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2009年7月16日 (木)

私のやや好きな画家~青木繁編

 ~青木繁にはじまる創造の水脈~

 3月に東京国立近代美術館/石橋財団石橋美術館/日本経済新聞社主催の『青木繁と近代日本のロマンティシズム』がありました。

 ★本展は、明治浪漫主義の旗手と謳われた青木繁の画業を見直す、20年ぶりの青木繁展です。「文明開化」をかかげた明治の日本は近代化を推進しましたが、急激な西洋化は文化の混乱を招きました。しかし、世界のなかに船出したAoki005 この島には、世界のさまざまな異文化のかけらが流れ着き、それらが流れ込んだ文化の深みでは、豊かな混沌が渦巻いていました。この混沌を創造の活力として若い想像力を開花させた最初の画家が、青木繁であったと言えるのではないでしょうか。
 本展では、約80点の青木の作品とともに、さまざまな文化が流れ込んだ見えざる水脈に創造の源泉を見い出した、その後の作家たちの作品をあわせて展示します。青木繁の《海の幸》や《わだつみのいろこの宮》をはじめとする重要文化財7点を含む、約140点の作品を通して、美術史上の流派をこえたロマンティックな精神の水脈をさぐります。

主な出品作家は 青木繁、萬鉄五郎、中村彝、村上華岳、村山槐多、関根正二ほかでした。

特に私は青木氏の絵を通して彼の半生を追いたいと思いました。

 ★青木繁氏は、明治32年、画家を志して福岡・久留米から上京し、小山正太郎の不同舎に入門、翌年、新設間もない東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝氏の指導を受けました。しかし、黒田氏の教室よりは、図書館や博物館に通い、古今東西の書物や文物に想像力を駆り立てられた青木氏は、外光派の絵画におさまりきらない人類への夢を育んでいきました。明治36年の白馬会展には、《黄泉比良坂(よもつひらさか)》をはじめとする、神話や古代の世界にインスピレーションを得た画稿類を出品し、画家デビューを白馬会賞の受賞で飾りました。
 
 ★翌年美術学校を卒業した青木は、その夏、恋人 や友人と遊んだ房州布良(めら)の体験をもとに制作した《海の幸》で、大海原を背景にくりひろげられる神話的な世界を、古代への憧憬で謳いあげました。《海の幸》は白馬会に出品されるや、当時の美術界に衝撃を与えたのみならず、蒲原有明ら当時の浪漫派詩人たちに歓呼の声で迎えられました。
 しかしこの時を絶頂期に、現実と向かい合うことができなかった画家は、恋人福田たねと愛息との生活をみずからの手で切り開くこともできず、困窮のうちに輝きを失っていきました。再起を期して出品した《わだつみのいろこの宮》も明治40(1907)年の東京府勧業博覧会での評価はふるわず、この年開設された文展にもついに登場することはありませんでした。父の死によって久留米に呼び戻された青木は、福田たねとも肉親とも縁を絶ち、郷里を放浪して28歳の若さで波乱の生涯を終えました。

 ★『海の幸』は、明治37年の作品で、佐賀には明治41年冬に訪れますが、明善中学校の恩師であった森三美が佐賀中学校に転任したことで、森を訪ねて翌42年7月から43年11月まで滞在していました。明治43年4月には、当館の支援者でもあった西英太郎(衆議院議員・西肥日報社長)の後援で、当館で画会が開かれました。 この画会の大成功は、貧困と絶望にあえいでいた当時の青木繁にとって、つかの間の幸せだAoki001ったようです。その後、7月から9月に架けて当館に投宿し、 宿代の代わりに「温泉」他の作品を置いていったとのことですが、現在は残っていません。
 先年の東京芸術大学創立百周年記念の所蔵作品全国巡回展では、その図録の表紙に青木繁の自画像が選ばれるなど、最近、青木芸術への再評価が高まっていますが、 明治時代の西洋一辺倒の洋画壇にあって、青木繁が神話や伝説を題材にして、天才的な感性と想像力、描写力を発揮したことが彼の芸術に普遍的な価値を与えているものと思われます。

 ★『わだつみのいろこの宮』は明治40年の、「古事記」上巻の綿津Aoki002 見の宮の物語を題材とした作品です。
 兄の海幸彦からかりた釣り針をなくした山幸彦が、釣り針を探して海底にある「魚鱗(いろこ)の如く造れる」宮殿へとくだり、画面向かって左のトヨタマヒメ (豊玉毘売)とその侍女に出会う場面が書かれています。青木にとって記紀の神話は重要な着想現でした。一方、海底の情景という設定、女性像のプロポーション や着衣、全体の構図などにはイギリス・ヴィクトリア朝の画家エドワード・バーン=ジョーンズからの具体的な影響を指摘する事ができます。日本の古代も20世紀初頭の西洋も青木にとっては遠きものでした。遠きものへの憧憬を表現しようとしたところに青木の絵画世界のロマン的特色があったわけですが、そのような 表現は絵画としては未完成たらざるをえない場合が多いのです。夭折したことも相まって、青木の画業もまた未完成の感が強く、その中にあって本作品は 油彩画としての高い完成度を示しています。

 ★「海の幸」があまりに強烈な印象を与えすぎたのか、その後発表し続ける作品を評価されなくなった青木氏・・・。絵も売れず、生活は苦しく、夜中に暗い自室で日本刀を振り回し壁や柱を斬りつけ、奇声を上げるなどの奇行を繰り返します。「青木は発狂した・・・」とささやかれ、絵も描かなくなり、福田と幸彦を捨て故郷九州へ一人帰るも生まれた久留米には帰らず、旅先の福岡で喀血、病の床につきます。
  理解し難い「“天才”青木繁」の生涯は、芸術家としての才能に恵まれた反面、欠落し過ぎた社会性、傲慢さの中に時折見せる気弱な部分との葛藤に満ちていたのでしょう。今から100年以上前の夏、早すぎた彼の才能の開花は、ここ布良の海辺でピークを迎え、そのわずか6年後、青木はまるで館山湾の海ほたるのごとく刹那的で強烈な印象を残す光をこの世に放ち、黄泉の国へひとり旅立ったのでした。享年28歳でした。現在この絵は重要文化財指定をうけ、久留米市にある石橋美術館にて展示、保管されています。

 ★『青木繁』という本が刊行されていますが、その表紙を飾ったのは青木繁氏の恋人であり、妻と成った福田たねがモデルだと言いいます。青木繁は、『海の幸』でも、恋人の福田たねの顔を描いて居るが、それらを見て私が驚く事は、明治時代の女性は、こんな表情をして居たのか、と言う事です。明治時代と聞くと、古めかしい、現代とは懸け離れた時代だと思ひ勝いがちですが、当時の若い女性が、こんな表情をして居たのであれば、それは、私たちの時代と懸け離れた時代ではなかったのではないでしょうか?青木繁氏が描く恋人の表情を見ると、私は、そんな気がしてならないのです。
 本書は、その青木繁の芸術と人生を廉価でコンパクトな本にまとめた名著書です。若い人が、青木氏と出会う為に、そして、青木繁とその恋人を通じて、明治時代と言う時代を考えるきっかけとして、最適の本だと思います。

 今一度原点に立ち返る思いで青木氏の絵にふれることをお勧めします。

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コメント

彼らはかなり洗練されたと一緒にすることができます。 あなたは態度と一緒に設計のための賃金であるときには、彼らは1に非常に適している可能性があります。

投稿: アイフォン5 カバー | 2014年2月18日 (火) 17時08分

こんばんわ。
雨が上がり暑くなりました。

青木繁、福岡県久留米市ですね。郷里から30キロくらい、高校は久留米市内で電車通学しました。石橋美術館も何回か行きました。
「海の幸」の巨大な絵は最も目を引きます。書いてありますように、横を向いた男性に混じりまるで絵を描いた青木を見つめるように正面を向いた女性が画かれていますね。きれいな顔ですね。恋人福田たね。こうしてたねは永遠に象形されたのですね。
ただ現実には妻子とも捨てた形になり、やはり芸術家や冒険家もですが(^_^;)強烈なエゴイストですね。

書かれていますように彼も生まれるのが早すぎたのでしょうね。まぎれもない天才だと思います。いかし生活能力はなく、性格的にも問題があったようですね。
晩年は本当に哀れですね。
久留米は今でも保守的なところです。
明治時代、青木のような男が帰り定住できるところではなかったでしょうね。
古い因習と彼のすばらしいロマンに満ちた絵画、その溝はとても大きかったでしょうね。
まさに「海ほたるのごとく刹那的で強烈な印象を残す光をこの世に放ち、黄泉の国へひとり旅立った」のですね。
久留米では今でも顕彰され高校裏のけしけし山で毎年慰霊祭が行われます。

とこさん、いつもコメントありがとうございます。レスを書いていますのでいつかご覧になってください。
どうか無理はされずにです。

投稿: KOZOU | 2009年7月16日 (木) 19時56分

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