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2009年12月

2009年12月30日 (水)

私の好きな画家~アルフォンス・ミュシャ

 1895年、大女優のサラ・ベルナールの正月公演『ジスモンダ』のポスターが元旦に貼り出されました。そのポスターは一大センセーションを巻き起こし、ミュシャはこれを機に、シェレ、ロートレック、グラッセなどと並ぶアール・ヌーヴォーの代表Jimonnda01 者となった作家です。

19世紀末のフランスは、普仏戦争やパリ・コミューンを経て、産業革命が進行し、都市は消費文化が栄えていました。デパートのボン・マルシェがオープンし、シャ・ノワールやムーラン・ルージュなどの娯楽場が相次いでオープンしました。女性たちはファッションに興味を持ち、サイクリングやスポーツ、レジャーが普及。鉄道の発達は国内外の旅行を容易にしていきました。そんな時代のお話です。

 ベル・エポック(よき時代)と呼ばれる時代を迎えていました。この時代は1900年のパリ万国博覧会を頂点として、1910年の第一次世界大戦勃発まで続きました。

 1900年パリ万国博でボスニア・ヘルツェゴビナのヴァイオリン装飾に関わりました。加えて1904年、スメタナ交響詩「わが祖国」を聞き、スラヴ抒情詩の制作を決意。

 ミュシャは1910年、チェコ(に帰国しました。50歳のときでした。長年温めてきた、『スラヴ叙事詩』の制作をするためでした。ミュシャの後年は第一次大戦、その後のチェコスロヴァキア独立。続くナチス・ドイツのチェコ併合と激動の時代となりました。

 『ジスモンダ』は劇作家ヴィクトリア・サルドゥ(第二帝政時代、フランス演劇界の第一人者)の原作で、サラ・ベルナールの最初のポスターといわれています。第三幕のクライマックス・シーン『ジスモンダ』が「棕櫚の日曜日(復活祭直前の日曜日)」の行列に加わるため、棕櫚の花を手にしています。当時としては、繊細なラインやビザンティン風の装飾がパリ市民には「啓示」のような印象を与えたといいます。

 『ジョブ』は、タバコ用葉巻ジョブの宣伝ポスターですが、数種のヴァージョン、カレンダー用の縮小ヴァージョンなどがあります。このポスターは後に、1960-70年代、「フラワー・ジェネレーション」に感化を与えました。ハシシを吸う若者たちの部屋にはこのポスターがあったそうです。

 パリでの初期苦闘時代、ミュシャは雑誌の挿絵によって生計を立てていましたが、次第に認められ、パリの大出版社、アルマン・コランの挿画家として活躍するようになりました。東洋的な情景をドラマチックに描き、高い評価を得た「白い象 の伝説」、Jobu00133点の木版画が挿入され、挿画家としての名声を高めた「ドイツ歴史の諸場面とエピソード」も、同社から出版された作品です。宗教的思想に裏付けられた文学的解釈、それを美へと昇華する芸術力。挿画本分野において、ミュシャは独自の、そして輝かしい業績を残しています。

 商業的に成功をおさめ、財政的な心配のなくなったミュシャは1910年、故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作「スラブ叙事詩」を制作。この一連の作品はスラブ民族の歴史を描いたものです。スメタナの組曲『わが祖国』を聴いたことで、構想を抱いたといわれ、完成まで20年を要しています。また、この時期にはチェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群やプラハ市庁舎のホール装飾等を手がけています。1918年にハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを行いました。財政難の新しい共和国のためにデザインは無報酬で請け負ったといいます。

 ミュシャの挿絵やイラストが、明治時代の文学雑誌『明星』において、挿絵を担当した藤島武二により盛んに模倣されました。ミュシャの有力コレクションの一つは日本にあります。堺市が所有し、堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館で一部が展示されている「ドイ・コレクション」です。「カメラのドイ」の創業者である土居君雄氏が、ミュシャの知名度がさほど無かった頃から個人的に気に入り、本業の商品の買い付けや商談の為に渡欧する度に買い集めました。また、ミュシャ子息のジリ・ミュシャとも親交を結び、彼の仲介によってコレクションの中核が築かれました。1989年には、土居氏にチェコ文化交流最高勲章が授与されています。土居氏が1990年に他界すると遺族は、コレクションが散逸してしまうのを憂慮して「相続放棄 すなわち自治体に寄贈」という方法を選択しました。1993年、土居夫妻が新婚時代に居住したことのある堺市に寄贈されたようです。

 私は彼の描く女性の表情がとても好きです。商業的でも単なる金儲けで描ける絵ではないと思います。儚い女性も大好きですが、のびのびとした輝く女性の姿も美しいと思います。ちなみに『オレンジの壺』の挿入画も彼の有名な絵の一枚です。

 今年もお世話になりました。コメントを下さった皆さん、本当にお付き合い願えてありがとうございました。来年が良い年になりますように・・・

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2009年12月29日 (火)

私の好きな映画~『暗くなるまで待って』

 お嬢様やお金持ちの役が多かったオードリーの映画の中で、私はこの作品が一番好きです。でもあくまでも可愛らしく愛らしい彼女の演技には脱帽です。

 あらすじは、カナダからニューヨークに帰る途中に知り合った女から、夫のサムが人形を預かって来たことで、盲目の妻スージー(オードリー・ヘップバーン)は、思いがけない事件にまきこまれていったといものです。

 サムもスージーも知らないことだったが人形の中には、ヘロインが縫いこまれていたのだ。そのヘロインをとり戻すべくマイク(リチャード・クレンナ)、カルOdori003 リーノ、そして犯罪組織のリーダーであるロート(アラン・アーキン)の3人が、スージーのアパートに集まった。部屋中探しまわったが、人形は見つからなかった。そこへスージーが帰宅したが、盲目の彼女は、3人がいることに気がつかなかった。

 その翌日、妙な予感からスージーが止めるのもきかずに、サムはニュージァージーに仕事に行った。サムが出ていって間もなく、スージーはサムが煙草の火を消し忘れていったのが煙を出して、見えない彼女は恐怖から大声で叫んだ。そこへマイクがサムの海兵時代の仲間といつわって入って来て、火を消しとめ、人形のあり場所をと思ったが、いつもスージーの手伝いをしてくれる、グローリアという少女が入ってきたので、引き上げざるを得なかった。しばらくしてグローリアが買物に出たあと今度はロートが初老の男に化けて現れ、自分の息子の妻がよその男と不貞を働いているらしい。その相手がどうもサムらしといい、不貞の証拠を探すふりをして部屋中をかきまわしたが、やはり人形はみつからなかった。

 そこへ再びマイクが忘れ物をしたという口実で入ってきて、乱暴者を送り出してやろうと警察に電話をした。だが、呼ばれて入ってきたのは警官をよそおったカルリーノだった。いったん外に出たロートは今度は、老人の息子として再び入ってきて、サムがもし人形を持っていたら、サムの命は危ないとスージーを脅した。ロートが帰ってからスージーはマイクに、確かにサムが人形を持って帰ってきたが、それがどこにあるのかを自分は知らないと話した。マイクはもしスージーが人形を探したら、サムの安全は守ると言った。マイクが帰って間もなくグローリアが買物から帰った。彼女の腕には問題の人形が抱かれていた。スージーは喜んでマイクにそのことを知らせたが、その直後、自分は3人にだまされているのだということに気づいた。スージーはサムへの連絡をグローリアに頼み、自分は警察に電話をした。だが、電話線はすでに切られていた。1人残された自分を守るためスージーは部屋の明かりを、次々と壊していった。やがて3人はやって来たが3人は仲間割れを起こしており、カルリーノとマイクはロートに殺されてしまった。闇の中でスージーはロートと対峠。スージーが消し忘れた冷蔵庫の灯りをたよりに迫った。だが、その時、サムと警官たちがなだれこんできた。(goo映画より)

 ミステリとしても面白く、「スージー、そこは危ない!!」等と口走ってしまう私でした。目の不自由さが圧倒的に有利なスージーでしたが、冷蔵庫の灯りが残っていたことは悪人の知恵としか言い様がありません。とても古典的な筋書きですが、オードリーファンにはたまらない1Odori002 作です。盲目の役は目に何かを入れているのかと思って観ていましたし、さりげない洋服や髪型もたまらなく素敵でした。

 原作は『ダイヤルMを廻せ!』などで知られるフレデリック・ノットの戯曲。台本を読んで惚れ込んだヘップバーンの夫;メル・ファーラーが彼女の主演で企画し、自らプロデューサーとして製作したヒット舞台劇の映画化です。監督には、ヘップバーンの強い希望によって、当時『007シリーズ』で名を馳せていた英国人のテレンス・ヤングをハリウッドに初めて招いて起用しました。
 オードリー自身も、盲目の人妻という難役にスイスの眼科医に付いて盲人の細かい動作や表情のレクチャーを受けるなど、恐怖におののくキャラクターをリアルに演じて見せ、その年のアカデミー賞にノミネートされる熱演です。
  
 まさに"夫唱婦随"で作られたサスペンス・ミステリ映画の傑作は見逃せませんね。

私は歳を重ねていったオードリーも好きです。好きな花や草いじりをしてとてもスターの手とは思えないとおっしゃっていた黒柳徹子さんの言葉を思い出します。自然を愛することを惜しまない方でしたね。

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2009年12月27日 (日)

私の好きな作品~『オレンジの壺』

 またまた宮本氏の登場です。最近戦争とか闘争ということを耳にして、そいうえば氏の作品にも世界の戦争のさなかで多くを無くし、そんな中25歳の女性が祖父の手紙で一喜一憂し、真実を見つめると言う作品があったことを思い出し、でも作品量が多くて内容とタイトルが一致しなくて探し回った末、思い出しました。それがこの『オレンジの壺』だったのです。

 主人公は佐和子、25歳。1年でバツイチになり、別れ際に夫にJannnudaruku001 「お前にはどこも悪いところはない。だけどいいところも全然無いんだ。女としての魅力も、人間としての味わいも全く皆無だ。」と言われるような、とりたてて幸福ではなかったけれど不幸でもなかった。

 そんな女性がある日、亡くなった祖父から残された日記帳を読み、重大な秘密を知る。そしていつしか大切な何かを追い求め始める。そして『オレンジの壺』とは何か・・・

自分とは全く無縁だった過去の戦争に心を踏み入れていく。祖父の関わった人々の軌跡を追う旅で佐和子は女性とし豊かさを身につけていく物語です。戦前に生きた祖父と現在を生きる孫娘が日記によって結ばれているのです。

 佐和子の祖父は田沼商事の創設者で今は佐和子の父親が社長を務めています。
財産分与で確か祖父の日記を譲り受けたことを思い出し、興味を覚えて読み出してみると祖父が生きた1920年代のパリがどんな状態だたのか、惹きつけられていきます。

 歴史は数学と同じで全く疎い私でも、今この国が戦争を行っているのかとか今このどの国が危ないというくらいはわかりやすく書かれてあるので助かりましたが、ちょうと第1次と第2次大戦の間をくぐるようにして、当時は船で50日かけてパリに行ったとは、ましてやフランス語(商事会社を設立するくらいだから語学は堪能だったでしょうが)では交渉は難しかったでしょう。

 でも何度も、ジャムやマーマレードを売るマダムのもとへ足を運び、交渉にこぎつけ、あげく娘ロリーヌと結婚をしたいと言い出します。

断固反対する母・・・そのうち、ロリーヌに子供が授かります。それから母アスリーヌは承諾しました、ある条件をもとに。祖父は一足先に日本に戻りました。

 ロリーヌの赤ちゃんが産まれるまで母体を何十日もの船にのせるわけにはいかず、月に1度の割合で手紙を交換していました。彼女も赤ちゃんも順調に育ち、いよいよお産となったのに子供も母親も亡くなってしまいます。赤ちゃんは本当に亡くなったのか、祖父は疑問に思いました。当然佐和子もそう思います。居ても立っても居られず、佐和子は滝井というフランス語の解る男性と一緒に現地に飛びました。

日記とともに当時の手紙も見つかり、そこに「オレンジの壺」という言葉が出てくるのです。マダム・アスリーヌとオレンジの壺、そこに祖父の祐介がどう関わってくるのか、ネタバレですが、それは秘密結社です。何故、そんな組織に積極的に加わろうとしたか。

 一つは次第に力をつけていく日本の軍部に危機感を持っていた事が挙げられるでしょう。このままいけば軍部が日本を滅ぼしてしまう。「日本の軍部は、最悪の人間どもの集団だ。あのような品性下劣な連中が軍の核を成している限り、日本は必ず自己破壊の道を歩むのは必定なのだ。」軍部の戦争への道をなんとか阻止したい。そこには、かつて愛したあやという女性が軍人たちによって犯されたという過去がありました。

 もう一つは、アスリーヌ夫人たちの中に優しさがあったからなのだと言います。祖父の日記は2冊あり、表向きの日常が記されたものと裏の日記があり、その裏の日記に自分が彼女たちに共感したのは「・・・やさしさ。そうだ、やさしさだと思う。この単純でありきたりの使い古された言葉。やさしさ・・・。そうだ、いまのところ、私にはこれ以外の理由は考えつかない。私は絶え間なくやさしさを感じつづけたのだ。」と記しています。

 何気ない優しさが一塊になったら国家権力によって迫害された人たちはきっと命がけで助けられると信じたい、それがオレンジの壺の中核でした。そうですよね。

『かつて人間の哲学にやさしさというものが組み込まれたことがあっただろうか。やさしさがイデオロギーになったことがあっただろうか』(川本三郎;書著)

 この言葉にはきっと氏の考えが深く込められていると思いました。でも、戦争に次ぐ戦争のなかでやさしさを持ち続けることはどんなに困難だったでしょう。祖父は結局組織から離れ、日本に戻らなければならなくなります。そしてマダム・アスリーヌはアウシュビッツで殺されます。

 唯一救いだったのは、ロリーヌがスイスで生きて、家族をもったことでしょう。そして佐和子もこの一連の騒動の中ではっきりとした意思を持って行動したことだったと思います。そしてそんな佐和子の本質を子供も頃から解っていた祖父は、金時計でもなく、高価な代物でも無く自分の青春を佐和子に託したのでしょう。人間として女として、戦中に生きた人々とのふれあいは何にも換え難いものに違いありません。

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2009年12月24日 (木)

私の好きな画家~ダスタフ・クリムト

 彼の描く絵画はエロスがあり、非難を多く受けてきましたが、ようやく認められるようになった画家です。象徴主義を代表する画家でもあり、人物の顔や身体での写実的描写を混合させた独自の絵画表現で19世紀末の美術界を席巻し一世を風靡しました。

晩年期には最も様式的特徴であった黄金色の使用を捨て、色彩に新たな活路を見出します。また世紀末独特の退廃・生死・淫靡的要素を顕著に感じさせる作風も画家の大きな特徴でしょう。                  

 エロス・・・甘美で妖艶な色彩と表情、多用されたファム・ファタ ル(宿命の女)のテーマ、なまなましい人間の肌・・・確かに凝縮された言葉として「エロス」は的確かもしれません。しかしその言葉が与える印象だけでは、クリムトの描いた世界を充分に味わい尽くすことはできません。

私が一番好きな絵は『ダナエ』と『接吻』です。あまりに有名になりすぎた絵ですが、『ダナエ』がどういうストーリーを持っているかを知ると、その甘美さにただただひきつけられます。

 『ダナエ』はギリシャ神話で、アルゴスはペロポネソス半島にある国である。そこの王アクリシオスは、ある予言を与えられた。「お前に男の子は授からない。それどころか、お前は孫に殺されるだろう。」アクリシス王には一人娘のKlimt_danae_2ダナエがいる。孫が生まれないようにし
なくてはならない。王はダナエを青銅の扉のついた塔に閉じ込めた。男が接近しないように。しかし、ダナエは美しかった。ゼウスの目にとまってしまったのである。ダナエは堅固な土牢に居て、直接会うことはできない。ゼウスは、ある夜、黄金の雨の雫に姿を変えて、ダナエと交わってしまったのである。閉じ込めておいたはずのダナエに、男の子が生まれた。ペルセウスである。アクリシオス王は苦悩した。
生まれた男の子、ペルセウスに、アクリシオス王は殺される。予言である。
 この子を殺さなければならない。しかし、やはり殺すことはできない。王は娘ダナエと孫を、箱舟に閉じ込め、海に流した。
 箱舟はクレタ島の北にあるセリポス島に流れ着いた。二人は漁師に拾われた。その島の王ポリュデクテスはダナエを一目見て、愛するようになったというお話からできています。ダナエの美しさは身をふるわせるエクスタシーを優美に表現した作品です。豊かな顔の表情は、数多くの女性像の中でも絶妙にして秀逸といえます。

 『接吻』は、彼の代表作で、崩れ落ちる宝石のようなあやうい足もとと、まばゆい黄金の光につつまれた恍惚の表情。「愛」は「死」と共に在り、隣り合うことで輝きを増します。クリムト自身と恋人エミーリエ・フレーゲがモデルとされ、1908年の総合芸術展「クンストシャウ」(ウィーン)で大好評を博し、展覧会終了と同時にオーストリア政府に買い上げられたものです。
 大小の長方形の模様のついた、金箔にきらめくマントを着た逞しい男が、やはり金色で丸い花模様のついたドレスの女を優しくつつみ抱き、両手を女の頭部にまわし、顔を支えて、今まさに唇を合わせようとしています。女は忘我の表情をみせながら、右手を男の首にまわし、左手を男の手に添えています。女の恍惚感は、男のSeppunn_001 首にまわされた手の指先が、伸ばされた状態ではなく、ちぢこまっていることからも窺われます。官能的な場面ですね。クリムトが日本の琳派の影響を受けて金箔を多用した、いわゆる黄金時代に描かれた作品です。

 他にも師・ラウフベルガーから学んだ伝統的画法によって、権威の寵をいただいていたクリムトですが、自分の「表現の手段として」絵を描くきっかけとなったのが、ウィーン大学の天井画「医学」「法学」「哲学」の依頼でした。でもそれまでの伝統から逸脱した天井画は、教授たちからの総反対をかいます。彼の作品は教授たちが望む威厳に満ちた学問とは、かけ離れた存在であったからです。弟エルンストの死が、彼の表現になんらかの影響を及ぼしたのかもしれないとも言われています。
 この事件により、彼は国家というパトロンを諦める決心をし、「分離派」と呼ばれる反体制的芸術家集団の会長に就任し、それまでになかった新しい画風をつくりあげていき、同じような意欲を抱いた若き画家たちに、援助することを惜しまなかったそうです。

 そして多くの傑作が1907年代に描かれています。まるで憑かれたように、彼は描き続けました。生涯を通じて結婚することなく恋人として愛情を注いだのが、当時の社会では新進的な女性ブティック経営者であったエミーリエ。彼女は夭折した弟エルンストの妻の妹でした。他の女性や絵のモデルたちとの関係も多かったと言われるクリムトですが、彼女とは必ず夏にアッター湖畔でのんびりと過ごし、自由な関係を保ちながらも信頼しあっていたことをうかがわせます。
 アッター湖畔では安らぎに満ちた日々を送ったクリムトですが、ひとたび家に戻ると、驚くほど精力的に創作意欲を燃やしたといいます。

 一風変わった絵画に見えますが、たんにエロスだけに焦点を合わせただけでなく、絵の中からは「死」も背後に窺えます。それが私たちを捕らえてしまうのではないでしょうか。

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2009年12月22日 (火)

『向田邦子の恋文』

==向田邦子ほんとうに何も言わなかった。おくびにも出さなかった。
見事としか言いようのない“秘め事”に封じ込めてしまった。
そして一途だった。
ほかに心を動かすことはなかった。それが向田邦子という人だ。==

 2004年、TBSの50周年企画、『向田邦子の恋文』を覚えていますか?

あんなに泣いたのは久しぶりでした。いつも前向きで明るく強い イメージのある向田さん。その邦子さんの恋文を妹の和子さんが書き下ろした作品のドラマ化を、ビデオにとって何度も何度も見てもう5年経つのですね。未だ私のなかで色あせずに邦子さんとバブ(N氏)の悲しいまでに美しい恋の物語は生きています。

33~34歳でもう売れっ子の仲間入りだった邦子さんが3日とあけず、バブの家に通い、夕ご飯の仕度をし、つかの間の時間を費やしていた頃。まだラジオ放送があり何本もの番組を手掛け、寝る間を惜しんで原稿を書き、恋文も書き、家のこともきちんとこなし、でも一度も後悔しなかった・・・最初はバブには妻子がいたのですが、バブが病気になってからは、母親のいるところへ1人で住み、二人は一緒になることはなかったが、秘密を共有し、人生のよきパートナーとして、互いを頼りにし、寄り添いあって、ある時期を生きたのでした。Mukouda001

 毎日のように痛みと闘うバブに何もしてあげられず、一緒に唸る母親の姿も印象的でした。時々は外出し、取材旅行と称して、カメラマンのバブと2人で宿に泊まることもあった、これも後になって解ったことです。右の写真はN氏が撮ったものと思われます。 和子さんは、

『「お姉ちゃん、そんなに好きだったんだ。どんな障害があっても、何年かかっても、駆け落ちしたって、よかったのに。お姉ちゃん、情熱家だったじゃない。どうして、踏み切れなかったの。なぜ家を出なかったの・・・」そう言ってハタっと気づいた。思い当たった。姉は家族を見放せなかった。捨てられなかったのだ。そうに違いない。だって、いかにもお姉ちゃんらしいから・・・。今私がこうして在るのは、お姉ちゃんがいたから。そんな思いが浮かび、歳月の重さとともにくらくらし、押しつぶされそうになった。』と語ります。

 このドラマの中では家族皆が主役でした。父親は威厳を保ちながらも他所に女をつくり、母親はそれを知り、入院するまでになってしまいます。でも邦子さんは私のせいだと父親の前で取り乱し、その後は一緒にお酒を交わすような間柄になるのです。

 父も多くは語らず、身体のことだけ気遣うところが大人同士と思え、泣けてきます。母親も決して口出しをせず、いつも「いってらっしゃい」と邦子さんを送り出します。

 邦子さんが小腹がすいておそばを茹でていると母が台所に来て、「私がやるのに・・・」と言いながら「お母さんも食べる?」「ん~、頂こうかしら。」と2人でおそばをすすっていると突然の雨・・・母は「あっ!!」といって縁側の庭に干しておいた座布団のことを思い出し、邦子さんと2人で「それっ!!」とばかりに座布団の投げ渡し・・・そのあとぽつんと庭に立ち雨にぬられながら立ち尽くす母の姿もなんとも言えず、哀愁を佩びているのです。あの頃の母親とは確かにそういう存在でした。

 次女はお嫁に行き、一緒に暮らしてはいませんでしたが、三 女の和子さんとは歳は離れていて、どちらかというと、次女と三女が「お姉ちゃん、好きな人いるのかな?」「いないと思う」とさっぱりしたものです。でも、家族が家族らしかった時代ですね。朝Mokpida_004は父親と邦子さんが新聞を3誌か4誌とっているのを隅から隅まで読むのが日課のようで、こういう努力も必要なのだとつくづく思ったものでした。

 バブも「だんだん邦子が遠い存在になるんだろな・・・」という一種の淋しさがあったように思います。自分は重荷になるだけだと、思い続けていたような気がしてなりませんでした。でも邦子さんが頑張れたのはバブがいてくれたからだと思うのです。むしろバブが亡くなってからのほうが気を強く持っていくのにどこかで疲れていて、淋しさを埋める為にいろんな事を頑張ったんだと思います。

 自分の内なるものややりたいこと、仕事で判断に迷うことなどを相談し、アドバイスを求め、あどけないほど、素のままでいられる相手。深い思いやりと愛とを受け、自分を育ててくれた人。それが、バブだったのではないでしょうか。

 朝早く、仕上がった原稿を見てもらいにバブの家へ行くと、雨戸が全部閉じられ、変な予感を感じた邦子さんは、自殺したバブを発見し、必死に声をかけました。その時の様子は詳しく映像になっていません。次に映像となって流れた場面は、

「ある時私が隣の部屋で寝ていて、トイレに行こうと思って姉の部 屋の襖を開きかけた。すると姉がヘナーッと座っているのが見えた。整理ダンスに何かをしまおうとしていたのだろうが、途中で放心状態になっていた。でも、「どうしたの?」と声をかけることができず、その後ずっと私の心の中に仕舞い込んでいた」という三女のナレーションと整理ダンスに手を突っ込んで放心している姿でした。どうやって帰ってきたかもきっと解らず、あの状態が、もはや頭が真っ白な状態だったのでしょう。いつ、どのように立ち直ったのか、私には解りません。

 でも事故で亡くなるまで、忘れたことは無いでしょう。忘れるなんて出来るはずがない、だから見事としか言いようのない“秘め事”に封じ込めてしまったのだと思います。あんなに綺麗で気が利いて、でも甘える事はもう無くなったのですね。見事に貫いた純愛です。この愛が溢れた作品を観る事しかできないけれど、観られる事を好しと思わなければならないでしょう。封印されていたこの恋文のドラマを邦子さんは許してくれるのでしょうか・・・・。

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2009年12月20日 (日)

私の好きな音楽家~リヒャルト・ワーグナー

 御多分に漏れず、中学校の音楽の時間に学んだワーグナー。今でも聞きますね、いいのもはいいです。交響曲 ハ長調は、特に印象的で、ワーグナーは死の直前の1882年12月24日にヴェネツィアのフェニーチェ劇場で行われた妻コージマの誕生日を祝う演奏会においてこの曲を指揮しているそうです。

 幼児から音楽に親しみ、特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受けました。ウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人で、生涯敬意を払った数少ない人物でした。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志しました。

 それと同時に劇作にも関心を持ち、のちに彼独自の芸術を生み出す原動力となりました。10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められていました。時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲しました。

1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となりました。その後指揮者に飽き足

らず歌劇作曲家を目指したが芽が出ず、貧困と借金に苦しみました。1836年女優のミンナ・プラーナーと結婚し、彼女とはのちに次第に不和となりました。このころ「恋愛禁制」を作曲し、ケーニヒスベルクやリガで劇場指揮者をしながら転々としました。
 
 1839年パリに移りましたが相変わらず貧しかったそうです。このパリ時代には小説『ベートーヴェン詣で』、『パリ客死』を書き、またのちに有名となる歌劇『最後の護民官リエンツィ』、『さまよえるオランダ人』を書いています。しかし、パリでワーグナーが認められることはなく、ワーグナーはフランスに悪印象を抱くようになりました。ドイツ人の音楽家は受け入れられなかったということなのでしょうか・・

 失意の内、1842年ドイツに帰り、ドレスデンで上記2歌劇を上演してようやく注目されました。翌年ザクセン王国宮廷劇場指揮者に任命されました。1844年にはイギリスで客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当。葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、多才を発揮しました。1845年には『タンホイザー』、1848年には『ローエングリン』を作曲し、好評を博しました。
 『歌劇ローエングリン』より「婚礼の合唱」は今や結婚式には欠かせない曲ですね、そう、これはワーグナーの曲なのです。

 彼独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げました。例えば、匿名で『音楽におけるユダヤ性』を書いて、メンデルスゾーンやマイアベーアらを金銭づくのユダヤ人だから真の芸術創造はできないとして非難し、この反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことと相まって、はるか後にナチスに利用されることとなりました。しかし、彼のユダヤ人嫌いは一貫したものではなく、晩年にユダヤ人の指揮者を起用したり、親交もありました。超大作『ニーベルングの指環』を書き始め、また『トリスタンとイゾルデ』を1859年に完成しました。

 1860年からはヨーロッパを演奏旅行します。このときリストの娘で指揮者ビューローの妻コジマと恋愛関係になります。
経済的困窮は極まるばかりでしたが、 64年バイエルン国王ルートヴィヒ2世の強力な援助を受け、作曲に没頭します。 70年にはコジマと正式に結婚し、その後自作上演のためのバイロイト祝祭劇場を建て、念願の「ニーベルングの指輪」四部作などを上演していきました。
  その後「パルジファル」 を完成してバイロイトで初演しますが、翌年83年2月13日、ヴェネツィアにおいて心臓発作に襲われ息を引き取りました。

  ワーグナーの芸術は、作品の規模の大きさばかりでなく、土台となっている知識の広さによっても特徴づけられます。彼は自分で舞台作品の台本を書きましたが、そこでは一般にいわれるゲルマン神話ばかりでなく、ギリシア神話をはじめとして、シェークスピア劇などありとあらゆる世界文学が下敷きとなっています。
そうした台本がそのまま作曲上の試みとして音楽に移し変えられているところに彼の作品の特徴があるといえます。
   

 動画の音楽は一番有名で私も大好きな『ワルキューレの騎行』です。

ワルキューレは神々の長であるヴォータンが知の女神エルダに生ませた9人の女神です。その役割は世界中の戦場におもむき、地上の英雄を探し出してつれてくるという役割。天翔ける天馬に乗ってワルキューレが集まってくるのですが、イメージでは空のあちこちを自在に飛び回る馬に乗ったワルキューレたち、その馬には世界の英雄が
同乗してものすごいスピードで攻め寄せてくる、そういうイメージで聞いてみて下さい。 
 
 当時のドイツに生まれていなければ、彼はもっと違った人生があったのかも・・・と考えてしまいます。

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2009年12月19日 (土)

私の好きな作品~『ノルウェイの森』

 この作品は、『世界の中心で愛を叫ぶ』のおかげで影が薄くなったかもしれません。どちらも純愛小説ですが、私は『ノルウェイの森』に大きな衝撃を受けてしまったので、このお話をしようと思います。上下巻で出ましたが、上巻はすでに『蛍』と言うタイトルで文庫本で読んでおり、下巻が出るとはその頃思いもしませんでした。

現在の語り手「僕」が14~15年前の、大学生の時の記憶をたどHigashiyama_work28s る形で物語が進行します。そして大学生の時の「僕」は高校生の「僕」につながり、「彼女」と「僕の親友」の関係へと展開していく・・・
 高校生の時に「僕の親友」が理由不明のまま自殺を遂げ、「僕」と「彼女」が受けた精神的な打撃が明確な形を取らないままジワジワと忍び寄るような形になっていました。精神的な打撃の中身は恐らく「死」に対する意識であり、この「死」に対する意識はおそらく現在の「僕」をも捕らえていると思われます。「死は生の一部として存在する」という一文がこの作品を支える構造として機能しているような気がします。

 また、ここで語られている「僕」と「彼女」の関係はいわゆる恋愛関係にあるとは考えられないですね。作品中には「僕」側の気持ちが冷静に語られていますが、相手を想うことの喜び、一緒にいることで生じる生の喜びが2人の関係には欠落していると思われ手仕方がないのです。このような関係を中心に置いて展開される作品世界が描き出しているものは、「親友の死」によりもたらされた計り知れない恐怖、そしてその恐怖により世界の一部が不可逆的に変質してしまった(「彼女」の方は本当に精神に異常を来してしまった)人物についてだと思いました。 

 『螢』では僕と彼女、それから彼女の恋人の3人で物語が展開したましたが、『ノルウェイの森』では『螢』に比べてかなりたくさんの人物が登場します(永沢さん、ハツミさん、緑、レイコさん)。これら登場人物は過去の回想部分を展開する上でそれぞれ重要な役割を果たしていますが、実は直子と「僕」の関係に本質的に関わってくるのは緑だけでなのです。緑は不幸な身の上を持った女性であるにも関わらず生へのエネルギーが非常に大きく、直子と対照的であり、この生へのエネルギーが結局は「僕」を救うことになる・・・。緑の登場が「螢」とは大きく異なる点であり、物語の展開に非常に大きな働きをしていますね。また、ハツミさんの存在とその死については「死」の取り扱いを考える上で重要かと思います。

 直子のルームメートであるレイコさんは「僕」と直子をつなぐ存在として位置づけられ、特に直子の状態を的確に把握する上で不可欠の重要なキャラクター。物語を読むとレイコさんは直子が持つ「死」の要素の影響は受けていないように見えますが、これは何故?直子と「僕」をつなぐ役割だけを担っていると解釈することもできますが、レイコさんは直子と同じ世界に住んでいるためであると考えることもできるのではないでしょうか・・・

 直子自身が有する「死」の要素を中心に物語が展開されます。この「死」の要素が直子自身を消滅させ、キズキを失望させて自殺させたのです。そして直子と対局にある女の子「緑」により「僕」は直子を捕えていた「死」から逃れられたのではないでしょうか。直子がもはや回復の望みがない入院をしたことは『螢』でも暗示されていますが、その原因をどこに求めるのかが「螢」と『ノルウェイの森』ではこのように食い違いが出てきたのは面白いと思いました。『ノルウェイの森』では直子の背景がより鮮明に描かれており、ある意味では解釈は容易でしたが、やはり直子の死は私には大きなショックでした。この子は生きていられないとずっと私の頭から消えませんでした。

 「螢」の時と同様、この作品には「死」が身近に存在しています。直子の「死」の意識は「螢」に描かれているものとほぼ同様であるが『ノルウェイの森』では直子が自殺するところまで描かれています。 ところで、直子の他にハツミさんの存在と死についても注目すべきです。永沢さんの態度がどうであれ、ハツミさんは永沢さんのことを好きだと明言。彼女は永沢さんが本気で変わると思っていたのでしょうか。それは物語の中では語られず、彼女は「人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った」のです。ここでハツミさんの心境について考察する必要は無いと思いますが、「僕」がハツミさんを特別な女性と認めていたにも関わらず救済できなかったこと、「そしてそれは僕の多くの知り合いがそうしたように」とあるように、「僕」が自分の周りに死が徘徊していると考えた点に注意を払う必要があるのでは?。ここから「僕」もまた「死」にHaruoinoue 取り囲まれている存在であり、その考えや行動が「死」に侵食される危険性が覗いているのです。キズキの死、ハツミさんの死は直子の死と共にこの物語全体の背景を構成していると考えられますが、『ノルウェイの森』では緑の存在が「僕」を「死」の危険性から救い出すべく拮抗していると考えられます。
 それからこの物語では性の描写が露骨になります。登場人物すべてが性交渉について罪悪感のようなものは持ち合わせていないかのように
思えます。しかし性的な接触が満足を与えているかというとそれは全く逆で、かえって喪失感のような寂しい雰囲気が漂っている・・・。
だからこの物語では生の喜びとしての愛や性的な交渉という解釈は成立しないのでしょう。その理由はこの物語の基調が「死」を背景」と
しているからであると考えられますね。

 レイコは、大学4年時に発病し、精神病院に入院するが、退院後、家族、さらには社会から精神障害ゆえに偏見と冷遇にあい、24歳で再発。その後、精神病院に再入院しますが、退院後も社会から身を潜めて生活していました。そんな中、理解ある夫と結婚し、一児をもうけますが、31歳に知り合いの家族から、過去の精神病院入院歴を暴かれ、周囲への被害妄想と幻聴に悩まされるようになります。最終的には、自分から夫、子どもから離れ、京都の施設に7年も入所していました。直子をはじめて訪れた僕と二人きりになったレイコは、自分の身の上話を聞かせます。その際、レイコの語りは、この小説のひとつのテーマである「精神を病むということ」とはどういうことなのか、つまり人間として「まとも」であるとはどういうことなのか、という問題を扱っているのだと思いました。
 
 小説の中で、レイコは「この施設にいる患者は皆、自分が不完全であることを知っているから、お互いを助け合うの。私たちはお互いの鏡なの。そして、お医者は私たちの仲間なの。私たちのような病気にかかっている人には専門的な才能に恵まれた人が結構多いのよ。だから、ここでは私たちはみんな平等なの」と述べ、僕に「第一に相手を助けたいと思うこと、そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないと思うこと。第二に正直になること」を勧めます。レイコの語りを借りながら、作者である村上春樹は、精神を病んでいるとされた人の方が「まともな」感じ方や考え方をするのに対して、いわゆる世の中の「まともな」人たちは「僕」から見ると、異常としか思えない、といった逆説的な主張をしているのではないでしょうか。

 それは、後述するように、この小説の一番の特徴である、「生と死、そして病気と病気でない二つの世界の内包、あるいは連続性」に関係してくるテーマなのです。
 僕に語るレイコの態度は、長い療養生活の後、自己の精神の病あるいは障害を受容し、そして人生の真理や教訓を獲得した人間として、死の世界に導かれる直子と生命感あふれる緑の間で苦悩する僕に生きる指針を与えてくれます。直子の自殺後、レイコは直子の洋服を贈与されたことで、死んだ直子の分身として施設から僕の住む外の世界へとやってくきて「強くなりなさい、もっと成長して大人になりなさい」と僕の成長への脱皮を支持する存在となるのです。その後、レイコ自身も、外の世界へ復帰しようとします。

 京都の障害施設の設定に作者の障害者観が投影されていると考Kaii22 えられます、ここで大事なことは、作品の時代背景が1960年代から70年代を前提とし、その時代に前記の療養施設の作者の発想は先駆的なのでしょう。おそらく作者は、1960年代に欧米で流行した反精神医学、すなわち、従来の伝統的精神医学が狂気イコール病気と仮定してきた視点への異議申し立て的な思想を取り入れた可能性があるるそうです。そして、先に述べたレイコの語りにみられる『精神の病の中にもまともさがあり、まともな人間にも病がある』という逆説的ですが、それゆえに両者の共存の必要性にも触れています。
 
 最後に、この著作は、反復される大切な人々の自殺や死、それに対極的に存在する瑞々しい生を織り混ぜた作品であり、僕を中心とした喪失と再生の物語でだと思いました。小説全体が、生と死、動と静、障害と非障害、施設と外の世界など異なった世界を内包し、そして相補的に連続させた一つの作品となっていることが特徴です。

村上氏の物語は、失意と自閉の時代に、人間同士の理解、他人や社会との接触とは如何なるものかを提示していると思いました。

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2009年12月17日 (木)

私の好きな作品~『博士の愛した数式』

  80分間に限定された記憶、ページのあちこちに織りこまれた数式、そして江夏豊と野球カード。物語を構成するのは、ともすれば、その奇抜さばかりに目を奪われがちな要素が多いですよね。しかし、著者の巧みな筆力は、そこから、他者へのいたわりや愛情の尊さ、すばらしさを見事に歌いあげます。

博士とルートが抱き合うラストシーンにあふれるのは、人間の存在Gohho009_2 そのものにそそがれる、まばゆいばかりの祝福の光・・・。3人のかけがえのない交わりは、一方で、あまりにもはかない・・・それだけに、博士の胸で揺れる野球カードのきらめきが、いつまでも、いつまでも心をとらえて離さないのです。

 博士は64歳。数学(整数論)専門の元大学教授。数学と子供と阪神タイガース(特に博士が事故に遭った当時、阪神の選手だった江夏豊投手(背番号は2番目に小さい完全数である28))をこよなく愛しています。(ちなみに私はジャイアンツファン・背番号7のセンター野手です。)

 47歳のときに巻き込まれた交通事故により、新しい記憶が80分しか持続しないようになってしまいます。大切なことを記したメモ用紙を体中につけている。書斎のクッキー缶の中に、野球カードや思い出の写真等をしまっていて、他者と接することが苦手で、何を話して良いか分からなくなったとき、言葉のかわりに数字を持ち出すのが癖。特技は、文章や単語を逆さまから読むことと、一番星を見つけること。ニンジンが嫌い・・・

 こんなに素晴らしく面白い作品を今更ながら読みました。読んで数字や数学が本当に美しく感じ取れるようになれたことには驚きました。
 「私」の奔走ぶりも素晴らしいですね。ちょっと目を放すと何がなんだかわからなくなる、そんな中、博士に献身的につくしていきます。

 例えば認知症にかかった親を介護する時、こんな温かい気持ちで過ごせるかと言われたら、同じ悪戦苦闘の中で穏やかに優しくと、言えない現実もあると思います。でも同じ事を何度も何度も繰り返すことを「私」は穏やかに見守っていますね。「私」も最初はどうするべかかなり悩んだと思います。3人が穏やかな暮らしができるようになったのもそれぞれの努力もあったと私は思いました。

 全国の書店で働く人々が選ぶ本屋大賞の大賞作品として第1回受賞作となったそうです。文庫化されると、史上最速の2ヵ月で100万部を突破。2006年1月の映画化という販売促進策で奏功が決定的になりました。ちなみに大賞受賞時の得点は202点だそうです。

 この作品は映画にもなりましたが、どちらも甲乙付けがたいと思います。小説内にいくつもの数式や、証明といったものが出てきますが、むしろ美しいものとして感じられる不思議な作品です。それは、文体や、描写からにじみでるこの小説の雰囲気といったもので、そしてそれを何よりも表しているのが、80分しか記憶の持たない、ひどく優しい博士の存在でした。

 そして子供をとても大切にしている、素晴らしい質問をしたと思わせる才能を持った博士・・・80分しか持たない記憶を持った博士の内面は・・・忘れてしまうという恐怖があってしかるべきなのですが、飄々と生きているように思わされてしまうのは博士の回りに対する優しさは記憶の奥で忘れられない唯一のことだったと思えてなりません。 読み終えた時に、じんわりと暖かい気持ちになれる、そして前向Hakase_001_2 きに生きることの大切さ、それが小説のもつ絶対の力であると私は思っていますが、この本にはそれがあふれています。

 50万部のベストセラーに輝いた、小川洋子原作の同名小説を、『雨あがる』の小泉堯史監督が映画化した作品です。数式という言葉に拒否反応を感じる人は、この作品をぜひ観るか読むかしてみてほしいです(私もそうでした)。

何気なく周りに存在する数の不思議は、人間同士の絆や生きる喜びさえも伝えてくれるといいます。ルートの母の靴のサイズを「24」と聞いて、「潔い数字だ」と微笑む博士。そんワンシーンからも、この物語に込められたユーモアと、温かな人間の姿が見て取れるはず。

 自身は「数学が大の苦手」という寺尾聰氏が、記憶障害の博士という難役を深みあるキャラクターに仕上げており、家政婦役の深津絵里さんは、それに寄り添いながら爽やかな演技を見せています。(goo映画より抜粋)

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2009年12月15日 (火)

私の好きな作品~『花の降る午後』

 宮本氏と言えば、川三部作を思い浮かべられる方が多いと思います。私も三部作を読んでから、次々と読みふけった時期がありました。

 何故『花の降る午後』を選んだかというと、中でもとりわけ37歳の未亡人の働く姿や憂いに満ちた姿が印象的だったからでしょう。

 最愛の夫を癌で亡くし、神戸の老舗レストランを女手一つで切りKaii2 もりする典子が主人公で、仕事は厳しく人の良いシェフ、実直で有能な支配人、懸命に働くウェイターたち・・・。お店を継いで4年間を振り返ると彼女はとても満ちたりる。
 そんなある日、生前の夫から買ってもらい今はお店に掛けていた絵画を貸してくれという青年が現れた。彼の名は高見雅道。その『白い家』という絵の作者だった・・・。一方、店を狙う魔の手が伸びてきていた。典子に訪れた恋、そして』闘いが始まる。

といっても、ミステリーではありません。作者曰く『幸福物語』です。宮本氏は、善良な一生懸命に生きている人々が幸運にならなければ、この世の中で小説など読む値打ちはきっとないでしょうからとあとがきに書いています。

 考えてみれば終わりの1ページを読み終えて、この後、どうなってしまうのだろうと言う余韻が本や映画で気になることが、楽しみで読み続けてきたように思います。物語が終わって登場人物が消え、私だけが残る、でも最初の立ち位置とは同じではないことに気づくのです。

 人の心の喜怒哀楽を通過してきたことで、人生の大事なことと、そうでないことが際立って見えるのでしょうね。宮本氏の作品はまさに文芸の芸と呼ばれるところだと思うし、それはたんにテクニックというものではなく、読者への優しさや愛情の表われではのではないかと考えさせられました。

 お店への災難も悪人と思しき人物が実は騙されていたり、典子の強い見方が物語に表面的には顔を出さないで災難を解決してくれたりと人間関係はかなりややこしいのですが、もう一方で典子と高見の恋愛は結末が見えないのです。

 一番気になるのがこの二人の行方ですが、レストランをとるか、恋人をとるかは読んでいて、気が気でなりませんでした。

どちらをとっても愛情と言うしがらみがついてくる・・・宮本氏が典子の目線でとらえているのも面白いですね。女性では書けない文体も沢山出てきて、典子をとても魅力的に見せてくれます。
 
 年下の高見はこういいます。

『しがらみを捨てるっていうのは煎じ詰めれば人生から降りることになるよ。人生からおりた人間の未来に花が咲いたためしは無い。』と。

  随分解ったようなこと言うななんて一瞬思いましたが、そうではKaiii021 なかったようです。充分愛情があるからいえた言葉なのですね。男と女が完全な幸福を描けないのは、平和な結婚生活も恋愛中の恋人同士でも常に潜在的な危機にさらされているからなのでしょう。いつ、死や病気が襲い掛かるか知れないですものね。

 高見は一度パリに行きますが、戻ってきて、そっと道にたたずみ、典子のレストランを見上げます。典子もはやる気持ちをおさえられないけれど、ここで抱き合ってどうなるのか、過去のしがらみも恋愛感情も消えはしないのだから。

物語が終わっても典子は悩み続けるのでしょう。そんな気がします。美しい女は悩むことでますます美しくなるのではないでしょうか。こういう女性に花は午後と言わず夜になっても降り続けるのでしょう。ここで鼻持ちならない女性になるものですが、宮本氏の描く女性はどこまでも賢く、誠実です。

 映画化もされたようですが、そちらではレストランのスキャンダルをめぐって話が進み、あの絵の裏から夫の手紙が出てきて隠し子がいることなどスリリングな展開がされるようです。そこでは典子の燐とした姿を垣間見れるでしょう。どんな終わりになっているのか興味がありますが。

 久々に読み返してみて、典子という女性にはやはり花が降るに値すると感じました。『花の降る午後』と言うタイトルも意味がようやく解った気がします。

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2009年12月13日 (日)

私の好きな音楽家~ドメニコ・スカルラッティ

 メロディを聞くと誰もが何処かで聞いている作曲家、スカルラッティ。Wikipediaによると同年にJ.S.バッハ、ヘンデルのバロック時代の代表的作曲家が生まれていますが、スカルラッティもその時代の鍵盤曲に新しい用法を取り入れた重要な作曲家なのです。
 マリア・マグダレーナ・バルバラ王女のために書かれた個性溢れるチェンバリズムが繰り広げられる555曲の練習曲が、そのテーマ性と展開によって後に「ソナタ」と呼ばれて親しまれています。

 スカルラッティは鍵盤作品の作曲者として有名ですが、それらはチェンバリズムを追求する明確な方向性が見出されるため、広く鍵盤楽器一般のためでなく、特別なもの以外はチェンバロで演奏する効果に限定されると言えます。
 鍵盤作品以外に、歌劇や宗教曲なども遺していますが、残念ながらあまり知られてはいません。

 ドメニコ・スカルラッティの音楽活動は、大きく2つの時期に分けて考えることができます。第1の時期は父アレッサンドロ・スカルラッティが亡くなる1725年、あるいは彼が妻を迎えるために帰国した1728年までとされます。
 この時期の彼の作品は、教会音楽やオペラ、室内カンタータが中心で、様式的には父アレッサンドロら当時のナポリ楽派の影響を強く留めており、オペラと宗教音楽の作曲家として活躍しています。
 第2の時期は1729年、ドメニコ・スカルラッティがスペインに移り住んだ年に始まるとされています。彼が残した550曲余りのチェンバロ・ソナタは、その大部分がこの時期に書かれたものと推定されています。ただし、それらのソナタは、イタリアで一般的であったトリオ・ソナタでもソロ・ソナタでも無伴奏ソナタでもない、通奏低音の書法からかけ離れた形式で書かれていました。
 
 ドメニコ・スカルラッティの真の創造的な仕事は、スペインでの第2期、そして560曲近く残されたこれらのソナタにこそあったと言って良いでしょう。スカルラッティ自身によって練習曲と呼ばれていた、これらの1楽章形式のソナタは、1738年に『Essercizi per Gravice
mbalo チェンバロ練習曲集』として30曲が出版されています。その後、40曲ほどがイギリスで出版されますが、残りの大部分は何冊かの手縞譜として後世に伝わったのでした。

 スラルラッティのソナタは、ウィーン古典派以降の他楽章形式のソナタとは違って、多少の例外はあるものの、ほとんどが単一楽章で単純な二部形式という構成になっています。でも、提示される2つの主題はしばしば対立する傾向にあり、様々な動機を組み合わせた、あたかもモザイク模様を見るような旋律の積み重ねは、表現や手法的には古典派前期のソナタのスタイルに近いものだと言えるでしょう。

 スカルラッティは、1729年に出版した『チェンバロ練習曲集』の序文に「これらの作品のうちに深刻な動機でなく、技術的な工夫をこそ見て欲しい」と記しています。彼のソナタは、確かに構成上の無駄を一切省いた極端にシンプルな楽曲ですが、その中に示された楽想の多様性には、目を見張るものがあるからです。

 そして、イベリア半島という、強くアラブの影響を受けた土地の音楽、ボレロやファンダンゴ、セギディーリャといった、民族色の濃いスペイン・ポルトガル特有のリズムや旋律の影響を、ソナタのあちらこちらに聴き取る事も可能でしょう。イベリア半島の民族音楽の刺激
があったからこそ、スカルラッティは独創的な仕事が出来たと言ってもよ良いのかもしれません。
 550曲余りのソナタは、その作品数が膨大であるがゆえに“玉石混淆”の様相を呈しています。けれど「珠玉」という形容が当てはまる作品もまた、数多く存在しているのです。

 ドメニコ・スカルラッティが残したソナタは、現在では職業ピアニストにとっては指慣らしやアンコール・ピースとして、ピアノの初学者にとっては練習曲として使用されています。これは、スカルラッティのソナタの中に、ピアノの演奏に必要な近代的な技法が追求されて
いるからでしょう。後世への影響はどうであったにしろ、『近代的鍵盤楽器奏法の父』とも呼ばれのももっともだと、ソナタを聴くたびに思わせられます。

 J.S.バッハの平均律とは全く性格を異にしていますが、それ故にこそ、J.S.バッハと比肩し得るほどの、後期バロック鍵盤音楽の貴重な財産のひとつとなっているのが、ドメニコ・スカルラッティのソナタ集なのです。

 時々、無償に聞きたくなる素晴らしく、優しく、それでいて力強い音楽です。

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2009年12月12日 (土)

懐かしの作品~『さらばテレビジョン』

 1978~80年の頃書かれたものなので、もう古書扱いでしょうか。倉本先生がまだ東京にいらっしゃて、せっせと脚本を書いては世に送り出していた頃、知り合った俳優さんのことや日記と題してエッセイを書かれたものです。倉本先生といえば『北の国から』が有名ですが、私はむしろ富良野に移住される前のせこせこした生活に中で書かれた「2丁目3番地」、「3丁目4番地」、「さよならお竜さん」、「ガラス細工の家」「前略おふくろ様」「ホンカンシリーズ」、単発のドラマで芸術祭参加作品などきりがなく、ドラマKuramoto も今と違って長期に渡って放送されれていました。

でももうテレビはおしまいだと言われた時期でもあります。今思えば、今よりずっといい作品が多かったし、バラエティなどはドリフターズやコント55号くらいしかいなかった、役者にスポットをあてられた私にとっては黄金期でした。

 本の冒頭に『6羽のかもめ』の最終回の言葉が載っています。

『テレビの於けるドラマの歴史はくさされっぱなしで終わったんだ。その通り!!テレビドラマに芸術はなかったさ!徹頭徹尾、芸術はなかったさ!俺の愛したテレビドラマは最後迄下等な娯楽品としてーー下品なーー悪趣味な代物だったさ。さらばスタジオ!さらば視聴率!そしてさらばテレビジョン!だがな、一つだけ言っておくこがある。(カメラのほうを指差す)あんた!テレビの仕事をしてきたくせに本気でテレビを愛さなかったあんた!(別を指差す)良くする事も考えずに批判ばかりしてたあんた!あんたたちにこれだけはいっておく!あんたたちは決してテレビを懐かしがってはいけない。あの頃はよかたなんて後になってそういうことだけは言うな。言う資格がない。
 懐かしむ資格のあるものはあの頃懸命にあの状況の中でテレビを愛し、闘った奴。それから楽しんでくれた視聴者たちーー』

  ドキッとする言葉で始まります。どれ程現場が荒れていたか創造を絶する言葉ですね。確かにそういう風潮があったことも思い出せます。
でも倉本先生や向田邦子さん、早坂暁さんなどが懸命にドラマに費やした日々でもあるのです。娯楽といってしまえばそうかもしれません。
 でも命のあるドラマでしたよね。芸術性がなかったかと問われるとKuramoto003 無いとはいえないと私は思うのです。ドラマを愛した人は確かにいたのです。

 私は本を読むきっかけはテレビだと言えるでしょう。それも好きだと思うドラマは殆ど倉本先生のものでした。向田邦子さんのように本と言う形で残っているとは知らず、書店でアルバイトをした時に多くの倉本作品にまた出会えた時の感激は今も覚えています。

 この作品では『心やさしき役者たち』という題でも数々の有名な役者さんとのエピソードも載っています。
 先日亡くなられた大原麗子嬢のことを読み直し、涙があふれました。飛行機が苦手な先生に、いつも優しく「麗子が守ってあげるからね。」と声をかけてくれた麗子さん。「私はこんなことでは死なない運命なんですって。」と無邪気に言っていた優しい微笑みが浮かびます。

 大滝秀二さんは北海道に入った瞬間からホンカンになりきってしまう、これも大滝さんらしいお話です。

 私は今まで「私の好きな俳優たち」と題していろんな俳優さんを取り上げてきましたが、元はと言えば、倉本先生の作品に出ている方が多かったように思います。倉本先生らしい優しい役をされたからなのでしょう。

 おかしかったのは、石坂浩二さんのエピソードでしょうか。何故か先生が付き添いで浅丘さんの家に行く車の道中で、石坂さんが何て言えばいいのかボソボソつぶやいているところ。
『頂きたいんです、頂かせてください、下さい、下さいな、変だな。頂戴させてください、頂戴させていただきたいンです、アアだめだ!!』これで石坂さんは先生に頭が上がらなくなったことでしょう。

まだお嬢さんだった仁科明子さんのお話も素敵です。

 この題の後にショートショートというかエッセイ風の読み物がついていて、今ある先生がどんな方だったのかを知るにはとてもいい本だと思います。富良野に来られたことは雑踏の中から自然に帰りたかった、自分を取り戻したかったという思いが強かったかもしれませんが、後を追うように著名人や作家さんが北海道付近に来られたことは何だか妙な気持ち
です。山田太一さんは「私は東京で頑張る」と言った言葉が頭をよぎります。

 

今また新しい脚本家さんが多く誕生し、向田邦子さんが亡くなられてから発足された向田邦子章を取る方々に大いに期待しています。いつまでもヒューマンドラマを愛して止まない私の願いです。

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2009年12月 9日 (水)

私の好きな作品~『パズルパレス』

 アメリカ国家安全保障局(NSA)が暗号解読のため開発したスーパーコンピューター「トランスレータ」。 これによって暗号の解読が成功すれば一般国民のプライバシーの侵害および、政府による弾圧に繋がるという懸念があったため、NSAは表向きには解読に失敗したと発表した。が、しかし、それは秘密裏に運用され、テロリスト達の 電子メールの暗号を解くことで、数々のテロを未然に防いでいた。パズル・パレスとはNSAのニックネーム。地球上で最も優れた暗号学の頭脳が集まる場所のこと。

  ある休日、暗号解読課主任スーザン・フレッチャーは突然NSAに召集Pazuruparesu001される。 プライバシーの観点からトランスレータの運用をよく思わない元スタッフによって開発された、解読不能の暗号化技術「デジタル・フォートレス」(電子要塞の意)が発表され、暗号を解くパス・キーがオークションに掛けられたというのだ。
 もし、トランスレータにかけても解読できないこの暗号化技術が世に広まれば、アメリカはテロを防ぐことが困難になる。開発したエンセイ・タンカドはパス・キーを協力者にも預けていたため、実力行使に出る事も出来ない。オークション中止の条件はただ一つ、「トランスレータの存在を外部に発表する事」であった。説得を提案するスーザンであったが、開発者のタンカドが既に心臓発作で死亡した事、そして、恋人のデイヴィッド・ベッカーがパス・キーを含むであろうタンカドの遺品を回収しに旅立った事を知らされる。スーザンは、協力者がタンカドの死を察する前に、その正体を突き止めなければならなかった・・・

 私達が夢物語だと思っているような巨大な国家機関や、この地球すべてのマクロを司る宗教組織など、巨大組織をダンブラウンさんは、いつも舞台に選ぶのには感嘆します。『天使と悪魔』ではバチカンであったし『デセプションポイント』ではアメリカ合衆国政府と国家
偵察局でした。

 こうした組織は、その存在意義や活動があまりに多岐にわたるため、なかなか物語のベースには乗らない・・・これをまるまるメイン舞台にしてしまうという物語は無かったように思います。きっと、これらの機関は特にここ20年で肥大化したという事もあり、なかなか想像力が追いついていたのかもしれません。でもダンブラウンさんは、これらの巨大機関をメインの舞台としています。10年前に書かれた作品なのにです。凄いです。

 そこに属する働く人々のミクロの物語を等身大に描くことなど出来るはずがないと思っていた私は驚きました。

 人間社会には何処にでもあるような話を、力量がない作家だと、マクAnnri008_2ロの重みに比較して、ミクロの関係性のレベルが変だとバランスが悪くなり、そんな思いでマクロの機関を運営なんか出来ないと思っていたのですが、、ダンブラウン氏は違いました。

 場面が目まぐるしく切り替わり、息つく暇もない上巻。ああ終わったと思わせといてぜんぜん終わらない下巻。やや強引な展開や、登場人物の立ち位置がよく分 からない箇所もあり、全体的に粗削りな印象を受けたことも事実です。と言っても、続きが気になってつい読みすぎてしまうスリル感は著者の得意とするところなんですね。

 あまりに肥大化してその存在が意味不明になりがちで、霧のように良く見えない巨大機関を、それを支える人の動機にもどして、その組織設立の理念みたいなものをを繰り返すことにより、この複雑怪奇なマクロのシステムが支配する現代においても等身大の人間たちが、ミクロの人間関係に投影し、その組織の本義を支え得るために苦しんで戦っているのだ、ということが生き生きと描き出されているのには脱帽です。

 最後の最後で、個人的なミクロの復讐と、そもそもその組織合衆国にとって、世界にとって、意味ある組織であるためにはそのままでいいのか?という問いを突き付けられる物語構成になっていることが何より読んで良かったと思える瞬間でした。

 謎解きは他の作品に較べると少ないですが、安心して読めるので私は好きです。

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2009年12月 6日 (日)

永遠の悲劇~『ハムレット』

 最初に読んだのはたしか小学生でした。父親の亡霊、オフェーリア、『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。』、『尼寺へ行け!』etc・・・こんな風に断片的にしか覚えていなかったのに二度と読むことの無かった作品なのです。

 長いお休みを頂いて、何が読みたかったかというと、何故かシェShekusupia001 ークスピアだったのです。かのつかこうへい氏が横目でシェークスピア全集を観ながら、『オレはあんな綺麗な言葉は使えない!!』と言わしめたことも有名な話ですよね。で、読み直してみました。できれば翻訳ものじゃなく英語で読めたら良かったのですが・・・

 『ハムレット』ほど批評家を悩ましてきた劇は類を見ないでしょうね。毎年発表されるおびただしいほどの批評、論文がでるらしいことからも分かります。決定的な解決はありそうもない・・・にも関わらず、というより、だからこそ、人は問い続けるのでしょう。

 だから、むしろ、はじめから人間の内面宇宙を問うことをテーマにした劇として見た方がすんなりと受け入れられるのではないでしょうか。しかし、人間の内面宇宙そのものが、すでに迷宮だと思うので、人は永遠に問うことをやめられないのではないでしょうか。だから、『ハムレット』論も永遠に終わることはないでしょう。こうした堂々巡りが『ハムレット』の最大の魅力なのです。すっきりとした答えが出ない、不思議な作品でした。

 しかし、この作品により、人類が初めて人間の内面と正面から向き合うことになるのだから、『ハムレット』が人類の精神文化に与えた影響は計り知れません。シェイクスピアもかなり力を入れて執筆しているように思います。
 ある学者の計算では、シェイクスピアはそれまでの作品で使った ことのない単語を約600語、この作品につぎ込んでいるそうです。しかも、その多くは英語の歴史でも初めて使われる意味や言葉でした。斬新な経験を表すには斬新なことばを必要とします。シェイクスピアは、人類がまだ経験したことのない宇宙を前に、その天才を振りしぼるようにして、新しいことばを生み出していったのだと思います。

 1997年、『ハムレット』は映画化されていますね。お芝居ではすっかり御なじみです。

 大まかなあらすじは、2ヶ月前に死んだ先王が亡霊となって毎夜現れる、と友人ホレーシオから知らされるハムレット。父親である先王の死、また母ガートルードと現在の王との結婚により心を痛めていたハムレットは亡霊に会いに出かける。先王の亡霊は、弟である現在の王に毒殺されたことをハムレットに打ち明け、復讐をするよう告げる。
 乱心したふりをするハムレットと、彼を心配する王と王妃たち。内大臣ポローニアスは、娘オフィーリアへの恋心がハムレットの奇行の原因ではないかと考える。王とポローニアスはハムレットとオフィーリアを会わせ、彼の悩みの原因を探ろうとするが、ハムレットは彼女に尼寺に行くよう言い放つ。Hamuretto002
 そんな中、芝居を行うため役者たちが城を訪れる。ハムレットは芝居に王と王妃を招き、役者たちに先王の最期とそっくりの暗殺場面を演じさせる。王は動揺し、その場を去る。母である王妃に呼び出されるハムレットだが、彼は彼女の再婚を強く責め、壁掛けの後ろに隠れていたポローニアスを刺し殺してしまう。王は手に負えなくなったハムレットをイギリスに行かせることを決める。
 父ポローニアスの死にショックを受け、狂乱するオフィーリア。兄レアティーズは父の復讐のため王のもとを襲撃するが、王はポローニアスの死がハムレットの仕業であることを打ち明ける。
 イギリスへ向かう船上、ハムレットは王がイギリス王宛てに書いた手紙を読む。そこにはイギリスに到着したらすぐハムレットを処刑するよう依頼する内容が書かれており、王の裏をかくためハムレットは1人デンマークに帰国する。ホレーシオと墓場にやって来た彼は、オフィーリアの埋葬現場に出くわし、彼女が小川で溺れ死んだことを知る。父への復讐に燃えるレアティーズから決闘を申し込まれるハムレット。
2人は王や王妃たちの前で決闘を始める。王はハムレットを殺害するため毒入りの酒を用意していたが、王妃が息子の幸運を祈って乾杯をするためその酒に口をつけてしまい、彼女は命を落とす。レアティーズは毒を塗った剣でハムレットを傷つけ、自らもその剣で傷を負う。王の策略を打ち明け、死ぬレアティーズ。ハムレットは王を刺し、毒入りの酒を飲ませて殺害。ハムレット自身も、ノルウェー王子に王位を継がせると言い残し死ぬというものなのですが、そこにはストーリー以上にハムレットの苦悩が細やかに表れていますね。
 ここでも『復讐』がキーワードでした。

どういうふうに読み込んでも、まだまだ拡がりがある、という奥行き の深さをもつものが、古典と呼ばれるのであれば、「ハムレット」はその筆頭格でしょう。

 シェイクスピアのどこが面白いのですか、と聞かれれば、即座に、台詞が面白いと答えるでしょう。ストーリーもたしかに面白いのですが、シェイクスピアはそれまでに書かれた詩、物語、劇を種本として自作を書きました。

しかし、シェイクスピアの作品が数え切れないほどの人々に愛読されているのはなぜか?

 台詞にその答えがあるのでしょう。台詞がストーリーに深みを与えているのです。台詞が拓き出す世界は無限の広がりを見せ、シェイクスピアと讃えたのだと思います。

 シェイクスピアは舞台のために書いたのであり、書斎での読書には向かKlimt06ないのではないかと思ったほどです。だから、まだシェイクスピアの生の舞台を見ていない人は、今すぐにでも見に出かけなければならないと思います。とにかく舞台で語られる台詞を聞くことが大切だと感じずにはいらませんでした。そうすれば、たとえわずかにせよ、台詞が本来持っている力に気づくのでしょう。そういう私も生舞台は観ていませんが、いつだったか教育テレビで見たことがあります。それは現代劇に近い形でしたが。

 シェイクスピアの言葉は、舞台に放たれると、突然、生き生きするのではないかとつくづく思いました。
 また、シェイクスピアの台詞があまりいろいろなことをいっぺんに言おうとしていることが私達に混乱を招くのではないかとも感じました。丁寧に意味を拾おうとするとその深さにどっぷりはまって動けなくなると思います。シェイクスピア世界の凝縮度についてゆけていないでしょう。これはじっくり一生かけて取り組むべき問題なのだと思います。10年、20年経って読み直すと、思いもよらない発見をすることがある、それを痛感しました。それがまた面白いのです。シェイクスピアが私たちの成熟を測る尺度になる、他の作家の作品でも言えることですが。

『血の匂いのする、色好みの下司下郎め!残忍な裏切り者め、情欲まみれの卑劣漢め!さあ、復讐だ!』(『ハムレット』より)

『ジュリエット:おやすみ、おやすみ!別れがあまりに甘い悲しみだから、朝になるまでおやすみを言いつづけていたい。』(『ロミオとジュリエット』より)

 これですもん、つかさんは照れて言えませんね!!

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2009年12月 4日 (金)

私の好きな作品~『あ・うん』

私の大好きな向田さんの作品で、ドラマだけでなく、映画も上映されましたね。私は例のごとくビデオにとってせりふを殆ど覚えるくらい観ました。

 昭和初期の山の手を舞台とした、製薬会社のサラリーマンの水田仙吉と親友の実業家門倉修造、門倉に慕われる仙吉の妻たみ、仙吉夫婦の一人娘さと子、門倉の愛を得られぬ妻の君子を中心とした、暗い昭和の支那事変前夜の人々の暮らしを描いています。

タイトルの「あ・うん」は、仙吉の父初太郎がこの二人をさして「神社Aunn002 を守っている狛犬の阿(あ)と吽(うん)だな」と評したことに由来しています。

 私は映画を観ていませんが、門倉役に高倉健さんはちょっとかっこ良すぎましたね。でも大人の恋、それも戦前がが舞台ともあって決して甘美なせりふなどなく、親友同士の門倉と水田、たみの妊娠を知って『男だったらオレにくれないか。』といわれた仙吉は大喜びする、『オレの子供が欲しいとさ、嬉しいね、涙が出たね。』とはしゃぐ仙吉に半ばあきれるたみ。生憎子供を流産してしまいますが、縁側に男2人でしょげかえるのを見て仙吉の父が『狛犬だな』とつぶやくのです。

 男の友情ともとれますが、門倉の妻君子は、たみの言うことなら何でもする、そして女遊びもする門倉に悲しみを隠せません。自分もこの3人の中に入りたい一身でさと子にお見合いの話を持ってきます。

そこでさと子にも淡い恋が訪れますが、たみは帝大出のエリートじゃ何かと大変だから断りましょうと決断。でも相手の石川は『僕のどこが嫌いなのですか?』とさと子のお琴の稽古の後に現れ、2人でカフェに入り、さと子は『私が断られたのだと思っていました。』と告白。それから何度も逢うようになりました、親には内緒で。

その間に門倉の愛人は妊娠し、君子には内緒で、たみのところで不安な気持ちを打ち明けるようになってました。女としてたみは『門倉さんに女の1人や2人いないほがおかしいですけどね。』などと笑って話していますが、本当のところ、どうだったのでしょう。君子に内緒
にしている気まずさやいたわりの気持ちがよく出ていると思いました。

ここからが面白いのです。君子はどこからか噂を耳にし、水田夫婦に詰め寄ります。『友達の細君に心を許し、男の友情ってそんなものですか?』そこで仙吉は『りんごでも出さないか。』とたみに言うと、君子は『りんごもりんごよ。あら、私、奥さんも奥さんよって言おうと
して・・・』たみは独り言のように『りんごもりんご』とつぶやくのです。ここにはたみの門倉への思いを噛み締めているように思えました。

そのうち、門倉の会社が倒産し、それをいち早く知らせたくて、水田家Aunn003_2を訪ねますが、仙吉が出張でいないことを知り、門倉は家にあがろうとしません。玄関先で『これでさっぱりした、これからも来ていいですか?』という門倉にたみは台所に走り、一升瓶とコップを持ってきてコップ一杯のお酒を勧めました。
『門倉さんは門倉さんだもの。私、嬉しいんです。いつでも来てください。』
ここに感動しない人はいないでしょうね。初めて口に出した愛のこもった会話だと思います。向田さんの作品は愛があふれています。でも野暮な言葉は使わない、そこで作品が生き生きとしてくるのだと思います。

 君子がたみに初めて弱みを見せるシーンがあります。『ここはお国 何百里~』と歌うシーンです。『ここに心は残れども~、私ここが大好き。』続けて歌うたみ。君子が『私もう、死にたい。』と静かに泣くのです。たみはそーっと台所に隠れました。君子がどんなに心を痛めていたのかがよく伝わってきて、この歌を時々口ずさんでいる時の私はなぜかいつも涙が出ます。
 小説では君子が自殺を図るということですが、生憎原作は読んでいないのでコメント出来ませんが・・・

『狛犬さん、あ、狛犬さん、うん』、これは男2人のことでもあり、水田夫婦のことでもある、門倉とのプラトニックもありながら、仙吉に献身的につくす、仙吉のことを最優先にするたみ・・・大人の愛ですね。

 

いつかDVDのセットを買いたいと思います。

 

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2009年12月 1日 (火)

私の好きな曲~『ツィゴイネルワイゼン』

 言わずと知れたこの有名な曲の作者をご存知でしょうか。スペイン、バスク地方のパンプローナに生まれた作曲家、ヴァイオリン奏者のパブロ・デ・サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』です。何度聴いても涙が溢れます。いくつかのハンガリー民謡・大衆音楽の旋律を組み合わせて作曲されていて、オリジナルはヴァイオリンと管弦楽なのですが、ヴァイオリンとピアノで演奏する機会も多いですね。
 
 作曲家としてのサラサーテの作品は、ほとんどヴァイオリンと管弦楽(もしくはピアノ)のための作品であり、スペインの民謡や舞曲の要素を盛り込んだ国民楽派に位置付けられ、その代表がジプシー(ロマ)の民謡による「ツィゴイネルワイゼン」であり、ラッシュ、フリッシュなどの特徴を取り入れています。他の作品はあまり演奏されることがないほど、突起したサック品だということが解ります。
 
「ツィゴイネルワイゼン」とは「ジプシーの歌」という意味のドイツ語ですが、その名の通り民族的で、華麗なテクニックが楽しめる作品です。

協奏曲の3楽章に相当する3部からなり、

●ハ短調、4分の4拍子。悲しげながらも堂々とした旋律。管弦楽の斉奏のあと独奏が主題を表します。非常に装飾音符が多く、見せ場には事欠きません。

●ハ短調、4分の2拍子。いわゆる逆付点(16分音符+付点8分音符のリズム)が印象的な旋律を、弱音器を付けたヴァイオリンが奏でます。
ハンガリー民謡にそのまま題材をとっています。ここは泣かせどころですね。

●イ短調、4分の2拍子。いきなり急速なテンポとなる。通常の右手のピチカートと技巧的な左手のピチカートを併用しおています。

 あまりの巧みさにヴァイオリニストには憧れの曲であり、自分がいかに巧みな業を持っているかをまるで競争するかのように、広く知られる曲ですね。

『パブロ・サラサーテ国際ヴァイオリン・コンクール』という、スペインのナバラ州パンプローナで開催される若手ヴァイオリン奏者のためのコンクールもあるほどです。

 サラサーテ自身が演奏した1904年録音のレコードが残されていて、この録音には、途中でサラサーテの声とも言われる謎の呟き声が入っていることで知られています。またこのレコードの呟き声をモチーフとし、内田百閒が小説「サラサーテの盤」を書いており、さらにその小説を元に鈴木清順が「ツィゴイネルワイゼン」という幻想的な映画を制作していいます。ここでも神秘的な音楽が相乗効果をあげました。

 8歳のときに初めての公演をし、10歳のときにスペイン女王イサベル2世の前で演奏を披露しました。その後パリ音楽院で学び、13歳のときヴァイオリン科の一等賞を得ます。1860年代ごろから演奏家としての活動を始め、1865年には一番初めに仲良くなったサン=サーンスと演奏旅行をしました。サン=サーンスはサラサーテに「序奏とロンド・カプリチオーソ」、「ヴァイオリン協奏曲第3番」などを献呈しています。サラサーテはまた、ラロの「スペイン交響曲」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」、「スコットランド幻想曲」の初演者、被献呈者でもあります。サラサーテの華麗な名人芸は、チャイコフスキーやブラームスなどにも影響を与えました。「カルメン幻想曲」も素晴らしい曲です。ジプシー民謡が彼にどれ程の影響を与えたかがよく解ります。情熱と悲壮を秘めたこの音楽は聴くたびに哀愁と悲哀を心に残って、虜にされてしまいます。でも力強さがもろくなりそうな心の支えにもなる、8分程度の曲ですが、リスト同様、勇気を与えてもくれます。この曲は一生の宝の一つです。

1908年9月20日、慢性気管支炎のためビアリッツ(フランスのバスク地方の町)で死去しました。偉大な曲を残して下さったことに感謝したいと思います。

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