと火を放ってしまいます。でもその時、稔が昔愛した女との間に出来た子であることを知った南条は、稔を救おうとして自らの命を落としてしまいます。その後、稔は別のサーカスに入団し、すずはまたリュウと共に孤独な生活に帰っていくのでした。

 私はすずの実直さの裏返しのような言動に今の子供たちの歪んだ心を見たような気がします。信じて欲しい人に信じてもらえない・・・子供にとってこんな残酷な事はないと思います。せめて親が信じてあげないと子供は救われません。子供が出すSOSに気付かないで取り返しのつかない事が起きるケースは沢山あります。誰もがすずの様に芯が通って撃たれ強い訳ではないのです。『家の子に限って』という考え方もどうかと思いますが、安心できる場所が家庭であることはとても大切ですよね。

 でも、もし私に子供がいたら・・・と考えると末恐ろしくなるのですが・・・

 私は子供の頃、全く親にかまってもらえませんでした。兄は何かと問題を起こして叱られていて、それを見て育った私は、「要領がいいのよね」なんて言われ、憤慨したものですが、ただかまってくれない両親の働く姿を見てきただけで、親のような立派な大人になりたいと思っていました。父親に威厳のあった時代の話ですが・・・親を馬鹿にするなんてとんでもない、そんな時代があったのです。だから私は向田邦子さんの作品に惹かれるのかもしれませんね。

 『温泉へ行こう』も、主役の薫ちゃんの頑張りについ『頑張れ!!」と言ってしまう私です。
 割りとミーハーな私なのでした。

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2009年4月14日 (火)

私の好きな作品たち~吉目木晴彦編

 芥川賞受賞作の『寂寥郊野』はだいぶ前に読んだのですが、そのときっはピンときませんでした。今回、読み直してみて、その素晴らしさに感動を覚えずにいられませんでした。

 朝鮮戦争で来日したリチャードと結婚して幸恵がルイジアナ州バトンルージュに暮らしはじめて三十年。その幸恵の言動崩壊が始まり症状は目に見えて進んでいきます。夫は妻の欝病に心あたりがない訳ではなっかたのです。国際結婚と老いの孤立を描いたものです。

 この小説は、「本当の小説」という印象がある作品です。何故かと言うとと、この小説によって伝えられている内容は、小説以外の媒体で伝えるのは、ちょっと難しいと思うからです。主人公のアメリカ人男性と、その「戦争花嫁」である「ユキエ」は、お互いがお互いに、非常に尽くしているのに、結局老境に入っても、お互いのことがわかGohho006 っていない・・・。そのせいで、お互いの誠実さがむしろ、お互いに対する不信感として間に残ります。これは悲劇なのですが、その悲劇性が、ユキエの「うつ病」とも「アルツハイマー」ともはっきりしない「心の病気」のせいで、はっきりと目に見える形に変わっていきます。

 社会問題、男女の葛藤、日米の文化的差異、人種差別、地域的な偽善。それらのどれもがユキエの「心の影」を説明する理由にはなりうるのですが、どれもたんなる解釈とも取れ、結局何が真の問題なのかがはっきりわからないうちに、ユキエは次々に記憶を失っていき、コミュニケーションによって心の裡を明らかにしようという試み自体が、できなくなってしまのです。こういう、多くのの言葉を持っても説明し尽くしがたいような心理的事件を、かなりよく伝えています。さすが芥川賞と思わせるような作品でした。

 作品冒頭・・・

 一九九〇年十月二十三日、四日続きの細い雨が水はけの悪い庭土に溜まって、芝生一面を湿原に変えてしまったその日、幸恵は、満六十四歳の誕生日を迎えた。
 前の週の金曜日に、夫とニューオーリンズまで出かけ、用をすませて家に帰り着いた夕方から、雨が降り始めた。まるで、日本の梅雨のようだった。透き通った晩秋の陽射しの下で息を休めていたバトンルージュの街を、鉛色の雨雲が覆い、冷たく湿った空気の底に、州都全体が閉じ込められてしまった。この分では、悪魔の沼(デビルス・スワンプ)の対岸にある、ベルモントの荷揚げ場や、混血児の荷揚げ場(ミユラトウ・ペンド・ランデイング)は、閉鎖されてしまうだろう。市街でも、土地の低いところでは、そろそろ道路まで、雨水に浸されているかもしれない。
「一九六七年に大雨があって、ダウン・タウンの辺まで水浸しになったことがあったわね。覚えている?」
 食堂のテーブルに陣取って、古い友人へ宛てた手紙を書いている夫に、訊いてみた。
「そんなことがあったかな」リチャードは生返事をした。「随分、以前の話だろう」
「私は覚えているわ。グリーンデールに住んでいた頃よ」・・・

 「どれ、芥川賞の小説でも読んでみるか」というような読者は、人物中心に読みますね。そういう場所では、『寂寥郊野』がとりあげられることが多いんですが、中年の女性の方ですと、「あの旦那はやさしい」という話になります。
 私は、タフな人だなという印象を受けました。もう引退という年齢になって、事業が失敗した上に、奥さんが精神に変調をきたしたのに、へこたれずに、奥さんを支え続けるわけですから、やさしいということになるのでしょうか。主人公の女性に感情移入しているんでしょうか。自分の夫だったら、あんな風には面倒をみてくれないだろうとかおもってしまったりするような気もしますが。

 前にも書きましたが長門弘之・南田洋子夫妻も今洋子夫人のアルツハイマーと日々戦っていることをつい思い出してしまいます。長門さんの献身的な介護を洋子夫人はどれくらい解ってくれているのかと思うと、涙が出ます。

 文体も安定したこの作家の持味のままで、着実な成果をあげている吉目木さん。とくにアメリカ人と結婚して老年をむかえた日本女性が、夫とも、また息子の嫁とも、じつにクッキリとした対立をあらわす両シーンは、そのような個人の対立が描かれることの少ない日本文学において、個性確かな新人の出現といえるでしょう。アメリカならずとも、現代、大工業主義的な生き方をする国の寂寥感が伝わってきます。登場人物の間をわたる寒々とした寂しい風の音が聞こえませんか?。苦しんだいろいろな記憶が遠ざかり、ボケた日本人妻が、夜更けに焚火をする炎が狐火のように見えたり・・・描かれているのは、まさしく、あるカップルの・・・それも豊かな物語の印象が強いです。
その夫、その妻をはじめ作中人物のそれぞれに人間としての誇りを見出しているからです。つまり、人物を人格において捉え方は見事です。日本文学としては、こういう例はまだ少く、そもそも未発達の分野です。

 吉目木さんは、父親の仕事の関係で、子ども時代をアメリカやタイなどで過ごしました。アメリカでは、作品の舞台になったルイジアナ州のバトンルージュにも住んでいたことがあるそうです。江馬修『山の民』に感動し、影響をうけました。会社Gohho33_2 勤務のかたわら小説を書き始め、1985年に『ジパング』で第28回群像新人文学賞優秀作に選ばれる(佳作入選)。1988年に『ルイジアナ杭打ち』で第10回野間文芸新人賞、1991年に『誇り高き人々』で第19回平林たい子文学賞を受賞している。その後、1993年の上半期に、『寂寥郊野』で第109回の芥川賞を受賞しました。これは1998年に松井久子監督の第1回監督作品として『ユキエ』というタイトルで映画化されていますね。作品のタイトルを考えるのが苦手といい、文学賞を受賞した主要作品の多くも担当の編集者のアイディアでタイトルがつけられているそうです。

 他に、『ノーライフ・キング』は、ゲームの中に閉じこめられた者たちがゲームの中に超越者を求めることによって脱出しようとする「物語」です。作者が認めているように、これは「小説」ではありません。でも、ここにはある切実なアクチュアリティがあります。たとえば、読みながら、私は今年起こった中学生の親殺しの事件を思い浮べました。

『ルイジアナ杭打ち』は、一見さりげない南部生活スケッチですが、光った細部が随所にあって、しかも結びがぐっともり上って、アメリカ生活の怖さが読者の身に沁みます。『ルイジアナ杭打ち』の作者の硬くシャープな非適応感覚は本当に凄いです。
 問題は私が一番注目している『誇り高き人々』という長編です。この小説は周美という山陰地方の架空の田舎町に住む、ほんのすこしだけの風変りな普通の人々を描いていて、アメリカのスモール・タウンものに通じるものがあります。シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』を意識されたのだと思いますが、『ツイン・ピークス』を思わせる部分もあって、印象深い人物が何人も登場します。
 すでに『ルイジアナ杭打ち』をアメリカで発表されていますし、『寂寥郊野』の英訳の話もあるとうかがっています。

これからも実体験をもとに、書かれるのでしょうか?期待を持てる作家さんですね。

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2009年4月13日 (月)

私の好きな作品たち~バリー・アイスラー編

 バリー・アイスラー 氏原作、マックス・マニックス氏脚本・監督の『レイン・フォール/雨の牙』をご存知でしょうか?最初は映画に興味を持ちましたが、やはり原作が気になって・・・

  朝の混雑する山手線車両で、国土交通省の高級官僚・川村安弘が死亡。警察の調べで持病の心臓発作が原因とされていました。しかし、それは巧妙かつ自然死に見せかけた殺人だったのです。そして、その仕事を遂行したのは、日系アメリカ人で米軍特殊部隊出身の暗殺者ジョン・レイン。
 これまで、政財界や裏社会の重要人物たちを完璧に「自然死」にみせかけ成し遂げる凄腕の殺し屋です。ルールは一つ。“女と子供はやらない”。でも、川村が所持していたメモリースティックをめぐって、レインの運命が狂い始めます…。Kayama_work05s

 2002年にアメリカで出版されるやいなや全世界で翻訳出版され、瞬く間にベスト・シリーズと化した人気ミステリー、レイン・シリーズの第一作目を映画化したものです。東京を舞台に、アメリカ海軍特殊部隊に在籍した過去のある日系アメリカ人の殺し屋ジョン・レインが、ある殺しの依頼を受けたことから政権汚職と利権をめぐる陰謀に巻き込まれ、自身の愛と復讐の狭間で翻弄されるというハードボイルド・アクション・サスペンスです。

 バリー・アイスラー氏は1989年にコーネル大学法学部を卒業した後に、バリー・アイスラーは米国国務省に3年間勤めました。その後、民間会社へ入社。その間、日本に滞在し日本語が堪能なのだそうです。現在はサンフランシスコに在住でフルタイムで執筆されています。頻繁に来日されているらとか・・・。公式サイトのメーリングリストに登録すると来日予定や日本での活動などを教えてくれます。公式サイトには、作者が日本でよく行く飲み屋やレストランの紹介などもあります。幼い頃、いじめられた事があり高校生でレスリングを、大学時代から柔道を始め、日本にいる間に講道館へ通いつめ黒帯の腕前に。
 処女作の『雨の牙』は10ヶ国で翻訳された。面白いのは、英語で書かれた処女作なのに本国アメリカよりも日本での上梓が先だった事。
映画化権を購入したのはアクション俳優のジェット・リーだそうです。

 次に発表された作品『雨の影』は『雨の牙』の続編で、ジョン・レインがピアニストのみどりと別れてから約1年。 その間、彼は大阪に潜伏していましたが、ある日、ついに警察庁の部長タツに発見されます。そして、腐敗した日本の改革に傾注するタツの依頼を断りきれず、レイ ンはふたたび東京に戻る決意を固めました。新たな暗殺を遂行するために。でも、標的は想像以上に危険で、レインの周囲にはやがて死の影が忍び寄ります。しかも、 いつしかCIAまでが暗躍しはじめてました……。どうです?先を知りたくなりませんか?

 何の前知識もなく読んだなら日本人が書いたと勘違いしたかもしれません。この作家は日本を良く知っていますね。驚きました。日米ハーフの殺し屋ジョン・レインが美人ピアニストと出会うのですが、彼女はレインが殺した男の娘だったんですよね。娘はある情報を隠していると疑われ警察、CIA、とある政党から同時に狙われていると知ったレインは彼女を守る為に謀略の渦中に飛び込む・・・というストーリーです。ストーリーはちょっとムリな所もあるけれど、描写の巧さで一気読めました。外人が描く日本が舞台の作品は、描写が変な上に突拍子も無い事が書かれている事が多いけれどこの作家は巧いですよ。短い文章で日本の文化を的確に描写するんですよね。例えば日本のラブホテルの事を『ツインベットは、ラブホテルでは聖書と同じくらい場違いだ』と説明するんです。巧いと思いませんか?(笑)。一つ気になった事は主人公のトラウマについてでしょうか。この主人公のジョン・レインもベトナム帰還兵なのですよね。アメリカ人の抱える苦悩=人種問題&ベトナム戦争という構造はもはやいい痩せないものなのでしょうか・・・

  レイン・シリーズは、『雨の牙』『雨の影』『雨の罠』『雨の掟』『フォールド・ライン』とあり、それぞれが続き物のようになっているのも、1冊で終わらない要素です。私も速く『雨の罠』を読みたいとワクワクしています。

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2009年4月 9日 (木)

私の好きな映画~キリング・フィールド (The Killing Fields)

 どうしても忘れられない映画に、以前も紹介したように『キリング・フィールド』があります。

 1949年、シアヌークを元首としてフランスからの独立を果たしたカンボジア。1970年3月、シアヌークの訪ソの隙に乗じて、親米派のロン・ノルがクーデタをおこしました。折からのベトナム戦争を有利に進めたいアメリカはこれをチャンスと見て、ロン・ノル政権を支援すべくカンボジアに侵攻。これに対し、シアヌークは中国にあって祖国の解放闘争を指導し、激しい内戦が展開されたのです。

 1975年4月17日、ポル・ポト率いる共産党勢力、赤いクメール(クKiringfield002 メール・ルージュ)はロン・ノル政権をついに打倒し、民主カンボジア政府の樹立を宣言。しかし、プノンペン解放後、ポル・ポト政権は、極端な共産主義政策を押し進め、住民の強制移住や大量虐殺を行いました。カンボジアはまさに“killing fields”(虐殺の野)と化したのです。

 1973年8月、ニューヨークタイムズの敏腕記者、シドニー・シャンバーグは特派員としてカンボジアに派遣されました。折しも、アメリカを後ろ盾としたロン・ノル政権と、反米・救国を旗印に掲げた革命派勢力、クメール・ルージュとの闘いがいよいよ表面化していました。彼を出迎えたのは、通訳兼ガイド、ディス・プランでした。1975年、いよいよクメール・ルージュが首都プノンペンに迫り、ロン・ノル政府軍は敗退を続けていました。シャンバーグは、プランに家族とともにアメリカに脱出するよう勧めるが、結局妻と4人の子だけを見送り、プランは彼のもとにとどまったのです。

 1975年4月、ロン・ノル政権はついに崩壊。病院を取材したシャンバーグとプランら4人は、帰途クメール・ルージュの兵士たちに捕まってしまいます。しかし、プランが、機転をきかせて3人とも中立の立場を守っているフランスのジャーナリストであると偽ったため、すんでのところで死刑を免れ釈放される。4人は最後の避難所であるフランス大使館に逃げ込む。シャンバーグらは、プランのバスポートを偽造して一緒に脱出しようとするが、写真がうまく焼き付かず、失敗してしまうのです(ここでうるうる・・・)。プランだけが外に出され、降りしきる雨の中、プランは泣きながら去っていきました。この場面は心がちぎれそうな思いで、観ていました。

 タイとの国境を越えて、無事ニューヨークに帰ったシャンバーグは、プランの身の上を案じていました。彼はカンボジアで見たことを書き、ピューリッツァー賞受賞という名誉にも輝きました。しかし、それもみなプランのおかげなのです。彼は、必死になってプランの行方を探しますが、遠いアメリカではどうにもならなかったのです。サンフランシスコに住むプランの家族にも一切連絡はないというし・・

その頃プランは、クメール・ルージュの監視下、強制労働に従事していました。毎日たくさんの人々が殺され、更に多くの人々が飢えと病のために死んでいました。クメール・ルージュはとくに知識人に対してはその撲滅を図っていたため、プランは、外国語を話せることや、ジャーナリストだったことなど、過去についてはひたすら隠していました。

 子どもが親を密告するような異常な状態。考えられますか?クメKiringfield001 ール・ルージュの村では、一切の知識に毒されていない子どもたちこそ、リーダーだったのです。ある時、プランはひそかに牛の血を吸っているところを見つかり、炎天下に放置された彼のもとに一人の少年がやってきて、「ベンツ、ナンバーワン」と言いながら縄を切ってくれます。その少年は、かつてプランがベンツのエンブレムをプレゼントした少年でした。やがて、辛くも脱出したプランは、累々と屍が連なる“killing fields”をさまよい、さまざまな苦労を経て、ようやくタイの難民キャンプにたどり着きました。

 それは1979年秋のこと。シャンバーグはついにプランの消息をつかみ、キャンプを訪れます。4年ぶりの再会できたのです。功なり名とげたアメリカ人と、苦闘と死の恐怖にさいなまれたカンボジア人。そこには、国境も、戦いも、体制も、すべてを超越した友情だけがありました。
 最後の再会のシーン、どこからともなく『イマジン』が流れてきます。もう嬉し涙があふれてしまい、『イマジン』はそれから私には欠かせない曲となりました。イマジンも良かったですが、途中、途中で流れる効果音で私は背筋がぞーっとするほどまさにピッタリのサウンド・エフェクトでした。

 ニューヨークタイムズ記者としてカンボジア内戦の混乱をルポし、ピューリッツァー賞を受賞したシドニー・シャンバーグの実体験を、デビットパットナムが企画し、ローランド・ジョフィが見事に映像化しています。もう一度観たいですが、これは映画館で観なければ臨場感の伝わり方が違ってしまうと思います。

 この映画で私はいろいろなことを考えました。国境を越えた友情、人を蝕むだけも戦争、プランの忍耐、子供と大人の逆転、荒れ果てた地にどっさり置かれた人骨・・・友情以外に美しい物は何も無かった・・・だからなおのこと、プランがシャンバーグに駆け寄り、あのちいさな身体を大きなシャンバーグに飛びついた時の感情は手に取るように伝わってきたのだと思います。目を背けたくなるシーンの沢山ありますが、私達はそこから逃げてはいけないのだと思いました。世界のどこかでまだこのような惨劇が繰り返されているのですから・・・

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2009年4月 8日 (水)

興味が惹かれてどうしようもない作品たち~ダン・ブラウン編

 ダン・ブラウン氏といえば一斉を風靡した『ダヴィンチ・コード』が有名ですがマニアはそこで留まることを知りません。『ダヴィンチ・コード』の前には『天使と悪魔』が出版されており、第3作では、タイトルは“The Solomon Key”(『ソロモンの鍵』)。ダン・ブラウン本人のホームページによると、物語の舞台はワシントンD.C.、テーマはフリーメーソンのアメリカ合衆国建国への関わり、というものです。ブラウン氏は「完成には程遠い」と語っていますが、各メディアは2009年に出版されるだろうと予想しています。

『天使と悪魔』も飛ぶように売れて、ダン・ブラウンは「ダ・ヴィンチ・コード」で有名になりましたが、同じラングドンシリーズとして書かれたこの第1作目のほうがおもしろいですね。

かつて科学が宗教を弾圧していた時代があったことなど思いもよらないほど科学が生活に浸透している現代、ヴァチカンを舞台に、科学と宗教の因縁とも言える戦いがミステリアスに始まります。セルン(スイスの研究機関)やイルミナティ、米国からスイスまで1時間で行く飛行機など興味をそそる内容満載。とてもスリルがあって、吸い込まれていくストーリーです。私としてはこちらのほうを映画化すればよかったのにとも思ったのですが、映画化するには怖すぎます。ホラー映画ではないけど、かなりホラーになりそうです。それにしても、この著者の知識量はすごいですね。

 素晴らしい構成とテンポの良い物語の展開で、一気に読ませてくL_rocks れました。それと何よりも知的な好奇心を大いに満足させてくれます。ここまでの長編なのに、最後の最後までいい意味で期待を裏切り続けてくれます。ミステリーという枠に捉われない、素晴らしい作品であると言えます。ある程度、先の読めてしまうミステリーというものも、ある意味では満足感を与えてくれますが、本書はトリックがわかりやすいのに、先を読ませなてくれませんでした。いえ、敢えて読ませて、裏切る・・・そんな展開が、前編を通じて繰り広げられるわけですから、「世界を不眠に陥れた」というロジックも納得できます。
 また、ルネサンス期のキリスト教芸術の圧倒的な教養、キリスト教と科学の両者が生み出すパラドクスがうまく文章の中に融合され、前述したスピード感、小気味のよいリズム感をともなってしまえば、もう敵なしです。
 同じキリスト教を土台にした作品で、完成度はどちらも高いと思うので、あとは好みの問題かとも思います。キリスト教に造詣がないと、少し抵抗があるのかもしれませんが、本書に含まれる、あふれんばかりの薀蓄が、その溝を埋めてくれることも十分に期待できます。 国産のミステリーにも、良さはありますが、ここまでの完成度ともなると、それ程よんだことはありません。キリスト教と科学の対決。天地創造とビックバンの矛盾。みどころ満載の対決を、斬新な視点から描いています。一読の価値ありです。

 『ソロモンの鍵』も秘密めいたことがごそごそ出てきそうですね。今のところいずれ出版される小説の構想は12作分貯まっており、そのうち一つは偉大な作曲家の「事実に基づいた」フリーメーソンとの関係がメインテーマであり、どうやらその作曲家とはモーツァルトではないかと予想されていいます。ん?もう出版されたのでしたっけ?(と急にお惚けポーズ)

 私としてはキーワードとなるのは「フリーメイソン」という秘密結社です。

フリーメイソンとは、会員同士の親睦を目的とした友愛団体でイギリスで発生し世界中に派生した男性の入社的秘密結社(「非公開団体」といっている)の事らしいです。

 フリーメイソンリーは、原則として国や州を単位とする、グランド・ロッジと呼ばれる本部があるものの、全体を統制する総本部はないといいます。ただし、最初にグランド・ロッジの成立した、イングランドのグランド・ロッジによる認証が本流であるとする認識から、これを「正規派」「正統派」と称し、同グランド・ロッジが認証しないロッジは非正規な存在と見なされることが多いそう。以下の「#会員数」「#入会条件」も、正規派とされるフリーメイソンリーの例です。

 グランド・ロッジはプロビンシャル・グランド・ロッジ やディストリクトグランドロッジ ) と呼ばれる県・地域支部、および直轄に管理されるロッジで構成され、県・地域支部はロッジと呼ばれる支部から構成されます。ただし、活動規模の小さい国や地域では、グランドロッジは県・地域支部を置かず、ロッジを直接管理している場合もあり、日本においては厚生労働省認可の財団法人「東京メソニック協会」と任意団体「日本グランド・ロッジ」傘下のロッジ群の2形態で構成され、メソニック協会所有の建物に日本グランド・ロッジが入居し、各ロッジの福祉関連事業は財団の事業予算で支援されているとのこと。また、イングランド系、スコットランド系、フィリピン系、アメリカ・マサチューセッツ州の系統、アメリカ・ワシントン州のプリンス・ホール系(黒人系)ロッジが日本グランド・ロッジとは別系統で存在。それらの殆どは在日米軍基地内にある軍事ロッジ(軍人により設営されるロッジ)です。会員は"Brother"(兄弟)と互いに呼びあい、会員は秘密の符牒で「兄弟」かどうかを見分け、「兄弟」はいざという時は助け合うことになっています。欧米には有力者の会員も多いため、様々な場面で有利に働くことがあるといいいます。ただし、ロッジには外の問題を持ち込まない決まりになっているため、即物的に利益が得られるわけではありません。

 会員数は、同じく日本グランド・ロッジによれば、世界に約300万人。『朝日新聞』に明らかにしたところに拠れば、日本での会員数は約2000人で、多くは在日米軍関係者。日本人は300人程度といわれています。

 但し、入会条件は厳しく、入会資格として何らかの真摯な信仰を要求しており、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教(以上アブラハムの宗教)の信徒はもちろん、仏教徒などであっても入会できますが、無神論者、共産主義者は入会できません。たとえ信仰する宗教があったとしても社会的地位の確立していない宗教(例として新宗教各派)である場合は入会できないのです。ただし、特定の宗教を信仰していなくても、神(あるいはそれに類する創造者)の存在を信じるものであれば、入会資格はあるといいます。これらの信仰を総称して、「至高の存在への尊崇と信仰」と呼びます。そのほかの入会資格としては、成年男子で、世間での評判が良く、高い道徳的品性の持ち主であり、健全な心に恵まれ、定職と一定の定収があって家族を養っていること。身体障害者でないこと。ロッジ会員の投票で全会一致の承認を得た上で、さらに身辺調査を行い最終的に決定します。また、入会時には4万円から6万円程度の一時金が掛かるそうです。そしていざ入会する際には儀式の暗記と宣誓の暗唱が求められます。そのため事前にコーチが付いてレクチャーも行われます(なお、昇級においても儀式の暗記と宣誓の暗唱が求められる)。入会を拒否された場合でも、一定期間を置いて再申請は可能だそうです。

 2006年、『ダ・ヴィンチ・コード』が映画化され、これを観た入会志望者が増加し、無料説明会を開くようになりました。しかし、広報担当の渡辺一弘氏によると、「人脈作りを期待したり、秘密結社という想像を膨らませたりして入って、期待と違うとやめていく人が多い」といいます。これだけでもミステリアスなのに、ブラウン氏は何を書いたのかワクワクしませんか?

 遅くなりましたが、『パズル・パレス』もブラウン氏の作品ですね。専門知識のわかりやすい解説がふんだんに盛り込まれ、短い章立てのスピーディーな展開と、政府機関の魅力的な女性職員スーザン・フレッチャーが主人公に据えられ、大組織NSAの謀略に翻弄されながらの活躍がポイントでした。
 エンセイ・タンカドというおかしな名前の日本人が出てきますが、原爆の影響で身体障害のある天才で、世界最高のコンピューターにウイルスをしのばせることに成功する。セキュリティの壁が次々と破られる、それを止めるのは、タンカドが用意したパス・キーだけ。
スーザンの恋人ディビッド・ベッカーがタンカドの持っているパス・キーを探してスペインへ。タンカドが死ぬ直前に見知らぬ人に指輪を託し、指輪は次々と持ち主を換え、持った人は順に殺され、やっと手に入れたディビッドも命を狙われる。パス・キーは、暗号文の解読をし、解釈が・・・・。登場人物が謎を解こうとモタモタしている間に、読者は答えがわかってしまうというつっこみたい所はあるけれど、どんどん先へと進んで、面白く読めるサスペンスです。

 『デセプション・ポイント』では、大統領選挙戦のさなか、アメリカ航Davi05_2 空宇宙局(NASA)による北極での大発見を機に、NASA擁護派の現職大統領と批判派の対立候補との熾烈な駆け引きが繰り広げられます。よりにもよって対立候補の娘は、大統領の下で機密文書の分析や要約を仕事にしているからややこしい・・・大統領の直々の依頼でレイチェルは北極圏ミルン棚氷で、氷に埋まった巨大な隕石を目に。科学者チームと調査を進めるうちに、レイチェルは信じられない謀略の深みにはまり込んでゆく。
 化石を含んだ隕石の発見・・・地球以外の生命の存在を示唆・・・隕石は本物か・・・隕石が本物でないとしたら誰が仕組んだのか・・・・だれが命を狙ってくるのか・・・。最後には意外な真実が・・・・。大統領選の裏側、権謀術数のあれこれ、NASAの苦悩や活躍、隕石と岩石の違い、化石の知識、専門知識の分かりやすい解説がふんだんに盛り込まれ嬉しい限りです。
 

ダン・ブラウン氏は、事実と虚構の織り交ぜ方が絶妙で、まだ理論的な段階の技術が実用化されたかのごとく使われ、思いつき、または仮説が出ただけのテクノロジーも既成の事実の如く出てきて楽しませてくれるので本当に次回作が待ち遠しいです。

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2009年4月 7日 (火)

以外だった作品たち~心屋仁之助編

 書店で何気にみた平積みの山。そこに『光と影の法則』がありました。心屋仁之助・・・聞いた事無いなあ、ひょっとして村上春樹氏の本にでてくるようなお話かなあなどどその場でぺらぺらと開いてみました。するとセラピストさんが書いたお話で、私の苦手な分野だわ・・・止めにしようと思った矢先、どうも勝手が違うのです。普通のセラピストさんらしくないしっかりとした構成、納得できる内容。

 ためしに一度くらい買ってみてもいいかな程度で買い、読みましMich015 た。一気に読めました。なんだろう、このすがすがしさはと思わず、肩の荷が下りた感じでした。うまく表現できませんが、まだ日本では「怪しいもの」「宗教のようなもの」「洗脳」「だましのテクニック」「他人をコントロールするもの」と言った偏見や誤解が根強く残っています。そういったものを払拭し、個人の心の豊かさと、笑顔を導き出し、能力を大幅に向上させる強力なツールである心理療法を広めていくことで、本当に明るい世の中に、争いごとの少ない世の中にしていけることを、本気で夢見ていますことが手に取るように伝わってきました。

 心屋先生によると、『「性格」と「個性」は別モノなのだそうです「個性」は、あなたが生まれもった最高の宝物「オンリーワンの能力」「あなたの知らない本当の自分」「変えられない・変わらない本質」です。そして「性格」は、あなたが生まれてから刷り込まれた「プログラム」「今の自分」なのです。』といいます。だから、「性格」というプログラムは書き換えられる・・・なのに性格は変えられないと思って何時人が殆どなんだそうです。性格と個性を区別して考えた事などなかったですし・・・性格上人と違う部分が個性なのだと思っていましたし・・・心の中のもう一人の(本当の)自分を知る心理療法なのだそうです、そうやって性格を明るいものへ変えていくことを。

 実は心屋さんは大学を卒業後、佐川急便に就職、現場の営業、法人営業、教育担当などを経て本社の営業企画部門の管理職として従事し、その間に、社員教育に関するマニュアル作成や教育の企画に参画、自らが社内講師として、年間におよそ480時間の講義実績を持っていた方でした。また、教育方法に関する研究および営業に関するマーケティング手法の研究も続け、さらには心理学の手法を取り入れることで現在の基礎を作りました。
 現在は、心理療法やNLP・コーチングの手法を採り入れた独自のセラピーや、その手法を広めるためのセミナー活動などを行っています。ただ研究室にこもって心の内部を探る方たちとは実践力が違うと思いました。

 この『光と影の法則』では強烈な『光』を浴びれば浴びるほど、その反対側に強烈な『影』ができるのは、自然の摂理です。それは法則として、人間界にもそのまま当てはまるといった意味があるのでしょう。「苦しみ」があるから「喜び」が生まれる!
 さまざまな心理療法を使って、実際に変化を遂げたクライアントのケースをもとにした感動の物語です。殆どの人がこんなことあるなと感じた時作中に出てくる人たちに共鳴すると思います。1つ1つページをめくるたびに立ち止まってしまうのです。
「なんなの?この涙は!」
「ただのお話じゃない!なのに・・・」

と思っているのはあなただけじゃないんですよ。アマゾンで1位になったことが唯一の証です。

私っも20代で転機が訪れました。明るいだけがとりえの私から笑顔と言葉っが消えたのです。自分を追い詰め、自分が嫌いで仕方なかったある時、神経科の先生と巡り合え、とてもその時間だけ厭なことから抜け出していたかのように。でも日々の暮らしは私を追い詰めつるばかり・・・ でも性格は変わってしまったけれど、先生とお話している時の私はまるでなにも変わらない私がそこにいたのです。これがきっと個性なのでしょうね。そしてカウンセリングのたび、先生が『辛かったでしょう。』とか『頑張ったね。』とおっしゃる度、泣きそうになったものでした。他人の痛みを分かり合うのは難しい事です。でも同じ痛みをもったことのある人たちは分かり合えるのだとその時初めて解った気がしました。慈しみの心を先生から教わった私は第3の性格を持ち、今幸せに暮らしています。後ろを振り返るのは良い事だけ思い出したい時だけと決めてから悪い過去を振り返ることも無くなりました。不思議ですよね。影のかぶりものはいつかきっと脱げる日はくると、泣きたい時は涙が出なくなるまで泣こうと、そんな気持ちになれる作品だと思いました。

 多くの人がケラケラ笑って過ごせる日を祈って・・・・

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2009年4月 6日 (月)

私の好きな映画たち~レインマン

 私は自閉症に近い症状を起こした事があるので、『レインマン』を観た後、すぐ立ち上がれないほどの衝撃を受けました。
 1988年公開の映画ですから、若い方はご存知ないかもしれませんが、原作のバリー・モローはロナルド・バスと共同で脚本を執筆し、主演はダスティン・ホフマン、トム・クルーズでした。第61回アカデミー賞と第46回ゴールデン・グローブ賞、さらに第39回ベルリン国際映画祭においてそれぞれ作品賞を受賞した素晴らしい作品です。

 26歳の中古車ディーラー、チャーリー・バビット(トム・クルーズ)は、恋人スザンナ(ヴァレリア・ゴリノ)とのパーム・スプリングへの旅の途中、幼い頃から憎み合っていた父の急逝の訃報を耳にし、葬儀に出席するため、一路シンシナティへと向かいました。そしてその席で、チャーリーは父の遺言書を開封し、自分に遺されたものが車1台と薔薇の木だけという事実に衝撃をうけます。同時に300ドルの財産を与えられたという匿名の受益者の存在を知った彼は、父の管財人であるウォルター・ブルーナー医師(ジェリー・モレン)を訪ね受益者の正体を聞き出そうとしますが、医師はそれを明かそうとはしませんでした。

 諦めて帰ろうとするチャーリーは、スザンナの待つ車の中にいReinnmann たレイモンド(ダスティン・ホフマン)という自閉症の男と出会い、やがて彼こそが受益者であり、自分の兄であることを知るのです。記憶力に優れたレイモンドをホームから連れ出したチャーリーは、スザンナも含めて3人でロスヘ旅することにしました。

 ところがある日、チャーリーが遺産を自分のものにするためレイモンドの面倒を見るつもりでいることを知ったスザンナは愕然とし、チャーリーのもとを去ります。兄の後見人となることで遺産の半分を所有しようとするチャーリーは、飛行機嫌いのレイモンドとともに車で旅をすることになりましたが、ある日モーテルに泊まった夜、彼こそがチャーリーの幼い頃の辛いばかりの思い出の中で、唯一心なごませる存在であった“レインマン"であることを知り胸つき動かされ、スザンナに電話で兄の本当の後見人になる決意を伝えました。
 チャーリーとレイモンドがバスルームで歯を磨いていたとき、レイモンドが歌った『歯がガタガタのレインマン・・・』という歌をチャーリーもかすかに覚えていて、一緒に歌い、幼い頃別れ別れになった兄の存在を思い出すのです。こうして兄弟の熱い絆で結ばれた2人は、ラスベガスに立ち寄り、レイモンドの抜群の記憶力でカードで大金を得ました。またチャーリーは、レイモンドが好意を抱いた娼婦アイリスとのデートのセッティングをしたり、ダンスを手ほどきしたりしますが、結局彼女は姿を現わしません。落胆するレイモンドをスザンナは優しくなぐさめ、彼と一緒にダンスをし、2人は静かに唇を重ねました。
 しかしロスに到着した2人を現実の荒波は容赦なく押し寄せ、やがてレイモンドとチャーリーは、兄として弟として、それぞれの路を歩み始めることになるのでした。
 レイモンドが施設へ帰ることが決まり、見送りに行ったチャーリーは『愛してるよ。』と言い、レイモンドは『ベストフレンドだよ』と・・・レイモンドにとってはそれがぎりぎりの言葉だったのだと思います。話によると、最後のセリフはアドリブだったとか・・・
さすがダスティン・ホフマンですね。
 
 そこで自閉症について少々。

・言葉の発達のおくれ…
生涯ひとことも話さない人もいるし,話せても,反響言語(オーム返し)や紋切り型のことばだったりする。また,身振りや表情など別の方法を用いたコミュニケーションもほとんどしない。
・対人関係の困難さ…
乳児期には抱かれるのを喜ばないとか,幼児期になって呼びかけられても振り返らないとか,相手と視線を合わせようとしないなど。学童期や青年期になっても,相手の気持ちを理解できず,友だちと協調して遊ぶことができない 。
・アンバランスな感覚…
身体に触られることには過敏に反応して嫌うのに,けがの痛みには平気だったりする。また,赤ちゃんの泣き声や犬の吠え声など日常的な音をひどく不快がって泣き叫ぶこともあれば,ガラスや金属が擦れ合う音など一般の人には耐え難いような音にはケロッとして平気でいたりする。
・活動や興味の範囲が狭い…
手をひらひらさせたり,紐を目の前にかざして振ったり,身体を前後に揺すったりなど,反復的な動作を繰り返す。また,ミニカーやブロックなどを横一列に並べたり,水道の水を出しけてながめていたりするのに没頭して,他の遊びに興味や関心が広がらない。
・アンバランスな知的機能…
知的機能の水準は個人差があり,発達水準の低い人が多いが,一部の機能が全体の能力と比べて不釣り合いなほど優れていることがある。たとえば,ジグソーパズルや神経衰弱ゲームがやたらと得意だったり,何年も先の暦が全部頭に入っていたり,手芸や絵画がとても上手だったり…。
・変化に対する不安や抵抗…
ものを置く位置や歩く道順,着替えの手順,生活の日課など,決まったやり方にこだわって変化に強い不安や抵抗を示す。

このようにして見てみると,自閉症の人に関わる側の立場の者にとって,彼らの“問題行動”と呼ばれている,いわゆる困った行動をどのように理解するかがとても重要です。
 ここで大切なのは,『問題行動には,意味がある』ということだと思うのです。問題行動が生じた背景にはいったい何があったのかを、冷静に見極める必要があると言えます。

そういった意味で私の問題行動にも,意味があったのでしょう。生活の日課など,決まったやり方にこだわって、変化に強い不安や抵抗を示す・・・その通りに私の行動パターンは決まっていて、そのリズムを壊される事が不安でたまりませんでした。

一度強い恐怖の体験をしたことが、私の場合トラウマとなってそういう行動を起こしたのだと思います。と同時にレイモンドも幼いころ、弟にやけどに似た体験をあじあわせていたと思われますね。それが原因だったかどうかは私の想像ですが、生まれつきの自閉症ではないと私には思えます。

 バリアフリーといっても、障害者には開かれていない扉がいくつもありますね。乗り越える本人の意思も大事ですが、普通に生きている方々にも今一度考えていただきたい問題ですね。そういう意味で『レインマン』を観てみてはいかがでしょうか。

 

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2009年4月 5日 (日)

私の好きな作品たち~海堂 尊編

 『チーム・バチスタの栄光』以来人気を博している海堂さん。今回はまた、田口・白鳥シリーズの『ジェネラル・ルージュの凱旋』が映画化されましたね。
 桜宮市にある東城大学医学部付属病院に、伝説の歌姫が大量吐血で緊急入院した頃、不定愁訴外来の万年講師・田口公平の元には、一枚の怪文書が届いていた。それは救命救急センター部長の速水晃一が特定業者と癒着しているという、匿名の内部告発文書だった。病院長・高階から依頼を受けた田口は事実の調査に乗り出すが、倫理問題審査会(エシックス・コミティ)委員長・沼田による嫌味な介入や、ドジな新人看護師・姫宮と厚生労働省の“火喰い鳥”白鳥の登場で、さらに複雑な事態に突入していく。将軍(ジェネラル・ルージュ)の異名をとる速水の悲願、桜宮市へのドクター・ヘリ導入を目前にして速水は病院を追われてしまうのか…。そして、さらなる大惨事が桜宮市と病院を直撃する・・・と書かなくてももう読んでらっしゃるでしょうから私はあえてマイナー(と言っては叱られますよね)作品を紹介します。

 これはベストセラーですが、『ひかりの剣』は読みましたか?『チPc017 ームバチスタの栄光』の舞台でおなじみの東城大と帝華大。『ジェネラル・ルージュの凱旋』の天才外科医・速水晃一は「東城大の虎」とよばれた剣道部主将でした。かたや、「帝華大の伏龍」とよばれた清川。二人のあいだには、医鷲旗(東日本医科学生体育大会の剣道部の優勝旗)をめぐる伝説の闘いがありました。バブル真っ盛りの1988年。豊かな剣の才能を持ったふたりの男,東城大学,猛虎:速水晃一そして,帝華大学,伏龍:清川吾郎がその時代に舞い降りた。医学部剣道部頂点を決める医鷲旗で昨年,清川は速水に敗れている。そして今年,10年前帝華大学に医鷲旗をもたらした高階が,東城大学に講師として転任することになる・・・ チームバチスタシリーズの『ジェネラルルージュ』速水と『ジーンワルツ』清川による医学部剣道を中心にした物語。本当に剣道のみの物語であるため,シリーズやその他の話を読んでいなくても十分に読める話です。しかし,それぞれの人物の未来の話であるそれらの本を読んでいればより楽しめる場面などがあるのは確かです。物語として,高階が相変わらずの狸ぶりの発揮しながら,二人を誘っていくのですが,今後の登場人物たちの人物研鑽の起点になってくるような話なのではないか・・・と感じました。

 医療ミステリーというジャンルにスポットをあててくれた海堂氏。 本作では、ちょっと古風な剣道という世界で、純文学の趣の青春物を書いてくれました。 高階“顧問”や速水“主将”など、お馴染みのメンバーの懐かしき時代の話ですが、 海堂ファンには嬉しい作品になるのではないでしょうか。 剣道という舞台設定は、門外漢にはちょっと分かりにくいかもしれませんが、 「剣道という闘いは、社会という大海原から見れば、小さな水たまりの中のできごとだ。」 という高階顧問の台詞を聞くあたりから、俄然身近に感じられるようになりました。 大見得を切ったような言葉がしっくりとくるのも、剣道という武道の世界だからこそかもしれません。
 これ一冊だけ読んでも、充分に楽しめると思いますが、海堂氏の他の著作を読んでからのほうが、より本作の世界に浸れると思います。
 

 『ジーン・ワルツ』は、正直男性陣にはキツいのではというほどの物語でした。少子化対策と謳いながら医療と産科を崩壊させる国と厚生省 女性を産む機械としか認識せず、妊婦を盥回しにして現場に責任を押し付ける古い法律に縛られる社会、潰される事を恐れ、しり込みする産科学会。 不妊治療に顕微授精そして代理母の問題。 どんな手段を使っても、たとえ法律や医療制度に反してでも子供が欲しい 、それがそんなにいけないことでしょうか・・・産科医の激減と共に崩壊した地域医療。産まないという選択の奥で産めないという苦しみを隠す女性達 一体この国の少子化は誰が作ったのでしょうか。

そんな現実をいとも簡単に一刀両断する理恵に、快感すら感じるクールウィッチは颯爽と未来へ羽ばたき、 戦いの行く手を阻むものに容赦なく刃を突きつけます。 その冷たい怒りと鮮やかな報復に、犯罪ではあっても思わず拍手を送りたくなる女性は多いのではない
でしょうか。そう、これは崩壊する医療の影で軽んじられ 虐げられてきた女性たちの精一杯の抵抗と復讐劇なのでしょう。
 作中に登場する女性達 、理恵の予想に反して彼女たちは子供を守る為強く逞しく変貌します。相手の男性が誰でももはや関係なく、障害を背負っていても、たとえその子が生きられないと分かっていても 女から母親になった女性達はただ全力で赤ん坊を守り、愛情を注ぐ。そして生の対岸にいて、彼女達と赤ん坊を命を賭して守り抜き慈悲を与えるマリア。その姿に冷徹で計算高い魔女も涙を落とす・・・だってジーン・ワルツ(遺伝子のワルツ)はこんなにも素晴らしい 、その尊さと奇跡を、女性としての全てを失い 魔女にならざるおえなかった理恵は悲しいほどよく分かっていると思います。

 理恵の想いを医者の卵達はきちんと受け取ったよう・・・ 寄り添う金田と鈴木の姿が未来に希望を与えていて微笑ましかったものです。最後に理恵は清川を代表する男たちに、読者に誘いかけます。 それは剣のように鋭い敵意でもあり、抗い難い甘美な毒であり、 彼女なりの精一杯の愛の告白です。 艶やかで毒々しく、けれど惹きつけてやまない美しい笑顔で手を差し出し「ねえ、もう一度私と一緒に踊りましょう」・・・ 私達には彼女の手を払いのける事などできはしなでしょう。あまりにも鮮やかなどんでん返しに 「しもべになるのもわるくない」清川は苦々しく笑うのです・・・
 私が男なら迷わず跪くでしょう。堕天使が祝福する悲しいまでに美しい魔女の旋律。 彼女が潰される時はこの国の終焉であり、 同時に私達の遺伝子がワルツを踊り終える時だから ・・・

 そもそも"ワルツ"とは相手がいて成立するもの。 螺旋のように絡み合い命のダンスを踊る遺伝子は、正に男女の共同作業。 けれど厚生省も、官僚も、産婦人学会も、夫も、体を繋げた相手も。 理恵の手を取り医療と女性達を守る為に共に闘おうとはしないのです。
 『ジーン・ワルツ』の題名には、 賛同する母親たちと理想という幻の城の中で、 独り孤独なダンスを踊り続ける理恵の姿を、示唆しているように思えました。女として母としておざなりには決して出来ない問題だから・・・私はどの作品より、この作品に感銘を受けました。

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2009年4月 4日 (土)

私の気になる作品たち~津村 記久子編

 直木賞の天童荒田氏の『悼む人』と同時期に芥川賞をお受けになった津村さん。『悼む人』に夢中になって津村さんの作品は手付かずにいました。ごめんなさい。そこでまたどんな作家さんなのか調べてみると、1978年生まれと聞いてまたびっくり。10年立たずしてで華々しい作家になったのですね。本格的に書きはじめたのが大学時代からというのですから元々文才はあった方なのですね。

  2005年に「津村記久生」名義で投稿した『マンイーター』(単行本化にあたり「君は永遠にそいつらより若い」に改題)で第21回太宰治賞を受賞し、小説家デビュー。2008年には『カソウスキの行方』で初めて芥川賞候補(第138回)となり、続く第139回でも『婚礼、葬礼、その他』がノミネートされる。同年、『ミュージック・ブレス・Shagaru016 ユー!!』で第30回野間文芸新人賞を受賞。2009年、『ポトスライムの舟』で第140回芥川賞受賞。「幼稚園や小学生のころから児童書のまねをして書いていました」。中学生の途中から大学入学のころまでは音楽が好きになり、“断筆”したらしいのですが、電車で遠距離通学をする合間に再び読書に目覚めたそうです。「夏休みを利用して大学3年から本格的に書き始めた」。チェスタートンやカート・ヴォネガット、マーガレット・ミラーという海外の作家に影響を受けたといいいます。現在は大阪市内で土木関係のコンサルティング会社に勤務。執筆は未明の2時から4時までと変則的な時間帯ですが、会社同様ほぼ週5日と決めている。受賞で今後はかなり忙しくなることが予想されますが、会社を辞める気は当分ないそうです。「自分が小説を書けるのは会社のおかげ。働いているほうが面白いですから」と笑っていたそうです。私もそんな気持ちになりたい!!

 『ミュージック・ブレス・ユー!!』では芥川賞受賞というと堅苦しいイメージがある人もいるかもしれなませんがこの作家さんはそうではないのです。笑いと共感とひんやりした冷たさが共存した、でも何か強いパワーに満ちた物語を書く人で、私が今一番共感を覚えている作家かもしれません。そして、普通の女性、よっぽど私って勝ち組で困っちゃうわって人以外は、この作家さんに共感する人はとっても多いと思います。

 物語は、高校3年生、バンドのベーシスト担当のアザミが、いきなりバンドメンバーに殴られてバンド解散!みたいなところから物語ははじまります。となると普通、アザミは新しいバンドに入ったり元のバンドが復活したりして最後の文化祭でライブやろうぜ!みたいな話の流れになりがち、ですがそんな普通の話ではありません。アザミは結局バンドも好きですが、聴く方が好きなタイプです。ずっと音楽を聴いていないと落ち着かなくて、聴いた曲の感想をせっせと書きためていきます。そんなアザミが受験という現実に直面、将来を見据える物語ではあるのだけれど。

 アザミにはチユキっていう友達がいて、チユキはとおても正義感が強い子で、正義を全うするためなら何をやっても構わないと思っていて、クールにすごいことをやるのです。それも友達とか、友達じゃない女の子でもいい、その人を傷つける人がいたら許せない・・・
そんなチユキの酷い仕打ちに胸がすーっとしてしまって、アザミも、チユキにひどいことを言った男に吐く暴言がまた爆笑もので、彼女たちの振る舞いには目が離せません。二人とも友情べったりな台詞は一切はかないけど、すごく信頼しあってるのがわかるし、こういう友達ってとてえもいいなあと感じましたね。ちょっと凶暴で驚きますが・・・

 アザミ周辺はまた個性的な人が多くて、歯の矯正友達のモチヅキや、音楽友達?のトノムラとかの男友達もいるのですが、彼らがアザミの将来を考えるのに影響を与えあったりもしていて、そういう関係、緩いけど濃いみたいな関係も好ましいですね。
 ライブ録音とか聴いてると、バンドのグルーブが絡み合ってその時しか作り得ない奇蹟のサウンドが生まれている時があります。それはたった1回しかできない・・・高校生活もそんな風で、アザミやチユキたちでなければ奏でられない一瞬のすばらしい日々、迷いやもやもやや不安や楽しいことやらを、全部切り取ってくれたようなそんな作品です。
 アザミの悩みがとてもリアルですし、だから私も高校の頃もやもやしてたなあ、と思い出しました。脚本が書いてみたくて放送曲に入って番組を自主制作して聞いてももらえないのにお昼休みに流したり、大会で出た事は私の高校の思い出になりました。そんな事を思い出させてくれる作品でした。

 『ポトスライムの舟』では、『群像』11月号掲載され、本題に入る前にまず、津村さん『真夜中』NO.2に「小説には書けない好きな言葉」というエッセイを寄せていて、とてもたのしい内容なのですがそれはともかく、書き出しでこう述べていました。「毎日文を書いているからといって、頭の中の引き出しにあるすべての言葉を華麗に使いこなしているわけではないのだった。当然のごとく。どちらかというと、引き出しの前の方に溜まっている語句を繰り返し取り出しては貼り付けている(略)なんなんだろうか、こういう言葉というのは、いったん引き出しの前の方に転がり出てくると、無意識に手に取ってしまうのだろうか(略)もっと粋なことを言え、とそんなものは芸風のうちに入っていないし誰も私に期待していないのに、勝手に憤慨したりする」のだ。と、もちろん、これを素直に鵜呑んだりするのは良くないのだろうけれど、意外と津村の文章がそうやって出来ているのだとしても納得がいってしまうよな、と思うのは、この『ポトスライムの舟』という小説の主人公が、自分の左腕に刺青で入れたいと考えているのが『今がいちばんの働き盛り』なるたいへん珍妙な文句であることに対し、読み手であるこちらは一瞬、いやいやいや、と面くらいながらも、しかし全体の構成からすると、決して違和感がなく、しっかりと収まり、むしろそれがアタマのほうに置かれているおかげで、後の展開が、作品そのものが生き生きとしているかのような印象さえ、受けるのです。裏を返すなら、引き出しのなかから持ってこられ言葉一つの扱いが、最初は無意識であったとしても、ちゃんとどこかで慎重に調整されているため、そうなっているのだとしても不思議はないからです。

 主人公のナガセは(長瀬由紀子)は、二十九歳の現在、大学の新卒で入った会社を心労から辞め、小型部品の生産工場に薄給ながらも契約社員として勤めています。そのほかにも、パソコン教室の講師を請け負ったり、大学時代の友人であるヨシカが開いたカフェで給仕のパートをしたり・・・そうした日々における無意識下のオブセッションが、たとえば『今がいちばんの働き盛り』の刺青を入れるという考えを浮かばせたりもしたのでしょう。

 その彼女があるとき、工場の掲示板に貼られていた世界一周クルージングのポスターを目にし、それに参加するための一六三万円という代金が「この工場での年間の手取りとほど同額なのだ」、と唐突に気付いてしまったことから生きるために薄給を稼いで、小銭で生命を維持していくのです。そうでありながら、工場でのすべての時間を、世界一周という行為に換金することもできるので、自分の生活に一石を投じるものが、世界一周であるような気分になりいけない、と思いつつも、しかしたとえ最終的にクルージングに行かないとしても、これからの一年間で一六三万円そっくりめることは少しもいけないことではない、という言い訳を思いつき、実際に節約を試みるようになります。こうしてナガセのうちにあたらしく芽生えた金銭への執着が、せこく、おかしく、でもそのせこさやおかしさが切実でもあるふうに綴られているのですが、一方で、ヨシカを含めた大学の同級生たち、既婚者のそよ乃やりつ子の存在が、独身であるがゆえに成熟の速度を違えているナガセとの、ちょうど対比となる感じで、物語を膨らませていく・・・とくに、夫の振る舞いに耐えきれず、母と二人暮らしをしているナガセの家に、娘の恵奈を連れたりつ子が070chag やって来てからのくだりは、たまたま二人きりになってしまった日の恵奈とナガセのやりとりなどは、この作者ならではのねじれたやさしさがユーモアとイコールで結ばれるセンスがよく出ていて、何度も読み返したい魅力を兼ね揃えています。

 たぶん、それなりの数の書評が出回れば、ワーキング・プア云々の現代的な若者の貧困を例に出しながら、作品を小難しく解釈するものも少なくはないのでしょうね、と予感させる内容であるけれども、いえもっと単純に、何気ない日々の寄る辺ない不安を、ただ無為を重ねながら生きている様子を、このように切羽詰まり、それでいて袋小路に閉じこめてしまわない手つきであらわすことができるのだ、という驚くべき清新さのほうが先にきました。ほとんど女性しか登場しないなかで、工場で一緒に働く岡田さんやナガセの母親の、正しく人生の先輩と呼んでも構わない存在感も、加齢することの畏れを払ってくれるからでしょう、実に頼もしく、効き、前向きな傾きをつくって、背中を押してくれるのです。

  若い人が主人公なことが多い作品ですが、決して未熟でも早熟でもない等身大の自分をみるようでとても面白かったです。今度読む時は熟年者対象というのはまだ早いですよね・・・期待しています。

 

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2009年4月 3日 (金)

私の好きな俳優たち~イッセー尾形編

 この方の芸を観て笑わない人がいるでしょうか、面白い方ですよね。一人芝居のスタイルを確立し、日本における一人芝居の第一人者となりました。現在では日本国内のみならずアメリカやヨーロッパといった海外でも巡業を行っている。また一人芝居の他にも桃井かおりさんや小松政夫さんとの二人芝居、映画、ドラマ・CM・司会、小説の執筆、絵画など幅広く活動を行なっています。

 基本的に最小限の小道具と衣装だけで芝居を行い、内容は日常の中にあるユーモラスな人物とのかけあいが主で、演目名をのぞいて状況説明などは一Issei001 切行われなません。最初のうちはシチュエーションを把握するのに多少手間取りますが、軽妙な語り口と演技の巧みさに引き込まれるうちに自然と状況が理解できるようになるから不思議ですね。大まかな設定や筋書きはあるものの、セリフのほとんどはアドリブだそうで、観ていても、「ああ、こんな人いるよね。」と共鳴できてしまうんですよね。

 『意地悪ばあさん』は1982年にレギュラー番組が終了した後、月曜ドラマランド枠の単発スペシャルが放送されましたが、1983年10月の第1作で早野は警察をクビになって波多野医院(ばあさんの長男が経営する医院)の事務長になっています。でも不評だったのか1984年4月の次作以降は警察官に戻っている。それほどイッセー尾形=早野巡査のイメージは強かったということですね。

 また、「お笑いスター誕生!!』では、人間を体現、描写した漫談なので、完全な玄人向け。上手いなあとは思いながらも、あまり笑うことは出来なかった。審査員にも、よく「芝居が上手すぎて、笑うことが出来ない」と言われていたそうです。

 あるドラマで脇役として出ていたことがあるのですが、確かに主役より目立っていました(笑)。それもそのはず、ドラマや映画が放す訳ありませんよ。純然たる主役でいきたいところで、2005年:桃井さんと共に昭和天皇役で出演したロシア映画『太陽』(アレクサン
ドル・ソクーロフ監督)が、ベルリン国際映画祭で上映されました(日本では2006年公開)。

 映画では、
『会社物語 MEMORIES OF YOU』(1988年 日本)
『未来の想い出 Last Christmas』 (1992年 日本)
『企業戦士YAMAZAKI』(1995年 Vシネマ)山崎宅郎役 ※初主演
『ヤンヤン 夏の想い出』(2000年 台湾・日本)
『それから』
『そろばんずく』
『悲しい色やねん』
『トニー滝谷』(2004年 日本)
『晴れた家』(2005年 日本)                                                     Isasei002
『太陽』(2005年 ロシア)昭和天皇役
『ホームレス中学生』(2008年 日本) 田村一郎役
等があり、いい味を出してくれています。ドラマでは
NHK連続テレビ小説『凛凛と』
NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』
NHK銀河テレビ小説『まんが道』
NHKドラマ新銀河『くろしおの恋人たち』、『やさしい関係』(主演)
『意地悪ばあさん』(フジテレビ、レギュラー番組:1981年~1982年、単発スペシャル:1983年~1989年)
『藤子不二雄の夢カメラ』(1986年3月3日、1987年3月2日)ヨドバ役 
『ビートたけしの学問のススメ』
『お坊っチャマにはわかるまい!』(1986年 TBS)
『都会のタコツボ師』1~3
『男たちの運動会』
『ラベンダーの風吹く丘』
『花へんろ』
『くらげが眠るまで』(CS放送「イッセー尾形が来た!」内ミニドラマ、1998年~1999年:共演は永作博美)
『イッセー尾形の「たった二人の人生ドラマ」』(NHK総合、2006年8月13日、制作NHK福岡放送局)
共演は大泉洋、石田ゆり子、小松政夫。福岡市・中州の屋台を舞台にした即興の二人芝居。
等に出演し、完全に個性派路線にと思いきや凡人の役がこれほどおかしいと思える人も非常に稀で、確かに顔だけ観ると普通のサラリーマンなのですが普通に見えないのですから困ってしまいます。一度でも彼の一人芝居を観たことがある人ならば、そのおかしさは伝わっているでしょう。

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2009年4月 2日 (木)

私の読まなきゃの作品たち~篠田 節子編

 キャリアウーマンが闊歩することに抵抗を感じている私が読んで笑ってしまったのが篠田さんの作品でした。

 30歳の時、朝日カルチャースクールの小説執筆講座で、直木賞作家多岐川恭の指導を受けました。また32歳で、講談社フェーマススクール・エンタテイメント小説教室で山村正夫から小説の手ほどきを受けます。同じ講座の受講生に、鈴木輝一郎氏、宮部みゆきさんがいたそうです。

 1990年にパニックSFタッチの中篇ホラー小説『絹の変容』で小説すばる新人賞を獲得。その後、異形ホラー小説『アクアリウム』、伝奇サスペンス小説『聖域』、直木賞候補となった医学パニック小説『夏の災厄』、音楽ホラー小説『カノン』、近未来スラップスティック反ユートピア(ディストピア)小説『斎藤家の核弾頭』などを発表。

 官僚制、民主主義、サラリーマン社会、管理社会、家父長制、宗教などさまざまな主題をとりあげており、広義のミステリ、ホラーといったジャンルに分類されますが、篠田さん自身にはジャンル意識があまりみられない点が特徴です。

 編集者からエロティックな作品を、との求めに応じた短編小説Shagaru003 (冒頭作)を連作としてふくらませた『女たちのジハード』では、男性優位社会の中で生き方を模索する若いキャリアウーマン群像を描き、女性のライフスタイルや結婚、妊娠、海外での就職などをコミカルに描写したものでした。この作品で直木賞を受賞。瓢箪から駒が出たような成り行きに、本人は「意外かつ不本意だ」と困惑を披瀝しました。エピソードがあります。この作品はNHKが1997年ドラマ化しNHKBSで放送し、好評を博したため再編集してふたたび1998年地上波で放映されましたね。中心になる3人の女性は、賀来千香子、三井ゆり、千堂あきほが演じました。

 いつのまにか十年以上勤め、30歳を過ぎた地味な康子。思うことを何でもはっきり言い過ぎる、上昇志向で自分磨きに励む紗織。25歳までにいい男を見つけて結婚するため、打算も演技もするリサ。ひたむきで従順だが、甘えることしかできない紀子。損害保険会社の同じ部署に勤める4人のOLが、生きていく道を探して奮闘する物語です。
 「バリバリのキャリアウーマンにもなれず、結婚もしないで、今のままじゃただの売れ残り」だと言われた康子はヤクザと渡り合い、競売のマンションを手に入れる。そこに夫から暴力を振るわれ逃げ出した紀子がやって来る。紗織と康子は紀子の自立の道を探すのですが・・・
紗織は得意な英語を生かそうと翻訳家について勉強するがうまくいかず、留学を決意。異動したリサはセミナーで青年医師と出会うのですが、彼はネパールの無医村へ行くという。そして康子は売れ残ったトマトを抱えた松浦に出会ったことから人生の転機を迎えます。
 時に助け合い時に反発し合う4人は、それぞれ違う考え方をもち、欠点だらけ。そんな彼女たちの中に、自分と重なる部分が見えてきます。結婚、仕事、生き方に迷い、挫折しながらも、彼女たちは夢と幸せを追い求め、「普通の人生」ではない、たった一つの自分の人生を選び取るため戦ってゆくのです。そしてそれぞれが新しいスタート地点に立つところで物語は終わり。
 いくつもある現実の壁に突き当たって戸惑っている人に、主人公たちのジハード(聖戦)はきっと共感と勇気を与えてくれるだろうと少し明るい気持ちになる作品です。篠田節子の観念で塗りたくってない簡潔な文体がいいんですね、きっと。優れた面も愚かな面もひっくるめて女という生き物を愛しく見つめてる眼差しの懐の深さを感じました。

 このような作品で長編にするとストーリーがダラダラになってしまいがちですが、ここは20~30代に直面する人生の葛藤が、五人のキャラクター(その中でも三人がメイン)の個性に沿って描かれるので、そんなこと感じさせません。
 たとえば、結婚願望の強いリサはあの手この手を使って男を落とそうと繰り返しているのに、独立願望の強い沙織は男なんか気にもせず自分のやりたいことを探し続け、お局様で居続ける康子は自分に何か誇りが欲しいと思って自分の城(マンション)を手に入れるために躍起になる、といった感じにです。ここには「女の正しい生き方」というものが説教くさく書かれているわけではなく、「女が女であるが故に悩む生き方」が描かれているのだと感じました。それが長編の中に順序立てて、しかも絡み合いながら進められているのは驚くほかないのです。とにかく読まなくちゃの作品なのです。

 また他にも『ゴサインタン―神の座』、『弥勒』、『転生』、特に、『仮想儀礼』上下巻は圧倒されっぱなしだそうで読んでみたくなりました。もう最近では女流作家はねえなんて言ってはいけませんね。宮部みゆきさん以来時折手を伸ばしかけては躊躇していたこの不平等な行いを正さなければ芥川賞作品は読めません。何故か芥川賞作家さんは女性が多いですよね。それゆえ今後もっと女性の作品も読むことをここに誓います。

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2009年4月 1日 (水)

私の尊敬する大統領~ジョン・F・ケネディ編

 私はケネディ大統領の英語はとても美しく、聞きやすいものだというところから興味っを持ち始めましたが、まもなく死去され、本当に残念でなりませんでした。幼い私は『ジョン・F・ケネディ』と名付けられた文庫本を買い、読めない漢字が多い中、夢中で読んだり、暗殺についてのドキュメントを何度の見たりしていました。

 ケネディ中尉が率いる魚雷艇、PT-109は、1943年8月2日にソロモン諸島のニュージョージア島の西を哨戒していた時に、大日本帝国海軍の駆逐艦・天霧との偶発的な接触事故によって船体を引き裂かれました。彼は痛めていた背中からデッキにたたきつけられましたが、負傷者を命綱で結びつけ3マイル遠泳して、なんとか小さKenedi001 な島にたどり着いたと言います。その接触事故を目撃した僚艇の乗員は、PT-109の乗員全員の戦死を確信し、基地に帰還後の報告でも乗員全員の戦死を報告(天霧側でも艇員全員が戦死したものと思い込んだ)。ゆえに友軍の捜索・救出開始まで一週間近くかかってしまい、助かったPT-109の乗員たちは飢えと渇きに苦しみました。そして、友軍による数日の探索後に島民2人に出会い、ココナッツに刻んだメッセージが元で救助された(このココナッツは後年、ホワイトハウスの執務室に暗殺の日まで置かれていたといいます)。この時の部下を見捨てなかった勇敢な行動が、後の政治家としての資質評価に大きく寄与したとされました。

 1960年11月8日の大統領選挙は歴史に残る接戦でリチャード・ニクソンに勝ちますが、43歳で当選したケネディは最も若い大統領および最初のカトリック教徒でした(セオドア・ルーズベルトはケネディより若い42歳で大統領になったが、ウィリアム・マッキンリーが暗殺された後を埋めるため自動的になったもので、選挙で選ばれた大統領はケネディが史上最年少です)。その選挙運動に関するセオドア・H・ホワイトの1961年の著書『 TheMaking of the President 1960 』は、ベスト・セラーであるだけでなく、しばしば高校と大学のアメリカ政治と歴史のコースの中で補足のテキストとして使用されているほどです。

 ケネディはキューバ危機が去った1963年6月10日に、アメリカン大学の卒業式において『平和のための戦略 (THE STRATEGY OF PEACE)』という演説を行ないました。この演説の中でケネディは、「私の言う平和とは何か? 我々が求める平和とは何か? それはアメリカの戦争兵器によって世界に強制されるパックス・アメリカーナではない。そして墓場の平和でもなければ奴隷の安全性でもない。(中略) ソ連への我々の態度を再検討しようではないか。(中略) 我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を呼吸している。我々はみな子供たちの将来を案じている。そして我々はみな死すべき運命にある。(中略) 我々の基本的、長期的なジュネーブでの関心は全面的かつ完全な軍縮である。この軍縮は段階的に行われるよう計画され、平行した政治的な進展が兵器に取って代わる新たな平和機構を設立することを可能にするものである」と語りました。
 さらに米英ソの間で核実験禁止条約に関する話し合いを始めることを明言し、「他の国が核実験をしない限り、アメリカも再開することはない」と宣言しました。この演説はノーカットでソ連の新聞やラジオで伝えられました。その後、1963年7月25日、米英ソの間で部分的核実験禁止条約 (PTBT) を締結することになるのです。

 ケネディの失敗はベトナム戦争を止めなかったことだと散々聞かされていましたが、果たしてケネディ大統領の思惑はどこにあったのでしょう。ケネディはベトナム戦争からの早期撤退の可能性を検討し始めていました。1963年9月3日に、ケネディはテレビのインタビューに対し、「サイゴン政府が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的にはこれは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争―ベトナム人対共産主義者の戦い―で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ。我々は彼らを支援し続ける用意はある。しかしベトナム国民がこの努力を支持しなければこの戦争には勝てない。私の見るところ過去二ヶ月の間にサイゴン政府は民衆から遊離してしまっている」と答えました。

 そして10月31日には、「1963年の末までに軍事顧問団を1000人引き揚げる予定」であることを発表ししました。そして11月の反ディエムクーデターの後には、マクナマラ国防長官が年内の1000人の顧問団の引き揚げを再確認するとともに、1965年までの軍事顧問団の完全撤退を発表しましたが、ケネディ暗殺のため撤退計画は頓挫したと言われています。
 2003年発表のドキュメンタリー映画「The Fog of War」では、マクナマラ国防長官とジョンソン大統領の電話の録音記録が紹介され、ジョンソンがケネディのベトナム撤退に強く反対であったことの直接的な証拠を提示しています。アメリカによるベトナムへの軍事介入
はジョンソン大統領によってより増強され、泥沼化したというのが事実なのです。

 また、人種差別の問題では、ケネディはそれまでは議会との対立を避け公民権法案の提出を見合わせていましたが、アラバマ州立大学に2人の黒人学生が入学した1963年6月11日夕方、公民権運動を助けるためにより強い処置を講ずる時期が来たと決断し、議会へ新しい公民権法案を提案、テレビで大統領執務室から直接国民に訴えかけました。「リンカーン大統領が奴隷を解放して以来100年間の猶予が過ぎた、彼らの相続人、彼らの孫は完全に自由ではない」と言いました。アメリカは多くの国家および背景の人、そして人は皆平等に作られたという原理によって設立されたことを訴え、ケネディはアメリカ人がみな彼らの皮膚の色にかかわらず、アメリカで幸福な生活を楽しむべきであることを明らかにしました。この演説の中でケネディは人種差別を単なる憲法や法律上の問題ではなく、「道徳的危機」であると断じたのです。
 ケネディは議会に対する説得にも力を入れました。6月19日に法案を議会に送るとともに、法案に関する特別メッセージを送りました。その中でケネディは「この法案の提出は、単に経済的効率のためでも、外交的配慮のためでも、ましてや国内の平穏を保つためでもない。ただ何よりもそれが正しいことだからだ」と訴えました。この公民権法はケネディ政権下では成立しませんでしたが、人種差別廃絶に対し積極的な姿勢を持っていたジョンソン政権下で議会を通過し、1964年、公民権法として成立することとなりました。

 これほど愛された大統領がいるでしょうか・・・

なのに暗殺事件・・・暗殺の理由と暗殺者は多くの説があり、いまだに結論が得られていなません。その主な原因は、証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、また大規模な証拠隠滅が行われたと推測できる事象が多くあるためです。例えば、暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、ダラス市警察本部でジャック・ルビーに射殺されました。この射殺事件にもケネディの暗殺事件の真相の隠蔽行為(口封じ)であるとする意見があります。暗殺事件の最初の公式調査委員会は、事件の一週間後1963年11月29日にリンドン・B・ジョンソン大統領によって招集された。その委員会は、最高裁長官アール・ウォーレンによって率いられ、ウォーレン委員会の名称で知られるようになりました。10か月の調査後、1964年9月末にウォーレン委員会報告書が公表されます。委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとしました。オズワルドの単独犯行説はローン・ガンマン・セオリーと呼ばれます。委員会は暗殺時に三つの弾丸が発射れ、二発の弾丸がケネディ大統領とコナリー知事を命中。その弾丸は全てリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード車列の後方にあったテキサス教科書倉庫から発射した物として結論を下しました。

委員会の判断:
・一発は車列から外れたと考えられる。(三発の内の何射目かは特定できない。)
・ケネディ大統領の上背部に命中した弾丸は、首の正面近くに貫通し、コナリー知事を負  傷させたと思われること。
・最後の弾丸は大統領の頭部に命中し致命傷となったこと。

 ウォーレン委員会の報告による致命傷を与えた銃弾の方向Kenedy002 (魔法の銃弾)委員会は教科書倉庫の6階で3つの薬莢が発見されたことに注目しました。また、ライフル銃は近くに隠されたことが判明した。委員会はケネディとコナリーは別々の弾丸で傷つけられたのではなく、両者とも同じ弾丸で傷ついたとするのが適当だと提示した。弾丸はほとんど形状を保ったまま担架(stretcher)の左腿付近から発見された。この説はシングル・バレット・セオリーとして知られるようになった。いくつかの弾道の証拠は弾丸がそのような軌道を描くことが可能であると示唆したが、多くの主張がこの点で一致しない。魔法の銃弾は1発の弾丸がそのような多くの銃痕を残すのは不可能であることを揶揄的に表現したものです。委員会はさらにセキュリティ面の不備を指摘した。指摘は大統領が旅行する際のセキュリティ増加に帰着しました。銃弾の入り口とされるコナリー知事の背部(右半身)の傷は、出口とされる胸部(右半身)の傷より小さかった。銃弾の入り口とされる右手首(甲側)の傷は出口(掌側)よりも大きかったといいます。この問題について、胸部を貫通した銃弾が回転し、前後逆に手首に侵入したとする「回転説(Tumbling Theory)」がありました。

 暗殺の真相は未解明であり、様々な陰謀説が流れています。ケネディの暗殺は現在に於いてもアメリカ社会に暗い影を投げ掛けているのです。
 ケネディ本人を始めとして、
実弟のロバート・ケネディは1968年の大統領選挙の予備選中に暗殺。
末弟のエドワード・ケネディはチャパクィディック事件で政治家としての求心力を失う。
実の妹のローズマリー・ケネディはロボトミー手術を無理やり受けさせられ、知能が後退して性格が粗暴になる(2005年死去)。
息子のジョン・F・ケネディJr.は自家用機を操縦して別荘へ向かう途中、大西洋上で墜落し不慮の死を遂げている。

等、多くの家族が不慮の死を遂げたり、不幸に見舞われていることから『悲劇のケネディ家』と言われています。

 私より上の世代にとってもやりきれない思いを心のどこかに隠している人たちがきっといると信じています。ジョン・レノンの死も強烈な印象を多くの若者に残しましたね。

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