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2009年6月15日 (月)

私の好きな作品たち~手塚治虫編

 戦後日本において多数の漫画を発表し、漫画を「子供の読み物」から「日本を象徴する文化」にまで育て上げた人物であり、漫画の神様の異名を持つ手塚さん。手塚さんが暮らしたトキワ荘において直接親交があった漫画家だけでも藤子不二雄氏・石ノ森章太郎氏・赤塚不二夫氏など後にマンガ界の中核を担う人物が多数あり、Tezuka001 またアニメ制作においては自ら創設した虫プロダクションで多くの人材を育てるなど、その影響を受けた人間は到底数え切れないほどです。手塚さんがいなければ現在の日本のマンガ・アニメの隆盛は存在し得なかったといわれる存在なのです。いまだ人気の衰えを知らず、漫画世代に生きた人々だけでなく2009年には『火の鳥』がBSで観られるようになり、新たな人気を博すでしょう。私は子供の頃、『ジャングル大帝」を観たり、読んだりして育ったのですが(アッ、鉄腕アトムもですね)、実は大人になってからは『ラックジャック』に憧れました、といっても読んではいないのですが。
 
 1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新宝島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こしました。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけました1963年、自作をもとに日本初のTVアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながるTVアニメ制作に多大な影響を及ぼしました。
 1960年代後半より一時低迷するも、『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などにより復活。また『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を手がけていました。

 終戦後、手塚さんは戦時中に描き溜めた長編のなかから『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送りました。これは音沙汰無しに終わりましたが、その後、となりに住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』学芸部の程野という人物に会い、彼の依頼を受けて同紙に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日- 3月31日)、この作品が手塚さんのデビュー作となりました。『マアチャンの日記帳』は描かれる風 俗やタッチに新しさはあるものの、路線としては戦前からある家庭向けの新聞漫画にのっとったものででした。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っています。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド(後述するものとは別物)』なども各紙に描かれていますが、4コマ連載という形式に限界があり後2者はどちらも中断に近い形で終わってしまいました。 漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚さんは医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくまりました。教授からも医者よりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚さんは専業漫画家となることを決意します。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部付属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得しています。このため後に手塚さんは自伝『僕はマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べていいます。

 1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)『少年サンデー』(小学館)が創刊、以後月刊少年誌は次第に姿を消していくことになります。このTeduka002時手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となりましたが、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』のほうには連載13回分の下書きだけして石森章太郎氏に『快傑ハリマオ』の連載をさせています。同年、血の繋がらない親戚で幼馴染であった岡田悦子さんと宝塚ホテルにて華燭の典を挙げました。多忙な手塚は結婚前に2回しかデートができず、結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという逸話もあります。

 少年期からディズニー映画を愛好していた手塚はもともとアニメーションに強い情熱を持っており、アニメーション制作は念願の仕事でだったそうです。漫画家になる前の1945年の敗戦の年、手塚さんは焼け残った松竹座で大作アニメーション『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、このときに自分の手でアニメーション映画を作ることを決意したといいます。手塚さんにとって漫画はアニメ制作の資金を得るための手段でした。「がめつい奴」と言われても蓄財に走り、自らを「ディズニー狂い」と称しました。
 一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、永井豪『ハレンチ学園』のヒットを受け「性教育マンガ」と銘うたれた『アポロの歌』『やけっぱちのマリア』などを発表していますが、しかしこの時期には少年誌において手塚さんはすでに古いタイプの漫
画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていました。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に虫プロが倒産、1971年に経営者を辞していた手塚も1億5千万円と推定される巨額の借金を背負うことになります。作家と
しての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想しています。

 973年に『週刊少年チャンピオン』で連載開始された『ブラック・ジャック』も、少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、編集長の好意で始まったものでした。しかし、連綿と続く戦いで読み手をひきつけようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の短編連作の形は逆に新鮮あり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになりました。さらに1974年、『週刊少年マガジン』連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げることになりました。

 晩年は、それまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、という形で読まれていました。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚さんは赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていきました。これに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やしました。流線や汗、擬音などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことをTezuka002 可能にし、また絵柄の記号化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもまりました。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などを始めとする悲劇性の導入であり、死やエロティシズムを作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになったのです。
 上記の絵柄の記号化、体系化は、アシスタントを雇いプロダクション制を導入することを可能にしました。漫画制作にアシスタント制、プロダクション制を導入したのは手塚さんが最初でした。手塚さんが漫画制作に導入したものとしては他に、Gペンの使用(早く描けるという理由によるそうですが、それまで漫画で使われるペンは丸ペンが一般的でした)、スクリーントーンの導入などがあります。

 漫画を描く際にプロ・アマ、更には処女作であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない禁則として、“基本的人権を茶化さない事”を挙げ、どんな痛烈且つどぎつい描写をしてもいいが以下の事だけはしてはならない、「これをおかすような漫
画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」と述べていました。それは
・戦争や災害の犠牲者をからかう
・特定の職業を見下す
・民族、国民、そして大衆を馬鹿にする
夏目房之介氏は、手塚さんが追い求めたテーマを「生命」というキーワードに見出しています。

 手塚さんは医師免許を持っていましたが、実際に医師として患者を診たことはありません(もっとも知人の漫画家やアシスタント、手塚番記者らが手塚さんの診断を受けたことがあるという言及は幾つか残っています)。手塚さんは旧制中学時代、栄養失調状態のまま厳しい教練を受けたため水虫が悪化し、もう数日で両腕切断というまでになったことがあります。このとき診察した大阪帝国大学付属病院の医者に感動したため医師を目指したといいます。ただし手塚さんは、医学校に行けば卒業までは徴兵される心配がなく、卒業後も軍医ならば最前線に配置される可能性が低いことが医学校に進んだ理由であったことも認めています。

医師としての専門は外科であり、その当該分野の専門知識が『ブラック・ジャック』などの作品に活かされていますよね。ただし医学博士を取得した際の研究テーマは外科分野ではなく基礎生物学領域のものでした。息子の手塚眞さんによれば、手塚さんは血を見るのが嫌いで医師の道を断念したと言われています。(ホントかどうか・・・?)

 2008年 - 生誕80周年を記念して小学館から過去のコミックの特装版、純金製アトムなどの商品の発売、出身地宝塚でのイベント、アメリカ・サンフランシスコでの手塚治虫展、広島国際アニメ-ションフェスティバル、東京国際映画祭で過去に自身が手がけたアニメ作品が特集されて上映されました。

 手塚さんの記念館もあちこちにあるようですね。本当に医大じゃなくて偉大な方だったと感心しています。

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コメント

こんばんわ(*^_^*)
暑くなりましたね。
夜も蒸し暑いです。

手塚さん懐かしいですね。
ほんとに戦後漫画の父でしょうね。
鉄腕アトム、夢中で読んだことを懐かしく思い出します。
“基本的人権を茶化さない事”の基本方針はいいですね。
確かに彼の作品にはヒューマニズムが一貫して流れていたような気がします。
たくさん作品を読んだわけではないですが。
プロダクションの倒産など苦労もされているのですね。
最後医大ではなく、偉大な方はほほえんだです(*^_^*)
きまじめなとこさんもシャレを言うのだと思って(*^_^*)

投稿: KOZOU | 2009年6月15日 (月) 21時53分

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