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2009年7月11日 (土)

私の尊敬する選手だった男~長嶋茂雄編

 私は中学2年生でプロ野球に目覚め、毎晩欠かさず、試験があろうと、勉強は9時からと決めて、観ていたジャイアンツファンです。V9時代から引退、そして負け続けた監督就任・・・そして今懸命にリハビリをされているミスタージャイアンツ、長嶋さん。

 日本テレビのジャイアンツおやじ、徳光アナウンサー、私はあなたの気持ちが痛いように解ります。

お姿を拝見しなくなって、テレビは観なくなったものの、心は同じです。私じは今、すっかり親父さんモードになっています。

プロ選手としての長嶋選手は、その打撃力のみならず三塁手とNagasima001 しての守備も注目されました。長嶋選手はライン際の打球の処理に難点があるため、欠点をカバーすべく三塁線に近く、そして深めに位置していました。そのため、長嶋とコンビを組む遊撃手(初期には広岡達朗、のちに黒江透修)は長嶋の分まで守備範囲を広めにとっていたのです。しかし彼は、時に通常の守備範囲を超え、本来であるならば遊撃手が捕るべき打球にまで反応し、猛烈なダッシュとともに捕球を試みる場合も多く、観るものを圧倒させました。

イージーゴロにさえ鋭いダッシュをみせる長嶋氏の守備は、プロ経験者からは「簡単なゴロを難しく見せる」と評されたりしました。一方、フライ飛球などは「見せ場がない」と、遊撃手に任せるということもしばしば。それゆえ、当時から守備の堅実さでは三宅秀史(同時代のタイガースにおける正三塁手)に軍配を上げるファンや解説者も少なからずいました。しかし、長嶋氏の派手なアクションをまじえた守備は、トンネルなどの単純なエラーですら、多くの観客に喜ばれたのです。どんなプレーもありなんです。たまりませんでした、あの爽快感は・・・

 1974年10月12日、中日ドラゴンズの優勝が決まり、巨人の10連覇が消えると、長嶋は現役引退を表明した。翌々日の10月14日、後楽園球場で行われた優勝したドラゴンズとのダブルヘッダーの第1試合で、長嶋はホームランを放ちました。これが現役最後のホームラン(通算444号)です。また、大卒での通算2471安打は日本最多記録であり、この先これを抜く選手はなかなか出ないであろうとも言われていました。 第2試合の最終打席はショートゴロ(ダブルプレー)であった。

 引退セレモニーでは『わが巨人軍は永久に不滅です!!』という、あまりにも有名な言葉を残しましたね。兄も外野スタンドの金網に捕まって、泣いたそうです。

 1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜しました。川上流の緻密な用兵と作戦重視のスタイルではなく、投・打の力量差がそのまま勝敗につながることを理想としていることを端的にあらわした言葉です。「哲のカーテン」と揶揄された川上監督時代とは対照的に、マスコミとのコミュニケーションを重要視しました。    それゆえ、川上監督時代のスタッフはほぼ一掃され、新生長嶋巨人軍の選手達には「シンデレラ・ボーイ」と名付けられました。又、球団初の非日系の外国人選手であるデーブ・ジョンソン内野手を獲得し、自らの後継三塁手としました。

長嶋監督は自らの背番号を「90」に変更し、現役時代の「3」は永Nagasima002 久欠番となりました。この「90」は当時小学生の息子・一茂のアイディアといわれています。「現役のときは3つの3があった(打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9。これに0を付け加えて90番にしたら?」という言葉がきっかけになったそうです。しかし、迎えた1975年のシーズンは長嶋氏の構想が裏目に出て、球団創設以来初の最下位に終わりました。そのため、オフには日本ハムファイターズから高橋一三投手・富田勝内野手との交換で「安打製造機」と呼ばれた張本勲を獲得。外野手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手。その結果、翌1976年、1977年と優勝を果たしますが、日本シリーズではともに阪急に敗れました。同年、ヤクルトから倉田誠投手との交換で浅野啓司投手を獲得しました。

 (1980年前後)になると長嶋の采配が「カンピューター野球」(論理的に説明することができない、長嶋独自の勘・ひらめきによる野球)と揶揄されることも常となり、また、OBによる批判も数多く出るようになりました。前監督である川上氏が、週刊文春の座談会で長嶋の
後継監督について語ったことは、長嶋批判の象徴的な出来事であったと言えるでしょう。また、王さんの衰えも明らかであり、チームの成績は芳しくありませんでした。

 長嶋氏の指揮する巨人の低迷を憂慮した務臺光雄ら読売新聞社幹部は、1980年のシーズン終了前には長嶋の監督解任を決断しました。10月21日に行われた記者会見で長嶋氏は「男のけじめ」と、みずから不振の責任を取り辞任することを表明しましたが、自身が「辞任」を知らされたのは、会見の直前のことであったといわれています。解任が発表されると、一連の読売新聞社および巨人の措置に激怒した一部のファンによる、読売新聞・スポーツ報知の不買運動が起きたほどでした。

 長嶋氏以後、藤田元司監督(1981年?1983年、1989年?1992年)、王監督(1984年?1988年)が監督に就任し、リーグ優勝5度、日本一も2度達成しますがが、プロ野球全体、そして巨人の人気は低下していきました。V9時代の巨人にはじまり、そのOBである広岡や森祇晶などにより確立されたシステマティックな野球は管理野球(長嶋の前任者だった川上監督時代の流れを汲む野球)と評され、かつての長嶋氏のように個人技が際立つということがみられなくなったことによる人気の低下と考えらていました。

 Jリーグの創設を翌年に控えた1992年には、巨人は2位でシNagagsima003 ーズンを終了、2年連続で優勝を逃したこともあり、国民的スポーツとしての野球を再活性化するためのキャラクターとして長嶋の復帰が求められました。読売グループ内の事情を考えても、長嶋氏の復帰を阻む最大の障害であると考えられていた務臺光雄氏が1991年に死去し、現役時代から親交のある渡邊恒雄が読売新聞社社長に就任したことが、長嶋氏の監督再就任を容易にしました。ふたたび現場に復帰することとなった長嶋の新しい背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)となり、同年のドラフト会議において当時、星稜高等学校の松井秀喜(現:ニューヨーク・ヤンキース)を引き当てました。

 ここまで長嶋氏を愛し続けた国民を私は全力で愛し返したいです。アンチ巨人でも長嶋さんは好きということはよく聞きます。そういう方々を含め、これからも体調を気遣って見守っていってあげようではありませんか。

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コメント

初めまして。楽しく読ませていただきました。以下の部分が初見だったもので質問させてください。

>長嶋選手はライン際の打球の処理に難点があるため、欠点をカバーすべく三塁線に近く、そして深めに位置していました。

という記述ですが、これはブログ主様のご判断でしょうか? それとも、野球評論家の意見などによるものでしょうか? 長嶋さん自身は深い位置で守ることによって守備範囲が広くなり、処理できる打球が多くなると述べているようなのですが?
よろしくお願いいたします。

投稿: yukke | 2013年9月 6日 (金) 08時43分

コメント欄復活よかったです(*^_^*)
お疲れ様でした。

とこさんが長島さんファンとは知りませんでした。(*^_^*)
そして変わらない詳しいデータと分析、ファンにはたまらないでしょうね。
わたしの若い頃からほんとにスーパースターだったですね。
大学時代からすごかったです。
数々の伝説を生み日本球界の最高のスターだったことはまちがいないですね。

わたしは残念ながらアンチ巨人です(^_^;)
読売はすべてきらいな(^_^;)
あのはちゃめちゃのタイガーズが好きです(^_^;)
長島さんの言動も色々ありますが、今は療養の身、子供たちにあれほど夢を与えたことは偉大だと思います。
回復をこころから願っています。

投稿: KOZOU | 2009年7月13日 (月) 19時39分

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