« 私の観たい映画『60歳のラブレター』 | トップページ | 私の好きな作品たち~北山 修編 »

2009年5月16日 (土)

私の好きな作品たち~泉鏡花編

『日本橋』を取り上げて少し(かなり長い?)泉鏡花氏の文体に触れたいと思います。値維持、対象、昭和を駆け抜けた鏡花氏から学ぶべき事は大きいですね。妻子は旧かな使いから始まり、途中で新かな使いにかわったのでその後の作品のほうが親しみやすいのですが、私がみつけた小文は『遊学』(中公文庫)に収録してありますが、そのときは、「あたしはね、電車が走る街にお化けを出したいのよ」「お化けは私の感情である、その表現である」と言ってみせた鏡花氏の、「一に観音力、他に鬼神力」ともいうべきを覗き見ました。
 そのころの泉名月さんの回顧談を読んだせいもあって、オキシフルを浸した脱脂綿で指を拭いているとか、お辞儀をするときは畳に手をつけないで手の甲を向けていたとか、ナマモノは嫌なので料亭でも刺身を細い箸で避けていたといった、Hirayama003 過度の潔癖美学を全身に張りめぐらせていた鏡花が、そのように“見えないバイキン”を極端に怖れているのに、その対蹠においては、変化しつづける見えない観音や、人を畏怖させる鬼神をあえて想定したことに、関心をもっていました。
 そういう鏡花氏の実在と非在を矛盾させるような「あはせ」と、見えるものと見えないものを交差させるような「きそひ」とが、おもしろかったのです。

 当時は鏡花の大変なブームがおこっていました。身近な例をひとつ出すのなら、、新装再刊が始まっていた岩波の鏡花全集だけはせっせと買っているというような、そういうことがよくいたのです。
 舞台や映画でも、ジュサブローや玉三郎(なぜか二人とも“三郎“だった)が、しきりに『夜叉ケ池』や『天守物語』や『辰巳巷談』を流行らせていました。昭和50年代だけで、玉三郎は15本以上の鏡花原作舞台に出ていたはずです。『日本橋』も入っています。またこれより少し前の三島由紀夫氏も五木寛之氏も、鏡花復権を謳っていました。金沢には泉鏡花賞もできて、半村良やら唐十郎やら澁澤龍彦やらが鏡花に擬せられていました。
 鏡花の幻想世界のアイコンをプルーストやユングやバシュラールふうに読み解くというのも、そこらじゅうに散らばっていて、曰く、あの水中幻想の奥には火のイメージがある、曰く、鏡花には「無意識の水」が湧いている、曰く、鏡花の蛇は自分の尾を噛むウロボロス
というよりも多頭迷宮なのではないか、曰く、奇矯な破局を描くことが鏡花にとっての救済だったにちがいない、曰く、鏡花の緋色や朱色には処女生贄への願望が‥‥。ほんとですか?というほどの散らかりようでした。
 たしか、メアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』さえ持ち出して、鏡花の汚辱の美にみずから埋没していった評者もあったかとか・・・。
  
 あれから何年たったでしょうか。新たな印象は、そのころさまざまな日本の職人芸に魅せられていたのですが、そういう工芸象嵌の感覚に近かいものでした。しかし、たんなる象嵌なのではありません。鏡花における象嵌細工は仕上げは凄いのに、どこか現実とも幻想とも食い違うようなものになっていて、しかもそういう精緻なものがわざと投げやりにまた意想外に、どこかに邪険に放置されているというような、そんな印象なのでです。というだけでは解り難いと思いますので、『歌仙彫』という短い作品を例にすると、

 この話は、矢的(やまと)某という、技術は未熟なのは承知していたが矜持はすこぶる高い青年彫刻家がいて、その将来の才能に援助する夫人が遠方にいるという設定になっています。ところがいい彫刻はなかなか作れません。これは青年に憧れの夫人を表現したいという羨望が渦巻くせいか、焦燥感のせいか、それとも実は才能がないせいなのか、そこは定かではない。そんなあるとき、久々に夫人が工房を訪れた夫人は、桔梗紫の羽織をその場の材木にふわりと掛けた。その羽織のかたちが美しい・・・以来、青年は、その羽織のかかった材木をそのまま展覧会に出したいと思い、ついでは目黒の郊外を連れ立って歩いたときの夫人の声をそのまま彫りたいと思ってしまっていました。が、そんなことを思えば思うほどますます作品は手につかない。夫人は、私、体が弱いので、菖蒲の咲くころには、と言いました。青年は苦しんで酒を呑み、金がなくなると小遣いかせぎの六歌仙の小ぶりの人形など作って、一つできれば、出入りの研ぎ屋のおじいさんにお金にしてもらうようになっていました。それが二つ、三つと出来上がるたび、おじいさんは必ず代金をもってきてくれます。
 礼を言うと、「わしが売ってるのじゃない、別の人じゃから」と言う。誰が買ってくれるのか、じいさんの住処が深川あたりと聞いて、そのへんをぶらついてみるのだが、見つかりません。そんな深川の昼下がり、近くの冬木の弁天堂で休んでいると、とんとんと若い娘
が額堂に入ってきて風呂敷包みを開いた。なんと、そこには自分の人形がいる。業平、小町、喜撰、遍照‥‥。
 思わず駆け寄って、「研ぎ屋さんから手に入れたのですか」と尋ねると、「いえ、姉さんに‥‥」。
 青年がその姉さんに是非会いたいと言えば、妹は、ちょうど近くHirayama006 で用足しをしておりますので、では連れて参りますからと行ってしまいました。待つうちに日が暮れて、弁天堂の真っ黒な蛇の絵が浮き出して、こちらを睨んだかに見えたとき、堂守から声をかけられました。そのお堂にいる所持のない場面を、鏡花はあの独特の文体で、こう書いた「時に、おのづから、ひとりでに音が出たやうに、からからと鈴が鳴つた」。とたん、「勁(うなじ)の雪のやうなのが、烏羽玉の髪の艶、撫肩のあたりが、低くさした枝は連れに、樹の下闇の石段を、すッと雲を掴むか、音もなく下りるのが見える」。
 これでついに一切の事情が明かされるかと思うと、そうではありませんでした。鏡花はにべなくも、「かうした光景(ようす)、こうした事は、このお堂には時々あるらしい」、と結ぶばかりなのです。この不思議な感覚の消息は、ユングやバシュラールでは解けまい。観音力・鬼神力も適わない。鏡花は、何も説明していないのです。はたして姉が夫人なのやら、その姉の正体が何であるのかも、説明していません。
 それでいて、われわれはここに一匹の夫人の妖しい容姿が君臨していることを知ります。また、この青年の彫塑の感覚が並々ならぬものであり、青年はただただ夫人の感覚を想定することによって、世のたいていの力量を凌駕できていることを知るのです。青年は桔梗紫の羽織すら、きっとふわりとしたまま木彫できるのでした。鏡花氏とは、このように、精緻でありながらもどこかの「あてど」に放擲されるという印象なのです。この「あてど」は鏡花の「黄昏」をめぐる思想にも裏打ちされています。
 鏡花はあるところで、「たそがれの味を、ほんとうに解してゐる人が幾人あるでせうか」と書いて、「朝でも昼でも夜でもない一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です」と言ってたそうです。

 さらに、「善と悪とは昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、そこには、滅すべからず、消すべからざる、一種微妙な所があります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさういふ黄昏的な世界を主に描きたい」と。これが「ほか」「べつ」の、あてどのないところへの「投企」というものなのです。
 しかし、印象はこれだけでは終わらりません。鏡花にとってはさらに大事なことになるのですが、この「ほか」「べつ」「あてど」には、異性というものに託した一切本来が、たえ刻々に変成しているということです。
 これは最初に言っておいた、鏡花にとっての異性は、芸者であって母であり、夜叉でも菩薩でもある形代なのだということに、つながっています。鏡花氏は大変な多作に加えて、長編もありません。自身、代表作を書きたいとも思っていなかった人です。まるで川の流れのように、一雙の舟にのって流れていた・・・鏡花から一冊を選ぶのが難しいのも、このせいだと新たにかんじました。 そこで、こちらの感想も書きたいことも、一作ごとに浮沈し、変化し、目移りします。また、そうさせたいのが鏡花氏自身だったのです。
 私もこれまでの目移りをいくつか例にしても、なるほど、視点はいつも蝶のごとくにひらひらとし、舟のごとくに揺れていました。
 たとえばのこと、『歌行燈』の恩地喜多八が身を侘びて博多節を流すあたりも書きたいし、湊屋の芸妓お三重こそを鏡花の憧れともしてみたいとか・・・。

 『高野聖』では、その鏡花アニミズムの朦朧画のような気味もよく、旅の説教僧が参謀本部の地図を広げる冒頭や山の女との出会いについても、言ってみたいことがあます。聖性と恐怖とエロス、そしてイニシエーション。これらはホラー小説に欠かせない要素ですが、「高野聖」にはそれらが見事に揃っています。深山の奥に住む謎の美女と若い僧のストーリーは、その設定の見事さにより、読者の好奇心を刺激します。怖いものみたさを喚起そいます。 いかにも怪しいシチュエーションは、「これは事件が起こる」と予感させるしそれは性的な誘惑を伴うはずであると確信しながら、ページをめくるのです。 泉鏡花はすごいストーリーテラーだと思います。
 読者はこの女は怪しいと感じながら、一方で惹かれていくのです。(読者は動物に変えられる男たちと一緒だ。) クライマックスは谷底での女の誘惑ですが、そこでは恐怖とエロスが渾然一体になり、最後に聖性(信仰)が勝利します。
エンターテイメントとしての完成度は相当なものだと思います。日本文学最高の幻想小説かもしれません。

 泉鏡花氏は今だに愛されている作家さんです。もう学校でも教えていないかもしれませんが、『高野聖』くらいは読んでおく事をお勧めします。面白い言葉が沢山出てくるのも魅力です。

|

« 私の観たい映画『60歳のラブレター』 | トップページ | 私の好きな作品たち~北山 修編 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

Looking forward to reading more. Great blog.Really thank you! Keep writing.

投稿: ghana porn | 2016年7月 9日 (土) 06時30分

こんばんわー。夜遅くに失礼します(^^;)課題作文書いていたらこんな時間になってしまいました(汗)

「・・ほんとですか?というほどの散らかりようでした。」というところで思わず笑ってしまいました。ずいぶんな散らかりようですね(笑)
「あはせ」「きそい」・・泉鏡花気になりますね!特に「善と悪・・」の言葉にぐっときました。僕もそのような「微妙な所」にとても強く惹かれます。

ぜひ落ち着いたら読もうかと思います。

ではっ(◎´∀`)ノ

投稿: yukidaruma | 2009年5月17日 (日) 01時10分

こんばんわ。

いつもながらとこさんの巧みな表現、深い読み込みに吸い込まれるように読みました。
そしてジャンルの広さにも今更ながら驚いています。
泉鏡花、いくつかしか読んでいないのですが、今の作家にはとても書けないでしょうね。
あの文体、やはり日本語はとてつもなく奥が深いと思います。
>鏡花氏の実在と非在を矛盾させるような「あはせ」と、見えるものと見えないものを交差させるような「きそひ」
ここまではとても思いつかなかったですね。
彼の言葉のようにほんとにたそがれの味ですね。
高野聖はそれこそ書かれているように怪しい興味で読んだことを思い出します(^_^;)
確かに引きつけるストーリー、そして妖しい文体はとても魅力ですね。
とこさんの表現も月並みなところはないですね。
鏡花、また読みたくなりました。

とこさん、いつもコメントありがとうございます。
また以下にレスをコピーさせていただきます。

とこさん、北海道にお住まいなのですね。
いいですね(*^_^*)
南国九州生まれなので北の国はあこがれます。
実際冬は厳しいとは思いますけれど。

神戸で渡航歴のない高校生が感染していたとのこと。
どこに潜んでいるか姿が見えないだけにこわいですね。ただ今回は比較的軽症で済むウイルスとのこと、日本の体制を信頼するしかないようですね。
わたしもこんなこと書きながら、自衛策はほとんどとってませんでした(^_^;)簡単なことでだいぶ違うようですから少しは気をつけねばと思っています。
スペイン風邪はわたしも書きながら驚きました。
すさまじいものだったのですね。

投稿: KOZOU | 2009年5月16日 (土) 20時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/528484/29633034

この記事へのトラックバック一覧です: 私の好きな作品たち~泉鏡花編:

« 私の観たい映画『60歳のラブレター』 | トップページ | 私の好きな作品たち~北山 修編 »