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2009年6月

2009年6月28日 (日)

私の好きな作品立たち~カズオ・イシグロ編

 特に好きな作品を選べといわれると、やはり『日の名残り』でしょうか。1993年に英米合作で映画化され、ジェームズ・アイヴォリー監督・アンソニー・ホプキンス主演『日の名残り』として公開されましたね。

 第二次世界大戦が終わって数年が経った「現在」、執事スティーブンスは新しい主人ファラディ氏の勧めでイギリス西岸のクリーヴトンへと小旅行に出かけます。前の主人ダーリントン卿の死後、親族の誰も彼の屋敷ダーリントンホールを受け継ごうとしなかったのをアメリカ人の富豪ファラディ氏が買い取ったのですが、ダーリントンホールでは深刻なスタッフ不足を抱えていました。ダーリントン卿亡き後、屋敷がファラディ氏に売り渡される際に熟練のスタッフたちが辞めていったためでした。人手不足に悩むス Annri006 ティーブンスのもとに、

 かつてダーリントンホールでともに働いていたベン夫人から手紙が届きます。ベン夫人からの手紙には現在の悩みとともに、昔を懐かしむ言葉が書かれていました。ベン夫人に職場復帰してもらうことができれば、人手不足が解決すると考えたスティーブンスは、彼女に会うために、ファラディ氏の勧めに従い、旅に出ることを思い立つ。しかしながら彼にはもうひとつ解決せねばなない問題がありました。彼のもうひとつの問題、それは彼女がベン夫人ではなく旧姓のケントンと呼ばれていた時代からのものだった。旅の道すがら、スティーブンスはダーリントン卿がまだ健在で、ミス・ケントンとともに屋敷を切り盛りしていた時代を思い出します。

 今は過去となってしまった時代、スティーブンスが心から敬愛する主人・ダーリントン卿は、ヨーロッパが再び第一次世界大戦のような惨禍を見ることがないように、戦後ヴェルサイユ条約の過酷な条件で経済的に混乱したドイツを救おうと、ドイツ政府とフランス政府・イギリス政府を宥和させるべく奔走していました。やがて、ダーリントンホールでは秘密裡に国際的な会合が繰り返されるようになりますが、次第にダーリントン卿はナチス・ドイツによる対イギリス工作に巻き込まれていくのでした・・・

再び1956年。ベン夫人と再会を済ませたスティーブンスは、不遇のうちに世を去ったかつての主人や失われつつある伝統に思いを馳せ涙を流すが、やがて前向きに現在の主人に仕えるべく決意を新たにします。屋敷へ戻ったら手始めに、アメリカ人であるファラディ氏を笑わせるようなジョークを練習しよう、と・・・

 事からイメージされるのは、推理小説の登場人物くらいで、あまり現実感がないので、イギリスのお屋敷の一流の執事たるものは、どうあるべきかという読み物として読んでしまうと単なるボヤキ、あるいは「執事の品格」になってしまいます。

時代背景が、第一次世界大戦と第二次大戦の挟間で世界が大きく動く歴史をふまえて読むと、もう少し、理解ができるものと思います。 ダーリントン卿にお仕えした執事の仕事の達成感と寂しさ、ダーリントン卿が失脚して、新しくアメリカから来たファラディ様に仕え、イギリス流とは違ったジョークを勉強しなければならない苦痛感・・・

執事のスティーブンが、ファラディ様の好意で休暇を取り、フォードを借りて、かつて一緒に働いた女中頭ミス・ケントン(ミセス・ベン)からもらった手紙を頼りに、彼女に会いに行く物語。スティーブンの執事としての人生・スティーブンとケントンの恋物語・ダーリントン卿の衰退とイギリスの衰退という時代背景がうまく溶け込んでいます。
 執事が物語を淡々と語るので、物語に引きこまれていきます。 こうした静かなイギリス的なものを読むのもいいのかもしれません。

 その時だったと存じます。男がこう言ったのは――「人生、楽しまなくっちゃ。夕方がいちばんいい。私はそう思う。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が一番いい時間だって言うよ」 「たしかにおっしゃるとおりかもしれません」と私は言いました。
 私はここに残り、今の瞬間を――桟橋のあかりが点燈するのを――待っておりました。先ほども申し上げましたが、楽しみを求めてこの桟橋に集まってきた人々が、点燈の瞬間に大きな歓声をあげました。その様子を見ておりますと、あの男の言葉の正しさが実感されます。
 たしかに、多くの人々にとりまして、夕方は一日でいちばん楽しめる時間なのかもしれません。では、後ろを振り向いてばかりいるのをやめ、もっと前向きになって、残された時間を最大限楽しめという男の忠告にも、同様の真実が含まれているのでしょうか。(本文から)

 『浮世の画家』で超一流の絵師だったはずの主人公を描いたイシグロさん。物語はその彼が抱く「悔恨」の念を軸に紡がれて行きます。まるでメトロノームでテンポを測りながら書いたように、冷静で崩れることのない文章。戦後の日本をここまで微細に英語で描き上げた作品があったことに驚かされました。一方で、イシグロ・ワールドがこの作品で一つのスタイルを確立したことが読み取れます。ここを起点にして、The Remains of the Day や The Unconsoled や When We Were Orphans が造り出されて行ったたのだな、というのがよく解りま
す。後の作品に較べると少し小ぶりなところはありますが、何かのエキスパートである主人公が心の中にある小さな塊に胸を痛めることでストーリーが展開して行きながら、背景に時代、社会、民族といった問題が大写しに現れ出でる、という構図はこの作品でも見事です。

ミュージシャンになりたかったイシグロさんが、ひょんなことから作家になって、最初に書いた二つの作品が日本を舞台ものにていた、ということに大きな親近感を抱いた私でした。

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2009年6月27日 (土)

私の大好きな作品~『気くばりのすすめ』

Kennji  鈴木建二氏をご存知でしょうか?元NHKエグゼクティブアナウンサー(理事待遇)。1988年、定年退職。「目線」を造語したことで知られます。兄は映画監督の鈴木清順氏です。

 何故私が鈴木さんが好きなのか・・・今で言うと久米宏さんや古舘伊知郎さんのような存在といえばいいのでしょうか。非常に頭がよく、頭も切れて、笑いのセンスもある、まさに理想的な存在です。その鈴木さんが大分以前、書かれた本なのですが、今でも多くの人に読まれている『気くばりのすすめ』と言う作品です。

 コミュニケーションをとる上で大切なことの一つである"気くばり(思いやり)"。本書では、著者自身の経験、会社、家族などのシチュエーションから、気くばりとはどのようなことかや、人間関係を円滑にするためのヒントが具体的に書かれています。

書かれている内容はすぐに実践できるものも多く、ちょっとしたことから自分を変えたい、"あの人"との距離を縮めたいを考えている方には是非読んでいただきたい本です。

 「母と父が愛を絆として結ばれたおかげでこの世に誕生して以来、人生の全ては出会いによって編み上げられていく」・・・気くばりのバックボーンに"感謝"や"敬意"を感じませんか?

 「人間的価値というものは、平凡な事柄の連続である日常生活の中で学び取られるものであって、その集積がその人間の全人格をあらわすのである」・・・習慣こそ才能ですね。私はこれを"人生の大数の法則"と呼んでいます。

 「話をすることは人間関係をつくるもっとも重要な基本だが、話というと、しゃべることと錯覚していることが多い。話は話す人と聞く人がいてはじめて成立する行為なのである。そして、話すことよりも聞くことのほうが大切なのである。」・・・全ての人がとは思っていませ
んが、人ってどうしてこんなにお喋りなんでしょうか?それはさておき、何事も相手が必要なことを忘れてはいけません。
 
 「自分の気持ちを声の大きさで表現することは、かえって損することに気がつかないのである。」・・・こっそりと、ささやくように話すと相手はその話に重要さを感じ、特別な扱いを感じるそうです。これは使えそうです。

 「拶の"挨"という字は、「開く」という意味であり、"拶"は「迫る」という意味だ。つまり挨拶というのは、「心を開いて相手に迫る」ことなのである」。・・・なぜ挨拶を始めにするのか。その意味を理解できました。挨拶はコミュニケーションの中で一番大切なことだと思いまし
た。

このように、最近あまり使われなくなった言葉の一つに「気くばり」があります、この本を読んでいただければ分かりますが、日常生活における気の使い方、考え方がいかに大事であるかということが歴史などを例として面白く簡単な言葉で描かれています。中学生、高校生ぐらいの方からでも十分に楽しめると思うので是非、読んでもらいたいですね。

 鈴木さんは台本は決してスタジオには持ち込まず、すべて丸暗記していました。また、スタジオの入口で渡された台本は、3回目を通すだけで丸暗記できるという逸話も残されています。ただし、セリフについては、台本に書かれている記述のほかに、自分で取材した資料の検討を行い、推敲を重ねた上で、自分の言葉に置き換えて放送に臨んでいました。こうした姿勢は、「台本を見ながらそのまま放送する番組
ほど、視聴者にとってつまらないものは無く、アナウンサーとしてもプロとは言えない。また、他人の書いた台本に書かれた事は、たとえ完璧に調査したものであっても50パーセントの事実でしかなく、それに自分で調べた事実を加える事で100パーセント以上の事実にして、初めて自分の言葉で話す事が出来る。ましてや、何が起きるか分からない中継放送では、台本自体不要である」と言う持論によって導き出されたものでした。こうした芸当は「職人芸」と呼ばれ、「最後の職人アナウンサー」と言われたほどです。

 私も気配りできているかどうか、いつも気にかけているようで、なされていないと感じることが多いので、いつも気にかけていたいものです。

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2009年6月24日 (水)

私の好きな写真家~星野道夫編

 私は欲知らなかったのですが、星野さんの写真に癒される人が多いのに驚き、記事を書くことにしました。

1978年アラスカ大学の入試を受け、入試では、英語(英会話)の合格点には30点足りなかったのですが、学長に直談判して野生動物管理学部に入学。その後アラスカを中心にカリブーやグリズリーなど野生の動植物やそこで生活する人々の魅力的な写真を撮影しました。しかしアラスカ大学の方は結局中退してしまいました。1989年には『Alaska 極北・生命の地図』で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞しました。

 「シンラ」の記者によれば、事故の一週間ほど前、朝食時に一頭のクマが一行に気がついて近寄ってきたという。こういう時、普通、人が大声を上げたりすればクマはHosino003逃げていくのだが、このクマはいくらそうしても怯まず、石を投げてようやく追い払ったそうだ。 そのクマがやっと立ち去るとき、星野さんは 「イヤな奴だな。」とつぶやいたといいいます。
 クリル湖畔はマッキンレーほど人は多く入らないだろうが、研究者などが寝泊まりするロッジも数ヶ所あり、ここのクマはかなり人に慣れていたようでした。
 イヤな感じがあったにもかかわらず、ロッジではなくテントで寝ていたのは、集団での仕事で自分の空間が欲しかったからなのか。そしてどこかに、そばに人がいるという安心感があったからなのか。
 アラスカで、しかもいつものように単独であったならば、こんなことにはならなかっただろうに。

 星野さんの親友が語って下さいました。

 「新聞や雑誌にも意外にたくさん取り上げられていたので知っているかもしれないが、今年の8月、カムチャッカ半島のクリル湖畔でテレビ番組の取材中にヒグマに襲われて亡くなった。夜、テレビの他のスタッフは小屋で寝ていたのだが、彼だけは小屋のすぐそばに自分用のテントを張って眠っていて、そこを襲われた。最初、この事を新聞で読んだ時、信じられなかった。写真集を出すほどアラスカで多くのグリズリーを撮り、クマの行動については熟知していたはずの人がなぜ襲われたのか。「サケが川を上る時期は、エサが豊富だから人を襲うような事はない。」とテレビのスタッフに言っていたそうですだが、その判断が甘かったのでしょうか。
 僕が最初に星野道夫を知ったのは栄の丸善で見つけたWWFのカレンダーだった。確か1989年のカレンダーだったと思う。そこには雪を戴いたマッキンレー山をバックにどこまでも続く草紅葉の原野にたたずむムースや、ワタスゲの穂が逆光に輝く草原に群れるカリブーなどアラスカの野性動物の姿があった。僕はスケールの大きい、しかも悲しげな 詩情のあるそれらの写真にすっかり魅せられて、3年ほど続けて星野道夫のWWFのカレンダーを買った。どの写真にも突き放すような厳しく、人間のことなど歯牙にもかけない雄大なアラスカの自然が写しとられていた。

 最近は西表島やらバリ島やら、南の島も大好きになってしまったが、もともと僕は北方指向で、学生時代は東北や北海道など北の山ばかり登っていた。その延長上にあるアラスカは、一番近い氷河の見られる場所(当時はソ連なんて行けるHosino001 所とは思っていなかった)として僕の長きにわたる憧れの地であった。
 その夢がかなったのは結婚して4年目の1986年のことだった。まだ「地球の歩き方」のアラスカ版なんてないころで、旅行会社でアメリカのドライブマップである「MILE POST」をコピーさせてもらって持って行った。レンタカーを借り、キャン場にテントを張りながら約一週間、アンカレッジ周辺やデナリ(インディアンの言葉で“偉大なる者”の意味でマッキンレー山を指す)国立公園などを巡った。その時の事を思い出すと本当に夢のようで、ろくに英語をしゃべれもしないくせによく行ったなと思う。

 アラスカの8月はもう秋の入り口で予想よりもずっと寒く、ハイウェイの両側に何処までも続くピンク色のヤナギランの花が移り行く季節を象徴していた。楽しみにしていたアンカレッジ南のポーテージ氷河では、氷河の割れ目の神秘的なブルーを実際に見ることができ感動したが、冷たい雨に打たれて長居はできなかった。天気はずっとはっきりせず、何度もにわか雨に降られ、何度も虹を見た。3日間いたデナリでもマッキンレーの山頂が見えたのはほんのわずかだったが、マッキンレーではその前々年、植村直己が冬季単独登頂後 に遭難していたこともあって、白い山容がはるか原野の上に浮かび上がったとき少々ジンと来た。

 アラスカは本当に広大だ。野性動物もたくさんいるのだがあまりにも広すぎて目立たない。最も目についた哺乳類は車にはねられてハイウェイに横たわるジリスかもしれない。ムースも見たかったのだが、とうとう一度も目にすることはなかった。国立公園内ではシャトルバスのすぐ近くにグリズリーが何度も出てきて驚かされたが、かえってサファリパークみたいで感動が少なかった。むしろ谷を隔てた遙か遠くに、ゴマ粒のようなグリズリーが2、3頭ゆっくりと歩いていくのを見た時のほうがアラスカの広さが感じられ、 
  「本物のグリズリーだ。」という気がした。

 あのアラスカ行きはわずか一週間ではあったが僕にとっては本当に大きな旅で、その後数ヶ月はボーッとしていた。星野道夫のカレンダーはそのときの厳しく大きなアラスカの自然を思い出させてくれた。そしてちょうどその頃、小説新潮の臨時増刊というかたちで「マザー・ネイチャーズ」というグラフィック雑誌が発行され、そのなかでまた星野道夫の写真に出会うことができた。その雑誌には毎号と言っていいほど彼の写真が掲載されていたし、第2号からは「イニュニック(エスキモーの言葉で「いのち」の意味)」と題してアラスカの生活を綴った文章も書き始めていた。とくにうまいとは思わなかったが、アラスカの自然や、アラスカの人々に対する彼の愛情がひしひした伝わってくる文章だった。
 

 僕の手元には5号までしかないので「マザー・ネイチャーズ」がいつまで続いたかは知らないけれど、1994年1月からは月刊誌「シンラ」に引き継がれた。最初は後継誌とは知らず、女房が買ってきたものを「昔あったマザー・ネイチャーズによく似ているが、あっちの
ほうが良かったな。」などと言いながら読んでいた。自然指向の雑誌「シンラ」は今では僕の愛読誌になっているが、読み続けるきっかけになったのは池澤夏樹氏の「ハワイイ紀行」という連載のせいだった。彼は「マザー・ネイチャーズ」の創刊号にも文を書いていたのだが、そのころのはちっとも記憶に残っていなくて、「ハワイイ紀行」ではじめてその情景描写の的確さに魅せられた。あとから彼が埼玉大学の物理学科を中退していることを知り、その描写が理科系のセンスによるものだと納得した。

 「ハワイイ紀行」以後、彼の作品を拾い読みしていたのだが、「南Hosino002 鳥島特別航路」という文庫本で僕はもっと前に池澤氏に出会っていた事を知らされ驚いてしまった。この本1989年から90年にかけて、日本交通公社発行の雑誌「旅」に連載されていた記事を集めたもの で、その中の五島列島の章は確かに読んだ覚えがあった。普通の紀行文と少々毛色が変わっていて、火山性の五島列島の成り立ちや波に削られた断崖の地層の描写など、随分専門的だなと感じ、記憶に残っていたのだった。(この機会に本棚を探したら、このときの「旅」が出てきた。1989年1月号だった。)
 

 星野道夫の「イニュニック」も「シンラ」創刊2年目の1995年1月号から「ノーザンライツ(北半球のオーロラのこと)」として連載が再開された。連載は彼の死によって中断されてしまったのだが、「シンラ」10月号に星野道夫レクイエムとして池澤氏が追悼文を書いている。星野と池澤の結びつきは、おそらく「マザー・ネイチャーズ」の頃から雑誌を介して始まったのではないかと思うが、その追悼文の中で、星野道夫がアラスカへ定住することになったきっかけについて、びっくりするような事を書いていた。
 

 星野道夫とアラスカの関わりの一番の始まりは、神田の古本屋で見つけたアラスカの本に載っていたエスキモーの村の空撮写真に魅せられ、19歳の時にその村へ行き、一夏を過ごしたことであることは、彼の著書「アラスカ、光と風」で知っていた。しかし、すっかりアラスカに行ってしまうきっかけになったのは、中学以来の親友が山で死んだことだったと言うのだ。
 

 星野がTと書いている友人は1974年の夏、妙高連山の焼山の頂上付近でキャンプしているときに、10年以上活動の無かったこの火山の突然の噴火に巻き込まれ、仲間の2人と共に亡くなっている。そして、この時亡くなった3人は僕の大学の同じ学科の3年先輩にあたる。
 僕が千葉大に入学したころ、松戸の園芸学部の食堂の前に三本のベニバナトチノキが植わっていて、誰かから登山中に亡くなった先輩がいる事を聞いた。 そのトチノキは同級生が植えた追悼の記念樹だという。その木はおそらく僕が入学する前年か前々年に植えられたもので、その名のとおり、薄紅色の花がまだ薄くて柔らかい黄緑色の葉陰に揺れていた。
 

 入学後、山登りを始めていた僕に、山で死ぬということを目に見Hosino004 える形で表していたその トチノキを、いつも僕は特別な想いで見ていた。当時珍しかったその花の写真を撮った記憶があったので、学生時代の古いアルバムを探してみたら、少々色褪せてはいたけれど、確かにあのマロニエの写真が残っていた。
 池澤夏樹の追悼文を読むと、星野道夫がアラスカの自然と同じように、ヒグマに対しても愛情を持ち、そして良く知っていたのが分かる。
 星野はアラスカのクマのなかで最も危険なのは、国立公園にいるクマだという。大勢の観光客が訪れる国立公園では、本来、クマが人間に対して自然に保つ距離が取れない状況になってしまっている。人間との距離感が麻痺してしまっているクマとの遭遇は事故が起こりやすいというのだ。

 池澤氏は書います。
 「彼は基本的に銃を持たない。銃をもつと銃に頼りすぎて、動物と対面する場面で必要な緊張感を失い、不用意な行動をしてしまう。その方が問題だと考えていた。グリズリーと何度も関わって、そのたびにグリズリーがその時々きちんと的確に自分の感情を表現するのを読みとっている。だから手の中に銃があるばかりに、脅威でもないものを脅威と妄想して撃ってしまう方を恐れた。クマを軽んずるのではない。クマに対して必要にして充分なだけの畏怖の念が彼にはあったのだ。」

 

 「シンラ」の記者によれば、事故の一週間ほど前、朝食時に一頭のクマが一行に気がついて近寄ってきたという。こういう時、普通、人が大声を上げたりすればクマは逃げていくのだが、このクマはいくらそうしても怯まず、石を投げてようやく追い払ったそうだ。 そのクマがやっと立ち去るとき、星野は「イヤな奴だな。」とつぶやいたという。
 クリル湖畔はマッキンレーほど人は多く入らないだろうが、研究者などが寝泊まりするロッジも数ヶ所あり、ここのクマはかなり人に慣れていたようだ。イヤな感じがあったにもかかわらず、ロッジではなくテントで寝ていたのは、集団での仕事で自分の空間が欲しかったからなのか。そしてどこかに、そばに人がいるという安心感があったからなのか。アラスカで、しかもいつものように単独であったならば、こんなことにはならなかっただろうに。
 

 植村直己が遭難したときにもまさかと思った。彼は本当に用意周到な人で、南極点への犬ぞりによる単独到達が夢で、エスキモーから犬ぞり操縦の技術を習い、予行演習として犬ぞりによる単独北極点到達とグリーンランド縦断までなし遂げてしまった。あんな用心深い、忍耐強い人が遭難死するとは思ってもみなかった。
 そして、あんなにクマのことを良く知っていた星野道夫がヒグマに襲われて亡くなるとは。自然相手に絶対ということは無いと分かっていても。『アラスカに、カリブーやムースやクマやクジラと一緒に星野道夫がいるということが、ぼくの自然観の支えだった。
 彼はもういない。僕たちはこの事実に慣れなければならない。残った者にできるのは、彼の写真を見ること、文章を読むこと、彼の考えをもっと深く知ること。彼の人柄を忘れないこと。それだけだ。』

 星野道夫の死は、今年の夏、僕にとってほんとに衝撃的な出来事だった。僕にとっての星野道夫の死の意味を整理しておかないと、どうにも落ちつかない感じだった。今思えば、僕のあのアラスカ旅行は夢を叶えるために努力ができた最後の旅だったような気がする。歳をとるに従って夢などという青臭い一途な憧れを持ち続けるなんて気恥ずかしくなってしまうし、若さ故の漠然とした不安といったものも日々の生活のなかで擦り切れてしまった。
 アラスカは僕にとっては、そんな忘れてしまいがちになる感情を思い出させてくれるものだった。そのアラスカへの想いを星野道夫がいでいてくれた。
 星野道夫が亡くなり、もう彼の写真や文章によって、心のアルバムにアラスカのページが増えることは無くなってしまった。そろそろこのアルバムを本棚に納める時期かもしれない。」と。

 もうすぐ星野さんの一周忌がやって来ます。長かったような、早かったような。それにしても、その著書を通してしか知らない男の死を、単なる一読者でしかないはずの自分がなぜこうも悼み続けるか。今までこのような経験はなかったのに。これこそたぶん、星野さんの言葉が持つ力なのだと思います。彼の文章の中にはいつでも優しい笑顔をした等身大の男の姿が見ええます。ひどく近しい場所、まるですぐそばに彼が立っているように。勿論、星野氏は写真家であり、彼の写真集はどれも見る者に深く感銘を与えずにはおかないのだけれど、それでも、写真しか見たことがなかったならば、それほど影響はなかったと思う。写真もすばらしいけれど、それと同じくらいに大きいのは、やはり彼の言葉の力なのです。

 星野さんの文章は非常に平易です。本当にやさしくわかりやすのです。漢字さえ知っていれば子供にだってそれなりに読めるでしょう。もっと言ってしまえば、今時、普通なら恥ずかしくてとても書けないだろうと思うくらい純真純情な言葉が並んでます。汚れたものが何もないのです。誰にもとても真似などできないくらい。もし他の誰かがこんな文章を書いていたら、読者は赤面するか胡散臭そうに放り投げるに決まっています。にもかかわらず、星野さんという男性の書いた文章だから、それは非常に力強く深みがあって、真実なのす。結局、信用ということなのでしょうか。大自然を相手にしながら、美辞麗句を使用して大言壮語するわけではない、非常にささやかな感想を何となくはにかみながらぼそぼそと漏らしているような、そういう男が書く文章なら信用できないわけがないと思うのです。

 変わりゆく自然を、過ぎ去った歴史を、年老いあるいは若くして亡くなってゆく人々を、惜しみながらも、常に現在という瞬間を肯定してゆく生命の力、軽やかで明るいオプティミズム、そのような人生に対する彼の態度もまた、その言葉に力を与Hosino005 え輝きを添えている・・・
変わりゆく悲しみは年老いてゆく悲しみと共通していますね。しかし決して変化と老いとを否定はしません。むしろ積極的に肯定してゆこうとします。その上で、しかもなお、変わらずに守ってゆかなければいけないものは何か見据えようとしています。そのため、星野さんは見る者、見守る者なのですね。長い長い時間をかけて。熊が冬眠から目覚め活動する瞬間を見るために、何日も待ち続ける。あるいはカリブーの季節移動を一カ所で待ち続ける。いつ通るかも知れない、もしかしたら通らないかも知れないのに。ただ待つだけの日々。それだけの余裕が彼にはある。彼は決して性急に結果を求めはしない、答えを出そうとはしない・・・

『混沌とした時代の中で、人間が抱えるさまざまな問題をつきつめてゆくと、私達はある無力感におそわれる。それは正しいひとつの答が見つからないからである。が、こうも思うのだ。正しい答など初めから存在しないのだと……。そう考えると少しホッとする。正しい答をださなくてもよいというのは、なぜかホッとするものだ。しかし、正しい答は見つからなくとも、その時代、時代で、より良い方向を模索してゆく責任はあるのだ。』

『「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。』(『旅をする木』)

 星野さんの眼差しはとても優しい。それはおそらく、結果を重視し最優先する社会を離れてしまった者の眼差しだからでしょう。

ふと思うのです。そもそも、時間には結果など無い。時間には、延々と過ぎ去って行く、その流れだけがあるのだと。生きていることとは、過ぎ去り続けることで、結果を出すことではないのだと。星野さんは「時の流れを観照し続けた人」なのだと思います。彼のことを思う時、人の一生の短さが、何千年何万年という比較しようもない時間の流れに対して直に繋がっている、そのことをいつも再確認させられる気がしました。

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2009年6月23日 (火)

私の好きな作品~『町長選挙』

 伊良部一郎医師の人気シリーズ第3弾。残念ながらまだ文庫化されていませんが、人気ぶりからして時間の問題でしょう。本書は従来のテイストに加え、話題性と社会性を盛り込んでおり、伊良部医師もいよいよ表舞台にご登場かという印象を強く与えてくれました。某新聞社の会長兼球団オーナーの威厳ぶりや時代の風雲児と呼ばれた某社社長の人哲学などを描いた「オーナー」や「アンポンマン」といった作品は、懐かしい感慨めいた雰囲気に満ちていました。「カリスマ稼業」もおそらく同様ででしょう。

 話題性を優先する大衆メディアは報道内容が偏重し、十分なRock031 論議や総括をすることなく、次なる話題に飛びつき読者の関心を巧みに誘導する効能を有しています。むろんメディアのみの責任ではありませんが、メディアの作用は実に大きいですよね。かつての某IT企業による球団獲得・その後のラジオ放送社買収騒動事件は多くの人にとってすでに「過去のもの」として記憶されているでしょう。「時価総額世界一」と豪語された人生哲学も今では嘲笑の対象とみなされているのかもしれません。本書はいずれもそうした主題を「過去の話題」としてではなく、そこに潜む人間の深層心理とともにヘビーな作風というよりは新鮮な趣をもった内容として再生されてくれているような気がしました。

 本書は表題の「町長選挙」の他に「オーナー」「アンポンマン」「カリスマ稼業」という4つの作品が収録されています。

 『オーナー』は京グレートパワーズ(読売ジャイアンツ)のオーナーである、大日本新聞(読売新聞)社長の田辺満雄(渡辺恒雄)は新聞社の社長というだけでなく政財界に幅広く影響力を持っています。自身がマスコミの社長ではあるもですが、マスコミに諂うことを嫌い、1リーグ制導入を容認する発言で選手会およびファンにも嫌われていました。ナベマンというどっかの料亭のよーな渾名を付けられ連日マスコミの取材攻勢に合っていましたが、ある日突如として暗闇が怖くなってしまったのです。

 医者に見てもらうことを決めたナベマンは知り合いの日本医師会の委員長でもある伊良部総合病院の医院長に連絡を取り付けます。

てっきり自分のレベルなら自宅まで往診してくれるものと信じて疑 わなかったのですが、「いやだよーん」と拒否されてしまところなどとてもおかしいです。普通なら通院などありえないのですが、外出先の通り沿いに伊良部総合病院があったため顔を出してみることにしてしまいました。伊良部の元を訪れたナベマンは伊良部が自分に敬意を示さないどころか、命令口調で問診をすることに立腹していました。更に「例の」マユミちゃんの「とりあえず注射」を不覚にも打たれてしまいます。
 当然のように伊良部に憤りを覚えたナベマンはパニック障害を忘れようと努力あしますが症状は更に悪化してしまいます。そして、旧知の会社社長の退任パーティに参加した際、会場で伊良部の姿を見かけます。伊良部は大勢の前で「パニック障害、なおった?」とわけのわからないことをごちてナベマンをあたふたさせますが、パーティの帰り取材にあった際、またもやパニック障害に・・・
果たしてナベマンは病気を治せるのか?エンディング付近はいつの間にか「イイ話し」になっているところがさすがです。

 『アンポンマン』は、ITベンチャー企業ライブファスト(ライブドア)社長の安保貴明(堀江貴文)は今や飛ぶ鳥を落とす勢いでその事業を拡大しており、テレビでその姿を見ない日はありませんでした。安保貴明という名前より、世間的にはアンポンマン(ホリエモン)という呼び名が浸透しています。そんな安保は「稼いで悪いか?( 稼ぐが勝ち )」のサイン会でひらがなの「ま」が書けない自分に気づきます。秘書の美由紀(乙部綾子)は字が出てこない安保の様子を以前にも見ており一度治療を受けるように勧めていました。

 美由紀の進言もあり、安保は伊良部総合病院に出向きました。キーボードがなければひらがなさえも書けなくなった安保への伊良部の診断は若年性アルツハイマー。IT業界の寵児とも呼ばれるアンポンマンは診断内容を甘受できるわけもありませんRock184。非生産的な作業は安保は最も不快視するため、ひらがながかけなくても何の問題もないと判断し、業務を続けるが公開討論テレビ番組に参加しても文字が浮かばない安保。状況はますます悪化していくのです・・・そして治療のため(?)に伊良部が安保を連れて行ったところは・・・最後にキチンとアンポンマンが自信を取り戻すのはこのシリーズの定番なのですが、ホリエモンの現況を考慮すると今となっては、ある意味自信を取り戻さない方がよかったのかも・・・と思ってしまいます。

 『カリスマ稼業』は悪く、マネージャーの久美に精神安定剤を貰うように依頼しました。久美はバンド仲間で精神科の看護婦を務めている友人がいるので貰ってくることにしましたが、その友人こそがなんとマユミちゃんなのです。久美はクスリを貰ってくるため伊良部総合病院にいったのですが、注射を打たれて帰って来てしまいました。自然体が売りの白木でしたが、寝付けないのと同時に最近痩せなくてはいけないという強迫観念に囚われていました。
 午前中人前で過食気味に食べたお菓子を消化すべくどこか運動できるところを探していました。そしてたどり着いたのが伊良部総合病院だったのです。
 

 白木は早速エクセサイズマシンを病院内で組み立て運動を開始。普通なら「何やってるの?」というところですが、伊良部はこともあろうにそのマシンを白木から取り上げて自分で運動しはじめてしまいます。伊良部に暴言を吐いて病院を辞した白木でしたが、ふと我に返ると自分でも精神的におかしいなあと思い始めていました。
 

 数日後、白木に熱血大陸( 情熱大陸 )の取材が舞い込んできます。自然体であることを見せようとした白木だったが、ひょんなことから伊良部総合病院の精神科に通っていることがばれてしまいます。白木は次回の役作りのためと取り繕ったが是非とも取材したいとのオファーを断りきることができず、撮影クルーと一緒に伊良部の元を訪れてしまったのです・・・
 このラストもなかなか秀逸です。白木もこれで肩の荷が下りたことでしょう。でも、伊良部の功績というよりもマユミちゃんの活躍じゃないのでしょうか?・・・

 そして『町長選挙』です。この作品だけは有名人が出てきません。東京から数時間かけて船を乗り継いでやっとたどり着く離島、千寿島。
 ここでは小倉と八木という農業と土建屋という二者が有力者であり、日々熾烈な戦いが繰り広げられていました。その千寿島に東京都の職員として就職した宮崎は離島研修ということで赴任してきました。
 千寿島では町長選挙の真っ只中であり、役場でもその話題で持ちきりです。この島では小倉か八木かどちらについているかによってその後の待遇も変わってくるといいます。

 宮崎もその例に洩れず、両陣営からどちらにつくのかはっきりしろと言われ困惑気味。
そこに、父の意向(と見栄)により2ヶ月間千寿島に赴任することになった伊良部と日給3万円で離島赴任を受け入れることになった、マユミちゃんがやってきます。小倉、八木両派は伊良部の父が医学会での重鎮であることを知り、実弾(賄賂)攻撃に走ります。
 

 宮崎も両陣営から実弾を掴まされ、悩んでいましたがが、貰えるものは貰っちゃえという伊良部の発言に少なからず心が揺れるのです。
 前回の選挙結果は5票差という僅差だったため、小倉・八木も死に物狂いでした。選挙で重要となる浮動票として両者で読めていないのは島に住む老人達でした。千寿島の老人達はしたたかで「自分達に最終的に利益をもたらす公約を掲げる方に投票する」と最後までどちらに着くか表明していませんでした。

一方老人の心を最も掴んでいたのは、実は伊良部でした。伊良部Rock179 は病院で特に治療をするわけでもなく、老人達の話し相手になっていただけででしたが、それが老人達には嬉しかったようなのです。小倉、八木達は老人達の浮動票を確保すべく、更に伊良部に接触を図ります。ヒートアップした島を伊良部は治療できるのか・・・

 伊良部と時の人達の会話も想像していてかなり可笑しかったのですが、やはり表題の町長選挙のノリが本来の伊良部なのかなと思いました。
 しかし、伊良部一郎の産みの親、奥田英朗は凄いですね。このキャラをどう見せるかというところにかなり神経を割いているのではないでしょうか?伊良部は既に奥田英朗の机の上から飛び出して一人歩きを始めているように思います。
 全編一話完結のお話しなので、今まで「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」を読んでいなかった人でもこの「町長選挙」から読んでみても全く問題ないです。ホントにおかしな精神科医の登場ですね。

 私、伊良部先生のキャラ、大好きです。

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2009年6月22日 (月)

私のやや好きな作品たち~池澤 夏樹編

Kaii12 両親(原條あき子と福永武彦)の間に、疎開先の帯広で誕生ししました。これは存じませんでしたが、また同郷の作家現るです。そして『スティルライフ』で芥川賞を受賞しました。この作品を読むと村上春樹氏の初期の作品を思い出してしまうのは私だけでしょうか・・・

 バーのシーンでチェレンコフ光の話が出てくるのですが、これはちょっと出すのが早すぎると思いました。春樹氏なら、作品の虚構性を読み手に十分アピールしてから、このような話を切り出すでしょう、おそらく。しかし、池澤さんは唐突にこんな話を始めているように思えてなりません。ここで読み手の気を惹こうという戦略なのかもしれませんが、少なくとも私は戸惑うだけでした。
 

 それでも文章は整っているし、ストーリー展開も自然ではあるので、おおらかな心で読み続けることにしましたが・・・
 しばらくは詩的な表現を散りばめた文章が続いていたのだが、途中で「ぼく」が佐々井の株の売買を手伝うようになってから、いきなり話が泥臭くなって、文章のトーンも変わってしまっていますね。前半までの張り詰めたような透明感が、ここへ来て一気に下世話になってしまっているのは、非常に残念に思いました。そして2000年9月に刊行された池澤夏樹氏の『すばらしい新世界』は、環境と現代社会、ボランティアのあり方、サステイナブルなテクノロジー、そして、人の生き甲斐、といった現在、もっとも注目されるべきテーマが、静かに淡々と描かれていて、まさに‘現在の小説’だと感じることができました。そこで象徴的に描かれているのが、本の表紙にもなっている風力発電の風車だ。風力発電の技術者である主人公が、NGOの依頼で小型の風力発電機を開発しネパールの奥地に赴き、そして、その体験が徐々にサラリーマン技術者の内面を徐々に変えていく・・。静かな語り口の中にも、しっかりと現在の社会と向き合おう、という作者の姿勢が感じられた。芥川賞を受賞したかっての代表作でもある『スティル・ライフ』とは、ずいぶん作風が変化しています。また、久々に発

 表された小説でもありました。この間、池澤氏の中に何が起きていたのでしょうか。

 「英語で言うと、かつて僕の基本姿勢は、脱離だったと思います。一歩Higasiyama001 離れる。渦中から身を引いて、外に身を置く。『スティル・ライフ』はまさに、一歩外に出る話でした。僕は、どうしてもあの話からしか始められなかった。現代の日本に対する違和感というか、居心地の悪さが強くて、自分は典型的な現代日本人ではないだろうと考えていた。ちょっとずれた置にいて、ちょっとすねている、そっぽを向いて
いる。ところが、それからほぼ10年近くたって、そろそろすねていられなくなった。理由の一つは、 『楽しい終末』(93年・文藝春秋刊)を書いて、世の中全体に蔓延している悲観論、終末論を一つ一つ検証していったこと。その途中から、僕自身、これは希望の不足している時代だ、と感じていた。

 しかし、それに対して安易な希望を安売りしてもしょうがない。「誠実に見ていく限り、あまり希望はない」というこを『楽しい終末』で突き詰めて書いたら、次の話を非常に書きにくくなってしまった。つまり、「明るい未来はそう簡単には見つからない」と話を書いた以上は、そうそう明るい未来の話は書けない。かといって、小説や文学というのは、基本的に希望で書くものだ。

 なんらかの希望が必要。そうすると、自縄自縛の状態になって、言ってみれば作家としてフリーズしてしまったというところ。で、そこからどう抜け出そうかと、安直でない出口を探して、とりあえず、ずっと旅を続けた。沖縄に引っ越しをしたというのもその一
で、移動してみる、違うものを見る、それから、やっぱり普通に暮らしている人たちを見る。『楽しい終末』の最後は、「絶望ではない、待つしかないじゃないか。事態が良くなるのを待つしかない。その、待つという姿勢において、生きるということがあるんじゃないか」
と考えた。あの本の最後で『ゴドーを待ちながら』を引いたのはその為だった。で、待ちながら何をしたかというと、そんなに終末論にとらわれずに、普通に、どちらかといえば、慎ましく生きている人たちを見る。そういう旅をした、と思う。この長い旅の中から二つの話が出てきて、一つは『花を運ぶ妹』(文藝春秋刊)。これは、昔僕が書いたものと同じように、南の方の島を舞台にして、そこで本当の絶望と絶望の底で、いかなる神かわからないけど、とりあえず心を祈りの姿勢に持ち込むこと、その先に救いがあらわれるかどうか・・そんな話を書いた。もう一つが『すばらしい新世界』だった。」と言います。

 『素晴らしい世界』は、池澤氏らしく、物語は沖縄で始まり北海Kaii007 道で終わります。その間はネパール奥地のナムリン王国が舞台。風力発電技師の林太郎がナムリンの風を灌漑エネルギーに変えるためにネパールに出張します。これがカジマヤー(琉球語で風車)計画。
 といってもプロジェクトX"ヒマヤラの奥地に風車が回った"篇というわけではなく、物語はもっぱら林太郎と妻アユミとのメールのやりとりで、"現代の諸相についての二人の考え"が語られる展開です。例えば、「ボランティア・NPOと企業」であり、「インテリ世代の子育て」であり、「チベット仏教」などについてです。
 一つの夢のあるプロジェクトを縦軸に、異国でのエピソードをきっかけとした思索が横軸に交差して、爽快感とともに物語を読み終え
ことができました。池澤氏の物事を見る眼に今回は共感できた気がしました。

 『きみが住む星』は、世界を旅する主人公が離れ離れになって待っている恋人に各地から送る手紙と写真という形式で書かれています。
手紙なので短い文章です。淡々としてるけど、時々恋人に対する気持ちがちらりとのぞくところがロマンティックです。
世界を旅する。そういう雰囲気がいいですね。といっても、世界各地の名所が登場するわけでもなくて主人公の詳しい説明も舞台の設定の説明もなく毎回幻想的な話になっています。
 花を踏まないように歩く馬の話。ある国の風習で一生に一度は誰もが外国に行く国。旅立って、2週間で戻る人もいれば、何年か行く人もいる、一生戻らない人もいる。そんな摩訶不思議な話です。

 

『きみのためのバラ』は、8編が収められたこの短編集は言葉の持つ癒しの力への信頼と期待が交錯する作品集であると思います。

『レシタションのはじまり』は、アマゾン奥地のジャングルで出会った原住民達の不思議な呪術の物語。意味はわからなくとも聞くだけで癒されるその言葉。重要なのは、意味がわからなくても効果はあるのですが、動物には効果がないこと。つまり、何かしらの意味を相手が伝えようとしていることを解する者であれば、その言葉は限りない癒しの効果を持つのです。意味が伝わることではなく、伝えようとすることに意味があるんですね。それは、表題作の『きみのためのバラ』でも同じで、主人公は、メキシコであった女性にほとんどゃべれないスペイン語をもどかしく思いながらも、一言だけ「君のためのバラ」と言って花を渡す。伝わらない気持ちを伝えようとする行為、それ自体に
意味があるのです。

『都市生活』『ヘルシンキ』『20マイル四方で唯一のコーヒー豆』では、いずれも登場人物はほとんど見ず知らずの初対面の相手にきわめてプライベートな告白を一人語りのように語ります。語ることで癒され、そしてそれを聞く者も、聞くことで癒されてゆく。そして、その
物語を読む私も、少しだけ癒された気分になりました。

  『花を運ぶ妹』・・・イラストレーターとして世間に認められている兄・哲郎。一年の半分を旅で過し、インスピレーションの源にし始めた哲郎はヘロイン中毒に転落していく。バリでおとり捜査に引っかかり、人権もないような留置所へ。ルボンヌに留学し、語学を生かし
てテレビクルーのコーディネートや通訳をしている妹・カヲル。兄を助けるために妹はバリへ飛ぶ。彼女も23歳で、どうしていいかわからないまま。哲郎とカヲルのそれぞれを交互に語りながら哲郎の旅の話、彼を救い出そうとするカヲルを追っていきます。
 それぞれのシーンで書き込まれる世界情勢や、アジアや欧米への思索、絵画や美学、

 生や死の哲学は読み応えがあります。
 物語の根底には、西欧とアジアの違いを浮かび上がらせようとする意図があります。現在は欧米がアジアを「理解する」という、ヨーロッパ優位の姿勢ばかりが目立ちますが、これからはアジアが欧米を「理解する」時代になってくると示唆しています。そこには哲学さえも含まれます。池澤夏樹の一文にそれが現れている。

  あるいは、ここのデーヴァターを世界唯一の美と認めて
  他のすべての美を捨てる。マルローはあのままパリを
  捨ててここに住めばよかった。しかし彼は西洋人だから
  捨てることを知らなかった。(431ページ)

 兄と妹の物語はそれぞれが、自分と家族、世の中との距離や、生活、人生を取り戻す癒しの物語になっています。
 単純なバリ礼賛、アジア礼賛ではなく、欧米の価値観とただ相容れないだけ。どちらが優れいているということではありません。

こういう誤解を招かないのも、池澤哲学の優れているところと思います。

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2009年6月21日 (日)

私の好きな作品たち~太宰治編その②

 先々週の土曜日に大様のブランチのBOOKコーナーで太宰大先生の企画があり、つい、引き込まれて観てしまいました。それによると、太宰氏は短編や明るい話題の本がまだまだあるということで、紹介されていました。ほほうと思いましたが、希望を持ちたくて氏の作品を選ぶ方は少ないと思うのですね。でも決して絶望の淵にいる人が読んで生きる気力が無くなる作品ではなく、その微妙なところがなんとも美しいんです。

 『もの思う葦』は初めて読んだ時は太宰らしさがないと思いましたKaii011_2 が、今、改めて読むと、太宰氏の、弱さを美学とする精神が好きで、それは受け入れられるものではないのかもしれないし、 弱さで食べてはいけないし、誰も守ることすら出来ないかもしれないけれど彼の文学には、希望があると思えてきます。思ってはいたけれど、怖くて言えない、そう口の中で噛み潰していたものが、 氏の文章の中で堂々と訴えられている気がしました。 それにどんな慰めよりも、救われます。 太宰氏の精神が余すところなく収録されている一冊だと感じる事が出来ました。

 彼は至って明るく振舞っていました。どんな苦痛が胸の内にあろうとも。そういう子供時代を過ごし、作家になっても本当に津軽が好きだったと思わせる逸話が残っています。

 『津軽』が書かれたのが、育ての親越野たけとも30年ぶりに再会を果たした旅の後であることに注意すべきでしょう。。「私」はここで、「津軽人としての私をつかまうとする念願」で旅に出ながら、「生きかたの手本とすべき純粋の津軽人」を発見できなかった失望を語っていいます。「誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。」と言う「私」は、津軽の「現実」に、なによりも一方的に母と子の関係を仮構していた越野たけに失望していたに違いありません。そのことはもちろん、「私」の側の問題でしかなかったのですが。その結果、「とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。」と、津軽の「現実」を無視しているような言葉をさえ吐くようになるのでですが・・・
 旅の手帳に二度も繰り返して書いたという、「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」という言葉は、この作品の成り立ちを説明しています。津軽の「現実」から、「現実は決して人を信じさせる事が出来ない」という言葉が生
み出されたとすれば、「信じるところに現実はある」という言葉からは、作品『津軽』が生み出されたことになります。『津軽』は、「信じるところにある現実」として仮構された世界にほかならなかったのです。

 東郷克美氏は太宰氏の『晩年』『右大臣実朝』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』などを中心に、作者・太宰治が、「太宰治」という虚像を作り上げ、その虚像を演じていく様子が解き明かされているといいます。作者・太宰は「太宰治という物語」を仮構し、その仮構された「太宰治」を作者みずからの実生活が追いかけて行く。そのためには「現実世界で徹底的に敗北すること」が必要であったとして、著者は太宰の生い立ち(母の不在)や転向に現実世界での敗北を見出し、そのことが作品に与えている影響を解明しています。

 初期の「魚服記」「思ひ出」などが、それまでの作品とは別人のものであるようなのは、否定すべきものとされた「津軽的なるもの」が、転向によって容認され、そこに文学的源泉を求めようとしたからだとされる。「地主一代」「学生群」(昭和5年)から、「魚服記」「思ひ出」(昭和8年)への変貌に対して、これほど説得力のある説明を聞いたことがありません。
 しかし、この「津軽的なるもの」ももちろん仮構された世界であって、現実世界に訣別して仮構された世界に生きる、作家「太宰治」がこの本では追求されていくことになる。著者は国文学の研究者のようであるが、この本のあとがきで、「今でもどんな対象であれ、何らかのかたちでそれに私的なモチーフを仮託できるのでなければ、何も書けないたち」(292ページ)と述べているように、著者の問題意識がこの本を研究というスタイルに収まらないものとしており、そのことが読む者に感銘を与えているのだとおもいます。太宰治の作品を読み解こうとする者にとって、必読の書だといえる・・・こう語ります。

また、平野謙氏は太宰の文学と「時代の影響」について、次のようKaii002 に書いています。「太宰の三期がそれぞれ左翼崩壊の時代、戦争の時代、戦後惑乱の時代にそれぞれ対応すると、私は最初に書いたが、この時代の影響をやはり軽視すべきではないと思う。そのたぐいまれな生活喪失の文学が資性によるか環境によるか時代によるかは容易にさだめがたいが、前期の錯乱、中期の健全、後期の敗亡はそれぞれ時代の影響によつて、そのように顕現した、と思いたい。すぐれた芸術家は、すべて運命の子であると同時に時代の子ででもある。」

 それほど長くはない生涯なのに、こんな明確に区分できる時代を生きていたことが、何か幸せなことに思えてきます。でも、時代の影響だけだとしたら、太宰の文学は時代とともに滅んでしまったに違いないでしょう。

 太宰の作品が現在でも古びないのは、時代の影響と同時に、太宰の「資性」がその文学を支えているからではないでしょうか。だから、太宰の作品から「時代」だけを読み取っても、「資性」だけを読み取っても、太宰を理解したことにはならないのでしょう。

 『斜陽』や『人間失格』の背後には「戦後惑乱の時代」が、『津軽』や『お伽草紙』の背後には「戦争の時代」が横たわっているのと同時に、それらの作品を支えているのは太宰の強烈な「資性」であるような気がします。ところが、太宰が生きた時代から遠ざかるほど、「時代の子」としてよりも、「運命の子」としての側面が大きく見えてきます。太宰氏と同時代の者が感じていたようには、氏が生きた時代を感じることはできないとしても、「時代の子」としての側面が太宰の文学を支えていることも、忘れてはならないと思えます。
亀井勝一郎氏は、著者と太宰治との交友は、太宰が三鷹に引っ越してきた昭和14年からはじまり、戦後の昭和22年まで続いたといいいます。三鷹の太宰の住居は、著者の住む家から歩いて15分位のところにあったそうです。
この本は太宰の死(昭和23年)の直後から、15年の間に書かれたもので、身近にいた人特有のべっとりとした感じもなく、距離をおいて見た太宰の作品と人となりが記述されています。距離をおいて見た太宰の姿は、たとえば出自の問題として、次のように捉えられています。
「旧家には格式の高い、きびしい倫理の血が流れているが、同時にそれと矛盾して、濃い淫蕩の血も流れているものである。崩壊の感覚と抑制の意志と、この二つのものが互に戦いを挑み、そして傷つくのだが、太宰の作品に血痕のように刻印されているのは、この争闘の傷痕である。頽廃の子という自覚とともにあるきびしい倫理観念、或は「家」における秩序の観念を見のがすことは出来まい。」(「太宰治の人と作品」)

「旧家」にある、「きびしい倫理」と「淫蕩」との「争闘の傷痕」、つまり社会的な秩序とそれに対する反抗の「傷痕」が、太宰作品には刻印されているということだと思います。もちろん、それは単なる「反抗」ではなく、「きびしい倫理観念・「家」における秩序の観念」に対する愛憎の意識(「崩壊の感覚と抑制の意志」)だったことに注意するよう、著者は喚起しているようにみえます。

 そして、身近に見た太宰の印象については、次のように描かれています。
「それに彼と話すのは、なかなか骨が折れるのだ。言葉のなまりこHigashiyama_work18s そ東北弁とはいえ、この繊細な神経家は、わずかな言い廻し、ふとした比喩、ちょっとした悪口にでもすぐ傷つくのだ。人の傷痕にふれることは、罪悪にはちがいない。他の話をしながら、無意識裡に人を傷つける場合もあるでしょう。太宰氏にはそれがこたえるのです。親しいものほど悪人視される可能性が多くなります。彼は自分を理解してくれる人のないことをかこつが、もしよく理解してくれる人が出たら、彼はその人を最も憎むだでしょう。神経を余り使う必要のない、自分を甘やかしてくれるような、低能な女が、孤独者にはふさわしいのである。」(「太宰治の思い出」昭和23年9月、155ページ)
 ここには、「自分を理解してくれる」「自分を甘やかしてくれる」人を求める、「孤独者」太宰治の内面の核心が描かれています。

 著者が、距離をおいた位置から、また間近から描き出した太宰の姿は、太宰の作品を理解する手がかりを与えてくれるはずです。

 長々書いてしまいましたが、太宰氏の作品にははずれが無いということを言いたかったのです。そしてあまり陽の当らない作品にも目を通すべきだと今回つくづく思いました。

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2009年6月20日 (土)

私の好きな作品~『きのうの世界』

    アマゾンで買いたい本を探していたら、ふっとこのタイトルが目に留まりました。調べてみるとなかなか面白そうなのでここで紹介したいと思います。

「いつの頃からだったのでしょう、あなたにとって世界がつまらない「日常」になってしまったのは……。そう、あなたが子どものころの世界は違っていた……。町はずれの木橋、森陰の祠、古びた水道塔、境内に鎮まる苔むした石……

世界は何か不思議を隠しているような、そんな匂いに満ち満ちていたはずでした。あなたがいつも「あたりまえ」と思っていたきのうまでの世界が実は不確Yumeji_004 かなもので、自分がそう思っていただけにすぎない、もしかしたら本当は別の全く逆の世界があって、あなたに対して隠されているだけなのかもしれない……

そんな漠然とした不安に包まれた足もとがおぼつかない感覚。それは恐ろしいようでいて決して不愉快なものではなかったはず。そう、あなたの毎日、あなたの時間は、その秘密を解き明かすためにこそありました。

そして、あなたは感じていたはずです。いつも見慣れた街角や、駅、家の裏手の何気ないものやちょっとした出来事に秘密の鍵があることを、毎日通りですれ違う優しそう笑顔のなおばあさんや、時々見かける近所の物静かなおじさんが、その秘密の扉の開き方を知っているかもしれないということを……。」
  本書は、あなたがいつのまにか忘れていた、そんな「世界を疑う」密やかな楽しみを思い出させてくれる本です。                            

 本書のストーリーはどこか、音楽にも似ていますね。
それは、たとえて見るならば「循環形式」で描かれたクラシック音楽のようなものかもしれなません。「循環形式」とは、ベートーベンやリスト、ワーグナー、セザール・フランクといった第一級の作曲家が得意とした手法。

 一見無関係に見える複数の楽章のテーマやモチーフが、実は相互に深いところでつながっていて、最後にすべてが絡み合いひとつになって戻ってくることによってその本来の姿が圧倒的な存在感とともに立ち現れるような、楽曲全体が巨大な円環に回帰するような高度な作曲スタイルをいいます。
 

 最初は、たわいのない、ちょっとした疑問、どこか腑に落ちない、心の隅にひっかかった小さな棘のようなものだったはずなのに、ストーリーが進むにつれて、“あなた”をはじめ、様々な登場人物が発する言葉や体験する出来事が、すれ違い、記憶の中で重なり、響き合うことで、何かとてつもない秘密が、世界の闇のようなものが、隠されているのではないかという疑問が、次第に予感から確信に変わっていきました。それは、未知なる体験というよりは、どこか既視感を伴うなつかしくも楽しい感覚まもです。

 そう子どものころに誰もが一度はもったに違いない不思議な体験の記憶につながるものです。子どもたちは、世界の秘密の一番近くに住んでいるのでしょう。なぜなら、世界の秘密は、きっと無垢な感性でしか見ることができないものだから・・・そして、秘密を持つ世界は美しいものです。
                                                      
                            
   
 恩田陸さんの超絶的な「かたり」の技巧が炸裂している作品です。ミステリー、ホラー、ファンタジーといったあらゆるジャンルの要素を鏤めつつ、あらゆるジャンル小説として中途半端です。でも、この作品は、そもそもどんなジャンル小説でもないように感じました。読み方いろいろあるし、結果としてこの作品を気に入る人もそうでない人もいると思いますが。

 私はこの小説を視点に関する技巧を凝らし、物語世界を俯瞰する 視点とは何なのかについて思いを凝らした物語として読みました。というか、読み終えてそう感じ入りました。目次を見ても、この小説にとって視点が重要であることが明示されていると思います。

この小説の冒頭は二人称という珍しい視点ではじまります。しかも、中心となるHosino003「あなた」が知り得ないこともどんどん語られ、二人称としての整合性が簡単に破られていきます。違和感のある描写の行間に登場人物を「あなた」と呼ぶ「語り手」の存在が暗示されているように感じました。                            

 19章と3つの「幕間」からなる物語は、変幻自在に視点を変えていきます。物語としてのクライマックス、今日と昨日を隔絶するある大掛かりな出来事が描かれたあと、短い2章を添えて、物語は締めくくられます。この2章では、主にある一人の人物について語られますが、それぞれの章で視点が切り替わります。そして、最後の1ページで、さらに語りの視点が異様なものに変容します。

 最後の1ページに現れたこの視点こそが、冒頭である人物を「あなた」と呼んだ語り手の視点なのだろうと、解釈しました。そうした異形の視点の存在そのものが、この物語を象徴しています。「これ」を「このように」書こうとする着想が凄まじいし、素晴らしいと思います。

 郷愁的な情景を描くのが巧みで、“ノスタルジアの魔術師”と称される。ファンタジーの賞からデビューしたが、ジャンルの枠にとらわれず、SF、ミステリー、またはクロスジャンルの作品と、幅広く執筆している恩田さん。

『ユージニア』で第133回直木賞候補にも上げられ押しも押されぬ作家となりました。そしてこの作品も直木賞候補でしたね。私はあまり読んでいないのですが、これを期にお気に入りに入れようと思います。

 『光の帝国―常野物語』も良かったのでいずれ書きたいと思います。

夏休み早期特典プランのある宿。じゃらん。

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2009年6月19日 (金)

 私が気になる作品~『利休にたずねよ』山本兼一編

 売れているようですね、この作品。直木賞候補だからばかりではないようです。

 掌にすっぽりおさまる緑釉りょくゆうの平たい壺。唐三彩の緑よりはるかに鮮烈な色と優美な形を持つ壺を、利休は最期の日まで懐に抱いていました。壺の底には「あの女」の形見、小指の骨と桜色の爪があったのです。切腹のその日、利休は花のない無窮花ムグンファ(木槿むくげ)の枝を床の間に飾り、秀吉から遣わされた使者を待っていました・・・

 堺の魚屋に生まれ、町衆の間に発達した侘び茶の伝統を茶道Higashiyama_work15s にまで高め大成させた千利休。織田信長、豊臣秀吉の御茶頭おさどうを務め、権力の中枢まで上りつめた希代の美の司祭であった利休が、なぜ秀吉の逆鱗に触れ切腹の命を受けねばならなかったのか、真相は謎に包まれています。
 罪科はあきらかな言いがかりでした。陳謝して命乞いをすれば生きながらえる道もあったのですが、利休は一言の弁明もしなかったと伝えられていいます。本当の謎は、利休という男の心です。利休が命を賭しても守りたかったものは何だったのか。そも利休とは何者・・・。
  十九のとき与四郎(のちの利休)は、売り物として土蔵に囚われている高麗の美しい娘に恋をして駆け落ちをしました。しかし助け出そうとした娘は落命してしまいます。大胆な設定の大団円に向かって、物語は利休切腹の瞬間ときから時間を遡さかのぼっていきます。
「悔しいが、ただ者でないことは認めねばなるまい。あの男は、こと美しさに関することなら、誤りを犯さない。それゆえによけい腹立たしい」秀吉は利休の才気に魅入られ、畏れを抱いていました。
 利休は思います。「美の深淵を見せつけ、あの高慢な男の鼻をへし折ってやりたい・・・」と。

 大徳寺の禅僧・古渓宗陳は「利休居士ほど摩訶不思議な茶人はおりませね。天にゆるりと睡ねむり、清風に吹かれているような方と存じます」と評します。「なぜ日本人は、あんな狭苦しい部屋に集まり、ただもそもそと不味まずい飲み物を飲むのかね」宣教師ヴァリニャーノには茶というものが奇怪な風習にしか見えません。
「あの男は、じぶんが天地の中心にいるかのごとく、倣岸不遜な顔をしている」石田光成は人を見下したような利休がどうしてもゆるせないらしいのです。「あなたには、わたくしよりお好きな女人が、おいでだったのではございませんか」妻の宗恩は思わず訊いてしまいました。各人各様の利休が浮かび上がります。しかし、近づけば消える逃げ水のように利休の正体はつかみどころがない。その技、その振る舞いに幻惑された各々の感情だけが置き去りにされています。
 「侘び」と言いながら、そのじつ自由奔放。超然としていてひとつの像をむすばない利休という存在。そのはてに、高麗の娘との狂おしい恋物語が語られます。娘を殺あやめたのは利休でした。彼岸の美しい無窮花ムグンファのようなその女とKaii013 逢うために、利休は一畳半という牢屋のような茶室を生み出しました。求道のはてにたどり着いた数奇屋の空間は、時空を超える装置でした。
 言葉の通じない二人の心の通い合いがとても美しい。利休はきっとほんとうに、そんな永遠を求めていたに違いない。新しい利休像に迫る筆者の御点前は見事だと思います。

 飛び抜けた美的センスを持ち、刀の抜き身のごとき鋭さを感じさせる若者が恋に落ちた・・・。堺の魚屋の息子・千与四郎。後に茶の湯を大成し男・千利休のことです。女のものと思われる緑釉の香合を肌身離さず持つ利休は、おのれの美学だけで時の権力者・秀吉に対峙し、気に入られ、天下一の茶頭に昇り詰めていく。利休は一茶人にとどまらず、秀吉の参謀としてその力を如何なく発揮。秀吉の天下取りを強力に後押ししました。しかし、その鋭さゆえに、やがて対立。秀吉に嫌われ、切腹を命ぜられのです。

本書は、利休好みの水指を見て、そのふくよかさに驚き、侘び茶人という一般的解釈に疑問を感じた著者が、利休の研ぎ澄まされた感性、色艶のある世界を生み出した背景に何があったのかに迫った長編歴史小説です。

著者の山本兼一氏は、直木賞候補になること2回。いま最も勢いのある時代小説作家でしょう。気骨ある男を描いて定評がある山本氏の新境地は必読の価値ありと思いました。

 利休切腹の日から始まって利休のうちに「美」という病を生ぜしめた若き日の事件へと時間をさかのぼっていきます。この間、多くの人物の目を通して様々な角度から利休の追い求める美の姿を浮かび上がらせていくさまは、細かな伏線や言葉遣いという技術的な意味でもなかなかに良く練られた小説です。 読ませるのです。著者の伝えたいことが強いせいかあざとさは感じませんでした。

大事なのは歴史的な事実ではなく、 前半を読んでいるときには、寂があるのは荒ぶるものがあってこそと感汁ことが出来ました。 中盤を読んでいるときには、美の絶対性と同時にその脆さ・危うさを感じるほどでした。 そして最後に、人間を突き動かすものは、実はしょうもないことであったりするということを感じました。話してしまえばしょうもないこと。 ただ、内に沈んだことで恐るべき力となって人を突き動かすもの。 歴史に名を残したような人物・事件であってもそのようなものは多い。美もまた美しくないものから生まれているのです。いえ、「美」自体が気づいてしまえばさして美しくもないもの、なのかも知れないとさえ思えてきます。
 この小説には綻びもあります。矛盾も。どんな大人物の人生であっても、所詮人生などうたかたにすぎません。
 しかし、うたかたにすぎなくとも、しょうもないものから始まっていようとも、美しいものは美しいのであると感じることの出来る作品でした。

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2009年6月18日 (木)

私の好きな映画~『それから』

 ご存知、夏目漱石氏の作品の映画化です。それまで夏目氏の作品は殆ど読みましたが、主人公の姿がうまく想像できず、悩んでいました。昔、加藤剛さんが出演されていて、そのイメージを植付けようとしたののですが、どうも違うのです。夏目先生のお顔が一番しっくりくるのですが、やはりそこはもっと想像を駆り立ててみたかったのです。女性像はいかようにも解釈できるので、誰という一人の女性に関わらず、作品によって、容姿を簡単に変えてイメー時できたのですが。

 そんなことも忘れてしまいそうだった時、『それから』が映画化されることを知りました。なんと主役が松田優作さんだと聞き、『えっ?』と声をあげてしまいました。何て表現すればいいのか、イメージが、離れすぎている気もするし、何かを秘めた部分があるところは似ているような・・・とにかく観に行きました。そして私はその映像美に釘付けにされてしまったのです。
 
 明治後期の東京を舞台に、親友の妻への愛に悩む主人公の姿を描いたもので、脚本は「ヘッドフォン・ララバイ」の筒井ともみ氏、監督は「メイン・テーマ」の森田芳光監督、撮影は「お葬式」の前田米造氏がそれぞれ担当でした。

 あらすじは、もうご存知の方が多いと思いますが、明治後期のYumeji001 東京が舞台です。長井代助は、三十歳になってもあえて定職を持たず、本を読んだり界隈を散歩したり、毎日を気ままに送る思索者でした。しかし生活に困ることはなく、父・得は大実業家で、兄・誠吾がその事業を継いでおり、次男の代助に多大な援助を与えていたからです。おかげで、代助は別宅を構え、老婢と門野という書生を置いていました。父や兄は、そんな代助に、早く身を固めろと説き、しきりに縁談を持ち込みましたが、その都度、何らかの理由をつけてはそれを拒んできました。そんな代助を、兄嫁の梅子や子供たちの縫と誠太郎が好ましい視線で見ていたのです。ある朝、代助に、親友・平岡常次郎からの便りが届きました。平岡は代助とは異なり、大学を出るとすぐに大手銀行に入社し、地方の支店に勤務していましたが、部下が引き起こした問題の責任を負うことになり、辞職し東京へ戻るというのです。平岡とは三年ぶりの再会になりますが、それは、また彼の妻・三千代との再会をも意味していました。三千代は、かつて大学時代、代助が想いを寄せていた女性で、親友・菅沼の妹でした。が、平岡もまた三千代に惹かれていることを知り、自らの義侠心にのっとった友情で、三千代を平岡に嫁がせたのです。

 上京した平岡は、明らかに変っていました。彼の三年間の社会人としての生活は、平岡を俗人に変貌させていたのです。金のために働くことには意味がないと言う代助に、それは世に出たことのない男の甘い考えにすぎないと、平岡は非難をあびせます。が、そんな代助に、平岡は自分の就職の相談を持ちかけるのです。一方、三年ぶりに会った三千代は、生活にやつれている様子はあるものの、以前にも増してしっとりとした美しさを備え、代助の心に不安な胸騒ぎのような感情が湧くのです。平岡のために、住居を手配し、果ては借金の口ききまで奔走する代助は、やむなく兄に頭を下げなした。そんな代助を見て梅子が力を貸してくれたのです。用立てた金銭のことで幾度となく三千代に会ううちに、代助は、過去に自分が選択した道が誤りであったことを深く実感します。平岡に三千代を譲るべきではなかったと・・・そして、三千代もまたかつてより押えていた代助への愛が押えきれなくなっている自分におののきを覚えていました。一方、家の繁栄のために、長井家とゆかりの深い財産家・佐川の令嬢との縁談を望む得と誠吾は、強引に代助に見合いをさせました。音楽会、食事会と次々に見合いの席を用意し、代助も、素直にそれに臨んみました。しかし、縁談が順調に進めば進むほど、代助の中で、ある一つの決意が固まっていたのです。「昔の自然に今、帰るのだ」・・・。

 三千代に自分の気持ちを打ち明ける決意をした代助は、思い出のある百合の花を飾り、三千代を家に呼び寄せました。代助の思いきった告白に、三千代は涙を流しました。なぜ、もっと早くに言ってくれなかったのかと。あなたは残酷な人だ、となじりながら、その中には喜びが含まれていました。「覚悟を決めます」という三千代を代助はみつめます
。しかし、この二人の決意は、二人の社会からの離反を意味していました。得の家に縁談をことわりに行った代助に、三千代とのことを平岡からの手紙で知った誠吾が罵声をあびせました。ついに、得は、代助に言い切りました。「出ていけ!」。今は無一文になった代助
は、それからを思い、ひたすら、歩き続けるのです。本当の意味のそれからはそこから始まったのです。でも膜は閉じます。漱石氏らしいエンディングだとは思いませんか?その後に2人は?その後の生活は?

 本当の意味での生活の苦しさを知らないお坊ちゃま育ちんの代助がどうやって三千代を養っていくのか、もう思いは遥か彼方、それからに通じているのです。そしてまた大学時代に、親友の妹であった三千代と結ばれていたら、三千代は平岡のような仕打ちをしないで済んだのだろうか・・・色々な思惑が頭をよぎりました。明治と言う時代に振り回され、行く末は見えているようで、薄いヴェールが覆った漱石の初期の三部作にふさわしい作品だとつくづく思い知らされた気がします。『明暗』を読んだきりにしてしまっていた私は、明暗のラストもこのように読者に考えさせる終わり方をしたのだろうかと考えてしまいます。また、『こころ」を読んだ時のセンセーショナルな最後もふと思い出していました。

今また歳を重ねて読むと違ったものが沢山見えてくるのだろうと想い至りました。

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2009年6月17日 (水)

私の好きな作品たち~安部工房編

 私が詩の作品をはじめて読んだのは高校生のある夏の日でした。何でもいいから読んで、感想文を書きなさいということで、私が図書館でタイトルを眺めていた時、安部工房氏の写真を見つけました。それがクラブ活動の顧問も先生にそっくりで、思わず本を棚から抜き出していました。
 人間を物質的・即物的に見たとき、必然的にそれには値段がついてきます。値段のついていない「もの」の方が、希でしょう。『R62号の発明』では、主人公の機械技師は、その命を売り、『第四間氷期』では、主人公の妻の胎児を、無理矢理買い取られる。逆に、『耳の値段』『手段』は、「保険」という、現実社会で唯一認められている人間の格付けを利用して、儲けようとする話です。そう聞くと嫌な話なのかなと思われがちですが、そういう観点からものを観ると逆に人間の尊いものが見えてきたりするということなのだと思いました。

 私は特に『他人の顔』が好きですが、あの物語も自分を偽っTadanori007 て暮らしていたはずが妻には見抜かれていたという、人間は簡単に全てを変える事は出来ないのだということを学んだ気がします。安部氏のモチーフを一言でいえば、「存在論」ということができると思います。なかでも『他人の顔』は、人間にとって必要不可欠な「顔」を題材とし、人間存在の不安を容赦なく揺さぶる作品だと思うのです。また、安部氏はしばしば理系の作家といわれますが、本作品における精緻な科学的記載はまさに作者によってのみ可能であり、新鮮な読後感を与えています。そして、個人的感想ですが、作品の後半部でエピソード的に語られる少女の映画が印象的であり、作品全体のテーマを暗示しているように思われました。

 「顔を解体すること、これは決してささいなことではない。狂気に陥る危険も多分にある。精神分裂病者が自分の顔についても他人の顔についても等しく、顔の感覚をなくすと同時に、風景の感覚、言語と支配的な意味作用の感覚を失うのは偶然だろうか。つまり、顔とは一つの強力な組織作用なのだ」(訳書p.213-214 原書p.230.)

一方、「他人の顔」のラストはこうです。

「ともあれ、こうする以外に、素顔に打ち克つ道はないのだから、仕方がない。むろん、これが仮面だけの責任ではなく、問題はむしろぼくの内部にあることくらい、知らないわけではないのだが……だが、その内部は、なにもぼく一人の内部ではなく、すべての他人に共通している内部なのだから、ぼく一人でその問題を背負い込むわけにはいかないだ……そうだとも、罪のなすりつけはお断りだ……ぼくは人間を憎んでやる……誰にも、弁解する必要など、一切認めたりするものか! 足音が近づいてくる…… だが、この先は、もう決して書かれることはないだろう。書くという行為は、たぶん、何事も起らなかった場合だけに必要なことなのである」(p.283-284.)

「凡庸さ」は、顔の支配の終わりは「非人間性」を目指すところにある、これを、安部公房氏は、すでに24歳のとき、こう書いているのです。

 「終った所から始めた旅に、終りはない。墓の中の誕生のことを語らねばならぬ」(終りし道の標べに 1948)

このように、すでに何もかも見ていたように感じさせる他ない安部氏は、世界史を超えてどこかを(どこかへと)疾走=失踪し続けていたんだと思います。

 これで感想文を書いたのですから、先生は、私を異端児だと思ったかもしれません。

 次に好きな作品は、『砂の女』です。阿刀田高氏は「小説の一番の面白さは、謎が提示され、それが深まり、最終的にそれが解けてゆくことだが、この作品はその構造を持っている。砂がもう一つの主人公になっていて、砂は日ごとに変わり、独特の模様を描き、無機的である。生きているような様相を持っているし、何もないように見えながら、生命体を隠していたりして、非常に不思議な存在の砂に目をつけたいうところが、この小説の面白さじゃないかと思う。人間の自由とは何なのか?自分たちが接している日常とは何なのか?と、根本から問いかけるような側面があって、男と女の根源にも問いかけるようなことも持っている。これだけ小説の望ましい姿が詰め込まれている作品は、なかなか見当たらない。このぐらいの小説を生涯に一つ書けたら、死んでもいいぐらいに(同作品に)惚れている」と評しています。

 『砂の女』を含む安部氏の作品群の中で良く取り上げられる状Tadanori004 況設定が、言うまでもなく「不条理」です。今の今まで「常識」、「当たり前」と思っていた「生活していく上での前提条件」が、ある些細な出来事から崩壊し、自分が主体的に生活をコントロールしていた筈が、逆に生活から従属的にコントロールされる側に転落し、その状況を主人公(人間)がどう受け入れ、克服していくか・・・今までの生活の「何気なさ」、違和感無く口を広げている「不条理」への入り口、誰にでも起こりえると感じさせる「不気味さ」、この点が他の作家の作品にはない、氏の作品独特の醍醐味であると感じています。
 本作は「不条理な出来事」が切っ掛けで、「今までの価値観ではあり得ない状態」に追い込まれる処までは他の安部作品と同様のテーマの展開ですが、そこから主人公がその状況を受け入れ、「今までの価値観の上に構築された生活」を捨て、「不条理な条件の上に成り立っている現状と共に生きていくために必要な条件」が記載されている点が他の作品と比べて知的に抜きん出ていると思います。力で強制されたただけでは、人間は慣れ親しんだ価値観を捨てることはできないこと、一度は脱出の「希望」を持ち、それが失敗することで「絶望」を経験し、それでも脱出の希望を伺いつつ生活していくのであるが、彼の地で「生甲斐」を発見したとき、主人公が「その生活と共に生きていく決意」を固める・・・見方を変えると人間の価値観を丸ごと取り替えるために必要十分な状況設定が記載されていると読むこともでき、その点で、恐ろしい小説であるとも言えるでしょう。

世界二十数カ国語に翻訳された云々の謳い文句を気にする必要はありませんが、その事実は文化的背景に関係なく普遍的に万民を考えさせる内容を本作品が備えていることを示していると思います。 未読の方は是非、『他人の顔』同様読まれることををお勧めします。

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2009年6月16日 (火)

私の好きな俳優たち~室田 日出男編

私が知ったのはピラニア軍団でどすのきいた役から『前略おふくろさま』での3枚目に移行し始めた頃でした。川谷卓三さんもあの番組で好きになりました。北海道札幌東高等学校卒業だったんですね。また同郷の思いが湧いてきます。

 東映ニューフェイス第4期としてデビュー。同期には山城新伍、佐久間良子、花園ひろみ、曽根晴美、山口洋子などがいた。大部屋俳優時代は岩尾正隆、川谷拓三、志賀勝らと共に斬られ役集団の一員で、後に彼らは渡瀬恒彦の発起のもと「ピラニア軍団」を結成。室田さんはリーダー的存在として、ヤクザ映画を中心にテレビドラマでも無骨な個性を見せました。有名な代表作に『仁義なき戦い』シリーズでの悪役ですね。、紆余曲折の多い人生だったようですが、深作欣二ら監督陣や役者仲間からの信望は厚く、幾度の憂き目にも負けずに復活しました。1980年代以降はヤクザ映画から離れ、一般映画で活躍しはじめました。
 軍団構成員の中で最もキャリアが長く、主に代貸クラスでの出演Murota001 が多く、鶴田浩二さんや松方弘樹さんの片腕として活躍したり、時には鶴田氏や安藤昇氏といったスター俳優に混じってクライマックスの殴り込みに参加したりと、印象的な役柄に恵まれることもしばしば。当時の東映ファンから注目されるのも早く、その1人であった宇崎竜童は、勝手に“ヒクヒク仮面 ”(死ぬ時に必ず鼻をヒクヒクさせてブッ倒れるのが由来らしい)と命名して応援、スクリーンに登場すれば、主演スターそっちのけで大歓声を送っていたらしいです。一般的にピラニア軍団No2と捉えられる傾向が強いのですが、ブレイク直前の川谷拓三がインタビューの際、「室田日出男さんみたいな役者になりたいです。」と語っていた事からも、室田さんが他の軍団構成員と較べて、1ランクも2ランクも上に位置する役者である事がお判りいただけるでしょう。
 無論、ご承知のように室田の俳優人生もまた、華々しいスポットライトとは無縁のドン底の歴史だったのも事実でありました。スター候補生としてデビューを飾ったのも束の間、撮影に遅刻しては役をオロされて謹慎を命じられたり、ロケ先で大喧嘩を起こして自宅待機のあげく、東映から専属解除を通告。契約俳優となるや否や、正義感から先頭に立って組合運動にも参加。上層部から反乱分子扱いされて、徹底的に仕事を干される結果に。そのような長い苦節の果てにピラニア軍団でブレイクし、人気スターへの切符を掌に収めたかに見えた大事な時期ですら、またもや不祥事を起こして謹慎処分を受け、出演中のTVドラマや予定されていた映画等、次々と降板の憂き目に遭ってしまいました。でもその後、室田さんは見事な復活劇を遂げました。復帰第1作として主演した日活ロマンポルノ「人妻集団暴行致死事件」がそれです。(私は残念ながら観てません・・・)かつて「暴走パニック大激突」で、寡黙ながらも全身に充満された凶暴性の凄みや、また「ドーベルマン刑事」でも、陰湿なるサイコパス的狂気を演じた事がありましたが、本作ほど内面的演技を要求された事はなかったのではないでしょうかか。室田さんが演じた地方都市で生活を営む中年男性像は、思わず噎せ返ってしまいそうになるほど密度が濃く、これまでの東映系作品で、菅原文太氏や渡哲也氏を相手に怒鳴りわめき散らしていた姿が、いささか子供っぽく感じられた程でした。
 しかしその反面、短期間ではありましたがお茶の間からの需要がストップ。川谷拓三のようにCM出演のオファーが来る事も、志賀勝氏のようにバラエティに引っ張りだこになる事もなくなってしまった。だが、拓ボンが「河内のオッサンの唄」に主演した当時を振り返って、「僕がこの映画に出たことは失敗だった。(中略)少なくとも役者・川谷拓三としては10年は遠回りしたと思っている」(「3000回殺された男」サンマーク出版)と、人気者として祭り上げられたが為に、コメディ演技ばかり要求された忸怩たる心情を、率直に吐露していた事を考えると、「影武者」「野獣死すべし」「マルサの女」、そして第35回ブルーリボン賞助演男優賞に輝いた「死んでもいい」etc数々の作品に出演し、着実にキャリアを重ねた室田さんの方が、むしろ映画俳優の王道を歩んで来たように思えてしまうのが何とも皮肉でもありますね。

 数年前、病に倒れて故郷で静養していましたが、無事に復帰。貴重な脇役として、映画・ドラマ・Vシネマで活躍。。かつて「ムービー・マガジン」第13号(昭和52年8月1日発行)誌上にて、いくつんなっても、その年齢の芝居できる役者さんになりたいね。 田中絹代さん
なんて素晴らしい女優だよ。死ぬまでやってたもん。しわも隠さないで、自分の年齢の芝居してたもん。(中略)50歳になったら50歳の芝居をね。いるよ、日本にだって、笠智衆さん、大滝秀治さん、みんな本物の芝居してるもん。一緒に演らしてもらって涙出るときあるもん。」と、諸先輩方の名を挙げて語っていたが、それから四半世紀を経た現在の芸能界において、室田日出男こそが自分の年齢の芝居ができる数少ない役者の1人である、と今やすっかり老成した感のある彼の姿に、心をこめて賛辞を送りたいです。

2002年6月15日、肺癌のため亡くなりました。64歳没。まだ信じられません。亡くなるまでドラマや映画以外は(『徹子の部屋』などのトーク番組へのゲスト出演を除き)ほとんど出演しなかった事で知られ、室田の葬儀・通夜にて山城新伍氏から「彼は僕らと違ってバラエティには出ないから、本当に役者だね」と言われるほどでした。Murota002 また大の酒好きで知られ、ドラマなどで共演した陣内孝則ら後輩俳優からも慕われていました。『前略・・・』のあと、ウィスキーのCMに卓三さんと出た時の逸話があります。これは倉本聡さんが書いておられたのですが、本当のウィスキーをのんで撮影したので最後には『体制の媚びたらいかん!』などという発言が出てきたりしてスタッフもまいっていたそうです。なんだか、いいですね、そういうのって。でももう役者でなくても一人の人間として息をしていてくだされていたらと思うと・・・・都内の自宅で妻の鞆子(ともこ)さん(63)は「あんなに体格のいい夫が最後は体が小さくなって別人のようでした。病状が急変したので、家族も最期をみとれなかったのが悔やまれます」と涙ながらに話しました。
 室田さんは俳優生活の後半は病気との闘いだったそうです。92年には映画「死んでもいい」の撮影中に北海道で倒れ緊急入院。お酒の飲み過ぎで腎臓を痛めて10時間に及ぶ手術を受けました。その際、肝臓の肥大も心配され3週間の入院生活。95年には都内で大量吐血して緊急入院、CU(集中治療室)で治療を受けました。 私生活でも役柄同様の“無頼派”を通しました。
 出演した作品は700本以上。仕事への思い入れも人一倍強かったといいます。長男の晃さんは昨年12月に病院で最後に会いました。室田さんは無理に起き上がって「いい作品があれば、オレはまだ(仕事を)やるんだ」と話したといいます。

悪役一筋の人生の幕切れは、あまりに早すぎました・・・安らかなご永眠をお祈りいたします。

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2009年6月15日 (月)

私の好きな作品たち~手塚治虫編

 戦後日本において多数の漫画を発表し、漫画を「子供の読み物」から「日本を象徴する文化」にまで育て上げた人物であり、漫画の神様の異名を持つ手塚さん。手塚さんが暮らしたトキワ荘において直接親交があった漫画家だけでも藤子不二雄氏・石ノ森章太郎氏・赤塚不二夫氏など後にマンガ界の中核を担う人物が多数あり、Tezuka001 またアニメ制作においては自ら創設した虫プロダクションで多くの人材を育てるなど、その影響を受けた人間は到底数え切れないほどです。手塚さんがいなければ現在の日本のマンガ・アニメの隆盛は存在し得なかったといわれる存在なのです。いまだ人気の衰えを知らず、漫画世代に生きた人々だけでなく2009年には『火の鳥』がBSで観られるようになり、新たな人気を博すでしょう。私は子供の頃、『ジャングル大帝」を観たり、読んだりして育ったのですが(アッ、鉄腕アトムもですね)、実は大人になってからは『ラックジャック』に憧れました、といっても読んではいないのですが。
 
 1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新宝島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こしました。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけました1963年、自作をもとに日本初のTVアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながるTVアニメ制作に多大な影響を及ぼしました。
 1960年代後半より一時低迷するも、『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などにより復活。また『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を手がけていました。

 終戦後、手塚さんは戦時中に描き溜めた長編のなかから『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送りました。これは音沙汰無しに終わりましたが、その後、となりに住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』学芸部の程野という人物に会い、彼の依頼を受けて同紙に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日- 3月31日)、この作品が手塚さんのデビュー作となりました。『マアチャンの日記帳』は描かれる風 俗やタッチに新しさはあるものの、路線としては戦前からある家庭向けの新聞漫画にのっとったものででした。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っています。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド(後述するものとは別物)』なども各紙に描かれていますが、4コマ連載という形式に限界があり後2者はどちらも中断に近い形で終わってしまいました。 漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚さんは医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくまりました。教授からも医者よりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚さんは専業漫画家となることを決意します。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部付属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得しています。このため後に手塚さんは自伝『僕はマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べていいます。

 1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)『少年サンデー』(小学館)が創刊、以後月刊少年誌は次第に姿を消していくことになります。このTeduka002時手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となりましたが、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』のほうには連載13回分の下書きだけして石森章太郎氏に『快傑ハリマオ』の連載をさせています。同年、血の繋がらない親戚で幼馴染であった岡田悦子さんと宝塚ホテルにて華燭の典を挙げました。多忙な手塚は結婚前に2回しかデートができず、結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという逸話もあります。

 少年期からディズニー映画を愛好していた手塚はもともとアニメーションに強い情熱を持っており、アニメーション制作は念願の仕事でだったそうです。漫画家になる前の1945年の敗戦の年、手塚さんは焼け残った松竹座で大作アニメーション『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、このときに自分の手でアニメーション映画を作ることを決意したといいます。手塚さんにとって漫画はアニメ制作の資金を得るための手段でした。「がめつい奴」と言われても蓄財に走り、自らを「ディズニー狂い」と称しました。
 一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、永井豪『ハレンチ学園』のヒットを受け「性教育マンガ」と銘うたれた『アポロの歌』『やけっぱちのマリア』などを発表していますが、しかしこの時期には少年誌において手塚さんはすでに古いタイプの漫
画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていました。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に虫プロが倒産、1971年に経営者を辞していた手塚も1億5千万円と推定される巨額の借金を背負うことになります。作家と
しての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想しています。

 973年に『週刊少年チャンピオン』で連載開始された『ブラック・ジャック』も、少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、編集長の好意で始まったものでした。しかし、連綿と続く戦いで読み手をひきつけようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の短編連作の形は逆に新鮮あり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになりました。さらに1974年、『週刊少年マガジン』連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げることになりました。

 晩年は、それまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、という形で読まれていました。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚さんは赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていきました。これに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やしました。流線や汗、擬音などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことをTezuka002 可能にし、また絵柄の記号化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもまりました。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などを始めとする悲劇性の導入であり、死やエロティシズムを作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになったのです。
 上記の絵柄の記号化、体系化は、アシスタントを雇いプロダクション制を導入することを可能にしました。漫画制作にアシスタント制、プロダクション制を導入したのは手塚さんが最初でした。手塚さんが漫画制作に導入したものとしては他に、Gペンの使用(早く描けるという理由によるそうですが、それまで漫画で使われるペンは丸ペンが一般的でした)、スクリーントーンの導入などがあります。

 漫画を描く際にプロ・アマ、更には処女作であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない禁則として、“基本的人権を茶化さない事”を挙げ、どんな痛烈且つどぎつい描写をしてもいいが以下の事だけはしてはならない、「これをおかすような漫
画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」と述べていました。それは
・戦争や災害の犠牲者をからかう
・特定の職業を見下す
・民族、国民、そして大衆を馬鹿にする
夏目房之介氏は、手塚さんが追い求めたテーマを「生命」というキーワードに見出しています。

 手塚さんは医師免許を持っていましたが、実際に医師として患者を診たことはありません(もっとも知人の漫画家やアシスタント、手塚番記者らが手塚さんの診断を受けたことがあるという言及は幾つか残っています)。手塚さんは旧制中学時代、栄養失調状態のまま厳しい教練を受けたため水虫が悪化し、もう数日で両腕切断というまでになったことがあります。このとき診察した大阪帝国大学付属病院の医者に感動したため医師を目指したといいます。ただし手塚さんは、医学校に行けば卒業までは徴兵される心配がなく、卒業後も軍医ならば最前線に配置される可能性が低いことが医学校に進んだ理由であったことも認めています。

医師としての専門は外科であり、その当該分野の専門知識が『ブラック・ジャック』などの作品に活かされていますよね。ただし医学博士を取得した際の研究テーマは外科分野ではなく基礎生物学領域のものでした。息子の手塚眞さんによれば、手塚さんは血を見るのが嫌いで医師の道を断念したと言われています。(ホントかどうか・・・?)

 2008年 - 生誕80周年を記念して小学館から過去のコミックの特装版、純金製アトムなどの商品の発売、出身地宝塚でのイベント、アメリカ・サンフランシスコでの手塚治虫展、広島国際アニメ-ションフェスティバル、東京国際映画祭で過去に自身が手がけたアニメ作品が特集されて上映されました。

 手塚さんの記念館もあちこちにあるようですね。本当に医大じゃなくて偉大な方だったと感心しています。

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2009年6月14日 (日)

私の大好きな作品~村上春樹・『1Q84』編

 もう読まれましたか?私、まだなんです。先週『大様のブランチ』を観て、どの書店も完売状態と知り、うれしいやら悲しいやら・・・読んだ方によると、村上ファンにはたまらない上下2冊になっているらしく、テレビでも絶賛されていましたね。

 この物語は、男女の話が交互に展開されていきます。1章が女性の話。2章が男性の話。そして3章が女性の話。4章が…という形で。最初は何の関連もない男女の話が同時並行的に語られ、徐々にその男女間につながり (関係性) が見えてきます。

主人公の名前はあえてふせておきます。しょっぱなに 「名前」 のHirosi001 エピソードが出てきた時点で私は心をとらえられました。「1Q84」という小説が私を引き込んだ最初のきっかけが、名前でしたから…。
名前という、一見小説にとってさして重要とも思えない要素で読者を引き込むなんてさすがだな、と感服してしまいました。
そして、その男女が暮らしているのは1984年なのですが、それが何かの拍子で1Q84年という世界に入り込んでしまうのです。
普通ではないことが次々と起こり、1Q84年の中へ、深く深く入り込んでしまう。そしてもう、その世界から抜けられない。入り口はひとつ。出口はない…。謎だらけでとても複雑な1Q84年。春樹氏の文章はとても読みやすく読者を引き込み、スラスラとページをくくらせますが、内容はけっこう難解です。今まで読んだ彼の作品と比べても、難しい…と感じました。後戻りのできない1Q84年に引きずり込まれた男女は、それぞれの役目を全うするしかありません。自分に与えられた任務をこなすしかないのです。最終的に、女性はある決断を迫られます。
選択肢は2つ。究極の選択です。そして彼女は・・・・という選択をします。
この彼女の決断は、とても切なかったです。そして、物語は 「謎」 という余韻を残して終わります。この後どうなるんだろうか? という謎を。その余韻はリアルに、波紋のように広がります。まるで今現在も、1Q84年は私たちの知らないどこかで継続しているかのような感覚を、私の中に残したまま、小説「1Q84」は最後の1行を迎えました。

 本当に読んでない私には謎です。でも村上ワールドを一つ一つ思い出し、私の描いている村上ワールドって他の方々と共有できりものなのか少々不安な面も無きにしも非ず。再三村上氏のことは取り上げてきましたが、今回の『1Q84』は久しぶりの長編ですし、今まで書いてきた作品と何らかのつながりがあるのではないかと思えてならないのです。

 私の言葉では語ることはできないので、読んだ方のレビューを紹Sasakura_work06s 介したいと思います。

 ・彼の小説はあまり万人向けとは言えないと思う。 ミステリー小説のように起承転結はあまりなく、謎は謎のまま放置されるケースも多い。 また本作のリトルピープルやかつての羊男、または空から魚が降ってきたり、 とにかく非現実的なこと、超常現象的なことが必ずといっていいほど盛り込まれている。 極めて不自然で非現実的なことが。 それでありながら文体はいささか比喩がオシャレすぎるきらいはあるが、 リアリティーがあり、生活感があり、存在感がある。 また彼が意図的に用いる芸術や文学、音楽などの表現も一般的な日本人には なじみにくいものが多いように思う。 多くの読者は村上氏の美しい文体に魅せられるのだろうか?  ちょっと過激で奔放な性描写に惹かれるのだろうか? 物語に非現実性と文体のリアリティーのギャップを愉しむのだろうか? 解説本を読むと驚くほど出てくる謎かけを探すのだろうか? それともただ流行っているから興味がわくのだろうか? 個人的には大好きな作家だし、本作もとりあえずBook 1は面白かった。 しかしこれほど売れるのは不思議だなあ・・・・・

・「なぜこの本を手に取ったのか?」ということが、読み終わってからわかった。 共時性のような、ひらたく言えばタイミングがこの物語とピッタリ重なったんだな、と。 あらすじを書くのは無粋だと思うのでしないけれど、この作品をひとつのミステリーとして読む人もいるだろうし、社会主義的思想やカルト宗教に対する作者の問題提起であったり、それに代表されるようなひとつの時代の終焉を見る人もいるだろう。また、ラブストーリーだと思う人や、村上春樹自身の父へのレクイエムとして物語を聴く人、または数々のメタファーに示唆された個人の魂レベルでの変容から、普遍的なレベルでの『人(主に日本的近代人?)』の元型のようなものを象徴する(筆者がしたいように感じる)物語でもあると思う。 ほんとうに数学的で多次元的な物語。 主人公たちの年齢が“今年30になる”ということで同世代のシンパシーを感じるだけではなく、今まで走ってきた子ども時代から脈々と続くレールのポイントが切り替わって“新しいわたし”になっていく感覚は、個人のレベルだけではなくこの年齢特有のものとして、とてもリアルに感じた。特に、主人公の『親』に対する想いの変化は、反抗期を体験したことのある人なら誰しもが感じることなのではないかと思う。
 読後に感じたのは、「わたしたちの人生は(誕生から死へ)常に一方向にしか進まないレールのようなもので、一度ポイントが変わったら二度と引き返せないということ。それでも、途中で途切れることなく続いてきたレールの、生まれの呪縛を受け入れることによ
ってそれは呪縛ではなくなり、自分で選び取った能動的な“わたし”になること。」 「気づいたときには既に過去は過去でしかなく、動いてももうレールを逆戻りすることはできない過去を受け入れるということは、過去に囚われることではなく、大切なのは現在の“わたし”が過去をどう昇華させて自分のものとして大切にしていくかということ。」 そして、 「現在を大切にするために、傷つくことを恐れてばかりいるのではなく、自ら選び取る責任を負うこと。」
 初期の作品からこの作品までで若輩者のわたしが失礼ながら思うのは、村上春樹という人の心の変容(進化)だけれど、その変容の過程を普遍的な物語に書き換えて、あとから生きる若者たちに示してくれている気がする。「決して独りではない」というメッセージ
をくれている気がする。卵を大切にする人だから。 やっぱりこの人はやさしい。 

・よくも悪くもこれまでの村上作品の「おいしかったおかず」を詰め合わせた作品のように感じました。パラレルワールドは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だし、純愛要素は「ノルウェーの森」だし、カルト宗教は「アンダーグラウンド」だし。それを評して「新しい文化的挑戦」がないという人もいますが、僕はこの幕の内弁当はとてもおいしく食べさせてもらいました。どなたかのレビューにもありましたが「村Yoake001 上作品なら安心だ」と手にとる多くの人たちに幕の内的な安心感を与えられると思います。何の物語かわからない作品を手にとらせる芸当ができる作家が果たして日本にいや世界に何人いるでしょう?このレベルまで文学的高みに立ち得た村上春樹氏に対し、敬意を持たずにはいられません。 BOOK2である以上作品の続きは存在していくんでしょう。いろんな謎がまだ残されたままです。「物語に拳銃が出てきたら発射されなければならない」なら、この残された謎も発射されるべき銃弾だと思うのですが。 どっかで村上春樹氏は「長編というのは短編と違って、長い間その小説世界につきあってくれた読者に対する責任というものがある」というようなことを述べていましたが、もしまだ氏がその責任を感じているとするならば、近いうちにBOOK3,4は書かれることでしょう。 ただもし続編がないとしても、この小説は自分をどこかへ連れて行く力を持った小説として記憶に残る小説になると思います。自分が今いる現実より一段階深いフェイズでこの物語と対峙しなければならない、そんなオーラがある小説です。お天気のいい日に屋上でのんびりと読むような小説ではなく、地下の部屋でじっくりと静寂の中で読むような小説といえるのではないでしょうか。 とはいえ、気になる点がないわけではありません。華麗なるレトリックのスパイスが、少々トゥーマッチのような気がするのです。一個一個のレトリックはすばらしい、村上春樹らしい美しいレトリックなんですが、それが一ページに何個もでてくる場合もあるのは、スパイス過多のカレーのように、正直、もたれます。でももちろんそれがこの小説がもたらす圧倒的な小説的美味を損なうわけではありませんが。個人的にやや気になるなというレベルでの話です。

などなど・・・なるほど、いろいろな感想がありますね。たしかに幕の内的要素は強いだろうなとは思っていました。その前に『世界の終わりにとハードボイルドワンダーランド』を読み終えた時、続編が出るかもしれない、楽しみと思ったことを思い出します。

 ですのでこれらのレビューはあくまでも参考にさせて頂き、読ませて頂こうと思います。とはいえ、何時書店に並ぶやら・・・というか、何時私が読める状態になれるかどうかが問題ですが・・・。

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2009年6月13日 (土)

私の好きな画家~サンドロ・ボッティチェッリ編

 初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表的画家で、フィリッポ・リッピの元で学び、メディチ家の保護を受け、宗教画、神話画などの傑作を残しました。メディチ家当主ロレンツォ・デ・メディチの死後、ドメニコ会の修道士サヴォナローラがフィレンツェの腐敗を批判し、市政への影響力を強めた。そのためボッティチェッリも神秘主義的な宗教画を描くようになりました。 ボッティチェリはサヴォナローラの反対派からの画の注文もよく受けており、こうした事実は彼がヴァザーリの記すよりはずっと自由な立場にいたようだと言われます。この時期以降の作品は生彩を欠くとして評価は高くありませんでした。1501年頃には制作を止めます。
 フィリッピーノ・リッピに彼は師事していました。当時の花形工房であったヴェBottecheri003ロッキオの工房とも関係を持つ。1470年に制作された商業裁判所のための寓意画『剛殺』が初作品。以降約20年間にわたり時の権力者メディチ家の支配下にあったフィレンツェで第一線の画家として活躍。1481年ローマに呼ばれシスティーナ礼拝堂の壁画制作に携わる。同年代には春(ラ・プリマベーラ)やビーナスの誕生など異教的な神話を題材にした傑作を残しますが、晩年はサヴォナローラの宗教的影響を強く受け、硬質的で神経質な表現へと作風が一変。サヴォナローラの失策もあり人気が急落、ついには画業を止めるに至りました。最晩年は孤独のうちに死去。享年65歳。

 『プリマヴェーラ』と『ヴィーナス(ウェヌス)の誕生』の作者と して著名になったのが19世紀だなんてひどい話ですね。異教的、官能的なテーマの絵画であり、フィレンツェ・ルネサンスの最盛期を告げるものでです。官能的でありながら、菩薩を拝むような気持ちになる不思議な絵です。『ヴィーナスの誕生』として知られる絵画は、ルネッサンス期のイタリアの画家サンドロ・ボッティチェリの作品で、キャンバス地に描かれたテンペラ画です。古典的な女神ヴィーナスは、水より出現して貝殻のうえに立ち、霊的情熱の象徴であるゼピュロス(西風)に乗って、岸へと吹き寄せられています。季節の女神であるホーラたちの一人が、花で覆われた外套を女神へと差し出して、ヴィーナスのポーズは、当時発見された「恥じらいのヴィーナス」タイプの古代彫刻から得たものといわれています。

 ボッティチェリは遥か昔に失われた古代ギリシアの名画について、2世紀の歴史家ルキアノスが著した記述に着想を得た作品群を描いており、『ヴィーナスの誕生』はBottechari001そのうちの一つでといえます。アペレスによって描かれた古代の絵画作品は『ヴィーナス・アナディオメネ』と呼ばれています。アナディオメネとは「海からの誕生」を意味します。これがボッテチェリの絵画の題名として使われているのです。『ヴィーナスの誕生』はプラクシテレスのアフロディーテ像と類似点が多くあります。
 当時まだポンペイは未発見でボッティチェリはポンペイの壁画をついぞ見ませんでしたが、ルキアヌスの記述にあるアペレスの絵画は当時すでに有名であり、それをローマ風に再現したものは見たことがあったかもしれないと言われています。

  また、ボッティチェリ成熟期を代表する作品のひとつ『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』は、アントニオ・プッチの息子でロレンツォ・ディ・メディチの甥でもあるジャノッツォ・プッチとルクレツィア・ビーニの婚礼の際に同家から依頼され手がけられた、カッソーネかベッドの一部だと考えられている本作は、ボッカッチョの小説≪デカメロン≫中の騎士道に関する主題である第五日第八話『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』を典拠に描かれた全4作品からなる作品群で、全てボッティチェリの構想によって弟子であるバルトロメオ・ディ・ジョヴァンニやヤコポ・デル・セッライオの手が加わりながら制 作されました。本作に描かれる『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』は、恋人パオラ・トラヴェルサーリに拒絶され自身の不幸に沈むナスタジオが、騎士と犬に追いかけられ責め苦を受ける女性を目撃する場面から始まり、この騎士はナスタジオ同様想い人に拒絶され自殺した騎士でBottechari005、自殺した原因は騎士を拒絶した想い人の残忍さにあるとし、想い人の内臓を引き裂くなど責め苦を与え、ナスタジオが恋人パオラとその家族を招き同場面を目撃させると、恋人パオラはナスタジオに心を許し結婚に同意したという話で、各場面の調和の取れた構成と、豊かな色彩や陰鬱を感じさせる舞台的場面構成が秀逸の出来栄えを見せています。また『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』の作品群はフェレンツェのプッチ家が約300年間所蔵した後、幾多の人々に渡り現在は第I場面から第III場面までプラド美術館が、第IV場面はアメリカの個人蔵となっているそうです。

 フィレンツェ派最大の巨匠サンドロ・ボッティチェリ晩年の代表作『神秘の降誕』。ローマのアルドブランディーニ家が旧蔵し、現在はロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する本作に描かれる主題は、神の子イエスが聖胎した聖母マリアの御身体から現世に生まれ出た神聖なる場面≪キリストの降誕≫ですが、本作においては主題よりも、老いたボッティチェリがサヴォナローラからの宗教的影響を受け、孤立した存在ゆえの激しい感情に満ちた表現に注目したいところです。画面上部にはギリシア語で謎めいた銘文が以下の内容で記されています。「私アレッサンドロはこの絵画を1500年の末、イタリアの混乱の時代、ひとつの時代とその半分の時代の後、すなわち聖ヨハネ第11章に記される3年半の間悪魔が解き放たれるという黙示禄の第2の災いの時に描きました。そして悪魔はその後、第12章で述べられるよう鎖につながれこの絵画のように≪地に落とされる≫のを見るのであろう」。この銘文は友愛の精神と祈りによって罪悪が裁かれることを意味しており、画面全体を支配する激しい感情性や宗教的古典表現などの多様性は、フィレンツェ派の中で孤高の画家となったボッティチェリの内面における瞑想の表れです。なお本作は画家の作品中、唯一年記がされる作品でもあります。

 やはり浮かばれない画家が一人、淋しく死んでいった・・・まるでそれが画家の運命かのように・・・

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2009年6月12日 (金)

私の好きな映画~『ツィゴイネルワイゼン』

 私が鈴木清順監督をはじめて知った作品でもあり、妖艶なそのあらすじは一生忘れない映画となりました。清順さんは役者としても、素晴らしい素質の持ち主で、映画やテ出演も一時期多かったですよね。

 もう何十年前になるのでしょうか、今観ても決して古くない作品で、内田百〓原作の「サラサーテの盤」を、生と死、時間と空間、現実と幻想のなかを彷徨う物語として、特設映画館を作って各地で映画を上映して回るという日本映画の新しい形を目指すことで注目を集
めるシネマ・プラセットの第一回作品で、最初の公開は東京タワーの駐車場に作られたドーム型特設劇場で行われました。昭和初期、一枚の奇妙なSP盤に取り憑かれた二組の男女と一人の女を描いています。脚本は「おんなの細道 濡れた海峡」の田中陽造氏、監督は「悲愁物語」の鈴木清順氏、撮影は「殺しの烙印」の永塚一栄氏がそれぞれ担当していました。

 ドイツ語学者、青地豊二郎と友人の中砂糺の二人が海辺の町をSeijunn001 旅していた。二人の周囲を、老人と若い男女二人の盲目の乞食が通り過ぎます。老人と若い女は夫婦で、若い男は弟子だそう。青地と中砂は宿をとると、小稲という芸者を呼んびました。中砂は旅を続け、青地は湘南の家に戻ります。歳月が流れ、青地のもとへ中砂の結婚の知らせが届きました。中砂家を訪れた青地は、新妻、園を見て驚かされます。彼女は、あの旅で呼んだ芸者の小稲と瓜二つなのです。その晩、青地は作曲家サラサーテが自ら演奏している一九○四年盤の「ツィゴイネルワイゼン」のレコードを中砂に聴かされました。この盤には演奏者のサラサーテが伴奏者に喋っているのがそのまま録音されている珍品なのだそうです。中砂は青地にその話の内容を訊ねるが、青地にも、それは理解出来なかませんでした。中砂は再び旅に出ます。その間に、妻の園は豊子という女の子を産みました。中砂は旅の間、しばしば青地家を訪ね、青地の留守のときも、妻・周子と談笑していきます。そして、周子の妹で入院中の妙子を見舞うこともありました。ある日、青地に、中砂から、園の死とうばを雇ったという報せが伝えられました。中砂家を訪れた青地は、うばを見てまたしても驚かされます。うばは死んだ園にソックリなのだ。そう、何と彼女は、あの芸者の小稲だったのです。その晩は昔を想い出し、三人は愉快に飲みました。中砂は三人の盲目の乞食の話などをして、数日後、中砂は旅に出ました。そして暫くすると、麻酔薬のようなものを吸い過ぎて、中砂が旅の途中で事故死したという連絡が入いります。
 その後、中砂家と青地家の交流も途絶えがちになっていきます。ある晩、小稲が青地を訪ね、生前に中砂が貸した本を返して欲しいと言いいます。
二~三日すると、また小稲が別に貸した本を返して欲しいとやって来ました。それらの書名は難解なドイツ語の原書で、青地は芸者あがりの小稲が何故そんな本の名をスラスラ読めるのが訝しがりました。そして二~三日するとまた彼女がやって来て、「ツィゴイネルワイゼン」のレコードを返して欲しいと言います・・・。青地はそれを借りた記憶はありませんでした。小稲が帰ったあと、周子が中砂からそのレコードを借りて穏していたことが分り、数日後、青地はそれを持って小稲を訪ねました。そして、どうして本を貸していたのが分ったのかを訊ね、それは、豊子が夢の中で中砂と話すときに出て来たというのです。中砂を憶えていない筈の豊子が毎夜彼と話をするという・・・
 家を出た青地は豊子に出会いました。『おじさんいらっしゃい、生きている人間は本当は死んでいて、死んでいる人が生きているのよ。おとうさんが待ってるわ、早く、早く』『おじさん、お骨をちょうだい』と青地を迎えるのです。
 砂の娘豊子が主人公の青地に向かって手招きをしているラストはぞっとしますね。遂に青地も引きずり込まれたか・・と思ってしまいます。小さな子供のころ、得体の知れない物音や姿が見えないのに誰かのしゃべっている声がすると想像力Seijunn004 がふくらんでとても怖い思いをしたのを覚えていますが、この映画はそんな感覚でいっぱいです。恐怖だけでなくどことなくおかしくてたまらないユーモアも混じっているのです。園がしきりにちぎりこんにゃくをちくっていたり・・・現実は歪み、夢か幻か境目はどんどん曖昧になっていきます。文字どおり狐につままれたような感覚になってしまうのです。 映像の浮世絵師・鈴木清順による圧倒的なイメージの奔流。内田百間の「サラサーテの盤」を解体、再構成して全く別趣の作品に仕上げました。手際の見事さと見事な世界観の表現は、ジャンルは異なりますがテクノモーツァルト、リチャード・D・ジェイムスのリミックス手法を彷彿とさせますね。見事です。大正の世が持っていた日本的美意識のなかで、大谷直子の美しさと原田芳雄の肉体、とまどう藤田敏八が踊り惑う・・・。不思議な静けさは「けんかえれじい」で見せた戦前の社会への憧憬が底に流れているようです 感性だけでは撮れない、経験に裏打ちされたこと可能であった、まさしく鈴木清順映画の最高傑作と呼ぶにふさわしいでしょう。
 戦前の上流アカデミック社会とその逆の低俗な世界を対比させながら、鎌倉文化人の風俗をとりまぜたすばらしい映像美です。それぞれの映像コンテもすばらしく映画を熟知しているという印象であります。どの場面をとっても1枚の写真のようも頭に残されています。内田百聞の「サラサーテの盤」ほかいくつかの短編小説を、生と死、時間と空間、現実と幻想のなかを彷徨う物語として田中陽造が見事に脚色。士官学校教授の青地(藤田敏八)と無頼の友人中砂(原田芳雄)を中心に、青地の妻周子(大楠道代)、中砂の妻と後妻(大谷直子のニ役)をめぐる幻想譚。破天荒な中砂に翻弄される青地はいつしか現実と幻のなかに惑い、妻周子が青地に誘惑されほだされているという懸念に取り憑かれる・・・そんな矢先、中砂は「とりかえっこ」を提案します。なにをとりかえるのか…。そして中砂の死後もなお青地は見えない影に弄ばれます。奇妙な物語のまにまにサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」の音色が物悲しく響き、音色のなかに一瞬、微かな声が聞こえてくるが、何を呟いているのか解らずじまいですが。

清順監督はプログラムピクチャーの脚本を巧みに換骨奪胎し、全Seijunn005 く違った独自の作品に仕上げてしまう、天才的アルチザン(職業監督)です。常にスタイリッシュで実験的で人を喰った映像、無秩序で先の読めない奇妙な傑作を作りづつけます。スターシステムを敷き、アクションと歌を基本とする日活映画の製作ラインの中で生まれた監督だが、皮肉にも会社のそうしたシステムがマンネリ化し出した時期に俄然、独自の美学が花開くことになります。映画のスタイルだけではなく、体制と戦いつづけた監督としての在りようも、若い監督たちに影響を与えています。ウォン・カーワァイ監督(「花様年華」)、ジム・ジャームッシュ監督(「ゴースト・ドッグ」)やクレール・ドゥニ(「パリ、18区、夜」)、「肉体の門」を愛するアルノー・デプレシャン(「そして僕は恋をする」)など…。最大の傑作「殺しの烙印」は時代、国籍を超え、永遠に語りつづけられています。座右の銘は『一期は夢よ 只 狂え』だそうです。

 またツィゴイネルワイゼンは印象的な冒頭のフレーズを含め、ヴァイオリンの名曲として、まず知らない人はいないぐらいに有名な曲です。音楽の教科書を始め、様々な機会に見たり聴いたりしてらっしゃると思います。「ツィゴイネルワイゼン」とは「ジプシーの歌」
という意味のドイツ語ですが、その名の通り民族的で、華麗なテクニックが楽しめる作品です。協奏曲のように3部からなり、特に最後の第3部は両手でのピチカートも登場するなど、華やかでヴァイオリニストの最高の腕の見せ所です。サラサーテは自らがヴァイオリンの名手で、彼に触発されて作品を書いた作曲家はブラームスやラロ、ブルッフなど多く存在します。一緒に演奏旅行に出たサン=サーンスも、ヴァイオリン名曲として知られる「序奏とロンド・カプリチオーソ」やバイオリン協奏曲第3番」をサラサーテに捧げました。

音楽と映像がピッタリマッチした、イチオシの作品です。

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2009年6月11日 (木)

私の好きな作品たち~見延典子編

 あまりご存知ない方も多いと思いますが、私と同郷北海道の作家さんです。桃井かおりさん主演の『もうほお杖はつかない』を書いた方なんです。最初、映画の紹介にしようと思っていたのですが、第27回新田次郎文学賞に、第一文学部卒業生である見延 典子さんの『頼山陽』が選ばれたので、これは書くしかないでしょうと思った次第です。やはり同郷というだけでも嬉しいのもですね。

 北海道札幌市生まれ。北海道札幌南高等学校時代に小説『指』Bobu002 で北海道新聞社主催・第11回有島青少年文芸賞において佳作に入りました。作家になれると確信し、早稲田大学第一文学部に入学。文芸科の卒業論文に200枚の小説『もう頬づえはつかない』を書いた。その後、担当の教員が雑誌早稲田文学に紹介し、掲載されました。のちに講談社から出版され、50万部を超える大ベストセラーになりました。本作は桃井かおり主演で映画化され、ヒットしましたね。観ていない方のためにおさらいしましょう。

 早大生のまり子(桃井かおり)は、アルバイト先で知り合った同じ大学の橋本(奥田瑛二)と、三十過ぎの芽の出ないルポライターの恒雄(森本レオ)という二人の男とつき合っていました。まり子は現在橋本と同棲中で、その前は、恒雄と恋愛関係にあり、彼のために薬剤師になる夢を捨て大学も変えたことがありました。彼女は恒雄のことで札幌の母と喧嘩して、以来、仕送りもなく、今は大家の中年男高見沢の妻・幸江の経営する美容院でバイト中。ある日、橋本と同じアパートにいる明美という女から、二人が以前、関係していたことをまり子は聞きました。そんなとき、突然恒雄が戻ってきたのです。彼は故郷で働といいます。そして、まり子と橋本の関係を知って怒る恒雄に、彼女は抱きついていく。その現場を見た橋本は恒雄と争いになり、まり子の前から去っていく・・・暫くして、橋本は故郷鹿児島で就職を決めてまり子の前に現われます。
 その頃、あの橋本と争った日以来、行方をくらましていた恒雄も戻ってきて、まり子は雄と久しぶりのセックスをするが、以前のような気持にはなれなませんでいた。それは、恒雄が自分の夢を追うばかりで、彼女の立場を考えようとしないからです。一方、橋本もまり子を連れて故郷に帰りたいと言います。自分のことしか考えない二人の男に、まり子はひとりで生きていく決心をするのでした。ひとりで生きていく・・・そこには、底はかとない心と身体の痛みがありました。恒雄の子を身ごもり、堕胎する決心、女にとってそれがどれほど苦痛か、耐え難いことか私は観ていてついのめり込んでいました。そして、病院から帰ってたまり子は冷蔵庫の前に座り込み、殆ど空の中から」り出し、むしゃむしゃ食べ始めるのです。妊娠中はつわりで何も食べられなかったというのに・・・

 大学に入って自由を得て少し背伸びして頬杖なんかついているとこの映画のような結末が待っていたりするものです。人事とは思えない映画に意気消沈している私がいました。

その後、見延さんは結婚し、広島へ行ってしまいましたが、次々と女性ならではの視点で作家活動を続けていたのですね。

 『愛の炎』は、夫・猛の彫刻家として再出発を図りたいという意思を汲んで、天女村に移住することを決めた妻のよう子と息子の連。猛のスランプ脱出をGanntona04 願いながらよう子自身も風光明媚な村で過ごすうちに焼物を再開させることとなります。しかし猛はスランプを抜け出せず、たまたま応募した作品が入賞したよう子のことを同じ芸術家として激しく嫉妬することに・・・その一方で連を通じて知り合った農業主の次郎とよう子が村人たちの噂となります。破局へ向かう結婚生活と新たに強まる愛と生命の絆を描いた作品です。
 昼メロドラマチックなノリの大人のラブストーリーです。この作品の展開で深く絡んでくるのがずばりお金。交通事故の賠償問題、夫が失踪した後に逼迫していく生活、逢瀬のときに相手にかける負担などそのたびごとによ子に起こる感情の揺れ動きがお金のやりとりで如実にあらわれてきます。そして後半部分になると”300万円”という金額が次郎とよう子にれぞれ違う意味をもたらすようになります。お金で買われた愛は少々生臭いけれども、お金を介在しての感情の動きはリアルさがあって訴えかけてくるものを増すような感覚があります。よう子が次郎から金銭的な援助をうけないと決意するのも「恋人であって愛人ではないんだ」という気持ちの現れのような感じがします。なんだかそんなところが大人のラブストーリーを匂わせます。たまには読書で昼メロしてみるのもいいんじゃないでしょうか。

 『三人姉妹』では、夫の浮気にこらえきれなくなって広島の実家に戻った長女・葵、パトロンがいなければ成り立たない画家という職業に嫌気がさしている東京に住む次女・ネム、子供が出来たせいで教師という夢をあきらめて札幌へと渡った三女・あんず。30代を迎えた朝比奈家の三姉妹が母の死をきっかけにして女性として再びよみがえっていく姿を描いた作品です。女系で続いているからなのか女性によって支えられてきたのが朝比奈家。幼い頃に父親を亡くし祖母と母の頑張りによって育った葵、ネム、あんず、大樹は常に朝比奈家の女性の力を感じているようです。本来跡取りとなるはずの長男の大樹はそんな様子に安心感を抱いているのかコックになる夢に向かって前進中。そして結婚しても遠く離れても朝比奈家のことを常に気にかけていた三姉妹もまた朝比奈家の呪縛から逃れて母親として女性として自由に生きていこうとしはじめます。そのきっかけとなっているのは年下の男性との旅行中に起こった母親の事故死です。朝比奈家を守るためだけに生きているとばかり思っていたはずの母親が女性としての顔を捨てずにいたことが三姉妹にとっては大きな衝撃だったのでしょう。母親の死や人生をそれぞれの胸で謎解きしていきます。そうしてそれぞれの答えをもって新しい出発をしていく姿に名前のとおりの花のように美しさや凛々しさを感じられます。三人それぞれに違う個性が顕著なので読んでいて飽きることがありませんでした。

 『聖なる河』は、義父と2人の異父弟、そして唯一血のつながっGantona01 ている母という家庭の中にぬぐいきれない違和感を感じて育ったのが主人公の今日子。義務のように通っているなんとなく高校で盛り上がった嘘か本当かわからないマチ子の恋物語。彼氏を紹介してくれるというので友人達と興味半分に訪れた結果、今日子はマチ子の彼氏のサトルと肉体関係を結ぶようになります。そのことがきっかけになって堕ちていく今日子の人生を描いた作品です。義父と異父弟に囲まれた生活は不自由したものではなかったけれど、なぜか居場所をつかむことが出来なかったことが今日子が堕ちていく根本的な理由のようにみえます。安らぎの場所や自分にだけ注がれる絶対的な愛情を今日子は求めていたんだろうなぁと。そんな安住の地をサトルの腕の中に見つけ、高校を中退して一人暮らしを始めることになります。でもやっと安心できると思った場所はサトルの裏切りによってガラガラと崩れていきます。里美の相談にのったりできる今日子は高校生としては大人びて
いたけれども社会的にはまだまだ未熟だったということを突きつけられているのに今日子はそのことに気づくことはありません。そんなところにもまた未熟さを感じてしまいます。せめて高校を卒業して自分で生活ができるようになっていれば、1人で生きていけるしたたかさを蓄えられていたんじゃないでしょうか。主人公をラストまでとことんまで落とし続ける作品は本当に暗いものです。男と女のあり方を問う作品だと私は思いました。

そして『頼山陽』。 『日本外史』の作者としてあまりにも著名であり、かつ江戸時代きっての文人であった頼山陽の生涯を描いた長編小説です。広島在住の作者が地元中国新聞に長期にわたって好評連載した同名の小説に大幅に加筆して刊行されたもので、上下巻で900ページ、恐らく原稿用紙で2700枚以上にのぼるであろう大作です。
 頼山陽の著作は、漢文で書かれているために、現代の我々には大変馴染み難く、私も実際の作品はほとんど読んだことがありません。しかし、20年以上前に刊行された中村真一郎氏の『頼山陽とその時代』で、このある意味では同時代人にとっても型破りであったろう、スケールの大きな巨人の一部を垣間見た思いでした(これは、中村氏の著作のことを言っているのではなく、当時の自分の理解の程度を指してます)。だから、この長編小説で久しぶりに頼山陽の姿に再会した訳ですが、冒頭21歳の山陽が狂気にとりつかれたように脱藩して京へ上り、連れ戻された幽閉・廃嫡となる第一部の立志編から作者の入念・細緻な筆に引き込まれて、ほとんど滞りなく一気に読むことが出来ました。

「わしは三都のいずれかに出て、文で名をあげる」と大言壮語して、儒者の一家である頼家の人々を困らせる山陽は、しかしまた余人に無い強烈な意思とエネルギーで自己実現しようと放蕩と放浪を繰り返します。
 下女であった梨影を妻としながらも、妻女江馬細香との不思議ともいえる師弟愛を続ける山陽は、徐々に京において詩書画において名を
上げつつ、多くの文人との交流を広げてゆく。そして、働き者の妻梨影のお蔭もあって生活が安定してゆくにしたがい、山陽は永年書き続けた『日本外史』をようやく完成することができ、それによって一気に名声が上がるのです。
 『日本外史』は、尊王論を柱にした源平以降の武士の歴史ですが、漢文による壮大な日本史を在野において完成させた山陽の仕事は、当時にあっては偉業とも言えるものであったろうことはこの小説に描かれた各藩の反響からもよく分かります。また、幕末の尊王論への影響が大きかったことは紛れもない史実です。でも、この小説に描かれる山陽は、同時に書画骨董などに旺盛な物欲つまり蒐集癖があり、一度狙った書画は絶対手に入れるように執念を燃やすなど、周囲にとっては迷惑な人間だったようにも見えますが、それを補ってあまりあるほど友情に篤く、また周囲もほっておけないTkamio001 魅力ある文人だったように思います。さらにはこの親あってこの子あり、山陽の母静(梅?)の山陽に対する愛情の深さ、そしてそれにこたえるような山陽の親孝行は大変微笑ましかったです。
また、当時山陽ほど家の束縛を嫌い、自由気ままに自分の目標に向って進んだ自由人も珍しいですが、人間として成長するにしたがい、自分がいかに父や叔父たち、そして母や友人たちに支えられていたかに気がついて、それに感謝するとともに「人が人として自由かつ幸福に生きられる世であってほしいと切なる願望」をもって、多くの著作を書いてきたという作者の山陽像は、十分共感できるものです。

 それにしても、江戸時代詩書画ともこれだけ盛んだった漢文の文化は、現代ではほとんど忘れさられているのは、明治の急激な西洋文明の導入と、太平洋戦争敗戦による第二の開国のためなのでしょうか・・・

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2009年6月10日 (水)

私の好きな詩人~ライナー・マリア・リルケ編

 私が詩はあまりわからないのですが、『マルテの手記』は読んでおいたほうがよさそうです。リルケはプラハの人です。軍人であって鉄道屋の父はリルケの母と離婚すると、少年リルケをザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に放りこみました。やむなく陸軍士官学校までは進みましたが、ここでついに挫折。しばらく商業学校に通いつつ詩作をはじめ、プラハ大学で法律と芸術を習ううち、悲しくなって『ヴァークヴァルテン』という詩集を自費出版をしました。少女がこの名をもつ草に変身して恋人を路傍で待つという伝説に因んでいます。リルケはこの詩集を貧しい人々に配ったり病院へ送ってみました。それからミュンヘンに行き、ベルリンに転居。『家神奉幣』『夢の冠』『降誕節』を出版し、それを自分で祝って『わが祝い』を書きました。寂しすぎる詩です。リルケはロシアに旅行にでます。そのとき20世紀がやってきました。25歳でした。
 ロシアはひたすら荒涼とし、ひたすら広聊としていました。リルSag18 ケはクレムリンの復活祭の鐘の音を聞くうちに、これが自分の復活祭だと思うようになりました。リルケはこのあとも鐘の音について何度も綴っているのだが、この言葉の音感のようなものには凍てつくように鋭いものがあります。ただその音を共有してくれる者が見つかりません。
 それでもロシアには新たに感じるものがありました。のちにリルケはイタリアを「かつて神がいた国」と名付けるのですが、ロシアは「やがて神がくる国」だったのです。この独特の直観はついに『時祷詩集』という大作になりました。暗闇ですら会える神との逢着を歌っていました。
 リルケが少しは人間の温度と出会うのはロシアから帰って、女流彫刻家のクララ・ヴェストフと結婚してからです。ヴォルブスヴェーデに住みました。リルケはその中途半端がかえって苦手だったようです。ただクララとともに出会った芸術家たちの交流には気が惹かれて、それがのちのちまで尾を曳いたのです。それならヴォルブスヴェーデにそのまま住めばよいだろうに、リルケはここで単身でパリに行ったのです。すべてを残してパリに孤独を求めに行っている・・・などとんでもないことをするものかと思いますが、それがマルテとしてのパリなのです。マルテとしてのリルケには、今度は寂しさよりも厳しさがほしかったのです。だからリルケは4年にわたってロダンのアトリエに出入りして、芸術家の苦悩にふれました。内面に入っていったのです。リルケ自身にロダンを勝るものだってあったというのに、それでも自分より大きい厳しさが必要だったのです。ロダンだけではない、セザンヌのアトリエにも出入りしました。リルケは生涯一書生であらんとしたにちがいありません。
 しかし、やはりリルケはリルケなのです。ロダンやセザンヌに感得した言葉は『形象詩集』という結晶になる・・・とうてい美術批評家には書きえません。とくに日本の美術批評にはまったく見当たらない炯眼が輝いるのです。けれどもそれを書いてしまえば、またリルケは温度から遠ざかるのです。そこで徹底してみたのが、パリを命の行方として凝視することでした。こうして『マルテの手記』が綴られたのです。

詩というよりも小説であり、物語というには詩魂が透徹されすぎていSag25 ました。第1行目がこうなのだす、「人々は生きるためにみんなここへやってくるらしい。しかし僕はむしろ、ここでみんなが死んでゆくとしか思えない」。これではパリはルンルン気分で歩けないでしょう。。ボードレールやコクトーをなんとかしても、リルケのパリが残響すれば、とても歩けるものじゃないと思えてきます。

 『マルテの手記』におけるパリ観察は、デンマークの貴族の家に生まれた無名詩人マルテが見たパリということになっています。リルケはデンマークの詩人たち、たとえばヤコプセンやヘルマン・バングが好きだったので、デンマーク生まれの若者を自分の分身にしました。しかしマルテにとってのパリは、死ににくるための街なのです。実際にも手記に登場するパリは、そこがノートル・ダム・デ・シャンであれオテル・ディユ病院であれ、明るいはずのチュイルリー公園ですら、なんだか死に方の見本のような細部観察で成り立っているといえます。 

 リルケは似たような感想を、新たな恋人となったルー・アンドレアス・サロメへの手紙にも書きつらねています。とくに「パリは困難な都会です。ガレー船です」というセリフは有名ですね。パリはリルケにとってもマルテにとっても「いとわしいもの」で、つねに「行きあうすべてのものたちからたえず否定されている」ような街だったのです。そもそもこの手記は「僕は見る目ができかけているのだろうか」という疑問の萌芽から始まっています。そのうえで、ひたすら心を観察するという手記になっています・・・できるだけ正直に、できるだけ
偽りなく・・・。そこには国木田独歩の日記『欺かざるの記』のような日本人はいません。あくまでヨーロッパの、オーストリアの、ブレーメン地方の、幼年学校や士官学校が育てた青年の、そのような人物によるパリにおける赤裸々な手記なのです。
 

もっと俯瞰的なことをいうのなら、リルケが見たパリは20世紀がその後に作り出すすべての資本主義都市の行方を見定めたものだったのでしょう。

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2009年6月 9日 (火)

私の好きな画家~ピーテル・パウル・ルーベンス編

 まだ作者を知らない頃から親しんできた画家で、『キリスト昇架』や『キリストの割礼』などは誰もがテレビなどでみてきたのではないかと思います。ルネサンス期絵画の均整のとれた構図や理想化された人物表現とは一線を画し、ルーベンスの絵画は、動きの多い劇的な構図、人物の激しい身振り、華麗な色彩、女神像などに見られる豊満な裸体表現など、バロック絵画の特色が十二分に発揮されたものです。人物のまとう毛皮の色などに、黒を色彩のひとつとして積極的に用いていることも特筆されます。

  修業を始めたのは14歳頃からでした。師匠の一人であったRubens_cross01a オットー・ファン・フェーンは、ギリシア・ローマの古典に造詣の深い、教養ある人物で、ルーベンスはこの師から多大な影響を受けていいます1600年にはイタリアへ渡り、マントヴァ 公の宮廷画家となり、諸外国までその名声を轟かせたバロック期を代表する画家。修行時代に風景画家フェルハーヒト、アダム・ファン・ノールト(ルーベンスの後に続くフランドル絵画の巨匠ヤーコブ・ヨルダーンスの師であり義父でもある)、ファン・フェーンと三人の師から絵画を学んだ後1600年から1608年までイタリアで、ミケランジェロの肉体表現、ラファエロやマンテーニャの古典思想的表現、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ等ヴェネツィア派からの豊かな色彩による画面構成、コレッジョからの甘美的表現などルネサンス芸術を研究する一方、イエズス会とも接触を図りましたイタリアでの滞在で一気に才能が開花し、社交性もあったのですが画家はヴェネツィアの外交使節として、名画を寄贈するためスペインへ向かいますが、途中大雨により名画を濡らしてしまいました。しかし画家自身がそれを修復したのです。その出来栄えの良さにスペイン国王は勿論イタリアの貴族からも賛辞を受けました。

1608年、当時アントワープを統治していたハウスブルク家アルブレヒト大公夫妻に宮廷画家として仕え、ヴァン・ダイク、ヤン・ブリューゲルらと共に次々と作品を制作していきます。総作品数は約1200点と膨大な数が残っていますが、大半は工房作品か他作家との共作。ルーベンスの画家としての優れた才能や洗練された友好的な態度によってイザベラ大公妃を始め、フランス王妃マリー・ド・メディシスやフェリペ四世など当時の権力者とも交友関係を築き、使節として国交の正常化に尽力を尽くすほか、歳の離れたスペインバロックの巨匠ベラスケスとも交流を持ちました。またカラヴァッジョの『キリストの埋葬』やティツィアーノの『ヴィーナスへの捧げもの』、レオナルド・ダ・ヴィンチの現在は失われた大作『アンギリアの戦い』など、ルーベンス自らが描いた巨匠たちの模写も数多く残されています。

 多くの言語に精通していたルーベンスはイタリア、スペイン、英国にも足跡を残し、外交官としての一面もあった。上述したオランダとフランドルの休戦協定の有効期間は12年間で、1621年にその期限が切れると、フランドルは再び戦火にさらされた。当時、北部ネーデルラント(オランダ)は独立していたが、フランドル(今のベルギー)は引き続きスペインの支配下にあった。1628年、前述のイザベラ王女は和平のための外交使節として、ルーベンスをスペインのマドリードに派遣した。ルーベンスはそこでスペイン最大の画家ベラスケスに会っており、またスペイン宮廷が所蔵していたティツィアーノ(ヴェネツィア派の巨匠)の絵画を模写するなど、画家としての活動もしています。

 『キリストの割礼』は、イタリアへと旅立ったルーベンスが同地で描いた作品と推測される初期作です。本作の主題は、天使のお告げによりイエス降誕の八日目に包皮を切除し、神の子に『イエス』と名付けるキリスト教の儀式「キリストの割礼」を描いたもので、イタリアでの古典研究と色彩表現の吸収により体得した古典思想的表現や豊かな色彩による画面構成など、随所にルーベンスの才能の開花が垣間見ることができます。本作はイエズス会に属するジェノヴァのサンタンブロジオ聖堂祭壇画のために制作された作品で、イタリアへと渡ったルーベンスとイエズス会の親密な関係性を示す作品としても興味深いものがあります。また本作の主題「キリストの割礼」は、「神殿奉献」との類似性と、卑俗性から19世紀以降は全く描かれなくなった主題でもあるのです。

 初期ルーベンスにおける最高傑作のひとつで、プラド美術館がRubunnssu001 所蔵する『東方三博士の礼拝』。本作の主題は降誕したイエスと、その礼拝に訪れる欧州、亜細亜、阿弗利加の三博士を描く『東方三博士の礼拝(マギの礼拝、三王の礼拝などとも呼ばれる)』で、豊かな色彩、ミケランジェロを思わせる劇的な肉体描写、大人数による画面構成などの、後に大作主義とも呼ばれた圧倒的な表現が示されてますね。また本作はイタリアから帰国したルーベンスの最初の作品であり、アントウェルペン市庁舎大会議室の装飾のために描かれたもので、画面右部分の馬上の人物など、画家自身による加筆がなされています。

 王の画家にして画家の王ルーベンスがアントワープに戻って最初に手がけた大規模な祭壇画で、画家随一の代表作『キリスト昇架』。主題は題名が示すよう、十字架に掛けられるキリストを描いた≪十字架昇架≫で、やや伝統的様式の構図を取りながらも、ミケランジェロの研究から会得した隆々しい肉体表現や、ティントレットを思わせる人物の複雑でうねりの示されるポーズや極端な短縮法を用いることによって、この巨大で重要な祭壇画に、それまで見られなかった劇的かつ感情豊かな効果をもたらしました。シント・ヴァルブルヒス区教会の主祭壇画として描かれた本作ですが、同教会は現存せず、現在は『キリスト降架』と共にアントウェルペン大聖堂が所蔵しています。

 ちなみに『フランダースの犬』において主人公のネロが見たがっていた絵画(アントウェルペン大聖堂にある『キリストの昇架』と『キリストの降架』)の作者として有名。ネロが祈りを捧げていたアントウェルペン大聖堂のマリアも、ルーベンスの作品『聖母被昇天』だそうです。『フランダースの犬』の舞台は十九世紀のベルギー北部のフランダース(フランドル)地方。現在ではアントウェルペンに隣接するホーボーケンが舞台となった村のモデルと考えられています。ウィーダはこの作品を執筆する前年にアントウェルペンを旅行で訪れてホーボーケンにもやって来ており、当時のこの村にまだ領主の風車小屋が存在していた事から物語に登場する風車小屋はこれをもとに描写されたものと見られていました。さらに物語に登場するアロアのモデルと思しき12歳の領主の娘がいた事も確認されています。童話として愛されてきましたが、もとを辿ると菊池寛氏が翻訳したものであり、童話なのに主人公が死んでしまうと言う悲劇で現地ではあまり受け入れなかったそうでが・・・私もアニメで観て、こんな終わり方をするなんてと大泣きしたものです。話がずれました。

 ルーベンスは1600年イタリアでの宮廷画家を振り出しに、アルRubennse002 ブレヒト大公・イサベラ公妃に仕え語学が堪能故に外交官としても活躍した彼は1630年イギリス国王チャールズ1世よりナイトの位を授かり、又1631年にはスペイン国王フェリペ4世からもナイトの位を授かっています。 私生活では1609年10月に最初の妻イサベラ・ブラントと結婚生涯に1500点もの作品を残していますが、肖像画が大部分を占めており作品には宮廷画家らしく格式があり威厳のある作品の多いなか家族や友人を描いた作品も数多くこの頃の作品、すいかずらの茂みのルーベンスとイサベラ・ブラントには仲むつましい2人の姿が描かれています。ベルギーに住居があった関係でベルギーで切手の発行が多く、二番目の妻エレーヌ・フールマンを描いた作品も多く、総作品数は約1200点と膨大な数です。

大量の絵画の注文を受けたルーベンスの絵画制作方法として
 1.最初から最後までルーベンスひとりで仕上げる場合
 2.友人の画家たちと共同で制作しルーベンスが仕上げる場合
 3.油絵の複製画を弟子に制作させてルーベンスが仕上げる場合
 この3パターンで1200点以上の作品を世に送り出しました。

1200点と一言でいいますが、62歳でなくなられているので、1年で・・・数え切れませんね。絵だけに生涯を捧げた、彼も孤独だったのかもしれません。でも宮廷画家というのは一定収入が得られただけでも、他の貧しい絵描きより恵まれていたとは言えるのでしょうが。そこに自由はあったのでしょうか・・・アマデウスのサリエリを思い出してしまいました。

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2009年6月 8日 (月)

私のすきな作品たち~伴一彦編

 私が伴さんを意識したのは『スチュワーデス刑事』でした。福岡県立福岡高等学校、日本大学芸術学部映画学科脚本コース卒業。在学中に石森史郎に師事しました。1981年頃から本格的に脚本家の活動を始めていました。言われてみれば、『うちの子にかぎって』『パパはニュースキャスター』、『誰かが彼女を愛してる』などはみんな伴さんの脚本で、観てた、観てたの渦でした。

 『七瀬ふたたび』と言えば解るでしょうか。その日、わたしは目覚Nanase001 めた。ひとを超えた、未知の力に。「孤独なエスパーたちの出会い 仲間との絆 そして戦い」。他人の心の声を聞くことのできるテレパス(精神感応力者)、七瀬。「なぜ自分に、こんな力が備わっていたのか」。死んだ父が自分の能力の誕生にかかわっていたことを知り、彼女の旅ははじまる。七瀬が出会うさまざまな未知能力者たち。仲間に支えられ、七瀬は父の謎を探り、自分たちを狙う大きな力と戦う。明らかになる衝撃の真実、そして七瀬たちを訪れる大いなる最終章…火田七瀬は老人ホームで働く母親思いの女性である。母の死をきっかけにテレパシー能力にめざめた七瀬は、死んだと聞かされていた父・精一郎が実は生きているかもしれず、まだ自分が幼いころ、精一郎によって自分に特殊な力が与えられたことを知る。

七瀬は精一郎の生前の足跡をたどり、かつての父の研究仲間である科学者・藤子と知り合う。藤子の話を聞き、精一郎の死への疑惑は深まる。七瀬は父の謎を解き明かすための旅の電車のなかで、その電車が事故にあうことを予知する青年・恒介、同じテレパシー能力をもつ少年朗と出会う。恒介もまた、かつて精一郎の能力開発実験に参加したことで未知の力を呼び覚まされた人間だった。七瀬は恒介の勤めるマジック・バーで働き、親のいない朗とともに暮らしながら、精一郎の秘密への手がかりを探しはじめる。七瀬たちの行動に疑念を抱く刑事・高村は、七瀬たちを徹底的に追跡する。悪意をもつ未知能力者たちとの対立、明らかになる精一郎の隠された過去、そして七瀬たちを狙う謎の組織との戦い。やがてついに七瀬たちは、人類の命運を左右しかねない未知能力の真実に直面する…という、超能力者であるが故の苦悩や葛藤を描く筒井康隆氏のSF小説およびそれを原作として1979年以降、数回にわたり制作されたテレビドラマでです。小説は第7回星雲賞を受賞しました。2008年なので記憶に新しいと思います。それに『喰いタン』東山紀之さんが見事3枚目を演じてくれました。

 田村正和さんが演じることが多かった番組のなかでも『うちの子Papa001 にかぎって』は、田村正和さんが小学校の教師役に挑戦。悪ガキたちの行動から大人社会を風刺し、大いにお茶の間に話題を集めましたね。「小学5年生の子どの発言や行動を通して大人や社会を風刺するコミカルでシニカルなドラマでした。二枚目路線だった田村正和さんに、ちょっぴり頼りない石橋先生のキャラが見事にハマッっちゃたのです。

 それ以田村さんの2枚目半的な役は続き、『パパはニュースキャスター』でも、酒を飲むと記憶が飛ぶ、独身主義のニュースキャスター・鏡竜太郎の元に、12年前に酒の席で口説いた3人の女との間に出来た娘が現れ、いきなり3人の父親になるというコメディドラマが出来ました。レギュラー終了後も1994年までスペシャルで放送され、3人の娘の名前がすべて「愛(めぐみ)」である。鏡竜太郎が“身を固めるから”と女を口説く時、“娘が出来たら何と名付ける”と訊ねられ、決まって「愛情の『愛』書いて『めぐみ』、愛に恵まれるように」と答える事から。スペシャル版で、「愛」は母親の名前であることが判明するのです。

 翌年に『パパは年中苦労する』という類似ドラマが制作されました。'80年代の子役全盛期の傑作ドラマででしたね。
巽耕作、41歳、新進気鋭の作曲家。10年前に結婚し、4人の子供をもうけたが、離婚。子供達は別れた妻が引き取り、彼は優雅な独身生活を送っています。女には勿論モテるが、口説いた女に振られる事も多く、実は、子供好きな彼、つい酔って子供の写真を見せてしまうのです。ある日、離婚した妻が突然蒸発してしまった。彼は、置き去りにされた子供達の面倒を見なければならなくなってしまいました。(冒頭ナレーションより)”このドラマは、噂のプレイボーイが子育てに悪戦苦闘する、聞くも涙、語るも涙の........喜劇である”

 等など、田村さんが子供と絡むドラマが6本も当時ありました。でも私はあえて『スチュワーデス刑事』に優先順位を1位としたいのです。
日本航空の国際線担当客室乗務員3人組が、乗務機に乗り合わせた乗客(多くは著名人)に関係する事件に遭遇する、という形で展開される「トラベルDajka001 グルメミステリー」なのです。このドラマは日本航空が全面的に協力しており、その為関係者のアリバイトリックに航空ダイヤ(撮影当時の時刻表を使用)を巧みに利用したものが用いられていました。また毎回、日本も含めフランス、ドイツ、イタリア、カナダ、及びヴェトナムなど日本航空の就航地でロケが行われている他、同社社員がエキストラとして出演しているというのです。
シリーズ物のサスペンスドラマでは珍しい楽屋落ちや出演者に関する内輪ネタを巧みに取り入れた演出が好評を博し、2005年に放送された第9作目までの平均視聴率が19.3%という人気シリーズでした。しかし、主演3人の内、財前直見と水野真紀が結婚(ちなみに財前さんの夫は、この番組のプロデュース・演出を担当した本間欧彦である)し、スケジュールがきつくなった事もあり、2006年1月13日放送の第10作目を区切りとしてシリーズは終了しました。現在のところDVD化されていません。
 番組が始まった当初、一般的に「スチュワーデス」という愛称で呼ばれていた主人公たちの職業は、その後、業界内で正式に使用されている「客室乗務員」に名称が統一されましましたが、シリーズ物という事もあり、「スチュワーデス」という愛称がそのまま使用されているのも軽々しくなくてよかったと思っています。

ところが、『初雪の恋 ~ヴァージン・スノー』がいきなりQVD化ですよ。『スチュワーデス刑事』はまだなのに!!
 この作品は日韓合同作品で、「初雪の日にデートした恋人たちは幸せになる」--そんなソウルの恋人たちの間で信じられている言い伝えから生まれた、一途な恋の物語です。陶芸家の父親に同行して、京都に転校してきた韓国の高校生ミン(イ・ジュンギ)は、七重(宮崎あおい)と出逢ってひと目ぼれ。日本と韓国の文化の差を乗り越えて、七重は少しずつミンに心を開いていき、やがて2人は初雪の日にソウルの石垣道を一緒に歩くことを誓うようになる。だが、七重の家庭には事情があり、七重はミンに心を残しながらも、祇園祭の宵山の夜を境に、突然、ミンの前から姿を消してしまうのです・・・

『 ストレートニュース』も面白かったですね。ストレートニュースとは、報道用語で、キャスターのコメントや特集コーナーなどを一切挟まず、起きた事件や出来事のみを放送する報道番組のこと―。低視聴率で打ち切り寸前の報道番組「ストレートニュース」のプロデューサーとなった、矢島俊介。「事実の裏側に隠された真実を伝える」と言った報道姿勢で、自ら現場に出向き型破りな指揮を執り、周囲の困惑や反発を招くのだが・・・。報道の現場に働く20人にも及ぶメインキャスト達が繰り広げる人間模様。緊張感溢れるリアスナストーリーが冴える社会派エンターテイメントドラマでした。放送中は毎週、号泣!スピード感と迫力があってハラハラドキドキ!そして様々な問題提起。そのうえ泣かずにはいられない内容でした。

 これらを通して伴さんについて思うこと、純愛を書きたいけれど、ヴェールをかぶせて3枚目ぶっているんじゃないかと、作品を観て感じずにはいられませんせした。ドタバタの中にも、ちゃんと芯がある、だから殆どのドラマがDVDになているのでしょうね。

 あまり視聴率を気にせず、マイペースで邁進して欲しい脚本家さんでした。
 

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2009年6月 7日 (日)

私の好きな歌舞伎役者さん~坂東玉三郎編

 玉三郎さんには、舞台に立つと、その瞬間にぱっとそこが明るくなるような華がありますね。女性から見ても魅力的です。玉三郎さんの舞台から醸し出されるその、命そのものが震えるような、初々しい気配に見せられてきた方も大勢おられるのTama001 ではないでしょうか。玉三郎さんは、子どもの時に病気をされて、その影響もあり、「いつ踊れなくなるか。明日もう舞台に立てないかもしれない」と思い続けてきたのだといいいます。遠い目標を立てるのではなく、「まずは明日」と常に「今、ここ」と「ほんの少し先」を大切にしてきのだと。
 「明日はどうなるかわからない」という切なさ、不安が、玉三郎さんの舞台のふるえるような初々しさを支えてきたのでしょう。映画監督や舞台の演出にも携わっている玉三郎さん。その中で、「他の人を成長させる」という喜びに目覚めたのだといいます。 「役者は基本的に自分自身が向上することに命を賭けていますから、他の人を成長させるということにそれほど情熱を傾けられるかどうかわからなかった。でも、そういうことができるように学習した」と玉三郎さん。
 他人の学びを助ける際に一番大切なのは、その人自身が何かを発見した時に、「そう、それ!」と横から指摘してあげることだといいます。学ぶということは、自発的に行われる時に最も進むのであるが、玉三郎さんのように経験を積んだ先達者が傍らで見守り、的確に「そう、それ!」と言ってあげることで、発見の喜びは増し、自信がつき、結果として学びの質が変わるのでしょう。
 相手のことをよく観察しなければならない、と玉三郎さんは言います。歌舞伎は、出雲の阿国から始まっていますが、人気が出た時、江戸幕府が女性が舞台に立つことを禁じました。そのような制約から生まれたのが「女形」。

 玉三郎さんが演じる女性は、「本物の女性」よりも「女」らしですね。男が女を演ずるということを、玉三郎さんは楽器による音楽の演奏にたとえます。肉体が楽器となるのだと。一つひとつの所作が、音符のような存在になる。所作を重ねることによってそこにはもともと存在しなかった「女らしさ」という「音楽」が生まれる。「女らしさ」は肉体に宿るのではないむしろ、抽象的な存在として、肉体を突き抜けた「向こう側」に見えるのでしょう。誰も見たことがないという、玉三郎さんの「振り切れた」踊りは、一体どのようなものなのでしょうか。
「神様が見ているのではないですか?」と尋ねると、「神様がいるかどうかはわからないけれども」と前置きした上で、舞台で踊っていて、「天が見ている」と感じることはあると玉三郎さんは言われました。
 踊っている最中に、何のためにそうしているのか、心許なくなることがある。そんなときの「最後の支え」が、「天が見ていらっしゃる」と思うことだと玉三郎さん。素晴らしいお話でした。

 私は生で歌舞伎を観たことがありませんし、歌舞伎云々と言いたいわけでもありません。ただ、美しい華のような方のことを知りたいだけなのです。1992年 映画『外科室』を初監督し、伯爵夫人と気鋭の外科医との秘めたる恋を見事に映像化されました。泉鏡花氏の小編を玉三郎さんが映画化しました。原作が短いだけに、映画も50分ほどの短編です。人で外科医の高峰(加藤雅也さん)が、貴船伯爵夫人(吉永小百合さん)の手術を担当することになりました。清長は高峰に頼み、その手術を見学させてもらうことになったのです。手術室の周りには、手術を気遣った貴顕たちが囲繞し、厳かなような、悲しいような、不思議な緊張感に包まれていました。手際よく進む手術の準備。しかし、いよいよ麻酔をかけようという段になって、伯爵夫人は「いや、よそうよ」と言い出したのです。驚き騒ぐ周囲をよそに、固い決心を相貌に漲らせている伯爵夫人。お付の者が、その理由を問うと、伯爵夫人は秘密を口走りそうで怖いから麻酔は嫌だ、と言うのでした。しかし、手術は喫緊の問題。遅らせるわけには行きません。それに肉を削いで骨を削る手術が、麻酔なしで行えるわけもないのです。しかし伯爵夫人は「手術をするのは高峰先生だろうね」と確認したあと、「さあ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから大丈夫だよ。切ってもいい」と蒼白な顔で言うのでした。その時、黙したまま座っていた高峰が立ち上がりました。手術を行うようです。押さえましょう、という看護婦に「それには及ぶまい」と答える峰の顔は、秘めた激情を強いて抑えているような沈鬱に満ちています。
「夫人、責任を持って手術します」と言う高峰に「どうぞ」と僅かばかりの笑みを持って答える伯爵夫人。メスが、伯爵夫人の胸にさっと走りました。薄く滲むTama004 のは、玉のような血です。さらに深くメスが伯爵夫人の胸を切開します。その刹那、起き上がることもかなわなかった伯爵夫人は、ぱっと上半身を起こし、高峰の胸にすがりつくのでした。「痛みますか」「いえ。あなただから。でもあなたは、あなたは私を知りますまい」と言うや否や、高峰の持つメスを深く突き通し、伯爵夫人は絶命したのです。「忘れません」という高峰の声だけが
、天井の高い手術室に響くのでした。今を遡ること九年前。まだ学生の清長と高峰は、小石川植物園を散策していました。折しも園内は躑躅が満開の季節。数奇屋からは検校の琴の音と錆びた声が聞こえてきて、より風雅を高めています。すると二人の前に、着飾った紳士淑女の一団が歩いてきたのです。風采の良い紳士、花と顕を競う妍を競うかのように華やかな娘たち。しかし、その中で最も艶やかなのは一人の貴婦人だったのです。思わず見とれる二人。特に高峰は、その貴婦人に放心の体で視線を注ぐのでした。「見たか」「うん」顔を見合わせる二人です。清長は画学生らしく咲き誇る躑躅をスケッチしています。しかし、ふと気づくと高峰が見当たりません。目で探す清長。いました。高峰は園内の小川のほとりに立ち、向こう岸を凝視しているではありませんか。そして向こう岸には、高峰と同じように凝視している貴婦人がいたのです。高峰と貴婦人の視線は、その一瞬を永遠に焼き付けたいと願うように、交錯して離れないのでした。
 清長が回想を終えると、隣では老人が気持ちよさそうに寝ています。清長は「ご老人。二人は天国に行くことがかなわないのだろうか」とつぶやくのです。まるで、一枚の絵を見ているような作品です。それも鋭い美的感覚に裏打ちされた、一幅の名画とでも言えば良いのでしょうか。実際に小石川植物園でロケをしているようなので、Tama002 躑躅の美しさも圧倒的。たまたま風が強い日のロケだったのでしょう。風にザワザワとなびく躑躅の花が、美しさとその後の悲劇を予感させて、風までが名演技だと感心してしまいました。そして箏曲も見事、ヨーヨーマのチェロも見事、と音楽までが一流です。吉永小百合さんや中井貴一さんは危なげない演技。淡々とこなしている感じです。加藤雅也さんは、台詞回しがおかしいような気もしたし、下駄を履いて歩いているシーンなどでは転ぶんじゃないかとハラハラしたりもしましたが、容姿で選んだのでしょうから、まあ納得です。
 ともあれ、決して「ああ面白かった」と膝を打つような種類のものではありませんが、展覧会で絵を見て、よく分からないなりに感心してしまったような気分にさせてくれる映画でしたね。

 歌舞伎に留まらず、近代劇(マクベス、エリザベス等)や映画(夜叉ヶ池、天守物語等)そして映画監督をこなす玉三郎さん。

 素敵過ぎます。

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2009年6月 6日 (土)

私の好きな画家~アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック編

 彼の奇抜な絵は私を一時虜にさせました。ヨーロッパで最も由緒ある大貴族トゥールーズ=ロートレック家の嫡男として生まれ、少年のころ両足の大腿骨を折るという二度の事故のあと、不具の身となったロートレックは、絵画で欠けた人生補Rotorekku001 おうとしました。
 彼の作品は、もちろん世界的な財産であるとともに、当時を明らかにした記録、特にパリ生きる人々の本当の姿を描いています。今世紀前後のパリには画家だけでなく、小説家や音楽家、彫刻家など、世界中の優れた作家がたくさん集まり、影響されたり、共同作品を作ったり、共に生きたりした素晴らしい時代でした。これは、単なる偶然ではなく、1900年にパリ万博が行われ、その事によって、更に活気づきました。その中から芸術的な「派」を作っていく、例えば、セザンヌやルノアールらの「印象派」の人々や、一匹狼のドガのような人がいました。そして、彼らに共通していることは、貧乏であるということ、生活費を稼ぐ必要がありました。ルノアールは、そのために毎日小さな油絵を1枚仕上げていました。しかし、ロートレックは全く違いました。

 1864年に南仏のアルビで生まれ、生家はカルル大帝の時代までさかのぼり、十字軍の騎士も輩出したフランスの名家でした。苦労しらずな恵まれた環境のもと、人生を思いのままに楽しむのに、十分な財力に恵まれていたのです。

 しかし、彼には生涯二つの大きなコンプレックスが、彼自身をしめていました。一つは、幼年期の二度の骨折によって上半身は成長するのですが、下半身は発育不良のままという異常な容姿だったということ。父、アルフォンス伯と母は実の従兄妹同士であり、家系内での血族結婚が稀ではなかったと書かれていることから、骨と骨の成長に異常をきたす病気のために、発育障害になったことも理解できます。もう一つは、父親アルフォンス伯の存在でした。もともと、変わり者で有名であり、社会的な制約に一切縛られず、乗馬や狩猟といった現実離れしたものにしか興味を持ちませんでした。スコットランドタータンの肩掛けをまとい、バレエのチュチュを付けて昼食の席に現れるなど、奇妙な服装をして人々を驚かすのが好きだったと伝えられています。

 ロートレックに対しては、絵を学ぶためのアトリエをパリに探したPc010 りと彼なりにいろいろとしていたようですが、実際にはあととりとしての息子の接し方ではなく、不具の身を哀れんでのことだったらしいのです。時には、息子に対し、敵意にも似た感情を表していたともいわれました。しかし、ロートレックは、明るく、人前では決して愚痴を言わず、極めて背の高い人を好み、自分を冗談の種にしていました。変わり者の父親と息子は、パリのキャバレーでばったり会ったこともあるようですが、一生分かり合うことはありませんでした。歩み寄る術は、本当になかったのでしょうか・・・これこそ悲劇です。

 ある日、ロートレックはコルモンのアトリエで親しくなったゴッホとゴッホの弟テオとロートレックの子供のころの親友モーリス・ジョワイヤンと再会しました。テオはグービル画廊の支配人をしていました。また、彼のあとを受け継いだのが、ジョワイヤンです。後にジョワイヤンは、ロートレックが亡くなった後も彼の作品を管理し、彼の故郷のアルビに美術館を作りました。
 ロートレックは、その後グービル画廊へ足を向けるようになりました。1890年にグービル画廊は、浮世絵と日本の絵本(浮世絵絵本)を展示しました。ロートレックはジョワイヤンを手伝って、一緒にこの展示会の準備のために働いきました。19世紀末に日本芸術がフランスに紹介されると、印象派の画家たちが夢中になりました。ロートレックはゴッホと同じように浮世絵と巡り会い、その魅力に囚われ、熱心に研究しました。
 1891年、27歳のロートレックが「ムーラン・ルージュ」の依頼で、そのポスターを制作することは、彼自身未知の分野に挑むとともに、ポスター界の帝王ジュル・シェレへの挑戦を意味することでもありました。二年前に「ムーラン・ルージュ」開店披露のポスターをシェレが制作し、大変好評だったからです。ロートレックはシェレに教えられ、ピエール・ボナールにその技法を学んだ石版画と浮世絵研究したものを実現できる機会を迎え、一気に制作した「ムーラン・ルージュ」のポスターは大きな成功を収めました。
 

 翌年から石版画の製作に取り組み、カタログ総数の387点のほとんどを1898年までの7年間に製作していいます。大量の油彩画を制作しながら、年平均Rotorekku_003 ほぼ50点の石版画に取り組んだということだけでも、ロートレックの石版画にかけた情熱がうかがえますね。
 1894年9月ジョワイヤンはロンドンで歌麿展を開催しました。ロートレックも同行し、再び浮世絵の収集に没頭すると同時に、墨で一連のデッサンを描きました。その一つに『広重の手法による隅田川の風景』があります。この作品は、1972年の「世界の文化と現代芸術展」で盗難にあい、その後発見されていないそうです。
 ロートレックが果たした石版画の追求は、20世紀絵画の様々な方向性の前進となりました。
 ピカソが19歳の時描いた「青い部屋」は、ピカソ自身の部屋を描いたものですが、部屋の奥の壁の中央にロートレックのポスター『メイ・ミルトン』が貼られてあったそうです。泣きたくなる話ですよね。

 しかし、1899年、35歳の2月にアルコール中毒が原因の発作を起こしました。ロートレックの母親は治療のため彼を監禁することを決意。力づくででした。ロートレックが画室から出たところを拉致して、ヌイーイのサン=ジャム精神病院に入れたそうです。ロートレックは自由を奪われてしまったことに耐えられなかませんでした。正常であることを証明するために、記憶だけで『サーカス』シリーズを制作。ジョワイヤンら友人らの奔走もあって、退院にこぎつけましたが、36歳になって、再び飲酒癖が始まってしまいます。完全に健康が蝕まれてしまっていました。1901年、渾身の力で制作活動を続けていましたが、8月20日、発作の再発。ロートレックは母親の購入したマルロメの城館で、母親のそばで死にたいと望んみました。そして、9月9日に37歳で息を引き取ったのでした。37歳・・・・これからだというのに・・・。

 そんな生涯を送ってきたからこそ、何時観ても、飽きない、優しい目線と自分もこうであったらと言う望みと明るさが返って悲しく観えたりするんですね。あなたの絵は永遠に継がれていくでしょう。安心して眠ってください。

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2009年6月 5日 (金)

私の好きな作品たち~井上ひさし編

 1934年11月16日山形県東置賜郡川西町( 旧小松町) に生まれ、上智大学外国語学部フランス語科卒業。在学中から、浅草のストリップ劇場フランス座の文芸部兼進行係となり、台本も書きはじめた方です。
  戯曲『うかうか三十、ちょろちょろ四十』が芸術祭脚本奨励賞を受賞。放送作家としてスタートします。64年には、その後5年間におよぶNHKの連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』(共作)の台本を執筆。現代的センスによる笑いと風刺で多くMoji5 の人々に愛されました。
 69年には、劇団テアトル・エコーに書き下ろした「日本人のへそ」で演劇界にデビュー。
 72年には、江戸戯作者群像を軽妙なタッチで描いた『手鎖心中』で直木賞を受賞。同年『道元の冒険』で岸田戯曲賞と芸術選奨新人賞も受賞しました。
  以降、戯曲、小説、エッセイなど多才な活動を続けて、戯曲「しみじみ日本・乃木大将」『小林一茶』で紀伊國屋演劇賞と読売文学賞(戯曲部門)、小説『吉里吉里人』で日本SF大賞、読売文学賞(小説部門)、また『私家版日本語文法』『自家製文章読本』『井上ひさ
しの子どもにつたえる日本国憲法』などもベストセラーになっています。
  最新刊は『ボローニャ』と『ロマンス』。
 84年にはこまつ座を旗揚げ。「頭痛肩こり樋口一葉」「きらめく星座」「闇に咲く花」「雪やこんこん」「人間合格」「黙阿彌オペラ」「連鎖街のひとびと」「兄おとうと」「円生と志ん生」他多くの戯曲を書き下ろして上演しました。  「昭和庶民伝三部作」でテアトロ演劇賞、「シャンハイムーン」で谷崎潤一郎賞、「太鼓たたいて笛ふいて」で毎日芸術賞・鶴屋南北賞を受賞しています。
  小説、「腹鼓記」「不忠臣蔵」で吉川英治文学賞、「東京セブンローズ」で菊池寛賞をも受賞。改めて幅の広い活躍に目が離せませんね。
  87年には、蔵書を生まれ故郷の川西町に寄贈して図書館「遅筆堂文庫」が開館。ここでは、こまつ座主催での生活者大学校を開校しています。
  こまつ座公演以外にも、新国立劇場に「紙屋町さくらホテル」「夢の泪」他を書き下ろしました。戯曲「化粧」「藪原検校」「父と暮せば」などは海外公演でも高い評価を得ています。2001年には、知的かつ民衆的な現代史を総合する創作活動で朝日賞を受賞。2004年、文化功労者に選ばれました。2007年、『私はだれでしょう』(こまつ座)、『ロマンス』(こまつ座&シス・カンパニー)を書き下ろして上演しました。戯曲『父と暮せば』は英・独・伊・中国語対訳本を刊行(8月にはロシア語刊予定)。これまで、フランス、ロシア、中国、イギリス、カナダ、アメリカ、ドイツなどで上演、リーディングされています。

 とにかく賞を総なめしているこの方、私が知ったのはよく巨泉さんと11PMに出ており、作家として知ったのは『手鎖心中』でした。勿論『ひょっこりひょうたん島』もかすかに覚えていますが・・・

 文体は軽妙であり言語感覚に鋭く、『週刊朝日』において大野晋氏、丸谷才一氏、大岡信氏といった当代随一の言葉の使い手とともに『日本語相談』を連載、『私家版日本語文法』など、日本語に関するエッセイ等も多いのが私が好きなわけでもありますが、 自他ともに認めるたいへんな遅筆で有名であり、書き下ろし戯曲が公演に間に合わず休演させることも度々で、それを逆手にとって自ら「遅筆堂」という戯号を用いることもあります。特に戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした「パズル事件」は悪名高いのです(笑)。

 休演や初日延期の事態になった場合の損失には私財を投じて補填してそうです。1983年に自作の戯曲のみを専門に上演する劇団「こまつ座」を創立、みずからを座付き作者と名乗りました。ちなみに親交のある永六輔氏によると「遅筆がひどいのでパソコンで字を書こうと考えていると話していたが、どちらにしても同じだからやめなさいと説得し、結果やめていた」と明かして、遅筆は字を書く以前の問題だといいます。ただし字は丁寧で大変読みやすく、編集者を手こずらせることはないそうです。

しかし、その戯曲の完成度の高さは現代日本おいては第一級のものであり、数々の役職を含め、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立している。特にデビュー以来40年近くにわたって話題作を提供し続けていることは、他分野の創作も含めて異例の息の長さだといえるでしょう。私は議曲を見に行くと言う事が無いのですが、一度でいいから「こまつ座」で観てみたいです。
 また、政治活動を行ったり、無防備都市宣言を支持しており、「Mojiriani005 (真の国際貢献をなすめには、)例えば医学の世界で、日本が世界最良の病院となるようにし、ノーベル医学賞は毎年日本人が貰い、日本人が癌の特効薬を開発し、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになれば、ブッシュさんもプーチンさんも世界中の富豪も、日本に診療してもらいたくなり人質同様になれば、そんな日本を攻撃できない、してはいけないと思うようになる。」などと極めて大胆な発言をしていました。

そのような活動、思想、主義のため、何度か匿名による脅迫を受けたこともります。とりわけ第二次世界大戦における昭和天皇の戦争責任について、数々の戯曲で問題提起をし続けています。一方で今上天皇の園遊会に招待されて参加したこともあり、親と子は別の人格であると言う考えからも親近感を抱いているようにも捉えられます。このようなことは別にして、作品、作品。

 日本語は難しいです。母国語であるはずの日本語が一番解り難いと思うのです。当然、母国語だから読み書きや会話はできるのですが、その仕組みを意識して使っているわけではないですよね。私にとってこの程然様に不可思議な日本語をざっくりと解して大まかな理解に到達させてくれたのが『私家版日本語文法』でした。言語の仕組みの本など大抵は退屈なものなのですが、本書は読んでいて笑いがこみ上げてきます。

 『東京セブンローズ』は、国語とはなにか? 国家とは、市民とは?昭和二十年、根津の団扇屋主人による日記。そこには戦下の市民の真実と、戦後の占領軍による日本語ローマ字化計画が綴られていた ・・・時は終戦間際から終戦直後。舞台は東京下町。一介の団扇屋の親父が書き綴った日記帖、という体裁です。陰惨この上ない筈であったろう街の人々の生活が生き生きとユーモラスに描かれ、この時代を体験していない自分にも何やら懐かしい思いが浮かんできます。やがて人々は時代の歯車に乗って数奇な運命を辿り、ついにはGHQを向こうに回しての大作戦。物語の面白さは言うに及ばず。全編に井上ひさしの日本語に対するこだわり・愛着・美意識がこれでもかというくらいにギッシリ詰め込まれています。タネもシカケもてんこ盛り。至福の読書時間を約束してくれる快作です。     今や井上さんだけが、「日本語の問題」を、最高の日本語で、つねに適切な主題と意匠と惑溺するような感覚と起爆するような批評をもって、痛快きわまりない物語にできる唯一人の作家だということなのです。
 なぜ井上さんにそれができて、あとはあらかたダメになったかということを言うのも(石川淳氏・福田恆存氏・三島由紀夫氏以降、作家はしだいに日本語を勉強なくなっているようにおもので・・・)、ひとつの井上ひさし論だろうけれど、それではブンとフンを分断してしまうようなもの、肩凝りと頭痛を分離してしまうようなもの、愛嬌と愛国をとりちがえてしまうようなもの、それは勿体ない・・・
 それよりも井上の「日本語の問題」にはどんな素材も主題も細部もが吸収できる台所が用意されているということ、それが今日只今の日本人にとって重要な用意だということを説明していったほうが、井上さんになぜこんなことを“おねだり”したくなっているかの、説明
になりますね。そして、それがそのまま『東京セブンローズ』がどれほど凄い小説なのかという傍証になるはずなのです。

 また『父と暮せば 』は、先の大戦と原爆をテーマに、生き残った者たちについて語られた戯曲ですが、さまざまな立場の人が、さまざまに思いを抱いて読む脚本であると、思います。少し読んでは本を閉じ、自分の体験した震災や別れや、自分自身の心の動きと対話して、一段落つけなくては先へ進めなかったからです。そして、読み終えた今、心の蓋をとられた娘のように激しく動揺し、悲鳴のような嗚咽をあげて泣き伏してしまいMojiriani011ました。まだまだ、全然、この脚本の本当のところを汲み取れてはいないだろう、と思えるのに、です。これは本当に、人間すべての上に落ちてきた悲劇について書かれた作品でした。震災も戦争も知らない人でも、この悲劇を自らの上から払うことは出来ないでしょう。国も言葉も肌の色も習慣も、どんなに違う人たちがいようとも、人間と呼べるすべての人が、我がこととして受け取ることの出来る、優れた作品です。

 『吉里吉里人』では、一農村が吉里吉里国として日本から独立を 宣言。日本政府の妨害を如何に対処し目的を達成するか。吉里吉里人達が繰り出す奇想天外な対抗策とその行く末がこの小説の骨子であって、私が読み進む上での大きな誘因だったのですが、それだけを追うと大きな肩すかしを食らうでしょう。 読後に私の心に残るのは、そこかしこに散りばめられたエピソードに秘められた著者の持つ縦横無尽の博学さと、農業や医学や政治など諸制度に対する主張の根源性でありました。著者が抱く理想郷の片鱗を寄せ集めた結果が吉里吉里国なのだと思います。 やっつけ仕事の様に感じるどたばた喜劇の進行と猥褻表現と鋭い言語感覚と炸裂する知性と、ごった煮のアンバランスさにすっかり飲まれてしまいました。

  私はもっと読んでいるはずなのですが、ちょっと頭の中がごっちゃになってしまっています。しかし、彼の作品が好きな理由は日本語、国語を愛して止まない作品が多いことからも言えるのです。
 
 

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2009年6月 4日 (木)

私の好きな作品たち~冨川元文編

 久々に脚本家さんのお話です。大学卒業後、墨田区の小学校で図工の先生を8年間勤めました。教職の傍らシナリオの勉強を始め、1977年、『愛してます』(TBS)で師でもある小松吾郎氏との共同執筆でデビューしました。79年には公募に入選した『親切』がNHKで放送され、芸術祭優秀賞を受けました。82年の大河ドラマ『峠の群像』執筆を機に教師を辞職、脚本に専念。その後も『心はいつもラムネ色』『砂の上のロビンソン』『新十津川物語』(NHK)、『パパ・サヴァイバル』(TBS)、『櫂』(衛星第2)など質の高いドラマを茶の間に提供してきました。1991年、『二本の桜』『結婚しない女達のために』で第10回向田邦子賞受賞しています。

 『二本の桜』は、転職を軸にした兄弟愛の物語です。銀行支店長で、将来は重役といわれている剛志が、突然銀行に辞表を出します。腕のいい植木職Shagaru006 人だった兄と造園業をやりたいというのです。昔、ダム建設で沈む村の桜を、兄が移植、見事に根付いた桜を見た時の感動が忘れられないというのですが、転職の本当の理由は…。いうまでもなく桜は日本人の心の原典です。毎年力強く咲き誇り短期間に散るその美しさは人々を魅了し支えとなってきました。ダムに埋没する二本の老いた巨木を人々が惜しみ移転させた荘川桜。   著者はそこにヒントを得、兄弟とは、夫婦とは、木の生命力とは、老いるとは、などをうまく織り交ぜて一編の物語を創作しました。10年以上前に江守徹氏、長門裕之氏主演のNHKでドラマ化された番組ですが市井の人々の機微を上手に描いています。

 最初の作品『親切』では、無理をして3LDKのマンションを購入した若夫婦(岡本富士太、秋野暢子)。ローンの返済に四苦八苦のふたりは、一部屋を貸すことに。やがて老夫婦がその部屋に住み込み、奇妙な共同生活が。マンション問題、老人福祉、安楽死問題などをクローズアップされていきます。

 これらはすごい新人が出てきたと業界を震撼させました。いきなり大河ドラマ『峠の群像』の脚本家に抜擢、普通の小学校の先生が、大河ドラマを書く! というので、当時はあっちこっちの新聞に載ったものです。なんでも、そのとき新聞社のインタビューに、執筆に専念するので、教師も辞め彼女とも疎遠になって・・・とぼやいたらそれが記事になっちゃったと、ぼやいていたそうです。あれから、ざっと四半世紀、さらにカンヌ映画祭パルムドールを受賞した映画『うなぎ』など、名作を次々放ってきました。その間、トルコに留学。これもユニークな経歴。将来、トルコで知り合った、知人達と映画を作ることも、実現させたいそうです。
   
 とにかく富川さんの人間観察、洞察、分析の力は、凄いです。これが、脚本家の力だと思います。
これほど、偉い先生ですが、気さくな方なので、放作協では、女性会員に人気があり、「トミー」の愛称で呼ばれています。最近、ベテランの先生方も、「トミー」と呼び始めるようになりました。

『うなぎ』は、妻の浮気によって人間不信に陥り、唯一飼っているうなぎだけに心を開く中年男と、そんな彼をとりまく人たちの交流を描いた人間喜劇です。監督は前作「黒い雨」から8年ぶりにメガホンを取った今村昌平氏。吉村昭氏の『闇にひらめく』を、冨川さんと「罠」の天願大介氏、そして今村氏自身が共同脚色しています。撮影「BADGUYBEACH」の小松原茂氏。主演は「失楽園」の役所広司さんと、「義務と演技」の清水美砂さん。第50回カンヌ国際映画祭グランプリ(パルム・ドール)受賞作で、今村氏は83年の『楢山節考』に続く2度目の受賞となりました。97年度キネマ旬報ベスト・テン第1位も獲得しています。

 あらすじは、1988年夏、サラリーマンの山下拓郎は妻の浮気を告発する差出人不明の手紙を受け取りました。不倫の現場を目の当たりにした彼は、激しい怒りに駆られて妻を刺殺してしまいます。それから8年、刑務所を仮出所した山下は、千葉県佐倉市の住職・中島の世話で、利根川の河辺に小さな理髪店を開業しました。人間不信に陥っていた彼は、仮釈放中にトラブルを起こしてはならないこともあって近所づきあいもせず、飼っているうなぎを唯一の話し相手に、静かな自戒の日々を送っていました。

ところがある日、うなぎの餌を採りに行った河原で、山下は多量の睡眠薬を飲んで倒れている女性を発見。服部桂子というその女性は、山下によって命を救われますが、山下は「
東京に帰りたくない」と言う彼女を店で使うよう、中島の妻・美佐子Hirosi001 に押し切られてしまいます。でも、明るい彼女のお陰で店は繁盛するようになり、また山下の気持ちも次第に解きほぐされていき・・・。でも、そんな山下の前に刑務所で知り合った男・高崎が現れます。出所し、ゴミ回収の仕事に就いていた高崎は、桂子と幸せそうに働いている山下をやっかみ、桂子に山下の前歴をバラしたり、怪文書を店先に張ったり、山下のSEX経験をバカにしたりと執拗な嫌がらせをしてきます。一方その頃、堂島の子を身ごもっていることが判明した桂子が、山下の前から姿を消しました。過去を清算するために上京した彼女は、母を秋田の病院に帰し、堂島の会社から預金通帳を取り戻すと再び山下の元へ戻ってきます。しかし、堂島はそれを許しませんでした。山下の店へ先回りした彼は、帰ってきた桂子から金を奪い返し、彼女を連れ戻そうとします。ところが、それまで桂子の愛を頑なに拒絶し続けていた山下が、あえてトラブルに巻き込まれると承知しながら、堂島から桂子を守りました。山下は堂島とのトラブルで刑務所に戻されることになりますが、様々な人たちとの交流を通して人間性を取り戻し、桂子とお腹の子を受け入れて、これからの人生を生きていくことを決心するというものです。
 

 それぞれの個性がありながら、織り成す人間模様は考えさせられる事が沢山ありました。人間は弱い、だから助け合い、愛し合う。それを妬む人間の気持ちもよく解りますが、それも弱い人間の性なのでしょうね。少しだけ勇気があれば、少しだけ前進できったら・・・こんな気持ちになるのは、私だけではないでしょう。喜劇風に仕上がっててはいるものの、人間臭さが残るのは、冨川さんの優しさと今村監督の目がこんな素晴らしい作品に仕上がったのだと思います。

 『赤い鯨と白い蛇』も冨川さんの脚本の映画ですが、もうご覧になりましたか?
 雨見保江(香川京子)は、千倉に住む息子夫婦のもとに身を寄せることにってからのお話です。孫の明美(宮地真緒)を伴って千倉に向かう途中で昔住んでいた家を見に行きたいと、館山駅で途中下車しました。保江らがその家の中へ入って行くと、家の持ち主・光子(浅田美代子)が姿を見せ、この家を取り壊して建て直すと話します。保江は千倉に向かおうと促す明美に、「できれば今日はここに泊まりたい」と言い出します。光子はイヤな顔も見せずに承諾してくれました。次第に記憶が心もとなくなった保江は、「昔の約束を確かめるためにここに来た」と明美に打ち明けます。ふと外に目をやると、見知らぬ女性が家を覗いていました。彼女は、美土里(樹木希林)。以前、この家を借りていたことがあるのだと言いいます。女性たちはいつしか古い知り合いのように打ち解けはじめていました。保江が唐突に「この家には150歳になる白い蛇が住んでいて、その蛇と話をすると幸せになれる」と言い出すのです。記憶を辿るように白い蛇を探す保江の脳裏に、少しずついろいろなことが思い出されていきました。その記憶は、保江の心に深く刻まれた、青春時代のある出来事に深く関わりがあるのでした・・・。世代も生きかたもまるで異なる女性たちの出会いと別れを、深い慈しみを込めて描く珠玉の名編です。

 冨川さんの作品をもっと観たい観客の一人でした。

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2009年6月 3日 (水)

私の好きな映画~『サバイビング ピカソ』

 私は大抵の画家は好きでしたが、高校に入るまで、ピカソだけは受け入れられないでいました。それは、支離滅裂な絵、何故こんなに絶賛されるのか、批評家がいいと言ったことで誰もがいいと言い出したのではないかという疑問があったからでした。正直、ピカソの有名な絵画は、私には理解できず、そのことを率直に高校の美術の先生にレポートとして提出しました。そして、その答えは『いい作品には多くの人が自然に集まってくるものです。そこで初めていい作品と言われるようになるのですよ。』と言われ、ふと我に返りました。それ以来、ピカソの作品を青の時代のものから現在に至るまでPikaso001 観直しました。そして深く調べるようになったのです。

 私の過ちだと気付き、どれだけの作品を食い入るように観てきたことか・・・言うまでもありません。今年の誕生日に、私はピカソの画集をプレゼントされました。とても大切な宝物がまた一つが増えました。その間、1996年に『サバイビング ピカソ』が発表され、何度も足を映画館に運びました。

 老境に入った天才画家パヴロ・ピカソと、彼をめぐる女たちの姿を描いた伝記ロマンです。監督はジェームズ・アイヴォリーで、製作のパートナー、イスマイル・マーチャントとは、30年以上に渡る名コンビで知られていますね。製作はアイヴォリーとマーチャントにデイヴ
ィッド・L・ウォルパーの共同。脚本のルース・プローワー・ジャブヴァーラ、撮影のトニー=ピアス・ロバーツ、音楽のリチャード・ロビンス、美術のルシアナ・エリッヒは「ハワーズ・エンド」でも組んだ常連スタッフです。主演は「ニクソン」のアンソニー・ホプキンス。
 ヒロインにはオーディションで選ばれた舞台出身のナターシャ・マケルホーンが抜擢され、本作がデビュー作となった。共演は「42丁目のワーニャ」のジュリアン・ムーア、「ロシア52人虐殺犯/チカチーロ」のジョス・アックランド、「ヒート」のダイアン・ヴェノーラ、「ジェイン・エア」のジョーン・プロウライトほかです。

 あらすじは、1943年。大戦下のパリ。22歳の画学生フランソワーズ・ジロー(ナターシャ・マケルホーン)は、61歳の天才画家パヴロ・ピカソ(アンソニー・ホプキンス)と運命の出会いを果たします。38歳の年齢差を越えてピカソを愛するようになるフランソワーズ。ピカソには長く別居中の妻オルガ(ジェーン・ラポテア)、2人の愛人マリー=テレーズ・ワルテルと芸術家であるドラ・マール(ジュリアン・ムーア)Pikaso004がいました。かつてドラと暮らした南仏の家にフランソワーズを連 れて行き、母性的なマリー=テレーズから毎日送られて来るラヴレターを彼女に読んで聞かせるピカソ。彼の女に対する倣慢さを知り、恥辱を感じて家を去ります「が、ピカソは彼女を連れ戻し、永遠の愛を誓わせました。愛の苦しみは感じつつも、芸術家としては啓発されるピカソとの生活。1947年に長男クロードが、49年に長女パロマが生まれてからは、南仏の陶器工房が生活拠点になっていました。ピカソの知己のアンリ・マチス(ジョス・アックランド)との交際も始まりましたが、ピカソはお守り役的な新しい愛人ジャクリーヌ・ロック(ダイアン・ヴェノーラ)の元へ通い始め、2人の仲は急速に冷えていきます。祖母(ジョーン・プロウライト)が亡くなり、葬儀のためパリへ赴いた彼女は、浮かれ騒ぐピカソを見て、彼との別居を決心。子供たちだけとパリで暮らすという訣別宣言に幼児のように泣きわめくピカソ。数カ月後。ジャクリーヌと暮らし始めたピカソを訪ねたフランソワーズ。「君は戦士のように私の人生から去って欲しい」と彼女に願うピカソ。ピカソを称えた闘牛の開会式。フランソワーズは白馬にまたがって姿を現し、身をもって彼への失いがたい尊敬と自身への誇りを示すのでした。

 サバイビング…といっても、巨匠ピカソの長寿の秘けつの物語じゃなくて、彼の40歳年下の愛人フランソワーズが、いかにしてこの恋多き天才芸術家との10年の愛の生活をサバイビングしたか(生き残ったか)を描いた、天才ピカソを恋愛遍歴から描いた伝記映画です。現実にはもっと生々しくドロドロとした愛憎劇が繰り広げられたのかもしれないですが、監督のセンスかナターシャ演じるヒロインの魅力ゆえか、ラストの闘牛場のシーンに象徴される”愛の闘争”を描いた作品とはいっても、鑑賞後は、妙にすがすがしく颯爽とした気分になってしまうラブ・ストーリーでした。
 この映画は、ピカソ、フランソワーズ、その他の女性たち、誰かひとりに思い入れて同情的に描かれてるワケではなく、非常に公平な視点で描かれていたからだと思います。「恋は戦争といっしょ・・・ルールも掟もない(by カルメン?たしか)」、そして「恋愛には被害者も加害者もない」・・・あらためてそう強く感じました。

 ピカソは、いわゆる女たらしとは当然違います。ピカソ本人のPikaso005 みならず、彼に振り回され、別れていく女たちは、その苦しみ(だけではないけれど)のなかでしか生きていけない類の人種なのだと思います。対人関係の距離のとり方が互いにどこか似ているようにも見えました。
 だから、そこに善し悪しという価値は、意味を持ち得ないと思うのです。アンソニー・ホプキンスはピカソの生き写しのようにも見え、つい私もピカソに関われたらと願ってしまいました。マチス、ブラックなどの芸術家との交流、彼を支えた女性達とのエピソードなどがとても分かりやすく表現されていましたが、これを観て興味がわいたのはピカソ自身より、むしろ彼を愛した女性達でした。今回特にクローズアップされていたのはフランソワーズ・ジロー。なんでも、ピカソを「捨てた」女性は彼女ただ1人だったそうです。なので個人的にはあのラストに小さなカタルシスを感じました。金銭的にも、女としてもピカソに頼らず自立した女性だったフランソワーズ。素敵すぎます。

 一人の女性として、芸術家を愛するということは、とてつもなくパワーがいるような気がします。太宰氏のように心中することのほうが楽に思えてしまいます。そんなこと、思ってはいけないのですが・・・

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2009年6月 2日 (火)

私の好きな俳優たち~岸恵子編

 岸さんといえば、長くパリんい在住されていて、エッセイなども出されていますが、私はやはり、女優岸恵子さんが好きです。

 最初にいいなと思ったのが『悪魔の手毬歌』のリカ役をした時でした。本当に儚い、霞のような女性だと思います。この映画は、

古い因襲に縛られ、文明社会から隔離された岡山と兵庫の県境、四方を山に囲まれた鬼首村(オニコベムラ)。青池歌名雄は、葡萄酒工場に勤める青年。歌名雄には、由良泰子という恋人がおり、仁礼文子もまた、歌名雄が好きであった。この由良家と仁礼家は、昔から村を二分する二大勢力でした。しかし、二十年前に、恩田という詐欺師にだまされ、それ以来由良家の、勢いはとまってしまい、逆に仁礼家が前にもまKeiko002 して強くなった。その時、亀の湯の源治郎、つまり歌名雄の父親が判別のつかない死体でみつかりました。この事件を今も自分の執念で追いかけているのが磯川警部。磯川は、ナゾをとくために、金田一耕助に調査を依頼。金田一は、最初に恩田と特にかかわりがあった多々良放庵に会う。その頃、村では大騒ぎ。というのも、別所千恵が、今では人気歌手大空ゆかりとなり、今日はその千恵の里帰りの日でした。その晩、千恵の歓迎会の時に、第一の殺人事件が起きた。泰子が何者かによって殺されたのだった。そして、泰子の通夜の晩、葡萄工場の発酵タンクの中に吊り下げられて死んでいる文子を発見。この二つの殺人事件には、この地方につたわる、手毬唄の通りに行なわれていることを金田一は発見。そして、文子の通夜の晩、犯人は、千恵に入れかわっている里子を殺してしまいます。この犯人は、青池リカで、里子は、母親が犯人であることを知り、千恵の身がわりになったのである。金田一の捜査により、恩田と源次郎は同一人物である事が解ってしまいます。そして、恩田=源次郎は、千恵、泰子、文子の実の父親なのでした。リカは、それらの娘たちと血のつながる歌名雄をいっしょにできないと思い娘たちを殺してしまったのです。リカは、犯行を自供後、沼に入って自殺を測るという、ご存知の方が多い作品ですが、他の横溝作品より、好きな作品でした。
 このリカと言う役は歴代、何人もの女優さんが演じてこられたのですが、私は岸さんがはまり役だと思っています。彼女の持っている吸引力は、なんなのでしょうか・・・と考えた時、それはきっと彼女らが、「安定しきっていない存在のあり方」を楽しんでいるからなんだと思いました。小賢しい「演技の技術」を身につけた凡庸な役者たちが繰り出す優等生的な演技ほど、見ていて退屈で眠くなるものはありません。器用な台詞回しと器用な表情を作り、「映像演技のお手本」のようなマニュアルどおりの立ち回りを見せられても、スリルがないんです。よく、「子どもと動物には敵わない」という喩えがありますが、それは本当だと思います。子どもと動物は「次に何をするのか」予測がつかないから見ていて面白いし目が離せない。児童劇団で大人に飼いならされて死んだ目をしている子役たちを別にして、子どもというのは基本的に「打算」とか「計算」を身に付ける必要がない存在ですから、自分の内面に忠実に、天真爛漫に振る舞うことが出来ますよね。岸恵子さんの「演技者としての存在のあり方」も、まるで子どものような無防備さとスリルを感じさせてくれるものでした。演技技術というマニュアルに則った「安定」に寄りかからず、不器用さも醜さも含めた内面の多様性を隠さずに表現し、他者に開いてぶつかっている潔さ。ベテラン女優であるはずなのに、他の誰よりも演技が「素人っぽい」んです。だから目が離せない・・・「次の行動」や「次の表情」が読めないし、どんどん裏切ってくれるから退屈せずに見ていることができるし、常に驚かされ続けるんです。それがいろんな映画やドラマに出ていてつい見入ってしまうのです。

 『女王蜂』の家庭教師、神尾秀子役も最後まで目が離せませんでした。他にも『女が結婚しない理由』(1992) 『天河伝説殺人事件』(1991) 『式部物語』(1990) 『細雪』(1983) 『古都』(1980) 『闇の狩人』(1979) などは必見でしょう。

『細雪』は、昭和十三年の春、京都嵯峨の料亭、蒔岡家の四姉妹と幸子の夫貞之助が花見に来ているところから始まり、幸子は今度の雪子の縁談を本家の長姉鶴子(岸さん)から、家系に問題があるとの理由で断わるように言われ苛立っていました。五年前末娘の妙子が、船場の貴金属商奥畑の息子啓ぼんと駆け落し、その事件が新聞ダネになり、しかも雪子と間違って書かれ、本家の辰雄が奔走して取消し記事を出させたら、妙子の名をより大きく出す結果になったことがあったのです。妙子も雪子も本家の不手際から分家の幸子の家に居つくようになってしまいました。人形作りに励む妙子は、啓ぼんとの仲も冷め、奥畑家にもと奉公していて、現在は写真家で立とうとしている板倉と親密な間柄になっていましたが、板倉は中耳炎をこじらせて急逝してしまいます。雪子は、鶴子が夫の筋から持ってきた銀行員、幸子の女学校時代の友人、陣場夫人Monet07 の紹介の水産技官野村、幸子の行きつけの美容院のマダム井谷が持ってきた製薬会社の副社長橋寺とお見合いしますが、いずれも雪子が気にいらなかったりとうまくいきませんでした。そんな折、本家では辰雄が会社からもって帰ってきた東京赴任の知らせに、鶴子が動転していました。井谷がまた雪子に見合い話を持ってきます。相手は華族の東谷子爵の孫。板倉が死んでから酒場通いを続けていた妙子は、その酒場のバーテンダー・三好のところに押しかけ同棲してしまいますが、貞之助が会いに行くと、三好はしっかりした青年で、妙子も地道な生活設計を立てているようで心配はありませんでした。鶴子は悩んだ末東京へ行くこを決心し、雪子も東谷との縁談がまとまります。そして、冬の大阪駅、雪子や貞之助らが送るなか、鶴子たちを乗せた汽車は出発しました・・・谷崎作品の傑作を見事に映画化しています。会話が大阪弁で書かれた異色の作品でもあります。

市川監督は岸さんがお気に入りだったのでしょうか、映像の美しさと岸さんがまるで遷ろうもののように映し出されていますね。

 パリに在住し、色んな苦難もあったと思いますが、そういう外国暮らししてますよとか、苦労しましたよと言うことは微塵も出さず、いつもにこやかにしていらっしゃる姿勢は見習いたいものです。

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2009年6月 1日 (月)

私がやや好きな作品たち~川端 康成編

 何故好きの前に「やや」がつくかは、私は川端作品をまっさらな気持ちで読んだことがなく、いつも映画やテレビが先行していて、画像がちらついて純粋な気持ちで読めなかったことにあります。全てがそうではありませんが、『雪国』は駒子は岩下志麻さんで奔放に生きた女性としか捉えられない・・・決して作品の中ではそれだけの女性でなかったと思うのですが、そういう先入観があるのです。でも、冷静になって読むと文章の美しさはやはり類を見ないものがあります。

 15歳までに両親、祖父母、姉を亡くし、書簡を交わし合った三島自殺の2年後の昭和47年にガス自殺した享年72歳の著者の当時抱いていました。死生観と美の感覚が如実に表現されていると感じました。 村上春樹氏は「人生というのは負けるにKaii5 決まっているゲームを闘っているようなものです」と読者に答えましたが、 学識があり無為徒食で裕福な暮らしを続ける家族持ちの島村、島村と同じ雪国への列車に乗り合わせた美しく透徹な陰を持つ娘の葉子、彼女が懸命に看病する重病らしき男、彼女らと同じ雪国の町に住み島村を待ちわびる芸者の駒子、この4人もまたそのような世界に生きます。 彼らの生は死を、それは肉体だけでなく心の死を内包し、健気に純粋にそして一途に芸者としてその範疇の中で生きる駒子と彼女を取り巻く島村、葉子、病の男の生き様が、儚く、虚しく、慎ましく、時に退廃的に、また一瞬の美の煌きと生への野心、そして死・別れの翳を伴って描かれます。

 ノーベル文学賞を受賞した本書の価値を私では上手く表現できませんが、負けるに決まっている人の人生が持つ意味、或は人生そのものを、川端氏は自身の死生観と美感を持って描こうとしたのではないでしょうか。 私自身もっと人生を経れば本書の持つ深みにより近づける気がします。読後感はその人の年齢や人生経験により大きく異なるでしょうが、一読に値する深みのある日本文学です。
 この「雪国」が、芥川賞を受賞した川上未映子氏の137回芥川賞候補作の主人公(=恐らくは著者の分身)の大切な思い出として描かれたことに、時空を超えた日本文学の不思議な巡り合せを感じました。駒子は、東京へ酌婦として売られ、囲われ者になり、その後また借金のため芸者になるというとても辛い人生を送っていますが、男と(金で一夜を買われる芸者としてではなく)対等に恋する女として生きようとします。こうした悲しい芸者の人生が主題なのではないかと私には思えます。東京に住む、財産はあるが行動力のない男と不倫関係に陥る田舎の貧乏な芸者駒子は、どうにもならない愛と人生に対して、苦しみながらも、何もかも受け入れて生きています。この人生は現代人から見ればとても哀しいのですが、戦前の新潟の山奥の貧しい女がどう頑張ってみても、どうにもならないことを彼女は知っていたのです。ある意味、強い女の一面が表に出すぎて悲しさが裏返しになっているような・・・。直裁な愛情の爆裂を意図的にカットすることによって読者を迷わすことなくコースを導いていきます。

ノーベル文学賞候補には始め谷崎潤一郎氏が挙げられていました。この谷崎氏を法然とするなら、川端氏こそ親鸞なのでしょう。川端康成は文章という魔法を使って雪国での日常を美しい叙情の世界へ変えてくれます。
 その淡々とした流れには、まさに雪のなかでゆっくり紡いでいくような繊細さがあって、それは折にふれて女の白い首筋のような脆い妖しさを引き出します。 淡々と物語を読み進めていくうちに「果たしてこれは現実なのか、それとも夢か」という疑問が浮かんでくることでしょう。それが真価なんだと思います。その瞬間に今ある日常は揺らいで、『天の河のなかへ体がふうと浮き上がってゆく』のです。
 また、この作品の特徴のひとつとして「どのページからでも物語に引き込まれる」というのがあります。邪道かもしれませんが、私はこの小説を読み返すときははじめから終わりまできっちり読み通すことはあまりなく、気に入っている場面をぱっと開いてそこから読み進めていきます。この読書態度はどうあれ、それでも十分物語に入っていけるぐらい細部に魅力があります。日常の真価は細部に宿るもので、この雪国という小説はその命題を十分に体現しているものといえるでしょう。

 それから、川端作品は多くありますが、私が好きなのは、『眠れる美女』です。「眠れる美女」発表は1961年、川端氏自殺は1972年でした。書いてから死ぬまでに9年の開きがありますが、私はこれを読んでいて川端氏自殺直前の作品か?と思いこんでしまってました。そういう雰囲気が纏われている、死に近い作品だったからです。
 老人達が、ぐっすり眠っている若い美女と一夜を過ごせるという宿。そこに紹介されて向かう江口老人は60代後半ですが、まだまだ男として終わっていないと思っています。彼は全裸で眠り続ける若い美女と添い寝しつつ、今までの人生で出会った女たちを思い出しながら夜を過ごす・・・そんな表題作『眠れる美女』。雪国で知られる名文句のように、川端氏の読みどころはやはり感覚に訴えてくる描写にあったように思いますが、この「眠れる美女」における風景描写は回想シーンで用いられる個所が何度Kaii15 かあったとはいえ、それほど頻度が高く用いられたわけではありません。そこにあるのは老人の悲しみ、懐かしみ、罪の意識、そして破壊衝動だと思います。これらの起伏に富んだ感情が淡々と綴られ、読者はただその人の意識に恐怖も覚えるとはいえ、死に繋がるのであろう悲しみが、重く感ぜられて素晴らしいといいたくなるのです。こういう空間を作り出す小説は数少く、間違いなく傑作にしか生み出せない力でしょう。本作は三島由紀夫氏が太鼓判を押したことで評価されるきらいが多いようですが、川端ファンの中でもやはりこれが最高だと評す人も多いと思います。

 年齢を重ねて読んだところ、全く違う印象を得ました。決して目覚めない美少女たちと床を共にするという行為は、肉体を重ねる以上のエロティズムを感じさせますが、若い女の体をくまなく眺め愛で添い寝することは、この上ない征服欲だと思います。しかも女は全くそれを知りません。老人達だけが知っている秘め事なのです。そして流石文豪川端康成、世俗的欲望を描いた官能小説でありながら、語り口は極めて美しいと思います。

 川端氏を『雪国』や『伊豆の踊子』で見切ったと勘違いしてはいけないと思います。川端氏は簡単に見切れる様な底の浅い男性ではないと私は思います。『みずうみ』『古都』なども是非読んでいただきたい傑作です。

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