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2009年5月

2009年5月31日 (日)

私の好きな俳優たち~常田富士男編

 決して主役ばりの俳優さんではないのですが、その笑み、優しい声には癒されるものがある俳優さんですよね。こういう方となら結婚したいとも思えるのです・・・

 劇団民芸・養成所終了後、昭和41年演劇企画集団66結成し、以Tokita001 来、舞台中心に活動を続け現在に至っています。舞台活動の他にも映画・ラジオ・レポーターとしてもその才能を発揮。また、「日本昔ばなし」「YAWARA!」他などの声優でも活躍し、昭和62年にはアニメ映画「銀河鉄道の夜」「天空の城ラピュタ」「源氏物語」の3作で、第4回日本アニメ大賞声優部門・特別演技賞を受賞しました。平成7年には第30回モービル児童文化賞を受賞しているのです。すっかり声優が板についてしまったかのようですが、飄々とした演技と喋り方が特徴的で、黒澤明監督映画『赤ひげ』でも脇役を抜擢されるほどの演技力には定評があります。

 すぐに『混浴露天風呂連続殺人』を思い出すのはちょっと・・・あれはあれでよかったのですが・・・私のイメージから外れてしまうので今は忘れてください。それならば『巨泉・前武のゲバゲバ90分』や『カリキュラマシーン』を思い出してほしいです。あの時期に特徴ある存在感を持ったといってもいいでしょうね、私の場合。

 『カリキュラマシーン』は「ねじれてねじれて、きゃっきゅっこ♪」なんて歌って踊ってお勉強が出来る、今ではない斬新な教育番組でした。学校へ行く前は必ず観ていました。吉田日出子さん、宍戸錠さん、藤村俊二さん、岡崎友紀さんなど今はそうそうたるメンバーがまじめにおかしなことをして、それで学べる、こんな番組があったのです。大人気バラエティ番組「ゲバゲバ90分」のスタッフによる子供向け教育番組だけあって、おもしろいことこの上ないといえるでしょう。その頃から常田さんのことが好きだったのだと思います。
 「さようならは、うと書いておと読むのよ~」という波止場の別れのシーンはいまでも忘れられないものです。

 黒澤映画『赤ひげ』では、地廻りの役でしたし、東宝映画 『悪魔の手毬唄』では辰蔵という役でしたが、そういう役を地道にやってきて60本以上の映画やテレビでひっぱりだこだったことをここに記したいと思います。

 主役といえる役になったのが『日本昔ばなし』のナレーション、いえ、語り部だったと言えるでしょう。市原悦子さんと2人で昔話を語ったあの番組は大人でも楽しめたのではないでしょうか。

 それから、映画では名画と呼ばれるものに多く出演なさっていて、『黒い雨』、前述した『赤ひげ』などは必見の価値ありです。

 『黒い雨』は、井伏鱒二氏の同名小説を「楢山節考」の今村昌平監督氏が映画化。原爆による“黒い雨”を浴びたたために人生を狂わされた一人の若い女性とそれを温かく見守る叔父夫婦のふれあい、そして被爆後遺症に苦しむ人々の姿を静かに淡々と描いていくというものです。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、。その時、郊外の疎開先にいた矢須子は直後に降ってきた真っ黒な雨を浴びてしまうのです。5年後、叔父夫婦に引き取られた矢須子のもとへは縁談の話が持ち込まれますが、“ピカに遭った女”という噂からいつも破談になってしまうのです。叔父は矢須子が直接ピカに遭っていないことを証明しようと必死になるのですが・・・。深い小説であり、映画です。

 また、『赤ひげ』は、山本周五郎氏の小説『赤ひげ診療譚』を、黒澤明監督が「日本映画の危機が叫ばれているが、それを救うものは映画を創る人々の情熱と誠実以外にはない。私は、この『赤ひげ』という作品の中にスタッフ全員の力をギリギリまで絞り出してもらう。そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる。」という熱意で、当時のどの日本映画よりも長い2年の歳月をかけて映画化した黒澤ヒューマニズム映画の頂点ともいえる名作です。完成した作品を観た山本周五郎をして「原作よりいい」と言わしめ、興行も大ヒットを収めました。

 物語はテレビ番組にもなりましたが、江戸時代末期、エリート青年医師・保本登(加山雄三)は心ならずも貧民たちの施設・小石川療養所に配属されます。しかし、そこで出会った「赤ひげ」の異名をとるベテラン医師・新出去定(三船敏郎)に感化され、真の人間愛にめざめていくというものです。貧困にあえぐ人々のさまざまなエピソードから、逆に人間の尊厳が醸し出され、強い希望をもって生き続けていくことの大切さなどが、パワフルな説得力を伴って描かれていました。

2007年には『新・あつい壁』で、駆け出しのフリー・ルポライター卓也が、取材で知り合ったホームレスの男・友田から、55年前に起きたある殺人事件の話を聞かされることから始まります。「俺は、その犯人のせいにして盗みをはたらいてな。ところが後で、その犯人が死刑になったって聞いた。無実かもしれねえという話も…。」卓也は、これを取材すれば、もしかするといい記事が書けるかもしれないと考え、知り合いの編集長・福島に相談します。しかし、福島は取り合ってもくれなません。あきらめきれない卓也は、友田の話を手がかりにしながら、事件のことを少しずつ調べはじめます。それは、熊本県で起きたハンセン病患者が犯人とされた事件でした。卓也は熊本行きを決意します。熊本県にある国立療養所恵楓園の自治会を訪れた卓也は、そこで、当時のことにくわしい入所者、増井と佐伯らに出会い、その入所者たちから、当時の事件や裁判についての詳細な話を聞かされるのです。それは、聞けば聞くほどに、犯人とされ死刑となった男・勇吉の無実を思わないではいられない話ばかりでした。さらに卓也は、勇吉の最後の教誨師として関わった牧師・坂上から、当時の裁判に直接関わった書記官の証言として、「みんなで勇吉さんを、ボロ雑巾のように死に追いやった」という話を聞かされます。そこにあるあまりにも深い差別の闇に、卓也は言葉を失います。卓也はさらに、増井と佐伯から、ごく最近、熊本県内でおきた宿泊拒否事件と、そのいきさつの中で恵楓園入所者に送りつけられてきた数百を超える誹謗中傷の手紙やメール、電話のこと、その内容のひどさを知らされます。50年前の事件の中にあった偏見・差別は、決して過去のことではなかったのです。記事になるという興味本位な気持ちで取材を思い立った卓也の中に、少しずつ変化が生まれてきていきました。取材を終えて東京に帰った卓也は、再度、福島に原稿を記事にしてくれるよう頼みに行きます。そこで卓也は、さらに新しい事実を知ることになるのでした。この映画では常田さんはいいポジションにいます。

 このように常田さんが出た映画を全て紹介しようと思うと、どれだけの長い文章になることやら・・・

 私にとって名脇役とは常田さんのような存在なのです。これからも身体を壊さず、がんばって笑顔を振りまいてくださいね。

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2009年5月30日 (土)

私の好きな芸術家~アンリ・ルソー編

 色あざやかな緑のジャングルの絵画で有名なルソーは、この時代の印象派や新印象派などのどの流派にも当てはまらない独特の絵を描き続けた人です。素朴でありながら、見ている人を不思議な気分にさせる絵画を描いています。ルソーの絵画には彼の性格があふれているのです。純粋に絵をかくことを楽しみつづけたルソーは、その絵を見ている私たちまで楽しくて不思議な気持ちにさせてくれますね。そして、なんとルソーは独学で絵を描いていたのです!そんなルソーとは、一体どんな人だったのでしょうか。
 
 フランス北西部のラベルという町に中世にたてられた塔があり、Annri002 ルソーは1844年にその塔の中で生まれました。 ルソーの家は貧しく、ルソーは高等教育を受けることができませんでした。ラベルの町で数年間仕事をした後、ルソーは24歳でパリにでます。 ルソーはパリの税関で25年間働き続けます。ルソーは税関を辞めるまで「日曜画家」として絵を描き続けたのです。他の画家と違い、ルソーは独学で絵画を学びました。ルーブル美術館で許可をもらい、休みのたびに模写をくりかえし絵画を学びました。また、緑の自然もたくさん観察していました。これが後のルソーの絵画に大きく影響しているのです。 ルソーは、自分の才能を信じて独学で絵を描き続けました。初めてルソーが画家としてデビューしたのは、1885年のアンデパンダン展です。しかし、ルソーの才能は誰も認めず、ルソーの絵画を見て「この絵は誰もが子供のころに描いて喜んでいた絵だ」と笑っていたのです。 そんなことにも負けずにルソーは絵画に専念するため、1893年49歳で税関の仕事をやめてしまいます。彼を認めてくれたのは、ピカソやゴーギャンといった新しい画家たちだけでした。人を疑うことを知らず、素朴な人柄のために、ルソーは事件に巻き込まれたこともありました。 生きている間、ルソーの絵画は一部の画家たち以外に認められることはありませんでした。ルソーは世間に認められることなく、1910年にこの世を去りました。享年66歳でした。

 非常に特徴のある絵を描いたルソーは、自然が好きで緑をよく描いています。その他にもルソー独特の絵画の特徴があります。 ルソーの描く人物はとても特徴的です。ほとんどが真正面か真横を向いて、目鼻も同じように描かれています。人物の向きや顔を見たらすぐにその絵を描いたのがルソーだとわかるほどです。この描き方が批評家たちにとっては下手に見えたのでしょう。

 自然が好きだったルソーの絵画にはジャングルや緑がたくさん出てきます。ジャングルや動物を描いた作品のほとんどは、南国のジャングルを実際に見たわけではなく、熱帯植物園で見た植物を元にルソーの空想で描かれています。ルソーはこのジャングルの密林を描くにあたり、何十色もの緑色を使い分けているのです。 

 右の絵はルソーの絵画でもっとも有名な作品といってもよいでしAnnri004_2 ょう。砂漠の真ん中で眠る女性とそばにいるライオンと、空にうかぶ白い月がとても神秘的に表現されています。女性が着ている服の模様はカラフルなのに、とてもバランスがとれています。この作品は、ルソーが生きている間には評価されず、1923年にパリの配管工の作業場で発見されました。現在はニューヨーク近代美術館にあります。
 上の絵は、ルソー最後の作品です。暗いジャングルの中にいる動物と女性、そして周りを囲む不思議な花たちが印象的です。ジャングルなのに、長いすがあるというのも不思議な感じがしますよね。ルソーはこれについて「長いすに横たわって眠っている女性は、この森に運ばれて、魔法使いの音楽を聴いている夢を見ているのです」と語っています。タイトルどおり夢の中の作品なのです。ニューヨーク近代美術館にあります。 見ている人を不思議で幻想的な世界に連れて行きそうなルソーの絵画は立体感があまりありません。ですが、細かく描かれた植物やジャングルにルソーの作品への愛情を感じることができそうです。

 もっとも、ルソーは「西洋絵画」の王道を歩んだ画家ではありませんでした。40歳で画家になった彼は、批評家や画壇から無視され侮辱され、絵具代にも事欠く困窮のうちに没しました。しかし、私はルソーの絵が好き。カラリと晴れた青空のような無邪気さ、明るい静謐ににじむ抒情は、神のわざにも似ていますね。周りの評価を気にせず、ただ色彩と戯れ、描くことに喜びを見出すような純真さが、似ているのかも知れません。それにしても、ルソーの作品は、「西洋」の王道を拒否して、その結果、どこか「東洋」に近接しているところがあると思います。たとえば『サン=ニコラ河岸から見たサン=ルイ島』の冴えた白い月、『牛のいる風景』の大きな賢者のような牛に、私は禅画の趣きを感じてしまいます。

 ルソーの絵に登場する人物は大概、真正面向きか真横向きで目鼻立ちは類型化しています。また、風景には遠近感がほとんどなく、樹木や草花は葉の1枚1枚が几帳面に描かれている。このような一見稚拙に見える技法を用いながらも、彼の作品は完成度と芸術性の高いもので、いわゆる「日曜画家」の域をはるかに超えており、19世紀末から20世紀初めという時期に、キュビスムやシュルレアリスムを先取りしたとも言える独創的な絵画世界を創造しました。

ルソーの作品は、画家の生前はアポリネール、ピカソなど少数の理解者によって評価されたのみでした。ルソーの年譜に必ず登場するエピソードとして、1908年、ピカソ、アポリネールらが中心となって、パリの「洗濯船」(バトー・ラヴォワール)で「アンリ・ルソーの夕べ」という会を開いたことが挙げられます。これは、からかい半分の会だったとも言われますが、多くの画家や詩人がルソーを囲んで集まり、
彼を称える詩が披露されたのでした

 好き嫌いがはっきり分かれる作品だと思いますが、私も最近いいなあと思い出した作品が多いので、是非、絵をご覧下さい。

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2009年5月29日 (金)

私の好きな作品たち~武田泰淳編

 武田泰淳氏とくれば『ひかりごけ』と『富士』を連想してしまいます。

『ひかりごけ』はまず、構成が意外なしくみになっていますね。
 最初は淡々とした小説のように始まっていて、文筆家の「私」が羅臼を訪れたときのことを回顧しているように見えます。なぜ、こんな北海道の果てに来たのかわからないままに、その最果ての漁村の光景の描写がつづいたあと、これはヒカリゴケを見る途中の話だということがわかってきます。「私」は中学の校長に案内され、自生するヒカリゴケの洞窟に入ました。ヒカリゴケはこの世のものとはつかない緑色の光をぼうっと放っています。 帰途、校長が「ペキン岬の惨劇」の話をします。漂流した船の船長が乗組員の人肉を食べ、なにくわぬ顔で羅臼にやってきたという話です。「私」は札幌に来て、知人を訪れました。札幌ではちょうどアイヌに関する学会が開かれていて、そこに出席していた知人は、その学会で昔のアイヌ人が人肉を食べていたという報告があったことに憤慨していました。校長と知人の話に関心をもった「私」は『羅臼村郷土史』を読みます。

 ここから話は昭和19年の事件の記録に入っていきます。事件Hirosi002 を報告している記録者の言葉に、「私」はどこかひっかかるものを感じます。
 ここで「私」は、現実の作家(これはまさに武田泰淳のこと)に戻ってしまい、野上弥生子の『海神丸』や大岡昇平の『野火』を思い出しつつ、この事件を戯曲にしようと試みます。ここが奇妙なのです。読者はすっかり事件に関心をもたせられるのですが、そのとき急に、この話はかつて野上弥生子が『海神丸』で描いてみせた話だということを知らされ、さらに大岡昇平氏の『野火』のテーマにつながるという文学的な話題に転換させられるのです。
 これは妙なことですよね。読者は作者の用意してくれた虚構の船から突然に降ろされて、武田泰淳氏の作家としての現実的な問題意識につきあわされるからです。ところが、そこで武田氏は、ほんとうに戯曲を書いてみせ、読者はそれを読むことになっていく・・・まるで、ほんとうはこの戯曲が最初に書かれ、そのプロローグとしてここまでの物語があとから加わったというふうなのです。

 こうして息をのむような迫真の戯曲が始まります。それも意外な構成で、第1幕は難破した船で生き残った4人の船員が洞窟にいて、そのうち船長と西川が二人の人肉を食べると、西川の首のうしろにヒカリゴケのような淡い光が浮かび上がるのです。西川は罪悪感にさいなまれますが、船長が自分を食べようとしているのを察知して、海に身を投げようとするのですが、船長は結局のところ西川を追いつめて食べてしまのです。
 第2幕は法廷の場。船長が被告になっている。ところが、おそろしいことに、ト書には「船長の顔は洞窟を案内した校長の顔と酷似していなければならない」と指定されています。船長は検事や裁判長を前に、「自分が裁かれるのは当然だが、自分は人肉を食べた者か、食べられた者によってのみ裁かれたい」と奇妙なことを言います。一同が呆然としいるなか、船長の首のうしろが光りはじめる。船長はさあ、みんなこれを見てくださいと言うが、誰も光が見えません。そのうち船長を中心に舞台いっぱいにヒカリゴケのような緑色の光がひろがっていったところで、幕・・・

 この作品のテーマは必ずしも新しくはありません。しかし、『野火』や『海神丸』では人肉を食べる罪を犯さずに踏みとどまった人間が主人公になっていて、そこに一種の「救い」が描かれているのに対して、この作品では最初から最後まで安易な救済をもちこまず、徹して宿命の行方を描こうとしました。
 そこに浮かび上がるのは不気味な人間の姿そのものなのです。これはひとり武田氏にして描きえた徹底であると思います。

 その後、随分たって、日本人による人肉事件がおこって、世界中に報道されました。フランスでドラムカンに人間を煮詰めて食べたという、いわゆる佐川事件です。そして、これを唐十郎が『佐川君からの手紙』として作品にしましたね。
 人肉を食べること、これをカニバリズムというそうです。カーニバルとはそのことでです。本書は人間の文学が描きえたカーニバルの究極のひとつなのでしょう。『海神丸』『野火』とともに忘れられない作品です。
 ちなみに『海神丸』は1922年の作品で、私が知るかぎりはカニバリズムにひそむ人間の苦悩を扱った文学史上初の作品だと思います。野上弥生子は日本が生んだ最もスケールの大きい作家の一人で、いまこそ読まれるべき女流作家ではないでしょうか。高村薫・宮部みゆきからさかのぼって、山崎豊子・有吉佐和子・円地文子・平林たい子らをへて野上弥生子に戻るべきかもしれません。
 武田泰淳という人、いまの日本の文学がすっかり失った文学者と思いきや、結構ファン層が広いことにおどろいています。

 そして『富士』は、第二次大戦中、富士のふもとの精神病院を舞台とした小説です。主要人物に憲兵が出てきたり、戦争に参加できないことを悔やむてんかん患者が出てきたり、自分を宮様だと自称する虚言症患者が出てきたり、と、大戦中の「日本」の精神分析を試みているような要素が強く入っています。特に宮様患者の言っHokusai006 ていることは天皇制を巡る本質を突いているようなところがあって、興味深く読みました。この作品で作者が描いてみせた日本人の特質というのは、現在も何も変わっていないので、こういう読み方は今でも有効だろうと思います。
 もちろん、そういう「日本」批判だけがこの小説の魅力ではなく、例えば正気と狂気の境界をキリスト教的心理と共に描くクライマックスの凄まじさは、私に取って多分一生忘れない読書体験になるでしょう。
 なお、カヴァー裏表紙でこの作品を「大乗」の作品と埴谷雄高が書いていますが、このストーリーの救いようの無さは全く逆だと思います。(ドフトエフスキー好きの埴谷にとって宗教がどういうものだったのかは私はよく解りませんが。)むしろ、解説で斉藤茂吉の息子が指摘しているように「諸行無常」の作品と言った方が僕の読み心地にはあっていました。

 戦時下の精神病院を舞台に繰り広げられる人間模様。この小説には沢山の重要な現代に通じる課題が詰まっています。異常と正常の境目は? マイノリティーとマジョリティーの関係は? 天皇に対する自由な意見を言えない情勢とは? 男と女の位置関係は? 女の性欲は抑圧されるべきものなのか? …数え上げればキリがありません。それらが、当時のおそらくは一般的な統一見解であった何ものかが、精神病院という舞台では、時に逆転してしまうというアイロニー。登場人物がたくさん出てきますが、それぞれのキャラクターが確立されており、長編小説だが息つく暇なく読みふけってしまいます。結末は、少し意外な印象をきっと多くの読者にもたらすでしょう。

 この2冊を読むときっとまた武田氏の本を探しているでしょう。

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2009年5月28日 (木)

私の好きな音楽家~アントニン・ドヴォルザーク編

 ドヴォルザークといえば『新世界』ときますよね。でも以外と知られない曲に素晴らしい曲があります。ブラームスに才能を見いだされ、「スラヴ舞曲集」で一躍人気作曲家となりました。ベドルジハ・スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれていますね。その後、アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させていました。代表作に、交響曲第8番、交響曲第9番『新世界より』、この分野の代表作でもあるチェロ協奏曲、『アメリカ』の愛称で知られる弦楽四重奏曲第12番などがあります。これらの作品を通して、ドヴォルザークは、チェコ国民楽派を代表する作曲家であり、後期ロマン派を代表する作曲家というにとどまらず、クラシック音楽史上屈指の人気作曲家にもなりました。

 1855年、ドヴォルザークの両親はネラホゼヴェスを引き払い、Renoirbura003 ズロニツェに移って飲食店を始めました。翌年になるとドヴォルザークはチェスカー・カメニツェという町でフランツ・ハンケという教師にドイツ語と音楽を学ぶことになりました。ところが、家庭の経済状況が
悪化して音楽の勉強を続けさせることが困難となり、両親は帰郷させて肉屋を手伝わせようとしました。これにリーマンと伯父が反対し、両親を強く説得、さらには伯父が経済的負担を負う約束で1857年にドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学。経済的には苦しい学生生活でしたが、3歳年上の裕福な家庭の友人カレル・ベンドルと知り合い、楽譜を貸してもらうなどして苦学を重ね、2年後の1859年に12人中2位の成績で卒業。この時の評価は、「おおむね実践的な才能に長けている(中略)ただし理論に弱い」というもででした。カレル・ベンドルとの友情は卒業後も変わらず篤いものであり、ベンドルは後にドヴォルザーク作品を初演するなど援助を惜しまなかったのでした。創作活動では、オルガン学校在学中から習作は行っていたようですが、多くは破棄されてしまいました。

 コンクールの応募作品として最初の交響曲が書かれたのは1865年のことでした。しかし、この交響曲は生前演奏されることはありませんでした(ドヴォルザーク自身その存在を忘れていたと言われる)。1870年には最初のオペラである『アルフレート』を書き上げますが、この作品は、ライトモティーフの手法や切れ目のない朗唱風の歌唱など、ワーグナーの影響が強く表れています。同時期に作曲された弦楽四重奏曲第3番や第4番にもその影響が濃く、当時のドヴォルザークが熱心なワグネリアンであったことがうかがえます。さらに1871年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のプラハ初演に刺激されて、歌劇『王様と炭焼き』(第1作)が作曲されています。スメタナはこの作品を「まさに天才の理念に満ちた」作品と評しましたが、同時に「これが上演されるとは思わない」とも予言していました。その言葉通り、このオペラは4週間のリハーサルの末、放棄されることとなりました。

 ドヴォルザークは1871年に、作曲に多くの時間を充てるためにオーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにした。こうした状況の中、翌1872年から作曲に取りかかった作品が、彼の最初の出世作となった賛歌『白山の後継者たち』でした。1873年3月9日、『白山の後継者たち』は、学生時代の友人カレル・ベンドルの指揮で初演されました。民族主義の高まりもあり、この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得ます。この初演の際に、かつて音楽教師を行っていた姉妹のうち妹のアンナ・チェルマーコヴァーと再会し、この年の秋に結婚。1874年にはプラハの聖ヴォイチェフ教会(聖アダルベルト教会)のオルガニストに就任。この教会は伝統ある教会であり、社会的地位はかつての楽団員のそれよりも向上し、ささやかではあるが年俸が保証されることで、新婚生活の経済状態を安定させることができました。そしてこの年からかつて放棄された『王様と炭焼き』の台本を再び採り上げ、これに第1作とは全く異なる音楽を作曲し、ナンバーオペラとして完成させました。1874年11月24日に行われた初演は大成功を収め、音楽雑誌『ダリボル』には「ドヴォルザークは、その名が金字塔として際だつような地位にまで高められることだろう」という批評家プロハースカの予言が踊りました。こうしてドヴォルザークはワーグナーの影響下から徐々に離れていきました。

 アメリカの人々はこの高名な作曲家の渡米を心から歓迎しました。当時のアメリカは、音楽については新興国ではあったが、潤沢な資金でメトロポリタン・オペラやニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、あるいはアルトゥール・ニキシュが指揮者を務めるボストン交響楽団など高い水準の演奏が行われていました。しかし、自国の音楽家育成については緒に就いたばかりで、音楽院自体がその機能を十全には果たしていない状態でした。ドヴォルザークの音楽院院長就任はこうした状況打破に対する期待を持たせるものでした。1892年10月からドヴォルザークは講義を開始しました。

 1893年1月に着手した交響曲第9番「新世界より」は5月24日に完成しますが、4月14日付けの友人宛の手紙の中でドヴォルザークは「この作品は以前のものとは大きく異なり、わずかにアメリカ風である」と書いています。この作品は、ロングフェローの『ハイアワサの歌』に多くをインスパイアされたと言われています。5ヶ月間の休暇を取り、ボヘミアに帰った後チェコに着くと彼はヴィソカーの別荘に直行し、住民たちの心温まる歓迎を受け、心からくつろいだ休暇を送ることができました。同年、10月ニューヨークに戻った彼は、強烈なホームシックに襲われ体調を崩してしまいました。その一方で、この頃サーバー夫人の夫(ナショナル音楽院最大のパトロンだった)が1893年恐慌のあおりを受け破産寸前に追い込まれていたことから、ドヴォルザークへの報酬も支払遅延が恒常化しつつありました。11月8日からチェロ協奏曲に着手し、翌1895年2月9日にこれを完成させますが、これが限界だったもでしょう。。ドヴォルザークはサーバー夫人に辞意を伝え、周囲の説得にもかかわらず、4月16日にアメリカを去ったのです。

 帰国後もドヴォルザークはしばらく何も手につかない状態にありました。しかし1895年11月1日、プラハ音楽院で再び教鞭を執り始めたのです。作曲も再開され、アメリカを発つとき未完成のまま鞄に詰め込まれた弦楽四重奏曲第14番も1895年の年末には完成しました。1896年3月彼は、最後となる9回目のイギリス訪問を果たします。この直後、ブラームスからウィーン音楽院教授就任の要請を受けますが、これを断りました。アメリカ滞在や最後のイギリス訪問を通じて彼は、ボヘミアこそ自分のいる地だと思い定めたのです。この後、ドヴォルザークは、標題音楽に心を注ぐようになります。カShagaru002 レル・ヤロミール・エルベンの詩に基づく交響詩の連作(『水の精』、『真昼の魔女』、『金の紡ぎ車』、『野ばと』)を作曲したのも1896年のことです。帰国後のドヴォルザークには多くの名誉が与えられました。1895年、ウィーン楽友協会はドヴォルザークを名誉会員に推挙すると伝えました。同年ウィーン音楽省はプラハ音楽院への援助を増額する際に、ドヴォルザークの俸給を増額するようにと明記しています。1897年7月にオーストリア国家委員会の委員となりました。この委員会は、かつてドヴォルザークが得ていた奨学金の審査を行う委員会であり、才能ある貧しい若者を援助できることは彼にとってこの上ない喜びでした。さらに1898年には、それまでブラームスしか得ていなかった芸術科学名誉勲章をフランツ・ヨーゼフ1世の在位50周年式典の席で授けられています。こうして、さまざまな栄誉を身につけたドヴォルザークでしたが、彼にはオペラをヒットさせたことがないという焦燥感があったようです。そしてチェコの民話に想を得た台本『悪魔とカーチャ』に出会い、オペラ創作に邁進してゆきます。1898年から1899年にかけて作曲されたこのオペラは、1899年11月23日に初演されると大成功を収め、ドヴォルザークは、ジムロックからの要請にもかかわらず、他のジャンルには目もくれずに、次の台本を探し求めました。そして出会ったのが、『ルサルカ』でした。1900年4月に着手され、11月27日に完成したこの妖精オペラは1901年3月31日にプラハで初演されて再び大成功を収めます。でも様々な事情でウィーンで上演される機会を逃し国際的な名声を生前に受けることができなかったことで、ドヴォルザーク自身は決して満足できず、これ以後もオペラの作曲を続けますが、最後の作品であるオペラ『アルミダ』(1902年 - 1903年作曲、1904年3月25日初演)は、初日から不評に終わってしまいました。

 ドヴォルザークには、尿毒症と進行性動脈硬化症の既往があったのですが、1904年4月にこれが再発。5月1日、昼食の際気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました。死因は脳出血でした。葬儀はその4日後の5月5日に国葬として行われ、棺はまずプラハの聖サルヴァトール教会に安置された後、ヴィシェフラド墓地に埋葬されました。あまりに多忙を極めたことによる過労死ではないかと私には思えます。自分が納得出来るまで何度も挑戦する姿勢、見習いたいものです。
 交響曲も素晴らしいですが、管弦楽曲もセレナードもいいですよ。

音楽家は皆壮絶な生き方をしていますね。自分をギリギリの極限状態にまで持ってく・・・芸術家の運命なのでしょうか・・・

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2009年5月27日 (水)

私の気になる芸術家~岡本太郎編

 まず、『太陽の塔』を知らない人はいないでしょう。しかし、太郎氏の絵だけでなく、彼がどのような両親の元に生まれ育ったか、それ
が彼の人生に多大なる影響を及ぼしたであろう事を抜きに彼の絵を語る事はできません。

 彼の父親 岡本一平(1886~1948)は漫画家として知られているが、元々は藤島武二らに学び、のち東京美術学校西洋画科に入学。 在学中に帝国美術院展覧会に《トンネル横町》を出品し、入選しています 卒業後、朝日新聞社にに入社しTadanori001 て漫画を担当し従来のポンチ絵形式を一変し現代漫画を生みました 1922年と1929~32年と2回ヨーロッパを巡遊し、主な著作に《世界漫遊》・《野次喜多》があります。
 また母親 岡本かの子(1889~1939)は歌人、小説家でした。22歳の時にまだ画学生であつた一平と結婚し、翌年太郎をもうけました。 結婚生活の夫との性格的対立に10年間程苦しんだ末、仏教研究をはじめ一平の漫画家としての名声が確立すると、天台学から原始仏教に進んだ。 この年に川端康成を知り小説家になる機縁となつた。 著書は多くあり代表作に《母子叙情》、《金魚繚乱》、《生々流転》等を挙げるにとどめまIした

 その子供 岡本太郎は1911年東京に生まれ、 慶応幼稚舎、普通部をへて東京美術学校に入学。 半年後、中退。 1929年、渡欧。 リで前衛芸術運動に参加し、ソルボンヌ大学で文化人類学を学びます。1940年、帰国しました。こんな環境で生きた太郎は自著「岡本太郎の眼」の前文につぎのように書いています 『私は青春の十年以上パリですごした。そこでは、情熱と確信をもって、前衛芸術運動に身を投げこんだ。 私は世界人でありたいと思ったのだった」以下略、続いて『そんな切実な思いで日本に帰ってきた。 しかし、あきれた。 多くの日本人が日本人でないのだ』また続けて『私は官僚的に固定化して不毛になった伝統観をひっくりかえした。 たとえば、異端視されていた縄文土器の怪異な美に、忘れられた日本人のヴァイタリティ(活力)を発見したり。 伝統とは過去でない。瞬間、瞬間に現在の自分を通して創り上げてゆくものである。』と。

この言葉を読み、私が力説したいのは、当然太郎氏自身が1929年以来、10年以上もパリで過ごし、同時代のアーティストとして前衛芸術運動が、1924年アンドレ・ブルトンがシュールリアリズム宣言をした事もあり、それに影響を受けた事は想像にかたくなく、太郎の作品を理解するうえでこのシュールリアリズムにも多大な影響をうけたのをふまえてなければ、太郎氏の参加していた前衛芸術運動も理解できない
事実があります。それ故に、帰国して縄文土器 (これは多分に超現実主義的であり、或る意味ではと言うか太郎が考えたシュールリアリズムでもある)に惹かれた背景には母かの子の影響と日本回帰した事である。それを太郎が意識していたかどうかは、多分彼自身も気がついていなかったにしても大きな影響力があったと思えられます。その太郎氏が帰国してからの主題になったのは、彼自身が言っていたように座れない椅子をわざと創り続けた事、これは多分に縄文土器の形とシュールリアリズムを意識して創造したのは明解に理解できます。その象徴的なモニュメントとしての70年にTarou002 行われた大阪万博に創った “太陽の塔” ではなかったのではないでしょうか。
 
芸術は観念なのだ。 
観念はそう簡単に破壊されない。 
観念と戦うには観念が必要だ。 
太郎氏の爆発は観念なのでした。 

 観賞者、すなわち、こちら側見る側が感動的人間であることが要求されます。

 ”人生は感動的なのだから”
だから爆発は岡本太郎氏でなく、こちら側が爆発しなければならないのでしょう。 そして太郎芸術はまさにその時爆発し輝きを増すよう出来ているのです、凄いではありませんか。
 
 アメリカでは日本美術と日本人芸術家にたいする再評価のきざしTarou008 が見えます。現在、フィラデルフィア美術館で本阿弥光悦の芸術、日本のルネサンスの巨匠展の開催ニューヨーク・タイムズ(8月20日2000年)でも川崎市岡本太郎美術館をとりあげ、彼の業績とその新しい美術館の様子をつたえています。
 アート欄掲載記事より抜粋すると『日本経済と美術界の沈滞を打ち破るように川崎市岡本太郎美術館は昨年オープンした。公園の中に位置するそのモニュメンタルな美術館はすでに10万人以上の入場者を集めるほどのヒットとなっています。
... 岡本太郎は写真家、民族学者そして旺盛な作家でもありました。後年はTVにも出演し、「芸術は爆発だ!」と叫ぶTVコマーシャルはお茶の間でも有名にまりましたね。 ...
... 彼はフランスに12年間滞在し、その間にアルベルト・ジャコメッティ-とジャン・アルプと親交を結び、アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造協会)に参加し、のちにシュールリアリスト達と作品展を開いています。パリで彼は民俗・部族芸術に感動し、社会学者・人類学者であるマルセル・モースの人間を断片的に分析するのではなく全体としてとらえるべきだという「全体性」理論を学んでいます。またジョルジュ・バタイユのもとでも学んでいました。...
... ヨーロッパで学んだものと後に日本で経験したものを基にし、岡本は「対極主義」という彼独自のアイデアを発展させてゆくきます。それは抽象主義とシュールリアリズムの理念を同時に推し進めることを可能とし、前衛芸術と複雑な現実との融合を目指すものであった。岡本氏はまた、彼の作品が審美的な物体にとどまらず日常生活のなかの生の叫びとして「いかに社会に影響を与えることができるか」と言うことに興味があると言っています。...
... 岡本氏は1970年の万国博覧会のアート・ディレクターを務め、呪術Tarou004 の揺らめく炎、部族のトーテムポールそして根底に流れるモダンアートの理念を思い起こさせる「太陽の塔」を完成させたのでした。...
... 日本の美術館はそこが審美的経験の場になるような努力をしてきませんでしたが、岡本太郎美術館は違います。.この美術館のエネルギーは美術好きであるなしにかかわらず見る価値があります。

と書かれました。私は、信念のためには、 たとえ敗れるとわかっていても、おのれを貫くと言う姿勢や、出世したいと思って、上役におもねったり取り入ろうとするから、 イヤらしい人間になってしまうんだ。 それよりも、自分は出世なんかしなくっていいと思ってしまえば
、逆に魅力的な人間になってくるなど言葉を残しています。この辺にきっと私は惹かれているのでしょうね。

 太郎氏をギャグにするのは止めて欲しいですね。

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2009年5月26日 (火)

私の好きな建築家~アントニオ・ガウディ編

 1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナで建築を学んびました。学校では、歴史や経済、美学、哲学などにも関心を示したほか、ヴィオレ・ル・デュクの建築事典を友人から借りて熱心に読んでいたとも伝えられています。また、学業と並行していくつかの建築設計事務所で働き、バルセロナのシウタデラ公園やモンセラートの修道院の装飾にも関わりました。

 アルバイトをしながら苦労して学校を卒業したガウディは、内装Gaudei003_2 や装飾の仕事を手掛け始めました。そしてガウディの建築の良き理解者であると同時に、彼の生涯の友ともなるバルセロナを代表する資本家アウゼビ・グエルと出会います。 パリ万国博に出品された手袋店のショーケースを見てガウディの才能を見て取ったグエルは、彼の想像力を引き出すかのように次々と斬新な計画を持ち掛けます。 グエル邸、グエル公園、コロニア・グエル教会など、ガウディの建築にはいくつもグエルの名前が冠してあります。

 1883年、ガウディはサグラダ・ファミリア聖堂の主任建築家に任命されました。以後、彼はこの建築の設計に壮年から晩年に掛けての40年以上を費やし、しかも1917年からは他のいっさいの仕事を断ってこれに専念していいます。
  サグラダ・ファミリアの主任建築家として名声を得たガウディは、バルセロナとその近郊の多くの重要な建築物の設計を手掛ける。特に途中で建築が中止されてしまいましが、コロニア・グエル教会地下聖堂は彼の最高傑作と言われています。

 一時、精神的に困難な時期を迎えたガウディは、自殺も考えるようになりました。なんとか危機を乗り切った彼はしだいにサグラダ・ファミリアの設計に没頭するようになり、自ら閉居し些事に一切構わなくなったといいます。
 1926年6月7日夕刻、ガウディはバルセロナ市内で路面電車にはねられました。学生時代はダンディなことで有名だった彼も、まるで浮浪者のような格好だったために病院に収容されるのが遅れたといいます。そして10日午後5時、市内サンタ・クルース病院で死去すしました。 遺体はサグラダ・ファミリア聖堂に埋葬されました。
「悪魔か、天才か」。ガウディの卒業設計<大学講堂>を見たビリャール教授はこうつぶやいたといいます。

人間技ではないこの建築物は『悪魔か天子か」といわれたこともわかる気がします。画腕時に関する書籍も浮上に多くあり、読んでみたいと思います。

 19世紀末のバルセロナでは、カタルーニャ独自の文化を作ろうという運動が高まっていました。これが「モデルニスモ」と呼ばれ、フランスの「アール・ヌーボー」に並ぶ、 近代主義の思想でした。ガウディーは、このモデルニスモを代表する一人でした。 建築はいかに
才能があっても、良き理解者である施主に巡 り会わなければ、良い作品を作ることは出来ませんが、ガウディーはグルエ氏という良きパトロンを得、数々の作品を作りました。

  グエル公園は、未来の住宅地を構想して造られた60棟の分譲住宅地でしたが、 買い手が付かず、工事は途中でストップし、商業的には失敗に終わりました。住宅は二棟だけ完成し、一棟はガウディーの住宅となったので、実際 には一棟だけが売れたことになります。あまりにも先進的、あまりにも夢を 追い過ぎたので、販売価格も驚くほど高かったのかもしれません。商業的には失敗に終わりましたが、この土地は市に寄贈されグルエ公園として一般に公開されて、人々の目を楽しませてくれています。

 ガウディは"モデルニズム"と呼ばれる建築を含むカタルーニ ャの芸術工芸運動の真っ只中に生きました。この時代にヨーロッパ全体に広がった工芸運動、フランスとベルギーでは「アールヌーボー」、ドイツでは「ユーゲント・シュティール」 、スペインでは「モデルニズム」と呼ばれています。ガウディは彼の手がけた作品の多くをバルセロナ市内に発表しました。彼は今までに誰も見られなかったような大胆なデザインと斬新な形を持つ建物などを建設し、それらはその当時の注目の的でした。

 そしてサグラダ・ファミリア(カタルーニャ語:Sagrada Familia)はスペイン、バルセロナに建設中の教会。サグラダ・ファミリアとは「聖家族」を意味します。民間カトリック団体「サン・ホセ協会」が、貧しい人々のために聖家族に捧げる贖罪教会として建設を計画した
ものです。
 初代建築家フランシスコ・ビリャールが無償で設計を引き受け、 1882年3月Gaudei00419日に着工したが意見の対立から翌年に辞任。その後を引き継いで2代目建築家に任命されたのが、当時は未だ無名だったアントニ・ガウディでした。以降、ガウディは設計を一から練り直し、1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組みました。ガウディは仔細な設計図を残しておらず、大型模型や、紐と錘を用いた実験道具を使って、構造を検討したとされています。それらを含め、弟子たちがガウディの構想に基づき作成した資料などは大部分がスペイン内戦などで消失してしまっています(模型も破片になってしまった)。この為、ガウディの死後、もはや忠実にガウディの構想通りとはならないこの建築物の建造を続けるべきかという議論があったが、職人による伝承や大まかな外観のデッサンなど残されたわずかな資料を元に、時代毎の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサードはほぼ完成しているが本来は屋根がかかる予定であり、またイエスの栄光を表すメインファサードのある南側は未完成です。完成すれば、イエスの12使徒を象徴した12本の塔が立ち並びます。
 東側の生誕のファサードでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴しています。中央の門を構成する柱の土台には変わらないものの象徴として亀が彫刻され、中央の柱の土台にはりんごをくわえた蛇が彫刻されています。また、門の両脇には変化するものの象徴としてカメレオンが配置されています。中央門では、受胎告知、キリストの降誕、祝福をする天使、東方の三博士や羊飼い達などが彫られています。左門ではローマ兵による嬰児虐殺、家族のエジプトへの逃避、父ヨセフの大工道具などが彫られ、右門には母マリア、イエスの洗礼、父ヨセフの大工仕事を手伝うイエスなどが彫られています。
 西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐から磔刑、昇天までの有名な場面が彫刻されている。東側とは全く異なり、現代彫刻でイエスの受難が表現さGaudei001れており、左下の最後の晩餐から右上のイエスの埋葬まで「S」の字を逆になぞるように彫刻が配置されています。最後の晩餐→ペテロとローマ兵たち→ユダの接吻と裏切り→鞭打ちの刑→ペテロの否認→イエスの捕縛→ポンティウス・ピラトゥスと裁判→十字架を担ぐシモン→ゴルゴタの丘への道を行くイエスとイエスの顔を拭った聖布を持つヴェロニカ→イエスの脇腹を突くことになる槍を持つ騎兵ロンギヌス→賭博をするローマ兵→イエスの磔刑→イエスの埋葬と復活の象徴、そして鐘楼を渡す橋の中央に昇天するイエスが配置されています。
 最近の予測では、完成は2256年前後と言われています(ただし、完成目標はガウディ没後100周年目の2026年としている)。建設開始から長い年月が経っているため、建築と並行して修復も行われています。10ユーロを入場料兼寄付として集めており(2008年8月現在)、その収入で建造及び修復が進められています。誰もが憧れを持つ教会ですよね。

 ガウディに乾杯!!

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2009年5月25日 (月)

私の好きな作品~『楢山節考』

 私がこの作品に出逢ったのは小学5年生の学芸会の時でした。そうです。演劇で『楢山節考』をやったのです。やってる本人達はきっと意味もよく解らないで演じていたと思いますが、なんと観客の中で泣いている声が聞こえてきて・・・そのときやっと、私達って凄いものを演じたんだと感じました。

 あれから何十年かして映画化された時、観る事は出来なかったのですが、家に本があり、読んでみることにしました。なんて切なく悲しい作品なんだろうと姥捨て山ってこういうことなのかと心が叫ぶのです。その後映画を観ました。

 信州の山深い寒村を舞台に、死を目前にした人間の生き方を描いた作品です。深沢七郎の同名小説と「東北の神武たち」の映画化で、脚本・監督は「ええじゃないか」の今村昌平、撮影は栃沢正夫がそれぞれ担当しました。

 おりんは元気に働いていたが今年楢山まいりを迎えようとしていHuukei005_2 ました。楢山まいりとは七十歳を迎えた冬には皆、楢山へ行くのが貧しい村の未来を守る為の掟であり、山の神を敬う村人の最高の信心でした。山へ行くことは死を意味し、おりんの夫、利平も母親の楢山まいりの年を迎え、その心労に負け行方不明となったのです。春。向う村からの使の塩屋が辰平の後添が居ると言って来ました。おりんはこれで安心して楢山へ行けると喜びます。辰平にはけさ吉、とめ吉、ユキの三人の子供とクサレと村人に嫌われる利助と言う弟がいて、それがおりんの家・根っ子の全家族です。

 夏、楢山祭りの日、向う村から玉やんが嫁に来た。おりんは玉やんを気に入り、祭りの御馳走を振舞います。そして悩みの、年齢と相反した丈夫な歯を物置の石臼に打ちつけて割りました。夜、犬のシロに夜這いをかけた利助は、自分が死んだら、村のヤッコ達を 一晩ずつ娘のおえいの花婿にさせるという新屋敷の父っつあんの遺言を聞きます。早秋、根っ子の家にけさ吉の嫁として、腹の大きくなった雨屋の松やんが混っていました。ある夜、目覚めたおりんは芋を持って出て行く松やんを見ました。辰平はもどって来た松やんを崖から落そうとしたが腹の子を思いやめます。数日後、闇夜に「捕山様に謝るぞ!」の声がしました。雨屋の父つっあんが焼松の家に豆かすを盗みに入って捕まったのです。食料を盗むことは村の重罪であった。二代続いて楢山へ謝った雨屋は、泥棒の血統として見なされ、次の日の夜、男達に縄で縛られ生き埋めにされました。その中におりんに言われ雨屋にもどっていた松やんも居たのです。新屋敷の父っつあんが死に、おえいは遺言を実行していたが利助だけはぬかしました。飼馬のハルマツに当り散らす利助を見かね、おりんはおかぬ婆さんに身替りをたのみます。

 晩秋、おりんは明日山へ行くと告げ、その夜山へ行く為の儀式が始まりました。夜が更けて、しぶる辰平を責め立てておりんは楢山まいりの途に着きました。裏山を登り七谷を越えて楢山へ向う・・・楢山の頂上は白骨と黒いカラスの禿げ山。辰平は七谷の所で、銭屋の忠やんが又やんを谷へ蹴落すのを見て茫然と立ちつくす、気が付くと雪が舞っていました。辰平は猛然と山を登り「おっ母あ、雪が降ってきたよう! 運がいいなあ、山へ行く日に」と言い、おりんは黙って頷くのでした。

 主人公はおりんという女性ですが 本当の主人公は「村の掟」でBobu002 あると読んみました。その掟は村人が作りだしたものなのでしょうが それが自立した生き物 のように村の中を彷徨い、人々を従わせていく姿が本筋だと思うのです。食物を 盗んだ一家に対する処分、結婚と再婚の作法、そうして60歳を超えたら 神の住む山にその老人を捨てなければならないという棄老。 村人が「神」と呼んでいるものは「村の掟」に他なりません。

 おりんはその「神」にむしろ嬉々として従っていきます。自らの死を準備していく 姿には奇妙な明るさと強さがあるのです。本作がじめじめした親子の情愛譚に 留まらないのは その明るさと強さが放つ「光」が眩しいからでしょう。岩陰で雪を身にまといながら念仏を唱える場面は おりん自身が神になった様を思わせます。 戻ってきた息子に対して無言で手を振って返させているのは もはやおりんではないもかもしれません。そうかんじたのは私だけでしょうか。
 何時から“死”は、忌み嫌われる遠い存在になったのでしょう。核家族化が進み、親族の死に立ち会う機会は失われました。食卓に並ぶ食材も予め手が施されたものばかりだし命を奪っている感覚は薄いし・・・ニュースで事件や事故を見聞きしても、所詮は他人事。5分と経たずに忘れてしまう現代。まだ子供の頃のほうが、死は身近だったかもしれません。昆虫をいたずらに殺したし、ザリガニなんか胴体をへし折ってザリガニのエサにしていました。今となっては、随分可哀想なことをしていたと後悔しています。でも命の尊さを知る経験だったとも思います。
 忘れてしまった死の感覚は、恐怖に繋がります。分からないから怖い。なるべく遠い存在であって欲しい。カワイイ子猫は抱きしめたいけど、死んだ瞬間から見たくもないということ。でも間違ってますよね。生と死は隣り合っているはず。本作を観て気付きました。子殺しに姥捨て。村人にとって死は日常です。死産や幼子を亡くすことは珍しくなかったし、姥捨てだって、いつか自分にも番が回ってくるのです。村人は死に鈍感なのではなくて、不可避なものとして受け入れているのだと感じました。もちろん自分は今の日本が好きです。自分と他人の命を尊重できる社会がやはりいいに決まってます。でも「人の命は地球よりも重い」なんてスローガンがもてはやされるのも違う気がします。逃げずに、真摯に死と向き合うこと・・・それが生を尊ぶことだと思いました。ときに可笑しく、ときに辛くやるせない、村人たちの生と性。自分の歯を打ち砕いた婆さんの想いも、倍賞にとばされて狂ったとん平さんの気持ちもよく解りま。日本人の文化風俗とその根底にある想いを通じて、生について考えさせられました。

 命は誰にも左右されてはいけないと思わずにはいられない作品でした。

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2009年5月24日 (日)

私の気になる作家~横尾忠則編

 決して好きなタイプの芸術家ではないのですが、なんとなく気になっていて久々に作品を観てみました。やはり凄いんです。私が始めて彼を知ったのはテレビ番組によく出ていた頃で、ボーっとしていて作品なんて描けるのかなあなんて思っていましたが、60年代、山寺修司氏視や唐十郎氏の演劇ポスターなどで一躍注目を集め、70年代のドラッグ&サイケデリックカルチャーやカウンターカルチャー全盛期に絶大な支持をTadnori005 得ました。以降、数多くの展覧会や海外からの招待出品により、確固たる世界的評価を確立します。

 その横尾さんの作品は70以上もの世界主要美術館でコレクションされています。また「開運!なんでも鑑定団」の「幻の逸品買います」コーナーで、「横尾忠則ペルソナ展」ポスターをなんと50万円で募集されましたが、マニア物の鑑定士北原輝久先生は「50万円ではとてもとても(ムリ)」と言わしめるほど、人気が高いのには驚かされました。

 1936年兵庫県生まれ。池田満寿夫と並ぶ戦後60年代が生んだ文字通りスーパースターです。幼少のころから絵や文字に興味を持ち、小学校時代には既に「漫画少年」に投稿していたそうで、高校のときに漫画家から挿絵画家へ志望を変え、通信教育を受けました。また、同じころ油絵の制作を始め、絵画展へ応募し、入賞を重ねました。太平洋画会会友に推挙されましたが、高校生であるということで断っています。高齢の両親のことを思い、美大へ進学せず就職するが半年で解雇されます。1956年カットの投稿や公募展への出品などを重ねるうち、神戸新聞宣伝技術研究所の助手として入社、翌年には神戸新聞社事業部関係のポスターを一手に引き受けるようになりました。

 1959年ナショナル宣伝研究所へ移りますが、翌年には念願の日本デザインセンターへ入社、その才能を存分に発揮し、存在が広く知られるようになります。1965年の初個展の会場で三島由紀夫と出会っています。1967年寺山修司氏主宰の天井桟敷に参加、美術を担当。このころから海外での個展など、その活躍の場が世界的なものになりました。グラフィックアーティストとして第一線で活躍を続けていた1980年、ニューヨークで見たピカソ展に衝撃を受け、画家への転向を表明、油彩の制作を本格的に開始。その後もさまざまなジャンルのアーティストとのコラボレーションを行うなど、いまなおその活動は注目を集める現在稀有な作家なのです。

 私も『ピカビア-その愛と誠実2』や『神格の象徴』『野望の中からの成功』などは好きな作品となりました。岡本太郎氏やピカソに影響を受けながらも独自の世界を作り上げ、観る者を釘付けにする魅力があります。

 また、1995年毎日芸術賞、2000年ニューヨークADC Hall of  Fame受賞。2001年紫綬褒章受章。2006年日本文化デザイン大賞受賞など多数。また小説『ぶるうらんど』では2008年度泉鏡花文学賞を受賞しました。主な作品集・著書に、『インドヘ』、『コブナ少年』、小説『ぶるうらんど』、『人工庭園』、『温泉主義』、『隠居宣言』、『Y字路』等があります。画集は高くて手がでませんが、意外と、ネットで探すといろんな作品が観られます。

 それから彼のブログにこんなことが書かれてありました。『ぼくは若い頃、随分お金に困ったことがありましたが、したくない仕事のために仕事をするとことはありませんでした。仕事がなくても「武士は食わねど高楊枝」 なんてうそぶいて威張っていました。だけどいよい
よ困った時は、必要な分だけどこからか入って(仕事)くるという法則のようなものを確信するようになったので、あせらなくなりました。まあ性格的に楽観主義者でもあったように思います。努力はお金のためではなく精神の高揚のためにするもんじゃないTadanori004でしょうか。
その結果のお金じゃないですかね。仕事に良し悪しは本来はないと思います。楽しいか面白いかでしょう。目的をお金にしたら、どうしても執着になります。稼ぐための手段になります。そうするとお金は遠のく場合があるように思います。稼ぎたい気持ちがあんまり強いとバリアが張られて、入るのも入らなくなるんじゃないでしょうかね。そんな時は楽しいことをしたり、勉強でもしてチャンスを待つしかないでしょう。』その通りかも知れないと素直な気持ちになれる自分に驚いています。でも必要なだけの仕事がどこからかくる法則というのは、何かしら才能のような物や実績がある人だから仕事のほうから来てくれる、何もない人は待ってばかりじゃいられないのも事実ですよね。

でもこういう風にお金に執着しない人生っていいと思いますね。

 『横尾さんの言葉を探していたら文章全体がよく見えてきた、ということなんでしょうね。単語の選び方を示すものや、文法がデザインの仕事の中にあって、それが、大作のもとになる言葉であった。』と感嘆する糸井さん。

観れば観るほど作者の言わんとすることが解ってくる不思議な横尾ワールドはお勧めです。

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2009年5月23日 (土)

私の大好きな作品たち~村上春樹編その③

 何度も春樹氏のことは取り上げてきましたが、何故ここまで彼の作品にのめりこめるのは何故なのか、考えてみたことはあまりなかったように思います。主人公達のちょっと変わった生活ぶりや関わってくる女性達の魅力、ストーリー展開の面白さなどが私を駆り立てているのだと思っていましたが、深層はそんな単純なものではないのだと最近思えてきてならないのです。

 勿論、ノンフィクションの『アンダーグラウンド』や『約束された場所Schim_work05s で』を読み始めた頃から私の思考が変わっていったともいえるのですが、それまではむしろ内向的な作風で社会に無関心な青年を描いてきた春樹氏が、社会問題を真正面から題材にしたことで周囲を驚かされたことも事実です。春樹氏はこう語っています。
 『コミットメント(かかわり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(かかわりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが』『ねじまき鳥クロニクル』は、ぼくにとっては第三ステップなのです。まず、アフォリズム、デタッチメントがあって、次に物語を語るという段階があって、やがて、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです。そこの部分で、コミットメントということがかかわってくるんでしょうね。ぼくもまだよく整理していないのですが』と。

 「コミットメント」はこの時期の春樹氏の変化を表すキーワードとして注目され多数の評論家に取り上げられました。また彼は作品の題材とした震災と地下鉄サリン事件の二つの事件について、この2つは彼にとって別々のものではなく『ひとつを解くことはおそらく、もうひとつをより明快に解くことになるはずだ』と考えたと語ってます。このため、『神の子たちはみな踊る』に収められている作品はすべて震災が起こった1995年の1月と、地下鉄サリン事件が起こった3月との間にあたる2月の出来事を意図的に描いているのです。この「デタッチメント」から「コミットメント」へ の移行は私にとってなぜか必然的であり、彼がこの問題に関わらない訳がないと思い込んでいたため、これらの作品は特別なようで、その後の作品に影響を与えてはいるものの決して彼らしさが無くなったわけではないと思うのです。

 平易で親しみやすい文章は彼がデビュー当時から意識して行ったことであり、春樹氏によれば「敷居の低さ」で「心に訴えかける」文章は、アメリカ作家のブローティガンとヴォネガットからの影響されています。また隠喩の巧みさに定評があり、斎藤環氏は「隠喩能力を、異なった二つのイメージ間のジャンプ力と考えるなら、彼ほど遠くまでジャンプする日本の作家は存在しない」と評しています。

 一方、文章の平易さに対して作品のストーリーは難解で、春樹氏自身はこの「物語の難解さ」について、「論理」ではなく「物語」としてテクストを理解するよう読者に促しています。一辺倒の論理的な読解ではなく、「物語を楽しむ」ことがなによりも重要なことだと言いま
す。また、物語中の理解しがたい出来事や現象を、春樹氏は「激しい隠喩」とし、魂の深い部分の暗い領域を理解するためには、明るい領域の論理では不足だと説明。このような「平易な文体で高度な内容を取り扱い、現実世界から非現実の異界へとシームレスに
移動する」という作風は日本国内だけでなく海外にも「春樹チルドレン」と呼ばれる春樹氏の影響下にある作家たちを生んでいるといえるでしょう。なお春樹氏が好んで自身の物語に使用するモチーフに「恋人(妻)の失踪」があり、長編、短編を問わず繰り返し用いられていることは読む側にその都度楽しみを与えてくれる(何故彼女らが失踪したかを考えるのもまた楽しみなのです)のです。

 また、春樹氏は1990年代後半より、しきりに「総合小説を書きたい」ということ言っています。「総合小説」というとき彼が引き合いに出すのはドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』であり、村上自身の言葉によれば「総合小説」とは『いろいろな世界観、いろいろなパ
ースペクティブをひとつの中に詰め込んでそれらを絡み合わせることによって、何か新しい世界観が浮かび上がってくる』ような小説のことをさしています。そして『パースペクティブをいくつか分けるためには、人称の変化ということはどうしても必要になってくる』という
意識のもとで「私」と「僕」の物語が交互に語られる『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、一人称の中に手紙や回想が挿入される『ねじまき鳥クロニクル』、すべて三人称で書かれた『神の子どもたちはみな踊る』、一人称と三人称が交互に現れる『海辺のカフカ』、三人称に「私たち」という一人称複数が加わる『アフターダーク』と、作品で人称の変化について様々な試みを行なっていますね。

 「僕」という言い方が一番しっくりしていましたが、『海辺のカフカ』のような作品(世界背景は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ねじまき鳥クロニクル』を融合したものを下地にしていると思われます)もなるほどと頷ける使い方だと思い、私の好きな作品でもあります。ギリシア悲劇と日本の古典文学を下敷きにした長編小説であり、フランツ・カフカの思想的影響のもとギリシア悲劇のエディプス王の物語Schim_work09s と、『源氏物語』や『雨月物語』などの日本の古典小説が物語の各所で用いられているところがとても感慨深いところで、2005年には英語翻訳が「ニューヨーク・タイムズ」紙で年間の「ベストブック10冊」に選出されるなど、海外での評価は非常に高いのも解る気がします。20代後半から30代前半の主人公が多い村上小説にしては珍しく、15歳の少年「僕」が主人公で、不思議な世界を自ら行きながら、心の成長を遂げていく物語で、特別読み難いものではありません。読み進めていくうちに謎の全貌が明らかにされていくといった、推理小説風の手法と、世界を異にした2人の主人公によって語られるパラレル進行も彼らしさだと思います。

 春樹氏の作品は彼の実生活に支えられています。かつては一日3箱を喫うヘヴィースモーカーでしたが、『羊をめぐる冒険』の頃から禁煙。身体を鍛えるためにマラソンを続け、最近ではトライアスロンにも参加していますね。冬はフルマラソン、夏はトライアスロンというのがここ数年の流れです。これは、小説を集中して書き続けるために体力維持に励んでいる、という理由によるもの。したがって、生活は非常に健康的なのです。毎朝4時か5時には起床し、日が暮れたら仕事はせずに、夜は9時すぎには就寝。ほぼ毎日10km程度をジョギング、週に何度か水泳、ときにはスカッシュなどもしているそうです。もう不健康で病弱な小説家のイメージは消えようとしているかのように・・・

 W村上と言われた村上龍氏とは学生時代、村上春樹の経営する「ピーター・キャット」に通っており、デビュー前からの顔見知りでした。
 初期には互いのエッセイで頻繁に言及しあっており、1981年には対談集『ウォーク・ドント・ラン』を出版しています。以前は猫を譲ったりするような間柄ででした。村上龍氏は春樹氏の姿勢(特にその作品が海外で広く高く評価されている点や海外に自己の作品を積極的に問う点)とその仕事を評価しています。

 2006年、特定の国民性に捉われない世界文学へ貢献した作家に贈られるフランツ・カフカ賞を受賞し、以後ノーベル文学賞の有力候補と見なされています。

 機会があれば、本訳ものも読みたいと思います。『1Q84』も楽しみにしています。

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2009年5月22日 (金)

フォークソングと呼ばれていたあの頃

 私が知る限り、1970年代が黄金期と言えるのではないかと思います。私はまだ幼かったけれど、兄がよく聞いていて、私も『花嫁』や『悲しくてやりきれない』『あの素晴らしい愛をもう一度』など沢山の曲を歌いました。家にはクラッシクギターはありましたが、フォークギターがなくて、それでもコードを何とか覚え、その頃には、吉田拓郎や井上揚水のレコードを買っていました。

 でも何より加藤和彦氏と北山修氏の存在は大きかったですね。加藤さんは、アマチュアフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散記念に制作したインディーズアルバム『ハレンチ・ザ・フォーク・クルセダーズ』中のオリジナル曲『帰って来たヨッパライ』に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれましたね。加藤さんは難色を示しましたが、毎朝説得に来ていた北山修の説得により1年かぎりとの約束でプロの世界に入りました。
 シングル2作目に予定していた『イムジン河』が、政治的配慮から発売禁止にされたこともありました。これに憤慨し、イムジン河のメロディを逆回転させて作った曲が『悲しくてやりきれない』であるとする説もあります。
 
 1990年代からは歌舞伎音楽を手がけました。この縁から、後のModann003 フォーク・クルセダーズ再結成コンサートでは、市川猿之助 (3代目)と共に歌舞伎の口上で幕を開けました。考えられますか?
 
『イムジン河』が初めて日の目を見た2002年には、フォーク・クルセダーズを半年間限定で新結成(他のメンバーはきたやまおさむと坂崎幸之助で、はしだのりひこは不参加)しましたね。映画『パッチギ』にて、第60回毎日映画コンクール音楽賞受賞。2005年発売のプレイステーション2用ゲームソフト「天外魔境III NAMIDA」の音楽を担当と幅広く活動しています。

 そんな加藤さんを横目に私は拓郎の熱狂的なファンになり、最初の離婚をするまでは応援していたのですが、並行するように、揚水、かぐや姫、泉谷しげる、赤い鳥、ガロ、チューリップ、送れてオフコース(彼らはフォークとは一線を博していたようですが)ユーミンと聞いていくうちに、ニューミュージックと言う言葉が現れ、一くぐりにされてしまいました。その後も松山千春、中島みゆきはフォークでしょうと言いたくなりましたが、拓郎らは、ボブ・ディランに影響された人が多かったですね。かれらの音楽は、詩を重視し、語り部のような要素があり、それがまたたまらなくいいものでした。
 最近はかぐや姫の歌の『神田川」を聞いて、「生活保護受ければいいのに」と言う人もいるそうです。情緒がないですね・・・

吉田拓郎がNHKの『ヤング101(?だったと思いますが)』に出演が決まっていた時、ちょうど婦女暴行事件で騒がれて出演禁止になった時は本当に悲しくてやりきれないおもいをしました。以降、TV出演は殆どなくなり、フォークの歌い手は一にぎりの人しかテレビに出なくなりましたね。

 唯一、深夜のラジオ番組にいるんなフォークシンガーがディスクジョッキーになり、それを眠い目を擦りながら聞いていた次第です。そんな学生時代を過ごした方は今は何を聞いているのでしょうか・・・

 今聞きたいのは、不思議と井上揚水さんの『氷の世界』のアルバムですね。『旅の宿』も時々聞きたくなるので、マイ・ミュージックに保存してはあるのですが、昔を思い出してもどうにもならないので、今時の曲を理解しようと思うのですが・・・ついていけませんね・・・でもウタダヒカルじやミスチルは好きですよ。黄金期のように歌番組はなくなってしまいましたし、どうやってみんな曲を聴いているのだろうと不思議でたまりません。昔は月間明星とか平凡を買うと新曲からやや古い曲までギターコードがついた詩がのった付録がついてきてそれで歌を完全マスターしたものでした。年齢がバレバレですね。でも今はあの頃ライバル的だった存在も仲間でワイワイやっていると小田さんが言っていたのを聞いて、なんだかほっとしています。

 清志朗さんも、好きだっただけに今だ死を受け止められないでいる私でした。

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2009年5月20日 (水)

私がやや好きな作品たち~乃南 アサ編

 アサさんを知ったのは直木賞受賞作『凍える牙』でした。でもあまり熱心には読んでなかったので今回開いてみて新たな発見がありました。深夜のファミリーレストランで突如、男の身体が炎上した!遺体には獣の咬傷が残されており、警視庁機動捜査隊の音道貴子は相棒の中年デカ・滝沢と捜査にあたります。やがて、同じ獣による咬殺事件が続発。この異常な事件を引き起こしている怨念は何なのか?野獣との対決の時が次第に近づいていた・・・。女性刑事の孤独な闘いが読者の圧倒的共感を集めた直木賞受賞の超ベストセラーです

主人公はシリーズ化されている音道貴子。このシリーズの長く続きましたね。ミステリーなんですが、この小説、男社会で働く女性の声を代弁もしてるような…ごく普通の女性が男社会で扱われる理不尽さ、腹立ちを貴子は噛み締めながら動くその描写が上手いですね。
 また逆に、男の側から、こんなところに女が加わって、ってい003bear_2 う思いや苛立ちも・・・更に家族とのしがらみ、悩みなんかも等身大に描いてる所為か、貴子にしても相棒を組むベテラン刑事・滝沢も読んでて共感できます。そして、この小説のポイントとなる野獣・ウルフドックの疾風(ハヤテ)。終盤、貴子と疾風が首都高を駆け抜けていく様は最高の画になるんじゃないかと思いました。

ぱっと思いつくところでは柴田よしきのRIKOシリーズもそうだし、横山秀夫の「顔」とか、女性刑事が出てくる小説もかなりありますが、だいたい女性刑事は一人で、男性社会に放り込まれて奇異な目で見られ、認めてもらえず、悔しい思いをしながら日々奮闘します。そして事件を解決。そんな内容が多かったように思います。そういうのは男性に受け入れられない、理解されない理由かもしれないなと思いつつ、私自身、そういうテーマの小説は「またか」と思うし、同じ女性として共感はするけれど、自分がそこまで仕事がんばってるわけでも女性だけど男性と対等に見られたいとか思って日々戦ってるわけでもないので、もう別にすすんで読みたいとも思わないテーマでした。

 この作品はそれがまた典型的にすぎる気がして。離婚暦があり男性不信気味の主人公、音道貴子と、相棒として組まされる、典型的なベテランたたき上げ刑事の滝沢。滝沢はいまどきあるのかってくらいの女性蔑視で、女だからと貴子を軽視し、なおかつどう扱っていいかからないものだから彼女を無視してかかり、貴子はそんな滝沢に反発しつつも懸命に捜査をしようとする。その二人が徐々に気持ちを通わせていく様子はそれなりに読応えはあったけれど、こういう作品の平均的見本として示していいくらい典型さがあって、私自身もそこにはあまり面白みは感じられなかませんでした。

でもすごく面白かった、とやっぱり思えるのは、犯人像です。というよりは、犬の存在でしょうか。音道がかかわる今回の事件。レストランで男がいきなり燃えはじめる。発火装置をつけられて燃やされたその男、他殺ということで捜査がはじまるが、遺体を検分し、大きな獣が噛んだ噛み痕があることがわかります。そして、海の近くで突然大きな獣に別の男が噛み殺され、連続殺人事件として、捜査は続きのです。音道と滝沢は、その大きな獣はウルフドッグという、狼と犬との混血ではないか、その線で捜査を進めるが、調べるうちに、音道はいつしかまだ見ぬその犬の存在が気になって仕方がなくなります。彼に会いたい。そう思うようになるのです。そして、音道は白バイに乗っていた経歴があり、現在も機動隊として任務を行っています。いざというときには、バイクに乗ってその獣を追いかけねばならない・・・・

 飼い主に忠誠を誓い、飼い主不在になっても飼い主の思いを遂行しようとする孤独な犬と、孤独な女刑事の魂の共鳴。大げさだけれど、そういうストーリー展開に私はすごく引き込まれた。この作品の主役は女刑事ではなく、犬だ。その犬の立ち居振る舞いは崇高で気高く思えて、彼の行動には私も目が離せなませんでした。人間の都合のいいように仕込まれてしまう彼だけれど、彼自身がそういう人生選んだようにも思えます。主人に仕える人生を。最後にはとにかく泣けました。犬好きだったから面白く読めたのかもしれないな、とも思います。ウルフドッグ・・・どんな犬だろう。狼みたいに美しいんだろうな。と、ホワイト家族のお父さんにそっくりな柴犬を見ながら思ったり・・・・それはともかく、どうやらシリーズもののようです。音道貴子のストイックな仕事ぶりは気になるけれど、もう犬は出てこないだろうし・・・。また気が向いたら読出み体本の中の1冊です。

 また『幸福な朝食』では、読み始めてまず気付くのは、独特の時間感覚によるストーリー展開です。説明も無しに登場するミカ。読み手の潜在意識にこっそり不安の種を植え付けます。そしてルームメイトの弓子の壮絶な死で、不安の陰は確実に延びてきます。その不安は、終盤の主人公 志穂子の狂気と正常との間の揺らぎへの長い伏線になっています。ストーリーにはさほど特別の山があるわけではありませんが、芸能界や演劇の世界でうごめく登場人物のそれぞれの心理描写、互いに相手の心の奥底を読むシーンが、緊張を生んでいます。人形のミカは、我が子供であり、解決できない自分自身の性格でもあります。ミカに象徴されるのは、人格の分裂でありながら、結末では自己回帰のための重要なポイントになっています。粗削りのような部分もありますが、 各所の意味合いに二重性を持たせているのも著者の魅力でしょう。著者のその後の活躍を十分示唆しています。

 そして『涙』は、昭和39年東京オリンピック前夜。一方的な別離の電話を最後に、挙式を翌月に控えた萄子の前から、婚約者・勝が姿を消した。刑事である勝には、ある凄惨な殺人事件の嫌疑がかけられていた。潔白を信じる萄子は、勝を探し出す決心をするが、同じ頃、勝への復讐を誓った男も行動を起こしていた―。川崎、熱海、焼津、筑豊、飛田、そして沖縄・宮古島へ―。すれ違い、裏切られ、絶望と希望の間で激しく揺れながら続けた孤独な旅の終わりに、萄子が見たものは・・・
 乃南アサさんらしいサスペンスとして描かれていますが、全国各地と舞台が変わる中、萄子の揺れる思い、そして娘を殺害された韮山の思いが複雑に交錯し、更に事件背景が徐々にわかるに従い、物語も段々と佳境へと突入する展開は最後まで目が離せませんでした。事件の真相はラストで明らかにされます、勝がなぜ姿を隠さなければならなかったのか、そして事件の背景には何があったのかは、登場人物の思いと共に本文でじっくりと味わえます。最後のエピローグで、もう少し韮山のその後と勝のその後を描いてほしかったものですが、物語としてはしっかりと堪能できましたし、一気に読まされたサスペンで、面白かったです。

また、『結婚詐欺師』は、2007年にWOWOWのドラマWで内村光良主演でテレビドラマ化されました。

 もっとちゃんと読んでいれば、最初から面白さが解ったのかと少し後悔しています。

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2009年5月19日 (火)

私が驚いた作品~『奇跡の脳』

 ジル・ボルト テイラー女史の『奇跡の脳』はもう読まれましたか?気鋭の女性神経解剖学者が、脳血管の生まれつきの異常があったために、ある日脳卒中を起こしました。なにしろ自分の専門領域なので、脳の機能がしだいに侵されていくのを、自分で体験する破目になります。「四時間という短い間に、自分の心が、感覚を通して入ってくるあらゆる刺激を処理する能力を完全に失ってしまうのを見つめていました。(中略)そして、人生のどんな局面をも思い出すことができなくなってしまったのです」
 
 養老孟司氏の書評によると、『その発作の間も、さすがに科学者Ratur001 である。自分の認知力が壊れていく様子を、しっかり記憶しておくように、必死で自分にいい聞かせる。そういう人だから、回復した後で、こういう本が書けたのである。病巣ははっきりしていた。左脳の中央部から、出血がはじまったのである。それによって、典型的な左脳の機能である言や、自分を環境から区別し、自分の位置を把握する方向定位連合野が働かなくなっていく。そうすると、残る右脳の機能が正面に表れてくる。それはどういう世界であったか。なんと著者はそれをまさに「悟り」の境地、ニルヴァーナと呼んでいる。自分が宇宙と一体化していく。脳が作っている自分という働き、それが壊れてしまうのだから、いわば「自分が溶けて液体となり」、世界と自分との間の仕切りが消えてしまう。つまり宇宙と一体化するのである。
 いわゆる宗教体験、あるいは臨死体験が脳の機能であることは、いうまでもない。しかしそれが世間の常識になるまでには、ずいぶん時間がかかっている。神秘体験としての臨死体験が世間の話題になった時期に、私は大学に勤めていたから、取材の電話に何度お答えしたか、わからない。あれは特殊な状態に置かれた脳の働きなんですよ。
 脳卒中結果、著者はすっかり変わってしまう。いわば右脳の働きに「目覚めた」のである。無理な理屈をいい、批判的になり、攻撃的になる。それはしばしば左脳の負の機能である。もちろん左脳の機能がなければ、さまざまなことができない。しかしリハビリを続け、左脳の機能を回復していく過程で、著者はそうした負の部分を「自分で避ける」ことができると気づく。個人的にお付き合いするとしたら、私は病後の著者と付き合いたいと思う。発作前の著者は、おそらく典型的な、米国の攻撃的な科学者だったに違いないからである。本書の後半を、ほとんど宗教書のようだと感じる人もあるかもしれない。でも、脳から見れば、宗教も特殊な世界ではない。脳がとりうる一つの状態なのである。本書を「科学的でない」という人もあるかもしれない。それは科学の定義によるに過ぎない。科学をやるのは脳の働きである意識で、意識は一日のうちのかなりの時間「消えてしまう」ていどのものである。その意識という機能の一部が、科学を生み出す。しかも科学を生み出す意識という機能は、「物理化学的に定義できない」。
 科学的結論なら信用できる。そう思っている人が、いまではずいぶんいるらしい。しかしその科学を生み出す意識がどのくらい「信用できるか」、本書を読んで、ご再考いただけないであろうか。訳文はこなれていて、じつに読みやすい。専門的な部分を最後に解説としたのも、親切な工夫だと思う。脳研究やリハビリの専門家に限らず、人生を考えたい人なら、だれでも読んでいい本である。』とありました。なるほど・・・

 テイラー,ジル・ボルトさんはインディアナ州インディアナ医科大学の神経解剖学者。ハーバード脳組織リソースセンター(脳バンク)で精神疾患に関する知識を広めるために尽力しつつ、ミッドウェスト陽子線治療研究所(MPRI)の顧問神経解剖学者として活躍しています。1993年より、NAMI(全米精神疾患同盟)の会員でもあり、タイム誌の「2008年世界で最も影響力のある100人」に選ばれました。インディアナ州のブルーミントン在住。

 私も、脳卒中で左脳の機能に障害を受けたが意識は失っていなかったと聞き、さすが科学者と思ってしまいました。生物学的には人は感じる生き物だけれど考えもする、という順序らしいです。彼女は脳卒中で言葉がしゃべれず動けない時、なんと幸せだったというのです。それだけではありません。その中では深い安らぎがあり、魂と宇宙の一体感さえあり、感情が自制でき、世界観までが変化していました。
 8年後、ジルは手術とリハビリによって奇跡的に回復します。そして、左脳が動かなかった間、負の感情を持った人が治療をすると辛く感じ、愛や喜びという感情こそが、人にいい影響を与えることもわかったと言います。また左脳が回復するにつれ、感情を自分でコントロールするより、他人のせいにする方が自然に思われたのだといいいます。
 本書には、脳卒中の回復のためにどうやって病状を理解してもらいたかったか、という脳科学者ならではの不思議で貴重な付録がついています。私は感情の行方を他人のせいにしていないだろうか・・・私は本当の自分についてどれくらい知Gohho006 っているだろうか・・・そんな疑問も投げつけられた気がします。
 痴呆や認知障害で社会生活に支障をきたした方々と(又、広い意味で動物等の生命に対しても)接する機会は私を含め一般の方も多いかと思いますが、どう接するべきか、について役に立つのではないかと思いました。 著者は左脳の障害で、右脳の深い心の平和(涅槃)状態を体験されたと書かれています。でも逆の体験談もあるということですので、損傷部位で個人差があるのでしょうか。右脳にはまだ解明されていない複数の扉があるのかもしれませんね。 個人的には認識の働きの記述の部分、至福状態や、認知機能の肉体の境目感や時間感がなくなったり等が、心のはたらきを勉強するのに読んだブッダの実践心理学等を振り返り、面白いものだと感服してしまいました。右脳を使うようになって多幸感が得られ、涅槃も感じられるという 言葉で便利になった世の中は、人間らしさを奪ってるのではないかとさえ思えてきます。ただ、ラマチャンドラン『脳の中の幽霊』(p.43)には、「左脳に卒中を起こした患者は、不安や抑うつに陥ったり、回復の見込みについて気をもむことが多いもの。これは左脳が損傷を受けたために右脳が優勢になり、あらゆることに悩むようになったからだと思われる。」とありますが、著者の状態はまったく逆のようです。右脳が優勢になったにもかかわらず、そのダメージをまったく受けていませんね。いくら脳の専門家だとしても、脳卒中患者本人の書く体験記をどこまで信用できるか悩ましいのも本音です。

 でもまず一読をお勧めします。かなり売れているようですし・・・

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2009年5月18日 (月)

私の好きな作品たち~島崎藤村編

 『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となり、ほかの作品に、日本自然主義文学の到達点とされる作家島崎氏。

 『若菜集』も素敵な作品ですが(といってもどこまで理解出来ているやら・・・)、小説家の彼の作品は、あの時代だったからなのか、悲惨な物語が多いですよね。

 『夜明け前』は幕末から、明治国家もようやく完成されつつあるHaruoinoue002 明治19年までを扱っている歴史小説です。私にはさしずめ重厚な大河小説の感がしました。
 藤村氏は「夜明け前」を「中央公論」に第1回を載せてから約7年の歳月をかけて連載し続けました。作品の想を起こしてから脱稿するまでの期間を考えると藤村の文字通り畢生の作品であり、そして、最後の長編小説です。巨人島崎藤村氏は昭和18年の夏、風が涼しいの言葉を最後に永眠しました。数え年で享年72歳だったそうです。

 『夜明け前』の主人公は青山半蔵。舞台は中仙道の宿の1つ馬籠です。青山半蔵は藤村氏の父と藤村自身がモデルであるといわれています。青山家は馬籠村に代々続く庄屋・本陣・問屋を兼ねた旧家でした。半蔵は父吉左衛門から受け継いで青山家の当主となります。
 物語は嘉永6年の黒船来航から始まり、明治19年、半蔵の死で終わります。馬籠村は中仙道の重要な宿であり、青山家はその村のトップの存在でした。村人の世話、そして役人との交渉は青山家の仕事でした。幕末から幕府崩壊まで、馬籠の宿は多くの歴史的事実を目撃しました。孝明天皇の妹である皇女和宮が将軍家茂に降嫁するため京都から江戸に向かうのに、一行は中仙道を使い、馬籠を通過する行列は、それまでのいかなる大名の行列より長いものでした。馬籠村を通過するのに数時間もかかったといいます。この行列の光景は半蔵一家の人たちの目に永久に焼き付けられました。
 水戸浪士たちの天狗党も馬籠に来ます。攘夷を旗印にした天狗党の浪士たちは水戸から京都へと上るのに、中仙道を西に向かい馬籠の宿に逗留。本居宣長、平田篤胤に心酔している国学の徒であった半蔵は、幕府から賊徒の扱いを受けている天狗党の浪士たちに思想的に共鳴。幕府崩壊時には東征軍いわゆる官軍が馬籠を通過。そして、明治維新とともに馬籠を通過する人間は減り、馬籠の宿も衰退していくもです。

 明治になり、半蔵も村の要職をはずされました。彼は教育に活路を見出そうとしました。半蔵は新しい時代である明治にたいして心の底から期待をしていたのです。それは明治は王政復古のもとに古に復るからです。自然に帰る・・・これが本居宣長が目指すことででした。自然とは「大和言葉」が支配する世界のことです。半蔵は自然と明治を重ねたのです。しかし、明治の世は王政復古といいながら半蔵の待を次々に裏切っていました。明治の世は急速に近代を目指したのです。国学は無残に廃れていきました。「大和言葉」のために戦っていった先輩たちのことを思うにつけ半蔵の胸は痛みました。
 半蔵は心身ともに疲れ果て、いつしか精神に異常をきたしてしまいました。彼は菩提寺の万福寺に火をつけたのです。半蔵なりの廃仏毀釈だったのかもしれなません。これよりのち、半蔵は座敷牢に入れられ、狂死してしまいます。王政復古を謳った明治は半蔵には言葉だけに過ぎなかったのです・・・

 この長編が大作なりえたのは平易な文章によってかかれたことが大きいと思います。。美しい日本語のお手本のような文章で『夜明け前』は書かれています。そして、平易な文章で書かれたこの作品を格調高くしているのは作者の目の置き所です。作者の目線は下から上に向いているのです。庄屋や村人を含めた人々の動きから歴史の流れを見ているのでしょう。薩長の下級武士によってなされた革命としての明治維新の視点はこの作品にはありません 『夜明け前』は人々の日記をもとに書かれました。藤村氏は人々の声に耳を傾け、そして彼らの声から幕末・明治維新という歴史の大きなうねりを書いたのです。東京・板橋を経て、碓井峠から京へ向かう中仙道。幕末から明治への激動期、中仙道の要衝、木曽路の馬籠宿を舞台に、宿の当主・半蔵の生涯を描き切っています。宿を仕切る公的な役目に生涯の大半を捧げながら、自らの信念にも誠実でありたいという半蔵の引き裂かれる思いが、時代の奔流の中で、痛いほど伝わってきます。そして待ち望んだはずの時代に裏切られてしまった半蔵の苦悩は、歴史の酷薄さ描いて余りあると言えるでしょう。激しい攘夷運動のあとに待っていたものは、“散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする”と唄われたほどの西欧化の波でした。
 待ち望んでいた王政復古を果たすも、民衆の暮らしはいっこう楽にならなりません。その煩悶のなかで、木曾街道・馬籠本陣の当主 青山半蔵は56年の生涯を閉じます。半蔵とは作家・島崎藤村の実父でだったのです。父祖の代からの街道沿いの生業と暮らしぶりをつぶさに再現しながら、嘉永年代から明治半ばまでのこの国の歴史と、そこに翻弄されるしかなかった人間の生き様を描き出しています。日本史に疎いため手に取るのに時間がかかりましたが、ヒロイズムや情緒に流されることのない淡々とした筆致は、かえって一層の迫力を持ってその時代をあぶりだしていました。

また『破戒』では、明治後期、被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松は、その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育ちました。その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎をひた隠しに慕うようになります。丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもありましたが、その思いは揺れ、日々は過ぎていきます。やがて学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に猪子が壮絶な死を遂げます。
 その衝撃の激しさによってか、同僚などの猜疑によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまいます。そして丑松はアメリカのテキサスへと旅立ってゆくと言うお話で、この作品(特に丑松が生徒に素性を打ち明ける場面)は、住井すゑの『橋のない川』でも取り上げられ、誠太郎をはじめとする登場人物の間で話題に上っています。この中で誠太郎は、丑松が素性を打ち明ける際、教壇に跪いて生徒に詫びていることを批判的に捉えています。『橋のない川』も『破戒』同様、部落差別を扱った作品ですが、両者の差別に対する考え方あるいはスタンスは正反対と言ってよいほどに異なります。

事実、現在の差別問題に関する認識、見解、解放運動のベクHaruoinoue トルは様々で、この問題のある一定以上の捉え方は非常に難しいものとなっています。問題の性質が性質なだけに、腫れ物を触る行為になりかねないのがこの問題の理解を深めるにあたり障壁になる部分であるともいえるでしょう。『春』でもそうなのですが、1929年には、『現代長編小説全集』第6巻(新潮社)の「島崎藤村篇」で「破戒」が収録されました。ここにおいては、藤村はこの作品を「過去の物語」としています。これは当時、全国水平社が部落解放運動を展開し、差別的な言動を廃絶しようとする動きがあったことを意識しています。これも一部の組織から圧せられて、やがて絶版になったといいます。水平社は後に言論の圧迫を批判し、『破戒』に対しても「進歩的啓発の効果」があげられるとし、評価していますそして1938年に、「『破戒』の再版の支持」を採択しました。
 こうして翌年『定本藤村文庫』第10篇に「破戒」が収録されたが、藤村はその際に一部差別語などを言い換えたり、削除しています。これを部落解放全国委員会が、呼び方を変えても差別は変わらないとして批判。1953年、『現代日本文学全集』第8巻(筑摩書房)の「島崎藤村集」に、初版を底本にした「破戒」が収録された。委員会は、筑摩書房の部落問題に悩む人々への配慮のなさを指摘し、声明文を発表しました。1954年に刊行された新潮文庫版『破戒』も、1971年の第59刷から初版本を底本に変更しています。

 1899年(明治32年)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。秦冬と結婚し、翌年には長女・みどりが生れました。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回とします。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図りました。1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛されました。ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになります。
この頃の藤村の回りでは
・父親と長姉が、狂死したこと。
・すぐ上の友弥という兄が、母親の過ちによって生を受けた不幸の人間であったこと。
・後に姪のこま子と不倫事件を起こして、次兄のはからいによって隠蔽された。兄の口から、実は父親も妹と関係があったことを明かされた。 ・・・こんな小説にしてくれとばかりに相次いで起こった出来事が藤村氏を憂鬱にさせたのでしょうね。どんなに辛かったか計り知ることは藤村の作品が語ってくれます。恐ろしい血をひいたとどれだけ苦しんだか、再読してもいい本だと思います。

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2009年5月17日 (日)

私の好きな作品たち~北山 修編

 私が北山さんでイメージしていたものは、ミュージシャンとしての北山さんでした。学生時代は関西フォークブームの出発点となる「ザ・フォーク・クルセダーズ」の元メンバーで、1970年前後のフォークブームでは関西、京都フォークの中心的人物の一人として活躍してましたよね。『戦争を知らない子供たち』『あの素晴しい愛をもう一度』『風』『花嫁』『白い色は恋人の色』『レッツゴー!サザエさん』などの作詞でも有名です。『戦争を知らない子供たち』で日本レコード大賞作詞賞を受賞。『さらば恋人』は堺正章の歌で大ヒットを記録しました。
 1968年、大島渚監督の映画『帰ってきたヨッパライ』にフォークルとして出演。特に1969年~1971年あたりまでの活躍は目覚ましく、全共闘世代の若者たちの精神的支柱、イコンでもあっりました。その頃の著書に、『くたばれ!芸能野郎』『戦争を知らない子供たち』『さすらい人の子守唄』『ピエロの唄 北山修青春詞歌集』などがあります。正直『変わった人だけど存在感の或る人』としか思っていませんでした。本屋で時々目に知る程度で買って読もうとまで思わなかったのですが、どこか心にひっかかっていました。まさか精神科医を目指してロンドンへ留学したなんて思ってもいませんでした。なので以降、かれの遍歴には、日本の精神科医、心理学者、医学博士、作詞家、ミュージシャン。京都府立医科大学医学部卒。九州大学教授。日本精神分析学会会長。専門は精神医学、精神分析学。となるわけです。
 凄い事ですよね。なにが精神分析に駆り立てたのか解りませんが、著書だけでも

1986年『他人のままで ある精神科医の部屋』
1993年『北山修著作集 日本語臨床の深層』
2000年『みんなの精神科』
2004年『みんなの深層心理分析』
2007年『劇的な精神分析入門』
    『現代フロイト読本 1』などがあります。

 『劇的な精神分析入門』では、「ようやく私のような者でも、〈私〉が生きてここにいることにそれなりの意義があるのだと思える本ができ上がった。この本Kaii001 にオリジナリティがあるとすれば、源は精神分析本来の劇的観点と、精神科医としての経験、そして舞台人としての私のささやかな体験そのものであり、その間にこそ私の個性的な立脚点があるからだ。加えて、症例や私自身の内的世界を詳しく語らないままで、若き日のエッセイや歌詞など、私自身のすでに公開されたところを活用することが、〈私〉に関する問題や視点の提起を容易にさせたのである。つまり、パーソナルコミュニケーションの極致にある精神分析と、マスコミ活動という両立し難いものの接点で私は随分と格闘してきたが、その結果や成果がここに書き込まれていると言える」(「あとがき」より)

 今日、精神分析の臨床は、患者やクライエントの症状の意味を分析することから、人が生きることを抱え、共に考え、そして失敗することへとその力点を移しています。意識と無意識、外と内、人間と動物、大人と子ども、日本語と外国語、普通と普通でない……〈私〉を分かつ社会の二分法や二重性をこえて、〈私〉が本来の在り方を確保するために。「心の台本を読む」「治療室楽屋論」など、人生の営みを演劇的なものと捉えてみること、そして〈私〉の心の台本に気づき、読み取り、かみしめること。かつて舞台人として楽屋を愛した著者の、独創的で体験的な〈私〉の時代の精神分析論なのです。はじめは、本を手にとり「劇的」というとちょっとびっくりしながらよみはじめましたが、だんだんと、違う意味だったのだと気づきました。読了後「劇」への見方が変わりました。

「自分を使う」ということ。セラピストの姿勢は硬直したものではなく、セラピストも変化があり「動き」として捉えるという見方。 また、「劇」という視点が加わり、文脈を書き直していく作業を助ける仮の共同作業だということが、よく伝わってきました。
  Clの中での【楽屋で文脈を書き直すCl】←→【劇を演じ直すCl】という関係性を支えるものが、Thの中での【共同作業として言語化に参加するThとしてのTh】←→【自分のこころの傷をあつかいその気づきを台本として参考にするひと】の関係性なのかなと思いました。
 誰もが感情をあつかい、心の傷とその周辺とつきあっていくという点で、同じ作業をしているのであり、役割は違っても一つひとつの劇を味わう。また、過去も大事にしながら、自分の中であつかうことができるようになってその過去も、ある意味変えられる。このようなあたたかさを感じました。

 北山 修 (編集), 松木 邦裕 (編集), 藤山 直樹 (編集), 福本 修  (編集), 西園 昌久 (監修) の『現代フロイト読本 1』では、フロイトは大変たくさんの論文を発表しており、人文書院のフロイト著作集では11巻 にまでなっています。これらの論文を全部読むことはかなり骨の折れる作業ですが、 とても実りのあるものでもあります。本書はたくさんあるフロイトの論文から主要なもの を取りげ、それぞれの要約や解説、現代的な意味や視点が書かれています。そして、著者はすべて日本精神分析協会の会員であり、いわゆる精神分析家の先生方となっています 。その為、臨床的な視点からのものが多くなっています。

 本書はフロイトの主要論文が網羅されており、非常に読みやすく、含蓄深いものばかり ですが、これだけを読んでフロイトを理解できたとは思わない方が良いと思います。というのも、フロイトの言ったことを著者たちなりの「翻訳」をしているところもあります。
 またフロイトを読むことは各自の体験とのすり合わせの中で生きてくるものであり、単に 知識と技術を習得するためのものではないからです。フロイト論文をロールシャッハの図版に見立て、そこから連想を広げ、自分なりのフロイト理解をしていくことが極めて臨床的な営みへと通じていくものと思います。ですから、本書を入門的に読むとしても、そこで終わらず、できればフロイトの論文を実際に読むことをお勧めしたいと僕は思います。
 
 フロイトは、オーストリアの精神分析学者で、オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジーの家庭に生まれ、神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開しました。
 非常に詳細で精密な観察眼を示す症例報告を多数残した科学者でもあります。それらは、現在においても次々と新しい角度から研究されています。
 フロイトの提唱した数々の理論は、のちに彼の弟子たちによって後世の精神医学や臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えました。弟子たちは、フロイトの考え方のどこかしらを批判した上でこれを受け継ぎ、様々な学派に分岐し、それぞれ独自の理論を展開していきました。フロイト自身がこの精神の病理という分野に大きなスポットライトを当てた業績は誰にも否Kaii013定できないものがあります。フロイトの時代の医学では精神病理の治療はほとんど進んでおらず、脳内のメカニズムを解明する可能性はほとんど存在しなかったのです。一方でフロイトが、良質な科学者がそうであるように、現象を重んじ、しばしば理論を修正していっていたといいます。彼の判断の基礎には臨床的な経験があり、彼はそれ等を重んじたのです。そのこと自体は称賛に値します。しかし、現代の精神医学においては、フロイトの理論自体が高く評価されているとはいえません。その理由としては、嗜好性の強い独特の性的一元論に代表される、およそ通常の現代人の感覚にそぐわない違和感のある内容という事があげられます。

 性的一元論は、そもそも彼自身の心の病理からくるとする意見もありますが、当時のヴィクトリア朝時代の抑圧性の非常に強い時代にあっては、まさに紳士を自認する人間たちが性的な領域を否認することに、フロイトは欺瞞を感じたのでした。性理論の形成に関しては、当時の抑圧の強い時代において、フロイトがその観点の強調に革命的意味を持たせていたことを念頭に置く必要がありますね。また、例えば心的外傷(トラウマ)といった考えは、現代においても通用するものです。
 でも、性理論への偏向自体はとりもなおさず、フロイト自身の政治的な立場から自身の主張を一つのものの見方に限ってしまうことになり、科学者としての彼の姿勢に非難があがる結果にもつながりました。さらに、それ以後の精神分析や心理学の発展により、フロイトの主張とは異なる新たな見解や方法が生み出されてきた歴史的経緯もあります。

 また、『こころを癒す音楽 』ではこの本は、心理療法家が書いた「その人にとっての癒し(ヒーリングミュージック)の音楽」に関する語りの本です。
 出てくる曲は、クラッシックだけでなく、ポップスにジャズなど、さらに童謡、歌謡曲なども含まれています。 それぞれの曲で癒される理由は、人それぞれでありますが、中には、自分は、心理治療の専門家だからと、その曲に癒されているという理由を自己分析されている人もいます。また、科学的に癒しとなっている音楽を調べてみたという人もいました。
 また、編著の北山修氏が大学の研究室でまとめられた「ミュージック・デザイン・プロジェクト」の結果も本書にまとめられています。
 本書を読んでみて、あ~わかる わたしもこの曲を聴くと落ち着くと感じたもの、語られているものを読ん で、共感できる感じるものたくさんありました。 音楽というのは「音を楽しむもの・音が楽」であり、けして「音が苦しむもの」ではありません。 けれども、人生に疲れたとき、迷うときには「音が苦」になってしまうこともあるかもしれません。でも、 癒される音楽を聴いているうちに、 「音が苦」から「音が楽」に変わっていくと思います。 この本から、癒しの音楽が見つけたり、癒される理由を感じ取ると、これから先、なにかあったときに
心のよりどころになるではないかと感じました。これからも心の闇を持つ人々に光を与えてください。

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2009年5月16日 (土)

私の好きな作品たち~泉鏡花編

『日本橋』を取り上げて少し(かなり長い?)泉鏡花氏の文体に触れたいと思います。値維持、対象、昭和を駆け抜けた鏡花氏から学ぶべき事は大きいですね。妻子は旧かな使いから始まり、途中で新かな使いにかわったのでその後の作品のほうが親しみやすいのですが、私がみつけた小文は『遊学』(中公文庫)に収録してありますが、そのときは、「あたしはね、電車が走る街にお化けを出したいのよ」「お化けは私の感情である、その表現である」と言ってみせた鏡花氏の、「一に観音力、他に鬼神力」ともいうべきを覗き見ました。
 そのころの泉名月さんの回顧談を読んだせいもあって、オキシフルを浸した脱脂綿で指を拭いているとか、お辞儀をするときは畳に手をつけないで手の甲を向けていたとか、ナマモノは嫌なので料亭でも刺身を細い箸で避けていたといった、Hirayama003 過度の潔癖美学を全身に張りめぐらせていた鏡花が、そのように“見えないバイキン”を極端に怖れているのに、その対蹠においては、変化しつづける見えない観音や、人を畏怖させる鬼神をあえて想定したことに、関心をもっていました。
 そういう鏡花氏の実在と非在を矛盾させるような「あはせ」と、見えるものと見えないものを交差させるような「きそひ」とが、おもしろかったのです。

 当時は鏡花の大変なブームがおこっていました。身近な例をひとつ出すのなら、、新装再刊が始まっていた岩波の鏡花全集だけはせっせと買っているというような、そういうことがよくいたのです。
 舞台や映画でも、ジュサブローや玉三郎(なぜか二人とも“三郎“だった)が、しきりに『夜叉ケ池』や『天守物語』や『辰巳巷談』を流行らせていました。昭和50年代だけで、玉三郎は15本以上の鏡花原作舞台に出ていたはずです。『日本橋』も入っています。またこれより少し前の三島由紀夫氏も五木寛之氏も、鏡花復権を謳っていました。金沢には泉鏡花賞もできて、半村良やら唐十郎やら澁澤龍彦やらが鏡花に擬せられていました。
 鏡花の幻想世界のアイコンをプルーストやユングやバシュラールふうに読み解くというのも、そこらじゅうに散らばっていて、曰く、あの水中幻想の奥には火のイメージがある、曰く、鏡花には「無意識の水」が湧いている、曰く、鏡花の蛇は自分の尾を噛むウロボロス
というよりも多頭迷宮なのではないか、曰く、奇矯な破局を描くことが鏡花にとっての救済だったにちがいない、曰く、鏡花の緋色や朱色には処女生贄への願望が‥‥。ほんとですか?というほどの散らかりようでした。
 たしか、メアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』さえ持ち出して、鏡花の汚辱の美にみずから埋没していった評者もあったかとか・・・。
  
 あれから何年たったでしょうか。新たな印象は、そのころさまざまな日本の職人芸に魅せられていたのですが、そういう工芸象嵌の感覚に近かいものでした。しかし、たんなる象嵌なのではありません。鏡花における象嵌細工は仕上げは凄いのに、どこか現実とも幻想とも食い違うようなものになっていて、しかもそういう精緻なものがわざと投げやりにまた意想外に、どこかに邪険に放置されているというような、そんな印象なのでです。というだけでは解り難いと思いますので、『歌仙彫』という短い作品を例にすると、

 この話は、矢的(やまと)某という、技術は未熟なのは承知していたが矜持はすこぶる高い青年彫刻家がいて、その将来の才能に援助する夫人が遠方にいるという設定になっています。ところがいい彫刻はなかなか作れません。これは青年に憧れの夫人を表現したいという羨望が渦巻くせいか、焦燥感のせいか、それとも実は才能がないせいなのか、そこは定かではない。そんなあるとき、久々に夫人が工房を訪れた夫人は、桔梗紫の羽織をその場の材木にふわりと掛けた。その羽織のかたちが美しい・・・以来、青年は、その羽織のかかった材木をそのまま展覧会に出したいと思い、ついでは目黒の郊外を連れ立って歩いたときの夫人の声をそのまま彫りたいと思ってしまっていました。が、そんなことを思えば思うほどますます作品は手につかない。夫人は、私、体が弱いので、菖蒲の咲くころには、と言いました。青年は苦しんで酒を呑み、金がなくなると小遣いかせぎの六歌仙の小ぶりの人形など作って、一つできれば、出入りの研ぎ屋のおじいさんにお金にしてもらうようになっていました。それが二つ、三つと出来上がるたび、おじいさんは必ず代金をもってきてくれます。
 礼を言うと、「わしが売ってるのじゃない、別の人じゃから」と言う。誰が買ってくれるのか、じいさんの住処が深川あたりと聞いて、そのへんをぶらついてみるのだが、見つかりません。そんな深川の昼下がり、近くの冬木の弁天堂で休んでいると、とんとんと若い娘
が額堂に入ってきて風呂敷包みを開いた。なんと、そこには自分の人形がいる。業平、小町、喜撰、遍照‥‥。
 思わず駆け寄って、「研ぎ屋さんから手に入れたのですか」と尋ねると、「いえ、姉さんに‥‥」。
 青年がその姉さんに是非会いたいと言えば、妹は、ちょうど近くHirayama006 で用足しをしておりますので、では連れて参りますからと行ってしまいました。待つうちに日が暮れて、弁天堂の真っ黒な蛇の絵が浮き出して、こちらを睨んだかに見えたとき、堂守から声をかけられました。そのお堂にいる所持のない場面を、鏡花はあの独特の文体で、こう書いた「時に、おのづから、ひとりでに音が出たやうに、からからと鈴が鳴つた」。とたん、「勁(うなじ)の雪のやうなのが、烏羽玉の髪の艶、撫肩のあたりが、低くさした枝は連れに、樹の下闇の石段を、すッと雲を掴むか、音もなく下りるのが見える」。
 これでついに一切の事情が明かされるかと思うと、そうではありませんでした。鏡花はにべなくも、「かうした光景(ようす)、こうした事は、このお堂には時々あるらしい」、と結ぶばかりなのです。この不思議な感覚の消息は、ユングやバシュラールでは解けまい。観音力・鬼神力も適わない。鏡花は、何も説明していないのです。はたして姉が夫人なのやら、その姉の正体が何であるのかも、説明していません。
 それでいて、われわれはここに一匹の夫人の妖しい容姿が君臨していることを知ります。また、この青年の彫塑の感覚が並々ならぬものであり、青年はただただ夫人の感覚を想定することによって、世のたいていの力量を凌駕できていることを知るのです。青年は桔梗紫の羽織すら、きっとふわりとしたまま木彫できるのでした。鏡花氏とは、このように、精緻でありながらもどこかの「あてど」に放擲されるという印象なのです。この「あてど」は鏡花の「黄昏」をめぐる思想にも裏打ちされています。
 鏡花はあるところで、「たそがれの味を、ほんとうに解してゐる人が幾人あるでせうか」と書いて、「朝でも昼でも夜でもない一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です」と言ってたそうです。

 さらに、「善と悪とは昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、そこには、滅すべからず、消すべからざる、一種微妙な所があります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさういふ黄昏的な世界を主に描きたい」と。これが「ほか」「べつ」の、あてどのないところへの「投企」というものなのです。
 しかし、印象はこれだけでは終わらりません。鏡花にとってはさらに大事なことになるのですが、この「ほか」「べつ」「あてど」には、異性というものに託した一切本来が、たえ刻々に変成しているということです。
 これは最初に言っておいた、鏡花にとっての異性は、芸者であって母であり、夜叉でも菩薩でもある形代なのだということに、つながっています。鏡花氏は大変な多作に加えて、長編もありません。自身、代表作を書きたいとも思っていなかった人です。まるで川の流れのように、一雙の舟にのって流れていた・・・鏡花から一冊を選ぶのが難しいのも、このせいだと新たにかんじました。 そこで、こちらの感想も書きたいことも、一作ごとに浮沈し、変化し、目移りします。また、そうさせたいのが鏡花氏自身だったのです。
 私もこれまでの目移りをいくつか例にしても、なるほど、視点はいつも蝶のごとくにひらひらとし、舟のごとくに揺れていました。
 たとえばのこと、『歌行燈』の恩地喜多八が身を侘びて博多節を流すあたりも書きたいし、湊屋の芸妓お三重こそを鏡花の憧れともしてみたいとか・・・。

 『高野聖』では、その鏡花アニミズムの朦朧画のような気味もよく、旅の説教僧が参謀本部の地図を広げる冒頭や山の女との出会いについても、言ってみたいことがあます。聖性と恐怖とエロス、そしてイニシエーション。これらはホラー小説に欠かせない要素ですが、「高野聖」にはそれらが見事に揃っています。深山の奥に住む謎の美女と若い僧のストーリーは、その設定の見事さにより、読者の好奇心を刺激します。怖いものみたさを喚起そいます。 いかにも怪しいシチュエーションは、「これは事件が起こる」と予感させるしそれは性的な誘惑を伴うはずであると確信しながら、ページをめくるのです。 泉鏡花はすごいストーリーテラーだと思います。
 読者はこの女は怪しいと感じながら、一方で惹かれていくのです。(読者は動物に変えられる男たちと一緒だ。) クライマックスは谷底での女の誘惑ですが、そこでは恐怖とエロスが渾然一体になり、最後に聖性(信仰)が勝利します。
エンターテイメントとしての完成度は相当なものだと思います。日本文学最高の幻想小説かもしれません。

 泉鏡花氏は今だに愛されている作家さんです。もう学校でも教えていないかもしれませんが、『高野聖』くらいは読んでおく事をお勧めします。面白い言葉が沢山出てくるのも魅力です。

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2009年5月15日 (金)

私の観たい映画『60歳のラブレター』

 先日、『大様のブランチ」でも取り上げていた作品、『60歳のラブレター』はぜひ観たいと思っています。

 大手建設会社の専務、橘孝平は、定年を期に離婚が決まっていました。会社を出て向かったのは、若い愛人の住むマンション。これまでは家庭と会社のために働いてきましたが、定年後は愛人と二人でベンチャー企業を共同経営し、若いスタッフと共に本当にやりたい仕事をやるのだといいます。しかし、大手企業重役だった橘にとって現実は思ったほど甘くはありませんでした。一方、離婚して自由になった妻・ちひろは、友達も増え、恋のチャンスが巡って来ていました。

 家族や社会のために働いてきた人たちが、第二の人生をどう生60sai001 きるか考える年代である60歳。全国から寄せられた手紙をまとめた書籍「60歳のラブレター」を原案に、タイプの違う三組の夫婦の人生模様を挟み込み、等身大の60歳の姿を描いた、真の意味での大人のラブストーリーです。社会的成功は出来たが心は満たされない人、平凡な人生だと思ってきたけど、それが幸せだったと気付く人…様々な幸せの形を提言し、観る人全てが共感するストーリーとなっているそうです。中村雅俊と井上順が、本来のイメージとは逆の不倫夫と堅実な男やもめを演じているのに注目。監督は『真木栗ノ穴』の深川栄洋氏、脚本は『ALWAYS 三丁目の夕日』の古沢良太氏です。古沢作品は前に取り上げましたが、面白いこと、お墨付きのようです。

 試写を見た方に伺うとホノボノとして、何処ににもころがっているようで、我が身を考えさせる映画でしたとのこと。60歳近くのカップル3組のラブストーリーで、コミックタッチで描いてあり観やすく作ってあります。
 定年を迎える会社人間の旦那を持つ夫婦。魚屋を営みいつも顔を突き合わせている夫婦。むつかしい年頃の娘を持つ妻を亡くした男と独身を続けてきた翻訳家の女。三組三様の身につまされる、お話展開となっています。キャストも、それぞれにピッタリとはまっている気がします。熟年離婚あり熟年恋愛ありで青春回帰を思い起こさせます。
 魚屋夫婦の口は罵っているが心の中は、お互いを案じあっている感じがよく出ています。綾戸智恵とイッセー尾形のコンビが絶妙な夫婦を演じきっています。言うならば、熟年青春映画の感じです。
 人は、それぞれの理由で、それぞれの立場で自分で考えて、考え違いに気がつかないことを、思い起こさせます。自分を表現すること、自分を素直に人に伝えることが下手な団塊世代の方々に、是非にも鑑賞していただきたい作品の一つだと思います。

 《中村雅俊/原田美枝子》《井上順/戸田恵子》《イッセー尾形/綾戸智恵》この団塊の世代の三組がグランド・ホテル・・・失礼ながら《役所広司》ならぴったりな役柄だと…。
別に中村雅俊の演技が劣っているということではなく、どうにも彼には、かつての<青春映画>の幻影が付きまとうからです。しかし、もう定年の役を演じる歳になったのですね・・・長年連れ添った間柄でなければ出せない<何気ない所作>まで再現している点は感心しました。
 空気みたいな関係って、羨ましいですね。
日常に染み付いたルーティーンから来る可笑しさ…。脚本60sai002 家は古沢良太、テレビドラマ『アシ!』でデビュー。そう、あの傑作ドラマを書いた人です。シリアスとコミカルの配分が良いですねぇ。心に突き刺さる《言葉》がいくつもありました。
 きっと、それぞれが誰かに感情移入して見てしまうのでは?団塊の世代ならではのコネタにも頷いてしまいます。
 きわめて、撮影はオーソドックス。幾分、マンガチックにした点もあるけど、これも分かりやすさを優先したと考えれば納得のいく演出。過剰過ぎない音楽も効果的。
 各々のラブレターがベタなのに一ひねりしてあり、見ていてジ~~~ンとなります。大人世代に向けたラブファンタジーですね。
…そうだ、これは青春映画だ。なるほど中村雅俊がキャスティングされたはずだ。(ん?)といったお声を拝聴して、参考にさせていただきます。60なんてまだまだだなんて思っていたら坂を転げ落ちる勢いで年を重ねて、歳と体調だけは若ぶるわけにもいかず、自分が60の姿など想像もできませんでしたが、確実にやってくるのですね。昔は60と言えば隠居の身でしたが、今は働かなければなりません。

 そう、両親に映画のチケットをプレゼントしたら喜んでくれるでしょうか。

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2009年5月14日 (木)

私に好きな俳優たち~常盤 貴子編

 私が彼女を覚えていたのは、あの人気ドラマ『愛していると言ってくれ』でした。まだキャピキャピしていた年頃でしたが、あの細い身体に大きな胸は印象的でした。そしてきつねのような愛くるしい顔にコロッとなってしまった男性の多かったはずです。私もどちらかというと、はじめて見る豊川悦治さんに興味をひかれもしました。ドラマ自体もとても魅力的だったので再放送まで見てしまいました。

 どうやら私は彼女の必死に伝えようとする手話の手に惹かれていたのかもしれません。『星の金貨』もそういう点で好きだったのかもしれません。手話はそれほどまでに私を虜にしました。でも実際に使っている手話を見た時、これはとても難しいものだと解りました。
速さが全く違うのです。ユーキャンの通信講座で手話を習おうとこころみてみましたが、現実を知って諦めてしまいました。

 それはさておき、『愛していると言ってくれ』は1995年の作品ですから、観てない方もいるでしょう。

あらすじは、耳の聞こえない画家と女優の卵が、障害を乗り越えなTokiwa005 がら愛を深めるというストーリーで決して障害を悲劇的に扱うことなく、主役2人の日常的な交流という形で淡々と描き、障害者のドラマが持つそれまでのイメージを大きく変えたものでした。この点などが高評価されて、第33回ギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞しました。まだ本当の愛を知らない女の子が、彼が前に付き合っていた女性から、一番好きなところは声だと言われ、自分には声を聞かせないことに、『愛してるっていってよ!』と泣く彼女がいたいけで、誤解が誤解をよび別れてしまうのですが、大人になって出逢った2人はどうなったのかが気になるエンディングでした。

その後貴子さんはヒロイン役に多く抜擢され、ぐんぐん伸びていったように思います。1991年夏に自らスターダストプロモーションの門を叩き、事務所に所属した。しばらくは、原宿の歩行者天国で路上ライブ(このライブにはデビュー前のMANISHも出演していた)の司会をするなど、下積み生活が続いたそうです。年末にTBS系SPドラマ『イブは初恋のように』で女優デビューをしたのち、ドラマの脇役やCMの仕事が入るものの、なかなか芽が出ませんでした。
 1993年CX系の深夜バラエティ番組であった『殿様のフェロモン』にサブ司会者として出演。
 1993年夏、フジテレビ系ドラマ「悪魔のKISS」で、カード地獄に落ち借金苦から風俗嬢に転落する女子大生役を熱演し、一躍新進女優の仲間入りを果たします。トップバストを露わにしたヌードを披露したことが大反響を呼びました。
 1994年秋のTBS系ドラマ『私の運命』で不倫と純愛の間をさまよう上昇志向の強い看護師役を演じ、1995年夏のTBS系ドラマ『愛していると言ってくれ』では、耳が不自由な青年画家(俳優豊川悦司)の恋人役を演じ、ドラマは大ヒットします。その後も数々の連続ドラマで主演を務め、1996年春から1997年夏までは5作の連続ドラマにおいて主役級を務め、撮影を連投しました。コメディーからシリアスまで様々な役柄を演じ出演作の全てがヒットしたため、この時期から彼女は「連ドラの女王」と呼ばれるようにもなりました。

 2008年に入り、『眉山』、『笑顔をくれた君へ~女医と道化師の挑Tokiwa003 戦』、『ロス:タイム:ライフ』とSPドラマに主演し、 2008年から2009年にかけて、3部作で公開される映画『20世紀少年』でヒロイン・ユキジ役を演じました。また 妻夫木聡が主演する2009年NHK大河ドラマ『天地人』で、ヒロイン・お船の方を演じていますね。 2009年10月には、主演映画『引き出しの中のラブレター』が公開予定です。

 また、羽田実加や沢尻エリカ、鈴木えみ、原史奈など、事務所の後輩にファンが数人いるといいます。沢尻さんは「TVガイド」2007年9月26日発売号で自らが常盤ファンであることを公言しています。また、金田美香や小倉智昭、眞鍋かをり、内山理名、川村亜紀、川村由紀、マーティ・フリードマンなど、芸能界の中にもファンを数多く持っているのも彼女の人徳なのでしょう。

 私が他に好きだった番組を挙げると『東芝日曜劇場・Beautiful Life ?ふたりでい日々?』 『カバチタレ!』『ロング・ラブレター~漂流教室~』などがあります。日々成長する彼女の姿が美しくもあり眩しくもありました。

 映画の本格デビューは1999年の香港・日本合作『もういちど逢いたくて/星月童話』でした。2003年に公開された『赤い月』では戦中の満州で波瀾万丈に生きた女性を演じ、日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。ここ数年は主演以外に脇役としても、スクリーンの中で印象に残る演技を見せています。演技の幅も広いので、今後がもっと期待される女優さんだと思い、これからも見守っていきたいと思います。

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2009年5月13日 (水)

私の好きな映画~『恋人たちの予感』

 1989年の作品なのでご存知ない方も多いかもしれませんが、メグ・ライアンのお好きな方は必見です。
ある男女の11年にわたる愛と友情の軌跡を描いています。製作・監督は「スタンド・バイ・ミー」のロブ・ライナー、共同製作はアンドリュー・シャインマン、脚本はノーラ・エフロン、撮影はバリー・ソネンフェルド、音楽はハリー・コニツク・ジュニアが担当。出演はビリー・クリスタル、メグ・ライアンなど。「男と女はただの友達になれるのか?」という永遠のテーマに迫るラブコメです。男のハリーは「セックスが邪魔して男と女は友達になれない」と主張。女のサリーは「セックスなしの男友達だってありえる」と。この永遠のテーマを二人が身を持って証明していく物語。英題は「When harry met sally」。邦題の「恋人たちの予感」に軍配! くっつきそうでくっつかない“恋の予感”が散りばめられています。「男と女の間に友情は成り立たないッ!」とキッパリとこう断言して始まるお話でもありますね。ところが内容はというと、十何年もの長い年月をかけて、この命題をなんとか覆そうとチャレンジする形で進んで行くのです。なので、見ている方は、命題が覆るのが良いのやら、2人が無事ゴールインするのがシアワセなのやら、どっちに転ぶべきか分からん二人を、どっちに転ぶべきか観客も分からぬまま応援しつつ見守らされるということになるのです。

 77年のシカゴ、大学を卒業したばかりのハリー・バーンズ(ビリー・クリスタル)とサリー・オルブライト(メグ・ライアン)は、ハリーの恋人がサリーの親友であったことから経費節約のために同じ車でニューヨークに出ることになりますが、事あるごとに2人は意見を衝突させ、初めての出会いは最悪のものとなりました。

 それから5年後、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港。出張の見送りに来てくれた恋人ジョンと長いキスを交わしているサリーのもとにハリーが姿を現わした。2人はお互いが相手の名前を覚えていたことに驚くが、飛行機の中で席を替わってもらって隣り合わせになったハリーとサリーはまたしても口論、しかしもうすぐ結婚するというハリーの様子は以前とは違ってみえました。

 さらに5年後、離婚直前のハリーと、ジョンとの別れから何とか立ち直ろうとしているサリーが再会。これを機会に2人は友達同士になり、デートを重ねるようになるのですが、2人の会話はお互いの恋の悩みばかり。ジョンとの恋にケリをつけたと思い込みたいサリーと、妻と離婚した現実を受け入れられないハリーの関係は、時として互いに振りかかってくる相手へのロマンティックな思いを振り払おうとしています。ある日2人はお互いの親友を紹介しあおうとするが、逆にハリーの親友ジェス(ブルーノ・カービー)とサリーの親友マリー(キャリー・フィッシャー)が意気投合し、2人を残してどこかへ消えてしまいます。

ある夜サリーの泣きじゃくる電話をうけたハリーは、彼女のアパートヘ駆けつけます。独身主義者のジョンが自分以外の女と結婚すると聞きショックをうけたサリーを慰めるうちに、どちらともなく2人は互いを求め、ついに一夜を共にしてしまうのです。それ以来2人の関係は、変に相手を意識しすぎてぎくしゃくしてしまい、ハリーの言い訳が逆に混乱を招いたりもしました。しかしニュー・イヤー・イヴの夜、相手への愛を確信したハリーとサリーは、様々な紆余曲折の末に自然な恋人関係を築きあげるのでした。

 この2人の間は最初は険悪、途中で何でも話せる友達、そして恋人としての予感・・・と来るわけですが、ここで私は友達と論争になりました。男と女で友達はあり得ないと友達は主張。男性は必ず下心があるといいます。でも、私はあっていいと思う派です。何故って男友達がいたら、「こんなとき、男の人だったらどうする?」といった意見が聞けるわけすし、逆もあると思うのです。同性同士が延々話して解決出来ないことが異性の一言で「ああ、そうかもしれないね」という話に変わることってありますよね。1対1じゃ無理なのでしょうか・・・

 私が面白いと思ったことは、ハリーがまだ全然サリーを意識Jonsari001_2 していなくて、別れた奥さんのことばかり話す場面です。私もよく、若い頃は、この人、全く私を女として見ていないからこんなことまで話すのだろうなと思う男友達が多くて、これって喜んでいいの?と思った
ことが何度もあったので、それはそれで大事な友達として今でも思い出します。でも結局、ハリーとサリーはいつの間にか惹かれあっていたんですね。でも情事の後にそそくさと帰ってしまわれたサリーの気持ちを考えると、尋常ではいられなかったでしょう。ハリーの悪い癖がこんな形で自分の前で行われている・・・サリーはやられた、ハリーはやってしまったとお互い友人であるマリーとジェスに電話で報告。

 メグ・ライアンは、ホントに可愛いですね。そのお相手が、ビリー・クリスタルというところが、この映画を成立させているように思います。もし、メグのお相手が、誰が見ても好青年で文句のつけようのないハンサムな男性だったら、友情ではなく即、恋人でしょう。サリーとハリーが、お互いの親友を相手に紹介するシーンがありましたが、あれ、わかるんですよね。相手に彼氏・彼女ができてしまったら、今までの様につきあえなくなるけれど、自分の親友が彼氏・彼女だったら今まで通り会える・・・そんな気持ちがあったのでしょう。
サリーとハリーがけんかするシーンが観たくて、久しぶり にまた観てしまいました。もう20年近く前の映画になってしまったのですね。どこか懐かしさを感じつつ、楽しく観ました。これは原題「WHEN HARRY MET SALLY」のほうが絶対に好きですが。

 それからとても些細なことですがサリーはソースがかかっているのが嫌いで、「ソースは横に添えてね。かけるとベチャベチャニなるから」が口癖で、ウェディングケーキも勿論、ソースは横に添えたそうですよ。

 秋の紅葉も冬のツリーもちゃんと背景になってるところなど今観ても、綺麗だろうなと思います。とにかく賞はしとめませんでしたが、その年のアカデミー賞の司会をしたのがなんとビリー・クリスタルでした。こんなラブコメディならまた観てみたいです。

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2009年5月12日 (火)

私の好きな作品たち~ジョン・ハート編

 ジョンハートは1965年、ノース・カロライナ州生まれ。現在も同州に在住。幼年期を作品の舞台となったローワン郡で過ごしています。
 デイヴィッドソン・カレッジでフランス文学、大学院にて会計学と法学の学位を取得しました。会計、株式仲買、刑事弁護など様々な業種で活躍しましたが、やがて職を辞し、作家を志します。アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀新人賞にノミネートされた『キングの死』で華々しくデビューし、その後、第二作となる『川は静かに流れ』で同賞の2008年度最優秀長篇賞に輝いた人です。 

 五年前にアダムは殺人の濡れ衣を着せられた。証人は義理の母であるジャニス。裁判では無罪になりましたが、ローワン郡の小さな町では、それでも“人殺し”として認知されてしまいまいた。アダムの父で農場主のジェイコブもまた、アダムの無罪を信じずに、アダムを勘当します。
 そんな故郷に、アダムは、友人のダニーからの電話で、三週間Picasso_work01s 悩んだ末に帰ります。しかし当のダニーは行方不明。そしてアダムにとってはもう一人の父と言うべき、ジェイコブの親友であるドルフの孫娘であるグレイスが暴行に会います。
 事件の背後には原子力発電所に係わる土地買収が絡んでいるように見えるのです。そして容疑者としてダニーの父・ゼブロンが疑われました。更に見つかったダニーの死体。警察はドルフを逮捕し、ドルフも殺害を自供してしまうのです。ドルフの無罪を信じないアダムは真実を突き止めようと頑張ります。
 これは先ず、五年前、回りが疑いの目を向ける中で、変わらずにいたダニーとの友情が描かれてます。この五年間、手紙一つ出さなかたかつての恋人で、刑事のロビンとの愛情の物語でもあります。
 でも何より家族の物語です。五年ぶりに戻った我が家。
継母のジャニィスは、五年前の事件で見た犯人はアダムであると心底信じ込んでいるよう。義弟のジェイミーと、義妹のミリアムは、複雑ながらアダムに親愛の情を示します。しかしジェイミーにはかつての良さはなく、ミリアムは心を病んでいます。
 妹と言うよりも娘のような存在であるグレイスも変わっている。ドルフに対する特別な思いがあるアダム。

そして父親のジェイコブ。頑固ですが正直で一徹。その父と、再び親子になって行こうとする過程は心に染み渡ります。その父親もまた悩みを抱え、間違いもありました。
謝辞で著者ジョン・ハートが述べているように、この小説は、ミステリーの形をとりながら、実は、『僕』自身や『僕』を取り巻く人々の友情や恋愛、そして兄弟や親子の絆を哀しくやるせなく描いた、謎解きは二の次といってもいい、家族をめぐる物語です。

 やるせない思いと家族の絆、信じることの素晴らしさを知った一冊でした。ミステリアスな部分を充分に残し、家族の愛が風のように吹いていった、そんな心境です。

 他にも『キングの死』は、失踪中の辣腕弁護士が射殺死体で発見されました。被害者の息子ワークは、傲慢で暴力的だった父の死に深い悲しみを覚えることは無かったが、ただ一点の不安が。父と不仲だった妹が、まさか…。愛する妹を護るため、ワークは捜査への協力を拒んだ。だがその結果、警察は莫大な遺産の相続人である彼を犯人だと疑います。アリバイを証明できないワークは、次第に追いつめられ… 

 主人公は著者と同じ弁護士で、主人公の一人称で書かれた作品です。主人公の父親が、これまた弁護士で、資産家で大金持ちで、社会的地位は申し分ない男、しかし、家庭内ではどうしようもない暴君、絶対的君主であり、まさに「キング」でです。その主人公の父親が失踪して1年半後、死体で見つかり、父親殺しの容疑者の嫌疑が、その長男である主人公にかかるところからこの物語は始まります。
 主人公の一人称で語られている作品なので、読み手は彼が犯人でないことが手に取るように判ります、そして、自分の妹が犯人ではないかというある確信から、主人公の聖戦が始まるのです。

 友人だと思っていた検事を敵に回し、切れ者女刑事との精神的壮絶バトルを展開し、幼なじみで結婚後も関係を続ける天使のような恋人の心を傷つけ、若き弁護士としては理想的な麗しくセクシーな妻と軋轢を起こし、たった一人残った家族である妹とそのガールフレンドに、父親に似ているということから、徹底的に無視され、そんな四面楚歌のなか、主人公は自分の無実の証明のために闘うのです。
 画像の表紙は階段の上に君臨するのがキング(父親)であり、段下の左腕は、(主人公とその妹の)母親の腕です。この表紙が象徴する
「華麗なる一族」の、物語です。
 

人は何に寄り添って生きるべきなのかを考えさせてくれる感動の大河ロマン&ヒューマン・ミステリです。著者は、作家に転職して多くの読み手を救うことになるのでしょう。

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2009年5月11日 (月)

私の気になっている作品~『チャイルド44』

 これはトム・ロブ・スミス氏は発表した作品なのですが、舞台はスターリンが君臨していた頃のソ連。ソビエト社会主義共和国連邦なんて言葉、段々と忘れられていくのでしょうね。国家保安省でエリートの立場に立つレオ。スパイ事件を追いかけている最中に上司の命令で一日だけ部下の息子が死んだ事件の捜査に向かう。おかしいとは思いつつ事故として片付ける。するとその間に件のスパイが逃亡してしまう。そこからレオの人生は暗転。左遷された先で見た事件は事故として処理した事件と酷似している。そこからストーリーは回り始まり・・・

 帝政ロシア、じゃなくてミスタークレージーこと、スターリン支配下が舞台のソ連、しかもサイコスリラーとくれば設定だけでドキドキものです。最近少しずつ出てきているとはいえ、鉄のカーテンの向こう側の世界、そこでの「事件」を扱う小説は極めて少ない中、『チャイルド44』はすごいの一言でも終わりそうです。体制下を生きるとはどういうことかを説明するだけで上巻の340ページかかり、先に書いた第二の事件が始まるのにそれだけ費やしたのです。それに飽きるかというと全くそんなことはなありません。ソ連に生きる、特にスターリンという腐った太陽の下に生きるとはどういうことか、ひしひしと伝わってきます。

 兵士たちは何回も出撃しているうちに精神を病んできます。もう辞Dorakuroa01 めたい。でも「俺は精神を病んでいる」と申告すると、「自分の心が病んでいると分かるということは精神を病んでない」とされ、申告しなければずっと出撃を強制されるのです。深刻なジレンマのこと
を「キャッチ22状態だ」なんて言ってみるとちょっとした物知り気分が味わえます。「チャイルド44」は殺される子供の数が44人ということです。
 一つ、とても印象的だったのは、ソ連は完璧な体制なので犯罪者など出てくるはずがないので、犯罪者というのはソ連の体制外の人間(障害者、西側の人間)に限られるという考え方なんですね。だから民警は本来必要な事ではないので低いステータスしか与えられないという現実に、ソ連らしいというかなんともやるせないような切ないような感を覚えました。

しかし、民主主義&資本主義を唱える国でも「自分たちの芝生で行われていることは常に正しく隣の芝生で行われていることは常に間違っている」という流布した考え、転じて「自分がしていること、自分たち(家族・親戚→友人→狭いコミュニティ内のメンバー)がしていることは正しく、それ以外の人たちのしていることはたまに間違っている」という考えもまた我々(の定義が難しいが)の間で共有されています。恐ろしい事です。

 本書の中心で扱われている少年少女大量殺人事件は実際にあった事件に着想を得て書かれていますが、決してノンフィクションではありません。本書を著者が書こうとした意図はやはり謎解きの殺人ミステリーというよりも残虐な連続殺人犯を野放しにする狂った社会システムに支配された共産主義国家旧ソ連の姿を描く事にあったのでしょう。そこには人間愛など皆無で裏切りや欺瞞、罪の捏造、邪魔者の処刑による抹殺等々非道で醜悪な描写に多く筆が費やされ、大袈裟でなく一頁に一度は苦々しく遣り切れない思いが込み上げて来ます。そんな腐り切った社会の中で体制の側に立って非道な行いに手を染めて来た国家保安省の捜査官レオがあまりに酷すぎる悪行の実態を知って真実に目覚め、やがて権力の座から引き摺り下ろされて初めて己の所業を悔い改め、死を賭して連続殺人犯人を追い詰めようとする姿に感動を覚えます。そして心の拠り所で真実の愛と信じていた妻ライーサを一転して殺す寸前まで行く程の強烈な愛憎劇の凄まじさに圧倒されます。悪役ではワシーリーとザルビン医師のサディズムに満ちた異常性格が際立ち嫌悪感が募りますし、中盤で鮮やかに反転するスパイ小説としての仕掛けが見事です。終盤近くの列車からの脱走シーンは映像を意識したあざとさも感じますが、胸がすく痛快な見せ場です。

この国家は連続殺人の存在を認めません。ゆえに犯人は自由に殺しつづける――。スターリン体制下のソ連。国家保安省の敏腕捜査官レオ・デミドフは、あるスパイ容疑者の拘束に成功。だが、この機に乗じた狡猾な副官の計略にはまり、妻ともども片田舎の民警へと追放されます。そこで発見された惨殺体の状況は、かつて彼が事故と遺族を説得した少年の遺体に酷似していた・・・なんと皮肉めいた運命なのでしょう。20年後、刑法も、刑事訴訟法も、憲法も、自由を守るものではないソビエト。
 人が簡単に逮捕され、有罪判決で処刑される現実。 お互いが密告におびえ、監視しあう、夫婦、同僚、上司でさえも。 足下の安全はまったく薄氷を踏むのと同じ。 そんな描写がリアルです。

 これは映画化されているようなので、是非観てみたい作品です。でも残忍すぎて描写は難しいかもしれませんんね。

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2009年5月10日 (日)

私のお勧めの作品~『悪魔はすぐそこに』

 ハードゲート大学の数学講師ピーターは、横領容疑で免職の危機にある亡父の友人ハクストンに助力を乞われました。だが審問の場で、ハクストンは、教授たちに脅迫めいた言葉を吐いたのち変死しました。次いで図書館で殺人が起き、名誉学長暗殺を仄めかす手紙が舞い込みます。相次ぐ事件は、ピーターの父を死に追いやった8年前の醜聞が原因なのか・・・

 アガサ・クリスティやアントニイ・バウチャー、アントニイ・バークリーら、そうそうたる面々にその実力を認められ、代表作『兄の殺人者』、『五番目のコード』などで本格ミステリファンの心をわしづかみにした英国ミステリ作家D・M・ディヴァインの本邦初訳作『悪魔はすぐそこに』をご紹介します。
 巧妙なミスディレクション、伏線の妙、端正な構成――高度な技術によって形作られたミステリの骨格に、成長小説やロマンスの要素が盛り込まれているため、極めて完成度の高い本格でありながら、大変読みやすいというディヴァイン作品の特長が堪能できる一冊です。
 ハードゲート大学の若き数学科講師ピーターは、チェスの最中に亡父の友人である同僚のハクストンから助力を請われた。横領の嫌疑を掛けられて免Shagaru009 職の危機にあるというのだ。しかし教授たちによる審問の場で、ハクストンは脅迫めいた言葉を口にしたのち、不審死を遂げます。次いで図書館で学生が殺され、名誉学長の暗殺を仄めかす脅迫状が学長宛に舞い込んできました。彼は式典のために近く大学を訪れる予定でしが・・・。ハクストンは、自分が失職するようなことがあれば、高名な数学者であったピーターの父を狂死に追い込んだ、女子学生の死の真相を明かしてやると仄めかしていました。彼女は非合法の堕胎手術を受けて死亡し、ピーターの父こそが彼女の情人であると疑われていたのです。もしかして教授たちの中に真犯人が? でも、ハクストン殺しの疑いをかけられたのはピーターの婚約者ルシールでした。ハクストンを忌み嫌っていた彼女の抱える事情とは? ルシールの同居人カレン、聡明な法学部長ラウドンらとともに、ルシールへの嫌疑を晴らすべく事件を追うピーターですが・・・。
  
 この『悪魔はすぐそこに』は、ディヴァインの残した13の長編中、第5作です。社会思想社から出ていたのは、1・3・4・6番目の作品でしたから、空席がひとつ埋まったという感じ。『ロイストン事件』は第3作、人気の高い『五番目のコード』が第6作なので、『悪魔はすぐそこに』は充実期に入ってからの作品という位置づけになると思います。もっとも彼の場合、処女作の『兄の殺人者』の時点ですでに、かなりの完成度に到達してはいるのですけど。

 今回、『悪魔はすぐそこに』を読んでみて感じたことの第一は、『ロイストン事件』のプロットをグッと洗練させたような物語だな、ということでした。巻末解説で法月綸太郎氏も書いていますが、彼の描くキャラクターや人間関係には一定のパターンがあり、プロットの組み立てに合わせて、それぞれの役割がシフトするような書き方になっています。言い換えると、“ディヴァイン劇団”という、性格俳優ぞろいの劇団があって、上演する演目が変わると、配役も変化するような感じでしょうか。ある作品では俳優Aが犯人、俳優Bが探偵役、俳優Cが謎の人物……だったのが、別な作品ではAが探偵、Bが被害者、Cが犯人、というふうにシフトしていく、ということです。
 そして、その俳優たちがみんな名優ばかり、というのが、ディヴァインの最大の特徴でしょう。つまり、ひとりひとりが血の通ったキャラクターとして生きており、ミステリなのに作り物じみた感じがしないのです。といって、昔の一部の社会派ミステリのような、乾いた芝居にもなっていません。登場する男女の間の、微妙な距離感がうまく描かれているだけでなく、そういうロマンスがプロットの中に違和感なく溶け込んでいて、物語が適度に潤っているんです。そのあたり、ジル・マゴーンによく似ていると、前から思っていたのですが、『悪魔はすぐそこに』を読んで、さらにその意を強くしました。
 どんでん返しの妙や、サプライズの作り方のうまさも、ディヴァインとマゴーンに共通するポイントです。この2人が違うのは、ロイド&ヒルというシリーズ・キャラを持っていたマゴーンに対し、ディヴァインには複数の作品に登場する探偵役がいない、ということぐらい。ディヴァインを絶賛したというアガサ・クリスティの影響が良く言われますが、彼の作品はクリスティ作品より“大人の読み物”として優れています。反面、いわゆる“稚気”に欠けるところがあるので、それが地味な印象につながっているのかもしれません。

 『悪魔はすぐそこに』の舞台は、超一流とは言えないものの、かなりの権威を持った大学。時代設定は、この小説の発表年と同じ、1966年です。物語の主人公のひとりピーターは、25才という若さで数学科の講師に昇進しており、男子学生寮の長も兼任しています。   また、美女講師・ルシールと婚約しているという、誰もがうらやむ恵まれた境遇にありますが、それらすべてが、6年前に亡くなった父親の威光によるものなのでは、というコンプレックスも持っています。

 もともと大学職員だったという作者ディヴァインの経験が十二分に活かされているようで、教授・講師・職員・学生などを含む大学内の複雑な人間関係が、見事に活写されています。登場人物は非常に多数で、裏表紙の見返しにまで一覧表がのびていますが、端役に至るまで個性がハッキリ描き出されているため、ゴチャゴチャした印象は全く受けません。それどころか、とても読みやすくて、ページを繰る手がもどかしいほどです。訳文もスムーズで、社会思想社のときの野中千恵子さんの訳より、適訳になっているような気がします。創元推理文庫は引き続き、ディヴァインの作品を出してくれるようなので、大いに期待したいところです。

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2009年5月 9日 (土)

私の好きな作品たち~樋口 有介編

 サントリーミステリ大賞の読者小を貰った樋口さん。順調に筆を滑らせていらっしゃるようで安心しました。

やはり、この賞を取った方たちのその後を見ると殆どの作家さんが活躍しているので嬉しいです。ただミステリー大賞そのものがなくなってしまったことは遺憾に思います。

 その樋口さんの作品『ぼくとぼくらの夏』は、主人公の戸川春一はMojiriani_013 フォルクスワーゲンを乗り回している巨人ファンの刑事を父に持つ三多摩地区の高校生。ある夏の日、同級生の岩沢訓子が変死し、それをキッカケにテキ屋の酒井組の娘である酒井麻子と急接近する。春と麻子は訓子の死因を判明するために奔走するが、ひょんなことから酒井組の用心棒である秀松から麻子の母親と戸川刑事が高校時代恋仲になって駆け落ちしたという内緒話を聞かされ2人はビックリする。しかし、追い討ちをかけるように今度は別の同級生である新井恵子も変死。戸川刑事は春や麻子たちの担任である村岡先生に事情聴取するが、その戸川刑事自身が村岡先生に一目惚れしてしまう・・・というお話なのですが、すっと世界に入っていて、変な癖も無い物語に最後まで楽しませていただきました。このときは大賞を逃しているわけですが、おそらくストーリーがあまりにもありふれていたからだったからとしか考えられません。
 むしろ、本書の価値は文体と女性の描き方にあると思いました。 文体は、かなり1991年版に比べて直したのだろうと思いますが樋口氏の昔の文体は、あまりにもハードボイルドっぽすぎた気もします。それが本書では、くさいというほどではない、でもロマンチックなも
のとなっています。読みやすいし、引き込まれます。
 男性から見て魅力的な女性を描く、けれども女性の恐ろしいところも示してみせるというのも、著者の一貫したテーマですね。この点に関しては、比類のない腕前!!。だまされていると分かっていながらも、ヒロインに恋をしてしまう。 処女作とは思えない作品でした。

 「俺は、あんたたちみたいに、さっさと村を見捨てて出ていって、昔の感傷のためだけに戻ってくるようなヤツは嫌いでね」
作中英輝の冬子への発言。エロゲは、ある意味過ぎ去ってしまった青春への懐古でもある。懐かしさをも込めて、田舎を舞台にしたと考えるとこの発言は、なんというか。プレイヤーへの当て付けと考えると面白いかもしれなません。

 ダムによる廃村。――そんな大人な事情ではなく、私と、私たちの世界の喪失なんてあんまりだ。という貴理の訴え。しかし主人公は夏にしか、この村を訪れない。英輝との意識の違い。冬子との男女間、意識の違い。
しかし、どちらにせよ表ルートでの、主人公にしろ貴理にしろ、終盤の冬子へ吐く愚痴は、まさにそういった純朴性の脱却、村を捨てるという行為に他ならない気もする。どちらにせよ、村は廃村なのですが・・・
 裏ルートはずっと冬子の視点からです。そしてその視点は『僕ら』にずっと近いように思います。貴理や英輝たちの、幼さに対するある種の怒り、面倒くささ。そういったものを共有しているように感じました。そしてそれでいて主人公に惹かれて。そしてあっさりと。だからこれは裏ルートでありながら、ちゃんと、僕と、僕らの夏なんだと思います。

「綺麗なだけじゃないよ。良い思い出なんかにしたくない。」・・・思い出よりもこれからを大事にと言うメッセージのようでした。

「ここに戻ってきたときは、もう全てを失ったと思っていたわ」わたしはその手をギュッと握りしめた。「でもそんなことは、全然なかったのよ。」「そうなんですか?」「そうよ」「・・・失ったものは、取り戻せるんですか?」「はじめから、なくしてなんていないの。ただ若い頃は焦って、忘れているだけなのよ」純朴性からの脱却じゃない。回帰だ。18禁であるからこそ、裏ルートは映えるんだ。だから、表ルートでは、埋めた物は掘り起こされない。必要がないからだ。主人公は冬子さんです。裏ルートがお勧めです。表ルートの歯がゆい初恋に面白みを感じれない人はむしろしっかりと裏ルートをやりましょう。冬子さんみたいな方が嫌いな方もいますでしょうから、その辺りの引き際を。自分は十分に満足しました。潮騒も、期待します。

 『夏の口紅』では、15年前に家を出たままの親父が、死んだ。ひとりっ子のぼくに残されたのは、2匹の蝶と、妹と名乗る女の子だった。この不思議な女の子との出会いで、大学3年のぼくの夏休みはとびきり暑くなりそうだ・・・書下し青春小説です。
 主人公の設定など他の作品と似ているところも多いのですが、本作品はミステリー要素はほとんどなく(謎の多い亡き父親の遺言の意図、見知らぬ姉の探索というテーマではあるが)、大学生である主人公の成長物語かつ恋愛物語です。品のいいユーモラスな話、クールかつ行動的な主人公、ちょっと変わっているが魅力的なヒロイン、年上のガールフレンドやファニーな母親など女性との掛け合いの多さなど、著者の得意技が十二分に発揮されています。この瞬間に目の前を通り過ぎていく青春という時間を静謐に、時に熱く 見つめる主人公の内省的な視線こそ、永遠に古びないものなのですね。私は好きです、この作品。

 『月への梯子』では、入居者の一人が殺され、続いて住人全員が消えたアパート。大家のボクさんは謎解きを始め、やがて自分を取り巻くものが善意だけではなかったことを知る…。「知る」ことの哀しみが胸に迫る書き下ろし長篇ミステリーです。主人公の40歳のボクちゃんは母の後を次ぎ、アパートを経営していました。知能は中学生くらいなのですが、ご近所でも人のよいことで知られていたはずが、事件が起きて探偵まがいのことをし、だんだん人の裏側と表面の違いに戸惑ってしま・・これは知能の問題だけではなくて、人間、
表裏一体だという教えを学んだ気がします。読み終えて憂鬱な気持ちになるのはその為ではないでしょうか。ぼくちゃんが唯一まともな人間にみえてきます。(まともとは差別用語ですね。失礼しました。)

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2009年5月 8日 (金)

私の好きな作品たち~樋口一葉編

 中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学んだ一葉。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「十三夜」「にごりえ」といった秀作を発表文壇から絶賛されました。わずか1年半でこれらの作品を送りましたが、25歳(数え年、以下同様)で肺結核により死去去れています。
またも早すぎる死をみとどけならなくまりました。『一葉日記』も高い評価を受けています。

 家が没落していくなかで、自らが士族の出であるという誇りを終生Higuti001 持ち続けましたが、商売が失敗したのもそれゆえであるとみるむきもあります。生活は非常に苦しかったために、筆を折ることも決意しましたが、雑貨店を開いた吉原近郊での生活はその作風に影響を与えました。井原西鶴風の雅俗折衷の文体で、明治期の女性の立ち振る舞いや、それによる悲哀を描写しているのです。『たけくらべ』では吉原近くの大音寺前を舞台にして、思春期頃の少年少女の様子を情緒ある文章で描いいています。ほかに日記も文学的価値が高いとされています。
『たけくらべ』は勝気な少女美登利はゆくゆくは遊女になる運命をもつ少女で。 対して龍華寺僧侶の息子信如は、俗物的な父を恥じる内向的な少年ででした。 美登利と信如は同じ学校に通っていますが、あることがきっかけでお互い話し掛けられなくなってしまうのです。
 当時吉原の遊郭は、鳶の頭の子長吉を中心とした集団と、 金貸しの子正太郎を中心とした集団に分かれ対立していました。 夏祭りの日、長吉ら横町組の集団は、 横町に住みながら表町組に入っている三五郎を正太郎の代わりに暴行します。 美登利はこれに怒るが、長吉に罵倒され屈辱を受けます。
 ある日、信如が美登利の家の前を通りかかったとき下駄の鼻緒を切ってしまうのですが 美登利は信如と気づかずに近付くが、これに気づくと、恥じらいながらも端切れを信如に向かって投げました。でも信如はこれを受け取らず去って行く・・・美登利は悲しみますが、やがて信如が僧侶の学校に入ることを聞きます。 その後美登利は寂しい毎日を送りますが、ある朝水仙が家の窓に差し込まれているのを見て懐かしく思います。 この日信如は僧侶の学校に入ったのです。遊郭に身を投げようとした時の一葉の気持ちを考えると貧しいことへの鬱憤が貯まります。

 一葉は書き溜めていた作品「雛鶏」を改題して発表したといいいます。翌1896年、一括掲載された際には森鴎外や幸田露伴ら当時の文壇において着目され、鴎外の主催する「めさまし草」において高い評価で迎えられたましたが・・・一葉はこの頃結核が悪化し、同年11月には死去しているのです。再掲載時の原稿は口述して妹の邦子に書き取らせたものであり、「一葉」と署名された上下に別人による加筆があり「樋口一葉女」と記されています(発表作品における一葉の署名は一般に「樋口夏子」か「一葉」)。没後に『一葉全集』が刊行され、「たけくらべ」をはじめとする作品は現在に至るまで広く親しまれることとなりました。

 『大つごもり』は短編小説で、18歳のお峰が山村家の奉公人となってしばらくした後、お暇がもらえたため、初音町にある伯父の家へ帰宅。そこで病気の伯父から、高利貸しから借りた10円の期限が迫っているのでおどり(期間延長のための金銭)を払うことを頼まれ、山村家から借りる約束をします。総領である石之助が帰ってきますが、石之助とご新造は仲が悪いため、機嫌が悪くなり、お峰はお金を借りる事ができなませんでした。そのため、大晦日に仕方なく引き出しから1円札2枚を盗んでしまうのです。
 その後、大勘定(大晦日の有り金を全て封印すること)のために、お峰が2円を盗んだことが露見しそうになり、お峰は伯父に罪をかぶせないがために、もし伯父の罪にとなったら自殺をする決心をしました。ところが、残った札束ごと石之助が盗っていたのであったというお話です。 
 
 『たけくらべ』も『大つごもり』もどこか悲哀がただよっていつように思います。18歳で出会ってから24歳で死ぬまで、ずっと慕いつづけた半井桃水への恋心の変遷と煩悶を、美しく昇華して表出したのが『たけくらべ』。
 裕福だった少女時代から、坂を転げ落ちるように極貧生活に突入、立身出世の望みはかなえられないという深い絶望感を、強く、深く表出したのが『にごりえ』。その最後、お力が、捨てた男の手にかかって(?)死んでしまうという結末は、一葉自身の1年後の無念な病死を予期したようで、暗示的です。それにしてもこの作品群の魅力は何なのでしょう?貧しく不幸な人々、極貧ゆえに遊女や妾になる以外生きるすべがない女性たち、現代人にはもはやありえない必死な生きざま。これが明治の一般庶民、もしくは社会的底辺の人たちの姿だったのでしょうか。特に女性の場合、そういう不自由さとか不幸な境遇を甘受せざるを得ない、諦めとやるせなさを痛いほど味わってきたケースが多かったかもしれません。鴎外の「雁」や、川端康成が好んで描いた不幸で美しい女性達。そういう美しさと哀しさがいつも背中合わせになっている日本の女性の系譜が樋口一葉の作品世界にもあります。女性だけでなく男性達もなかなかうまく描かれているのも見事です。客観小説たりえていますね。文語体の読みづらさも多少ありますが、美しくリズム感のある味わいのある文章として楽しめるので、焦らずゆっくり読む気になれば苦になりません 。
 
 一葉は早くから、零落し転居を繰り返す自分の人生を、彷徨し行く手を阻まれる<漂う舟>のイメージと重ね合わせていました。一葉は晩年の病床で

「身はもと江湖の一扁舟、みづから一葉となのつて葦の葉のあやふきをしる」

と雑記に書き込んでいます。流転する舟の意識は一葉の生涯を貫いていましたから、これが筆名の発想になったと考えるのが最も妥当ではないかと思われます。

 一葉は学業半ばの11歳で進学を断念。小学校も満足に卒業してKaiii021 いません。歌塾「萩の舎」入門後は和歌や王朝文学や習字を学びますが、小説を書くようになって、自分がいかに物事を知らないかに気づき、以後せっせと上野にあった東京図書館へ通います。当時一般の閲覧室とは別に婦人閲覧室があり、一葉はそこで調べものをしたり、貸し出しを利用して本を読んでいます。
 小説を書き始めたころ一葉が図書館から借りた本は、依田学海『十津川』、饗庭篁村『むら竹』、黒岩涙香の著作集、湯浅常山『雨夜のともし火』、藤原明衡編の詩文集『本朝文粋』、松平定信『花月草紙』、『日本書紀』『日本外史』『吉野拾遺』『十八史略』『小学』
『太平記』『今昔物語』などで、日記に出てきます。小説の師だった半井桃水からは、蔵書や桃水の著作本を借りています。
明治25年9月、「うもれ木」を書き上げると、翌日には次の作品の種探しに図書館へ行き、『奇々物がたり』『くせ物語』『昔々ものがたり』『各国周遊記』『雨中問答』『乗合ばなし』などを借りています。図書館の本とは別に近松の浄瑠璃や『源氏物語』に親しみ、一葉が進学を断念したあと父が買い与えた『万葉集』『古今集』『新古今集』等は愛読書でした。

雑誌では「文学界」「文芸倶楽部」「早稲田文学」をよく読み、一葉の小説の批判文を掲載した雑誌「めざまし草」「明治評論」「青年文」の名が日記に出てきます。新聞は「改進新聞」「読売新聞」「東京朝日新聞」を図書館や知人からの借用、一時購読などで読んでい
たようです。一葉の妹邦子さんはのちに「とにかく姉は勉強家でした」と語っています。

もっと作品を読まなくてはいけない作家さんの作品だと思いました。

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2009年5月 7日 (木)

私がちょっと好きな作品たち~秋元 康編

 放送作家、脚本家、映画監督、作詞家、作家、漫画原作者、プロデューサー、タレント、馬主、京都造形芸術大学副学長兼芸術学部教授。ただし、本人による肩書きは「作詞家」のみ。日本映画監督協会会員。自身が取締役を務め妻(元おニャン子クラブの高井麻巳子)が監査役を務める株式会社秋元康事務所に所属。東京都目黒区出身。AKB48とSKE48の総合プロデューサー。

 でも本人曰く作詞が一番合っていると思います。あの歯の浮くようなセリフをよくぞここまで書いてくれましたと賞賛したいです。

 高校時代から放送作家として頭角を現し、『ザ・ベストテン』など数々の番組構成を手がけました。83年以降、作詞家として、美空ひばり『川の流れのように』をはじめ、中島美嘉『WILL』、EXILE『EXIT』、ジェロ『海雪』ほか、 数多くのヒット曲を生みました。
91年には、松坂慶子・緒形拳主演『グッバイ・ママ』で映画監督デビュー。企画・原作の映画に『着信アリ』シリーズ、『伝染歌』など。
TV番組『うたばん』『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの企画構成、ラジオ『秋元康のMature style』(TOKYO FM)のパーソナリティー、新聞・雑誌の連載など、多岐にわたり活躍中。アイドルユニット“AKB48”、そして、本年10月より活動を開始する“SKE8”
ただの総合プロデューサーも務めます。
著書に『一生を託せる「価値ある男」の見極め方』(講談社+α文庫)、『「選ばれる女性」には理由がある』(青春出版社)、『恋の知恵本』(海竜社)、『おじさん通信簿』(角川書店)ほか多数。07年秋に映画化された著書の小説『象の背中』(扶桑社)は、アニメ版(ポニーキャニオン)と絵本版(光文社)も制作され、大きな反響を呼んでいます。

 作詞というのは俳句や短歌と同じで、私には非常に難しい物のJansem_work06s 様に思うのですが、阿木耀子さん同様 、ただの語呂合わせをしているとも思えず、かなりのロマンティストでもああいう歌詞はなかなか出てこないと思われ、そういう意味では尊敬してしまいます。

 作詞についてはこれ以上述べられませんが、秋元氏が出した本について、少し語りましょう。

『失恋おりがみ―30日で立ち直る』という作品を読んでみました。確かに女の子の心をきゅっと締め付ける内容ですね。ココロが癒される魔法のクスリです。落ち込んだりもしたけれど1ヵ月後には、きっと、元気になれる。沁み入る写真とメッセージで綴る、今までにない“おとなのおりがみ”。恋に傷つき、疲れ、絶望してしまっているかたはダマされたと思って1日1作品、無心の境地でおりがみを折ってください。30作品を折り上げる頃には、不思議とココロが軽くなるのを実感できるはず。欧米でもブームを呼んでいる魔法の指先アート“ORIGAMI”から造形美を極めた新作を中心に厳選。切なくも優しいメッセージと写真が、明日への一歩を、そっと後押ししてくれます。と出版社 / 著者からの内容紹介があり、と不思議な気持ちになりますが、中身は素敵な内容です。少しずつ少しずつ立ち直って行こうとする気持ちと、ゆっくり時間をかけて折る折り紙。
 「立ち直れるかどうかは別として、30個折り終わった時にはやさしい気持ちになれていると思います。それが秋山さんの魔法のような気がする。」という声も。

 『おじさん通信簿』という本は、「おじさん」を楽しむことができると、年を取ることが楽しくなるというお話で、季節が変わると山の色合いが移ろうように、「おじさん」になって見える世の中もまた味わい深いといいます。おじさんライフを楽しむ著者のエッセイを収録。「スポーツニッポン」などでの連載に加筆修正した部分があります。 おじさんが、おじさんの行動の特徴と、若者とのギャップを分析したエッセイです。 従って、女性と45歳未満の男性は読んでも面白くないかもしれませんが売れているようです。
 ふんふんと同意したり、「俺はしないぞ」と反発したりしながら、短時間で読み切ってしまいそうです。そうやって面白おかしく、おじさん自身をいじっているくせに、最後の2編のエッセイ(テーマは「東京の雪だるま」と「深夜の散歩」)では感動めいた思いを残してくれるものでした。年齢と性別の条件に合致する方はぜひお読みください。もし躊躇されているならp.99のたった2ページのエッセイを立ち読みしてください。笑えて落ち込めます。

 『さよならにもルールがある』は、なぜ恋は終わるの?なぜ想い出はつらいの?それでもどうして人は恋をするの?はじまりがあれば、終わりもある恋。男性の立場から秋元康氏が、女性の立場から柴門ふみさんが、正しい恋の終わり方について解き明かします。

どうしても自分を責めてしまうとき、失恋の涙がとまらないとき、彼の愛に疑問を感じたとき、速やかに男と別れたいとき、手にとって欲しい失恋の処方箋です。

以外にも小説の世界に飛び込んだように思ったものですが、短い曲の中で言いたい事全部言えないのだから小説にして充実感を味わいたいという秋元氏の気持ち、判るような気がします。

 これからも愛のメッセージを伝えてください。

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2009年5月 6日 (水)

私の好きな作品たち~笹本 稜平編

 サントリーミステリー大賞受賞作『時の渚』を読まれましたか?

内容は、ある事件の容疑者に妻子を車で跳ねれられ殺された刑事・茜沢はその捜査から外されます。われを忘れた茜沢は上司の制止も振りきり、辞表を叩き付け歯牙ない探偵稼業へ。そこに、かつての上司の紹介で余命少ない老人・松浦から人探しを依頼されます。その人とは、35年前に生後間もなく見ず知らずの女性に託したわが子。松浦のかすかな記憶の中の糸を頼りに人探しを開始する。一方、かつての上司・真田からある事件に茜沢の妻子を跳ねた容疑者・駒井が関係しているかもしれないことを告げられ、人探しと平行して駒井の周辺も探りはじめる。そして茜沢が追っている二つの獲物が微妙に関係していることが分ってくる。そして、その獲物は次第に重なりはじめる‥‥。

前半は淡々とハードボイルドな探偵小説といった印象。50ページSample_pic_06 ほど読んで、「結末が読めちゃった」と思ったのだが甘かったですね。後半に待っていたのは怒涛の展開。二転三転する展開に読むのを止められずに一気に読んでしまいました。
 感心したのは人物描写です。登場人物がリアルにイメージできるし好感が持てます。このあたりに作者の技量が表れてのでしょうね。後半のメインテーマは親子の絆。読んでて目頭が熱くなりました。さすがにミステリー大賞受賞だけのことはあります。

 このたび初めて読んだ笹本氏はどちらかというと「ハードボイルド」タッチの小説を書く作家のようで、この作品も謎解きミステリというよりもハードボイルドテイストの探偵小説というようなムードの小説なのですが、「いかにも・・・・・」のいやらしさがほとんど感じられませんでした。
 登場人物も自然な感じで嫌味が無く、わざとらしくなく、共感しやすいまともな人達で、文章もきちんとしていながら固すぎず、話の展開もうまいし、とにかく大変に上手なストーリーテラー振りだと感じました。
 親子の情の深さについて切々と語られる最終章部分では、どうにも涙が止まらず読み進むのに苦労しましたが、全体的にすらすら読めてしかもキチンとした重みを感じつつページを括ったのでした。
 話の展開は「そんなにも偶然が重なるものだろうか」との疑問が浮かばないわけでもないのですが、ふと思えば、人生はすべて「驚くべき偶然の積み重ね」で成り立っているものということを思い出し、文章や台詞回しの自然さが、そんな余計な邪念を払い落としてもくれるのでした。

 ダブル受賞した『太平洋の薔薇』は、不定期貨物船パシフィックローズ号は、最後の航海の途上にありました。船長は柚木静一郎。彼もまた、船乗りとしてこれが最後の仕事だった東南アジアを航海中にハイジャックされてしまうというあらすじです。

 現場は海賊の多発地域。
しかし、犯人グループの要求は奇妙なものだった。パシフィックローズ号を中心に日本、ロシア、アメリカなど色々な立場の人間が登場し、話が進むにつれて相互が絡み合っていく展開が良い(終盤放っておかれるキャラクターもいますが)。戦艦や潜水艦の小説を読んだことはありますが、老朽貨物船でこれほど興奮が生み出せることが興味深かったですね。
 ただ、物語の全貌が見えた終盤以降は失速しています。敵が急に弱くなっているし、ラストのまとめ方が甘い印象は否めなせん。。それでも全体的なクオリティは高いのです。これだけのボリュームが詰め込まれた世界を味わえるというのも、小説ならではの魅力でしょう。できれば映像化をして欲しくないです(削らなくてはいけない部分が多いだろうし、映画がダメだと原作も不当に貶められるので)。
 作品を読んで、歴史の勉強にもなりました。たとえば「20世紀前半、ヨーロッパで国家から大量虐殺(ジェノサイド、ホロコースト)された民族は?」という質問に、あなたはどう答えるでしょうか。ほとんどの人が「ユダヤ人」と回答するでしょう。でも、ユダヤ人だけではありません。アルメニア人も同じような目に遭っていたのです。このアルメニア人虐殺問題が、作品のキーワードの1つとなっています。
 この小説は大藪春彦賞を受賞しています。あまり気にかけていなかった賞なのですが、受賞作のリストを見ると馳星周【漂流街】 、福井晴敏【亡国のイージス】 、垣根涼介【ワイルド・ソウル】、雫井脩介【犯人に告ぐ】 、近藤史恵【サクリファイス】を過去に読んいたら・・。いずれも一定以上のレベルにある作品です。今後はチェックしていきたいものです。

 『天空への回廊』もエベレスト山頂近くにアメリカの人工衛星が墜落! 雪Shagaru006崩に襲われた登山家の真木郷司は九死に一生を得るが、親友のフランス人が行方不明に。真木は、親友の捜索を兼ねて衛星回収作戦に参加する。ところが、そこには全世界を震撼させかねない、とんでもない秘密が隠されていた。八千メートルを超える高地で繰り広げられる壮絶な死闘。

 作品のジャンルとしては、「冒険小説」としての要素が強いので しょうか・・・。親友・マルクを捜索するために回収班へと加わる郷司。マルクはどこに? そこが物語の入口ではあるものの、物語はどんどんと別の方向へと流れて行きます。マルクが発見されれば、意識不明のマルクが口走る「ブラックフット」に焦点があたる。その「ブラックフット」の正体も中盤には大まかなところで判明する。そして…。
 主人公・郷司は作中の殆どを過酷な山の中で過ごします。ちょっとしたことが命取りになる8000M級の山中。そこで繰り広げられる数々の事件。そして、そんな郷司を中心にして繋がって行く人々…。国際政治も、大国の駆け引きも関係のない郷司の心にあるもの。     そんな郷司を見守る人々…。終盤のこれらの人々の思い、郷司の心にあるもの…。この辺りに響くものがある。登場人物は多くいるものの、明かに描ききれていない者も多い。やや大風呂敷を広げ過ぎているように感じる部分もありますが、ご都合主義と感じた部もありますが・・・。欠点を探せば色々と見出せます。 ただ、そこを差し置いても読了後に感じたものは大きいのです。そこが、笹本作品の魅力なのかも知れませんね。

 久々の冒険小説にワクワク・ドキドキものでした。

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2009年5月 5日 (火)

私の好きな音楽家たち~ビゼー編

 私にとってビゼーといえば『アルルの女』のメヌエットです。とても好きな曲の一つです。

 9歳でパリ音楽院に入学し、フランソワ・マルモンテル、シャルル・グノー、ユダヤ人ジャック・アレヴィらに師事してピアノ、ソルフェージュ、オルガン、フーガで一等賞を獲得しました。19歳でカンタータ『クローヴィスとクロティルデ』でローマ大賞を獲得。1861年にはリストの新作(リストは、「この曲を正確に弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローだけ。」と豪語していた。)のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけてリストを驚かせました。この時、リストは「私は間違っていた。3人というべきでした。正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう。」といってビゼーを賞賛したそうです。しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストになることを潔しとはしませんでした。

 歌劇などの劇音楽を作曲の中心とし、25歳のときの歌劇『真Lichtenstein_work07s 珠採り』でオペラ作曲家の地位を確立。その後フランス人の作家アルフォンス・ドーデの劇『アルルの女』の付随音楽や、歌劇『カルメン』などを作曲しましたが、1875年3月にパリのオペラ=コミック座で行われた『カルメン』の初演は、ヒロインが女性労働者だったこともあり失敗に終わりました。ヒロインの声域をそれまでに一般的だったソプラノではなくメゾソプラノに設定したことも新しさの一つだでした。
 1869年にビゼーは師アレヴィの娘であるジュヌヴィエヴ・アレヴィと結婚しました。師は既に1864年に亡くなっていました。『カルメン』初演の約3ヵ月後である1875年6月3日、敗血症のため36歳の若さで死去しましたが、のちにビゼーの音楽は世界的に認められるようになりました。早すぎる死です。

 『アルルの女』は、作曲期間が短く、また契約の関係で極めて小編成のオーケストラしか使えなかったため、作曲には大変苦労したという話が伝わっています。なのに初演の評価は芳しくなありませんでした。6年後に再演された時は大好評のうちに迎えられましたが、その時すでに作曲者ビゼーはこの世の人ではなかったのです。

 一般に知られているのは、演奏会用に劇付随音楽から数曲を選んだ組曲です。第1組曲 第1組曲はビゼー自身が初演後すぐに組曲としたものです。

第1曲「前奏曲」
劇音楽No.1 序曲から。3部構成。第1部の主旋律は、プロヴァンス民謡「3人の王の行列」に基づく。第2部のアルト・サクソフォーンによる
旋律は、主人公フレデリの知的障害の弟を表す動機によっている。第3部は、フレデリの恋の悩みを表している。                          
第2曲「メヌエット」
劇音楽No.17 間奏曲から。
第3曲「アダージェット」
劇音楽No.19 メロドラマの中間部から。 劇音楽No.18 導入曲および No.19 メロドラマ前後部から。

第2組曲
第2組曲は、ビゼーの死後、友人エルネスト・ギローの手により完成されました。ギローは管弦楽法に長けており、「アルルの女」以外の楽曲も加えて編曲。
第1曲「パストラール」
劇音楽No.7 導入曲および合唱から。
第2曲「間奏曲」
劇音楽No.15 導入曲から。中間部のアルト・サクソフォーンによる敬虔な旋律は、『神の子羊』という歌曲としても歌われました。
第3曲「メヌエット」
アルルの女といえば、この曲と連想されるほど有名な曲ですが、実はビゼーの歌劇『美しきパースの娘』の曲をギローが転用、編曲したものです。フルートとハープによる美しい旋律が展開されます。
第4曲「ファランドール」
劇音楽No.21 ファランドールから。フランス(プロヴァンス)民謡「3人の王の行列」に基づく旋律とファランドールが組み合わされ、熱狂的なクライマックスを築き上げ、「ファランドール」の軽快な旋律は、民謡「馬のダンス」に基いています。

 南フランスの豪農の息子フレデリは、アルルの闘牛場で見かけた美女に心を奪われてしまいます。フレデリにはヴィヴェットという許嫁がいるのですが、彼女の献身的な愛もフレデリを正気に戻すことはできない。日に日に衰えていく息子を見て、フレデリの母はアルルの女との結婚を許そうとそます。それを伝え聞いたヴィヴェットがフレデリの幸せのためならと、身を退くことをフレデリの母に伝える。ヴィヴェットの真心を知ったフレデリは、アルルの女を忘れてヴィヴェットと結婚することを決意する。2人の結婚式の夜、牧童頭のミチフィオが現れて、今夜アルルの女と駆け落ちすることを伝えらます。物陰からそれを聞いたフレデリは嫉妬に狂い、祝いの踊りファランドールがにぎやかに踊られる中、機織り小屋の階上から身をおどらせて自ら命を絶つというストーリーです。
 
 しかしビゼーは決して恵まれた境遇ではありませんでた。若すImai02 ぎた死のの為、それも評価されたのは死後のことでした。ちなみにビゼーは舞台作品は約30曲以上も残していますが、『カルメン』や『アルルの女』、『真珠採り』以外はほとんど知られていません。なお歌劇『美しきパースの娘』の中のセレナードをベースにした『小さな木の実』は、NHKの「みんなのうた」で放送され、音楽の教科書にも採り上げられるなど、日本では特によく親しまれている楽曲でです。私の中学の音楽の授業で、『アルルの女』を聞いて痛く感激したものです。
 ビゼーは生涯で交響曲を3曲書いたが、1859年に作曲された第2番の草稿は破棄されてしまい、第3番は作曲されたのかどうかも判然としません。その他にも管弦楽曲、合唱曲、歌曲、編曲作品などがあります。
 
 オペラ『カルメン』は、プロスペル・メリメの小説『カルメン』を基にしたもので、アンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィがリブレットを作りました。音楽(歌)の間を台詞でつないでいくオペラ・コミック様式で書かれています。全4幕。1875年、パリのオペラ=コミック座で初演されたがまた不評ででした。ビゼーは初演から間もなく死去しますが、その後エルネスト・ギローにより台詞をレチタティーヴォに改作されて上演され、人気を博すようになったと言われています。。フランス歌劇の代表作として世界的に人気がある。近年ではオペラ・コミック様式に復元した原典版である「アルコア版」による上演も行われます。一般的に『カルメン』組曲として知られているのは、フリッツ・ホフマンの選曲・編曲によるものです。第1組曲と第2組曲があります。
 異色の組曲としては、ロディオン・シチェドリンが13曲で構成した弦楽器と打楽器だけの編成のための『カルメン組曲』があります。1967年に『カルメン』をモチーフにしたバレエが上演されることになり、主演のプリマドンナだったマイヤ・プリセツカヤは最初ショスタコーヴィチに、次いでハチャトゥリアンに編曲を依頼しました、両者とも「ビゼーの祟りが怖い」という理由で断り、仕方なくプリセツカヤの夫であったシチェドリンが編曲に取り掛かることになりました。肝心のバレエの初演はブレジネフらの横槍もあって大失敗しましたが、後に海外で評価されるようになりました。

 何故このように才気溢れる一の作品が生きている内に好評を得なかったのでしょうか。ブレジネフのような共産主義者が何度も嫌がらせしてきたからなのでしょうか・・・
『カルメン』はドビュッシー、サン=サーンス、チャイコフスキーなどから賞賛され、ニーチェは『カルメン』を20回も観たと記述していますし、運命を引き受ける至高の個人としてのヒロインに、感応するところが大だったと考えられてます。それなのに何故・・・なにか判然としないものが残ってしいます。
 でもいまでは立派な作曲者として名を連ねている事が、唯一嬉しい事です。安らかな眠りを・・・・

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2009年5月 4日 (月)

私の好きな作品たち~ジョルジュ・ルオー編

 異例ではありますが、私はルオーの絵も大好きです。今まで私が好んだ画家と一線を博すものがルオーにはあり、辛い時に観ると涙が溢れます。ルオーは、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家でした。後年のルオーの画風、特に黒く骨太に描かれた輪郭線には明かにステンドグラスの影響が見られます。ルオーは修業のかたわら装Ruor002 飾美術学校の夜学に通った。1890年には本格的に画家を志し、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学、ここでマティスらと知り合った。同校でルオー、マティスらの指導にあたっていたのは象徴派の巨匠、ギュスターヴ・モローでした。教師としてのモローは自己の作風や主義を生徒に押し付けることなく、ルオーとマティスという、モロー自身とは全く資質の異なる2人の巨匠の個性と才能を巧みに引き出したのです。ルオーは終生、師モローへの敬愛の念が篤く、1903年にはモローの旧居を開放したモロー美術館の初代館長となっています。ルオーは同美術館に住み込みで働いていたが、給料は安く、生活は楽ではなかったようです。
 ルオー20歳代の初期作品にはレンブラントの影響が見られ、茶系を主とした暗い色調が支配的でしたが、30歳代になり、20世紀に入ったころから、独特の骨太の輪郭線と宝石のような色彩があらわれました。画題としてはキリストを描いたもののほか、娼婦、道化、サーカス芸人など、社会の底辺にいる人々を描いたものが多く、ルオーは版画家としても20世紀のもっとも傑出した作家の一人で、1914年から開始した版画集『ミセレーレ』がよく知られていますね。

 ルオーは、いったん仕上がった自作に何年にも亘って加筆を続け、納得のいかない作品を決して世に出さない画家でした。晩年、ルオーは「未完成で、自分の死までに完成する見込みのない作品は、世に出さず、焼却する」と言い出すほど自分の絵に執着していました。
 このことが原因で1917年、画商ヴォラールはルオーと契約を結んでいたルオーの「全作品」の所有権はヴォラールにあるものとされたのですが、この契約が後に裁判沙汰の種にまでなりました。ルオーは300点以上の未完成作をヴォラールのもとから取り戻し、ボイラーの火にくべたのです。。それが彼の芸術家としての良心の表明でした。ルオーは第二次大戦後も制作を続け、1958年、パリで86年の生涯を終えました。

 ルオーは『一生を通じて、私は大人数の家族のために金の心配をしてきた! 未来への、貧乏への不安があったんだ!』 私はいつもセザンヌの言葉を繰り返していた。『“恐ろしいものだ、人生とは”。どうしたら生きていけるだろうと思ったことさえあるRouault_30 。みんなに見離されていたんだ。そして何だって起こるのがいつも遅すぎるんだ。若い頃夢見ていたオランダやフランドルのイタリアの傑作を、私がようやく見られたのは77歳になってからですよ、知っていましたか? 幸なことに、こんなへとへとの生活をしていても、不機嫌にならなかったのが私の支えだった。そのおかけで私は不運にめげずにすんだんだ……。』

 批評家たちは激しく攻撃してきました。『私が不健全な芸術家であり、“醜さの専門家”であり、ぞっとするようなグロテスクなものを毒々しく描く、と彼らは非難しました。ポルノグラフィだと非難されたことさえある…。でも、悪を描くこと、腐敗を、いかがわしい快楽を、つくりものの楽園を描くことは、ポルノグラフィだろうか? たしかに売春婦や娼婦たちは、私の作品の中で、聖人や士師やキリストと同じような地位を占めている。しかし現実はさまざまで、悲しく下劣なものであるのと同様に楽しくうきうきするものではないだろうか?
 そして汚らしい、あるいは卑しいものからでも、美は引き出せるのではないだろうか?』と・・・それくらいルオーの作品は暗いイメージがあり、黒く縁取られた作品たちは今まで目にしてこなかったものでした。
 ですが、他にキリストを崇めるように、売春婦や娼婦を崇めて書いた画家がいるでしょうか?彼は従順なクリスチャンです。神の御名により、選ばれし人なのだと私は思います。その彼が描いた作品だからこそ、出せる味わいがあるのでしょう。私はそれに気付くのが少し遅かったのかもしれません。

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2009年5月 3日 (日)

私の好きな作品たち~古沢 良太編

 『ALWAYS 三丁目の夕日』で2005年、私達に懐かしい時代を見せてくれた古沢さん。昭和33年(1958年)の東京の下町を舞台とし、夕日町三丁目に暮らす人々の暖かな交流を描くドラマに仕上がっています。(当時の港区愛宕町界隈を想定しています。)
 建設中の東京タワーや上野駅、蒸気機関車C62、東京都電など当時の東京の街並みをミニチュアとVFX(CG)で再現した点が特徴で。昭和30年代の街並みが再現されたコンピュータシミュレーションでは、東京工科大学メディア学部の研究室が協力しました。
 映画に出てくる、三丁目の住宅、商店、街並みは全てセットで再Shagaru005 現されており、東宝第2、9ステージ及び、館林市大西飛行場に建設されたオープンセットで撮影されました。三輪自動車ミゼット、家電、店内の商品等は殆どが各地から集められた本物です。
 山崎貴監督によると当時の現実的情景再現以上に、人々の記憶や心に存在しているイメージ的情景再生を重視したようです。
 東京の下町、夕日町三丁目にある鈴木オート。そこにC62蒸気機関車に乗って青森から集団就職で六子(むつこ)がやってくきます。六ちゃんと親しまれます」が、実は大企業に就職できるかと期待していた六子はボロっちい下町工場の鈴木オートに内心ガッカリ。
その向かいにある駄菓子屋「茶川商店」の主人・茶川竜之介は小説家。茶川は居酒屋「やまふじ」の美人店主・石崎ヒロミから見ず知らずの子供・古行淳之介を酔った勢いで預かってしまう。帰すに帰せず、二人の共同生活が始まる・・・という皆さん御なじみの映画の脚本が古沢さんでした。

 その後も映画では2007年『キサラギ』で、某ビルのペントハウスに、互いに面識のない五人の男たち(ハンドルネーム:家元、オダ・ユージ、スネーク、安男、いちご娘)が集まった。彼らはD級アイドル如月ミキのファンサイトを通じて知り合い、如月ミキの一周忌の為に集まったのでした。一年前にマネージャーの留守番電話に遺言メッセージを残し、自宅マンションに油を撒いて焼身自殺した彼女を悼むのが会合の趣旨だったが、オダ・ユージが彼女は自殺ではなく「他殺だ」と言い出したことで状況は一変する。徐々に明らかになる当時の状況、次々と明かされる五人の男達の正体。紆余曲折を経て彼らが辿りついた真実とは・・・?これも話題になりましたね。

 同2007年に『ALWAYS 続・三丁目の夕日』でまたまたヒットを飛ばし、というか静かなレトロブームが進み、あらすじは、東京下町の夕日町三丁目では、茶川が黙って去って行ったヒロミを想い続けながら淳之介と暮らしていた。そんなある日、淳之介の実父である川渕が再び息子を連れ戻しにやって来ます。そこで茶川は、人並みの暮らしをさせられる証しを必ず見せるからと頼み込み、改めて淳之介を預りました。
 大きな事を言ったはいいが、どうやって安定した生活を見せられるのか。やけ酒に酔いつぶれる茶川ではあったが、翌朝、一度はあきらめていた“芥川賞受賞”の夢に向かって黙々と執筆を始める茶川の姿があった。それを見た鈴木オートやまわりの皆は、心から応援し始めるのでした。
 茶川が芥川賞へ向けて全力で書き上げた内容とは、それはなんとも川のせせらぎのように純粋な物語であった。鈴木オートや商店街の人たちは殆どの人が茶川の書き上げた本を買い何度も読み、泣く人、感動する人、あのころを思い出す人など、人それぞれが違った観点をもち茶川を支えていくのである。はたして黙って去っていったヒロミとの運命はいかに・・・というところでしょうか。

 私が何故、古沢さんを選んだかというと、ご存知の通り、向田邦子賞を取ったと聞き、聞いた事のない名前にただ呆然としてしてしまったからです。テレビドラマは欠かさず観ていた私なのですが、最近は殆ど見ていません。でも『相棒』は再放送で観ていました。古沢さんがシーズン4から長きに渡って書かれていたとも知らずに・・・迂闊でした。

 ところで今回受賞対象になったのはどの作品かといいますと、『ゴンゾウ 伝説の刑事』でした。舞台は、井の頭警察署。主人公はかつて捜査一課に在籍し、3年前のある事件をきっかけに、現在は備品係に所属する警察官・黒木俊英。毎日、職務中にテレビゲームにのめり込んでいる変人扱いの彼には、ゴンゾウという仇名がつけられていました。ゴンゾウとは警察用語で能力や経験があるのに働かない警察官という意味の隠語、もしくは、英語(gonzo)で風変わりな・愚か者などの意味を持つといいます。ある日、バイオリニストの女性が射殺されます。その時、彼女の知人であった婦警が一緒にいた事から、世間に注目され、先輩刑事の代理として捜査一課に復帰したゴンゾウは、さまざまな拳銃事件を解決していきます。過去に関係のあった女性の、少女時代の幻影に苦しむ黒木は、「この世界に、愛はあるの?」 という女性の残したキーワードが、一連のRatur001 殺人事件に関係していることに気づく・・・
 ストーリーは一話完結ではなく、一人の女性の射殺事件の真相究明と、それに伴い明かされる黒木が3年前関わった事件が焦点となっています。刑事ドラマが向田邦子賞を取ったのは初めてではないでしょうか。それだけ価値のある番組だったのか、『女王の教室室』のように現代に問いかけるドラマだったのか、観なかった私はただ悔しい思いで一杯です。
 黒木 俊英を演じたのが内野聖陽さんと聞き、ややアットホーム的な部分もあったのかなとも思いましたが、これでは机上の空論です。

それで、時下に古沢さんの声と書評を見てみることにしました。すると、古沢氏は「向田邦子さんは、作家としても女性としても気になっていた存在。今回の受賞で少し振り向いてもらえた気持ちです」』とコメントしていました。そして『ゴンゾウ~伝説の刑事」は、刑事ドラマであり、連続ドラマであり、さまざまな制約があったであろうと思われます。その枠組みの中、作家としての挑戦を感じる作品でした。達者な構成力、はりめぐらせた伏線等、視聴者を楽しませることに心血を注ぐ精神とセンスは授賞に値すると判断いたしました。今後、違うジャンルへの挑戦を含め、テレビドラマの脚本家としての更なる飛躍を期待します。おめでとうございます。』と受賞の喜びの声と授賞理由についてに述べられておられました。

 『木曜ドラマ・おいしいごはん 鎌倉・春日井米店』ではコメディの要素を加えたホームドラマ的な作品になっており、佐々木倫子による少女漫画を脚色した『動物のお医者さん』などもホームドラマな要素がびっしり詰まっています。

 これからが楽しみの脚本家さんでした。

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2009年5月 2日 (土)

私の好きな作品たち~葛飾 北斎編

 日本画は東山魁夷氏、平山郁夫氏以外、目が行かなかったのですが、最近になって北斎の絵の素晴らしさに気付きました。

 森羅万象、何でも描き、生涯に3万点を超える作品を発表。版Hpokusai002 画のほか、肉筆画にも傑出していた。 さらに読本・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大でした。 葛飾派の祖となり、のちには、ゴッホなど西欧の印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えています。
 その功績は海外で特に評価が高く、平成11年(1999年)にはアメリカの雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人としてただ一人、ランクインしていました。浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍しました。

黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけましたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していました。
数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとしました。 読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われています。 なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候していたことがあるそうです。
 嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。そのときの様子は次のように書き残されている。

翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい Yosiwara 暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし と言吃りて死す
これは、「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ
」との意味を意味します。
辞世の句は───

人魂で 行く気散じや 夏野原
その意、「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というものであった。

まだまだ多くの作品を手掛けたかった様がありありと浮かんできます。作品について触れることにしましょう。

--北斎漫画 --
全15編。図数は4,000図とされる版本(彩色摺絵本)。北斎54歳、画号・戴斗の頃 1814年に初版あり。初めは絵手本(画学生のための絵の教本)として発表されたものでしたが、評判を呼び、職人の意匠手引書などにも用いられることとなって広く普及しました。さまざまな職業の人から道具類、ふざけた顔、妖怪、さらには遠近法まで、多岐にわたる内容が含まれていいます。

-- 百物語 --                                 Kohada001_2  
表題の「百物語」は、江戸時代に流行した数人が夜中に集まり交代 で怪談を語り、話が終わるごとに蝋燭の明かりを消していき、最後の蝋燭が消えると怪奇現象がおこると洒落たれた遊びです。現在5枚の作品が確認されている。こはだ小平二は、山東京伝の『復讐奇談安積沼』(享和3年刊)と題する5巻5冊の読本に登場する江戸の役者で、後妻のお塚とその密夫太鼓打ちの安達左九郎によって安積沼に突き落とされて殺害されますが、小平二の亡霊に悩まされ左九郎はついに非業の死を遂げるという話です。髑髏となった小平二が、蚊帳に手をかけ中を覗き込んでいる・・・筋肉の細かい描写や赤黒い炎が不気味さを増していいます。

-- 富嶽三十六景--
「冨嶽」は富士山を指し、各地から望む富士山の景観を描いています。発表当時の北斎は72歳と、晩年期に入ったときの作品。また西洋画法を取りいれ、遠近法が活用されている事、当時流行していた“ベロ藍”ことプルシャンブルーを用い て摺ったことも特色です。
 浮世絵の風景画は当時「名所絵」と呼ばれており、このシリーズの商業的成功により、名所絵が役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立したと言えます。「凱風快晴」や「山下白雨」のように、富士山を画面いっぱいに描いた作品から、「神奈川沖浪裏」や「甲州伊沢暁」のように遠景に配したものまであり、四季や地域ごとに多彩な富士山のみならず、各地での人々の営みも生き生きと描写していいます。
 当初は名前の通り、主版の36枚で終結する予定であったが、作品が人気Hokusai_003を集めたため追加で10枚が発表され、計46枚になりました。追加の10枚の作品を「裏富士」と呼びます。

--肉筆画帖--
全10図一帖からなる晩年の傑作。肉筆画(紙本着色)でありながら版元の西村屋与八から売り出された。1834~39年、前北斎為一改画狂老人卍筆。天保の大飢饉(1833- 39年)の最中、版元たちとともに休業状態に追い込まれた北斎は一計を案じ、肉筆画帖をいくつも描いて店先で売らせることで餓死を免れたと伝えられました。ただし、大飢饉の前に出された肉筆画帖発売の広告も知られています。現存は一帖のみですが、肉筆画帖は当時、複数が発売されてたそうです。

 この後、北斎はこう述べています。
『私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。』

--祭屋台天井絵--
上町祭屋台天井絵は「男浪〈おなみ〉」と「女浪〈めなみ〉」の2図からなる『怒涛図』であり、東町祭屋台天井絵は『鳳凰図』および『龍図』の2図です。 『怒涛図』の絢爛たる縁どりの意匠は北斎の下絵に基づき鴻山が描いたものですが、当時は禁制下にあったにもかかわらずキリシタンのものを髣髴とさせる1体の有翼天使像が含まれていいます。不思議ですね。

-- 八方睨み鳳凰図--
信州小布施にある曹洞宗寺院・岩松院の本堂、その大間天井に描かれた巨大な1羽の鳳凰図。嘉永元年(1848年)、無落款、伝北斎88歳から89歳にかけての作品。肉筆画(桧板着色)。 由良哲次説によると、北斎は83歳のときを初めとして4たび小布施を訪れていますが、本作は、4たび目の滞在時のおよそ1年を費やして描き込まれ、渾身の一作を仕上げた翌年、江戸に戻った北斎は齢90で亡くなったと考証されました。しかし現在では、本図が描かれたとされる嘉年元年六月に、北斎は江戸浅草で門人・本間北曜と面談し、北曜に「鬼図」(現佐野美術館蔵)を与えていた事実が確認され、北斎が89歳の老体をもって小布施を訪れ、直接描いたとする説には否定的な見解が強くなっています。
 しかしながら、21畳敷の天井一面を使って描かれた鳳凰は、畳Hokusai004 に寝転ばないと全体が見渡せないほどに大きい。伝北斎の現存する作品の中では画面最大のものです。植物油性岩絵具による画法で、中国・清から輸入した辰砂・孔雀石・鶏冠石といった高価な鉱石をふんだんに使い、その費用は金150両と記録される。加えて金箔4,400枚を用いて表現された極彩色の瑞獣は、その鮮やかな色彩と光沢を塗り替え等の修復をされることもなく今日に伝えられているのです。素晴らしい!!

 映画『北斎漫画』はご存知でしたか?私は知りませんでした。富士映画(のち、松竹富士)による昭和56年(1981年)製作の日本映画で八代静一原作の戯曲『北斎漫画』を映画化した作品。春画の大家としても知られる北斎とその娘・お栄(応為)の生涯と、刎頸の友・滝沢馬琴との交流を描いています。監督・脚本:新道兼人死。演者:緒形拳(鉄蔵〈葛飾北斎〉役)、西田敏行(左七〈曲亭馬琴〉役)、田中裕子(お栄〈北斎の娘・応為〉役)、樋口可南子(お直、春画「蛸と海女」の海女のモデル役)でした。

--吉原妓楼の図--
吉原の楼閣の1階の様子を、遠近法を用いながら5枚続のワイド画面に描いたもの。座敷の奥には楼主が座り、神棚には唐獅子と達磨がかざってあます。花魁や新造、禿たちが部屋を行き来している様がよく解ります。火の用心の張り紙のある柱の側では、竈に火がおこされ料理人たちが食事の用意をし、座敷の中央には、膳の用意をする女性たちの様子も描かれています。

 美術館で見るのは難しそうなのでネットで沢山保存しようと思います。

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2009年5月 1日 (金)

私も勉強になる作品~『日本人の知らない日本語』

 これは必読書だと思いきや、堅苦しい物では無く、日本語、再発見コミックエッセイでした。でも読みやすく、自分の日本語は怪しいという自覚があるので手にとりました。内容は面白くて、勉強になり知的なエッセンスがあります。
 日本にいると気がつきにくい日本の良さも10章の『日本いい国』から伝わり、ホロリときました。私もこの日本語学校に入りたくなってしまいました。入ってもまわりの学生さんと違和感なさそうで…(爆)。ただ、絶賛レビューで占められているので、あえて。
 安定していてかわいい絵柄です。日本語コミックエッセイだからなおさらでしょうが、「会話漫画」となっていて、会話だけで話がオチまですすみ、人物の動きは少なめです。 構図もかわりなく上半身だけ・顔だけのページも多く、少々疲れてきます。刺激を求めている
わけではありませんが しかし今まで誰もかかなかったジャンルの上、静かな日本人による日本語ブーム?なので、旬の一冊です。

 著者は、日本語学校で外国人に日本語を教える海野凪子(な ぎこ)さん。外Lassen_work05s国人の奇問や珍問との格闘が、イラストレーターの蛇蔵(へびぞう)さんの絵でユーモラスに再現されています。例えば助数詞。細く長いものは「1本」と数えると、中国人は「ヘビも1本ですね」と答える。正解は「1匹」。中国人はヘビも川も同じく「条」で数えるそうですが、日本人は生物か無生物で数え方を分けます。椅子は「1脚」と教えれば、外国人からは「便器も1脚?」と疑問の声が上がる。正解は「1据(すえ)」
 外国人の素朴な「?」が、普段の暮らしで見過ごしていることを日本人に気づかせてくれます。

 この様に外国人に正しい日本語で話そうとしても、時折、解らないことが起こって、『へえ?何の意味?』と問われて答えられない事しばし・・・こんな時、日本語って難しいとつくづく思います。

 でも私は日本語が大好きです。奥が深いし、趣はあるし・・・方言もまたいいものだと思うのです。でもテレビを観ているとなぜここを英語で言わなければいけないのだろう?なんて思わず突っ込みたくなる話方をする人が多いのには驚かされます。日本の歌なのに、やたらと横文字並べて歌っているのは何故?こんな疑問がどんどん日本語を衰退させているようで、私は不安になります。国語という教科書はどこへ行ってしまったのでしょうか・・・高校生が話す言葉の意味は半分もわかりません・・・これでいいのでしょうか・・・

 こんな時こそ、この本を読んで少し立ち返ってほしいのです。美しい日本語を話すことは一つの財産だと思うのです。いつか子供を持った時、正しい日本語を子供に教えられるかどうかを。

 私は最近、教会に日曜礼拝をうけに行っています。別にクリスチャンではありませんが、厳かな雰囲気の中、皆素晴らしい日本語を使って下さいます。殆どがアメリカ人の宣教師もとても礼儀正しく、日本人より美しい日本語を必死で話してくれます。ここでは英会話教
室も開かれており、アメリカ人が英語を教えています。きっとこの本の逆のことが起きているのかと思うと微笑ましいですね。英語を話すことも今大事ですが、だからと言って自国語をなおざりにしていいということはありません。

 それにしても、日本語というのは文法が簡単なのに、それにも増して正しい表現が難しいですね。文脈感受性がすごく高いのです。
 私が一番面白かったのは実はそこではなく、随所に出てくる日本語トリビアというか、外国人の質問で明らかになった日本語の歴史みた
いなものです。もちろん、たぶんどっかで既知のものであると思います。どこかで聞いたことがある、という感じはあるのだけど、漫画でわかりやすく教えてくれるとまた違う知的興奮がありました。

 今一度、日本語に賛美あれ!!

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