文化・芸術

2009年8月30日 (日)

私の好きな俳優~藤原 竜也編

 1997年 蜷川幸雄演出の舞台『身毒丸』主役オーディションでグランプリを獲得し、デビュー。バービカン・センター(ロンドン)での公演にて、「15歳で初舞台とは思えぬ存在感で天才新人現る」と大絶賛され、 翌年の凱旋公演でもその迫力を見せ付けた藤原さん。

 蜷川幸雄氏にとって無くてなならない存在になっていきましたね。

【舞台】                                   

「身毒丸」(蜷川幸雄演出)1997(英国)、1998、2002年       Tatuya001     
「大正四谷怪談」(栗田芳宏演出)1999年
「唐版 滝の白糸」(蜷川幸雄演出)2000年
「近代能楽集~弱法師~」(蜷川幸雄演出)
  2000、2001年、2005年ニューヨーク
「身毒丸 ファイナル」(演出:蜷川幸雄)2002年
「エレファント・マン」(宮田慶子演出)2002年
野田地図第九回公演「オイル」(野田秀樹演出)2003年
「ハムレット」(蜷川幸雄演出)2003年
「ロミオとジュリエット」(蜷川幸雄演出)2004年
「天保十二年のシェィクスピア」(蜷川幸雄演出)2005年
「ライフインザシアター」(ポール・ミラー演出)2006年
「オレステス」(蜷川幸雄演出)2006年
「ロープ」(野田秀樹演出)2006年~2007年
「ヴェニスの商人」(グレゴリー・ドーラン演出)2007年
「身毒丸 復活」 (蜷川幸雄演出)2008年
「かもめ」 (栗山民也演出)2008年
「ムサシ」 (蜷川幸雄演出)2009年

これだけでも藤原さんの魅力全開なのですが、ここまで蜷川氏が彼にこだわるのは何故なのか最初は解りませんでした。

でも舞台のDVDを観て、理屈ぬきで素晴らしいと思いました。日本物も洋物も蜷川氏と藤原さんのタッグを、組めば魅了されない人はいないはずです。
 最近、小栗旬くんもこの世界に足を踏み入れたようで、でも2人は仲がよく、『ムサシ』は楽しみにしていました。

 まるで時代劇の映画が始まるというようなイメージで開演した「ムサシ」。

大きく真っ赤な太陽を背景に「佐々木小次郎(小栗旬)」は「舟島」の浜辺で「武蔵(藤原竜也)」はまだ来ないのかと待っている。「小次郎」のじりじりとした苛立ちをこの太陽で表しているかのような演出。平静さを失っていた「小次郎(23歳)」は「武蔵(29歳)」に一撃のもとに倒される。第一場はいわゆる「巌流島」の戦いの場面でした。今回の井上「ムサシ」はこの決闘から6年後に鎌倉にある小さな宝蓮寺での参籠禅の3日間の話です。

舞台は禅寺、竹林、法話、座禅、読経の声、能(謡、舞、役者のすり足の動作)、嗅ぎ茶(聴き茶)、歌舞伎の拍子木音、笛の音、幽霊、狸と兎の童話「かちかち山」の挿入など日本的な文化や精神や童話を取り入れて進行されています。

 寺で修行をしていた「武蔵」に果し状を持って「小次郎」がやってきました。「小次郎」は死んでいなかったのです。6歳違いの二人が6年後にあわや再決闘というストーリーの中にこの劇のテーマが潜んでいると思いました。

 何場でどの様な言い回しだったか忘れまさしたが宝蓮寺に招かれていた「大徳寺の沢庵和尚(辻萬長)」が「小次郎」と「武蔵」に向かって、「何のために剣術修行をするのか」と尋ねた場面で「小次郎」の「一番になるため」との答えと「武蔵」の「相手がいるので」との答えに対し沢庵和尚が二人に愚か者と叱咤しました。

 作者井上ひさし氏は現代の競争至上主義や人を危めることに対し怒りをぶつけたのではないか思います。
また「沢庵和尚」は「人がどうしても人を斬らねばならない三条件は、自分の欲からでなく、怒りからでなく、おろかでないこと」と諭します。この三条件をクリア出来る人などいないので、結局は刀を抜くことはありえない。この三条件は仏教の三悪の「欲」、「怒り」、「無智」を意味しているのでしょう。

 「筆問屋の主人(鈴木杏)」の父の仇打ちの場面で、「筆問屋のTatuya002 主人」が「うらみがうらみを呼ぶので仇討をやめる」と宣言。
過去や現在の戦争でのうらみの連鎖による色々な難問題への作者の提言なのではないでしょうか。うらみを断ち切ることは非常に難しいことですが、誰かが決断しなければならないのです。

 この場面は「武蔵」と「小次郎」への決闘中止の示唆でもあると思いました。

「かちかち山」に関しては狸が兎を追い掛けて一刀両断で「ウサギ」を真っ二つに切ったら「ウ(鵜)」と「サギ(鷺)」になり空遠く飛び立って行ったというセリフが場内を笑わせました。
 
 これは「武蔵」と「小次郎」が決闘をやめ辺鄙な土地へ別れて行くエンデイングのイントロだったのでしょうか。単なる笑いをとるセリフとは思えません。それとも他の意味があったもでしょうか。「武蔵」が地方で農業でもやると旅発つことや「小次郎」も地方へ旅発つことは、現在の日本の地方分権や農業振興を意図していると思うのは勘ぐりすぎでしょか・・・
 今回の「ムサシ」はエンターテイメントとして非常に面白かったです。人を殺しあうというシリアスなストーリーに笑いを入れた喜劇。

 特に笑えたのは、二人の決闘を阻止しようと「柳生剣法の柳生宗矩(吉田鋼太郎)」、「沢庵和尚」、「坊主の平心(大石継太)」が「武蔵」、「小次郎」も含め5人6脚で動き回る場面や「筆問屋の主人」の父の仇打ちのために「小次郎」に剣術を学ぶ場面での「武蔵
」、「柳生宗矩」、「沢庵和尚」、「平心」、「材木問屋の女将(白石加代子)」、「筆屋の下男の忠助(堀文明)」がタンゴの音楽に合わせ動き回る場面でした。これらの場面は5回目の公演とは思われないくらいにみんなの息があっていたそうです。
脇役の「白石加代子」、「吉田剛太郎」の演技が光りました。また「鈴木杏」の発声も良かったですね。

 今回の中越 司の美術はシンプルでしたが日本人の心に訴えるものでした。特にたくさんの竹が舞台上を動きながら禅寺が現れてくるシーンは幻想的でした。また、舞台でのやりとりの転換時における風に揺れる竹と効果音のハーモニーがすばらしかったです。

『デスノート』でも話題になりましたが、こんなに若いのにやってくれるな、ムサシ!というのが本音です。これからもいい俳優として活躍を期待してやみません。

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2009年8月22日 (土)

私の好きな演出家~蜷川 幸雄編

 今や押しも押されんぬ人物、蜷川氏。

俳優として活躍していましたが「自分は演出に向いている」と悟り劇団を結成し演出家に転向。アングラ・小劇場運動盛んな時期に演出家としてデビューし、若者層を中心に人気を集めました。70年代半ばから商業演劇に活動の場を移し、大劇場でのダイナミックな演出で話題作を次々と発表。90年代以降は中劇場の空間を好んで使っています。

 演出作品は、清水邦夫、唐十郎、井上ひさし、野田秀樹、岩松了Ninagawa_001 などの現代劇から、ギリシャ悲劇やシェイクスピア、チェーホフなど海外の古典・近代劇に至るまで、多岐にわたります。鮮烈なヴィジュアルイメージで観客を劇世界に惹き込むことを得意とする、現代日本を代表する演出家のひとり。海外でも評価が高く、「世界のニナガワ」とも呼ばれています。

 起用する出演者はトップスターや実力派俳優から人気アイドルまでと幅広く、意表をついたキャスティングで話題を呼んでいますね。

  短気な気質であり、俳優指導の厳しさでも知られ、世間一般的には「灰皿を投げる」スパルタ演出家のイメージが強かったのですが、現在は煙草を吸わないため、灰皿は投げないけれど、ごくたまに履いている靴などを投げたりすることはあるといいいます。

 俳優を稽古中に、「馬鹿」「ブタ」「死ね」「鼻くそ」「不感症」「でくのぼう」などと罵倒することもあるめ、敬遠する役者さんもいるそうです。

 しかしその厳しさの一方で人情的で心優しく『周りにだけでなく、同様に自分に対しても厳しい』姿勢で仕事をするため、数多くの俳優やスタッフから慕われています。

 現代演劇のフィールド外でも、小澤征爾の指揮による歌劇『さまよえるオランダ人』、宇崎竜童作曲によるミュージカル『魔女の宅急便』を演出しています。尾上菊之助の依頼を受け菊五郎劇団と組んだ歌舞伎『NINAGAWA十二夜』では、「歌舞伎国へ留学する」(本人談)と明言し、照明家と作曲家を除いては常連スタッフを起用せず、ほぼ単身で作品創りに臨みました。

演劇作品以外にも、映画、テレビドラマ、コンサート、ファッションショーやストリップショーなど、様々な媒体での演出を手掛けてます。 また、エッセイ集も出していますが、自身は、文章を書くことは楽しくはないが断れずにやっている、といいます。

 演出家の蜷川幸雄氏が脳梗塞を患っていたことがあり、蜷川氏によると、体調の異変を感じたのは朝だとか・・・。
「右足がグニャっとなる違和感を覚えた。直感的に嫌な予感がした。自分で(医師に)電話したら即入院。早かったから後遺症もなしです」と驚異的な回復力で仕事復帰しています。

重い後遺症が残りかねない箇所近くの毛細血管に病巣があったそうで1週間入院、治療に専念していました。
6月6日の新橋演舞場「NINAGAWA 十二夜」の舞台げいこ時の記者会見は体調不良を理由に欠席。
6月25日に行われた上演9時間の舞台「コースト・オブ・ユートピア」製作発表では何事もなかったように元気に振る舞っていました。

日本で一番忙しい演出家は、神経を酷使する日々で過去に十二指腸と胃の潰瘍で吐血(89年)、心筋梗塞(97年)、腹部大動脈瘤(2001年)の大病歴があり、ほぼ全快した時点で病気を告白していますが・・・

「この通り、ピンピンしています」と何事もなかったかのような元気な笑顔。
「酒やたばこはやらないが、今までは好き勝手にカツ丼や天丼ばかりを食べていた。でも、今は野菜サラダの日々です。情けない…」と笑わせていとそうです。

イギリス人に、シェークスピアを演出させたら誰がベストかと聞けば、必ず上位3人に名を連ねる日本人演出家・蜷川幸雄。シェークスピアの全37作品を全て日本で上演すると決め今現在格闘中の蜷川幸雄氏。

 シェークスピアの何が、蜷川氏をこれほどまでに駆り立てるのか?その秘密を探るために、蜷川氏は、悲劇「ロミオとジュリエット」でヒロイン・ジュリエットを熱演した女優・鈴木杏と共にシェークスピアゆかりの地を訪ねました。また、蜷川氏のシェークスピア作品に出演した名優たちがオールキャストで蜷川伝説の数々を語って蜷川氏の演出の秘密とその素顔をひもといてゆくと・・・・

 蜷川氏は鈴木杏と共に「ロミオとジュリエット」の舞台になったイタリShekusupia001 アの古都ヴェローナに旅立つ。何度もこの作品を演出している
蜷川氏ですが、彼にとっては初めての場所。以前、訪れる機会があったが敢えて拒否した町なのでした。実はシェークスピアもヴェローナには一度も行っていなません。それでも、ここを舞台に「ロミオとジュリエット」を書いたのです。二人はシェークスピアと蜷川には似ているところが多いことに気付きませんか?
 

 ここヴェローナの町にはなんとジュリエットの墓があり、バレンタインの日には世界中から、ジュリエット宛に1000通を超える手紙が届くといいます。二人は墓のあるカプチーニ修道院を訪ねました。
 
 そのほか蜷川の発想の源であるフィレンツェ、シェークスピアの祖国イギリスでは生誕の地ストラトフォードをはじめ、シェークスピアの墓などゆかりの地を訪ね、シェークスピアの墓標の前に立って、二人はあることに愕然と……
 
 プロデューサーからのひとこと:(熊谷信也)
 そもそも、彼の世界的名声を決定的にしたのは1998年ロンドンのバーヴィガン劇場で行われた真田広之、松たか子主演のシェークスピア「ハムレット」であった……
演出家・蜷川幸雄はコワイ。稽古場では尚、コワイ。しかし役者の信頼は厚い。70歳にして女優にも男優にも大いにモテている。なぜか?
東京では蜷川作品にかかわりのある女優男優陣が、蜷川幸雄のコワサと優しさ、門外不出のエピソードを語り、ヨーロッパでは女優鈴木杏を旅のともに、過去に語ったことのない、自分のこと、家族のこと、演出のこと、発想創作の原点を蜷川自身がシェークスピアゆかりの地で語ります。人間蜷川幸雄の狂気と愛情にふれることができ……やはりコワイ----これじゃ解らないですよね(笑)。
 
 以前、NHKBS-hiでは「蜷川幸雄特集DAY」があり、舞台2本、ドキュメンタリー1本の計6時間が放送されたそうです。観たかった
・・・

 NHKはかなり蜷川氏の秘蔵映像を持っているようですね、また放送して欲しいです。

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2009年8月15日 (土)

私の好きな画家~ジャン・ジャンセン

 ジャンセンは私の好きな現代作家の一人であり、これまでも挿絵として使わせていただいてきましたが、それがジャンセンという画家の作品とは気にもかけずに、ただ気に入った絵としていろんなギャラリーや美術館のサイトから見つけて保存していたものでした。

 それが私のブログを観てくださっていた方に何と言う画家の絵ですJannsenn013 か?と聞かれ、思わず息をのみました。こんな素敵な絵を描く画家のことを私は何も知らなかったのです。そこでネット上のあらゆる方面から調べ、有名な画家である事を知らされました。

 ジャンセンが描いた、生物画に、裸婦に、ダンサーに、魅了され、時間の経つのを忘れてしまいました。特に、ダンサー達の、華やかな舞台に立つまでの、レッスン場での、迷い、悩み、悲しみを抱えながら、自分自身と闘っている姿を捉えている絵からは、彼女達の心情が伝わって来るようで、胸が痛くなりました。
 

ジャン・ジャンセン(Jean Jansem,1920年 - )はフランスで活躍するアルメニア人で、 卓越したデッサン力により様々なコンクールで受賞を重ね、現在に至っています。 日本では1993年4月24日、安曇野に世界で初めての彼の美術館「安曇野ジャンセン美術館」が開館しました。 また、アルメニア大虐殺のシリーズを描いた後に画家としての功績が認められ、フランスのレジオンドヌール勲章と故国アルメニアの国家勲章を受章した素晴らしい画家です。

『人はひとりでは生きていけない。しかしその事実を描いた画家はまだ数人だけだ。1966年の国際形象展。ジャン・ジャンセンは”踊り子”を出品して人気画家に迎えられた。繊細な線描表現と、華麗に落ち着きのある色彩。そして踊り子の表情の聖らかさが胸を打った。流浪の民俗アルメニア人として、また戦渦のパリに青春を過ごしたひとりとして、愛の孤独が深く刻み込まれているからだ。
  画家は言う。「私は幸福を探さない」と。
   テーマはプロセッション(宗教行列)、闘牛士、マスカラードと変っていったが、純朴な人間達の魂を追う姿勢はさらに深まった。今、時代はジャンセンという声が世界中に響き始めた・・・・。』

このようにプロフィールを紹介されていたのを読んでまさにそのJannsenn011 通りだと思いました。

            =ジャン・ジャンセン略歴 =
1920年
小アジアのソールーズに生まれる。ギリシャのサロニカで少年時代を過ごす。11歳でフランスに渡り絵を描き始める。
1938年
パリ装飾美術学校を卒業。モンパルナスのデッサン学校ラ・グランド・シュミエールや様々なアトリエを訪れ絵の勉強をする。
1939~46年
サロン・ドートンヌ展、サロン・デ・アンデパンダン展、サロン・デ・ チュイルリー展、エコール・ド・パリ展、時代の証人画家展に
出品。
1946~48年
アカデミー・グラン・シュミエールに通い様々な画家と親交を深める。
1958年
サロン・デ・ジューヌ・バンチュールの会長に推される。サロン・ドートンヌの会員となる。メキシコのコンパレゾン賞を受賞。
1966年      
ベニスを訪れ運河を描く。国際形象展に招待出品を受ける。以後'86年まで19回出品。
1967年~
パリ、パームビーチ、シカゴ、東京、ヨハネスブルク、大阪、アントニー等で「ベニス展」「ダンス展」「闘牛展」「デッサン展」「
過ぎ去った時展」「風景展」「イタリアの風景展」「仮面舞踏会展」「マスク展」「回顧展」「石版画展」「宗教行列展」「パステル
・グワッシュ・デッサン展」「カーニバル展」等を開催。
1996年
安曇野・東京・大阪で「愛と哀しみを描いて60年」展開催。
2002年4月
祖国アルメニアに招待を受け、アルメニア正教の生誕1700年を記Jannsenn110 念し同国立美術館にて大々的に「虐殺展」を開催。アルメニア国家勲章(カラヤン/シラク大統領に続き三人目となる)を受章。(当館館長も同行)
2003年
フランス国家勲章、レジオン・ド・ヌール勲章を受章。
*ジャンセン本人が『生あるうちに必ず描きたい』と言い続け実現した、アルメニア大虐殺を描いたシリーズの展覧会。開催期間アルメニア国立美術館前には連日長蛇の列が出来、国をあげた凄まじいまでの反響がありました。また、この展覧会はパリでも開催
されシラク大統領もご覧になりました。

 光と翳の詩人。 自然を愛し、また自然であることをこよなく愛する画家『ジャン・ジャンセン』の世界は素晴らしいにつきます。

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2009年7月29日 (水)

私の好きな画家たち~アンディ・ウォーホル編

 マリリンモンローが微笑んでいるポップアートを観たことの無い方はいないでしょう。この絵を描いた画家がアンディ氏なのです。
 カーネギー工科大に通い、ニューヨークへ出てイラストの仕事につきますが、やがて漫画を題材にして絵を描くようになり、ドル札、キャンベル・スープ、マリWarhol_work01s リン、惨事シリーズを制作するようになりました。銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。本名はアンドリュー・ヴァーコラ。

 1960年、彼はイラストレーションの世界を捨て、ファインアートの世界へ移る。『バットマン』、『ディック・トレーシー』、『スーパーマン』など、コミックをモチーフに一連の作品を制作しましたが、契約していたレオ・キャステリ・ギャラリーで、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインのポップイラストレーション作品に触れて以降、この主題からは手を引いてしまいます。当時アメリカは目覚ましい経済発展のさなかにありました。

 1961年 (33歳)、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描きはじめます。ポップアートの誕生です。

1962年にはシルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになります。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいました。
 マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、以後これを色違いにして大量生産しつづけた。ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用。

ウォーホルの多くの作品はアメリカ文化とアメリカなるものの概念をテーマにしています。彼の選んだ紙幣、ドルマーク、食料品、日用品、有名人、ニュース写真、事故などは、彼にとってアメリカの文化価値を代表するものでした。たとえばコカ・コーラは「コークはいつでもコーク。大統領の飲むコークも僕の飲むコークも同じだから」Andei004 というわけで民主主義社会の平等性を表すものでした。

こうしたポピュラーなイメージや手法を、彼は20世紀アメリカの文化的アイデンティティーを視覚化するために使用。世界に影響を持つに至ったアメリカ文化の再定義はウォーホルのテーマであり、ウォーホルもまた世界的に影響を持つようになりました。

 1964年(35歳)からはニューヨークにファクトリー (The Factory、工場の意) と呼ばれるスタジオを構えました。ファクトリーはアルミフォイルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られました。
彼はここでアート・ワーカーを雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作しました。ファクトリーはミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)、ルー・リード(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、トルーマン・カポーティ(作家)、イーディー・セジウィック(モデル)などアーティストの集まる場となっていきました。凄い面々です!

19世紀末、ニーチェが「神は死んだ」と言言いました。これは来るべき20世紀モダニズム社会への警鐘であったのでしょう。

1960年代、アメリカは高度経済成長の只中にいて、モダニズムの社会でした。大量消費社会の背景にあるのは、物質文明。人間は神など信じていない。「物」を信じ、「物」を作り出す「機械」を信じ、その機械に支配される。そんな時代が衰えていくどころか、どんどん加速していきました「物」の中に「情報」も含まれる。すなわちマスメディアです。大量消費社会を加速させていくのは、大量に消費される情報である。「情報」がかつての「神」に取って代わったのです。

 1961年、史上最年少の大統領ジョン・F・ケネディの誕生に全米がわいた。同年、ベルリンの壁が築かれ、東西ドイツ分断。
 1962年、キューバ危機。同時にアメリカはベトナムに一万6500人の「ミリタリー・アドバイザー」を送りこむ。
 1963年、ベトナムからの完全撤退を考えていたケネディ大統領が暗殺される。
このあとアメリカはベトナム戦争へと突入してしまう。
 1962年、マリリン・モンローが謎の死をとげる。ウォーホルは同年、「ゴールド・マリリン」を制作した。金色はヨーロッパではキリスト教の宗教画によく使用される。聖母マリアやイコン画などである。マリリンはウォーホルにとって「イコン」でした。それだけではなく、
病めるアメリカにとって、イコン的な作品が「ゴールド・マリリン」だったのでしょう。「物」が溢れている社会は、その裏で「虚無感」がつきものです。

ウォーホルはマリリン・モンローや毛沢東の顔を繰り返しました。曼荼羅のよAndei010うに顔を並べただけ。交通事故の写真や電気椅子も繰り返し事故の写真も一枚だけならリアリティーを持って見ることができます。しかしマスメディアはこれを繰り返すのだ。繰り返し繰り返し情報を流す。その過程で、リアリティあるものが、虚無化してしまう。「神」が死んだ時代にふつふつと湧いてきた「虚」の世界。これをつかんだのがウォーホルの天才でした。

きらびやかな消費社会の裏側にある、どうにもならない重苦しい雰囲気、虚無感。光は強ければ強いほど、闇は暗いのである。現実を現実として見ることができない。あるのはマスメディアの情報だけ。本当は暗い闇から叫び声を上げたいのに、光あるきらびやかな世界に踊らされる。それは本当の自分ではないのです。ウォーホルだけではなく、20世紀芸術にはこういった虚無感の叫びがありました。

 ウォーホルにとっては「買う」は「考える」よりずっとアメリカ的。アメリカは人でも金でも会社でも国でも買ってしまう国だから、ウォーホルはアメリカでなければ生きられない。そのかわり、ウォーホルには人というものはすぐに狂気に走りたがることが手にとるように観察できました。ともかくウォーホルは有名なものを複写して複製して、仕事場を会場にしてポップアート宣言するだけなのだから、あとは集まってきた連中がおかしくなるのを待つだけでした。23歳で髪を真っ白にしておいたのもうまくはたらきました。そのころのベルベット・アンダーグラウンドに「オールトゥモローズ・パーティ」という歌があったけれど、たいていはパーティに来ているうちにおかしくなっていました。だから映画スターやポップスターはみんな成り上がりだが、パーティに顔を出しているうちに成り下がるのが目に見えていました。だから60年代はみんながみんなに興味をもって、パーティがつまらなくなった70年代はみんながみんなを捨てはじめたのです。
  

 ウォーホルがメディア・パーティの主人公だと勘違いされた60年代は、目立った男や目立った女と親しくなるためにはファッションも言葉も趣味も独特でなくてはならず、それで傷つくのを恐れてはいけなかったのです。いいえ、必ず傷つくために親しくなったものでした。
そして親しくなったら、必ず傷ついた・・・親しくなるというのはウォーホルにとっては、そういうことだったのです。
 こうしてウォーホルは10年に1度しか休暇がとれなくてもどこへも行きたくないという奇人変人になりおおせました。たぶんウォーホルは招かれないかぎりは、いつも自分の部屋にいたのでしょう。テレビを2台つけて、リッツ・クラッカーをあけて、ラッセル・ストヴァーの
チョコレートを食べて、新聞と雑誌を走り読む・・・

 ウォーホルは「ひなひな」であり、ママ坊であり、再生元素がAndei008 足りない化学物質でした。しかしそのぶん、ウォーホルには常套句がありました。それがウォーホルの哲学でした。「だからどうなの?」と言ってみること。言わないときは心で呟いてみること。
 母親に愛されなくてねえ。だからどうなの? 旦那がちっともセックスしないのよ。だからどうなの? 仕事ばかりが忙しくてさ。だからどうなの? いまの会社で大事にされているんだけど、なんかやることがあるような気がしてね。だからどうなの? これってアートにならないらしい。だからどうなの?
 

 いずれにせよ、人はいつも同じことを繰り返してばかりいるのですね。ウォーホルからすると、それで失敗するのは当たり前で、成功することなど忘れれば、すぐに成功するのにと思えると言います。
 

 そのうち、ウォーホルはまた気がつきます。「新しいものとはわからないものなんだ」ということでです。それが何かさえわからないもの、それだけが新しいものなのです。ということは、「これ、わからないね」と言われれば自信をもてばいいはずです。ただし、100%わからないものにしなくてはいけない。全部わからないのが、いい。「ここがわからない」と言われるようではダメなのです。ウォーホルは、こう、確信しました。「とくにアートは作れば新しくなくなっていく」。

 でも好きですね、私。
 

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2009年7月16日 (木)

私のやや好きな画家~青木繁編

 ~青木繁にはじまる創造の水脈~

 3月に東京国立近代美術館/石橋財団石橋美術館/日本経済新聞社主催の『青木繁と近代日本のロマンティシズム』がありました。

 ★本展は、明治浪漫主義の旗手と謳われた青木繁の画業を見直す、20年ぶりの青木繁展です。「文明開化」をかかげた明治の日本は近代化を推進しましたが、急激な西洋化は文化の混乱を招きました。しかし、世界のなかに船出したAoki005 この島には、世界のさまざまな異文化のかけらが流れ着き、それらが流れ込んだ文化の深みでは、豊かな混沌が渦巻いていました。この混沌を創造の活力として若い想像力を開花させた最初の画家が、青木繁であったと言えるのではないでしょうか。
 本展では、約80点の青木の作品とともに、さまざまな文化が流れ込んだ見えざる水脈に創造の源泉を見い出した、その後の作家たちの作品をあわせて展示します。青木繁の《海の幸》や《わだつみのいろこの宮》をはじめとする重要文化財7点を含む、約140点の作品を通して、美術史上の流派をこえたロマンティックな精神の水脈をさぐります。

主な出品作家は 青木繁、萬鉄五郎、中村彝、村上華岳、村山槐多、関根正二ほかでした。

特に私は青木氏の絵を通して彼の半生を追いたいと思いました。

 ★青木繁氏は、明治32年、画家を志して福岡・久留米から上京し、小山正太郎の不同舎に入門、翌年、新設間もない東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝氏の指導を受けました。しかし、黒田氏の教室よりは、図書館や博物館に通い、古今東西の書物や文物に想像力を駆り立てられた青木氏は、外光派の絵画におさまりきらない人類への夢を育んでいきました。明治36年の白馬会展には、《黄泉比良坂(よもつひらさか)》をはじめとする、神話や古代の世界にインスピレーションを得た画稿類を出品し、画家デビューを白馬会賞の受賞で飾りました。
 
 ★翌年美術学校を卒業した青木は、その夏、恋人 や友人と遊んだ房州布良(めら)の体験をもとに制作した《海の幸》で、大海原を背景にくりひろげられる神話的な世界を、古代への憧憬で謳いあげました。《海の幸》は白馬会に出品されるや、当時の美術界に衝撃を与えたのみならず、蒲原有明ら当時の浪漫派詩人たちに歓呼の声で迎えられました。
 しかしこの時を絶頂期に、現実と向かい合うことができなかった画家は、恋人福田たねと愛息との生活をみずからの手で切り開くこともできず、困窮のうちに輝きを失っていきました。再起を期して出品した《わだつみのいろこの宮》も明治40(1907)年の東京府勧業博覧会での評価はふるわず、この年開設された文展にもついに登場することはありませんでした。父の死によって久留米に呼び戻された青木は、福田たねとも肉親とも縁を絶ち、郷里を放浪して28歳の若さで波乱の生涯を終えました。

 ★『海の幸』は、明治37年の作品で、佐賀には明治41年冬に訪れますが、明善中学校の恩師であった森三美が佐賀中学校に転任したことで、森を訪ねて翌42年7月から43年11月まで滞在していました。明治43年4月には、当館の支援者でもあった西英太郎(衆議院議員・西肥日報社長)の後援で、当館で画会が開かれました。 この画会の大成功は、貧困と絶望にあえいでいた当時の青木繁にとって、つかの間の幸せだAoki001ったようです。その後、7月から9月に架けて当館に投宿し、 宿代の代わりに「温泉」他の作品を置いていったとのことですが、現在は残っていません。
 先年の東京芸術大学創立百周年記念の所蔵作品全国巡回展では、その図録の表紙に青木繁の自画像が選ばれるなど、最近、青木芸術への再評価が高まっていますが、 明治時代の西洋一辺倒の洋画壇にあって、青木繁が神話や伝説を題材にして、天才的な感性と想像力、描写力を発揮したことが彼の芸術に普遍的な価値を与えているものと思われます。

 ★『わだつみのいろこの宮』は明治40年の、「古事記」上巻の綿津Aoki002 見の宮の物語を題材とした作品です。
 兄の海幸彦からかりた釣り針をなくした山幸彦が、釣り針を探して海底にある「魚鱗(いろこ)の如く造れる」宮殿へとくだり、画面向かって左のトヨタマヒメ (豊玉毘売)とその侍女に出会う場面が書かれています。青木にとって記紀の神話は重要な着想現でした。一方、海底の情景という設定、女性像のプロポーション や着衣、全体の構図などにはイギリス・ヴィクトリア朝の画家エドワード・バーン=ジョーンズからの具体的な影響を指摘する事ができます。日本の古代も20世紀初頭の西洋も青木にとっては遠きものでした。遠きものへの憧憬を表現しようとしたところに青木の絵画世界のロマン的特色があったわけですが、そのような 表現は絵画としては未完成たらざるをえない場合が多いのです。夭折したことも相まって、青木の画業もまた未完成の感が強く、その中にあって本作品は 油彩画としての高い完成度を示しています。

 ★「海の幸」があまりに強烈な印象を与えすぎたのか、その後発表し続ける作品を評価されなくなった青木氏・・・。絵も売れず、生活は苦しく、夜中に暗い自室で日本刀を振り回し壁や柱を斬りつけ、奇声を上げるなどの奇行を繰り返します。「青木は発狂した・・・」とささやかれ、絵も描かなくなり、福田と幸彦を捨て故郷九州へ一人帰るも生まれた久留米には帰らず、旅先の福岡で喀血、病の床につきます。
  理解し難い「“天才”青木繁」の生涯は、芸術家としての才能に恵まれた反面、欠落し過ぎた社会性、傲慢さの中に時折見せる気弱な部分との葛藤に満ちていたのでしょう。今から100年以上前の夏、早すぎた彼の才能の開花は、ここ布良の海辺でピークを迎え、そのわずか6年後、青木はまるで館山湾の海ほたるのごとく刹那的で強烈な印象を残す光をこの世に放ち、黄泉の国へひとり旅立ったのでした。享年28歳でした。現在この絵は重要文化財指定をうけ、久留米市にある石橋美術館にて展示、保管されています。

 ★『青木繁』という本が刊行されていますが、その表紙を飾ったのは青木繁氏の恋人であり、妻と成った福田たねがモデルだと言いいます。青木繁は、『海の幸』でも、恋人の福田たねの顔を描いて居るが、それらを見て私が驚く事は、明治時代の女性は、こんな表情をして居たのか、と言う事です。明治時代と聞くと、古めかしい、現代とは懸け離れた時代だと思ひ勝いがちですが、当時の若い女性が、こんな表情をして居たのであれば、それは、私たちの時代と懸け離れた時代ではなかったのではないでしょうか?青木繁氏が描く恋人の表情を見ると、私は、そんな気がしてならないのです。
 本書は、その青木繁の芸術と人生を廉価でコンパクトな本にまとめた名著書です。若い人が、青木氏と出会う為に、そして、青木繁とその恋人を通じて、明治時代と言う時代を考えるきっかけとして、最適の本だと思います。

 今一度原点に立ち返る思いで青木氏の絵にふれることをお勧めします。

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2009年6月24日 (水)

私の好きな写真家~星野道夫編

 私は欲知らなかったのですが、星野さんの写真に癒される人が多いのに驚き、記事を書くことにしました。

1978年アラスカ大学の入試を受け、入試では、英語(英会話)の合格点には30点足りなかったのですが、学長に直談判して野生動物管理学部に入学。その後アラスカを中心にカリブーやグリズリーなど野生の動植物やそこで生活する人々の魅力的な写真を撮影しました。しかしアラスカ大学の方は結局中退してしまいました。1989年には『Alaska 極北・生命の地図』で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞しました。

 「シンラ」の記者によれば、事故の一週間ほど前、朝食時に一頭のクマが一行に気がついて近寄ってきたという。こういう時、普通、人が大声を上げたりすればクマはHosino003逃げていくのだが、このクマはいくらそうしても怯まず、石を投げてようやく追い払ったそうだ。 そのクマがやっと立ち去るとき、星野さんは 「イヤな奴だな。」とつぶやいたといいいます。
 クリル湖畔はマッキンレーほど人は多く入らないだろうが、研究者などが寝泊まりするロッジも数ヶ所あり、ここのクマはかなり人に慣れていたようでした。
 イヤな感じがあったにもかかわらず、ロッジではなくテントで寝ていたのは、集団での仕事で自分の空間が欲しかったからなのか。そしてどこかに、そばに人がいるという安心感があったからなのか。
 アラスカで、しかもいつものように単独であったならば、こんなことにはならなかっただろうに。

 星野さんの親友が語って下さいました。

 「新聞や雑誌にも意外にたくさん取り上げられていたので知っているかもしれないが、今年の8月、カムチャッカ半島のクリル湖畔でテレビ番組の取材中にヒグマに襲われて亡くなった。夜、テレビの他のスタッフは小屋で寝ていたのだが、彼だけは小屋のすぐそばに自分用のテントを張って眠っていて、そこを襲われた。最初、この事を新聞で読んだ時、信じられなかった。写真集を出すほどアラスカで多くのグリズリーを撮り、クマの行動については熟知していたはずの人がなぜ襲われたのか。「サケが川を上る時期は、エサが豊富だから人を襲うような事はない。」とテレビのスタッフに言っていたそうですだが、その判断が甘かったのでしょうか。
 僕が最初に星野道夫を知ったのは栄の丸善で見つけたWWFのカレンダーだった。確か1989年のカレンダーだったと思う。そこには雪を戴いたマッキンレー山をバックにどこまでも続く草紅葉の原野にたたずむムースや、ワタスゲの穂が逆光に輝く草原に群れるカリブーなどアラスカの野性動物の姿があった。僕はスケールの大きい、しかも悲しげな 詩情のあるそれらの写真にすっかり魅せられて、3年ほど続けて星野道夫のWWFのカレンダーを買った。どの写真にも突き放すような厳しく、人間のことなど歯牙にもかけない雄大なアラスカの自然が写しとられていた。

 最近は西表島やらバリ島やら、南の島も大好きになってしまったが、もともと僕は北方指向で、学生時代は東北や北海道など北の山ばかり登っていた。その延長上にあるアラスカは、一番近い氷河の見られる場所(当時はソ連なんて行けるHosino001 所とは思っていなかった)として僕の長きにわたる憧れの地であった。
 その夢がかなったのは結婚して4年目の1986年のことだった。まだ「地球の歩き方」のアラスカ版なんてないころで、旅行会社でアメリカのドライブマップである「MILE POST」をコピーさせてもらって持って行った。レンタカーを借り、キャン場にテントを張りながら約一週間、アンカレッジ周辺やデナリ(インディアンの言葉で“偉大なる者”の意味でマッキンレー山を指す)国立公園などを巡った。その時の事を思い出すと本当に夢のようで、ろくに英語をしゃべれもしないくせによく行ったなと思う。

 アラスカの8月はもう秋の入り口で予想よりもずっと寒く、ハイウェイの両側に何処までも続くピンク色のヤナギランの花が移り行く季節を象徴していた。楽しみにしていたアンカレッジ南のポーテージ氷河では、氷河の割れ目の神秘的なブルーを実際に見ることができ感動したが、冷たい雨に打たれて長居はできなかった。天気はずっとはっきりせず、何度もにわか雨に降られ、何度も虹を見た。3日間いたデナリでもマッキンレーの山頂が見えたのはほんのわずかだったが、マッキンレーではその前々年、植村直己が冬季単独登頂後 に遭難していたこともあって、白い山容がはるか原野の上に浮かび上がったとき少々ジンと来た。

 アラスカは本当に広大だ。野性動物もたくさんいるのだがあまりにも広すぎて目立たない。最も目についた哺乳類は車にはねられてハイウェイに横たわるジリスかもしれない。ムースも見たかったのだが、とうとう一度も目にすることはなかった。国立公園内ではシャトルバスのすぐ近くにグリズリーが何度も出てきて驚かされたが、かえってサファリパークみたいで感動が少なかった。むしろ谷を隔てた遙か遠くに、ゴマ粒のようなグリズリーが2、3頭ゆっくりと歩いていくのを見た時のほうがアラスカの広さが感じられ、 
  「本物のグリズリーだ。」という気がした。

 あのアラスカ行きはわずか一週間ではあったが僕にとっては本当に大きな旅で、その後数ヶ月はボーッとしていた。星野道夫のカレンダーはそのときの厳しく大きなアラスカの自然を思い出させてくれた。そしてちょうどその頃、小説新潮の臨時増刊というかたちで「マザー・ネイチャーズ」というグラフィック雑誌が発行され、そのなかでまた星野道夫の写真に出会うことができた。その雑誌には毎号と言っていいほど彼の写真が掲載されていたし、第2号からは「イニュニック(エスキモーの言葉で「いのち」の意味)」と題してアラスカの生活を綴った文章も書き始めていた。とくにうまいとは思わなかったが、アラスカの自然や、アラスカの人々に対する彼の愛情がひしひした伝わってくる文章だった。
 

 僕の手元には5号までしかないので「マザー・ネイチャーズ」がいつまで続いたかは知らないけれど、1994年1月からは月刊誌「シンラ」に引き継がれた。最初は後継誌とは知らず、女房が買ってきたものを「昔あったマザー・ネイチャーズによく似ているが、あっちの
ほうが良かったな。」などと言いながら読んでいた。自然指向の雑誌「シンラ」は今では僕の愛読誌になっているが、読み続けるきっかけになったのは池澤夏樹氏の「ハワイイ紀行」という連載のせいだった。彼は「マザー・ネイチャーズ」の創刊号にも文を書いていたのだが、そのころのはちっとも記憶に残っていなくて、「ハワイイ紀行」ではじめてその情景描写の的確さに魅せられた。あとから彼が埼玉大学の物理学科を中退していることを知り、その描写が理科系のセンスによるものだと納得した。

 「ハワイイ紀行」以後、彼の作品を拾い読みしていたのだが、「南Hosino002 鳥島特別航路」という文庫本で僕はもっと前に池澤氏に出会っていた事を知らされ驚いてしまった。この本1989年から90年にかけて、日本交通公社発行の雑誌「旅」に連載されていた記事を集めたもの で、その中の五島列島の章は確かに読んだ覚えがあった。普通の紀行文と少々毛色が変わっていて、火山性の五島列島の成り立ちや波に削られた断崖の地層の描写など、随分専門的だなと感じ、記憶に残っていたのだった。(この機会に本棚を探したら、このときの「旅」が出てきた。1989年1月号だった。)
 

 星野道夫の「イニュニック」も「シンラ」創刊2年目の1995年1月号から「ノーザンライツ(北半球のオーロラのこと)」として連載が再開された。連載は彼の死によって中断されてしまったのだが、「シンラ」10月号に星野道夫レクイエムとして池澤氏が追悼文を書いている。星野と池澤の結びつきは、おそらく「マザー・ネイチャーズ」の頃から雑誌を介して始まったのではないかと思うが、その追悼文の中で、星野道夫がアラスカへ定住することになったきっかけについて、びっくりするような事を書いていた。
 

 星野道夫とアラスカの関わりの一番の始まりは、神田の古本屋で見つけたアラスカの本に載っていたエスキモーの村の空撮写真に魅せられ、19歳の時にその村へ行き、一夏を過ごしたことであることは、彼の著書「アラスカ、光と風」で知っていた。しかし、すっかりアラスカに行ってしまうきっかけになったのは、中学以来の親友が山で死んだことだったと言うのだ。
 

 星野がTと書いている友人は1974年の夏、妙高連山の焼山の頂上付近でキャンプしているときに、10年以上活動の無かったこの火山の突然の噴火に巻き込まれ、仲間の2人と共に亡くなっている。そして、この時亡くなった3人は僕の大学の同じ学科の3年先輩にあたる。
 僕が千葉大に入学したころ、松戸の園芸学部の食堂の前に三本のベニバナトチノキが植わっていて、誰かから登山中に亡くなった先輩がいる事を聞いた。 そのトチノキは同級生が植えた追悼の記念樹だという。その木はおそらく僕が入学する前年か前々年に植えられたもので、その名のとおり、薄紅色の花がまだ薄くて柔らかい黄緑色の葉陰に揺れていた。
 

 入学後、山登りを始めていた僕に、山で死ぬということを目に見Hosino004 える形で表していたその トチノキを、いつも僕は特別な想いで見ていた。当時珍しかったその花の写真を撮った記憶があったので、学生時代の古いアルバムを探してみたら、少々色褪せてはいたけれど、確かにあのマロニエの写真が残っていた。
 池澤夏樹の追悼文を読むと、星野道夫がアラスカの自然と同じように、ヒグマに対しても愛情を持ち、そして良く知っていたのが分かる。
 星野はアラスカのクマのなかで最も危険なのは、国立公園にいるクマだという。大勢の観光客が訪れる国立公園では、本来、クマが人間に対して自然に保つ距離が取れない状況になってしまっている。人間との距離感が麻痺してしまっているクマとの遭遇は事故が起こりやすいというのだ。

 池澤氏は書います。
 「彼は基本的に銃を持たない。銃をもつと銃に頼りすぎて、動物と対面する場面で必要な緊張感を失い、不用意な行動をしてしまう。その方が問題だと考えていた。グリズリーと何度も関わって、そのたびにグリズリーがその時々きちんと的確に自分の感情を表現するのを読みとっている。だから手の中に銃があるばかりに、脅威でもないものを脅威と妄想して撃ってしまう方を恐れた。クマを軽んずるのではない。クマに対して必要にして充分なだけの畏怖の念が彼にはあったのだ。」

 

 「シンラ」の記者によれば、事故の一週間ほど前、朝食時に一頭のクマが一行に気がついて近寄ってきたという。こういう時、普通、人が大声を上げたりすればクマは逃げていくのだが、このクマはいくらそうしても怯まず、石を投げてようやく追い払ったそうだ。 そのクマがやっと立ち去るとき、星野は「イヤな奴だな。」とつぶやいたという。
 クリル湖畔はマッキンレーほど人は多く入らないだろうが、研究者などが寝泊まりするロッジも数ヶ所あり、ここのクマはかなり人に慣れていたようだ。イヤな感じがあったにもかかわらず、ロッジではなくテントで寝ていたのは、集団での仕事で自分の空間が欲しかったからなのか。そしてどこかに、そばに人がいるという安心感があったからなのか。アラスカで、しかもいつものように単独であったならば、こんなことにはならなかっただろうに。
 

 植村直己が遭難したときにもまさかと思った。彼は本当に用意周到な人で、南極点への犬ぞりによる単独到達が夢で、エスキモーから犬ぞり操縦の技術を習い、予行演習として犬ぞりによる単独北極点到達とグリーンランド縦断までなし遂げてしまった。あんな用心深い、忍耐強い人が遭難死するとは思ってもみなかった。
 そして、あんなにクマのことを良く知っていた星野道夫がヒグマに襲われて亡くなるとは。自然相手に絶対ということは無いと分かっていても。『アラスカに、カリブーやムースやクマやクジラと一緒に星野道夫がいるということが、ぼくの自然観の支えだった。
 彼はもういない。僕たちはこの事実に慣れなければならない。残った者にできるのは、彼の写真を見ること、文章を読むこと、彼の考えをもっと深く知ること。彼の人柄を忘れないこと。それだけだ。』

 星野道夫の死は、今年の夏、僕にとってほんとに衝撃的な出来事だった。僕にとっての星野道夫の死の意味を整理しておかないと、どうにも落ちつかない感じだった。今思えば、僕のあのアラスカ旅行は夢を叶えるために努力ができた最後の旅だったような気がする。歳をとるに従って夢などという青臭い一途な憧れを持ち続けるなんて気恥ずかしくなってしまうし、若さ故の漠然とした不安といったものも日々の生活のなかで擦り切れてしまった。
 アラスカは僕にとっては、そんな忘れてしまいがちになる感情を思い出させてくれるものだった。そのアラスカへの想いを星野道夫がいでいてくれた。
 星野道夫が亡くなり、もう彼の写真や文章によって、心のアルバムにアラスカのページが増えることは無くなってしまった。そろそろこのアルバムを本棚に納める時期かもしれない。」と。

 もうすぐ星野さんの一周忌がやって来ます。長かったような、早かったような。それにしても、その著書を通してしか知らない男の死を、単なる一読者でしかないはずの自分がなぜこうも悼み続けるか。今までこのような経験はなかったのに。これこそたぶん、星野さんの言葉が持つ力なのだと思います。彼の文章の中にはいつでも優しい笑顔をした等身大の男の姿が見ええます。ひどく近しい場所、まるですぐそばに彼が立っているように。勿論、星野氏は写真家であり、彼の写真集はどれも見る者に深く感銘を与えずにはおかないのだけれど、それでも、写真しか見たことがなかったならば、それほど影響はなかったと思う。写真もすばらしいけれど、それと同じくらいに大きいのは、やはり彼の言葉の力なのです。

 星野さんの文章は非常に平易です。本当にやさしくわかりやすのです。漢字さえ知っていれば子供にだってそれなりに読めるでしょう。もっと言ってしまえば、今時、普通なら恥ずかしくてとても書けないだろうと思うくらい純真純情な言葉が並んでます。汚れたものが何もないのです。誰にもとても真似などできないくらい。もし他の誰かがこんな文章を書いていたら、読者は赤面するか胡散臭そうに放り投げるに決まっています。にもかかわらず、星野さんという男性の書いた文章だから、それは非常に力強く深みがあって、真実なのす。結局、信用ということなのでしょうか。大自然を相手にしながら、美辞麗句を使用して大言壮語するわけではない、非常にささやかな感想を何となくはにかみながらぼそぼそと漏らしているような、そういう男が書く文章なら信用できないわけがないと思うのです。

 変わりゆく自然を、過ぎ去った歴史を、年老いあるいは若くして亡くなってゆく人々を、惜しみながらも、常に現在という瞬間を肯定してゆく生命の力、軽やかで明るいオプティミズム、そのような人生に対する彼の態度もまた、その言葉に力を与Hosino005 え輝きを添えている・・・
変わりゆく悲しみは年老いてゆく悲しみと共通していますね。しかし決して変化と老いとを否定はしません。むしろ積極的に肯定してゆこうとします。その上で、しかもなお、変わらずに守ってゆかなければいけないものは何か見据えようとしています。そのため、星野さんは見る者、見守る者なのですね。長い長い時間をかけて。熊が冬眠から目覚め活動する瞬間を見るために、何日も待ち続ける。あるいはカリブーの季節移動を一カ所で待ち続ける。いつ通るかも知れない、もしかしたら通らないかも知れないのに。ただ待つだけの日々。それだけの余裕が彼にはある。彼は決して性急に結果を求めはしない、答えを出そうとはしない・・・

『混沌とした時代の中で、人間が抱えるさまざまな問題をつきつめてゆくと、私達はある無力感におそわれる。それは正しいひとつの答が見つからないからである。が、こうも思うのだ。正しい答など初めから存在しないのだと……。そう考えると少しホッとする。正しい答をださなくてもよいというのは、なぜかホッとするものだ。しかし、正しい答は見つからなくとも、その時代、時代で、より良い方向を模索してゆく責任はあるのだ。』

『「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。』(『旅をする木』)

 星野さんの眼差しはとても優しい。それはおそらく、結果を重視し最優先する社会を離れてしまった者の眼差しだからでしょう。

ふと思うのです。そもそも、時間には結果など無い。時間には、延々と過ぎ去って行く、その流れだけがあるのだと。生きていることとは、過ぎ去り続けることで、結果を出すことではないのだと。星野さんは「時の流れを観照し続けた人」なのだと思います。彼のことを思う時、人の一生の短さが、何千年何万年という比較しようもない時間の流れに対して直に繋がっている、そのことをいつも再確認させられる気がしました。

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2009年6月13日 (土)

私の好きな画家~サンドロ・ボッティチェッリ編

 初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表的画家で、フィリッポ・リッピの元で学び、メディチ家の保護を受け、宗教画、神話画などの傑作を残しました。メディチ家当主ロレンツォ・デ・メディチの死後、ドメニコ会の修道士サヴォナローラがフィレンツェの腐敗を批判し、市政への影響力を強めた。そのためボッティチェッリも神秘主義的な宗教画を描くようになりました。 ボッティチェリはサヴォナローラの反対派からの画の注文もよく受けており、こうした事実は彼がヴァザーリの記すよりはずっと自由な立場にいたようだと言われます。この時期以降の作品は生彩を欠くとして評価は高くありませんでした。1501年頃には制作を止めます。
 フィリッピーノ・リッピに彼は師事していました。当時の花形工房であったヴェBottecheri003ロッキオの工房とも関係を持つ。1470年に制作された商業裁判所のための寓意画『剛殺』が初作品。以降約20年間にわたり時の権力者メディチ家の支配下にあったフィレンツェで第一線の画家として活躍。1481年ローマに呼ばれシスティーナ礼拝堂の壁画制作に携わる。同年代には春(ラ・プリマベーラ)やビーナスの誕生など異教的な神話を題材にした傑作を残しますが、晩年はサヴォナローラの宗教的影響を強く受け、硬質的で神経質な表現へと作風が一変。サヴォナローラの失策もあり人気が急落、ついには画業を止めるに至りました。最晩年は孤独のうちに死去。享年65歳。

 『プリマヴェーラ』と『ヴィーナス(ウェヌス)の誕生』の作者と して著名になったのが19世紀だなんてひどい話ですね。異教的、官能的なテーマの絵画であり、フィレンツェ・ルネサンスの最盛期を告げるものでです。官能的でありながら、菩薩を拝むような気持ちになる不思議な絵です。『ヴィーナスの誕生』として知られる絵画は、ルネッサンス期のイタリアの画家サンドロ・ボッティチェリの作品で、キャンバス地に描かれたテンペラ画です。古典的な女神ヴィーナスは、水より出現して貝殻のうえに立ち、霊的情熱の象徴であるゼピュロス(西風)に乗って、岸へと吹き寄せられています。季節の女神であるホーラたちの一人が、花で覆われた外套を女神へと差し出して、ヴィーナスのポーズは、当時発見された「恥じらいのヴィーナス」タイプの古代彫刻から得たものといわれています。

 ボッティチェリは遥か昔に失われた古代ギリシアの名画について、2世紀の歴史家ルキアノスが著した記述に着想を得た作品群を描いており、『ヴィーナスの誕生』はBottechari001そのうちの一つでといえます。アペレスによって描かれた古代の絵画作品は『ヴィーナス・アナディオメネ』と呼ばれています。アナディオメネとは「海からの誕生」を意味します。これがボッテチェリの絵画の題名として使われているのです。『ヴィーナスの誕生』はプラクシテレスのアフロディーテ像と類似点が多くあります。
 当時まだポンペイは未発見でボッティチェリはポンペイの壁画をついぞ見ませんでしたが、ルキアヌスの記述にあるアペレスの絵画は当時すでに有名であり、それをローマ風に再現したものは見たことがあったかもしれないと言われています。

  また、ボッティチェリ成熟期を代表する作品のひとつ『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』は、アントニオ・プッチの息子でロレンツォ・ディ・メディチの甥でもあるジャノッツォ・プッチとルクレツィア・ビーニの婚礼の際に同家から依頼され手がけられた、カッソーネかベッドの一部だと考えられている本作は、ボッカッチョの小説≪デカメロン≫中の騎士道に関する主題である第五日第八話『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』を典拠に描かれた全4作品からなる作品群で、全てボッティチェリの構想によって弟子であるバルトロメオ・ディ・ジョヴァンニやヤコポ・デル・セッライオの手が加わりながら制 作されました。本作に描かれる『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』は、恋人パオラ・トラヴェルサーリに拒絶され自身の不幸に沈むナスタジオが、騎士と犬に追いかけられ責め苦を受ける女性を目撃する場面から始まり、この騎士はナスタジオ同様想い人に拒絶され自殺した騎士でBottechari005、自殺した原因は騎士を拒絶した想い人の残忍さにあるとし、想い人の内臓を引き裂くなど責め苦を与え、ナスタジオが恋人パオラとその家族を招き同場面を目撃させると、恋人パオラはナスタジオに心を許し結婚に同意したという話で、各場面の調和の取れた構成と、豊かな色彩や陰鬱を感じさせる舞台的場面構成が秀逸の出来栄えを見せています。また『ナスタジオ・デリ・オネスティの物語』の作品群はフェレンツェのプッチ家が約300年間所蔵した後、幾多の人々に渡り現在は第I場面から第III場面までプラド美術館が、第IV場面はアメリカの個人蔵となっているそうです。

 フィレンツェ派最大の巨匠サンドロ・ボッティチェリ晩年の代表作『神秘の降誕』。ローマのアルドブランディーニ家が旧蔵し、現在はロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する本作に描かれる主題は、神の子イエスが聖胎した聖母マリアの御身体から現世に生まれ出た神聖なる場面≪キリストの降誕≫ですが、本作においては主題よりも、老いたボッティチェリがサヴォナローラからの宗教的影響を受け、孤立した存在ゆえの激しい感情に満ちた表現に注目したいところです。画面上部にはギリシア語で謎めいた銘文が以下の内容で記されています。「私アレッサンドロはこの絵画を1500年の末、イタリアの混乱の時代、ひとつの時代とその半分の時代の後、すなわち聖ヨハネ第11章に記される3年半の間悪魔が解き放たれるという黙示禄の第2の災いの時に描きました。そして悪魔はその後、第12章で述べられるよう鎖につながれこの絵画のように≪地に落とされる≫のを見るのであろう」。この銘文は友愛の精神と祈りによって罪悪が裁かれることを意味しており、画面全体を支配する激しい感情性や宗教的古典表現などの多様性は、フィレンツェ派の中で孤高の画家となったボッティチェリの内面における瞑想の表れです。なお本作は画家の作品中、唯一年記がされる作品でもあります。

 やはり浮かばれない画家が一人、淋しく死んでいった・・・まるでそれが画家の運命かのように・・・

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2009年6月 9日 (火)

私の好きな画家~ピーテル・パウル・ルーベンス編

 まだ作者を知らない頃から親しんできた画家で、『キリスト昇架』や『キリストの割礼』などは誰もがテレビなどでみてきたのではないかと思います。ルネサンス期絵画の均整のとれた構図や理想化された人物表現とは一線を画し、ルーベンスの絵画は、動きの多い劇的な構図、人物の激しい身振り、華麗な色彩、女神像などに見られる豊満な裸体表現など、バロック絵画の特色が十二分に発揮されたものです。人物のまとう毛皮の色などに、黒を色彩のひとつとして積極的に用いていることも特筆されます。

  修業を始めたのは14歳頃からでした。師匠の一人であったRubens_cross01a オットー・ファン・フェーンは、ギリシア・ローマの古典に造詣の深い、教養ある人物で、ルーベンスはこの師から多大な影響を受けていいます1600年にはイタリアへ渡り、マントヴァ 公の宮廷画家となり、諸外国までその名声を轟かせたバロック期を代表する画家。修行時代に風景画家フェルハーヒト、アダム・ファン・ノールト(ルーベンスの後に続くフランドル絵画の巨匠ヤーコブ・ヨルダーンスの師であり義父でもある)、ファン・フェーンと三人の師から絵画を学んだ後1600年から1608年までイタリアで、ミケランジェロの肉体表現、ラファエロやマンテーニャの古典思想的表現、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ等ヴェネツィア派からの豊かな色彩による画面構成、コレッジョからの甘美的表現などルネサンス芸術を研究する一方、イエズス会とも接触を図りましたイタリアでの滞在で一気に才能が開花し、社交性もあったのですが画家はヴェネツィアの外交使節として、名画を寄贈するためスペインへ向かいますが、途中大雨により名画を濡らしてしまいました。しかし画家自身がそれを修復したのです。その出来栄えの良さにスペイン国王は勿論イタリアの貴族からも賛辞を受けました。

1608年、当時アントワープを統治していたハウスブルク家アルブレヒト大公夫妻に宮廷画家として仕え、ヴァン・ダイク、ヤン・ブリューゲルらと共に次々と作品を制作していきます。総作品数は約1200点と膨大な数が残っていますが、大半は工房作品か他作家との共作。ルーベンスの画家としての優れた才能や洗練された友好的な態度によってイザベラ大公妃を始め、フランス王妃マリー・ド・メディシスやフェリペ四世など当時の権力者とも交友関係を築き、使節として国交の正常化に尽力を尽くすほか、歳の離れたスペインバロックの巨匠ベラスケスとも交流を持ちました。またカラヴァッジョの『キリストの埋葬』やティツィアーノの『ヴィーナスへの捧げもの』、レオナルド・ダ・ヴィンチの現在は失われた大作『アンギリアの戦い』など、ルーベンス自らが描いた巨匠たちの模写も数多く残されています。

 多くの言語に精通していたルーベンスはイタリア、スペイン、英国にも足跡を残し、外交官としての一面もあった。上述したオランダとフランドルの休戦協定の有効期間は12年間で、1621年にその期限が切れると、フランドルは再び戦火にさらされた。当時、北部ネーデルラント(オランダ)は独立していたが、フランドル(今のベルギー)は引き続きスペインの支配下にあった。1628年、前述のイザベラ王女は和平のための外交使節として、ルーベンスをスペインのマドリードに派遣した。ルーベンスはそこでスペイン最大の画家ベラスケスに会っており、またスペイン宮廷が所蔵していたティツィアーノ(ヴェネツィア派の巨匠)の絵画を模写するなど、画家としての活動もしています。

 『キリストの割礼』は、イタリアへと旅立ったルーベンスが同地で描いた作品と推測される初期作です。本作の主題は、天使のお告げによりイエス降誕の八日目に包皮を切除し、神の子に『イエス』と名付けるキリスト教の儀式「キリストの割礼」を描いたもので、イタリアでの古典研究と色彩表現の吸収により体得した古典思想的表現や豊かな色彩による画面構成など、随所にルーベンスの才能の開花が垣間見ることができます。本作はイエズス会に属するジェノヴァのサンタンブロジオ聖堂祭壇画のために制作された作品で、イタリアへと渡ったルーベンスとイエズス会の親密な関係性を示す作品としても興味深いものがあります。また本作の主題「キリストの割礼」は、「神殿奉献」との類似性と、卑俗性から19世紀以降は全く描かれなくなった主題でもあるのです。

 初期ルーベンスにおける最高傑作のひとつで、プラド美術館がRubunnssu001 所蔵する『東方三博士の礼拝』。本作の主題は降誕したイエスと、その礼拝に訪れる欧州、亜細亜、阿弗利加の三博士を描く『東方三博士の礼拝(マギの礼拝、三王の礼拝などとも呼ばれる)』で、豊かな色彩、ミケランジェロを思わせる劇的な肉体描写、大人数による画面構成などの、後に大作主義とも呼ばれた圧倒的な表現が示されてますね。また本作はイタリアから帰国したルーベンスの最初の作品であり、アントウェルペン市庁舎大会議室の装飾のために描かれたもので、画面右部分の馬上の人物など、画家自身による加筆がなされています。

 王の画家にして画家の王ルーベンスがアントワープに戻って最初に手がけた大規模な祭壇画で、画家随一の代表作『キリスト昇架』。主題は題名が示すよう、十字架に掛けられるキリストを描いた≪十字架昇架≫で、やや伝統的様式の構図を取りながらも、ミケランジェロの研究から会得した隆々しい肉体表現や、ティントレットを思わせる人物の複雑でうねりの示されるポーズや極端な短縮法を用いることによって、この巨大で重要な祭壇画に、それまで見られなかった劇的かつ感情豊かな効果をもたらしました。シント・ヴァルブルヒス区教会の主祭壇画として描かれた本作ですが、同教会は現存せず、現在は『キリスト降架』と共にアントウェルペン大聖堂が所蔵しています。

 ちなみに『フランダースの犬』において主人公のネロが見たがっていた絵画(アントウェルペン大聖堂にある『キリストの昇架』と『キリストの降架』)の作者として有名。ネロが祈りを捧げていたアントウェルペン大聖堂のマリアも、ルーベンスの作品『聖母被昇天』だそうです。『フランダースの犬』の舞台は十九世紀のベルギー北部のフランダース(フランドル)地方。現在ではアントウェルペンに隣接するホーボーケンが舞台となった村のモデルと考えられています。ウィーダはこの作品を執筆する前年にアントウェルペンを旅行で訪れてホーボーケンにもやって来ており、当時のこの村にまだ領主の風車小屋が存在していた事から物語に登場する風車小屋はこれをもとに描写されたものと見られていました。さらに物語に登場するアロアのモデルと思しき12歳の領主の娘がいた事も確認されています。童話として愛されてきましたが、もとを辿ると菊池寛氏が翻訳したものであり、童話なのに主人公が死んでしまうと言う悲劇で現地ではあまり受け入れなかったそうでが・・・私もアニメで観て、こんな終わり方をするなんてと大泣きしたものです。話がずれました。

 ルーベンスは1600年イタリアでの宮廷画家を振り出しに、アルRubennse002 ブレヒト大公・イサベラ公妃に仕え語学が堪能故に外交官としても活躍した彼は1630年イギリス国王チャールズ1世よりナイトの位を授かり、又1631年にはスペイン国王フェリペ4世からもナイトの位を授かっています。 私生活では1609年10月に最初の妻イサベラ・ブラントと結婚生涯に1500点もの作品を残していますが、肖像画が大部分を占めており作品には宮廷画家らしく格式があり威厳のある作品の多いなか家族や友人を描いた作品も数多くこの頃の作品、すいかずらの茂みのルーベンスとイサベラ・ブラントには仲むつましい2人の姿が描かれています。ベルギーに住居があった関係でベルギーで切手の発行が多く、二番目の妻エレーヌ・フールマンを描いた作品も多く、総作品数は約1200点と膨大な数です。

大量の絵画の注文を受けたルーベンスの絵画制作方法として
 1.最初から最後までルーベンスひとりで仕上げる場合
 2.友人の画家たちと共同で制作しルーベンスが仕上げる場合
 3.油絵の複製画を弟子に制作させてルーベンスが仕上げる場合
 この3パターンで1200点以上の作品を世に送り出しました。

1200点と一言でいいますが、62歳でなくなられているので、1年で・・・数え切れませんね。絵だけに生涯を捧げた、彼も孤独だったのかもしれません。でも宮廷画家というのは一定収入が得られただけでも、他の貧しい絵描きより恵まれていたとは言えるのでしょうが。そこに自由はあったのでしょうか・・・アマデウスのサリエリを思い出してしまいました。

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2009年6月 7日 (日)

私の好きな歌舞伎役者さん~坂東玉三郎編

 玉三郎さんには、舞台に立つと、その瞬間にぱっとそこが明るくなるような華がありますね。女性から見ても魅力的です。玉三郎さんの舞台から醸し出されるその、命そのものが震えるような、初々しい気配に見せられてきた方も大勢おられるのTama001 ではないでしょうか。玉三郎さんは、子どもの時に病気をされて、その影響もあり、「いつ踊れなくなるか。明日もう舞台に立てないかもしれない」と思い続けてきたのだといいいます。遠い目標を立てるのではなく、「まずは明日」と常に「今、ここ」と「ほんの少し先」を大切にしてきのだと。
 「明日はどうなるかわからない」という切なさ、不安が、玉三郎さんの舞台のふるえるような初々しさを支えてきたのでしょう。映画監督や舞台の演出にも携わっている玉三郎さん。その中で、「他の人を成長させる」という喜びに目覚めたのだといいます。 「役者は基本的に自分自身が向上することに命を賭けていますから、他の人を成長させるということにそれほど情熱を傾けられるかどうかわからなかった。でも、そういうことができるように学習した」と玉三郎さん。
 他人の学びを助ける際に一番大切なのは、その人自身が何かを発見した時に、「そう、それ!」と横から指摘してあげることだといいます。学ぶということは、自発的に行われる時に最も進むのであるが、玉三郎さんのように経験を積んだ先達者が傍らで見守り、的確に「そう、それ!」と言ってあげることで、発見の喜びは増し、自信がつき、結果として学びの質が変わるのでしょう。
 相手のことをよく観察しなければならない、と玉三郎さんは言います。歌舞伎は、出雲の阿国から始まっていますが、人気が出た時、江戸幕府が女性が舞台に立つことを禁じました。そのような制約から生まれたのが「女形」。

 玉三郎さんが演じる女性は、「本物の女性」よりも「女」らしですね。男が女を演ずるということを、玉三郎さんは楽器による音楽の演奏にたとえます。肉体が楽器となるのだと。一つひとつの所作が、音符のような存在になる。所作を重ねることによってそこにはもともと存在しなかった「女らしさ」という「音楽」が生まれる。「女らしさ」は肉体に宿るのではないむしろ、抽象的な存在として、肉体を突き抜けた「向こう側」に見えるのでしょう。誰も見たことがないという、玉三郎さんの「振り切れた」踊りは、一体どのようなものなのでしょうか。
「神様が見ているのではないですか?」と尋ねると、「神様がいるかどうかはわからないけれども」と前置きした上で、舞台で踊っていて、「天が見ている」と感じることはあると玉三郎さんは言われました。
 踊っている最中に、何のためにそうしているのか、心許なくなることがある。そんなときの「最後の支え」が、「天が見ていらっしゃる」と思うことだと玉三郎さん。素晴らしいお話でした。

 私は生で歌舞伎を観たことがありませんし、歌舞伎云々と言いたいわけでもありません。ただ、美しい華のような方のことを知りたいだけなのです。1992年 映画『外科室』を初監督し、伯爵夫人と気鋭の外科医との秘めたる恋を見事に映像化されました。泉鏡花氏の小編を玉三郎さんが映画化しました。原作が短いだけに、映画も50分ほどの短編です。人で外科医の高峰(加藤雅也さん)が、貴船伯爵夫人(吉永小百合さん)の手術を担当することになりました。清長は高峰に頼み、その手術を見学させてもらうことになったのです。手術室の周りには、手術を気遣った貴顕たちが囲繞し、厳かなような、悲しいような、不思議な緊張感に包まれていました。手際よく進む手術の準備。しかし、いよいよ麻酔をかけようという段になって、伯爵夫人は「いや、よそうよ」と言い出したのです。驚き騒ぐ周囲をよそに、固い決心を相貌に漲らせている伯爵夫人。お付の者が、その理由を問うと、伯爵夫人は秘密を口走りそうで怖いから麻酔は嫌だ、と言うのでした。しかし、手術は喫緊の問題。遅らせるわけには行きません。それに肉を削いで骨を削る手術が、麻酔なしで行えるわけもないのです。しかし伯爵夫人は「手術をするのは高峰先生だろうね」と確認したあと、「さあ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから大丈夫だよ。切ってもいい」と蒼白な顔で言うのでした。その時、黙したまま座っていた高峰が立ち上がりました。手術を行うようです。押さえましょう、という看護婦に「それには及ぶまい」と答える峰の顔は、秘めた激情を強いて抑えているような沈鬱に満ちています。
「夫人、責任を持って手術します」と言う高峰に「どうぞ」と僅かばかりの笑みを持って答える伯爵夫人。メスが、伯爵夫人の胸にさっと走りました。薄く滲むTama004 のは、玉のような血です。さらに深くメスが伯爵夫人の胸を切開します。その刹那、起き上がることもかなわなかった伯爵夫人は、ぱっと上半身を起こし、高峰の胸にすがりつくのでした。「痛みますか」「いえ。あなただから。でもあなたは、あなたは私を知りますまい」と言うや否や、高峰の持つメスを深く突き通し、伯爵夫人は絶命したのです。「忘れません」という高峰の声だけが
、天井の高い手術室に響くのでした。今を遡ること九年前。まだ学生の清長と高峰は、小石川植物園を散策していました。折しも園内は躑躅が満開の季節。数奇屋からは検校の琴の音と錆びた声が聞こえてきて、より風雅を高めています。すると二人の前に、着飾った紳士淑女の一団が歩いてきたのです。風采の良い紳士、花と顕を競う妍を競うかのように華やかな娘たち。しかし、その中で最も艶やかなのは一人の貴婦人だったのです。思わず見とれる二人。特に高峰は、その貴婦人に放心の体で視線を注ぐのでした。「見たか」「うん」顔を見合わせる二人です。清長は画学生らしく咲き誇る躑躅をスケッチしています。しかし、ふと気づくと高峰が見当たりません。目で探す清長。いました。高峰は園内の小川のほとりに立ち、向こう岸を凝視しているではありませんか。そして向こう岸には、高峰と同じように凝視している貴婦人がいたのです。高峰と貴婦人の視線は、その一瞬を永遠に焼き付けたいと願うように、交錯して離れないのでした。
 清長が回想を終えると、隣では老人が気持ちよさそうに寝ています。清長は「ご老人。二人は天国に行くことがかなわないのだろうか」とつぶやくのです。まるで、一枚の絵を見ているような作品です。それも鋭い美的感覚に裏打ちされた、一幅の名画とでも言えば良いのでしょうか。実際に小石川植物園でロケをしているようなので、Tama002 躑躅の美しさも圧倒的。たまたま風が強い日のロケだったのでしょう。風にザワザワとなびく躑躅の花が、美しさとその後の悲劇を予感させて、風までが名演技だと感心してしまいました。そして箏曲も見事、ヨーヨーマのチェロも見事、と音楽までが一流です。吉永小百合さんや中井貴一さんは危なげない演技。淡々とこなしている感じです。加藤雅也さんは、台詞回しがおかしいような気もしたし、下駄を履いて歩いているシーンなどでは転ぶんじゃないかとハラハラしたりもしましたが、容姿で選んだのでしょうから、まあ納得です。
 ともあれ、決して「ああ面白かった」と膝を打つような種類のものではありませんが、展覧会で絵を見て、よく分からないなりに感心してしまったような気分にさせてくれる映画でしたね。

 歌舞伎に留まらず、近代劇(マクベス、エリザベス等)や映画(夜叉ヶ池、天守物語等)そして映画監督をこなす玉三郎さん。

 素敵過ぎます。

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2009年6月 6日 (土)

私の好きな画家~アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック編

 彼の奇抜な絵は私を一時虜にさせました。ヨーロッパで最も由緒ある大貴族トゥールーズ=ロートレック家の嫡男として生まれ、少年のころ両足の大腿骨を折るという二度の事故のあと、不具の身となったロートレックは、絵画で欠けた人生補Rotorekku001 おうとしました。
 彼の作品は、もちろん世界的な財産であるとともに、当時を明らかにした記録、特にパリ生きる人々の本当の姿を描いています。今世紀前後のパリには画家だけでなく、小説家や音楽家、彫刻家など、世界中の優れた作家がたくさん集まり、影響されたり、共同作品を作ったり、共に生きたりした素晴らしい時代でした。これは、単なる偶然ではなく、1900年にパリ万博が行われ、その事によって、更に活気づきました。その中から芸術的な「派」を作っていく、例えば、セザンヌやルノアールらの「印象派」の人々や、一匹狼のドガのような人がいました。そして、彼らに共通していることは、貧乏であるということ、生活費を稼ぐ必要がありました。ルノアールは、そのために毎日小さな油絵を1枚仕上げていました。しかし、ロートレックは全く違いました。

 1864年に南仏のアルビで生まれ、生家はカルル大帝の時代までさかのぼり、十字軍の騎士も輩出したフランスの名家でした。苦労しらずな恵まれた環境のもと、人生を思いのままに楽しむのに、十分な財力に恵まれていたのです。

 しかし、彼には生涯二つの大きなコンプレックスが、彼自身をしめていました。一つは、幼年期の二度の骨折によって上半身は成長するのですが、下半身は発育不良のままという異常な容姿だったということ。父、アルフォンス伯と母は実の従兄妹同士であり、家系内での血族結婚が稀ではなかったと書かれていることから、骨と骨の成長に異常をきたす病気のために、発育障害になったことも理解できます。もう一つは、父親アルフォンス伯の存在でした。もともと、変わり者で有名であり、社会的な制約に一切縛られず、乗馬や狩猟といった現実離れしたものにしか興味を持ちませんでした。スコットランドタータンの肩掛けをまとい、バレエのチュチュを付けて昼食の席に現れるなど、奇妙な服装をして人々を驚かすのが好きだったと伝えられています。

 ロートレックに対しては、絵を学ぶためのアトリエをパリに探したPc010 りと彼なりにいろいろとしていたようですが、実際にはあととりとしての息子の接し方ではなく、不具の身を哀れんでのことだったらしいのです。時には、息子に対し、敵意にも似た感情を表していたともいわれました。しかし、ロートレックは、明るく、人前では決して愚痴を言わず、極めて背の高い人を好み、自分を冗談の種にしていました。変わり者の父親と息子は、パリのキャバレーでばったり会ったこともあるようですが、一生分かり合うことはありませんでした。歩み寄る術は、本当になかったのでしょうか・・・これこそ悲劇です。

 ある日、ロートレックはコルモンのアトリエで親しくなったゴッホとゴッホの弟テオとロートレックの子供のころの親友モーリス・ジョワイヤンと再会しました。テオはグービル画廊の支配人をしていました。また、彼のあとを受け継いだのが、ジョワイヤンです。後にジョワイヤンは、ロートレックが亡くなった後も彼の作品を管理し、彼の故郷のアルビに美術館を作りました。
 ロートレックは、その後グービル画廊へ足を向けるようになりました。1890年にグービル画廊は、浮世絵と日本の絵本(浮世絵絵本)を展示しました。ロートレックはジョワイヤンを手伝って、一緒にこの展示会の準備のために働いきました。19世紀末に日本芸術がフランスに紹介されると、印象派の画家たちが夢中になりました。ロートレックはゴッホと同じように浮世絵と巡り会い、その魅力に囚われ、熱心に研究しました。
 1891年、27歳のロートレックが「ムーラン・ルージュ」の依頼で、そのポスターを制作することは、彼自身未知の分野に挑むとともに、ポスター界の帝王ジュル・シェレへの挑戦を意味することでもありました。二年前に「ムーラン・ルージュ」開店披露のポスターをシェレが制作し、大変好評だったからです。ロートレックはシェレに教えられ、ピエール・ボナールにその技法を学んだ石版画と浮世絵研究したものを実現できる機会を迎え、一気に制作した「ムーラン・ルージュ」のポスターは大きな成功を収めました。
 

 翌年から石版画の製作に取り組み、カタログ総数の387点のほとんどを1898年までの7年間に製作していいます。大量の油彩画を制作しながら、年平均Rotorekku_003 ほぼ50点の石版画に取り組んだということだけでも、ロートレックの石版画にかけた情熱がうかがえますね。
 1894年9月ジョワイヤンはロンドンで歌麿展を開催しました。ロートレックも同行し、再び浮世絵の収集に没頭すると同時に、墨で一連のデッサンを描きました。その一つに『広重の手法による隅田川の風景』があります。この作品は、1972年の「世界の文化と現代芸術展」で盗難にあい、その後発見されていないそうです。
 ロートレックが果たした石版画の追求は、20世紀絵画の様々な方向性の前進となりました。
 ピカソが19歳の時描いた「青い部屋」は、ピカソ自身の部屋を描いたものですが、部屋の奥の壁の中央にロートレックのポスター『メイ・ミルトン』が貼られてあったそうです。泣きたくなる話ですよね。

 しかし、1899年、35歳の2月にアルコール中毒が原因の発作を起こしました。ロートレックの母親は治療のため彼を監禁することを決意。力づくででした。ロートレックが画室から出たところを拉致して、ヌイーイのサン=ジャム精神病院に入れたそうです。ロートレックは自由を奪われてしまったことに耐えられなかませんでした。正常であることを証明するために、記憶だけで『サーカス』シリーズを制作。ジョワイヤンら友人らの奔走もあって、退院にこぎつけましたが、36歳になって、再び飲酒癖が始まってしまいます。完全に健康が蝕まれてしまっていました。1901年、渾身の力で制作活動を続けていましたが、8月20日、発作の再発。ロートレックは母親の購入したマルロメの城館で、母親のそばで死にたいと望んみました。そして、9月9日に37歳で息を引き取ったのでした。37歳・・・・これからだというのに・・・。

 そんな生涯を送ってきたからこそ、何時観ても、飽きない、優しい目線と自分もこうであったらと言う望みと明るさが返って悲しく観えたりするんですね。あなたの絵は永遠に継がれていくでしょう。安心して眠ってください。

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2009年5月30日 (土)

私の好きな芸術家~アンリ・ルソー編

 色あざやかな緑のジャングルの絵画で有名なルソーは、この時代の印象派や新印象派などのどの流派にも当てはまらない独特の絵を描き続けた人です。素朴でありながら、見ている人を不思議な気分にさせる絵画を描いています。ルソーの絵画には彼の性格があふれているのです。純粋に絵をかくことを楽しみつづけたルソーは、その絵を見ている私たちまで楽しくて不思議な気持ちにさせてくれますね。そして、なんとルソーは独学で絵を描いていたのです!そんなルソーとは、一体どんな人だったのでしょうか。
 
 フランス北西部のラベルという町に中世にたてられた塔があり、Annri002 ルソーは1844年にその塔の中で生まれました。 ルソーの家は貧しく、ルソーは高等教育を受けることができませんでした。ラベルの町で数年間仕事をした後、ルソーは24歳でパリにでます。 ルソーはパリの税関で25年間働き続けます。ルソーは税関を辞めるまで「日曜画家」として絵を描き続けたのです。他の画家と違い、ルソーは独学で絵画を学びました。ルーブル美術館で許可をもらい、休みのたびに模写をくりかえし絵画を学びました。また、緑の自然もたくさん観察していました。これが後のルソーの絵画に大きく影響しているのです。 ルソーは、自分の才能を信じて独学で絵を描き続けました。初めてルソーが画家としてデビューしたのは、1885年のアンデパンダン展です。しかし、ルソーの才能は誰も認めず、ルソーの絵画を見て「この絵は誰もが子供のころに描いて喜んでいた絵だ」と笑っていたのです。 そんなことにも負けずにルソーは絵画に専念するため、1893年49歳で税関の仕事をやめてしまいます。彼を認めてくれたのは、ピカソやゴーギャンといった新しい画家たちだけでした。人を疑うことを知らず、素朴な人柄のために、ルソーは事件に巻き込まれたこともありました。 生きている間、ルソーの絵画は一部の画家たち以外に認められることはありませんでした。ルソーは世間に認められることなく、1910年にこの世を去りました。享年66歳でした。

 非常に特徴のある絵を描いたルソーは、自然が好きで緑をよく描いています。その他にもルソー独特の絵画の特徴があります。 ルソーの描く人物はとても特徴的です。ほとんどが真正面か真横を向いて、目鼻も同じように描かれています。人物の向きや顔を見たらすぐにその絵を描いたのがルソーだとわかるほどです。この描き方が批評家たちにとっては下手に見えたのでしょう。

 自然が好きだったルソーの絵画にはジャングルや緑がたくさん出てきます。ジャングルや動物を描いた作品のほとんどは、南国のジャングルを実際に見たわけではなく、熱帯植物園で見た植物を元にルソーの空想で描かれています。ルソーはこのジャングルの密林を描くにあたり、何十色もの緑色を使い分けているのです。 

 右の絵はルソーの絵画でもっとも有名な作品といってもよいでしAnnri004_2 ょう。砂漠の真ん中で眠る女性とそばにいるライオンと、空にうかぶ白い月がとても神秘的に表現されています。女性が着ている服の模様はカラフルなのに、とてもバランスがとれています。この作品は、ルソーが生きている間には評価されず、1923年にパリの配管工の作業場で発見されました。現在はニューヨーク近代美術館にあります。
 上の絵は、ルソー最後の作品です。暗いジャングルの中にいる動物と女性、そして周りを囲む不思議な花たちが印象的です。ジャングルなのに、長いすがあるというのも不思議な感じがしますよね。ルソーはこれについて「長いすに横たわって眠っている女性は、この森に運ばれて、魔法使いの音楽を聴いている夢を見ているのです」と語っています。タイトルどおり夢の中の作品なのです。ニューヨーク近代美術館にあります。 見ている人を不思議で幻想的な世界に連れて行きそうなルソーの絵画は立体感があまりありません。ですが、細かく描かれた植物やジャングルにルソーの作品への愛情を感じることができそうです。

 もっとも、ルソーは「西洋絵画」の王道を歩んだ画家ではありませんでした。40歳で画家になった彼は、批評家や画壇から無視され侮辱され、絵具代にも事欠く困窮のうちに没しました。しかし、私はルソーの絵が好き。カラリと晴れた青空のような無邪気さ、明るい静謐ににじむ抒情は、神のわざにも似ていますね。周りの評価を気にせず、ただ色彩と戯れ、描くことに喜びを見出すような純真さが、似ているのかも知れません。それにしても、ルソーの作品は、「西洋」の王道を拒否して、その結果、どこか「東洋」に近接しているところがあると思います。たとえば『サン=ニコラ河岸から見たサン=ルイ島』の冴えた白い月、『牛のいる風景』の大きな賢者のような牛に、私は禅画の趣きを感じてしまいます。

 ルソーの絵に登場する人物は大概、真正面向きか真横向きで目鼻立ちは類型化しています。また、風景には遠近感がほとんどなく、樹木や草花は葉の1枚1枚が几帳面に描かれている。このような一見稚拙に見える技法を用いながらも、彼の作品は完成度と芸術性の高いもので、いわゆる「日曜画家」の域をはるかに超えており、19世紀末から20世紀初めという時期に、キュビスムやシュルレアリスムを先取りしたとも言える独創的な絵画世界を創造しました。

ルソーの作品は、画家の生前はアポリネール、ピカソなど少数の理解者によって評価されたのみでした。ルソーの年譜に必ず登場するエピソードとして、1908年、ピカソ、アポリネールらが中心となって、パリの「洗濯船」(バトー・ラヴォワール)で「アンリ・ルソーの夕べ」という会を開いたことが挙げられます。これは、からかい半分の会だったとも言われますが、多くの画家や詩人がルソーを囲んで集まり、
彼を称える詩が披露されたのでした

 好き嫌いがはっきり分かれる作品だと思いますが、私も最近いいなあと思い出した作品が多いので、是非、絵をご覧下さい。

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2009年5月27日 (水)

私の気になる芸術家~岡本太郎編

 まず、『太陽の塔』を知らない人はいないでしょう。しかし、太郎氏の絵だけでなく、彼がどのような両親の元に生まれ育ったか、それ
が彼の人生に多大なる影響を及ぼしたであろう事を抜きに彼の絵を語る事はできません。

 彼の父親 岡本一平(1886~1948)は漫画家として知られているが、元々は藤島武二らに学び、のち東京美術学校西洋画科に入学。 在学中に帝国美術院展覧会に《トンネル横町》を出品し、入選しています 卒業後、朝日新聞社にに入社しTadanori001 て漫画を担当し従来のポンチ絵形式を一変し現代漫画を生みました 1922年と1929~32年と2回ヨーロッパを巡遊し、主な著作に《世界漫遊》・《野次喜多》があります。
 また母親 岡本かの子(1889~1939)は歌人、小説家でした。22歳の時にまだ画学生であつた一平と結婚し、翌年太郎をもうけました。 結婚生活の夫との性格的対立に10年間程苦しんだ末、仏教研究をはじめ一平の漫画家としての名声が確立すると、天台学から原始仏教に進んだ。 この年に川端康成を知り小説家になる機縁となつた。 著書は多くあり代表作に《母子叙情》、《金魚繚乱》、《生々流転》等を挙げるにとどめまIした

 その子供 岡本太郎は1911年東京に生まれ、 慶応幼稚舎、普通部をへて東京美術学校に入学。 半年後、中退。 1929年、渡欧。 リで前衛芸術運動に参加し、ソルボンヌ大学で文化人類学を学びます。1940年、帰国しました。こんな環境で生きた太郎は自著「岡本太郎の眼」の前文につぎのように書いています 『私は青春の十年以上パリですごした。そこでは、情熱と確信をもって、前衛芸術運動に身を投げこんだ。 私は世界人でありたいと思ったのだった」以下略、続いて『そんな切実な思いで日本に帰ってきた。 しかし、あきれた。 多くの日本人が日本人でないのだ』また続けて『私は官僚的に固定化して不毛になった伝統観をひっくりかえした。 たとえば、異端視されていた縄文土器の怪異な美に、忘れられた日本人のヴァイタリティ(活力)を発見したり。 伝統とは過去でない。瞬間、瞬間に現在の自分を通して創り上げてゆくものである。』と。

この言葉を読み、私が力説したいのは、当然太郎氏自身が1929年以来、10年以上もパリで過ごし、同時代のアーティストとして前衛芸術運動が、1924年アンドレ・ブルトンがシュールリアリズム宣言をした事もあり、それに影響を受けた事は想像にかたくなく、太郎の作品を理解するうえでこのシュールリアリズムにも多大な影響をうけたのをふまえてなければ、太郎氏の参加していた前衛芸術運動も理解できない
事実があります。それ故に、帰国して縄文土器 (これは多分に超現実主義的であり、或る意味ではと言うか太郎が考えたシュールリアリズムでもある)に惹かれた背景には母かの子の影響と日本回帰した事である。それを太郎が意識していたかどうかは、多分彼自身も気がついていなかったにしても大きな影響力があったと思えられます。その太郎氏が帰国してからの主題になったのは、彼自身が言っていたように座れない椅子をわざと創り続けた事、これは多分に縄文土器の形とシュールリアリズムを意識して創造したのは明解に理解できます。その象徴的なモニュメントとしての70年にTarou002 行われた大阪万博に創った “太陽の塔” ではなかったのではないでしょうか。
 
芸術は観念なのだ。 
観念はそう簡単に破壊されない。 
観念と戦うには観念が必要だ。 
太郎氏の爆発は観念なのでした。 

 観賞者、すなわち、こちら側見る側が感動的人間であることが要求されます。

 ”人生は感動的なのだから”
だから爆発は岡本太郎氏でなく、こちら側が爆発しなければならないのでしょう。 そして太郎芸術はまさにその時爆発し輝きを増すよう出来ているのです、凄いではありませんか。
 
 アメリカでは日本美術と日本人芸術家にたいする再評価のきざしTarou008 が見えます。現在、フィラデルフィア美術館で本阿弥光悦の芸術、日本のルネサンスの巨匠展の開催ニューヨーク・タイムズ(8月20日2000年)でも川崎市岡本太郎美術館をとりあげ、彼の業績とその新しい美術館の様子をつたえています。
 アート欄掲載記事より抜粋すると『日本経済と美術界の沈滞を打ち破るように川崎市岡本太郎美術館は昨年オープンした。公園の中に位置するそのモニュメンタルな美術館はすでに10万人以上の入場者を集めるほどのヒットとなっています。
... 岡本太郎は写真家、民族学者そして旺盛な作家でもありました。後年はTVにも出演し、「芸術は爆発だ!」と叫ぶTVコマーシャルはお茶の間でも有名にまりましたね。 ...
... 彼はフランスに12年間滞在し、その間にアルベルト・ジャコメッティ-とジャン・アルプと親交を結び、アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造協会)に参加し、のちにシュールリアリスト達と作品展を開いています。パリで彼は民俗・部族芸術に感動し、社会学者・人類学者であるマルセル・モースの人間を断片的に分析するのではなく全体としてとらえるべきだという「全体性」理論を学んでいます。またジョルジュ・バタイユのもとでも学んでいました。...
... ヨーロッパで学んだものと後に日本で経験したものを基にし、岡本は「対極主義」という彼独自のアイデアを発展させてゆくきます。それは抽象主義とシュールリアリズムの理念を同時に推し進めることを可能とし、前衛芸術と複雑な現実との融合を目指すものであった。岡本氏はまた、彼の作品が審美的な物体にとどまらず日常生活のなかの生の叫びとして「いかに社会に影響を与えることができるか」と言うことに興味があると言っています。...
... 岡本氏は1970年の万国博覧会のアート・ディレクターを務め、呪術Tarou004 の揺らめく炎、部族のトーテムポールそして根底に流れるモダンアートの理念を思い起こさせる「太陽の塔」を完成させたのでした。...
... 日本の美術館はそこが審美的経験の場になるような努力をしてきませんでしたが、岡本太郎美術館は違います。.この美術館のエネルギーは美術好きであるなしにかかわらず見る価値があります。

と書かれました。私は、信念のためには、 たとえ敗れるとわかっていても、おのれを貫くと言う姿勢や、出世したいと思って、上役におもねったり取り入ろうとするから、 イヤらしい人間になってしまうんだ。 それよりも、自分は出世なんかしなくっていいと思ってしまえば
、逆に魅力的な人間になってくるなど言葉を残しています。この辺にきっと私は惹かれているのでしょうね。

 太郎氏をギャグにするのは止めて欲しいですね。

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2009年5月26日 (火)

私の好きな建築家~アントニオ・ガウディ編

 1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナで建築を学んびました。学校では、歴史や経済、美学、哲学などにも関心を示したほか、ヴィオレ・ル・デュクの建築事典を友人から借りて熱心に読んでいたとも伝えられています。また、学業と並行していくつかの建築設計事務所で働き、バルセロナのシウタデラ公園やモンセラートの修道院の装飾にも関わりました。

 アルバイトをしながら苦労して学校を卒業したガウディは、内装Gaudei003_2 や装飾の仕事を手掛け始めました。そしてガウディの建築の良き理解者であると同時に、彼の生涯の友ともなるバルセロナを代表する資本家アウゼビ・グエルと出会います。 パリ万国博に出品された手袋店のショーケースを見てガウディの才能を見て取ったグエルは、彼の想像力を引き出すかのように次々と斬新な計画を持ち掛けます。 グエル邸、グエル公園、コロニア・グエル教会など、ガウディの建築にはいくつもグエルの名前が冠してあります。

 1883年、ガウディはサグラダ・ファミリア聖堂の主任建築家に任命されました。以後、彼はこの建築の設計に壮年から晩年に掛けての40年以上を費やし、しかも1917年からは他のいっさいの仕事を断ってこれに専念していいます。
  サグラダ・ファミリアの主任建築家として名声を得たガウディは、バルセロナとその近郊の多くの重要な建築物の設計を手掛ける。特に途中で建築が中止されてしまいましが、コロニア・グエル教会地下聖堂は彼の最高傑作と言われています。

 一時、精神的に困難な時期を迎えたガウディは、自殺も考えるようになりました。なんとか危機を乗り切った彼はしだいにサグラダ・ファミリアの設計に没頭するようになり、自ら閉居し些事に一切構わなくなったといいます。
 1926年6月7日夕刻、ガウディはバルセロナ市内で路面電車にはねられました。学生時代はダンディなことで有名だった彼も、まるで浮浪者のような格好だったために病院に収容されるのが遅れたといいます。そして10日午後5時、市内サンタ・クルース病院で死去すしました。 遺体はサグラダ・ファミリア聖堂に埋葬されました。
「悪魔か、天才か」。ガウディの卒業設計<大学講堂>を見たビリャール教授はこうつぶやいたといいます。

人間技ではないこの建築物は『悪魔か天子か」といわれたこともわかる気がします。画腕時に関する書籍も浮上に多くあり、読んでみたいと思います。

 19世紀末のバルセロナでは、カタルーニャ独自の文化を作ろうという運動が高まっていました。これが「モデルニスモ」と呼ばれ、フランスの「アール・ヌーボー」に並ぶ、 近代主義の思想でした。ガウディーは、このモデルニスモを代表する一人でした。 建築はいかに
才能があっても、良き理解者である施主に巡 り会わなければ、良い作品を作ることは出来ませんが、ガウディーはグルエ氏という良きパトロンを得、数々の作品を作りました。

  グエル公園は、未来の住宅地を構想して造られた60棟の分譲住宅地でしたが、 買い手が付かず、工事は途中でストップし、商業的には失敗に終わりました。住宅は二棟だけ完成し、一棟はガウディーの住宅となったので、実際 には一棟だけが売れたことになります。あまりにも先進的、あまりにも夢を 追い過ぎたので、販売価格も驚くほど高かったのかもしれません。商業的には失敗に終わりましたが、この土地は市に寄贈されグルエ公園として一般に公開されて、人々の目を楽しませてくれています。

 ガウディは"モデルニズム"と呼ばれる建築を含むカタルーニ ャの芸術工芸運動の真っ只中に生きました。この時代にヨーロッパ全体に広がった工芸運動、フランスとベルギーでは「アールヌーボー」、ドイツでは「ユーゲント・シュティール」 、スペインでは「モデルニズム」と呼ばれています。ガウディは彼の手がけた作品の多くをバルセロナ市内に発表しました。彼は今までに誰も見られなかったような大胆なデザインと斬新な形を持つ建物などを建設し、それらはその当時の注目の的でした。

 そしてサグラダ・ファミリア(カタルーニャ語:Sagrada Familia)はスペイン、バルセロナに建設中の教会。サグラダ・ファミリアとは「聖家族」を意味します。民間カトリック団体「サン・ホセ協会」が、貧しい人々のために聖家族に捧げる贖罪教会として建設を計画した
ものです。
 初代建築家フランシスコ・ビリャールが無償で設計を引き受け、 1882年3月Gaudei00419日に着工したが意見の対立から翌年に辞任。その後を引き継いで2代目建築家に任命されたのが、当時は未だ無名だったアントニ・ガウディでした。以降、ガウディは設計を一から練り直し、1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組みました。ガウディは仔細な設計図を残しておらず、大型模型や、紐と錘を用いた実験道具を使って、構造を検討したとされています。それらを含め、弟子たちがガウディの構想に基づき作成した資料などは大部分がスペイン内戦などで消失してしまっています(模型も破片になってしまった)。この為、ガウディの死後、もはや忠実にガウディの構想通りとはならないこの建築物の建造を続けるべきかという議論があったが、職人による伝承や大まかな外観のデッサンなど残されたわずかな資料を元に、時代毎の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサードはほぼ完成しているが本来は屋根がかかる予定であり、またイエスの栄光を表すメインファサードのある南側は未完成です。完成すれば、イエスの12使徒を象徴した12本の塔が立ち並びます。
 東側の生誕のファサードでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴しています。中央の門を構成する柱の土台には変わらないものの象徴として亀が彫刻され、中央の柱の土台にはりんごをくわえた蛇が彫刻されています。また、門の両脇には変化するものの象徴としてカメレオンが配置されています。中央門では、受胎告知、キリストの降誕、祝福をする天使、東方の三博士や羊飼い達などが彫られています。左門ではローマ兵による嬰児虐殺、家族のエジプトへの逃避、父ヨセフの大工道具などが彫られ、右門には母マリア、イエスの洗礼、父ヨセフの大工仕事を手伝うイエスなどが彫られています。
 西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐から磔刑、昇天までの有名な場面が彫刻されている。東側とは全く異なり、現代彫刻でイエスの受難が表現さGaudei001れており、左下の最後の晩餐から右上のイエスの埋葬まで「S」の字を逆になぞるように彫刻が配置されています。最後の晩餐→ペテロとローマ兵たち→ユダの接吻と裏切り→鞭打ちの刑→ペテロの否認→イエスの捕縛→ポンティウス・ピラトゥスと裁判→十字架を担ぐシモン→ゴルゴタの丘への道を行くイエスとイエスの顔を拭った聖布を持つヴェロニカ→イエスの脇腹を突くことになる槍を持つ騎兵ロンギヌス→賭博をするローマ兵→イエスの磔刑→イエスの埋葬と復活の象徴、そして鐘楼を渡す橋の中央に昇天するイエスが配置されています。
 最近の予測では、完成は2256年前後と言われています(ただし、完成目標はガウディ没後100周年目の2026年としている)。建設開始から長い年月が経っているため、建築と並行して修復も行われています。10ユーロを入場料兼寄付として集めており(2008年8月現在)、その収入で建造及び修復が進められています。誰もが憧れを持つ教会ですよね。

 ガウディに乾杯!!

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2009年5月24日 (日)

私の気になる作家~横尾忠則編

 決して好きなタイプの芸術家ではないのですが、なんとなく気になっていて久々に作品を観てみました。やはり凄いんです。私が始めて彼を知ったのはテレビ番組によく出ていた頃で、ボーっとしていて作品なんて描けるのかなあなんて思っていましたが、60年代、山寺修司氏視や唐十郎氏の演劇ポスターなどで一躍注目を集め、70年代のドラッグ&サイケデリックカルチャーやカウンターカルチャー全盛期に絶大な支持をTadnori005 得ました。以降、数多くの展覧会や海外からの招待出品により、確固たる世界的評価を確立します。

 その横尾さんの作品は70以上もの世界主要美術館でコレクションされています。また「開運!なんでも鑑定団」の「幻の逸品買います」コーナーで、「横尾忠則ペルソナ展」ポスターをなんと50万円で募集されましたが、マニア物の鑑定士北原輝久先生は「50万円ではとてもとても(ムリ)」と言わしめるほど、人気が高いのには驚かされました。

 1936年兵庫県生まれ。池田満寿夫と並ぶ戦後60年代が生んだ文字通りスーパースターです。幼少のころから絵や文字に興味を持ち、小学校時代には既に「漫画少年」に投稿していたそうで、高校のときに漫画家から挿絵画家へ志望を変え、通信教育を受けました。また、同じころ油絵の制作を始め、絵画展へ応募し、入賞を重ねました。太平洋画会会友に推挙されましたが、高校生であるということで断っています。高齢の両親のことを思い、美大へ進学せず就職するが半年で解雇されます。1956年カットの投稿や公募展への出品などを重ねるうち、神戸新聞宣伝技術研究所の助手として入社、翌年には神戸新聞社事業部関係のポスターを一手に引き受けるようになりました。

 1959年ナショナル宣伝研究所へ移りますが、翌年には念願の日本デザインセンターへ入社、その才能を存分に発揮し、存在が広く知られるようになります。1965年の初個展の会場で三島由紀夫と出会っています。1967年寺山修司氏主宰の天井桟敷に参加、美術を担当。このころから海外での個展など、その活躍の場が世界的なものになりました。グラフィックアーティストとして第一線で活躍を続けていた1980年、ニューヨークで見たピカソ展に衝撃を受け、画家への転向を表明、油彩の制作を本格的に開始。その後もさまざまなジャンルのアーティストとのコラボレーションを行うなど、いまなおその活動は注目を集める現在稀有な作家なのです。

 私も『ピカビア-その愛と誠実2』や『神格の象徴』『野望の中からの成功』などは好きな作品となりました。岡本太郎氏やピカソに影響を受けながらも独自の世界を作り上げ、観る者を釘付けにする魅力があります。

 また、1995年毎日芸術賞、2000年ニューヨークADC Hall of  Fame受賞。2001年紫綬褒章受章。2006年日本文化デザイン大賞受賞など多数。また小説『ぶるうらんど』では2008年度泉鏡花文学賞を受賞しました。主な作品集・著書に、『インドヘ』、『コブナ少年』、小説『ぶるうらんど』、『人工庭園』、『温泉主義』、『隠居宣言』、『Y字路』等があります。画集は高くて手がでませんが、意外と、ネットで探すといろんな作品が観られます。

 それから彼のブログにこんなことが書かれてありました。『ぼくは若い頃、随分お金に困ったことがありましたが、したくない仕事のために仕事をするとことはありませんでした。仕事がなくても「武士は食わねど高楊枝」 なんてうそぶいて威張っていました。だけどいよい
よ困った時は、必要な分だけどこからか入って(仕事)くるという法則のようなものを確信するようになったので、あせらなくなりました。まあ性格的に楽観主義者でもあったように思います。努力はお金のためではなく精神の高揚のためにするもんじゃないTadanori004でしょうか。
その結果のお金じゃないですかね。仕事に良し悪しは本来はないと思います。楽しいか面白いかでしょう。目的をお金にしたら、どうしても執着になります。稼ぐための手段になります。そうするとお金は遠のく場合があるように思います。稼ぎたい気持ちがあんまり強いとバリアが張られて、入るのも入らなくなるんじゃないでしょうかね。そんな時は楽しいことをしたり、勉強でもしてチャンスを待つしかないでしょう。』その通りかも知れないと素直な気持ちになれる自分に驚いています。でも必要なだけの仕事がどこからかくる法則というのは、何かしら才能のような物や実績がある人だから仕事のほうから来てくれる、何もない人は待ってばかりじゃいられないのも事実ですよね。

でもこういう風にお金に執着しない人生っていいと思いますね。

 『横尾さんの言葉を探していたら文章全体がよく見えてきた、ということなんでしょうね。単語の選び方を示すものや、文法がデザインの仕事の中にあって、それが、大作のもとになる言葉であった。』と感嘆する糸井さん。

観れば観るほど作者の言わんとすることが解ってくる不思議な横尾ワールドはお勧めです。

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2009年5月 4日 (月)

私の好きな作品たち~ジョルジュ・ルオー編

 異例ではありますが、私はルオーの絵も大好きです。今まで私が好んだ画家と一線を博すものがルオーにはあり、辛い時に観ると涙が溢れます。ルオーは、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家でした。後年のルオーの画風、特に黒く骨太に描かれた輪郭線には明かにステンドグラスの影響が見られます。ルオーは修業のかたわら装Ruor002 飾美術学校の夜学に通った。1890年には本格的に画家を志し、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学、ここでマティスらと知り合った。同校でルオー、マティスらの指導にあたっていたのは象徴派の巨匠、ギュスターヴ・モローでした。教師としてのモローは自己の作風や主義を生徒に押し付けることなく、ルオーとマティスという、モロー自身とは全く資質の異なる2人の巨匠の個性と才能を巧みに引き出したのです。ルオーは終生、師モローへの敬愛の念が篤く、1903年にはモローの旧居を開放したモロー美術館の初代館長となっています。ルオーは同美術館に住み込みで働いていたが、給料は安く、生活は楽ではなかったようです。
 ルオー20歳代の初期作品にはレンブラントの影響が見られ、茶系を主とした暗い色調が支配的でしたが、30歳代になり、20世紀に入ったころから、独特の骨太の輪郭線と宝石のような色彩があらわれました。画題としてはキリストを描いたもののほか、娼婦、道化、サーカス芸人など、社会の底辺にいる人々を描いたものが多く、ルオーは版画家としても20世紀のもっとも傑出した作家の一人で、1914年から開始した版画集『ミセレーレ』がよく知られていますね。

 ルオーは、いったん仕上がった自作に何年にも亘って加筆を続け、納得のいかない作品を決して世に出さない画家でした。晩年、ルオーは「未完成で、自分の死までに完成する見込みのない作品は、世に出さず、焼却する」と言い出すほど自分の絵に執着していました。
 このことが原因で1917年、画商ヴォラールはルオーと契約を結んでいたルオーの「全作品」の所有権はヴォラールにあるものとされたのですが、この契約が後に裁判沙汰の種にまでなりました。ルオーは300点以上の未完成作をヴォラールのもとから取り戻し、ボイラーの火にくべたのです。。それが彼の芸術家としての良心の表明でした。ルオーは第二次大戦後も制作を続け、1958年、パリで86年の生涯を終えました。

 ルオーは『一生を通じて、私は大人数の家族のために金の心配をしてきた! 未来への、貧乏への不安があったんだ!』 私はいつもセザンヌの言葉を繰り返していた。『“恐ろしいものだ、人生とは”。どうしたら生きていけるだろうと思ったことさえあるRouault_30 。みんなに見離されていたんだ。そして何だって起こるのがいつも遅すぎるんだ。若い頃夢見ていたオランダやフランドルのイタリアの傑作を、私がようやく見られたのは77歳になってからですよ、知っていましたか? 幸なことに、こんなへとへとの生活をしていても、不機嫌にならなかったのが私の支えだった。そのおかけで私は不運にめげずにすんだんだ……。』

 批評家たちは激しく攻撃してきました。『私が不健全な芸術家であり、“醜さの専門家”であり、ぞっとするようなグロテスクなものを毒々しく描く、と彼らは非難しました。ポルノグラフィだと非難されたことさえある…。でも、悪を描くこと、腐敗を、いかがわしい快楽を、つくりものの楽園を描くことは、ポルノグラフィだろうか? たしかに売春婦や娼婦たちは、私の作品の中で、聖人や士師やキリストと同じような地位を占めている。しかし現実はさまざまで、悲しく下劣なものであるのと同様に楽しくうきうきするものではないだろうか?
 そして汚らしい、あるいは卑しいものからでも、美は引き出せるのではないだろうか?』と・・・それくらいルオーの作品は暗いイメージがあり、黒く縁取られた作品たちは今まで目にしてこなかったものでした。
 ですが、他にキリストを崇めるように、売春婦や娼婦を崇めて書いた画家がいるでしょうか?彼は従順なクリスチャンです。神の御名により、選ばれし人なのだと私は思います。その彼が描いた作品だからこそ、出せる味わいがあるのでしょう。私はそれに気付くのが少し遅かったのかもしれません。

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2009年5月 2日 (土)

私の好きな作品たち~葛飾 北斎編

 日本画は東山魁夷氏、平山郁夫氏以外、目が行かなかったのですが、最近になって北斎の絵の素晴らしさに気付きました。

 森羅万象、何でも描き、生涯に3万点を超える作品を発表。版Hpokusai002 画のほか、肉筆画にも傑出していた。 さらに読本・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大でした。 葛飾派の祖となり、のちには、ゴッホなど西欧の印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えています。
 その功績は海外で特に評価が高く、平成11年(1999年)にはアメリカの雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人としてただ一人、ランクインしていました。浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍しました。

黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけましたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していました。
数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとしました。 読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われています。 なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候していたことがあるそうです。
 嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。そのときの様子は次のように書き残されている。

翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい Yosiwara 暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし と言吃りて死す
これは、「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ
」との意味を意味します。
辞世の句は───

人魂で 行く気散じや 夏野原
その意、「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というものであった。

まだまだ多くの作品を手掛けたかった様がありありと浮かんできます。作品について触れることにしましょう。

--北斎漫画 --
全15編。図数は4,000図とされる版本(彩色摺絵本)。北斎54歳、画号・戴斗の頃 1814年に初版あり。初めは絵手本(画学生のための絵の教本)として発表されたものでしたが、評判を呼び、職人の意匠手引書などにも用いられることとなって広く普及しました。さまざまな職業の人から道具類、ふざけた顔、妖怪、さらには遠近法まで、多岐にわたる内容が含まれていいます。

-- 百物語 --                                 Kohada001_2  
表題の「百物語」は、江戸時代に流行した数人が夜中に集まり交代 で怪談を語り、話が終わるごとに蝋燭の明かりを消していき、最後の蝋燭が消えると怪奇現象がおこると洒落たれた遊びです。現在5枚の作品が確認されている。こはだ小平二は、山東京伝の『復讐奇談安積沼』(享和3年刊)と題する5巻5冊の読本に登場する江戸の役者で、後妻のお塚とその密夫太鼓打ちの安達左九郎によって安積沼に突き落とされて殺害されますが、小平二の亡霊に悩まされ左九郎はついに非業の死を遂げるという話です。髑髏となった小平二が、蚊帳に手をかけ中を覗き込んでいる・・・筋肉の細かい描写や赤黒い炎が不気味さを増していいます。

-- 富嶽三十六景--
「冨嶽」は富士山を指し、各地から望む富士山の景観を描いています。発表当時の北斎は72歳と、晩年期に入ったときの作品。また西洋画法を取りいれ、遠近法が活用されている事、当時流行していた“ベロ藍”ことプルシャンブルーを用い て摺ったことも特色です。
 浮世絵の風景画は当時「名所絵」と呼ばれており、このシリーズの商業的成功により、名所絵が役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立したと言えます。「凱風快晴」や「山下白雨」のように、富士山を画面いっぱいに描いた作品から、「神奈川沖浪裏」や「甲州伊沢暁」のように遠景に配したものまであり、四季や地域ごとに多彩な富士山のみならず、各地での人々の営みも生き生きと描写していいます。
 当初は名前の通り、主版の36枚で終結する予定であったが、作品が人気Hokusai_003を集めたため追加で10枚が発表され、計46枚になりました。追加の10枚の作品を「裏富士」と呼びます。

--肉筆画帖--
全10図一帖からなる晩年の傑作。肉筆画(紙本着色)でありながら版元の西村屋与八から売り出された。1834~39年、前北斎為一改画狂老人卍筆。天保の大飢饉(1833- 39年)の最中、版元たちとともに休業状態に追い込まれた北斎は一計を案じ、肉筆画帖をいくつも描いて店先で売らせることで餓死を免れたと伝えられました。ただし、大飢饉の前に出された肉筆画帖発売の広告も知られています。現存は一帖のみですが、肉筆画帖は当時、複数が発売されてたそうです。

 この後、北斎はこう述べています。
『私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。』

--祭屋台天井絵--
上町祭屋台天井絵は「男浪〈おなみ〉」と「女浪〈めなみ〉」の2図からなる『怒涛図』であり、東町祭屋台天井絵は『鳳凰図』および『龍図』の2図です。 『怒涛図』の絢爛たる縁どりの意匠は北斎の下絵に基づき鴻山が描いたものですが、当時は禁制下にあったにもかかわらずキリシタンのものを髣髴とさせる1体の有翼天使像が含まれていいます。不思議ですね。

-- 八方睨み鳳凰図--
信州小布施にある曹洞宗寺院・岩松院の本堂、その大間天井に描かれた巨大な1羽の鳳凰図。嘉永元年(1848年)、無落款、伝北斎88歳から89歳にかけての作品。肉筆画(桧板着色)。 由良哲次説によると、北斎は83歳のときを初めとして4たび小布施を訪れていますが、本作は、4たび目の滞在時のおよそ1年を費やして描き込まれ、渾身の一作を仕上げた翌年、江戸に戻った北斎は齢90で亡くなったと考証されました。しかし現在では、本図が描かれたとされる嘉年元年六月に、北斎は江戸浅草で門人・本間北曜と面談し、北曜に「鬼図」(現佐野美術館蔵)を与えていた事実が確認され、北斎が89歳の老体をもって小布施を訪れ、直接描いたとする説には否定的な見解が強くなっています。
 しかしながら、21畳敷の天井一面を使って描かれた鳳凰は、畳Hokusai004 に寝転ばないと全体が見渡せないほどに大きい。伝北斎の現存する作品の中では画面最大のものです。植物油性岩絵具による画法で、中国・清から輸入した辰砂・孔雀石・鶏冠石といった高価な鉱石をふんだんに使い、その費用は金150両と記録される。加えて金箔4,400枚を用いて表現された極彩色の瑞獣は、その鮮やかな色彩と光沢を塗り替え等の修復をされることもなく今日に伝えられているのです。素晴らしい!!

 映画『北斎漫画』はご存知でしたか?私は知りませんでした。富士映画(のち、松竹富士)による昭和56年(1981年)製作の日本映画で八代静一原作の戯曲『北斎漫画』を映画化した作品。春画の大家としても知られる北斎とその娘・お栄(応為)の生涯と、刎頸の友・滝沢馬琴との交流を描いています。監督・脚本:新道兼人死。演者:緒形拳(鉄蔵〈葛飾北斎〉役)、西田敏行(左七〈曲亭馬琴〉役)、田中裕子(お栄〈北斎の娘・応為〉役)、樋口可南子(お直、春画「蛸と海女」の海女のモデル役)でした。

--吉原妓楼の図--
吉原の楼閣の1階の様子を、遠近法を用いながら5枚続のワイド画面に描いたもの。座敷の奥には楼主が座り、神棚には唐獅子と達磨がかざってあます。花魁や新造、禿たちが部屋を行き来している様がよく解ります。火の用心の張り紙のある柱の側では、竈に火がおこされ料理人たちが食事の用意をし、座敷の中央には、膳の用意をする女性たちの様子も描かれています。

 美術館で見るのは難しそうなのでネットで沢山保存しようと思います。

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2009年4月21日 (火)

私の好きな作品たち~アントニオ・ビバルディ

 有名な「四季」の作曲者、アントニオ・ビバルディは、大作曲家であるとともにバイオリンの名手としても名高く、バロック時代後期の演奏様式や演奏技術にも改革と発展向上をもたらしました。

 1720年代初め頃は、マントバにあるヘッセン = ダルムシュタットの領主だったフィリップ公の楽長を務め、その間2曲のオラトリオなど女子音楽学校のための作曲を続け、またベネチアやフィレンツェなど各地でオペラを上演しました。
 1723年同校は、各地で名声を博したビバルディを引き留めるために、彼がベネチアにいる間は、最低月2回演奏会を行うよう契約しました。死亡年は 1743年7月と信じられていましたが、1741年7月28日に ビーンの貧民墓地へ埋葬されたという記録が発見され、現在ではその7月下旬に旅行先のビーンで客死したものと見なされています。

 イタリアのヴェネツィアに生まれ、オーストリアのウィーンで没しました。サン・マルコ大聖堂付きオーケストラの一員であった、理髪師でヴァイオリニストの父親からヴァイオリンを学び、10歳より教会付属の学校に入り、25歳で司祭に叙階されます。赤毛であったことから「赤毛の司祭」と呼ばれるようになったそうです。祭になると同時にヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院 (Ospedale della Pieta)でヴァイオリンを教えはじめ、2年後には作曲と合奏を教えるようになります。その後多くの曲を作り、演奏旅行で各地を回りました。
彼の残した作品は、

・500を超える協奏曲(ヴィヴァルディは、写譜屋が写譜するよりも早く、協奏曲の全パートを作曲できると豪語していたといわれている)
・52のオペラ(現在見つかっているオペラの数。ヴィヴァルディ自身は94のオペラを作ったと書簡に記している)                            Sasakura_work06s       
・73のソナタ
・室内楽曲
・シンフォニア
・オラトリオ(現在自筆譜が残っているのは勝利のユディータのみ)
・宗教音楽(モテットなど)
・カンタータ

など多岐に渡ります。

 実はヴィヴァルディは、「四季」という曲は作っていません。彼は、協奏曲をたくさん作りました。題名はついていないものも多く、「○○協奏曲○○調作品○○番」などと呼ばれます。協奏曲を1曲しか作っていなければ、「パッヘルベルのカノン」のように、「ヴィヴァルディの協奏曲」という曲名になるのでしょうが、「ヴィヴァルディの協奏曲」は何百とあって、それだけでは区別がつかないので、このとっつきにくい呼び方をされます。中には、わかりやすい標題がついているものもあって、「喜び」「狩」「恋人」...こういうのは記憶に残りやすいですね。そういう中に「春」「夏」「秋」「冬」という標題の曲があります。つまり、それぞれが、独立した曲なのです。

 協奏曲「春」、協奏曲「夏」、協奏曲「秋」、協奏曲「冬」を、連続して演奏したり、1枚のレコードにまとめて録音したりするときに、「四季」と呼ばれたのが、定着しました。「四季」でひとつの協奏曲、ではなく、「協奏曲集」です。とはいうものの、最初に楽譜を出版するときに、この4つは、楽譜集の始めの4曲として、つながって印刷されていたので、作曲者自身、4曲の間に関連性はあると見なしていたようです。あなたは、どの四季がお好きですか?私は「冬」です。スターダストが見えるくらいのキーンとした寒さが身を引き締め、スターダストが見えるくらいのキーンとした寒さが身を引き締め、そんな中、暖を囲みながら聞いている「冬」はたまりません。私はバロック音楽が好きで、バッハからこのバロック後期とよばれたヴィヴァルディの曲は痛んだ心や悲しみを癒してくれます。

 「協奏曲」とは、合奏パートとソロ楽器による編成の音楽です。ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲『皇帝』」など、有名な曲がたくさんあります。オーケストラをバックにアリアを歌うプリマドンナの役を、1台のピアノとかヴァイオリンとかが務めている、と例えれば、なんとなくイメージがわくでしょうか。

「四季」でその役を務めているのは、1台のヴァイオリンです。ヴィヴァルディはパッヘルベル同様、バッハ以前の古い時代の人です。この時代の協奏曲は、合奏パートもそれほど大きくはありません。曲の規模も、後世の大曲に比べたらかわいいものです。

普通、協奏曲は、「速い楽章」「ゆっくりとした楽章」「速い楽章」の3つの楽章から出来ています(3番目が「もっと速い楽章」になることも、多くあります)。この構成は、後の時代の大作でも受け継がれています。つまり、「春」だけで、3つの曲から出来ていて、それは他の季節も同様です。有名な「春」の最初のメロディは、言うまでもなく「第1楽章」の最初ですから、テンポも速く、春の到来を宣言するような勢いを持っています。続く「第2楽章」は、うららかな日差しの中でまどろむ羊飼いを表現し、本当に気持ちよい眠りに誘われ
そうなゆったりとしたテンポの音楽です。「第3楽章」は、第1楽章よりもっとアップテンポで、春の訪れを喜び踊る人々の音楽。このイメージはヴィヴァルディ自身が楽譜の中に書いているものです。1曲の協奏曲の中には、様々な音のドラマがあPc028_2 ります。聴き終わった時、ひとつの物語を見終えた、読み終えたような充実感がありますよね。

 クラッシックはどうも・・・という方でも絶対何処かで聞いているんで すよね。聞いていて気持ちがいい、だからなのか病院のBGMはクラッシックが多いですね。待ち時間が長いとイライラしますが、クラッシックが流れていると、ふと耳を傾けたり、知っている曲だと一緒
にハミングしたり・・・眠っちゃう人のほうが多いですけど・・・ただで聞けるのに勿体無いと私なんか思ってしまうんですがね・・・

 ちなみにバロックとは、ポルトガル語 barocco (いびつな真珠)が由来であるとされ、過剰な装飾を持つ建築を批判するための用語として18世紀に登場したそうです。転じて、17世紀から18世紀までの芸術一般におけるある種の様式を指す語として定着しました。

 過剰な装飾のない音楽、これが音を楽しむ原点なんですね。

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2009年4月19日 (日)

私の好きな作品たち~メンデルスゾーン編

 誰もが知っているメンデルスゾーン。あまりにも有名で、お話になりませんね。では彼の違った一面も・・・

多数の言語を自在に操り、青年になる頃にはドイツ語のみならず、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語までも話していました。音楽のみならず詩や絵(水彩画)にも興味を持ち、いくつかの作品が残っているそうです。特に水彩画に関しては趣味として楽しんでいたのにも関わらず、本職の画家顔負けの実力を持っていました。
 作曲以外の彼の最も重要な業績はまず、それまで独立していなかった指揮者という職務を独立させ、自らも極めて有能な指揮者として率先して範を示し、弟子たちに指揮法を教え、現在にまで至る指揮法を確立した創始者であるという点です。

 同様に極めて重要な業績として、その当時すでに忘れ去られMurillo01 ていた大バッハの楽譜を自ら発掘してその価値を見抜き、同様に演奏困難などの理由で早くも忘れられつつあったベートーヴェンの作品をもこよなく愛し、自分の作品だけでなく彼らの作品を好んで積極的にパイプオルガン、ピアノないしオーケストラの曲目として取り上げ続け、貴族にも大衆にも大バッハやベートーヴェンの価値を広く知らしめた点が挙げられる。また、友人のシューマンが発見したシューベルトの遺作、交響曲ハ長調D944(第8番『ザ・グレート』)を初演したのもメンデルスゾーンでした。

 さらに、自らがオルガニスト、ピアニストあるいは指揮者となり、それまで古い楽曲を演奏する習慣のなかった音楽界に、古くても価値¥ある作品を敬意を払って演奏するという音楽作法を確立し、ピアニストやオーケストラの演奏活動を大いに盛んにしたことも、メンデルスゾーンの大きな功績と言えます。

 メンデルスゾーン家は1812年以降ベルリンに居を構えますが、フェリックスも含めてユダヤ人としていわれなき迫害を受けることが多く、それは改宗後も大して変わりませんでした。にも関わらず、フェリックスの業績・影響力は極めて強く、終生ドイツ音楽界の重鎮として君臨し続けました。音楽への情熱が彼をかりたてたのか、差別など彼にすれば些細な事だったのかもしれません。多くの人々に音楽を聞かせたかったのでしょう。あの『結婚行進曲』もメンデルスゾーンの曲だと知っていましたか?身近な存在に感じませんか?

 デュッセルドルフの音楽祭の監督を経て、メンデルスゾーンは、1835年にライプツィヒのゲヴァントハウス交響楽団の音楽監督に就任します。交響楽団は良く訓練されており、幼友達のフェルディナンド・ダーヴィッドをコンチェルトマイスターに迎え、メンデルスゾーンと
って絶好の音楽環境が作られる。 2年後の幸福な結婚も加わり、メンデルスゾーンの音楽活動は実り豊かな時期を迎える。メンデルスゾーンは押しも押されぬ名声を得ることになりました。
 ところが、ベルリンとの関係は終わったわけではありませんでした。1840年になると、メンデルスゾーンの国際的名声に触発されたプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、メンデルスゾーンをベルリンに招聘しました。メンデルスゾーンは、ライプツィヒの仕事をしばし中断し、ベルリンに赴き、任務につくことになります。しかし、この話は、紆余曲折を経、1845年になって、メンデルスゾーンはベルリンに残ることを最終的に拒否することになります。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の招請は、音楽を愛好するというよりは、名声の
上がったメンデルスゾーンを自分のもとに置きたいという気持ちから出たもので、結局メンデルスゾーンの活動の場を何等提供しなかったためでした。このプロイセンの王室との問題の心労もあって、この頃からメンデルスゾーンは体の不調を訴えるようになります。そのメンデルスゾーンに決定的なショックを与えたのが1847年5月の姉ファニーの突然の死でした。メンデルスゾーンの四つ年長の姉ファニーも同様に音楽の才能があり、音楽の道に進みたがっていたにもかかわらず、メンデルスゾーン本人も含め、家族の皆は、女性が主婦以外の道を進むことは考えられないことだと思っていました。当時の社会の意識が偲ばれます。プの音楽家にはなりませんでしたが、ファニーはメンデルスゾーンの終生の良き理解者であり、精神的支えであり、また、自らも多くの作品を残しています。
 ファニーを追いかけるように、メンデルスゾーンも、同じ年の11月にライプツィヒで亡くなりました。メンデルスゾーンの遺体はベルリンに運ばれ、メンデルスゾーン家の墓地に葬られました。今、訪れてみると、姉ファニーの墓と並んでメンデルスゾーンの墓があります。もっとも、二人とも墓石は新しく、メンデルスゾーンの墓は、単純な白い十字架でした。

 メンデルスゾーンは、生前は高い名声を誇っていましたが、その後のドイツでの評価はさほどでもありませんでした。調べてみると、これには、リヒャルト・ワーグナーの反ユダヤ宣伝、反メンデルスゾーン宣伝が大きく影響していると思われます。

 ワーグナーは、メンデルスゾーンよりいくつか年が若いのですが、神童のメンTana01デルスゾーンと違い、年をとるまで芽が出ませんでした。
 そこで、メンデルスゾーンに近づき、自分が世に出るのを助けて もらおうとしましたが、同時にメンデルスゾーンに激しい嫉妬を感じていたようです。ワーグナーは、メンデルスゾーンが亡くなるとともに反メンデルスゾーン宣伝を始め、妻のコジマとともに胸糞の悪くなるような反ユダヤ宣伝を展開しました。ワーグナーの品性がうかがわれますが、これが、後のナチスの反ユダヤ宣伝につながって行くのは、火を見るよりも明らかです。

 神童と呼ばれ、モーツアルトにも劣らない才能っを持った彼も周知のように、ユダヤの家系です。でも並の家系ではありませんでした。メンデルスゾーン家は、プロイセンのユダヤ人の家系の中でも最も名家で、最も裕福でした。そして、ナチスの抑圧に遭う1930年代まで、多くの銀行家、科学者、芸術家を生んでいます。

 メンデルスゾーンの親の世代には、ユダヤ人の解放は更に進み、それとともに当時のドイツ市民社会の発展を象徴するサロンを主催する女性も、メンデルスゾーンの親戚の中から沢山輩出しました。メンデルスゾーンの父親は銀行家でしたが、お金があるだけではユダヤ人の社会的解放は達成できず、教養が大切なことを骨に沁みて理解していました。そのため、子供の全人的教育に極めて熱心で、作曲や指揮、ピアノ演奏に神童と評判の高い息子にも、モーツァルトやパガニーニのように音楽に特化した英才教育を強制することはありませんでした。
 メンデルスゾーンは、ギリシャ語や絵画にも才能を発揮し、ベルリン大学ではフランス革命史を受講し、大哲学者ヘーゲルの美学の講義も受けています。特筆すべきは、メンデルスゾーンは、12歳で初めてゲーテに会って以来、ゲーテが亡くなるまで、ずっとその恩顧を得たことです。

 そして、全部で48曲残された「無言歌」は、当時のドイツ・ロマン派音楽の中で作曲されたピアノの性格的小品集の中でも、最もよく知られた傑作の1つとなっています。これらの曲は、曲想が優美で温かく、技巧的にも難しくないことから、発表の当初から多くの人々に愛されてきました。ピアノ独奏用の「性格的小品集」は、シューベルトの『4つの即興曲D899』が発端であると言われていますが、このメンデルスゾーンの『無言歌集』やシューマンの初期のピアノ作品群の影響を受けて、多くの作曲家たちがこの分野で種々の名作を書いてきました。

 全48曲にはそれぞれ表題がありますが、メンデルスゾーンが自Murillo05 分でつけた表題は5曲しかありません(注:この記事ではこれらは『』の括弧を使用します。それ以外の曲名は《》の括弧を使用する)。3曲の『ヴェネツィアの舟歌』(作品19-6, 30-6, 62-5)と『デュエット』
(作品38-6)、『民謡』(作品53-5)は作曲者のオリジナルの題名であります。それ以外の曲名は大半は楽譜出版社などが曲想からつけたものがほとんどですが、楽譜の冒頭にある発想標語からついた標題もあります。最も有名な《春の歌》(作品62-6)はその一例であり、他に《葬送行進曲》(作品62-3)、《紡ぎ歌》、(作品67-4)、《子守歌》(作品67-6)も楽譜の冒頭の発想標語からついた題名です。この4曲については、作曲者オリジナルの5曲と同様にみなして差し支えないでしょう。それ以外の曲名は、楽譜の版によってまちまちな場合もあり、その他の39曲の題名について、以下の一覧表では日本で最も普及したものを紹介すると、
   ~第1巻~
1.ホ長調、アンダンテ・コン・モート 《甘い思い出》 (1831年作曲)
2.イ短調、アンダンテ・エスプレッシーヴォ 《後悔》 (1832年作曲)
3.イ長調、モルト・アレグロ・エ・ヴィヴァーチェ 《狩の歌》 (1832年作曲)
4.イ長調、モデラート 《ないしょの話》 (1829年9月14日作曲) 作曲年代が確認できる最も早い時期の曲。《信頼》という表題で呼ばれることもある。
5.嬰ヘ短調、ピアノ・アジタート 《不安》 (1831年作曲) 《眠れぬままに》と呼ばれることもある。
6.ト短調、アンダンテ・ソステヌート 『ヴェネツィアの舟歌 第1』 (1830年10月16日作曲) 『ヴェネツィアの舟歌』と題した3曲は、いずれもメンデルスゾーンが自分でつけた表題である。これはその第1番に当たる。

  以降第8巻まであり。このように短調と長調が程よく混ざり合っているところが私が彼の曲を好きな理由でもあります。

天才にも色々あるなと感じた瞬間でした。

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2009年4月18日 (土)

私の好きな作品たち~モディリアーニ

 私が大学生の頃、モディリアーニの絵画が好きな女の子がいて、その頃私はゴッホや東山魁夷氏の絵に夢中になっていたので、『この絵のどこに惹かれるのかしら・・・』と思っていましたが、彼女の部屋を訪ねて、何度もその絵を見ているうちに私も不思議な事に、気になり始めました。

 モディリアーニはイタリアベニスアカデミーを卒業後の1906年、Mojiriani007 パリへ移住しました。1907年と1912年にはサロン・ドートンヌ、1908年、1910年、1911年の各年にはアンデパンダン展に出品しています。最初は彫刻家を志し、1915年頃まではアフリカ、オセアニア、アジア、中世ヨーロッパなどの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていました。しかし、資金不足と粉塵による健康の悪化などの理由により断念せざるを得ませんでした。でも、その間に残した一連のスケッチからは、後の作品の特徴であるフォルムの単純化の過程を知ることができます。また、絵画の代表作の大部分は1916年から1919年の間に集中して制作されています。モディリアーニの絵画のほとんど は油彩の肖像画であり(風景画はわずか3点)、顔と首が異様に長いプロポーションで目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっていますが、これは自身の彫刻の影響が指摘されていまあす。なお、初期にはピカソの「青の時代」やポール・セザンヌの影響を受けた絵を制作しています。
 
 1917年にはベルト・ヴァイル画廊にて、生前唯一の個展を開催しましたが、裸婦画を出展したのが元で大騒ぎとなり、一日で裸婦画を撤去する事態となりました。同じ年、後に妻となり、裸婦像などの絵画モデルを務めた画学生ジャンヌ・エビュテルヌと知り合っています。
 彼女を内妻とし、1918年に長女ジャンヌをもうけるも、貧困と持病の肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生の末、1920年1月24日に結核性 髄膜炎により35歳で亡くなりました。。彼の二人目の子を妊娠していた妻のジャンヌもアメデオの死の2日後、後を追って自宅から飛び降り自殺・・・この時妊娠9ヶ月だったといいます。ジャンヌの遺族の反対もあり、二人の遺体は10年後になってようやくパリのペール・ラシェーズ墓地に一緒に埋葬されました。1歳2ヶ月で両親に先立たれたモディリアーニの娘ジャンヌ(1918-984)はモディリアーニの姉に引き取られ、フィレンツェで育てられたが、はじめは両親をめぐる事実を知らされていありませんでした。後年、自らも美術に携わり、ドイツ表現主義やエコール・ド・パリ、ゴッホなどの研究を経て、父モディリアーニの研究にも従事したそうです。

 20世紀を代表するエコール・ド・パリの画家。エジプトやアフリ カなどの原始美術と故郷イタリアに息衝くシエナ派など古典芸術の厳格性を融合させ、縦に引き伸ばされたかのような面長の顔とアーモンド形の瞳による独自の人物画を確立。類稀な造形性と抒情的で画家自身と同調するかのような独特な人物表現は以降の現代芸術に多大な影響を与えました。友人・知人、恋人などを描いた肖像画や裸婦像、少年・少女など子供を描いた作品がとりわけ有名ですが、数点の風景画も残されています。また彼は驚異的な集中力で作品を一気に仕上げる(早描き)ことが知られており、モデルを前に4時間足らずで作品を仕上げたとの逸話も残されていっます。モディリアーニの代表作『背中を見せて横たわる裸婦』。
 ビュテルヌと出会い、画家として最も精力的に活動をおこなった時期 である191Mojiriani_0037年に手がけられた作品であり、モディリアーニの代表的な婦作品はこの頃に集中して制作されていいます。非常にしなやかで官能的な肢体の曲線を露わにソファーに横たわる裸婦像はモディリアーニの裸婦の典型であすが、画家は同時期に、おそらくスペイン・バロック絵画の巨匠ディエゴ・ベラスケスによる傑作『鏡を見るヴィーナス(ロークビーのヴィーナス)』や、新古典主義の巨匠アングルの傑作『グランド・オダリスク』の構図に基づいた裸婦作品『右肩越しに見る裸婦』を手がけており、古典的な美と、『腕を広げて横たわる裸婦(赤い裸婦、クッションの上の裸婦)』などで示された古典的圧から開放された奔放な(女性)美との融合が見られる本作は、モディリアーニの裸婦作品の中でも特に注目すべき点のひとつでです。また寝そべりながらも、画家の特徴的な表現のひとつであるアーモンド型の瞳の視線は、観者に向けられているのではなく、モデルと対峙することによる画家の自己反映とも解釈することができますね。さらに本作の暖色を多用した怠惰的で退廃的な色彩表現や、画面左上から右下へと流れる裸婦の大胆な姿態や画面展開も、モディリアーニ独特の美的世界観の反映であり、本作の大きな見所です。

 彼の絵のモデルは殆どが首を傾げていますね。それが観者に注がれているのではなく、自己反映とするならあば、私にはそれが、『何故?』とか『可愛そう』と言いたげな顔に見えてしまいます。慈愛に満ちたようにも思えます。イエス・キリストが十字架にはりつけられてうな垂れている姿まで想像してしまうのです。
  
 私ももっと彼を知る為に『モディリアーニの恋人』や『モディリアーニ モンパルナスの伝説』を読んでみようかと思っています。

 モディリアーニの肖像画は時に私の悲しみと共に涙を流してくれるそんな風に絵画を鑑賞するのは私の悪い癖・・・です。

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2009年3月16日 (月)

私の好きな画家~フィンセント・ファン・ゴッホ

 今までも私の記事に挿入画として紹介してきましたが、私は日本の東山魁夷氏と同じくらい好きな画家です。

 ゴッホの作品は、初期の段階を除けば、印象派を出発点としています。また、日本の浮世絵の特徴である明快な色使い、影の無い世界にも大きな影響Gohho004 を受けました。即ち、戸外での制作、明るい画面、筆触分割等々といった特色なのです。

ところが、印象派の画家達の筆触が視覚混合を狙う為比較的細かなものであるのに対し、ゴッホは時代が下ると共に筆触は長く伸び、うねり、表現主義的。また印象派の視覚分割に於ける色彩の選択が科学的な知識を基本とするのに対し、ゴッホのそれは主観的・また時に象徴主義的です。強い輪郭線、色面による構成、人物の戯画的なデフォルメ等も、印象派とは異質のものだといえるでしょう。
 また、印象派は自然主義を基本とするが、ゴッホの絵画は単なる現象の写しを離れ、しばしば象徴主義的です。この傾向は特に後期に著く、印象派が太陽の照らす戸外を描くのに対し、彼は夜をも描きます。また、憂鬱な人間と社会、更には神的な世界をも描きましたが、この態度は印象派と決定的に異なるものとなりました。

 ゴッホは画家としての活動が約10年間と短く、絶対数としては油彩900点、素描1100点があると言われていますが、傑作とされる作品はほとんどが晩年の約2年半(1888年2月から1890年7月)に制作されたものであり、知名度に比して(傑作・良作とされる)作品数は少ないのです。

 生きているうちに何故絶賛を浴びなかったかは彼の異常な言動が世間から見れば普通でないと思わせ、彼は色々な悩みを弟に手紙で記しています。絶望に淵にありながら晩年の2年半描き続けたゴッホの心情を思うと私は苦しみさえ覚えます。

 いろいろな経緯を経て、作品の取引においては高額となるました。代表作でもある『医師ガシェの肖像』は、1990年5月15日にニューヨークのクリスティーズでの競売で、8250万ドル(当時のレートで約124億5000万円)で、当時大昭和製紙名誉会長の齊藤了英に競り落とされました(齊藤は数日後にルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」も7810万ドルで落札している)。これらの作品については齊藤の「死んだら棺おけに一緒に入れて焼いてくれ」という旨の発言が報道され(1991年5年1日日本経済新聞)、美術愛好家からの非難の声もありました。結局、齊藤の所蔵中は一般公開されることなく、齊藤の死後は銀行の担保となり、結局1997年から1999年頃にかけて海外に売却されました。

 『医師ガシェの肖像』は約100億円でアメリカ人コレクターに売却されたとされるが、現在の所蔵者は不明です。『医師ガシェの肖像』は弟テオの未亡人ヨハンナによって、1898年頃、デンマークのコレクターにわずか300フランで売却されたと伝えられていますが、芸術作品の投資(投機)商品としての側面がクローズアップされたとも言えるでしょう。
 
 大変な読書家だったゴッホは、ゾラ、ディケンズ、ヴィクトル・ユゴーなどの作家についても、攻撃的写実主義によって貧困層の受難を描写する点で、自分と共通点があると考えていました。そしてミレーは、ゴッホが最も賞賛した画家でした。宗教的な主題を直接描く
のではなく、働く農民に尊厳を与えるその手法は、聖書の世界に深く関わっていると考えたからです。1886年、ゴッホはパリの弟テオのところに同居した。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどを目の当たりにした。印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に生き生きした色彩へと変貌しました。

 1888年南フランスへ行ってからは、作品は外見以上に深いものを主題として求め続け、ゴッホの心情を表現するようになり、ますます個性的になっていきました。
 1890年7月、オヴェールで自殺。生前に売れた絵は1点だけだったが、その頃には既に、画家仲間から作品は知られるようになり、評価され始めた時期でした。パリに出ると特に、社会主義やアナキズムの賛同者が画家仲間でも多くいGohho24 て、ゴッホは画家が協同制作するコミューンを夢見たのですが・・・

 1890年6月、姉に宛てた手紙に以下のように書いています。「ぼくはいま、村の教会のかなり大きな作品を手掛けています。この建物は深く澄んだ、純粋なコバルド・ブルーの空にくらべると紫色がかって見えます。焼絵ガラスのはまった窓は群青のしみのようです。屋根は紫色で、一部はオレンジ色です。前景にはちょっと緑がかった花が咲き、日のあたっている砂地はバラ色です。この作品はヌエネンで描いた古い塔と墓地の習作とほとんど同じですが、この作品では、色彩はもっと表現力に富み、もっと豪華になっています」・・・この絵は、『オーヴェールの聖堂』でした。素晴らしい絵です。ゴッホは緑内症だったとも言われています。それが見えるものも色をこんな風に描いたのかもしれません。

 あのアルルの時代 、南フランス アルルにいた頃。画家たちの 共同生活をしようと「黄色い家」を借りましたが、実際に来てくれたのはゴーギャンだけでした。「耳切り事件」のあと、悪夢と幻覚はゴッホから離れることはなかっのです。

 サン・レミ時代は サン・レミのカトリック精神療養院「サン・ポール」に入院していた時期。発作持以外は安定していたので「制作室」で制作していました。

 ゴッホは一時期、ブリュッセルの副音伝道学校へ入っていました。しかし、ゴッホの過剰な信仰は、学校側に警戒され、信仰さえ自由のきかない時時代だったのです。彼がどれほど救済を求めていたことか・・・かれはプロテスタントとして貧しい市民の力になりたかっただけなのに・・・

 「ゴッホが好きです」というと誰もが「情熱的なんだね」と言います。彼の深い悲しみを何故彼の絵から想像できないのかと、私は残念でたまりません。ゴッホの優しさが自分を亡き者にしたのです。それを踏まえて絵を鑑賞したいものです。

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2008年10月14日 (火)

私の好きな作品たち~印象派後期

9世紀末の20年間に印象派(→ 印象主義)につづいてフランスを中心Gohho01 に活躍した画家たちの総称。印象派から出発しながらも、そこからはなれて個性的な画風を確立しました。フランスのセザンヌ、ゴーギャン、ロートレック、スーラ、オランダのゴッホらがふくまれます。後期印象派という言葉は、1910年ロンドンでひらかれた「マネと後期印象派展」ではじめてつかわれました。後期印象派の画家たちは、印象主義が重んじた自然主義的な正確さや光の描写には反発する姿勢をしめし、色彩と形態を自由に表現しています。

ゴーギャン
 1886~91年、ブルターニュ地方のひなびた小村ポンタベンに滞在 し(この間、87~88年にパナマとマルチニーク島へ旅行)、そこで新しい表現様式の実験をこころみる画家グループの中心的存在となって、ポンタベン派を形成した。エミール・ベルナールの影響で、印象主義を否定し、たんなる自然の再現ではなく、そこに内面的・理念的世界をうちだして、象徴的内容を表現する総合主義を展開しました。

セザンヌ
 セザンヌは、自然を模倣することよりも主題の構造的な特質をえがくことを追求した。「松と岩」(1895~98)などの静物や風景では、立体の量感を強調する方法をとりました。幾何学的な形態と自然に固有な多彩な光を強調して、キュビスムを予告した。ゴーギャンは、「緑のキリスト」(1889)などで、原始芸術の大胆な絵画性をとりいれて、平面的で装飾的なスタイルをつくりあげました。その作品は、フォービスムを主導したマティスに影響をあたえます。

ゴッホ
 初め伝道師を志したが、27歳で画家となる。以後10年間、精力的に活動した。表現主義を予告する独自の世界を築く。
 ゴッホは、鮮烈でときには毒々しいと思えるほどの色彩と力強い筆触で、内的世界と情念を激情的に表出した。その主観的な表現スタイルは『月夜』1889)に代表Lautrec01 され、表現主義の前触れとなりました。

スーラ
 点描を創出した。最後の第8回印象派展に出品した「グランド・ジャット島の日曜日の午後」で「新印象主義」の語を呈されることとなりました。。スーラは、科学的な色彩理論を厳密に適用して、キャンバス全体を純色の点描(→ 点描主義)でみたします。はなれて見ると、純色の点はまざりあって色彩と影をなし、静かな詩情あふれる作品とななりました。代表作に『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(1884~86)がある。ロートレックは、浮世絵の線描構成に強く影響された。「ムーラン・ルージュにて」(1892)などのパリの夜の歓楽街や乗馬姿をこのんでえがいた。色刷り石版画もよく知られています。

ロートレック
 南仏アルビのトゥルーズ伯爵家に生まれ、幼少の頃からデッサンを得意とし、1882年、パリに出てモンマルトルの画塾で学びました。ポスターの先駆者。

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2008年10月13日 (月)

私の好きな作品たち~印象派

19世紀、光の画家と呼ばれた巨匠達の明るく色彩に富んだ作品が生み出され印象派と呼ばれるようになりましえた。

クロードモネ
 1840年-1926年。フランス生まれの、印象派を代表する画家。『印象派、日の出』(写真)を発表し“光の画家”と呼ばれ、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたって追求しました。幼少時より絵を描きはじめ、1860年頃、パリのアカデミー・シュイスに入学。“光の画家”の異名通り、彼は同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作しました。『積みわら』『ポプラ並木』などがそれ Runoaru で、その中でも最も知られるのが『睡蓮』。

ルノアール
 1841年-1919年。フランスの印象派の画家。人物画から風景画、風俗画や静物画など幅広いジャンルを描いています。幼少時は、13歳で磁器の絵付職人となりますが、産業革命、機械化の影響で職人としての仕事を失ったことで、画家を目指すように。
1862年にはエコール・デ・ボザールに入学。またグレールのアトリエに入り、モネ、バジールらと顔をあわせることに。主な作品は『ラ・グルヌイエール』『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』など。

マネ
 1832年-1883年。フランス司法省の高級官僚を父に持つブルジョワの家庭に生まれ育ち、画家になることを決意しトマ・クテュールの画塾で学びました。。 1860年代後半には印象派の中心的人物に。 表作は『草上の昼食』『オランピア』などがあり、どちらも裸の娼婦が物議を醸した問題作だった。また、画家仲間のみならず詩人・作家らとの交流もあり、近代詩人の祖であるシャルル・ボードレール、エミール・ゾラらとの親交で知られています。

バジール
 841年-1870年。戦争に志願し、29歳で戦死を遂げるという、当時の画家としては珍しい生涯を送りました。早い時期に人生を終えたため、当時は名を挙げることもなかったが『家族の集い』など後に高い評価に繋がる作品を遺しました。

ドガ
 1834年-1917年。パリの銀行家の息子として生まれ、1862年にマネと知り合ってからは、カフェ・ゲルボワで他の画家たちと交友を重ねます。1874年以来、印象派展にたびたび出品。油彩画のほかパステルなども手がけ、踊り子などを題材とした彫刻も残しています。

ゾラ
 840年-1902年。フランスの小説家。自然主義文学を提唱し、代表的な作家として活躍した。代表作に全20作からなる「ルーゴン・マッカール叢書(そうしょ)」中の『ジェルミナール(芽月)』『居酒屋』『ナナ』などがある。美術批評を手がけ、マネらを擁護したことでも知られる。

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2008年10月10日 (金)

私の好きな俳優たち~米倉涼子編

 今や松本清張シリーズの顔となった涼子さん。いろんなジャンルで賞を総なめしていますね。美人でスタイルがいいのに嫌味が無い、さっぱりとした性格が同性の私でも好感が持てるところでしょうか。

 めきめきと頭角を現し、淋しい役から悪役までこなせる女優さんになられたことは見ている私達をハッとさせてくれます。

 涼子さんは5歳から15年間、牧阿佐美バレエ団などでクラシックバレエを続けていました。1992年8月、第6回全日本国民的美少女コンテストの審査員特別賞を受賞し、1993年にモデルとしてデビューしました。ファッション雑誌『CanCam』などRyouko03 で活動した時期もありました。

 1999年6月30日、「女優宣言」を発表。以後は女優としてテレビドラマなどで活動し始めます。

デビュー当初はいわゆるトレンディードラマが中心でしたが、「米倉と松本清張の3部作」と位置づけられた「黒革の手帖」で演じた悪女役が見事にはまり、以後悪女キャラを演じることが多くなったわけです。2006年秋には本人念願の舞台も公演しました。

 私は『ラブ・レボリューション』で初めて観たのですが、キュートでパンツ姿が似合うNO.1ではないかと思ったほどです。江角マキコさんが主役だと思っていたのですがいつのまにかまりちゃん役の涼子さんばかり気になり出していました。

こんな役がお似合いかと思いきや、とんとんとドラマをやっていくうち、とうとう松本清張シリーズで悪女になって・・・裏番組に「渡る世間は鬼ばかり」(TBS)が放送されているのにも関わらず平均視聴率は15%前後、最終回視聴率は17.7%(瞬間最高視聴率は23.2%)を記録し、数回「渡鬼」の視聴率を上回ったのです。(ドラマでは初めて。この為、スポーツ紙では、「米倉、『鬼』退治!」と報じられました)

 このドラマが好調だったことから、放映が始まってほどなく「米倉と松本清張の3部作」という企画が持ち上がり、同じ枠で「松本清張けものみち」「松本清張・最終章 わるいやつら」が制作されることになったそうです。

 女の一代記『悪女の一生~芝居と結婚した女優・杉村春子の生涯~』も見逃しませんでしたよ。壮絶な一生を送った杉村治子さんの姿があんなにすさまじいものだったとは思っていませんでした。酒も煙草もやらず、愛する人との別れを乗り越え仕事に打ち込んだ杉村さんのひたすら恋と仕事に全力投球した生涯に迫った力は素晴らしかったと思います。

越路吹雪さん役の天海祐希も良かったですし、瀬戸内寂聴さん役の宮沢理恵さんの熱演にも感動しました。『女の一代記』も高視聴率を残しました。

 CMでも1日1度は必ず見てるのではないかと思うほど、出演されていますね。

大東建託「いい部屋ネット」(2004年~)
興和(2005年~)
「バンテリンコーワパップS」
「新QPコーワゴールド」
たかの友梨ビューティークリニック(2005年~)
DCキャッシュワン(2005年~)
カメリアダイヤモンド(2006年)
ヤクルト「黒酢ドリンク」(2008年~) と2004年からでもこれだけあるんですよ。全部あげると30社以上になります。

 でもやっぱりドラマが観たい!!アクの強い役柄で、お願いします。

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2008年10月 4日 (土)

私の好きな作品たち~20世紀の画家

 20世紀の絵画の最初の動きはフォーヴィスムからです。形より色彩を重視したその作風は、批評家のルイ・ヴォークセルが展覧会に行き、ルネサンス風の彫刻を取り囲む大胆な色彩の絵画を見て、『まるで野獣に取り囲まれたドナテッロ(ルネサンス時代の彫刻家)
のようだ』と評したために、フォーヴィスム(野獣派)と呼ばれることとなったそうです。

 その後、20世紀美術は時代の流れと同じく、目まぐるしく変わり、Imai02 もはや一つの枠には収めきれないほどの多様性を示しました。
ピカソのように生涯で何度も絵画スタイルを変更し、人々を驚かせた画家もいます。20世紀絵画の、どの流れが重要であったのかという評価は、まだ時間をおいてみなければならないでしょう。

アンリ・ルソー
 長らくパリ郊外の間接税務局に勤める下級官吏でしたが、40歳ごろから趣味で絵を描き始め、このため「税官吏ルソー」のあだ名がありました。

 ルソーの作品は、画家の生前はアポリネール、ピカソなど少数の理解者によって評価されたのみであした。ルソーの年譜に必ず登場するエピソードとして、1908年、ピカソ、アポリネールらが中心となって、パリの「洗濯船」(バトー・ラヴォワール)で『アンリ・ルソーの夕べ』という会を開いたことが挙げられる。これは、からかい半分の会だったとも言われるが、多くの画家や詩人がルソーを囲んで集まり、彼を称える詩が披露されました。

フランツ・マルク
 ミュンヘン出身。カンデンスキーとともに、「青騎士」を結成しました。第一次世界大戦で戦死。

ピカソ
 スペイン南部のマラガで生まれ、「青の時代」「バラ色の時代」を経てキュビズムの創始者となります。以降も新古典、シュルレアリスムと作風が変遷していきました。

ボッチォーニ
 イタリア南端のレッジオ生まれ。彫刻家、理論派として活躍ししましたが34歳で早世。

ユトリロ
 女流画家であるヴァラドンの息子としてパリに生まれ、絵を勧めMoji1_2 られたのはアルコール中毒の治療の一つとしてのこと。パリの街角を好んで描いた風景画家です。

モディリアーニ
 トスカーナ地方リヴォルノ生まれのユダヤ系イタリア人。作品の ほとんどが人物画である。貧困のうちに36歳で早世。

シャガール
 ロシアのウィテスブルク出身のユダヤ人。ペテルスブルクの美術学校に学び、パリに出てキュビズムの影響を受ける。革命後のロシアに帰国しましたが、画風の幻想性と非現実性がロシア政府に嫌われ、アメリカ、メキシコで仕事をして、パリに戻りました。

ダリ
 バルセロナ近くのフィゲラスの生まれ。マドリードの美術学校で学んでいたが放校処分を受け、1928年にパリに行くこととなり、非現実的で変質狂的な時間を描いて多くのファンを魅了しました。

やはり私はシャガール、モディリアーニが好きなのでつい肩入れしたくなりますが、ダリやルソー、ピカソも身近の感じられます。

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2008年10月 3日 (金)

私の好きな作品たち~写実主義

  産業革命により社会は激しく変化しはじめました。農村から都会へ人々は移ってきますが、待っていたのは資本化と労働者の対立、貧困の時代でもありました。

人々は現実の社会と向き合うことになります。そしてその風潮は芸術の世界にもやってきました。現実ありのままに描こうとする写実主義でです。そして写実主義はクールベに行き着きます。クールベは『歴史画や想像画を描くのは画家の仕Mone14_2 事ではない。現実に見えているものを忠実に描き、その時代の記録を残すべきだ』と。

主な画家は、

カミーユ・コロー
フランス19世紀の風景画家。貧しい画家たちに援助を与え、ペール・コロー(コロー親父)と慕われ、その作風は「最後の古典派風
景画にして最初の印象派」と言われた画家です。

ミレー
ノルマンディ地方の農家に生まれ、農民の姿を真摯に描き続けました。

クールベ
  当時の画壇潮流であった絵画の理想化を拒否し、視覚に忠実なレアリスムを確立したと言われてきました。

レーピン
 急進的民主主義思想から、ロシア社会の矛盾を批判する移動派のメンバーとなり、のちフィンランドに亡命しました。

テオドール・ルソー
 バルビゾン派の代表的な風景画家。印象派の先駆者ともされ手います。

注目したいのは、クールベとルソーでしょうか、私の好きな画家でもあります。

1855年、パリにおいて世界で2番目の万国博覧会が開催された。Runo2 クールベは、この万国博覧会に大作『画家のアトリエ』と『オルナンの埋葬』を出品しようとしますが、彼自身が描いた他の作品は審査を通過したにも関わらず、これらの大作は落選してしまいます。
 そこでクールベは、博覧会場のすぐ近くの建物を借り、「ギュスターヴ・クールベ作品展。入場料1フラン」という看板を立て、1855年6月28日から公開しました。当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなく、このクールベの作品展は、世界初の
「個展」だと言われています。
 また、この個展の目録に記されたクールベの文章が、後に「レアリスム宣言」と呼ばれることになる、美術史上著名なものです。「レアリスム宣言」において『自分は生きた芸術をつくりたいのだ』と言っています。彼の意図は、単なる古典絵画の模倣ではなく、今の時代の風景、人々、現実を自分の感じたままに描くということでした。21世紀の今日から見れば当然のこのような考え方も、19世紀の保守的な市民たちにとっては、驚くべき革新的なものだったのです。
代表作には
『オルナンの埋葬』(1849年)(オルセー美術館)
『画家のアトリエ』(1855年)(オルセー美術館)
『世界の起源』(1868年)(オルセー美術館)などがあます。

 一方、ルソーがバルビゾンに初めて長期滞在したのは1836年のことで、以後、仲間の画家たちとともにしばしば滞在、1847年にはバルビゾンに移住している。サロンへの入選を拒まれた十数年の不遇時代にも、彼は画家としての志を変えず、「歴史画」や物語の背景ではない、純粋な風景画を確立しようとしました。「落選王」(グラン・ルフュゼ)などと揶揄されたルソーででした、ボードレール、ジョルジュ・サンドのような文学者はルソーを擁護していました。

 2月革命を経てサロンの旧態依然とした審査方法も変革され、ルソーは1849年のサロンでは金メダルを受賞し、正統派の画家として復活を果たしました。晩年は画家としての名声も確立し、1855年のパリ万国博覧会では彼のために展示室1室が与えられました。1867年には万国博覧会の審査委員長に任命されています。もっとも印象派に近い存在だったことがうかがえます。代表作は
『アプルモンの樫、フォンテーヌブローの森』(1852)(オルセー美術館)
『フォンテーヌブローの森のはずれ、日没』(1848-49)(ルーヴル美術館)などがあります。

ゴシック→ルネサンス→バロック→新古典主義→ロマン主義→写実主義 →ラファエル前派→印象派→後期印象派→象徴主義ナビ派→
20世紀の絵画と続いてきた画壇の変化を見比べるのもととても面白い発見や当時の社会のついても学べまていいと思います。

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2008年9月28日 (日)

私の好きな作品たち~ロマン主義

  ロマン主義の底流に流れているものは、内面性の重視、感情の尊重、想像性の開放といった特性であり、好まれる主題としては、「異
国的なもの」「未知のもの」「隠れたもの」「はるかなるもの(特に、自分たちの文化の精神的な故郷、古代文化)」「神秘的なもの
(言葉で語れないもの)」「夢と現実の混交」、更には、「憂鬱」「不安」「動揺」「苦悩」「自然愛」などを挙げることができます。
ロマン派の絵画の特徴は、フランスの近代絵画とは異なり、不可視なもの、見えざるものをテーマとしたことでしょう。フリードリヒの場合は、崇高なものや人跡未踏の山岳、廃墟などがテーマとされたました。

 主な画家を紹介します。

フュースリー
 主にロンドンで過ごし、。空想的でドラマチックな幻想世界を主題Dorakuroa02 絵を描いた画家です。

ウイリアム・ブレイク
 詩人としても知られるロマン主義の先駆者。自作の詩集に手彩色の版画挿絵を加えて出版そました。20世紀になって評価されます。

ジョン・コンスタブル
 19世紀イギリス風景画の代表的画家。終始故郷であるサフォーク地方の田園を描き続けた。その色彩はフランス・ロマン派に影響を与えました。

フリードリヒ
 19世紀ドイツロマン主義の代表者。自然を基軸とした絵を描き、孤独と貧困の中で亡くなったと言われています。。20世紀になって再評価されました。

ターナー
 生前はほとんど評価されなかったが、現在では英国最大の巨匠とされていいます。

ドラクロア
 19世紀初期のフランス美術界を支配する古典主義の固い殻を脱し、ロマン派の首領と目されました。

リチャード・ダッド
 妖精などを主題にロマン主義的な作品を描き、将来を有望視された画家でしたがが、次第に精神を病み、父親を刺し殺します。その後、43年間精神病院で過ごしながら制作を続けました。

これらの画家のなかでも有名なのはやはり、ターナー、ドラクロアでしょうか。

 初期のターナーはアカデミー受けのする、写実的な風景を描いていました。アカデミー準会員となって以降、約20年間は有力なパトロンに恵まれ、批評家のジョン・ラスキンからも好意的に評価されるなど、画家として順調な歩みを続けました。『カレーの桟橋』(1803
年)、『アルプスを越えるハンニバルとその軍勢』(1812年)などはこの時期の作品で、ロマン主義的な大気、光、雲の劇的な表現が特徴です。

  ターナーにとって転機となったのは、1819年、44歳の時のイタリア旅行であした。ルネサンス期以来、長らく西洋美術の中心地であったイタリアへ行くことは、イギリスのような北方の国の画家たちにとってのあこがれであり、ターナーもその例外ではありません。
  イタリアの明るい陽光と色彩に魅せられたターナーは、特にヴェネツィアの街をこよなく愛し、その後も何度もこの街を訪れ、多くのスケッチを残しています。イタリア旅行後の作品は、画面における大気と光の効果を追求することに主眼がおかれ、そのためにしばしば描かれている事物の形態はあいまいになり、ほとんど抽象に近づいていDorakuroa01る作品もありました。

 ターナーが好んで使用した色は黄色でした。現存している彼の絵具箱では色の大半が黄色系統の色で占められている。逆に、嫌いな色は緑色で、緑を極力使わないよう苦心した。ターナーは知人の一人に対して「木を描かずに済めばありがたい」と語っていいて、また別の知人から、ヤシの木を黄色く描いているところを注意された時には、激しく動揺していたそうです。

 ドラクロアは新古典主義の画家ゲランに入門し、1822年『ダンテ の小舟』で先輩画家であるグロの強力な推薦もありサロン(官展)に入選しました。1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出品。この作品は当時(1822年)実際に起きた事件を題材にしたもので、サロンでも賛否両論を巻き起こしました。グロはこの作品を「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」とまで酷評したが、結局作品は政府買上げとなり、1830年の七月革命に際しては、有名な『民衆を導く自由の女神』を制作しています。この絵画は彼の肖像と共に、旧フランス・フランの100フラン紙幣に描かれたこともあったほどです。

 

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2008年9月27日 (土)

私の好きな作品たち~バロック期の画家

 バロックもまたルネサンスと同じくイタリアから始まりました。バロックの語源はポルトガル語で、「歪んだ真珠」とか「不規則な真珠」という意味です。ルネサンスの時代に尊重された調和を保つ均衡や比例の法則は捨てられていくことになっていきます。
 バロック絵画の主な表現法は、ルーベンスの運動感、カラッチの装飾性、カラヴァッジオの強烈なコントラスト、コルトーナの幻覚的効果、などが挙げられます。これらは強く感覚に訴え、見るものをその絵の中に引き入れようとする特徴を持っています。

カラッチ
 17世紀ボローニャ派の巨匠。イタリア美術における初期バロック様 式を確立した画家の一人であり、イタリア北部のボローニャを中心に活動したボローニャ派の代表的画家です。アンニーバレを中心とするカラッチ一族の門下からは多くの著名画家が育っており、後世への影響も大きい。日本語ではファーストネームを「アンニバーレ」、「アニーバレ」、姓を「カッラッチ」「カルラッチ」等と表記する場合もあります。

カラヴァッジオ
 ミラノ付近のカラヴァッジョの出身。劇的な光と影のコントラストの使い方は、17世紀の前ヨーロッパに影響を与えました。カラヴァッジオはローマに移り、画業を始めめます。彼の描いた革新的な宗教画は教会において物議をかもしたが、裕福な人々は彼の作品の劇的な構成力を評価し、独創性を認めた。艶のある画風が時には同性愛者に彼の作品を求めさせることもあったそうです。カラヴァッシオは数多くの逸話を残しています。Ferumeru_01
  例えば『聖母の死』では、注文主の教会が「聖母マリアのお眠り」というテーマで描くよう依頼したにもかかわらず、カラヴァッジオは単なる横たわる女の骸として生々しく描いています。一説によると、自ら身を投げた女の死体をモデルに克明に描いたと言われています。そのため、事実を知った教会は祭壇を飾る絵としてふさわしくないという理由で受け取りを拒否する。しかし、画面に描かれたマリアの周りの人々の繊細な表情やもう1つの主役の強烈な光と陰は、大切な人を失った人間の悲しみを劇的なまでに強調しています。

オラツィオ・ジェンティレスキ
 カラヴァッジオの影響を濃く受け。娘のアルミテジアも画家であり、名を知られています。
  先人カラヴァッジョ作品の影響に強い衝撃を受け、作風が激変、トスカーナ派伝統の線描様式に、陰影法と写実性を取り入れ独自の様式を確立、カラヴァッジェスキ一派となる。その後、ジェノヴァ、パリを経由し、ロンドンでチャールズ1世に仕え、数々の宗教画
を制作。晩年には実娘アルテミジア・ジェンティレスキを呼び寄せ、共に制作活動をおこいました。現存する帰属が確実な作品数は約70点。

レーニ
 カラッチ・アカデミーに学び、後にカラッチ一族を継いでポローニャ派の中心となりました。ドイツの詩人ゲーテが、「神のごとき天才」と呼んでいます。

ルーベンス
 ルネサンス期絵画の均整のとれた構図や理想化された人物表現とは一線を画し、ルーベンス の絵画は、動きの多い劇的な構図、人物の激しい身振り、華麗な色彩、女神像などに見られる豊満な裸体表現など、バロック絵画の特色が十二分に発揮されたものです。

フランス・ハルス
 オランダ、ハーレムで活躍。肖像画を得意とし、大規模な工房を持っていました。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
 蝋燭の照らす光景の描写を得意とし『夜の画家』と呼ばれる。当時はかなりな人気画家であったが、しばらくは忘れられていて、20世紀になって再発見されました。

ニコラ・プッサン
 フランス古典主義の代表的画家。ローマでバロック風の作品を描いていたが、次第に古典的なスタイルを完成させていった画家です。

フェルメール
 19世紀半ばに発見されたオランダ絵画の巨匠。作品数は少なく、わずじか30数点です。人物など作品の中心をなす部分は精密に書き込まれた濃厚な描写になっているのに対し、周辺の事物はあっさりとした描写になっており、生々しい筆のタッチを見ることができます。この対比によって、見る者の視点を主題に集中させ、画面に緊張感を与えている。「レースを編む女」の糸屑のかたまり、「ヴァージナルの前に立つ女」の床の模様などが典型的な例として挙げられます。

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2008年8月13日 (水)

私好きな作品たち~平山郁夫編

 平山郁夫画伯をご存知でしょうか。日本を代表する作家の一人です。と偉そうに言いましたが、実は私は東山魁意しを知って暫くしてから絵を拝見したというほどで興味はただただ東山氏にありました。

 ところがあるテレビ番組で平山氏がアンコールワットを訪ねるという企画ものを観て驚きました。写生している姿があまりにも凄くて・・・凄いでは解りませんよHirayama_work25s ね。何時間も同じ格好で眼だけが描かれるものと描いているものを行ったり来たりしているのです。

あれでは眼が持たないだろうと思いたくなるほど、2点に集中しているのです。それがあんな緻密なを描かせたのかと思うと1枚でも粗末に観てはいけないと思い知らされました。

 平山氏はかつて原爆後遺症で一時は死も覚悟したそうです。そうしたなか、1959年に玄奘三蔵(三蔵法師)をテーマとする『仏教伝来』を描きあげ、院展に入選。以降、平山氏の作品には仏教をテーマとしたものが多いのだそうです。

 仏教のテーマはやがて、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と、文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていきました。平山氏は1960年代後半からたびたびシルクロードの遺跡や中国を訪ね、極寒のヒマラ
ヤ山脈から酷暑のタクラマカン砂漠に至るまで、シルクロードをくまなく旅しています。その成果は奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画に結実しています。

 5月より世界平和アピール七人委員会の委員となったり日韓友情年日本側実行委員長も務めるなど様々な活動も行ってきましたが、それうを批判する声も多く、日本とアジア諸国との友好活動や東北アジア・中央アジアでの文化財保護活動は国際的に非常に高く評
価されているものの、あきらかに誤った歴史的事実と認識(中国において文化大革命や都市開発により破壊された建築物を、戦時中に日本が破壊したとしている)に基づく活動を主導するなどの批判があります。

日本国外での国際的な芸術的評価は低く、画家としての知名度は国内に比べると低いのが実情のようです。

 しかし、日本ではもっと評価されるべき方です。作品に込められた純粋な思いを誰が批判できるでしょうか。シルクロードに佇むラクダ・・・絵は損得で描いているのではありません。美しいものを残したい、あのラクダは何を訴えているのか耳を傾けたい、そんな思いが作品からあふれてはいませんか?

 日本人だけでなく世界的に認められた東山氏と比べる事自体おかしいのかもしれませんが平山氏の功績は多大であると私は思います。一度記念館にも足を運びたいものです。

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2008年8月 2日 (土)

私の好きな作品たち~ミケランジェロ

 西洋で最も巨大な絵画の一つとも言われるバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井フレスコ画や『最後の審判』、パオリーナ礼拝堂にある『聖ペテロの磔刑』、『パウロの改宗』を描いたことでよく知られている。もともとは彫刻家であり、『ピエタ』や『ダビデ像』等の傑作のほかにも『バッカス』、『モーセ』、『ラケル』、『レア』などが有名。バチカンの『サン・ピエトロ大聖堂』の設計者でもある『ピエタ』は(Pieta 、慈悲などの意)を題材とする彫刻を生涯に4体制作している。ピエタは聖母子像の一種であり、磔刑に処されたのち
に十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことであるミケランジェロ。 

『ダビデ像』はピエタと並ぶミケランジェロの代表作であるばかりでMike1_3 なく、ルネサンス期を通じて最も卓越した作品の一つである。力強さと若き人間の美しさの象徴ともみなされる作品であり、芸術の歴史の中で最も有名な作品と呼びうるのは本作をおいて他にないでしょう。

『最後の審判』はルネサンス期の芸術家ミケランジェロの代表作で、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれたフレスコ画です。1541年に完成しました。「最後の審判」には400名以上の人物が描かれている。中央では再臨したイエス・キリストが死者に裁きを下しており、向かって左側には天国へと昇天していく人々が、右側には地獄へと堕ちていく人々が描写されている。右下の水面に浮かんだ舟の上で、亡者に向かって櫂を振りかざしているのは冥府の渡し守カロンであり、この舟に乗せられた死者は、アケロン川を渡って地獄の各階層へと振り分けられていくという。ミケランジェロはこの地獄風景を描くのに、ダンテの『神曲』地獄篇のイメージを借りました。

 ミケランジェロは長命であり、作品も盛期ルネサンスの時代から、マニエリスムの時代への移り変わりを示している。また躍動的な表現は、次のバロックの時代を準備したと
いわれています。

 幼少の頃から絵画や彫刻に興味を示し、父親の希望に添わず1488年、13歳でドメニコ・ギルランダイオに弟子入りした。ドメニコは彼の才能に感心し、フィレンツェの支配者だったロレンツォ・デ・メディチに紹介しました。ロレンツォはミケランジェロを自宅に引き取り学ばせました。

その間にプラトン・アカデミーに集まる人文主義者たちやベルトルド・ディ・ジョバンニなど多くの突出した人々と出会い、芸術に関する着想を広げ、大きな影響を受けた。それだけではなく性に対する感情についても同様に影響を受けた。ミケランジェロはこの時期に『ケンタウロスの戦い』『階段の聖母』の二つの浮き彫りを制作しています。

『最後の審判』はマタイ福音書などに記される「最後の審判」をテーマにした世界的に有名なフレスコ画である。大きく四つの階層に分かれており、上から、天使たちの群像、キリストを中心とした天国、地獄に引きずり落とされる人々、地獄、が描かれています。地獄の
描写にはダンテ『神曲』地獄篇のイメージで描かれているといいます。

 現在見られる大聖堂の建設は、1499年に教皇アレクサンデル6世がサン・ピエトロ大聖堂の改築を思い立ち、1505年の秋頃に教皇ユリウス2世によって改築の決定が行われたことによって始まる。建築設計競技によって ドナト・ブラマンテが主任建築家に任命され、1506年4月1日に起工式典、そして4月18日には基礎石の設置式典が行われている。ただし、これらの作業に伴う改築決定の勅令や、古い聖堂を壊す契約書といった公式書簡は全く残されていません。 
 
 ミケランジェロが主任建築家に任命されたとき、彼はすでにかなりの高齢(72歳)であったが、超人的な能力でこの計画を押し進め、根本的な解決案を作成した。彼はまず、ラテン十字のプランをブラマンテの計画した集中式プランに改編し、主ドームを支える柱の肉厚を増すとともに、サンガッロの行った工事を破壊してまで建物の輪郭を縮小しました。こうして彼はドームの横加重を外壁に伝えるとともに、工事の規模自体を縮小してコストを切り詰め、造営工事の進捗を促したのです。造営工事は迅速に進められることになり、ミケランジェロの没年である1564年に、工事はドーム下部構造のドラムにまで到達した。以後の工事はジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラとピッロ・リゴーリオに引き継がれたが、ドーム部分はドメニコ・フォンターナとジャコモ・デッラ・ポルタが担当した。今日残っているミケランジェロのプランでは、ドームは完全な半球であったが、Mikee3 工事を引き継いだフォンターナとジャコモ・デッラ・ポルタは、静止力学的な解法から尖頭型ドームを採用しました。これをミケランジェロが承認したか否かについては分かっていません。ともかく、ドームは1593年に完成しました。  
 現在見られる大聖堂の建設は、1499年に教皇アレクサンデル6世がサン・ピエトロ大聖堂の改築を思い立ち、1505年の秋頃に教皇ユリウス2世によって改築の決定が行われたことによって始まる。建築設計競技によって ドナト・ブラマンテが主任建築家に任命され、1506年4月1日に起工式典、そして4月18日には基礎石の設置式典が行われています。

 以下のような逸話が残っています。
 同時代の人の数々の証言から、かっとなりやすい性格だったことがうかがえる。その性格のため若い頃はけんかも多く、あるとき顔を殴られて鼻が曲がってしまった。このためもあって容姿に劣等感を持ち、さらに気難しい性格になってしまったそうです。
 
 仕事に取り掛かるのは遅いが、いざ始めると周囲 が驚くほどの速度で仕上げたといわれます。
 
 彫刻の題材をどうやって決めるかをたずねられた際、「 考えたこともない。素材が命じるままに彫るだけだ」と答えたとか。サン・ピエトロのピエタ制作時、当時の枢機卿から「マリアの姿が若過ぎる」と批判を受けたが、それに対し、「罪ある人間は 歳をとるが、無原罪
の聖母は常人のようには歳をとらないのだ」と答えています。
 
 異常なまでにダ・ヴィンチを嫌っていました。同じ絵に一緒に描かれるのも嫌だったらしく、ラファエロの代表作『アテナイの学堂』にアリストテレス(ミケランジェロ)とプラトン(ダ・ヴィンチ)が並んで描かれているのを知ると、激怒して自分をモデルにした人物をプラトンから遠ざけるように描き加えたという。貴族的な生活をして「万能の天才」と名声が高かったダ・ヴィンチと、庶民的で頑固な努力家だったミケランジェロでは、気が合わなくて当然とも言えます。

私が創造していたルネッサンス期はもっとおおらかで住みやすい時代だと思っていたのはどうやら勘違いのようでした。

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2008年8月 1日 (金)

私の好きな作品たち~レオナルド・ダ・ヴィンチ

 ルネサンスは人間再生の時代といわれます。あまりにも神が中心的だった中世から、人間が中心として個人が尊重される時代です。
哲学、文献学、キリスト教学、美術,建築、音楽、演劇、文学、言語学、歴史叙述、政治論、科学、技術などそれぞれの文化領域において顕著な発展が記されました。
 

 絵画もまた画期的な発見や発明によって飛躍的な発展を遂げ、科学的な写実主義はレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロで頂点に達しました。

 絵画、彫刻、建築、土木および種々の技術に通じ、極めて広い分野に足跡を残しているレオナルド。膨大な手稿(ノート)を残しており、その中には飛行機についてのアイデアも含まれていましたね。レオナルドは14~16歳でフィレンツェに移ったとされています。画家見習いとしてアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りし、ボッティチェッリらと共に学んだ。この工房でヴェロッキオの絵画『キリストの洗礼』の一部を描きましたが、その出来は師匠ヴェロッキオを驚愕させ、以後ヴェロッキオは一切筆をもたなくなったという逸話があります。レオナルドに嫉妬したという説もありますが、工房の絵画部門は彼に任せて本業である彫刻に専念した、というのが真相のよう。

 1472年にフィレンツェで画家組合「サン・ルーカ同心会」に登録されています。レオナルドの芸術作品は、『最後の晩餐』のような精巧な絵画がよく知られています。彼の絵画の特徴はスフマート技法と空気遠近法です。
 画家として非常に有名ですが、現存する絵画は17点(うち数点は弟子の手との説もある)に過ぎません。

修道院の食堂に描いた『最後の晩餐』は、福音書を題材に劇的な場面をリアルに描き、レオナルドの名声を高めました。

フィレンツェに戻ったレオナルドは、市庁舎(ヴェッキオ宮)の会議Leonardo02 室に『アンギアリの戦い』を題材にした壁画を描く依頼を受け、反対側の壁には、彼のライバルであったミケランジェロが絵を描くことになったこともありました。この仕事にも入念な準備がなされましたが、技術的課題から壁画は失敗し、未完のままレオナルドはフィレンツェを去りました。未完とはいえ、ルーベンスなどが模写しており、後の画家に与えた影響は大きかったのですが、世間的にはまったくの失敗でしたといえます。また、ミケランジェロも未完のままフィレンツェを離れてしまい、市庁舎の壁画は後にジョルジョ・ヴァザーリが異なる絵で仕上げています。

 数少ないレオナルドの絵画のうち、『モナリザ』『聖アンナと聖母子』『洗礼者ヨハネ』の3枚は、イタリアではなくフランス美術館にあります。これは、フランソワ1世にフランスへ招かれた際、レオナルドが持って行き、フランス国内で没したためである。この3枚に、レオナルドは死ぬまで筆を入れ続けたとも言われています。

『キリストの洗礼』『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』『岩窟の聖母』『リッタの聖母』『岩窟の聖母』 『モナ・リザ』 は有名ですが、中でも『岩窟の聖母』はロンドン版とパリ版があり、どちらがイエスかで議論をよんでいます。アメリカの作家ダン・ブラウンは『ダ・ヴィンチ・コード』の中で、パリ版について画面左をイエスとし、イエスが洗礼者ヨハネを拝んでいることが教会の怒りを買ったと、登場人物に解説させています。
しかし、これはイエスの洗礼のポーズと解釈すれば自然なもの。あるいはこのポーズが、画面左の幼児を洗礼者ヨハネとする、後世の誤解を呼んだのかもしれないのだそうです。謎の多い人物ですね。

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2008年7月31日 (木)

私の好きな作品たち~クロード・モネ編

 1840年フランス生まれの、印象派を代表する画家。『印象派、日の出』を発表し“光の画家”と呼ばれ、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたって追求した画家、モネ。幼少時より絵を描きはじめ、1860年頃、パリのアカデミー・シュイスに入し、“光の画家”の異名通り、彼は同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作しました。『積みわら』『ポプラ並木』などがそれMone11_2 で、その中でも最も知られるのが『睡蓮』でしょう。

 1873年、32歳の時印象派画家たちが最初に開いた展覧会に『印象・日の出』を出品しました。批評家のルイ・ルロワが、展覧会の作品を批判するために、皮肉って「印象派たちの展覧会」という記事を書いたそうです。これが「印象派」という言葉の始まりです。実はモネ自身も、これは未完成だと考えて「印象」という言葉を付けたらしいのです。
 

1875年、34歳の時の作品『ラ・ジャポネーズ』。この愛らしい日本娘は、妻のカミーユです彼は婦人の絵も連作で描いています。日本の着物を華やかに着せられてて当時のパリでは”日本趣味”が流行しており、モネにも影響を与えたことが解ります。 
 

  38歳、『死の床のカミーユ』を出品。この作品に対するモネの言葉が残っていました。「あれほどいとおしかった人の死の床で、色の変化を機械的に写している自分に気付いた。色彩の衝撃によって手が勝手に動き出した。」モネの色彩への執念を感じる言葉です。

 モネがジヴェルニーに移り住んだのは、42歳のとき。ここでモネ一家とアリス一家が一緒に暮らすことになります。
モネは、パリから郊外へ向う車窓からピンクの家を発見し、周りの景色とその家が気に入ったため、即、購入したそうです。
家はお気に入りの色に塗り替え、花の庭を造った。後に、道路を挟んだ向いの土地を購入し、川から水をひく大工事を行って池の庭を造りました。
 池の庭はモネが想像した日本の庭で、モネは日本好きで、浮世絵のコレクションも相当なものがあります。

 ところで、ジヴェルニーはとても小さな村で、当時のご近所さんはモネをあまり温かくは迎えてくれなかったようでした。なにせ、突然移り住んで来て、池を出現させたり、何日も何時間も積み藁の前で何やらやっているのだから。

 モネはとにかく花が大好きで数人の庭師を雇い、細かく注文をつけていました。睡蓮は、当初はただ観賞用に育てられていたが、ある時から絵の題材としてモネをトリコにしました。57歳の時、『睡蓮』を多量に描き始めます。まるでとりつかれたように・・・

 カミーユとモネが知り合ったのは1866年ごろだと言われています。モネより6つ年下で、多くの作品にモデルとして描かれています。1867年、モネ26歳、カミーユ20歳のころに第一子ジャンが誕生。それから3年後に二人は正式に結婚します。一家は上流社会のような生活をしようとするために貧乏生活が続きました。けれどカミーユはゆったりした幸せそうな雰囲気で描かれつづけました。

シスレーもグレールのアトリエでモネと出会いました。ルノワールとも親密で、印象派グループの重要な一員です。

 生涯において、技巧にあまり変化がなく、批評家ポール・ジャモに、「シスレーはモネに伝授された技法が一旦身につくと、自然を描く二流詩人以上にはなろうとしなかった。」とけなされている。けれど、シスレーは自然を素直に受け入れ、印Mone_09_2 象派の基本である美しい風景画をたくさん残しています。そして印象派の時代を良き結う憂い何時の友人でした。

 そういう仲間も老いとともにそれぞれに歩み出します。それが モネにとっては『睡蓮』の連作になったのだと思います。

 混合させない絵具での筆触分割(色彩分割とも呼ばれ、細く小さな筆勢によって絵具本来の質感を生かした描写技法)によって自然界の光(太陽光)と大気との密接な関係性や、水面に反射する光の推移、気候・天候・時間など外的条件によって様々に変化してゆく自然的要素を巧みに表現した作品を手がけました。

1910年代初頭に白内障を患い、一時的に作品制作の意欲が著しく衰えるも手術で回復、最晩年には最後の大作『睡蓮』の大壁画を手がけました。1883年から借家で住み始め、1890年には買い取ったジュヴェルニーの自宅兼アトリエで1926年12月6日に死去されました。

享年86歳。最後まで良い意味での印象派の作家だったと思います。

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2008年7月24日 (木)

私の好きな作品たち~シャガール編

 これまでも私のブログの中に挿入画として登場しましたが、実は私はシャガールのことを殆ど知りませんでした。ただ画商のHPにアクセスしてマイピクチャにため込んでいたのでした。前回のゴッホをかわきりに時代時代の画家と作品を掲載しようと思いつき、自分の勉強方々ご紹介しようと思います。

 シャガールは20世紀のロシア(現・ベラルーシ)出身のユダヤ人の Sag22 フランスの画家でペテルスブルクの美術学校に学び、パリに出てキュビズムの影響を受ける。革命後のロシアに帰国したが、画風の幻想性と非現実性がロシア政府に嫌われ、アメリカ、メキシコで仕事をして、パリに戻ったそうです。パリに出て豊かな色彩感覚を開花させ、詩的で豊かな色彩表現と物語性をたたえたシャガールの絵画は、世界中の人々に愛と希望を与え続けました。

 1922年頃から版画の制作を始め、その後生涯に渡って約2,000点にも及ぶ作品を残しています。はじめは銅版画を中心に取り組んでいましたが、第二次世界大戦後リトグラフも手がけ、鮮やかな色彩の作品を次々と生み出しました。

 ところが何故でしょう、私は夢や希望より、届かない夢や現実へ手を伸ばしているように思えるのです。『イカルスの墜落』はいつこういう状況になるかもしれないと思ってしまいます。

 1930年代後半、シャガールの芸術はヨーロッパでの社会情勢と呼応して大きな変化を遂げていきます。ユダヤ人に対するナチスの残虐行為を伝える報道が、フランスを活動の拠点としていたシャガール一家にも伝わってきていました。

 ユダヤ人であるシャガールの作品は、ナチスによって、「退廃的である」というレッテルが貼られ、ドイツでは多くの作品が廃棄されてしまいます。この頃から、故郷や家族といった身近なテーマばかりだけではなく、聖書の言葉やキリストの姿をテーマにした作品が増えていきます。画家自身の心を映し出しているともいえるでしょう。

 流浪の民ユダヤという重い宿命を背負いながら、激動の20世紀を駆け抜けたマルク・シャガール。過酷な運命に翻弄されながらも、彼は人間愛に満ちた優しいまなざしでカンヴァスに独自の世界をつくりあげました。そこは人間、動物、植物といった生きとし生けるものすべてが平等な平和の空間であり、幸福でファンタジーな世界が満ち溢れています。しかし、そのまなざしは同時に、平和の裏にある人間の苦難をみつSag15 め、人間の愚かさを直視し鋭く刻んでいます。

革命や2度の世界大戦など激動の20世紀を駆け抜けたマルク・シャガールは、さまざまな苦渋、ユダヤ人であるがゆえの迫害を受けながらも、97歳で生涯を閉じるまで多くの作品を残しています。油彩をはじめ、リトグラフ、壁画、ステンドガラス、陶芸など多岐にわたりますが、本展では油彩作品だけで構成します。故郷を離れ、フランス・パリの地で描いた油彩作品は“色彩の魔術師”と称されるほど、彼の画風を決定づける貴重な作品が多くあります。

 今年は、20世紀最大の画家の一人であるマルク・シャガール(1887-1985)の生誕120年にあたります。シャガール・リトグラフの最高傑作ともいわれる 『ダフニスとクロエ』やシャガールの版画世界がより大きな広がりをみせた木版画『ポエム』や『サーカス』、『聖書』、『アラビアンナイトの四つの物語』の5つのシリーズは私の好きな作品です。

『異邦人』という歌を聴くと彼の作品がとても身近に思える、そんな経験はありませんか?

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2008年7月23日 (水)

私の好きな作品たち~ゴッホ編

 以前にもゴッホについては触れましたが、今回はもう少し掘り下げてみようと思います。私は絵が好きなのに印象派とかロマン派などという区別がつかず、好きだと言うだけで全く無知でした。

 ゴッホは後期印象派の画家の一人で、同じくパリでアンリ・ド・トゥ Gohho8 ールーズ=ロートレックやエミール・ベルナール、ポール・ゴーギャン(ゴーガン)、カミーユ・ピサロ、ジョルジュ・スーラ、ポール・シニャック、エドガー・ドガ、ギヨマンなど当時、先端をゆく画家らと親しくなり多大な影響を受けた時代でした。

 印象派のは19世紀、光の画家と呼ばれた巨匠達の明るく色彩に富んだ作品が生み出され印象派と呼ばれるようになりました。
クロードモネやルノアール、マネ、ドガらが印象派の画家と呼ばれ光溢れる屋外での絵画が多いことに気付きます。

 それに比べ後期印象派(ポスト印象派とも呼ばれます)は印象派から出発しながらも、そこからはなれて個性的な画風を確立したとされています。後期印象派の画家たちは、印象主義が重んじた自然主義的な正確さや光の描写には反発する姿勢をしめし、色彩と形態を自由に表現しました。

 殊にゴッホは絵の具の質感を顕著に感じさせる力強く荒々しい、やや長めの筆触や、絵の具本来の色を多用した強烈な色彩による対象描写で数多くの作品を制作しています。

特に画家の内面をそのまま反映したかのような迫真性の高い独自の表現は野獣派(フォーヴィスム)やドイツ表現主義など後世の画家に大きな影響を与えました。生前は全く作品が売れなかったものの、死後急速に評価を高め、現在では後期印象派を代表する画家のひとりとして重要視されています。

 1888年、パリ生活に疲れていたゴッホは、ロートレックの勧めもあって強い太陽の光を求め友人の画家らを誘い南仏アルルへと向かいますが、応じたのはゴーギャンのみでした。南仏アルルでゴーギャンと共に意欲的に制作活動をおこなうのですが、対象を見て描く画家と、写実的描写を否定するゴーギャンの間で討論となり、二人の間の緊張度が増し、同年12月23日夜、画家が自ら剃刀で耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届け、翌日入院。二人の共同生活は二ヶ月足らずで終了となるりました。

 耳切事件からぐに退院するも翌1889年、画家自身の希望によりサン・レミのカトリック精神病院に入院。比較的自由な生活を送り、数多くの作品を制作(画家の代表作の多くもこの時期に生まれています)。また色調と筆触に変化が見られるようになった時期でもありました。

1890年、パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移住するも、同年7月Himawari0227日に(おそらく胸部に)ピストルを撃ち自殺を図ります。29日駆けつけた弟 テオに見守られながら死去、享年37 歳。弟テオも翌年に死去されました。悲惨な最期です。しかし私は彼が気が振れたのではなく、心の病いと常に葛藤し、もろい自分に背を向けたかったような気がしてなりません。

彼の絵に『タンギー爺さんの肖像』というのがありますね。タンギー爺さんは貧しい画家達の絵画を買い取ったりして、画家達を助けてくれた恩人です。1988年に肖像画を残しました。
 ゴッホは画家としての活動が約10年間と短く、絶対数としては油彩900点、素描1100点があると言われていますが、傑作とされる作品はほとんどが晩年の約2年半(1888年2月から1890年7月)に制作されたものであり、知名度に比して(傑作・良作とされる)作品数は少ないといわれていますが私はそうは思いません。

『2本の糸杉』『糸杉と星の道』や『夜のカフェテラス』『ひまわり』『星月夜』『カラスのいる麦畑』らは1988年以降2年間に描かれて賞賛を浴びた作品ですし、私もこよなく愛した作品です。でも『ジャガイモを食べる人々』や庭の風景画、畑を耕す風景なども私は心を惹かれます。それは絵に心があるからだと思うのです。生きているうちに認めてもらいたかったかけがいの無い作家です。

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2008年5月 9日 (金)

私の好きな作品たち~絵画編

 私は絵画を鑑賞するのも大好きで、高校生の頃は、図書館へ行っては分厚い絵画の全集をよく観ていたものでした。どの作品も甲乙つけ難く素晴らしいので、好き嫌い無く観ることが出来ます。

 でもいつの間にか東山魁夷氏の絵画はいつも心に残っていて、私を1030_6 癒してくれました。昔から教育テレビの『日曜美術館』を観る事を常としていたので、東山氏のことも詳しくは番組で知ったのでした。ちょうど日展に出品する作品を手掛けている最中で、運良く、東京でその絵を間近に観る事も出来、でもそれが最後になってしまいました。墨絵のようなタッチの作風は彼の後期の作風で、北欧などの風景画とかなりギャップがあったため、最初は馴染めなかったのですが、今にして思えば、ああここに帰り着いたのだなと納得できるようにもなれたのです。

 そしてまた、いつからかゴッホ、シャガール、モジニアーリ、ダリなど作風が全く違うにも関わらず、好きになっていった私が存在したのでした。
 何故だろうと考えてみても、答えが出ず、いつか美術の先生がおっしゃった「良い絵には自然と人が集まるのです。だからその絵や作家が有名になるのです。良い絵というお墨付きだから人が集まるのではないんですよ。」という言葉が思い出されます。確かに。私はブランドものが嫌いですが、ブランドというのは、これは素晴らしいと認められた証なのだから、それなりに他より優れたところがあるから憧れるのだと最近思うようになりました。

 画家も一つの作品が世で認められたからといって、全てが良いと言うわけではなく、だから苦悩して一生を捧げる訳で、亡くなって初めて認められる作家も数多い世界です。

 ゴッホは弟や友人に宛てた手紙からもその苦悩を読み取れ、それがああいう画風を創りあげたのかと思うと、また絵に対する思い入れが違ってきます。

 画家も作家もいろんな苦悩があって今日があるのかと思うと、のほPhoto ほ~んと生きてい私には想像を絶する世界に生きた作家達にいやおう無く引き寄せられるのは当たり前なのかもしれません。

 これからも、暇を見つけては絵画を集めて、紹介しようと思います。
お楽しみに・・・

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