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2010年5月

2010年5月17日 (月)

自由を奪われるということ『ホワイトナイツ』 白夜(1985)

 この映画は何度映画館に通ったことか、数え切れません。ストーリーはとてもシンプルなのですが、ダンスシーンや脱走シーンetcはこの配役で成り立ったともいえるのではないでしょうか。

 ロンドンから東京に向う国際線が、白夜のシベリアのとある空港に不時着した。乗客の世界的なダンサー、ニコライ(ミハイル・バリシニコフ)は負傷しながらも、身元のわかるパスポートやクレジットカードをちぎってトイレに流した。彼は8年前、人生と芸術の自由を求めてアメリカに亡命し、祖国ソ連では犯罪者となっているのだ。病院のベッドで意識を取り戻したニコライに、KGBのチャイコ大佐(イエジー・スコリモフスキー)が笑みを浮かべていた。「おかえり、ニコライ」。ニコライは重傷者として拘留されマネージャーのアン(ジェラルディン・ペイジ)は、他の搭乗者と一緒に西側に移されることになった。
 

 チャイコはニコライを新装されるキロフ劇場に再び登場させようと考え、その説得役として黒人のレイモンド(グレゴリー・ハインズ)とン連人妻ダーリヤ(イザベラ・ロッセリーニ)の夫婦に彼を預けた。

 レイモンドは、かつてアメリカの国策に反対し、ニコライとは逆にソ連に亡命したタップダンサーである。だが、亡命当時は優遇された彼も、今ではシベリア公演のみが与えられた「自由」だった。監禁状態同様のあつかいにニコライは、レイモンドとダーリャをKGBの手先だと批難した。芸術の自由を得るために母国を捨反目しあった2人だが、やがて互いの立場を理解し、ニコライはダンスをすることを了解。

公けには意識不明とされたまま、彼はレイモンド夫妻とともにレニングラードヘ移された。
 一方アンは、ニコライの身柄引渡しをアメリカ大使館に求めたが、交渉は難航していた。レニングラードでニコライは、かつての恋人ガリナ(ヘレン・ミレン)と再会、8年間の時間を2人は感慨深くふり返るのだった。ニコライが脱走を企てたとしてチャイコはダーリャを連れ去った。

 ニコライはリハーサルを開始した。2人は見事なダンスを繰り広げる。
 そして彼はダーリャに想いを寄せているように装い、彼女を取り戻した。そのころガリナはニコライのソ連脱出の決心に負け、秘かにアメリカ大使館と接触、脱出工作を手助けした。綿密な計画通りに3人はKGBの目を盗んで脱出を開始。だが、レイモンドはチャイコの目をそらすため、自らオトリとなり、ニコライとダーリャはアメリカ大使館に駆け込んだ・・・。
 何日か経ったある日。深夜、レイモンドはチャイコに車で連れ出された。処刑か?不安に襲われるレイモンド。。。。g(oo映画より抜粋)

 ニコライの創作ダンス、レイモンドのステップが合った時、もう2人の間には友情が芽生えていたと思います。レイモンドにしても出来るならアメリカへ帰りたいと思っていたとはず。でも手立てを知らなかった。。。執拗なまでに付きまとうKGBのチャイコ大佐。

 照り続け、沈む事の無い白夜。。。気がおかしくなると人は言います。

自由を求めただけなのに、自由な芸術を模索しただけなのに、監獄のように見張られる日々です。

 3人の脱走劇は、ある高級な一室に押し込められ、ニコライがダーリアにちょっかい出したという前提で喧嘩を始め、それを録音したテープを流し続けることで3人が部屋に居るように見せかけ、窓から縛ったシーツで階下まで降りると言う計画でした。

 ところがチャイコ大佐が帰ってきてその頭上に3人目のレイモンドが。。。
レイモンドは引き返して2人を脱出させ、部屋から出て行き、チャイコ大佐に自分の妻を寝取られたと告白し、ウォッカを2人で飲み、酔いつぶらせようとします。でもテープの音声が同じ会話の繰り返しということを突き止められ、レイモンドは監獄に。

 数日経ったある夜、レイモンドは暗い道を『まっすぐ歩け!』と言われ、後ろから銃殺されるとばかり思っていましたが、向こうからも人が歩いてきて『ハーイ、同士』と言ってすれ違うのです。
 あっけに取られたレイモンドを待っていたのは、妻のダーリア、そして固く結ばれたニコライの顔でした。もう、私は何度観てもこの場面は忘れられません。

 この映画で私が得たものは、亡命とは名の通り、命がけであり、一度自由を奪われた人間は半ば諦めて新しい人生を見つけそのかごの中で生きなければならないこと。そしてお互いの国の人質交換が名誉の為になされるとい事実です。そして国境を超えようと、色が何色であろうと信じ合えるということです。

 そして、ラストに流れたライオネル・リッチーの『Ssy you Say me』は名曲としてグラミー賞を取りましたね。ではこの曲をお聞き下さい。

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2010年5月14日 (金)

キャンセルのはしり『ミケランジェリ』

 

 ミケランジェリ家は、アッシジの聖フランチェスコの末裔と伝えられています。3歳から音楽教育を受け、最初はヴァイオリンを学びましたが、間もなくピアノに切り替えたそう。10歳でミラノ音楽院に入学。父親の主張により、一時期医学を学んだこともありました。1938年、18歳で国際イザイ音楽祭に参加。一次予選の演奏から早くも注目を集めますが、初見が苦手であったことが災いし、第7位の入選に留まります。
翌1939年、ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝し、審査員長のアルフレッド・コルトーから『リストの再来』と賞賛されました。コレが私が彼に惹きつけられる所以でしょう。

 第二次世界大戦中はファシズムに対するレジスタンス運動の闘士としても活躍しました。そういう魂がこもった音が彼の音ふだったのかもしれません。でもショパンの曲などは、そんな荒荒しさはみじんも感じません。 

 1920年にブレシア近郊の小さな町に生まれ、1955年にルガーノで亡くなった彼は、誰もがその名とその音楽を知っている、20世紀最高のピアニストです。その信じられないような精神的規律、唯一無二の完璧な技術、形式に対する禁欲的な意識、そして表現における圧倒的なスケールで、彼の芸術に感銘を受た人は多いことでしょう。もっとも、彼の演奏を実際に聴く機会があったらの話ですが。
 

 そう彼は、公演をキャンセルすることで有名でした。キャンセル魔だったことは、生前から伝説となっていました。でも、このピアノの天才の人となりについては、それ以外は誰も知りません。彼自身が「自分には私生活はない。練習しているか、研究しているか、教えているかだ」と語っているように、私生活がほとんど知られていない芸術家の一人でもあります。作家のコード・ガーベンは17年間にわたり、この謎めいた天才とともに仕事をしたそうです。

 レコード・プロデューサーとして、あるいは協奏曲の指揮者として、時には、猛烈なスピードで走る自動車の同乗者として。。。公私にわたり身近にあった者のみが知る天才の素顔と、綱渡りのような交友を綴る一方で、その芸術の真実を探求著作で紹介しています。
 私は本は一切読んでいません。この旋律に共鳴したのです。

 完璧にコントロールされた技術と高い精神性、そして作品に捧げられる献身的情熱とが結晶となった彼
の音の世界は、まさに演奏芸術の頂点を究めた表現活動であり、余人の追随を許さない高みにあったと
私は思っています。

 キャンセル魔、過敏なまでに神経質な対人関係、録音嫌いなど、彼にまつわるエピソードは尽きることがありません。本来彼は非常に強い完璧主義からコンサートのキャンセルを頻発し、次第に年間に「実際に」とり行われた演奏会が10回に満たないという例も珍しくなくなっていきました。しかし、その貴重な演奏会が更に評判を呼び、一層ミケランジェリというピアニストを伝説に押し上げていったのでした。Tanaka001

 しかもこうしたうわさ話は、時に一人歩きし虚像をいたずらに大きくしてしまった感すらありますが、
ひとたび彼の演奏を耳にすれば、その神秘的なまでの美しさは聴く者すべてを虜にし、紛れもないミケランジェリの音と音楽の世界があることを確信させてくれます。
 そしてピアノ演奏の測り知れない奥深い領域へと聴き手を導 くとともに、音楽がいかにかけがいのない表現活動であるかを再確認させてくれたのです。

 日本にも3度来日していますが殆どがキャンセル。。。どんなにファンが残念がってもこれだけは譲れない所だったのでしょう。

こんなエピソードがあります。ドイツ・グラモフォンに録音した有名なショパンの録音は僅か3時間足らずで録音されたという話です。ノーミスの完璧な演奏ができたため、録り直すことがなかったため。その代わり、録音に至るまでピアノが満足できる状態になるまで偏執的にこだわるなど、演奏会にしても録音にしても実際にピアノを弾くまでに至る準備は大変なものだったそうです。

 紹介した曲はあまり有名な曲ではありませんが、ミケランジェリという人となりが解る、というか、変に身構えなくても聴ける曲を選びました。ご堪能下さい。お顔はやはり神経質そうですが(笑)。

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2010年5月12日 (水)

私の好きな作品たち~F・スコット・フィッツジェラルド編

 私は翻訳された作品しか知らないのですが、村上春樹氏の『ノルウェイの森』の主人公も、そして『ライ麦畑で捕まえて』の主人公もなぜか『グレート・ギャツビー』を読んでいてそれに感化された方も多いのではないでしょうか。

 春樹氏は自分が読んだだけでは飽き足らず、一昨年、御自分で翻訳してしまわれましたね。確かに訳し方で随分印象が変わるので、私の兄はこの翻訳家はいいよなんて言って洋書を読んでいましたっけ。

 私も春樹氏の影響で『グレート・ギャツビー』を読みました、が、私が読んだ頃は第2期の映画化が終わった直後で、ロバート・レッドフォード、ミア・ファローが脚光を浴びる形になりましたが、アカデミー賞衣装デザイン、編曲賞を受賞しました。監督はジャック・クレイトン氏でした。

   貧しさの中から身を起こし、裕福になったジェイ・ギャッツビーRobato_001 は、フィッツジェラルド、あるいはアメリカそのものにつきまとう、金や野心、貪欲さ、進歩主義信仰などの強迫観念を象徴しているようです。
「ギャッツビーは、緑の灯火を信じていた。お祭り騒ぎは、年々かげりを見せはじめているというのに、未来は明るいと信じていた。いざ、その時が来て、明るいはずの未来が素通りしていっても、たいした問題ではない。明日になれば今日より速く走ることができるし、
大きく手を広げることもできるから…そしてすがすがしい朝が――」
   夢の実現と崩壊を描いたこの小説は、「アメリカンドリーム」に一種の警鐘を鳴らす作品なのでした。
  この小説は、デイジー・ブキャナンに対する、ギャッツビーのかなわぬ思いを描いたラブストーリーでもあります。2人の出会いは、物語の始まる5年前。若きデイジーはケンタッキー州ルーイヴィルの伝説の美女、ギャッツビーは貧乏な将校でした。2人は恋に落ちますが、ギャッツビーが海外出征している間に、デイジーは、粗暴だが非常に裕福なトム・ブキャナンと結婚してしまうのです。
 戦争から帰ってきたギャッツビーは、なりふりかまわず、富とデイジーを追い求めることに没頭し、やがて、当初は目的にすぎなかった富が、デイジーを手に入れるための手段になっていく・・・「彼女の声は金でいっぱいだ」これは、ギャッツビーが、この小説の中で
も特に有名なシーンで発する賛辞の言葉です。

 言語が違ってしまうと醸し出す雰囲気も当たり前のように変わるものですが、村上さんの描くギャツビーは、まさしく僕のイメージのギャツビー、いえ、アメリカで学ぶフィッツジェラルドの描こうとしたギャツビーそのものなのです。
 フィッツジェラルドの著作の中では、構成力と登場人物の性格づけという意味においても最高傑作かと思います。

 1920年代は間違いなくフィッツジェラルドが最も輝いたときでした。1922年に出版された二作目の長編小説『美しく呪われし者』は未熟な部分もあった前作に比べ格段の進歩を遂げていました。そして1925年には『グレート・ギャツビー』が出版されています。

 後世、この作品によってフィッツジェラルドは、1920年代アメリカのいわゆる「ジャズ・エイジ」や「フラッパー」の象徴としてのみならず、20世紀アメリカ文学全体を代表する作家の一人として認められるようになります。しかし発表当時は、流行作家が背伸びして書いた文学寄りの作品という程度の受け取られ方で、批評家の受けは良くても、支持層であった若い読者にはあまり歓迎されず売れなかったそう。

 この世紀の名作が正しい評価を受けるのはフィッツジェラルドの死以降であり、生前には絶版になった時期Sizuka003_2 すらあるそうです。この頃フィッツジェラルドは執筆の合間をぬってヨーロッパに旅行に出かけています。パリや南仏のリヴィエラではアメリカを抜け出してきたアーネスト・ヘミングウェイらと出会っているのです。

 しかしフィッツジェラルドは1920年代の終わり頃から4つ目の長編に取りくみ始めましたが、生活費を稼ぐ為に収入のいい短編を書かざるを得ず執筆は遅滞していました。

 1929年のウォール街での株価大暴落に端を発する世界恐慌、さらには1930年には妻のゼルダが統合失調症を発症し彼の生活に暗い影が差し始めます。1932年にゼルダ夫人はボルチモアの病院に入院し、フィッツジェラルドは一人で家を借りて長編小説に取り組み始めました。この作品の主人公である、若く将来を約束された精神科医ディック・ダイバーは彼の患者であった富豪の娘ニコルと恋に落ちます。

 不安定な妻に翻弄され転落していく主人公を美しい文章で描いたこの作品は、『夜はやさし』と題して1934年に出版されました。批評家の中には『グレート・ギャッビー』でなくこの作品こそが彼の最高傑作であると考える人もいます。
 しかし恐慌下のアメリカでフィッツジェラルドは既に過去の人となっており、作品の売り上げは芳しいものではなありませんでした。絶望からしだいにはアルコールに溺れるようになっていきました。

春樹氏の場合には 彼自身がどこかで言っていましたが 翻訳、自作の短編、自作の長編、エッセイを書き分けていくことで自分のバランスを取っているとのこと。その意味でも 翻訳を抜きにして春樹氏はは語れないと思うようになりました。そんな春樹氏が始めに訳したのが『マイ・ロスト・シティー』でした。

 春樹氏の翻訳の仕事の中では カーバーの紹介が一番目立ちますが 実はフィッツジェラルドから始めたというのは案外知られていない事実ではないかと思います。最近でこそ ギャツビーを訳したことで 村上とフィッツジェラルドの関係が目立つようになりましたがついこの間までは あまりり知られていなかったのだと思います。もっとフィッツジェラルド氏の短編集なども翻訳していただきたいものです。

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2010年5月 9日 (日)

妖艶なまでに美しく『エゴン・シーレ』

     『ぼくは思う。"現代的な"芸術などありはしない。
      在るのはただ一つの芸術、永遠に続く芸術だけである』

 鋭い言葉を残したエゴン・シーレ。

当時盛んであったグスタフ・クリムトらのウィーン分離派、象徴派、スカー・ココシュカに代表される表現主義のいずれにも属さず、独自の芸術を追求した画家でした。

 1906年、ウィーン美術アカデミーに入学し、アカデミックな美術教育を受けます。翌1907年にはクリムトと知り合っています。美術アカデミーの保守的な教育方針はシーレの肌に合わず1909年、仲間たちとともに退学。1911年、それまでクリムトのモデルを務めていた、ヴァリ・ノイツェルという当時十代の女性をクリムトから紹介されました。ヴァリという女性はその素性が不明なのですが、1911年からほぼ4年間にわたりシーレと同棲生活を送り、『死と少女』をはじめとする多くの作品のモデルとなっています。

 クリムトに大Egonsireきな影響えお及ぼされたと思われがちですか、かく言うクリムトもシーレには大きな影響を受けていたに違いありません。

 エゴン・シーレを外から知るには、シーレの舞台となったウィーン がヨーロッパ第4の大都市であり、オーストリア=ハンガリー二重帝国が残響していたこと、『性の科学』と『性の文学』の分離運動の嵐がふきまくっていたことを忘れてはいけないのでしょう。

 シーレは28歳年長の画家クリムトとは師弟というよりは生涯を通じた友人という関係にありました。エロスが作品の重要な要素になっている点はシーレとクリムトに共通していますが、作風の面では両者はむしろ対照的と言えるでしょう。

 世紀末の妖しい美をたたえた女性像を描き、金色を多用した装飾的な画面を創造したクリムトは「表現対象としての自分自身には興味がない」として自画像をほとんど残しませんでした。

 これに対して、シーレの関心はどこまでも自分の内部へと向かい、多くの自画像を残しました。自画像を含むシーレの人物像の多くは激しくデフォルメされ、身をよじり、内面の苦悩や欲望をむき出しにしていいます。自慰にふける自画像、陰部をあからさまに露出した女性像などの大胆な表現は21 世紀の今日の鑑賞者にも驚きを与えます。確かなデッサン力に裏付けられたシーレの作品の価値が国際的に評価されるようになるのは、20世紀後半になってからででした。

 その自画像はデッサンを含めて一つとして似たものはないのにも関わらず、そこにはどう見てもアンドロギュヌス(男性と女性の 2つの性をそなえた存在)がいっぱい現れています。そのアンドロギュヌスは当然に男であって女であるけれど、それとともに神であって人であり、少年と少女であり、男娼と娼婦であって、また着衣であって裸体の、性交と自慰の、二重化されつづけるアンドロギュヌスだったのでしょう。観ていて男女の交わり、関わりが、とても美しいのです。

細い線のデッサン画にまず心を惹かれました。そして少し暗い色使いも塗り方一つとっても、
もうお気に入りです。でも28歳でスペイン風邪で亡くなりました。これほどの多数の絵を残してくれたことに感謝です。いつか、彼についての本も読んでみたい、そんな作家でした。

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2010年5月 4日 (火)

私の好きな作品たち~森絵都編

 私が初めて触れた森さんの本は、なんと『にんきものの本シリーズ』の『にんきもののひけつ』という絵本でした。それも立ち読みで・・・。

 でもその印象が強かったので普通の童話作家ではないと思い、また、ネットで調べてみました。すると直木賞をとっていることが解り、『永遠の出口』あたりから「オトナ」を意識した作品を手がけるようになり、『いつかパラソルの下で』が直木賞候補になるなど、本好きにとっては、新刊チェックがはずせない書き手の一人であることが解りました。
  
 児童文学の世界では既に数々の文学賞を受賞している人気作Jannsenn02 家の森絵都さん。一般文芸に進出したのは最近ですが、前作の『いつかパラソルの下で』は直木賞候補にもなり、話題を呼びました。

『風に舞いあがるビニールシート』は「市井でこつこつと一生懸命働く人たちをテーマに書いてみたい」ということで生まれた短篇集です。国連難民事務所に勤務している表題作の主人公・里佳は上司のエドと恋愛し、七年間の結婚生活の末、二年前に離婚。そのエドがアフガニスタンで死に、立ち直れないでいる彼女を、エドが救った難民の少女に会ったという記者が訪ねてきて……。
 我が儘なオーナーパティシエのために雑務をこなす秘書、捨て犬の世話をするボランティア、時間に追われる社会人学生、仏像に魅入られた修復師。温かなユーモアに満ち溢れた筆致で紡ぎだされるハートウォーミングでちょっぴり泣ける一冊です。

 森絵都という作家は、少なくとも今までは、いわゆる「オンナコドモ」向けの作品を多く書いてきた作家でした。でも、このことから想像されがちな「感覚派」の書き手ではない気がします。
 
 彼女は、「甘い」だとか「切ない」だとか、曖昧なニュアンスにいたずらに使うことをしませよね。そういう感覚の薄い皮膜の奥にあるもっと硬質で確かな「何か」を突き詰めていこうとする、文章も「思いつき」で書かれたものではなく、語彙の選び方ひとつとっても、かなり練られていると思うのです。辛くても辛くても苦しくても、それでも生きていくんだ。寂しくなんかないんだ。 周囲に壁をつくって一人でひきこもって過ごしていた主人公が強く、強く自分の力で生きていくようになるまでの流れがとても自然です。これは『リズム』で感じたことです。

 登場人物たちのセリフ以上に、描写によってメッセージを伝えてくれる稀有な書き手だと感じます。
 素直に読めば読むほど、スッと受け入れられると思います。

 重いテーマを軽やかに、心に染みる物語として、森さんは読者の前に差し出してみせた。ストーリーテリングの力、生き生きとした会話、丁寧な心理描写、じーんとくるエピソード。何よりも読者が、限られた情報を頼りに「真」として生きる「ぼく」と一緒に、少しずつ「真」自身を、周りの人を理解していくしかけが効いている。いろいろなことを知った「ぼく」がとりかえしのつかない「真」の人生を思って涙するのと一緒に、読者も同じ痛みを味わうことになるのだ。終盤、「自殺」を「殺人」と置き換えた「ぼく」の言葉が、説教くさくも空疎にも軽はずみにも響かず、すとんと心に収まるほどに。さて「ぼく」の再挑戦は、失われた「真」の人生は・・・
 さまざまな色合いを秘めた人たちで構成される『カラフル』な世界。その魅力的で複雑な世界を生き抜くヒントがぎっしり詰まった作品ですね。

 『つきのふね』はあの日、あんなことをしなければ…。心ならずも親友を裏切ってしまった中学生さくら。進路や万引きグループとの確執に悩む孤独な日々で、唯一の心の拠り所だった智さんも、静かに精神を病んでいき・・・。近所を騒がせる放火事件と級友の売春疑
惑。先の見えない青春の闇の中を、一筋の光を求めて疾走する少女を描く、奇跡のような長編です。

 私の好きな作品ばかり紹介しましたがまだまだあります。ふと考えさせられる作品ばかりだと思い、お勧めしようと考えました。

ちょっと苦手と言う方は物語や翻訳作品をお勧めします。ギスギスした日常から開放されることも大切ですよね。

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