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2009年7月25日 (土)

芥川賞候補作品~『白い紙』

 シリン・ネザマフィさんの『白い紙』は、イラン・イラク戦争下で、首都テヘランからイラクとの国境に近い田舎町にやってきた(父が戦争医師として最前線の病院に派遣されたので)女子高校生の「私」が、同級生のハサンという成績優秀な男子生徒に淡い恋心を抱き、信仰深くもないのにモスクに通ったり、突然の空爆に慄いたりする「戦時下」の日々を過ごしながら、何も書かれていない「白い紙」のような未来に思いを馳せる、というような小説です。

 「戦争から四年も経っている」という記述があるので1984年頃Munku2 という設定でしょう。シリンさんは1979年生まれとのことなので、親に近い世代の経験を伝え聞いたことが素材になっているのかもしれません。というか、驚いたのはこの小説の「私」やハサンとほぼ同年代
だということです。私とは全然違う経験を描いているともいえるが、異性と話すときにどぎまぎしてぎこちなかったりとか(この田舎町では学校で「男女が喋ることは禁じられている」とのことですが)、大学受験して都会に行くことを考えたりとか、そのあたりは「同時代的」な共通性を感じたりもしました。

 ネタバレになりますが、この小説の最後で、ハサンは結局、テヘランの大学に行って医者になるという夢を蹴って、兵士として戦争に行く若者たちを集めたトラックに乗るという道を選択します。「前途有望な若者がなぜいかにして自ら戦争に行くことを決意するか」と
いうのがこの小説のテーマだともいえるのでしょうが、その伏線として、イラクの軍が国境を越えて侵入し、「味方の軍の半数が殺され、半数が銃を置いて逃げた」戦闘のエピソードが語られています。ハサンの父はこの戦闘に参加していました。そして「逃げた」者の一
人となりました。

「俺は昨日まで戦争に行っている英雄の息子だった……」 ハサンは突然大きな空笑いをした。

「こんな狭い町で……みんなに知られてしまう……恥をかく毎日が」

 何を言えばいいか、分からない。

「俺はかまわないけど……もうすぐテヘランに行って、大学に入って……いいのかもしれない……」 先までの静けさと打って変わって、ハサンが喋る。肝心なことを言わずに、ただ喋るだけ。

「だけど、母はこれからもずっとここに住むし、俺がいなくなったら相当辛いと思う」

 私がこの小説を読んで思い出したのは、こうの史代さんの漫画『この世界の片隅に』、島本慈子『戦争で死ぬ、ということ』(2006年)、佐谷眞木人『日清戦争――「国民」の誕生』(2009年)などでした。「戦時下の日常」で人々がどういう暮らしをしているか、空爆の
衝撃がいかに日常を中断させ「無知の恐怖」(情報飢餓)をもたらすか、戦争の「熱狂」がどんな風に作られ広がっていくか、戦争に行った夫や父からの手紙を残された家族がどんなに心待ちにしているか、息子を戦争に送り出す母親たちがどれほど心配し悲しみに暮れているか…。

 「戦時下」に生きる人々にとって、戦争とは、それに賛成したり反対するよりも前に、今ここにある圧倒的な現実として、自分たちを巻き込み押し流していく強烈な渦のようなものとしてあります。イラン・イラク戦争の場合、イラク軍の一方的な侵攻によって始まったという経緯からして、「防衛戦争」という意味合いが強いといわれています。父が戦場から逃げ出したことは、家族にとって「恥」であり、「みんなに知られてしまう」と「相当辛い」という「国民感情」があるのは当然ともいえます。

 この小説は体制批判の小説でもなければ、反戦小説でもありません。「私」や他の人物たちは、所与の状況を当たり前の日常のように受け入れています。ただ、そこに、「白い紙」に落とされたインクの染みのように、困惑や違和感、恐怖や悲しみが印されていくのです。

「この紙に名前を書いた人が、神に会える喜びと幸を迎える」 鉢巻のお兄さんが今度は白い紙を宙に回しました。

「兵士として、名前を登録するリストだ。さー、勇者よ。国のため、神のため」 人ごみが動き始めます。中にいた男性が名前を書きに一斉に前に出ます。指先が燃えている、心臓の音が喉から聞こえる・・・女でなかったら紙に名前を書いていたでしょう。横を覗くとこの
手からあの手に回される紙を、ハサンが唇を噛んだまま、見つめているのです。
 二十一台もの大きなトラックが消え去りました。

 土埃に包まれている黒チャドル姿の女性たちがお互いを強く抱きしめ、泣いていいます。チャドルが頭の半分までずり落ちているハサンのお母さんが、真っ赤に腫れ上がっている顔に小さくなった目を細め、去っていく息子の最後の姿を目に焼きつけようとしているのです。
 濃い緑のトラックの列が視界から消えました。何百人もの白い紙を乗せたまま、黒い排気ガスとともに、走り去った・・・

 イランと言えばその昔はペルシャ、ペルシャと言えば「千夜一夜Munku4 物語」で、私が読んだ唯一のイラン産の物語です。バートン版であれマルドリュス版であれ、アラビア語原典の英語訳もしくは仏語訳からさらに日本語に重訳されたものだから、手間暇がかかっています。しかるこの受賞作はイラン人がイランにおける生活を日本語で書いているのだから。

 ところが舞台がイランである上に登場人物がすべてイラン人で、日本語で書かれたこと以外は日本とは無縁であったせいか、まるで翻訳を読んでいるかのように感じたこともしばしば。非漢字圏出身者による初めての文学賞受賞作品という話題性がなければ、多分接することがなかっただろうにと思うだけに、この作品の伝えてくれるイランという国の生活実態がけっこう面白かったです。
 主人公である女子学生の父親は戦争医師として、最前線に近い病院に派遣されているが、週末には女子学生とその母親が首都テヘランから疎開してきた田舎町に戻ってきて、町医者よろしく住民を診察する。そして患者をなんと紅茶などでもてなすのです。

 所変われば品変わるで、随所に出てくるイランの生活風習が面白かったり。しかし男女の引かれ合う心の動きとか、男子学生が田舎町からただ一人の医学生として、夢に描いていた道がこれから開かれようとするその瞬間に、戦士として戦場に赴くことを決意するが、その心の葛藤などはいわば万国共通のテーマであって、エキゾチックな味わいを別にすると、類型的な小説仕立てに終わっているように感じました。

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コメント

とこさん、いつもコメントありがとうございます。
こちらようやく雨が上がりました。
いつも丁寧なコメント大変ありがとうございます。
暗い話でも最後、救いのあるのが好きなのですがあれはちょっと救いがなかったですね。レスを書いていますのでいつかご覧になってください。

投稿: KOZOU | 2009年7月26日 (日) 23時48分

おはようございます。

戦争という造られた異常事態に
庶民は命をささげるまで
純情に従うその時の大正義による
恍惚とどうしようもない憤りなど
つらいでしょうね。

知恵ある人間がしてはいけない
最大の行為と思うのですが、
力あるものが競い合うかぎり
無くならないものなのでしょうね。

ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2009年7月25日 (土) 07時39分

おはようございます。
こちらすごい雨でだいぶ被害も出たようです。
イラン人の作品が候補になったと言うことで興味を持っていました。とこさんのおかげで半分読んだ気に(^_^;)
イランイラク戦争、当時はイライラ戦争と呼んでいましたがわたしも驚いたものです。
イラン革命には世界が驚愕しましたし、「反米」のわたしとしては(^_^;)大いに期待をもったものです。イラクも当然反米、イスラム同士の戦争でとまどいました。
このような小説が日本で候補になることすらまずないですね。大時代のとまどいを描くのはヤボの骨頂、ちまちました日常のとまどいを子細に描くのが文学という風潮で、この作品にはとても興味をもちます。
イスラムも奥が深いですね。
かっては科学は西洋をリードしていたのですが、その誇りだけ残っているような気がします。中国がかって日本の宗主国でその誇りはけしてなくならないのに似ているような気がします。
イライラ戦争下のイランの日常を知るためいつか読んでみたいと思います。

とこさん、いつもコメントありがとうございます。レスを書いていますのでいつかご覧になってください。位牌は貴重なヒントになりました。ラストを書き換えていますので。(*^_^*)

投稿: KOZOU | 2009年7月25日 (土) 06時06分

おはようございます ご無沙汰いたしております その後いかがお過ごしでしょうか 私のほうは、おかげ様でアクセス数も増え アフィリも巡回ツールも順調に売れております とこさんのほうは、いかがでしょうか^^ 私でよければいつでもアドバイスいたしますがhttp://ma1965sa4011.blog22.fc2.com/

投稿: GOGOマサ | 2009年7月25日 (土) 04時15分

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