文化・芸術

2010年5月 9日 (日)

妖艶なまでに美しく『エゴン・シーレ』

     『ぼくは思う。"現代的な"芸術などありはしない。
      在るのはただ一つの芸術、永遠に続く芸術だけである』

 鋭い言葉を残したエゴン・シーレ。

当時盛んであったグスタフ・クリムトらのウィーン分離派、象徴派、スカー・ココシュカに代表される表現主義のいずれにも属さず、独自の芸術を追求した画家でした。

 1906年、ウィーン美術アカデミーに入学し、アカデミックな美術教育を受けます。翌1907年にはクリムトと知り合っています。美術アカデミーの保守的な教育方針はシーレの肌に合わず1909年、仲間たちとともに退学。1911年、それまでクリムトのモデルを務めていた、ヴァリ・ノイツェルという当時十代の女性をクリムトから紹介されました。ヴァリという女性はその素性が不明なのですが、1911年からほぼ4年間にわたりシーレと同棲生活を送り、『死と少女』をはじめとする多くの作品のモデルとなっています。

 クリムトに大Egonsireきな影響えお及ぼされたと思われがちですか、かく言うクリムトもシーレには大きな影響を受けていたに違いありません。

 エゴン・シーレを外から知るには、シーレの舞台となったウィーン がヨーロッパ第4の大都市であり、オーストリア=ハンガリー二重帝国が残響していたこと、『性の科学』と『性の文学』の分離運動の嵐がふきまくっていたことを忘れてはいけないのでしょう。

 シーレは28歳年長の画家クリムトとは師弟というよりは生涯を通じた友人という関係にありました。エロスが作品の重要な要素になっている点はシーレとクリムトに共通していますが、作風の面では両者はむしろ対照的と言えるでしょう。

 世紀末の妖しい美をたたえた女性像を描き、金色を多用した装飾的な画面を創造したクリムトは「表現対象としての自分自身には興味がない」として自画像をほとんど残しませんでした。

 これに対して、シーレの関心はどこまでも自分の内部へと向かい、多くの自画像を残しました。自画像を含むシーレの人物像の多くは激しくデフォルメされ、身をよじり、内面の苦悩や欲望をむき出しにしていいます。自慰にふける自画像、陰部をあからさまに露出した女性像などの大胆な表現は21 世紀の今日の鑑賞者にも驚きを与えます。確かなデッサン力に裏付けられたシーレの作品の価値が国際的に評価されるようになるのは、20世紀後半になってからででした。

 その自画像はデッサンを含めて一つとして似たものはないのにも関わらず、そこにはどう見てもアンドロギュヌス(男性と女性の 2つの性をそなえた存在)がいっぱい現れています。そのアンドロギュヌスは当然に男であって女であるけれど、それとともに神であって人であり、少年と少女であり、男娼と娼婦であって、また着衣であって裸体の、性交と自慰の、二重化されつづけるアンドロギュヌスだったのでしょう。観ていて男女の交わり、関わりが、とても美しいのです。

細い線のデッサン画にまず心を惹かれました。そして少し暗い色使いも塗り方一つとっても、
もうお気に入りです。でも28歳でスペイン風邪で亡くなりました。これほどの多数の絵を残してくれたことに感謝です。いつか、彼についての本も読んでみたい、そんな作家でした。

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2010年3月 6日 (土)

光の演出~クロード・モネ

 1840年フランス生まれの、印象派を代表する画家。『印象派、日の出』を発表し“光の画家”と呼ばれ、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたって追求した画家、モネ。幼少時より絵を描きはじめ、1860年頃、パリのアカデミー・シュイスにし、“光の画家”の異名通り、彼は同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作しました。『積みわら』『ポプラ並木』などがそれ で、その中でも最も知られるのが『睡蓮』でしょう。

 1873年、32歳の時印象派画家たちが最初に開いた展覧会に『印象・日の出』を出品しました。批評家のルイ・ルロワが、展覧会の作品を批判するために、皮肉って「印象派たちの展覧会」という記事を書いたそうです。これが「印象派」という言葉の始まりです。実はモネ自身も、これは未完成だと考えて「印象」という言葉を付けたらしいのです。

  38歳、『死の床のカミーユ』を出品。この作品に対するモネの言葉が残っていました。「あれほどいとおしかった人の死の床で、色の変化を機械的に写している自分に気付いた。色彩の衝撃によって手が勝手に動き出した。」モネの色彩への執念を感じる言葉です。

 モネがジヴェルニーに移り住んだのは、42歳のとき。ここでモネ一家とアリス一家が一緒に暮らすことになります。モネは、パリから郊外へ向う車窓からピンクの家を発見し、周りの景色とその家が気に入ったため、即、購入したそうです。
  家はお気に入りの色に塗り替え、花の庭を造った。後に、道路を挟んだ向いの土地を購入し、川から水をひく大工事を行って池の庭を造りました。
 池の庭はモネが想像した日本の庭で、モネは日本好きで、浮世絵のコレクションも相当なものがあります。
 ところで、ジヴェルニーはとても小さな村で、当時のご近所さんはモネをあまり温かくは迎えてくれなかったようでした。なにせ、突然移り住んで来て、池を出現させたり、何日も何時間も積み藁の前で何やらやっているのだから。

 モネはとにかく花が大好きで数人の庭師を雇い、細かく注文をつけていました。睡蓮は、当初はただ観賞用に育てられてましが、ある時から絵の題材としてモネをトリコにしました。57歳の時、『睡蓮』を多量に描き始めます。まるでとりつかれたように・・・

 カミーユとモネが知り合ったのは1866年ごろだと言われています。モネより6つ年下で、多くの作品にモデルとして描かれています。1867年、モネ26歳、カミーユ20歳のころに第一子ジャンが誕生。それから3年後に二人は正式に結婚します。一家は上流社会のような生活をしようとするために貧乏生活が続きました。けれどカミーユはゆったりした幸せそうな雰囲気で描かれつづけました。

 生涯において、技巧にあまり変化がなく、批評家ポール・ジャモに、「シスレーはモネに伝授された技法が一旦身につくと、自然を描く二流詩人以上にはなろうとしなかった。」とけなされています。けれど、シスレーは自然を素直に受け入れ、印象派の基本である美しい風景画をたくさん残しています。そして印象派の時代を良き結う憂い何時の友人でした。

 そういう仲間も老いとともにそれぞれに歩み出します。それが モネにとっては『睡蓮』の連作になったのだと思います。
 混合させない絵具で、細く小さな筆勢によって絵具本来の質感を生かした描写技法によって自然界の光と大気との密接な関係性や、水面に反射する光の推移、気候・天候・時間など外的条件によって様々に変化してゆく自然的要素を巧みに表現した作品を手がけました。

 1910年代初頭に白内障を患い、一時的に作品制作の意欲が著しく衰えるも手術で回復、最晩年には最後の大作『睡蓮』の大壁画を手がけました。1883年から借家で住み始め、1890年には買い取ったジュヴェルニーの自宅兼アトリエで1926年12月6日に死去されました。

享年86歳。最後まで良い意味での印象派の作家だったと思います。

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2010年2月 2日 (火)

天井桟敷~寺山修司

詩人、歌人、俳人、エッセイスト、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家など多才だった寺山さん。演劇実験室・天井桟敷主宰していたことはご存知でしょう。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」と返すのTeramama_006 が常でした。

 寺山さんは、ネフローゼを患ってました。

 1967年(昭和42年)1月1日演劇実験室・天井桟敷を結成。4月18日草月アートセンターで旗揚げ公演。 身体の調子は不十分だったのによくここまでやってこれたことを私は尊敬しています。1983年(昭和58年)東京都杉並区永福在住中に、河北総合病院にて、敗血症で死去。享年49(満47歳没)。死後、青森県三沢市に寺山修司記念館が建てられました。

「寺山よ。君は昏倒して入院してから一度も意識を回復しなかったから、自分の死がどのように訪れたか知らなかったにちがいない。その日、何かにせきたてられて私が病院についた時は、まだ、いつも好奇心を湛らせていた君の特異な眼は混濁する虚空を追い求めていたはずだ。二週間ほとんど眠らないで看護していた九條映子が病室から出てきて、今朝から君の強い心臓が弱り始めたと告げ、そのまま君のお母さんに連絡するため公衆電話の方に走った。私に、二十三年前の一九六〇年の初夏の頃、君を映子にひき合わせた神楽坂の陽ざしが甦ってきた。そして、あの季節の同じ深緑をつけてた樹々が病棟の窓から見えた。……」。これは篠田正浩映画監督の寺山修司さんに対する弔辞です。

 寺山修司主宰で演劇実験室を標榜した演劇グループ天井桟敷は状況劇場の唐十郎、早稲田小劇場の鈴木忠志、黒テントの佐藤信と並び、'アングラ四天王と呼ばれ、1960年代後半から1970年半ばにかけて、小劇場ブームを巻き起こしたことは以前にも書きましたね。天井桟敷という劇団名はマルセル・カルネの映画『Les Enfants du Paradis(邦題:天井桟敷の人々)』に由来しますが、寺山氏曰く、「好きな演劇を好きなようにやりたいという同じ理想を持つなら、地下(アンダーグラウンド)ではなくて、もっとTerayama001 高いところへ自分をおこう、と思って『天井桟敷』と名付けた」と言われています。
 

創立時のメンバーは寺山の他に、九條映子(当時寺山夫人)を入れ全16人。『書を捨てよ街へ出よう』などの一連の著作により、若者の間で「退学・家出の扇動家」として認識され人気を得ていた寺山氏が主宰していること、また劇団創立時のメンバー募集の広告が「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」だったことなどから、設立から長い間「一癖も二癖もあ る退学者や家出者が大半を占める」という異色の劇団になりました。

1969年12月5日、唐十郎主宰の「状況劇場」初日に、寺山修司からお祝いとして”葬儀用の花輪”が届きました。寺山氏としては、ユーモアのつもりであったし、寺山の「天井桟敷」旗揚げ公演に、唐氏が”中古の花輪”を贈ったブラックジョークに対するきつい返答でしたが。

でも、唐十郎氏と「状況劇場」劇団員は、12月12日深夜に天井桟敷館に殴り込み。双方もみあいから、乱闘に発展し、関係者9人が逮捕されるに至ったと言う経緯があります。文化人が無頼であった時代の伝説と言えるでしょう。

1983年5月4日に寺山さんが死去すると、劇団としての求心力を失い、同年夏の『レミング -壁抜け男』を最後に、同年7月31日をもって解散してしまいました。惜しいことです。その後、1970年代初頭から寺山の片腕として演出・劇伴を務めたJ・A・シーザーが演劇実験室「万有引力」を設立し、劇団員の多くはそこに移りました。

 そして作家としての寺山さんは最後まで優しさというものを貫かれTerayama_004 た方です。詩、エッセイが一番寺山さんらしいと思いますが、例えば、『両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム』のような一字に影があるように、一行にも影がある・・・言葉と発想の錬金術師・寺山修司さんならでは、諧謔と毒との合金のような、文字どおり寸鉄の章句たちです。愛と暴力、快楽と死、賭博と夢、もちろん男と女。つごう52のキーワードの下、広く著作群のなかから集められ、あの鬼才のエッセンスがそのまま凝縮された413言が彼らしいこの一冊になったのもも見逃せません。

 いろいろな作品から抜き出された言葉なので、前後の文脈が分からないといまいち意味を掴みきれないものも多々あると思います。ですがその意味を想像してみるのも楽しいですし何より羅列された言葉の中には必ず「お気に入り」が見つかることと思います。

 その言葉によって救われたり、また歩き始める力をもらえたりするのでしょう。
 童話のように挿絵があり優しい言葉で語られているものも、実は大人が読むべきだと思います。
 
 何かが変ります、きっと。

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2010年1月23日 (土)

私が最近知った画家~クリスチャン・ラッセン

 日本で人気と言えば、この方を好きな女性は多いのではないでしょうか。私は個人的にあまり好きではありませんでした。というのもあまりに写真を合成したかのようなその精密な描き方が逆に私がこれまで愛した画家とかけ離れていたからです。まるで、ディズニー映画にでも出てきそうな風景や動物が眩しすぎました。でも、やはり凄いと思わなければいけないのかと悩みました。好き嫌いがはっきり分かれる画家ではないかと思います。

 エコロジーの現代を迎え、ますます注目されると思われますね。

カリフォルニア州メンドシノ郡で生まれ、10歳の時に家族と共にハワイ州マウイ島に移住したそうです。
幼少の頃から絵を描くことに興味を持ち、独学で勉強しました。高校時代は美術系の学科を専攻し、独自のスタイルと画法を開発していきます。

1976年から、画家として作品を発表し始め、マリンアート画家としての地位を確立する一方、プロサーファー、プロウィンドサーファーとしても活躍。

1980年代初頭に、絵画技法のグレージング゙を用いて、ハワイの自然風景(イルカ・夕景・海岸など)を描いた絵画で注目されはじめます。

1989年のホノルルマラソン公式ポスター制作を担当。1990年に環境保護団体のシービジョン財団を設立。アメリカ以外では、日本でも展示会を開くなど、精力的に活動しています。

1992年国連の「クリーンオーシャン キャンペーン」のイメージアートを手がけました。環境保護活動に情熱を傾けるエコロジーアーティストとしても有名です。
 
 どこまでもクリーン、爽やかな印象が強すぎて、私には不釣合いな気がしていましたが、今回、絵を集めていて、『あ、意外!』と思わず言ってしまった作品を中心に紹介しようと思ったのですが、ちょうどいい動画をみつけたのでそちらをご覧下さい。

 この動画はラッセンのサーフィンシーンがかなり出てきますので、絵だけが観たいという方は絵だけの紹介の動画も入っていますので、そちらをご覧になることもお勧めします。

 美しい自然の中で育ったラッセンの作品は、海に寄せる愛、自然への慈しみ、地球環境への関心から生まれています。

 彼が世界中で人気が大変高いのは、その作品が私達の心の中にある前向きな部分を気付かせ、地球に対してどのようなことが出来るかを思い起こさせてくれる力をもっているからではないでしょうか。

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2009年12月30日 (水)

私の好きな画家~アルフォンス・ミュシャ

 1895年、大女優のサラ・ベルナールの正月公演『ジスモンダ』のポスターが元旦に貼り出されました。そのポスターは一大センセーションを巻き起こし、ミュシャはこれを機に、シェレ、ロートレック、グラッセなどと並ぶアール・ヌーヴォーの代表Jimonnda01 者となった作家です。

19世紀末のフランスは、普仏戦争やパリ・コミューンを経て、産業革命が進行し、都市は消費文化が栄えていました。デパートのボン・マルシェがオープンし、シャ・ノワールやムーラン・ルージュなどの娯楽場が相次いでオープンしました。女性たちはファッションに興味を持ち、サイクリングやスポーツ、レジャーが普及。鉄道の発達は国内外の旅行を容易にしていきました。そんな時代のお話です。

 ベル・エポック(よき時代)と呼ばれる時代を迎えていました。この時代は1900年のパリ万国博覧会を頂点として、1910年の第一次世界大戦勃発まで続きました。

 1900年パリ万国博でボスニア・ヘルツェゴビナのヴァイオリン装飾に関わりました。加えて1904年、スメタナ交響詩「わが祖国」を聞き、スラヴ抒情詩の制作を決意。

 ミュシャは1910年、チェコ(に帰国しました。50歳のときでした。長年温めてきた、『スラヴ叙事詩』の制作をするためでした。ミュシャの後年は第一次大戦、その後のチェコスロヴァキア独立。続くナチス・ドイツのチェコ併合と激動の時代となりました。

 『ジスモンダ』は劇作家ヴィクトリア・サルドゥ(第二帝政時代、フランス演劇界の第一人者)の原作で、サラ・ベルナールの最初のポスターといわれています。第三幕のクライマックス・シーン『ジスモンダ』が「棕櫚の日曜日(復活祭直前の日曜日)」の行列に加わるため、棕櫚の花を手にしています。当時としては、繊細なラインやビザンティン風の装飾がパリ市民には「啓示」のような印象を与えたといいます。

 『ジョブ』は、タバコ用葉巻ジョブの宣伝ポスターですが、数種のヴァージョン、カレンダー用の縮小ヴァージョンなどがあります。このポスターは後に、1960-70年代、「フラワー・ジェネレーション」に感化を与えました。ハシシを吸う若者たちの部屋にはこのポスターがあったそうです。

 パリでの初期苦闘時代、ミュシャは雑誌の挿絵によって生計を立てていましたが、次第に認められ、パリの大出版社、アルマン・コランの挿画家として活躍するようになりました。東洋的な情景をドラマチックに描き、高い評価を得た「白い象 の伝説」、Jobu00133点の木版画が挿入され、挿画家としての名声を高めた「ドイツ歴史の諸場面とエピソード」も、同社から出版された作品です。宗教的思想に裏付けられた文学的解釈、それを美へと昇華する芸術力。挿画本分野において、ミュシャは独自の、そして輝かしい業績を残しています。

 商業的に成功をおさめ、財政的な心配のなくなったミュシャは1910年、故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作「スラブ叙事詩」を制作。この一連の作品はスラブ民族の歴史を描いたものです。スメタナの組曲『わが祖国』を聴いたことで、構想を抱いたといわれ、完成まで20年を要しています。また、この時期にはチェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群やプラハ市庁舎のホール装飾等を手がけています。1918年にハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを行いました。財政難の新しい共和国のためにデザインは無報酬で請け負ったといいます。

 ミュシャの挿絵やイラストが、明治時代の文学雑誌『明星』において、挿絵を担当した藤島武二により盛んに模倣されました。ミュシャの有力コレクションの一つは日本にあります。堺市が所有し、堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館で一部が展示されている「ドイ・コレクション」です。「カメラのドイ」の創業者である土居君雄氏が、ミュシャの知名度がさほど無かった頃から個人的に気に入り、本業の商品の買い付けや商談の為に渡欧する度に買い集めました。また、ミュシャ子息のジリ・ミュシャとも親交を結び、彼の仲介によってコレクションの中核が築かれました。1989年には、土居氏にチェコ文化交流最高勲章が授与されています。土居氏が1990年に他界すると遺族は、コレクションが散逸してしまうのを憂慮して「相続放棄 すなわち自治体に寄贈」という方法を選択しました。1993年、土居夫妻が新婚時代に居住したことのある堺市に寄贈されたようです。

 私は彼の描く女性の表情がとても好きです。商業的でも単なる金儲けで描ける絵ではないと思います。儚い女性も大好きですが、のびのびとした輝く女性の姿も美しいと思います。ちなみに『オレンジの壺』の挿入画も彼の有名な絵の一枚です。

 今年もお世話になりました。コメントを下さった皆さん、本当にお付き合い願えてありがとうございました。来年が良い年になりますように・・・

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2009年12月24日 (木)

私の好きな画家~ダスタフ・クリムト

 彼の描く絵画はエロスがあり、非難を多く受けてきましたが、ようやく認められるようになった画家です。象徴主義を代表する画家でもあり、人物の顔や身体での写実的描写を混合させた独自の絵画表現で19世紀末の美術界を席巻し一世を風靡しました。

晩年期には最も様式的特徴であった黄金色の使用を捨て、色彩に新たな活路を見出します。また世紀末独特の退廃・生死・淫靡的要素を顕著に感じさせる作風も画家の大きな特徴でしょう。                  

 エロス・・・甘美で妖艶な色彩と表情、多用されたファム・ファタ ル(宿命の女)のテーマ、なまなましい人間の肌・・・確かに凝縮された言葉として「エロス」は的確かもしれません。しかしその言葉が与える印象だけでは、クリムトの描いた世界を充分に味わい尽くすことはできません。

私が一番好きな絵は『ダナエ』と『接吻』です。あまりに有名になりすぎた絵ですが、『ダナエ』がどういうストーリーを持っているかを知ると、その甘美さにただただひきつけられます。

 『ダナエ』はギリシャ神話で、アルゴスはペロポネソス半島にある国である。そこの王アクリシオスは、ある予言を与えられた。「お前に男の子は授からない。それどころか、お前は孫に殺されるだろう。」アクリシス王には一人娘のKlimt_danae_2ダナエがいる。孫が生まれないようにし
なくてはならない。王はダナエを青銅の扉のついた塔に閉じ込めた。男が接近しないように。しかし、ダナエは美しかった。ゼウスの目にとまってしまったのである。ダナエは堅固な土牢に居て、直接会うことはできない。ゼウスは、ある夜、黄金の雨の雫に姿を変えて、ダナエと交わってしまったのである。閉じ込めておいたはずのダナエに、男の子が生まれた。ペルセウスである。アクリシオス王は苦悩した。
生まれた男の子、ペルセウスに、アクリシオス王は殺される。予言である。
 この子を殺さなければならない。しかし、やはり殺すことはできない。王は娘ダナエと孫を、箱舟に閉じ込め、海に流した。
 箱舟はクレタ島の北にあるセリポス島に流れ着いた。二人は漁師に拾われた。その島の王ポリュデクテスはダナエを一目見て、愛するようになったというお話からできています。ダナエの美しさは身をふるわせるエクスタシーを優美に表現した作品です。豊かな顔の表情は、数多くの女性像の中でも絶妙にして秀逸といえます。

 『接吻』は、彼の代表作で、崩れ落ちる宝石のようなあやうい足もとと、まばゆい黄金の光につつまれた恍惚の表情。「愛」は「死」と共に在り、隣り合うことで輝きを増します。クリムト自身と恋人エミーリエ・フレーゲがモデルとされ、1908年の総合芸術展「クンストシャウ」(ウィーン)で大好評を博し、展覧会終了と同時にオーストリア政府に買い上げられたものです。
 大小の長方形の模様のついた、金箔にきらめくマントを着た逞しい男が、やはり金色で丸い花模様のついたドレスの女を優しくつつみ抱き、両手を女の頭部にまわし、顔を支えて、今まさに唇を合わせようとしています。女は忘我の表情をみせながら、右手を男の首にまわし、左手を男の手に添えています。女の恍惚感は、男のSeppunn_001 首にまわされた手の指先が、伸ばされた状態ではなく、ちぢこまっていることからも窺われます。官能的な場面ですね。クリムトが日本の琳派の影響を受けて金箔を多用した、いわゆる黄金時代に描かれた作品です。

 他にも師・ラウフベルガーから学んだ伝統的画法によって、権威の寵をいただいていたクリムトですが、自分の「表現の手段として」絵を描くきっかけとなったのが、ウィーン大学の天井画「医学」「法学」「哲学」の依頼でした。でもそれまでの伝統から逸脱した天井画は、教授たちからの総反対をかいます。彼の作品は教授たちが望む威厳に満ちた学問とは、かけ離れた存在であったからです。弟エルンストの死が、彼の表現になんらかの影響を及ぼしたのかもしれないとも言われています。
 この事件により、彼は国家というパトロンを諦める決心をし、「分離派」と呼ばれる反体制的芸術家集団の会長に就任し、それまでになかった新しい画風をつくりあげていき、同じような意欲を抱いた若き画家たちに、援助することを惜しまなかったそうです。

 そして多くの傑作が1907年代に描かれています。まるで憑かれたように、彼は描き続けました。生涯を通じて結婚することなく恋人として愛情を注いだのが、当時の社会では新進的な女性ブティック経営者であったエミーリエ。彼女は夭折した弟エルンストの妻の妹でした。他の女性や絵のモデルたちとの関係も多かったと言われるクリムトですが、彼女とは必ず夏にアッター湖畔でのんびりと過ごし、自由な関係を保ちながらも信頼しあっていたことをうかがわせます。
 アッター湖畔では安らぎに満ちた日々を送ったクリムトですが、ひとたび家に戻ると、驚くほど精力的に創作意欲を燃やしたといいます。

 一風変わった絵画に見えますが、たんにエロスだけに焦点を合わせただけでなく、絵の中からは「死」も背後に窺えます。それが私たちを捕らえてしまうのではないでしょうか。

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2009年8月30日 (日)

私の好きな俳優~藤原 竜也編

 1997年 蜷川幸雄演出の舞台『身毒丸』主役オーディションでグランプリを獲得し、デビュー。バービカン・センター(ロンドン)での公演にて、「15歳で初舞台とは思えぬ存在感で天才新人現る」と大絶賛され、 翌年の凱旋公演でもその迫力を見せ付けた藤原さん。

 蜷川幸雄氏にとって無くてなならない存在になっていきましたね。

【舞台】                                   

「身毒丸」(蜷川幸雄演出)1997(英国)、1998、2002年       Tatuya001     
「大正四谷怪談」(栗田芳宏演出)1999年
「唐版 滝の白糸」(蜷川幸雄演出)2000年
「近代能楽集~弱法師~」(蜷川幸雄演出)
  2000、2001年、2005年ニューヨーク
「身毒丸 ファイナル」(演出:蜷川幸雄)2002年
「エレファント・マン」(宮田慶子演出)2002年
野田地図第九回公演「オイル」(野田秀樹演出)2003年
「ハムレット」(蜷川幸雄演出)2003年
「ロミオとジュリエット」(蜷川幸雄演出)2004年
「天保十二年のシェィクスピア」(蜷川幸雄演出)2005年
「ライフインザシアター」(ポール・ミラー演出)2006年
「オレステス」(蜷川幸雄演出)2006年
「ロープ」(野田秀樹演出)2006年~2007年
「ヴェニスの商人」(グレゴリー・ドーラン演出)2007年
「身毒丸 復活」 (蜷川幸雄演出)2008年
「かもめ」 (栗山民也演出)2008年
「ムサシ」 (蜷川幸雄演出)2009年

これだけでも藤原さんの魅力全開なのですが、ここまで蜷川氏が彼にこだわるのは何故なのか最初は解りませんでした。

でも舞台のDVDを観て、理屈ぬきで素晴らしいと思いました。日本物も洋物も蜷川氏と藤原さんのタッグを、組めば魅了されない人はいないはずです。
 最近、小栗旬くんもこの世界に足を踏み入れたようで、でも2人は仲がよく、『ムサシ』は楽しみにしていました。

 まるで時代劇の映画が始まるというようなイメージで開演した「ムサシ」。

大きく真っ赤な太陽を背景に「佐々木小次郎(小栗旬)」は「舟島」の浜辺で「武蔵(藤原竜也)」はまだ来ないのかと待っている。「小次郎」のじりじりとした苛立ちをこの太陽で表しているかのような演出。平静さを失っていた「小次郎(23歳)」は「武蔵(29歳)」に一撃のもとに倒される。第一場はいわゆる「巌流島」の戦いの場面でした。今回の井上「ムサシ」はこの決闘から6年後に鎌倉にある小さな宝蓮寺での参籠禅の3日間の話です。

舞台は禅寺、竹林、法話、座禅、読経の声、能(謡、舞、役者のすり足の動作)、嗅ぎ茶(聴き茶)、歌舞伎の拍子木音、笛の音、幽霊、狸と兎の童話「かちかち山」の挿入など日本的な文化や精神や童話を取り入れて進行されています。

 寺で修行をしていた「武蔵」に果し状を持って「小次郎」がやってきました。「小次郎」は死んでいなかったのです。6歳違いの二人が6年後にあわや再決闘というストーリーの中にこの劇のテーマが潜んでいると思いました。

 何場でどの様な言い回しだったか忘れまさしたが宝蓮寺に招かれていた「大徳寺の沢庵和尚(辻萬長)」が「小次郎」と「武蔵」に向かって、「何のために剣術修行をするのか」と尋ねた場面で「小次郎」の「一番になるため」との答えと「武蔵」の「相手がいるので」との答えに対し沢庵和尚が二人に愚か者と叱咤しました。

 作者井上ひさし氏は現代の競争至上主義や人を危めることに対し怒りをぶつけたのではないか思います。
また「沢庵和尚」は「人がどうしても人を斬らねばならない三条件は、自分の欲からでなく、怒りからでなく、おろかでないこと」と諭します。この三条件をクリア出来る人などいないので、結局は刀を抜くことはありえない。この三条件は仏教の三悪の「欲」、「怒り」、「無智」を意味しているのでしょう。

 「筆問屋の主人(鈴木杏)」の父の仇打ちの場面で、「筆問屋のTatuya002 主人」が「うらみがうらみを呼ぶので仇討をやめる」と宣言。
過去や現在の戦争でのうらみの連鎖による色々な難問題への作者の提言なのではないでしょうか。うらみを断ち切ることは非常に難しいことですが、誰かが決断しなければならないのです。

 この場面は「武蔵」と「小次郎」への決闘中止の示唆でもあると思いました。

「かちかち山」に関しては狸が兎を追い掛けて一刀両断で「ウサギ」を真っ二つに切ったら「ウ(鵜)」と「サギ(鷺)」になり空遠く飛び立って行ったというセリフが場内を笑わせました。
 
 これは「武蔵」と「小次郎」が決闘をやめ辺鄙な土地へ別れて行くエンデイングのイントロだったのでしょうか。単なる笑いをとるセリフとは思えません。それとも他の意味があったもでしょうか。「武蔵」が地方で農業でもやると旅発つことや「小次郎」も地方へ旅発つことは、現在の日本の地方分権や農業振興を意図していると思うのは勘ぐりすぎでしょか・・・
 今回の「ムサシ」はエンターテイメントとして非常に面白かったです。人を殺しあうというシリアスなストーリーに笑いを入れた喜劇。

 特に笑えたのは、二人の決闘を阻止しようと「柳生剣法の柳生宗矩(吉田鋼太郎)」、「沢庵和尚」、「坊主の平心(大石継太)」が「武蔵」、「小次郎」も含め5人6脚で動き回る場面や「筆問屋の主人」の父の仇打ちのために「小次郎」に剣術を学ぶ場面での「武蔵
」、「柳生宗矩」、「沢庵和尚」、「平心」、「材木問屋の女将(白石加代子)」、「筆屋の下男の忠助(堀文明)」がタンゴの音楽に合わせ動き回る場面でした。これらの場面は5回目の公演とは思われないくらいにみんなの息があっていたそうです。
脇役の「白石加代子」、「吉田剛太郎」の演技が光りました。また「鈴木杏」の発声も良かったですね。

 今回の中越 司の美術はシンプルでしたが日本人の心に訴えるものでした。特にたくさんの竹が舞台上を動きながら禅寺が現れてくるシーンは幻想的でした。また、舞台でのやりとりの転換時における風に揺れる竹と効果音のハーモニーがすばらしかったです。

『デスノート』でも話題になりましたが、こんなに若いのにやってくれるな、ムサシ!というのが本音です。これからもいい俳優として活躍を期待してやみません。

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2009年8月22日 (土)

私の好きな演出家~蜷川 幸雄編

 今や押しも押されんぬ人物、蜷川氏。

俳優として活躍していましたが「自分は演出に向いている」と悟り劇団を結成し演出家に転向。アングラ・小劇場運動盛んな時期に演出家としてデビューし、若者層を中心に人気を集めました。70年代半ばから商業演劇に活動の場を移し、大劇場でのダイナミックな演出で話題作を次々と発表。90年代以降は中劇場の空間を好んで使っています。

 演出作品は、清水邦夫、唐十郎、井上ひさし、野田秀樹、岩松了Ninagawa_001 などの現代劇から、ギリシャ悲劇やシェイクスピア、チェーホフなど海外の古典・近代劇に至るまで、多岐にわたります。鮮烈なヴィジュアルイメージで観客を劇世界に惹き込むことを得意とする、現代日本を代表する演出家のひとり。海外でも評価が高く、「世界のニナガワ」とも呼ばれています。

 起用する出演者はトップスターや実力派俳優から人気アイドルまでと幅広く、意表をついたキャスティングで話題を呼んでいますね。

  短気な気質であり、俳優指導の厳しさでも知られ、世間一般的には「灰皿を投げる」スパルタ演出家のイメージが強かったのですが、現在は煙草を吸わないため、灰皿は投げないけれど、ごくたまに履いている靴などを投げたりすることはあるといいいます。

 俳優を稽古中に、「馬鹿」「ブタ」「死ね」「鼻くそ」「不感症」「でくのぼう」などと罵倒することもあるめ、敬遠する役者さんもいるそうです。

 しかしその厳しさの一方で人情的で心優しく『周りにだけでなく、同様に自分に対しても厳しい』姿勢で仕事をするため、数多くの俳優やスタッフから慕われています。

 現代演劇のフィールド外でも、小澤征爾の指揮による歌劇『さまよえるオランダ人』、宇崎竜童作曲によるミュージカル『魔女の宅急便』を演出しています。尾上菊之助の依頼を受け菊五郎劇団と組んだ歌舞伎『NINAGAWA十二夜』では、「歌舞伎国へ留学する」(本人談)と明言し、照明家と作曲家を除いては常連スタッフを起用せず、ほぼ単身で作品創りに臨みました。

演劇作品以外にも、映画、テレビドラマ、コンサート、ファッションショーやストリップショーなど、様々な媒体での演出を手掛けてます。 また、エッセイ集も出していますが、自身は、文章を書くことは楽しくはないが断れずにやっている、といいます。

 演出家の蜷川幸雄氏が脳梗塞を患っていたことがあり、蜷川氏によると、体調の異変を感じたのは朝だとか・・・。
「右足がグニャっとなる違和感を覚えた。直感的に嫌な予感がした。自分で(医師に)電話したら即入院。早かったから後遺症もなしです」と驚異的な回復力で仕事復帰しています。

重い後遺症が残りかねない箇所近くの毛細血管に病巣があったそうで1週間入院、治療に専念していました。
6月6日の新橋演舞場「NINAGAWA 十二夜」の舞台げいこ時の記者会見は体調不良を理由に欠席。
6月25日に行われた上演9時間の舞台「コースト・オブ・ユートピア」製作発表では何事もなかったように元気に振る舞っていました。

日本で一番忙しい演出家は、神経を酷使する日々で過去に十二指腸と胃の潰瘍で吐血(89年)、心筋梗塞(97年)、腹部大動脈瘤(2001年)の大病歴があり、ほぼ全快した時点で病気を告白していますが・・・

「この通り、ピンピンしています」と何事もなかったかのような元気な笑顔。
「酒やたばこはやらないが、今までは好き勝手にカツ丼や天丼ばかりを食べていた。でも、今は野菜サラダの日々です。情けない…」と笑わせていとそうです。

イギリス人に、シェークスピアを演出させたら誰がベストかと聞けば、必ず上位3人に名を連ねる日本人演出家・蜷川幸雄。シェークスピアの全37作品を全て日本で上演すると決め今現在格闘中の蜷川幸雄氏。

 シェークスピアの何が、蜷川氏をこれほどまでに駆り立てるのか?その秘密を探るために、蜷川氏は、悲劇「ロミオとジュリエット」でヒロイン・ジュリエットを熱演した女優・鈴木杏と共にシェークスピアゆかりの地を訪ねました。また、蜷川氏のシェークスピア作品に出演した名優たちがオールキャストで蜷川伝説の数々を語って蜷川氏の演出の秘密とその素顔をひもといてゆくと・・・・

 蜷川氏は鈴木杏と共に「ロミオとジュリエット」の舞台になったイタリShekusupia001 アの古都ヴェローナに旅立つ。何度もこの作品を演出している
蜷川氏ですが、彼にとっては初めての場所。以前、訪れる機会があったが敢えて拒否した町なのでした。実はシェークスピアもヴェローナには一度も行っていなません。それでも、ここを舞台に「ロミオとジュリエット」を書いたのです。二人はシェークスピアと蜷川には似ているところが多いことに気付きませんか?
 

 ここヴェローナの町にはなんとジュリエットの墓があり、バレンタインの日には世界中から、ジュリエット宛に1000通を超える手紙が届くといいます。二人は墓のあるカプチーニ修道院を訪ねました。
 
 そのほか蜷川の発想の源であるフィレンツェ、シェークスピアの祖国イギリスでは生誕の地ストラトフォードをはじめ、シェークスピアの墓などゆかりの地を訪ね、シェークスピアの墓標の前に立って、二人はあることに愕然と……
 
 プロデューサーからのひとこと:(熊谷信也)
 そもそも、彼の世界的名声を決定的にしたのは1998年ロンドンのバーヴィガン劇場で行われた真田広之、松たか子主演のシェークスピア「ハムレット」であった……
演出家・蜷川幸雄はコワイ。稽古場では尚、コワイ。しかし役者の信頼は厚い。70歳にして女優にも男優にも大いにモテている。なぜか?
東京では蜷川作品にかかわりのある女優男優陣が、蜷川幸雄のコワサと優しさ、門外不出のエピソードを語り、ヨーロッパでは女優鈴木杏を旅のともに、過去に語ったことのない、自分のこと、家族のこと、演出のこと、発想創作の原点を蜷川自身がシェークスピアゆかりの地で語ります。人間蜷川幸雄の狂気と愛情にふれることができ……やはりコワイ----これじゃ解らないですよね(笑)。
 
 以前、NHKBS-hiでは「蜷川幸雄特集DAY」があり、舞台2本、ドキュメンタリー1本の計6時間が放送されたそうです。観たかった
・・・

 NHKはかなり蜷川氏の秘蔵映像を持っているようですね、また放送して欲しいです。

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2009年8月15日 (土)

私の好きな画家~ジャン・ジャンセン

 ジャンセンは私の好きな現代作家の一人であり、これまでも挿絵として使わせていただいてきましたが、それがジャンセンという画家の作品とは気にもかけずに、ただ気に入った絵としていろんなギャラリーや美術館のサイトから見つけて保存していたものでした。

 それが私のブログを観てくださっていた方に何と言う画家の絵ですJannsenn013 か?と聞かれ、思わず息をのみました。こんな素敵な絵を描く画家のことを私は何も知らなかったのです。そこでネット上のあらゆる方面から調べ、有名な画家である事を知らされました。

 ジャンセンが描いた、生物画に、裸婦に、ダンサーに、魅了され、時間の経つのを忘れてしまいました。特に、ダンサー達の、華やかな舞台に立つまでの、レッスン場での、迷い、悩み、悲しみを抱えながら、自分自身と闘っている姿を捉えている絵からは、彼女達の心情が伝わって来るようで、胸が痛くなりました。
 

ジャン・ジャンセン(Jean Jansem,1920年 - )はフランスで活躍するアルメニア人で、 卓越したデッサン力により様々なコンクールで受賞を重ね、現在に至っています。 日本では1993年4月24日、安曇野に世界で初めての彼の美術館「安曇野ジャンセン美術館」が開館しました。 また、アルメニア大虐殺のシリーズを描いた後に画家としての功績が認められ、フランスのレジオンドヌール勲章と故国アルメニアの国家勲章を受章した素晴らしい画家です。

『人はひとりでは生きていけない。しかしその事実を描いた画家はまだ数人だけだ。1966年の国際形象展。ジャン・ジャンセンは”踊り子”を出品して人気画家に迎えられた。繊細な線描表現と、華麗に落ち着きのある色彩。そして踊り子の表情の聖らかさが胸を打った。流浪の民俗アルメニア人として、また戦渦のパリに青春を過ごしたひとりとして、愛の孤独が深く刻み込まれているからだ。
  画家は言う。「私は幸福を探さない」と。
   テーマはプロセッション(宗教行列)、闘牛士、マスカラードと変っていったが、純朴な人間達の魂を追う姿勢はさらに深まった。今、時代はジャンセンという声が世界中に響き始めた・・・・。』

このようにプロフィールを紹介されていたのを読んでまさにそのJannsenn011 通りだと思いました。

            =ジャン・ジャンセン略歴 =
1920年
小アジアのソールーズに生まれる。ギリシャのサロニカで少年時代を過ごす。11歳でフランスに渡り絵を描き始める。
1938年
パリ装飾美術学校を卒業。モンパルナスのデッサン学校ラ・グランド・シュミエールや様々なアトリエを訪れ絵の勉強をする。
1939~46年
サロン・ドートンヌ展、サロン・デ・アンデパンダン展、サロン・デ・ チュイルリー展、エコール・ド・パリ展、時代の証人画家展に
出品。
1946~48年
アカデミー・グラン・シュミエールに通い様々な画家と親交を深める。
1958年
サロン・デ・ジューヌ・バンチュールの会長に推される。サロン・ドートンヌの会員となる。メキシコのコンパレゾン賞を受賞。
1966年      
ベニスを訪れ運河を描く。国際形象展に招待出品を受ける。以後'86年まで19回出品。
1967年~
パリ、パームビーチ、シカゴ、東京、ヨハネスブルク、大阪、アントニー等で「ベニス展」「ダンス展」「闘牛展」「デッサン展」「
過ぎ去った時展」「風景展」「イタリアの風景展」「仮面舞踏会展」「マスク展」「回顧展」「石版画展」「宗教行列展」「パステル
・グワッシュ・デッサン展」「カーニバル展」等を開催。
1996年
安曇野・東京・大阪で「愛と哀しみを描いて60年」展開催。
2002年4月
祖国アルメニアに招待を受け、アルメニア正教の生誕1700年を記Jannsenn110 念し同国立美術館にて大々的に「虐殺展」を開催。アルメニア国家勲章(カラヤン/シラク大統領に続き三人目となる)を受章。(当館館長も同行)
2003年
フランス国家勲章、レジオン・ド・ヌール勲章を受章。
*ジャンセン本人が『生あるうちに必ず描きたい』と言い続け実現した、アルメニア大虐殺を描いたシリーズの展覧会。開催期間アルメニア国立美術館前には連日長蛇の列が出来、国をあげた凄まじいまでの反響がありました。また、この展覧会はパリでも開催
されシラク大統領もご覧になりました。

 光と翳の詩人。 自然を愛し、また自然であることをこよなく愛する画家『ジャン・ジャンセン』の世界は素晴らしいにつきます。

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2009年7月29日 (水)

私の好きな画家たち~アンディ・ウォーホル編

 マリリンモンローが微笑んでいるポップアートを観たことの無い方はいないでしょう。この絵を描いた画家がアンディ氏なのです。
 カーネギー工科大に通い、ニューヨークへ出てイラストの仕事につきますが、やがて漫画を題材にして絵を描くようになり、ドル札、キャンベル・スープ、マリWarhol_work01s リン、惨事シリーズを制作するようになりました。銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。本名はアンドリュー・ヴァーコラ。

 1960年、彼はイラストレーションの世界を捨て、ファインアートの世界へ移る。『バットマン』、『ディック・トレーシー』、『スーパーマン』など、コミックをモチーフに一連の作品を制作しましたが、契約していたレオ・キャステリ・ギャラリーで、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインのポップイラストレーション作品に触れて以降、この主題からは手を引いてしまいます。当時アメリカは目覚ましい経済発展のさなかにありました。

 1961年 (33歳)、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描きはじめます。ポップアートの誕生です。

1962年にはシルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになります。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいました。
 マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、以後これを色違いにして大量生産しつづけた。ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用。

ウォーホルの多くの作品はアメリカ文化とアメリカなるものの概念をテーマにしています。彼の選んだ紙幣、ドルマーク、食料品、日用品、有名人、ニュース写真、事故などは、彼にとってアメリカの文化価値を代表するものでした。たとえばコカ・コーラは「コークはいつでもコーク。大統領の飲むコークも僕の飲むコークも同じだから」Andei004 というわけで民主主義社会の平等性を表すものでした。

こうしたポピュラーなイメージや手法を、彼は20世紀アメリカの文化的アイデンティティーを視覚化するために使用。世界に影響を持つに至ったアメリカ文化の再定義はウォーホルのテーマであり、ウォーホルもまた世界的に影響を持つようになりました。

 1964年(35歳)からはニューヨークにファクトリー (The Factory、工場の意) と呼ばれるスタジオを構えました。ファクトリーはアルミフォイルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られました。
彼はここでアート・ワーカーを雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作しました。ファクトリーはミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)、ルー・リード(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、トルーマン・カポーティ(作家)、イーディー・セジウィック(モデル)などアーティストの集まる場となっていきました。凄い面々です!

19世紀末、ニーチェが「神は死んだ」と言言いました。これは来るべき20世紀モダニズム社会への警鐘であったのでしょう。

1960年代、アメリカは高度経済成長の只中にいて、モダニズムの社会でした。大量消費社会の背景にあるのは、物質文明。人間は神など信じていない。「物」を信じ、「物」を作り出す「機械」を信じ、その機械に支配される。そんな時代が衰えていくどころか、どんどん加速していきました「物」の中に「情報」も含まれる。すなわちマスメディアです。大量消費社会を加速させていくのは、大量に消費される情報である。「情報」がかつての「神」に取って代わったのです。

 1961年、史上最年少の大統領ジョン・F・ケネディの誕生に全米がわいた。同年、ベルリンの壁が築かれ、東西ドイツ分断。
 1962年、キューバ危機。同時にアメリカはベトナムに一万6500人の「ミリタリー・アドバイザー」を送りこむ。
 1963年、ベトナムからの完全撤退を考えていたケネディ大統領が暗殺される。
このあとアメリカはベトナム戦争へと突入してしまう。
 1962年、マリリン・モンローが謎の死をとげる。ウォーホルは同年、「ゴールド・マリリン」を制作した。金色はヨーロッパではキリスト教の宗教画によく使用される。聖母マリアやイコン画などである。マリリンはウォーホルにとって「イコン」でした。それだけではなく、
病めるアメリカにとって、イコン的な作品が「ゴールド・マリリン」だったのでしょう。「物」が溢れている社会は、その裏で「虚無感」がつきものです。

ウォーホルはマリリン・モンローや毛沢東の顔を繰り返しました。曼荼羅のよAndei010うに顔を並べただけ。交通事故の写真や電気椅子も繰り返し事故の写真も一枚だけならリアリティーを持って見ることができます。しかしマスメディアはこれを繰り返すのだ。繰り返し繰り返し情報を流す。その過程で、リアリティあるものが、虚無化してしまう。「神」が死んだ時代にふつふつと湧いてきた「虚」の世界。これをつかんだのがウォーホルの天才でした。

きらびやかな消費社会の裏側にある、どうにもならない重苦しい雰囲気、虚無感。光は強ければ強いほど、闇は暗いのである。現実を現実として見ることができない。あるのはマスメディアの情報だけ。本当は暗い闇から叫び声を上げたいのに、光あるきらびやかな世界に踊らされる。それは本当の自分ではないのです。ウォーホルだけではなく、20世紀芸術にはこういった虚無感の叫びがありました。

 ウォーホルにとっては「買う」は「考える」よりずっとアメリカ的。アメリカは人でも金でも会社でも国でも買ってしまう国だから、ウォーホルはアメリカでなければ生きられない。そのかわり、ウォーホルには人というものはすぐに狂気に走りたがることが手にとるように観察できました。ともかくウォーホルは有名なものを複写して複製して、仕事場を会場にしてポップアート宣言するだけなのだから、あとは集まってきた連中がおかしくなるのを待つだけでした。23歳で髪を真っ白にしておいたのもうまくはたらきました。そのころのベルベット・アンダーグラウンドに「オールトゥモローズ・パーティ」という歌があったけれど、たいていはパーティに来ているうちにおかしくなっていました。だから映画スターやポップスターはみんな成り上がりだが、パーティに顔を出しているうちに成り下がるのが目に見えていました。だから60年代はみんながみんなに興味をもって、パーティがつまらなくなった70年代はみんながみんなを捨てはじめたのです。
  

 ウォーホルがメディア・パーティの主人公だと勘違いされた60年代は、目立った男や目立った女と親しくなるためにはファッションも言葉も趣味も独特でなくてはならず、それで傷つくのを恐れてはいけなかったのです。いいえ、必ず傷つくために親しくなったものでした。
そして親しくなったら、必ず傷ついた・・・親しくなるというのはウォーホルにとっては、そういうことだったのです。
 こうしてウォーホルは10年に1度しか休暇がとれなくてもどこへも行きたくないという奇人変人になりおおせました。たぶんウォーホルは招かれないかぎりは、いつも自分の部屋にいたのでしょう。テレビを2台つけて、リッツ・クラッカーをあけて、ラッセル・ストヴァーの
チョコレートを食べて、新聞と雑誌を走り読む・・・

 ウォーホルは「ひなひな」であり、ママ坊であり、再生元素がAndei008 足りない化学物質でした。しかしそのぶん、ウォーホルには常套句がありました。それがウォーホルの哲学でした。「だからどうなの?」と言ってみること。言わないときは心で呟いてみること。
 母親に愛されなくてねえ。だからどうなの? 旦那がちっともセックスしないのよ。だからどうなの? 仕事ばかりが忙しくてさ。だからどうなの? いまの会社で大事にされているんだけど、なんかやることがあるような気がしてね。だからどうなの? これってアートにならないらしい。だからどうなの?
 

 いずれにせよ、人はいつも同じことを繰り返してばかりいるのですね。ウォーホルからすると、それで失敗するのは当たり前で、成功することなど忘れれば、すぐに成功するのにと思えると言います。
 

 そのうち、ウォーホルはまた気がつきます。「新しいものとはわからないものなんだ」ということでです。それが何かさえわからないもの、それだけが新しいものなのです。ということは、「これ、わからないね」と言われれば自信をもてばいいはずです。ただし、100%わからないものにしなくてはいけない。全部わからないのが、いい。「ここがわからない」と言われるようではダメなのです。ウォーホルは、こう、確信しました。「とくにアートは作れば新しくなくなっていく」。

 でも好きですね、私。
 

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