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2009年5月28日 (木)

私の好きな音楽家~アントニン・ドヴォルザーク編

 ドヴォルザークといえば『新世界』ときますよね。でも以外と知られない曲に素晴らしい曲があります。ブラームスに才能を見いだされ、「スラヴ舞曲集」で一躍人気作曲家となりました。ベドルジハ・スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれていますね。その後、アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させていました。代表作に、交響曲第8番、交響曲第9番『新世界より』、この分野の代表作でもあるチェロ協奏曲、『アメリカ』の愛称で知られる弦楽四重奏曲第12番などがあります。これらの作品を通して、ドヴォルザークは、チェコ国民楽派を代表する作曲家であり、後期ロマン派を代表する作曲家というにとどまらず、クラシック音楽史上屈指の人気作曲家にもなりました。

 1855年、ドヴォルザークの両親はネラホゼヴェスを引き払い、Renoirbura003 ズロニツェに移って飲食店を始めました。翌年になるとドヴォルザークはチェスカー・カメニツェという町でフランツ・ハンケという教師にドイツ語と音楽を学ぶことになりました。ところが、家庭の経済状況が
悪化して音楽の勉強を続けさせることが困難となり、両親は帰郷させて肉屋を手伝わせようとしました。これにリーマンと伯父が反対し、両親を強く説得、さらには伯父が経済的負担を負う約束で1857年にドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学。経済的には苦しい学生生活でしたが、3歳年上の裕福な家庭の友人カレル・ベンドルと知り合い、楽譜を貸してもらうなどして苦学を重ね、2年後の1859年に12人中2位の成績で卒業。この時の評価は、「おおむね実践的な才能に長けている(中略)ただし理論に弱い」というもででした。カレル・ベンドルとの友情は卒業後も変わらず篤いものであり、ベンドルは後にドヴォルザーク作品を初演するなど援助を惜しまなかったのでした。創作活動では、オルガン学校在学中から習作は行っていたようですが、多くは破棄されてしまいました。

 コンクールの応募作品として最初の交響曲が書かれたのは1865年のことでした。しかし、この交響曲は生前演奏されることはありませんでした(ドヴォルザーク自身その存在を忘れていたと言われる)。1870年には最初のオペラである『アルフレート』を書き上げますが、この作品は、ライトモティーフの手法や切れ目のない朗唱風の歌唱など、ワーグナーの影響が強く表れています。同時期に作曲された弦楽四重奏曲第3番や第4番にもその影響が濃く、当時のドヴォルザークが熱心なワグネリアンであったことがうかがえます。さらに1871年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のプラハ初演に刺激されて、歌劇『王様と炭焼き』(第1作)が作曲されています。スメタナはこの作品を「まさに天才の理念に満ちた」作品と評しましたが、同時に「これが上演されるとは思わない」とも予言していました。その言葉通り、このオペラは4週間のリハーサルの末、放棄されることとなりました。

 ドヴォルザークは1871年に、作曲に多くの時間を充てるためにオーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにした。こうした状況の中、翌1872年から作曲に取りかかった作品が、彼の最初の出世作となった賛歌『白山の後継者たち』でした。1873年3月9日、『白山の後継者たち』は、学生時代の友人カレル・ベンドルの指揮で初演されました。民族主義の高まりもあり、この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得ます。この初演の際に、かつて音楽教師を行っていた姉妹のうち妹のアンナ・チェルマーコヴァーと再会し、この年の秋に結婚。1874年にはプラハの聖ヴォイチェフ教会(聖アダルベルト教会)のオルガニストに就任。この教会は伝統ある教会であり、社会的地位はかつての楽団員のそれよりも向上し、ささやかではあるが年俸が保証されることで、新婚生活の経済状態を安定させることができました。そしてこの年からかつて放棄された『王様と炭焼き』の台本を再び採り上げ、これに第1作とは全く異なる音楽を作曲し、ナンバーオペラとして完成させました。1874年11月24日に行われた初演は大成功を収め、音楽雑誌『ダリボル』には「ドヴォルザークは、その名が金字塔として際だつような地位にまで高められることだろう」という批評家プロハースカの予言が踊りました。こうしてドヴォルザークはワーグナーの影響下から徐々に離れていきました。

 アメリカの人々はこの高名な作曲家の渡米を心から歓迎しました。当時のアメリカは、音楽については新興国ではあったが、潤沢な資金でメトロポリタン・オペラやニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、あるいはアルトゥール・ニキシュが指揮者を務めるボストン交響楽団など高い水準の演奏が行われていました。しかし、自国の音楽家育成については緒に就いたばかりで、音楽院自体がその機能を十全には果たしていない状態でした。ドヴォルザークの音楽院院長就任はこうした状況打破に対する期待を持たせるものでした。1892年10月からドヴォルザークは講義を開始しました。

 1893年1月に着手した交響曲第9番「新世界より」は5月24日に完成しますが、4月14日付けの友人宛の手紙の中でドヴォルザークは「この作品は以前のものとは大きく異なり、わずかにアメリカ風である」と書いています。この作品は、ロングフェローの『ハイアワサの歌』に多くをインスパイアされたと言われています。5ヶ月間の休暇を取り、ボヘミアに帰った後チェコに着くと彼はヴィソカーの別荘に直行し、住民たちの心温まる歓迎を受け、心からくつろいだ休暇を送ることができました。同年、10月ニューヨークに戻った彼は、強烈なホームシックに襲われ体調を崩してしまいました。その一方で、この頃サーバー夫人の夫(ナショナル音楽院最大のパトロンだった)が1893年恐慌のあおりを受け破産寸前に追い込まれていたことから、ドヴォルザークへの報酬も支払遅延が恒常化しつつありました。11月8日からチェロ協奏曲に着手し、翌1895年2月9日にこれを完成させますが、これが限界だったもでしょう。。ドヴォルザークはサーバー夫人に辞意を伝え、周囲の説得にもかかわらず、4月16日にアメリカを去ったのです。

 帰国後もドヴォルザークはしばらく何も手につかない状態にありました。しかし1895年11月1日、プラハ音楽院で再び教鞭を執り始めたのです。作曲も再開され、アメリカを発つとき未完成のまま鞄に詰め込まれた弦楽四重奏曲第14番も1895年の年末には完成しました。1896年3月彼は、最後となる9回目のイギリス訪問を果たします。この直後、ブラームスからウィーン音楽院教授就任の要請を受けますが、これを断りました。アメリカ滞在や最後のイギリス訪問を通じて彼は、ボヘミアこそ自分のいる地だと思い定めたのです。この後、ドヴォルザークは、標題音楽に心を注ぐようになります。カShagaru002 レル・ヤロミール・エルベンの詩に基づく交響詩の連作(『水の精』、『真昼の魔女』、『金の紡ぎ車』、『野ばと』)を作曲したのも1896年のことです。帰国後のドヴォルザークには多くの名誉が与えられました。1895年、ウィーン楽友協会はドヴォルザークを名誉会員に推挙すると伝えました。同年ウィーン音楽省はプラハ音楽院への援助を増額する際に、ドヴォルザークの俸給を増額するようにと明記しています。1897年7月にオーストリア国家委員会の委員となりました。この委員会は、かつてドヴォルザークが得ていた奨学金の審査を行う委員会であり、才能ある貧しい若者を援助できることは彼にとってこの上ない喜びでした。さらに1898年には、それまでブラームスしか得ていなかった芸術科学名誉勲章をフランツ・ヨーゼフ1世の在位50周年式典の席で授けられています。こうして、さまざまな栄誉を身につけたドヴォルザークでしたが、彼にはオペラをヒットさせたことがないという焦燥感があったようです。そしてチェコの民話に想を得た台本『悪魔とカーチャ』に出会い、オペラ創作に邁進してゆきます。1898年から1899年にかけて作曲されたこのオペラは、1899年11月23日に初演されると大成功を収め、ドヴォルザークは、ジムロックからの要請にもかかわらず、他のジャンルには目もくれずに、次の台本を探し求めました。そして出会ったのが、『ルサルカ』でした。1900年4月に着手され、11月27日に完成したこの妖精オペラは1901年3月31日にプラハで初演されて再び大成功を収めます。でも様々な事情でウィーンで上演される機会を逃し国際的な名声を生前に受けることができなかったことで、ドヴォルザーク自身は決して満足できず、これ以後もオペラの作曲を続けますが、最後の作品であるオペラ『アルミダ』(1902年 - 1903年作曲、1904年3月25日初演)は、初日から不評に終わってしまいました。

 ドヴォルザークには、尿毒症と進行性動脈硬化症の既往があったのですが、1904年4月にこれが再発。5月1日、昼食の際気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました。死因は脳出血でした。葬儀はその4日後の5月5日に国葬として行われ、棺はまずプラハの聖サルヴァトール教会に安置された後、ヴィシェフラド墓地に埋葬されました。あまりに多忙を極めたことによる過労死ではないかと私には思えます。自分が納得出来るまで何度も挑戦する姿勢、見習いたいものです。
 交響曲も素晴らしいですが、管弦楽曲もセレナードもいいですよ。

音楽家は皆壮絶な生き方をしていますね。自分をギリギリの極限状態にまで持ってく・・・芸術家の運命なのでしょうか・・・

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コメント

あ、沁んでいったは、死んでいった、でした(^_^;)

投稿: KOZOU | 2009年5月28日 (木) 09時59分

おはようございます。(*^_^*)
こちら雨も上がりさわやかです。

ドヴォルザーク、それこそ新世界くらいしか知らなかったのですが、とこさんの詳細な紹介でよくわかりました。
ボヘミアン、言葉だけでも魅力的に響きますね。スメタナも大好きです。モルダウ、感動ですね。
いろいろ道を探ったドヴォルザークも結局祖国で活躍ボヘミア楽派を担っていくのですね。
危ういところで肉屋さんになる話はおもしろいですね。親戚や友人の援助でかろうじて音楽を学ぶことができたのですね。人の運命はほんとにはかりがたいですね。きっと才能を持ちながら運命に恵まれず市井に埋もれ沁んでいった人も多いのでしょうね。
彼のあくまで納得できる音楽を目指す姿勢は尊敬しますね。たとえそれで命を縮めても本望だったのでしょうね。
それにしても厚い西洋の音楽伝統に驚きます。

とこさん、いつもコメントありがとうございます。
以下にレスをコピーさせていただきます。

今回、とこさんの記事に刺激受けたことが大きいです(*^_^*)
だいぶ聞かなかったのですが改めて聞いてほんとに打たれました。いいですね。
とこさんも氷の世界、さがしていらしたんですね。ほんと、小椋桂もすごい才能ですね。彼も陽水もまた声がいいし。いつか彼も書きたいです。
ほんとに彼らの歌は半永久的に残るでしょうね。
わたしも下手な詩とか少し書いていましたけれど、また大幅に見直さないと(^_^;)
ティッシュの箱に書いてあったんですね(*^_^*)
確かに頭にひらめいたときすぐ書かないと忘れることありますね。
なんか動画づいてしまい(^_^;)
次は埼玉の薄幸の女性歌人について書きたいと思っています。
ありがとうございました。

投稿: KOZOU | 2009年5月28日 (木) 09時58分

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