« 私の好きな画家~ピーテル・パウル・ルーベンス編 | トップページ | 私の好きな作品たち~見延典子編 »

2009年6月10日 (水)

私の好きな詩人~ライナー・マリア・リルケ編

 私が詩はあまりわからないのですが、『マルテの手記』は読んでおいたほうがよさそうです。リルケはプラハの人です。軍人であって鉄道屋の父はリルケの母と離婚すると、少年リルケをザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に放りこみました。やむなく陸軍士官学校までは進みましたが、ここでついに挫折。しばらく商業学校に通いつつ詩作をはじめ、プラハ大学で法律と芸術を習ううち、悲しくなって『ヴァークヴァルテン』という詩集を自費出版をしました。少女がこの名をもつ草に変身して恋人を路傍で待つという伝説に因んでいます。リルケはこの詩集を貧しい人々に配ったり病院へ送ってみました。それからミュンヘンに行き、ベルリンに転居。『家神奉幣』『夢の冠』『降誕節』を出版し、それを自分で祝って『わが祝い』を書きました。寂しすぎる詩です。リルケはロシアに旅行にでます。そのとき20世紀がやってきました。25歳でした。
 ロシアはひたすら荒涼とし、ひたすら広聊としていました。リルSag18 ケはクレムリンの復活祭の鐘の音を聞くうちに、これが自分の復活祭だと思うようになりました。リルケはこのあとも鐘の音について何度も綴っているのだが、この言葉の音感のようなものには凍てつくように鋭いものがあります。ただその音を共有してくれる者が見つかりません。
 それでもロシアには新たに感じるものがありました。のちにリルケはイタリアを「かつて神がいた国」と名付けるのですが、ロシアは「やがて神がくる国」だったのです。この独特の直観はついに『時祷詩集』という大作になりました。暗闇ですら会える神との逢着を歌っていました。
 リルケが少しは人間の温度と出会うのはロシアから帰って、女流彫刻家のクララ・ヴェストフと結婚してからです。ヴォルブスヴェーデに住みました。リルケはその中途半端がかえって苦手だったようです。ただクララとともに出会った芸術家たちの交流には気が惹かれて、それがのちのちまで尾を曳いたのです。それならヴォルブスヴェーデにそのまま住めばよいだろうに、リルケはここで単身でパリに行ったのです。すべてを残してパリに孤独を求めに行っている・・・などとんでもないことをするものかと思いますが、それがマルテとしてのパリなのです。マルテとしてのリルケには、今度は寂しさよりも厳しさがほしかったのです。だからリルケは4年にわたってロダンのアトリエに出入りして、芸術家の苦悩にふれました。内面に入っていったのです。リルケ自身にロダンを勝るものだってあったというのに、それでも自分より大きい厳しさが必要だったのです。ロダンだけではない、セザンヌのアトリエにも出入りしました。リルケは生涯一書生であらんとしたにちがいありません。
 しかし、やはりリルケはリルケなのです。ロダンやセザンヌに感得した言葉は『形象詩集』という結晶になる・・・とうてい美術批評家には書きえません。とくに日本の美術批評にはまったく見当たらない炯眼が輝いるのです。けれどもそれを書いてしまえば、またリルケは温度から遠ざかるのです。そこで徹底してみたのが、パリを命の行方として凝視することでした。こうして『マルテの手記』が綴られたのです。

詩というよりも小説であり、物語というには詩魂が透徹されすぎていSag25 ました。第1行目がこうなのだす、「人々は生きるためにみんなここへやってくるらしい。しかし僕はむしろ、ここでみんなが死んでゆくとしか思えない」。これではパリはルンルン気分で歩けないでしょう。。ボードレールやコクトーをなんとかしても、リルケのパリが残響すれば、とても歩けるものじゃないと思えてきます。

 『マルテの手記』におけるパリ観察は、デンマークの貴族の家に生まれた無名詩人マルテが見たパリということになっています。リルケはデンマークの詩人たち、たとえばヤコプセンやヘルマン・バングが好きだったので、デンマーク生まれの若者を自分の分身にしました。しかしマルテにとってのパリは、死ににくるための街なのです。実際にも手記に登場するパリは、そこがノートル・ダム・デ・シャンであれオテル・ディユ病院であれ、明るいはずのチュイルリー公園ですら、なんだか死に方の見本のような細部観察で成り立っているといえます。 

 リルケは似たような感想を、新たな恋人となったルー・アンドレアス・サロメへの手紙にも書きつらねています。とくに「パリは困難な都会です。ガレー船です」というセリフは有名ですね。パリはリルケにとってもマルテにとっても「いとわしいもの」で、つねに「行きあうすべてのものたちからたえず否定されている」ような街だったのです。そもそもこの手記は「僕は見る目ができかけているのだろうか」という疑問の萌芽から始まっています。そのうえで、ひたすら心を観察するという手記になっています・・・できるだけ正直に、できるだけ
偽りなく・・・。そこには国木田独歩の日記『欺かざるの記』のような日本人はいません。あくまでヨーロッパの、オーストリアの、ブレーメン地方の、幼年学校や士官学校が育てた青年の、そのような人物によるパリにおける赤裸々な手記なのです。
 

もっと俯瞰的なことをいうのなら、リルケが見たパリは20世紀がその後に作り出すすべての資本主義都市の行方を見定めたものだったのでしょう。

|

« 私の好きな画家~ピーテル・パウル・ルーベンス編 | トップページ | 私の好きな作品たち~見延典子編 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

I really liked your article post.Really thank you! Fantastic.

投稿: http://www.calabriatechnology.com/ | 2015年3月26日 (木) 04時59分

「リルケが見たパリは20世紀がその後に作り出すすべての資本主義都市の行方を見定めたものだったのでしょう」、鋭い指摘だと思います。やはり詩人が予言者なのでしょうかね。

投稿: KOZOU | 2009年6月11日 (木) 09時35分

こんばんわ。
全国ほとんど梅雨入りしたようですね。
こちらもぐずついています。

リルケ、わたしの若い頃から評判でした。マルテの手記、手には取ったのですが読み終えてない記憶です(^_^;)
ヨーロッパの芸術家は多いようですが彼も放浪の人なのですね。
それにしても彼のような人を軍人にはちとひどいですね。
イタリアを「かつて神がいた国」、ロシアは「やがて神がくる国」と直感はさすが鋭いですね。ロシアにはとてつもない神が来たのでしょうが(^_^;)
手記の冒頭は有名ですね。彼のよう異邦人にはそうだったのでしょうね。それでも数多くの芸術家がパリを目指し、麻薬のような魅力があるのでしょうね。
芸術が生まれるところでもあり死すところでもあったのでしょうね。
学生の時友達とリルケは薔薇の刺の傷がもとで死んだ、さすが詩人だと話したことを懐かしく思い出します。

投稿: KOZOU | 2009年6月11日 (木) 00時46分

格調たかいブログに
うちのようなブログをリンクしていただき
恐縮しております。
ありがとうございます。
茶々

投稿: 茶々 | 2009年6月10日 (水) 08時10分

こんばんわ~(^^;)ふたたび夜更かし気味です★

マルテの手記は有名ですよね!この前読んでいた作家さんの本(ちょっと度忘れしました)にも書いてありました。おすすめらしいです。
といっても僕は読んだことがなかったので、今回初めて内容を知りました。
陸軍学校に放り込まれ・・・父ちょっとひどいですね(汗)

「わが祝い」というのがさびしすぎますね。友達がほしいところです。

「・・・ここでみんながしんでいくとしか思えない」って冒頭くらいですね(苦笑)たしかに少し歩く気がしませんね(^^;)


では、おやすみなさいです(^^)

投稿: yukidaruma | 2009年6月10日 (水) 01時36分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/528484/30032435

この記事へのトラックバック一覧です: 私の好きな詩人~ライナー・マリア・リルケ編:

« 私の好きな画家~ピーテル・パウル・ルーベンス編 | トップページ | 私の好きな作品たち~見延典子編 »