書籍・雑誌

2009年11月 2日 (月)

私のお勧めの作品~『横道世之介』

 これも大様のブランチの受け売りなのですが、かなり評判になりそうな吉田修一さんの本です。

 18歳の世之介君が大学へ入って様々なことと出会い、成長していくストーリーです。世之介君は何処にでもいそうな一見目立たない存在なのですが、読んでいるといとおしKaii16くなるキャラクターなんですね。自己主張をあまりせず、『呑みに行く?』といわれれば『うん』と答えてしまい、素朴で人懐っこい性格は、こんな人いたなあと思わせてくれる、思い出させてくれる人物です。

1980年代のお話なのですが、20年後の現代にも繋がっていてそこが面白かったりします。20年前の出来事と同時に登場人物達の現在が挿話としてさしこまれ、世之介君の輪郭を埋めこんでいくと言う形がいいのでしょう。

 田舎から上京し、ワンルームマンションで戸惑いながらクラス1年間。単に皆に流されているだけのように見えて、流れを作ってるのは世之介君のほう。
 ふっと気が付くと世之介君の存在が大きくなっていると思ってしまう回りの皆。結局彼の存在を認め、再認識しているのです。なんだか酸素のような存在と私は思ってしまいました。

 恋愛も田舎にいた時に好きだった同級生のことを思い出しながらも、年上の片瀬千春に憧れ、東京湾の残土処理業者として成功した家のお嬢様祥子に惹かれていくところなどは少しハラハラします。

 何せ携帯もパソコンも無い時代なので、ジンワリ個々の距離感があるのが妙に懐かしいのです。私の学生時代がまさにそういう状況だったので頻繁に公衆電話を使うことが時々面倒になることもあったりして・・・だから友達より、自分のマンションの周Higashiyama_work24s りの住人と仲良くなれたりしたんだと思います、世之介君のように。

 彼は、損得や、成功するかどうかの値踏みをしない人です。とにかくそっちへ行き、飛び込んでみる、それが何なのか解った時、世之介君は、変わらないのに大人になっていったような感じがします。

 何て事のないというか、起伏の無い作品なのですが、読み終わったあと、無償に愛しくなる作品です。ここまで人を惹きつける要因は何なのでしょうね。

 時が経って思い出の風景の中で輝いている人がいたら、それが私にとっての横道世之介なのかもしれません。

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2009年10月31日 (土)

私の大好きな作品~『蒲田行進曲』

 1982年、もうそんなに前のことだったのかと思わせられるほど、私の中では色あせない物語です。直木賞をとったことで、興味を持ち読んだのですが、もうたまらなく面白かったというか趣があったので、つい映画も観てしまいました。もともとつかこうへい氏のお芝居から端を発していたので、お芝居で観るのが一番面白かったのかもしれませんが、生憎その頃はお芝居に興味はなかったし、つか劇団も殆ど知りませんでした。      

 あらすじはご存知の方も多いと思いますが、何せ25年以上前のお話です。時代劇のメッカ、京都撮影所。今、折りしも「新撰組」の撮影がたけなわである。さっそうと土方歳三に扮して登場したのは、その名も高い“銀ちゃん"こと倉岡銀四郎である。役者としての華もあり、人情家でもあるのだが、感情の落差が激しいのが玉にキズ。こんな銀ちゃんに憧れているのが大部屋俳優のヤス。ヤスの目から見れば銀ちゃんは決して悪人ではない、人一倍、仕事、人生に自分なりの美学を持っているだけだ。ある日、ヤスのアパートに銀ちゃんが、女優の小夏を連れて来た。彼女は銀ちゃんの子供を身ごもっていて、スキャンダルになると困るのでヤスと一緒になり、ヤスの子供として育ててくれと言うのだ。ヤスは承諾した。やがて、小夏が妊娠中毒症で入院するが、ヤスは毎日看病に通った。その間、ヤスは、撮影所で金になる危険な役をすすんで引き受けた。小夏が退院して、ヤスのアパートに戻ってみると、新品の家具と電化製品がズラリと揃っていた。だが、それとひきかえにヤスのケガが目立つようになった。それまで銀ちゃん、銀ちゃんと自主性のないヤスを腹立たしく思っていた小夏の心が、しだいに動き始めた。そして、小夏はヤスと結婚する決意をし、ヤスの郷里への挨拶もすませ、式を挙げて新居にマンションも買った。そんなある日、銀ちゃんが二人の前に現われた。小夏と別れたのも朋子という若い女に夢中になったためだが、彼女とも別れ、しかも仕事に行きづまっていて、かなり落ち込んでいるのだ。そんな銀ちゃんをヤスは「“階段落ち"をやりますから」と励ました。“階段落ち"とは、「新撰組」のクライマックスで、斬られた役者が数十メートルもの階段をころげ落ち、主役に花をもたす危険な撮影なのだ。ヤスは大部屋役者の心意気を見せて、なんとか銀ちゃんを励まそうと必死だった。“階段落ち"撮影決行の日が近づいてきた。ヤスの心に徐々に不安が広がるとともに、その表情には鬼気さえ感じるようになった。心の内を察して、小夏は精一杯つくすのだが、今のヤスには通じない。撮影の日、銀ちゃんは、いきすぎたヤスの態度に怒り、久しぶりに殴りつけた。その一発でヤスは我に帰った。撮影所の門の前で、心配で駆けつけた小夏が倒れた。“階段落ち"はヤスの一世一代の演技で終った。(goo映画より)

 物語は勿論面白いのですが、何より、セリフがいいんです。映Kamata_001 画は映画用につかさんが書き直しているのですが、小説でも笑ってしまうセリフ、例えば、銀ちゃんのあまりに派手な格好をヤスが褒めると、『オレの場合、センスがセンスしちゃってよう。』なんて言ってみたり、ヤスはヤスで小夏を養う為に火達磨になっても『オレの場合、背中に哀愁が出てるってその分ギャラが高いんです。』・・・『顔なんて写ってないくせに』と小夏につっこまれたり。

 一番印象深くて心に響いたセリフが、ヤスが階段落ちを決めてから毎晩飲んだくれていた時、小夏は『私、この生活気に入ってるのよ、何が不満なの?』と問われて、ヤスは背中を向けて『優しくされるほど、苦しいんだ、切ないんだよ。』とポツリと言った一言です。

 邪険にされることに慣れていたヤスにとっては、優しさが一番嬉しくもあり辛くもあったのだと思います。銀ちゃんも階段落ちが決まってから目をあわせてもくれない、それが淋しくて仕方がなかった・・・最後に渇を飛ばされた時、『銀ちゃんはそうでなくっちゃ!』と喜ぶ姿は長年大部屋で培ったものであり、ヤスの本当の優しさの表れだったと思います。

 小夏も小説の中では昔『二十四の瞳』のヒロインをやったほどの女優で、最後の最後まで銀ちゃんを愛していた、けれど主体性の無かったヤスのひたむきさにいつしか心がヤスへと向かう、女ってそいうとこありますよね。小夏流で言うと『どう観ても不細工な顔』でも新しい出発のため、銀ちゃんのマンションの大掃除を終え、シャワーを浴びて泣き崩れるところは小夏も辛いんだという境地につかってしまいました。

 愛することと愛されること、狭間に立って苦しむこと、尽くすことと尽くされることに慣れてしまうこと、そういうことを考えさせられる作品でした。

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2009年10月29日 (木)

私の好きな作品~『ライ麦畑でつかまえて』

 これを初めて読んだのは25歳でした。遅すぎたと後悔しました。友達がまさにこの作品に感化された生活をしていて、ちょっと憧れもあってサリンジャーを一通り読みました。異質な世界ではあったし、言葉は汚いし・・・でも未成年ならホールデンの気持ちが解るのだろうなと思ったものでした。私もいつの間にか感化されていた事は否定できません。今も人気のある小説であることは否めないでしょう。村上春樹氏が翻訳し直したことでも物議を醸し出しました。

 私は野崎氏の翻訳しかまだ読んでいないのですが、春樹氏のLichtenstein_work09s サリンジャーへの並々ならぬ思い入れが解るだけにいつか春樹氏の翻訳も読んで観たいと思っています。

 大戦後間もなくのアメリカを舞台に、主人公のホールデン・コールフィールドが3校目に当たるボーディングスクールを成績不振で退学させられたことをきっかけに寮を飛び出し、実家に帰るまでニューヨークを彷徨する3日間の話です。
 自身の落ちこぼれ意識や疎外感に苛まれる主人公が、妹に問い詰められて語った夢:自分は、広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気付かずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間になりたい・・・が作品の主題となっていると思います。このクライマックスシーンを導くために主人公の彷徨のストーリーが積み重ねられているようです。

 1945年発表の短篇「気ちがいのぼく」(原題:I'm Crazy)を敷衍した内容となっており、主人公がニューヨークを放浪して家に帰った後、いくらか月日が経過してから「君」に語りかける構造になっています。ブロークンな口語体で主観的に叙述されているため、事実とは異なると思われる表現や支離滅裂な文体が見られます。(参考文献より)

 今では、その当時の若者言葉を記録している本として、参考文献にされています。ある米映画で『お前はいつまでもホールデンだな』と茶化されているシーンがありました。どのようにこの話を参考文献にしているのかとても興味深くもあります。その独自な文体に加え、欺瞞に満ちた大人たちを非難し、制度社会を揶揄する主人公に共感する若者も多いのですから。

 しかし攻撃的な言動、アルコールやタバコの乱用、セックスに対する多数の言及、売春の描写などのため、まだピューリタン的道徳感の根強い発表当時は一部で発禁処分を受けています。若者の熱狂的な支持と体制側の規制は、アメリカの「暗部」の象徴としての役割を負うことになりました。ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンも、レーガン元大統領を狙撃したジョン・ヒンクリーも愛読していたそうです。

 全世界の若者に与えた影響は凄いもので発表以来60年近く経った今でも版を重ねています。累計発行部数は全世界で6000万部、アメリカで1500万部を超え、2003年時点でも全世界で毎年25万部が売れるといいます。2002年には野崎訳の累計発行部数が250万部を突破しました。

 単なる、世間知らずの若者が大人への通過儀礼への葛藤を描いPubne た本ではなく、主人公には何気ないものが、インチキに見えたり逆に取り留めのないことがまいったなどという主張を独断的に展開していく姿に、現代的な孤独のヒーローを感じる読者が多のでしょうね。ヒーローといっても、ケンカは弱く、スポーツもさして出来ず、成績不良な落ちこぼれなのですが、ある一貫した主義・主張がある気がするのは何故なのでしょうか。

 ホールデンは純粋で傷つきやすい人間だと感じました。頭もいいし、モラルもあります。しかし彼自身はまったく逆のことを言い、逆のことをしようとする・・・簡単に言ってしまえば、彼は理想と現実の相反するものに苛まれているのだと言う評価もあります。眼の前にある景色に割り切れない思いを感じ、それを未熟な彼は消化できないのでしょう。そういう青少年は今も確実に悩んでいるのです。だからモラトリアムという言葉も使われたのでしょう。

 また、父親も、重要な位置をさしているのかも知れません。父親は同性の先輩として、こうした自己形成の不全な子供に対し、何らかの役割を負わねばならなかったとも言えるのかもしれません。
 しかし間違いなくホールデンの父親はそうした義務を放棄しています。彼を息子を全寮制の学校に放り込み、放校になってもまた新しい学校に放り直すだけ・・・。最初の学校からドロップアウトしたとき、父は息子が何故そんな不始末をしでかしたかを考えたのでしょうか・・・もちろんそれなりの悩みはあったのかもしれません。しかし行動としては何も示してやらなかった、少なくともホールデンが感じるようなことは何もしなかったのは確かでした。仕事にばかり入れ込んで、自分を振り返ることも無い背中ばかりの遠い存在、それが父親なのだと思っていた、これは悲しいことです。誇れる父親がほしいのでしょう。ホールデンが学校という枠の中に納まりきらないのも、社会を斜めに見ているのも、既存の権威を馬鹿にするもの、ある意味父親に対する反抗もあったのではないでしょうか。
 
 でも父親だけが原因ではないと私は考えます。今の日本社会の父親は多かれ少なかれ、家族の為に奔走してる、そのために子供と向き合う時間が少ないと言う現状で子供たちがみんな現実逃避している訳ではないのですから。

 たぶん兄のD・Bという人間は、ホールデンにとっては父よりもずっと身近で、目標になるほど先を行く存在であったのだろうと思います。しかし兄はシナリオ書きとしてハリウッドに行き、たぶんその仕事があまり上手くいっていなかった・・・。そんKayama_work05s な姿を見て、彼は自分がこれから経験する挫折を予感してしまったのかもしれません。

 こうしたホールデンの心理的な混乱が象徴されているのが、タイトルになっている“The Catcher in the Rye”です。将来の目的を見出せない彼は、ライ麦畑の中で遊ぶ子供たちを、崖に落ちる危機から救う“Catcher”になりたいという意味不明な夢想を幼い妹に話して聞かせます。このとき、子供たちというのは、もちろん話し相手のフィービーも含まれますが、幼い頃の自分と、もちろん死んでしまった弟のアリーをイメージしていますね。平和で何の疑問も無かった少年時代、彼は世界が自分を受け入れない存在だとは知らなかったのだと思います。すべての子供たちが、いまの自分のように、途方も無い深みに落ちてしまわないようにしてあげたい・・私はホールデンが自分を捕まえて欲しいと願っていると思っていましたがそうではないのですね。
 またこの作品では主人公の語りの中で物語が進むのですが、今のあらすじは、あくまでもホールデンの外側に視点を据えているだけとも思えます。

 内側の視点はもっと難しい(サリンジャーを知ることが難しいように)に違いありません。私はそここまで踏み越えることが出来きたのでしょうか・・・
 『キャッチ・インザ・ライ』は読み手によっていくらでも解釈が出来、ヒーロと思う方とアンチヒーローと思う人がいて、それでいいと思います。

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2009年10月27日 (火)

私の好きな作品~『ゴッホ殺人事件』

 おなじみ高橋克彦さんの作品です。「写楽殺人事件」「北斎殺人事件」「広重殺人事件」ほか、高橋克彦氏の小説にみられる着想のあざやかさ、物語の展開の鋭さには脱帽です。「写楽殺人事件」を読んだ時は正直、今までには無かった着想だと関心させられました。
 日本とヨーロッパを舞台にした美術界の謎を中心に物語が進むこの「ゴッホ殺人事件」でもしかりです。
 
 今や世界中で知らぬ人の無い「ゴッホ」という天才画家。「ひまわり」Gohho40 「黄色い部屋」「アルルの跳ね橋」「星月夜」…彼の絵を一度も目にしたことが無い人間を探す方が困難ですよね。生前に売れた絵はたったの一枚である…という彼の絵は、今や一枚10億~15億という天文学的価格で取引されているそうです。
 
 ゴッホは、数々の恋愛事件、ゴーギャンとの諍い、耳きり事件、精神錯乱…そして自殺。また、四歳年下の弟・テオとの美しい兄弟愛で知られますね。テオは当時パリ屈指の大手画廊に勤め、兄であるフィンセント・ゴッホを経済的に援助し続けていたことでも有名です。
 ここで疑問が起こります。弟は大手画廊に勤めながら、何故、兄ゴッホの絵が売れなかったのでしょう・・・ ここも読んでいて惹きつけられる部分です。

 写楽や北斎が頭を過ぎります・・・

 この「ゴッホ殺人事件」舞台はパリ。オルセー美術館の美術修復家、由梨子はオランダ人の父を持つハーフ。ある日、母が突然自殺し隠し金庫の中からあるリストが見つかる。どうやらゴッホと関係のあるリストのようだ。オルセー美術館のゴッホ専門家のキュレーターに問い合わせると、どうやらそれはナチスが押収し、公開されていないゴッホの作品50点のリストだということが発覚する・・・

ゴッホは自殺だったのか?
50点のリストは本当にゴッホの作品なのか?
そして
これだけ愛されている画家、ゴッホの作品がなぜ生前は一枚の絵も売れなかったのか?

という美術史上で依然として謎の部分にも触れられています。このGohho3 ミステリー、どこまでがフィクションでどこまでが真実か、解らなくなくなります。とにかく読んでいて難しいけれど面白いのです。

 後半では「浮世絵シリーズ」で活躍する浮世絵専門家の塔馬も登場。シリーズ探偵である塔馬双太郎の悲しい過去の清算もファンには見逃せません。絵画をテーマとして大ベストセラーになった「ダビンチ・コード」も面白かったですが、それと同じくらいこの本も面白いと私は思いました。
 複雑なトリックなどはありませんが、「ダビンチ・コード」よりも絵そのものにこだわっていることが感慨深いですね。しかも扱っている画家はダビンチに負けず劣らず高価な値の付くゴッホです。それと、ナチスのがらみの話も興味深いのです。ナチスが押収した美術品というのは美術家の中ではそれだけで評価に値するほどの正確さがあったとのこと。

母親の死の謎を追うはずだったのが、ゴッホの未発見の絵の存在にかかわってくることで、ゴッホの生涯の謎の解明にせまることになっていく展開が面白いです。

 ゴッホの秘密めいた生涯を知りたい方には是非お勧めです。

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2009年8月20日 (木)

久々に読んだ作品~『壺霊』

 私がミステリを読むきっかけとなったのが内田康夫氏の浅見光彦シリーズでした。かなり読んでからドラマで、光彦役を水谷豊さんが演じているのを見て嬉しくなり、ずっとファンだったのですが、水谷さんの服装が光彦らしくないと言うクレームがどこからかきて、日本テレビでの放映は中止。代わりに他チャンネルでこぞって浅見光彦シリーズ、信濃のコロンボシリーズとやるようになって、いつしか 私は内田先生の作品は読まなくなってしまいました。

 ところが風の便りで『壺霊』はいままでとは違う!と聞かされ、頭Hirosi001 の体操程度に思って読み始めました.

 舞台は京都。代々伝わる高価な壺を手に、老舗骨董品店の女将が姿を消した。秋の京都を取材で訪れていた浅見光彦は、彼女と壺の行方探しを頼まれます。その頃、清水寺の裏手で女性の他殺体が発見され……。
 
ヒロインの父・伊丹勝男が光彦に言います。「京都の女は怖いですよ」と。

 今回の浅見光彦は、謎のスポンサーのご指名により、京都・高島屋デパートにあるダイニングガーデン京回廊の全店舗の料理を紹介する記事を書くよう依頼を受けますそして、同時に兄の陽一郎直々に、京都の老舗骨董店・正雲堂の嫁の失踪と高麗青磁壺の紛失事件の解決に尽力するよう頼まれるのです。

 家出した旧家の嫁と、無くなった『紫式部』という名の高価な壺。その壺の名付け親の不審な死・・・殺されてしまう彼の隠し子・・・
京都を舞台に名探偵、浅見光彦が例によって、その謎を解いてゆきます。

上巻は、ゆったりと進みます。調査依頼した方も非協力的で、浅見も強引には進めようとしません。

下巻に入って、刑事と協力するようになって展開が早くなり、めざましく進展します。全体に文章は読みやすく、安心して物語を楽しめる上下巻あわせて650ページ近くの長編ですが、長いという感じがしませんでした。
 

 巻末を見ると、京都新聞に連載されたものだと解りますが、新聞連載のためか同じことの説明が何度も繰り返されるのが少々飽食感。
重複する所がいくつかありクドイ感じもしますが、これは内田先生らしさかもしれません。

ダイニングガーデン京回廊の仕事は付け足しのようになってしまうし、光彦の事件への取っ掛かりになる安井金比羅宮「縁切り碑」の形代(伊丹佳奈が失踪する原因と考えられたもの)が、実は伊丹夫婦の作り物であったとか、少々興醒めなトリックもありますが・・・

 京都通でないとなかなか知らないような場所やエピソードが物語に効果的に絡んでいて、内田作品ならではの、ひと味違うご当地ミステリーを楽しむことができます。今回面白いのは、推理に自信を持って事件の関係者と対決する浅見が、どういう目に遭うかです。

これまでどちらかというと、神懸かり的な推理力で事件を解決してきた印象のある名探偵ですが、今回ばかりは少し空回りします。

しかも、20歳そこそこのヒロインから40代の魅力的な女性まで、京女に翻弄されっぱなし。寂光院の放火事件や祇園祭での事故など、本当の事件もふんだんに出て来て、内容は盛りだくさん。読者は浅見さんとともに、京の町家暮らしやグルメを味わううちに、事件の謎を追い、意外な犯人にたどり着く……内田ミステリの王道的作品だと思います。

 読者は、我らが次男坊光彦とともに、京の町家暮らしやグルメを味わううちに、事件の謎を追い、意外な犯人にたどり着くでしょう。

下巻の終りに入っている小林由枝さんの「京都空想迷路」も面白く、ちょっとしたガイドブックとしても楽しめます。

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2009年8月19日 (水)

私の好きな作品~『火宅の人』

私は銀座の酒場の酒を浴びるように飲んで、禊ぎたいのである。この火宅の夫は、とめどなくちぎれては湧く自分の身勝手な情炎で、我が身を早く焼き尽くしてしまいたいのである。しかし、かりに断頭台に立たせられたとしても、我が身の潔白なぞは保証しない。

いつの日にも、自分に吹き募ってくる天然の旅情にだけは、忠実でありたいからだ。
それが破局に向かうことも知っている。
 かりに破局であれ、一家離散であれ、私はグウタラな市民社会の、安穏と、虚偽を、願わないのである。かりに乞食になり、行き倒れたって、私はその一粒の米と、行き倒れた果の、ふりつむ雪の冷たさを、そっとなめてみるだろう。

                                               - 檀一雄 『火宅の人』-

「最後の無頼派」檀一雄の代表作です。自分自身をモデルに放蕩を重ねる「火宅の人」。
 

「最後の無頼派」檀一雄の『火宅の人』といえばずい分と前から名前は知っていました。ところが初めて本を読んでみて、イメージと内容との違いに随分とびっくりしてしまいました。

読む前のイメージといえば、放蕩を続ける男の破滅的な物語だPikaso と思っていたのですが
、まるで逆の実に繊細ともいえるような、細やかな内容と言っていいと思います。

確かに内容として「桂(檀)一雄の破滅的な人生」を取りあげているのに間違いはないのですが、実に丁寧に自分の心情が吐露されています。それは単純な独白だけではなく、行動による表現も含まれています。
 

  年譜のように行動を羅列し遠目で見てみると単なる異常な男に見えます。少なくとも今の日本の常識では全く推し量ることのできない変人でしょう。しかしこの小説『火宅の人』からは「変人」という一言の枠の中に押し込むことのできない一人の本当の人間の姿が浮かび上がってくるのです。変人・わがまま・身勝手という言葉とはむしろ反対の、小心で正直な人間の姿です。 

 この作品は描いている内容的にいわゆる「私小説」と比較されやすいのではないかと思うのですが、そういう点で暴露的・俗悪的なレベルでいうところの「私小説」とは大きな違いがあります。著者の言葉(解説より)によると「私小説というみみっちい小説形態を存分
に駆使して、それこそロマンよりも大きなロマンにしてみたい」、桂一雄という一人の人間によるもっと「大きなロマン」が見事に描けていると思います。

 それはやはり単なる暴露的な物語ではなく、人間そのものが丁寧に、しっかりと描かれているからなのでしょう。
 とにかくこれは実に優れた小説だと私は思います。「豪放磊落」という小説の外見のイメージとはかけ離れている、という点が非常に面白いとも思うのです。

『火宅の人』というタイトルの持つイメージに対する野次馬的な興味でも、ぜひ一度読んでみることをおすすめしたい作品です。

 何はともあれ、生きると云うことは愉快です。或いは、愉快に生き抜くと云うこと以外に、格別な人間の道はないように思えてくるから不思議です。かりにそれが惑いであっても、槿花一朝の夢であっても、徒労の人生ほど、私にとって愉快なものはないと思えてきます。
花は咲いて、しぼんで、また咲く・・・。花はもとの花ではないかも知れないが、それでも、花は、それぞれに、精一杯に咲くでしょう。そんな気持ちにさせてくれた久々の一級の作品でした。

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2009年8月17日 (月)

私の好きな作品~『夜明けの街で』

 またまた東野さんの登場です。『容疑者Xの献身』は言葉どおり献身的な石神さんと言う一人の男性のあくまでも献身的な愛で形作られたわけですが、この『夜明けの街で』は全く石神さんの対極に位置する約どころの男性が主人公です。これはいったいどういうことか東野さんのインタビュー記事から抜粋します。

 軽快な語り口、ミステリとラブストーリーの画期的な融合は東野圭吾さんの新境地。そこには主人公らの成長や家庭の崩壊と再生の過程、また男性の浮気に対する賢明な対処法などを読み取ることもできる、奥行きのある作品です。

 時効を間近に控えた殺人事件の真犯人は一体誰なのか? とJannsenn081 いうミステリと初めての不倫の恋にのめり込んでいく中年男性のラブストーリーをひとつの作品に詰め込もうと思われた経緯から教えて下さい。

東野: 「僕はサザンオールスターズの『LOVE AFFAIR ~秘密のデート~』がすごく好きで、あれをカラオケで歌っている時に“この世界を小説にしたいな”と思ったんです。あれは不倫の歌なのに少しもドロドロしてなくて、さっぱりとした感じがある“この主人公はどんなヤツだろう? どんな不倫をしてるんだろう”と興味が湧いたわけです。5、6年前かな。で、あの歌、歌い出しが“夜明けの街で”なんですよ」

―― 確かにそうですね。

東野: 「それともうひとつ別に“愛している人間が犯罪者だったらどうなるだろう”という話を書きたいなというのがあって。でも“犯罪者だった”や“犯罪者です”だと、答えは結構絞られそうな気はするんですよ。それで“犯罪者かもしれない”という場合はどうなんだろう、と。あと、犯罪者だとわかって捕まっちゃったら、もう絶対に別れなければいけないけど、時効がきたらどうなのかな、とか。
  そういういろんな要素を含んだものを書きたいな、という気持ちもありましたね。まあどっちにしても“犯罪者かもしれない人間”を愛するからには、その気持ちは相当強いものだろうし、気持ちは燃え上がっている。気持ちが燃え上がるのは、二人の間に障害があってこそ生まれてくる。それで不倫だな、と。そういうことから、そのふたつの世界をくっつけてみようと思ったわけです」

―― “新しい試み”書き進めていく感覚もいつもとは違うものだったわけですか?

東野: 「今までとは全然感覚が違いました。いつもとは全然違うことをやるんだ、という意識も最初からありましたしね。文章の雰囲気も、これまでとはずいぶん違う。実を言うと最初に書き出しの“不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた”から原稿用紙三枚分くらいを書いて、担当の編集者に見てもらったんですよ。『こんな感じで書こうと思っているんだけどどうだろう?』って。そんなこと、今までしたことがない。だからやっぱり、こんな調子で書いちゃって大丈夫かいな、という不安があったんですよ」

―― “ふあん”ですか?

東野: 「ええ。恋愛感情をここまで中心に持ってくるのも初めてでしたからね。『容疑者Xの献身』のように、理屈抜きにこいつはこの人に惚れている、というところからスタートできれば問題はないんだけど、徐々に惹かれていって、のめり込んでいって…というのも、今まで書いたことはない。しかもそれをメインにして15年前の殺人事件と重ねなくてはいけないとなると・・・。これは普通の書き方でいったらしんどいな、と思ってました。主人公のキャラクターが最初に頭にあったので、そんなに重たい書き方にしたくないという気持ちも、強かったですからね」

―― 新たな試みの成果が本となって書店に並びます。今の気持ちを教えてください。

東野: 「この作品が成功するかどうか、全然わからなかったし、現実に成功してるかどうかも自信はないです。ただ、明らかに今までにやったことがないことをやったんで、『ちょっといつもと違うな、でも悪くないな』と思ってもらえたらいいな、と思ってはいます。男性と女性で読み方は違うだろうと思うし、同じ男性でも若い人と年寄りとで違うだろうし、女性も独身か既婚か、また不倫の経験が有る無しでも違うだろうし。どんな反応が来るか、楽しみですね」

とおっしゃっておられました。

 あらすじは、渡部の働く会社に、派遣社員の仲西秋葉がやって来たのは、去年のお盆休み明けだった.僕の目には若く見えたが、彼女は31歳だった。その後、僕らの距離は急速に縮まり、ついに越えてはならない境界線を越えてしまう。しかし、秋葉の家庭は複雑な事情を抱えていた。両親は離婚し、母親は自殺.彼女の横浜の実家では、15年前、父の愛人が殺されるという事件まで起こっていた。殺人現場に倒れていた秋葉は真犯人の容疑をかけられながらも、沈黙を貫いてきた。犯罪者かもしれない女性と不倫の恋に堕ちた渡部の心境は揺れ動く。果たして秋葉は罪を犯したのか。まもなく、事件は時効を迎えようとしていた・・・.

 この本、私は「一粒で2度美味しい」本だと思います。
まもなく時効を迎えるある殺人事件をめぐった正統派のミステリJannsenn015 ーであり、主人公が不倫の恋に落ちた相手はその事件の容疑者・・・・という、苦めの恋愛小説でもあります。

 主人公・渡部は40歳前,当初は不倫を軽蔑する姿勢をとっていますが,秋葉に興味を持ち,一線を越えてしまいます.自分が築き上げてきた家庭を壊すことに躊躇いを覚えつつも,徐々に秋葉との関係に溺れていきます。一方で、ある瞬間からの秋葉の決意(開き直り?)には及び腰になる一面も。
「あたしはあなたを自分のものだと思うことにしたから」・・・
不倫中の女性にこんなこと言われたら及び腰になりますね…不倫にのめりこむ過程,妻をどうやって騙すかという工夫,そして妻バレを恐れる男性.恋愛小説というよりブラックコメディとしても読めるかもしれません。ラストは男性なら背筋が凍ります。

「男は優しいのではない、ずるいのだ!」と読めるリアル辛辣なメッセージにはゾッとするし、中年男性が恋に夢中になる様は、実に鋭く描かれています。

 これは、ミステリーと思って読むと期待はずれになると思ますね。 2人の出会いも、不倫の恋も、これといって特別に変わったことはなく、言い換えれば誰にでも起こりそうなことです。 だからこそ物語に入り込みやすかったのかもしれません。

 東野作品の良さはキレイごとがないことであると私は思うのですが、 これもものすごく純粋な不倫(恋愛)を書いているのに、そこに男の狡さ、女のしたたかさ、強さ、そういうものもちゃんと入れ込まれてあり、なるほどその通りといちいち納得しながら読みました。

  結婚に夢見てる女性にはお勧め出来ない作品かもしれませんね(笑)。

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2009年8月10日 (月)

私の好きな一冊~『片思い』

 東野作品で最初に読んだのが『片思い』でした。それまで東野圭吾という作家も知りませんでしたし、兄が『これ最高だよ。』という言葉がなければ読むこともなかったでしょう。東野症候群に陥ったのは『片思い』を読んだ後に始まりました。

 この片想いという作品は元アメフト部のマネージャーでジェンダー問題に悩む美月と もう一人のマネージャーだった理沙子との夫婦問
題に悩む元スタープレイヤーのQBこと哲郎 ・・・
そして学生時代に美月と付き合ったことがあり、今は資産家の娘婿である中尾の3つの家族の物語だと私は解釈しています。 

1.氏のその経験
2.時折みせる社会的なテーマへの挑戦というかそのテーマを深 堀りした氏なりの読者へのメッセージ
3.ストーリーテラーとしての緻密な複線が絡み合う物語の上手さJansem_work02s 

が見事に折り重ねられて生まれた超一級の小説です。

3つの家族のメンバーはそれぞれに悩みを抱えながら、そして自分の信じた・選んだ道を進み、やがてそれぞれある終点へと辿り着きます。
そこはまた各人の新たな人生の出発点でもあるのです。

最後まで読み終えた時、この小説が伝えるメッセージの感じ方は 読む人の人生経験やその時の心の状態で大きく変わるでしょう。
私は2回目に読んだ時は前回に比べて、前向きなメッセージを強く感じました。

 かの村上春樹氏は優れた小説とは、読む人の年齢・性別・時代の変化に多面的に対応できる要素を備えていて、 いつまでも陳腐化しなことだと言いましたが、この片想いという作品は正にそんな作品です。

 ただのミステリーに留まらず、昔の仲間との友情、恋、社会問題などを盛り込んだ、読み応えのある長編小説です。

 主人公は30代のスポーツライター、そして彼の学生時代のアメフト部の仲間たちがある事件をめぐって苦悩し、やがて秘密がひとつひとつ明らかになり・・・というようなお話なのですが、なんだか失われた青春、変わってしまったそれぞれの仲間たち、それでも変わらない友情などがないまぜになり、とてもせつない気持ちで読みました。

  仲間達の一人一人の個性が、アメフトのポジションの役割と重ねてすごくよく描かれています。主人公を始め、私は仲間みんなに感情移入しながら読みました。そういう人間ドラマ的な魅力がまずひとつ。それから、実はこのお話の縦軸になっているのが「ジェンダーの問題」です。いわゆる「性同一性障害」とか「半陰陽(男女両方の特徴を持った体で生まれてきた人)」とか、一般的にマイノリティの人たちの悩みとか暮らしが小説とはいえ説得力をもって描かれているのがとても痛々しくも有り、興味深くもありました。

 性同一性障害という最近話題になっているテーマと、それにサスペンスがうまく絡めてあって目が離せませんでした。

事件の進展についても、犯人側から確信に迫ろうとする哲郎と、新聞記者の立場から真実を追究する早田の駆け引きが見事です。

 東野作品に出てくる人物は「これでも人間か」と言いたくなるほど冷酷さを持っていたり、温かく心根の優しい人物、機械が相手の一見、何を考えているのか解らないような人物が次々と謎とともに出てきます。この『片思い』は相手を思う気持ちが時に空回りしますが、最後までどうなるか解らない展開に頭をひねったり、こんな時、自分ならどうするだろうという考える機会も与えてくれます。

 私には満点の作品でした。

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2009年8月 8日 (土)

私が好きな作品~『私が語りはじめた彼は』

 三浦しをんさんの作品はまだ数冊しか読んでいないのですが、この作品は今まで読んだのとはまた違った赫々で読めたことが嬉しいです。

とにかく懐の多さに驚きますね。「風が強く吹いている」や「格闘する者に○」を書いた作家と、この「私が~」を書いた作家が同一人物だなんてにわかには信じられません。

文章力は有り余るほどに持っているでしょうし、文才がある人っていくらでも文体変えれるものなのですね。

でも、作風は違います。ここまで180度に色々な作品がそれぞれGadenn003 の作風を覗かせていると、本当に作者の脳内はどうなっているんだろう、って気分になります。このドロドロとした重苦しく陰気で、しかし熱い人間性を残した執着質で鬱陶しい登場人物たち…このぐるぐるとした後味の悪さ。何か禁忌の小説でも読んでしまったかのような感触。現代的な物語の切り口。たまらないです。

 桐野夏生さんや桜庭一樹さんを思い出させる…女流作家ならではの作品ではないでしょうか。男性ではここまで「オンナ」を書くことはできないんじゃないだろうかと今まで私がおもってきたことの逆を垣間見た気がします。美しく可憐な女を書く男性作家はたくさんいます、けれど粘着質でウザい女を書くことは女性作家にしかできないんでしょうね。それがいやだったはずなのに・・・。

 しをん先生にこんな懐があったなんてといっては失礼ですが、しかもこれ20代って・・・。解説でも金原さんが仰っていましたがが、なるほど鬼才です。

 先日、また、『大様のブランチ』を聞いていると(一応仕事をしていたもので、耳だけ音声をキャッチしてくれていて)、しをんさんがBOOKコーナーに出ていました。本当に本が好きで家中本だらけだそうです。それもジャンルを問わず、コミックでも本気で読んじゃうんだ
そうです。
 私は、『風が強く吹いている』で、惹かれたのですが、やはり、腐女子、三浦しをんらしい作品が読みたいですね。

 『私が語りはじめた彼は』の“彼”とは、大学教授の村川。その村川を複数の“私”が綴る物語です。

 村川が子供のように無邪気で絶望的なまでにロマンチストであったために起こった不幸の数々。村川の元妻、彼の不倫相手(のひとり)である女の夫、村川の息子、再婚した妻の連れ子、元妻の娘の婚約者、村川の教え子が、彼について思い出して語られます。彼らが、村川、村川によって狂わされた自分の生活や滅ぼされた未来と過去、傷ついた心を語ります。またそれを語る彼らを点にして繋がる第三者についても描かれます。

 正直、前半の『結晶』『残骸』『予言』までは普通に読めました。ありきたりでステレオタイプな言い分ばかりで興味を惹かれないこともしばしば。作家の「どうにか人物に深みを持たせたい」気持ちばかりが浮き彫りになり、登場人物が語る村川像よりも、「作家の村川と現在の主人公像」を読まされるので、少したらっとしてしまいますが、続く『水葬』『冷血』は素晴らしいです。

まず、主人公がいきなり狂っています。

『水葬』の主人公は、学生を名乗る探偵だが、彼が監視しているのは、村川が再婚した妻の連れ子の綾子。

 綾子は義父にも新しい家族の型式にも馴染めないし、「染まりたくない」と、黒服を着る。彼女を監視する渋谷は雇い主を知らなけれど、綾子は母親だと勘づいているのです。「母親は、自分と義父が密通していると思い込み、自分を見張らせている」と言うが、真相は薮の中。

母親はかつて、自分と村川の家族を崩壊させて村川を手に入れました。奪える相手なら、奪われる可能性もあると猜疑心の塊と化しています。
 

父を奪われ、替わりの父をあてがわれ、母親に憎まれていると思Gadenn010 い込む綾子は、入水自殺する自分を見守って欲しいと渋谷に頼みます。
退屈な監視生活に辟易していた渋谷は、嵐が起こるのを驚喜する・・・1本に2人の狂人ですよ、たまりません。

そして『冷血』。

 血の繋がらない遠い妹が死んだと知り、その真相を探って欲しいと、村川の実娘である婚約者から頼まれた教師が主人公です。白い腰骨の上に、蜥蜴の刺青を持っています。婚約者の義理の妹の死の真相を探り始めるのと同時に、この蜥蜴が、うずき始める。彼の過去も、蘇り・・・
このあたりの変質エロ描写がすこぶる凄い! さすが腐女子、三浦しをん!!

〆の『家路』は、趣味の問題ですが、上の2本の変態的な狂いっぷりは特筆に値するでしょう。

三浦しをんさんが描く狂気は、暴力となり発散される描写となるとまだまだ物足りないですが(『まほろ駅前~』で、行天の腹に刃物が刺さってるところとか)、無表情でも内面は静かに狂って生活している隠されたものとなると、なぜこんなにも魅力を増すのでしょうか?

「私はまだまだこんなものじゃない」と、暗闇で目を光らせているようで、やっと片鱗を見せ始めたなぁ!と嬉しくなります。

多くの女流作家さんのように、女性に幅広く支持される読みやすい読み物ではなく、「触るなキケン!!」のような劇薬指定されかけてこそ本領発揮の作家だと思います。果物が腐りかけが最も美味しいように・・・

村川という嵐に巻き込まれ、倒壊された家屋のような人物たちがいくら彼を語っても、村川という男がどんな人物であったか一切解らないのですが、そういう意図ではないので、それでにかまわないと思うのです。実際彼はそこまで魅力的ではないし、作家もそう思ってるんだろうと思いますし・・・(?!)

  私は好きでした、この作品。

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2009年8月 1日 (土)

私の好きな作品~『ツァラトゥストラはこう言った』

 『神は死んだ?Gott ist tot

★おなじみニーチェの作品です。と言っても晩年の作で、がその根本思想を体系的に展開した第一歩というべき著作です。有名な「神は死んだ」という言葉で表わされたニヒリズムの確認からはじめて、さらにニーチェは神による価値づけ・目的づけを剥ぎとられた在るがままの人間存在はその意味を何によって見出すべきかと問い、それに答えようとするものです。

 ツァラトゥストラとは、ゾロアスター教の開祖の名前であるザラスシュトラをドイツ語読みしたものです。しかしこの著作の思想はザラスシュトラの思想とはあまり関係がありません。

                                      Mojiriani005

★ニーチェ自身の解説(『この人を見よ』)に拠れば、ニーチェがツァラトゥストラの名を用いた理由は二つ。

  ◎第一に、最初に善悪二元論を唱えたゾロアスターは道徳についての経験を最も積んだ者であり、道徳の矛盾を最も知る者である筈という理由。

 ◎第二に、ゾロアスター教では「誠実」を重んじ、ニーチェの重んじる「真理への誠実さ」も持つ筈という理由によるものです。

この著作は、「神は死んだ?Gott ist tot」など、それまでの価値観に対する挑発的な記述によって幕を開け、ツァラトゥストラの口を通じて超人の思想が説かれています。

★第三部あたりから、この作品を決定づける思想である永劫回帰が説かれます。

 この作品の中には、スイスのシルス・マリーアから、まだら牛の町(トリノ-市の紋章を参照)を経て、ナポリまで下っていく途中の風物が、そこここに盛り込まれていて、シルス・マリーアはスイスのエンガーデン地方にあり、彼がそこによく避暑に出かけた土地でした。ツァラトゥストラが、山を下りていく道は、スイスの高原から南イタリアへの下っていく空間的な道、地理的な距離とも重なっています。そして、その道をまたもどっていく・・・

 

★ニーチェは、人を衝き動かしてきた意志というのは、力への意志だったと説きます。 すなわち、自らを権威あるものとして、他人を屈服される力を持とうとする意志です。この意志を元に、人々は権威を形作り、それは、善悪の基準付けを行ってきました。

しかし、この意志を持つ人間は弱い存在でした。 だから、同情、隣人愛を自らを権威あるものとするための道具としました。 その産物が国家であり、キリスト教であり、神であったとニーチェは喝破します。 このような弱い人間というのは、動物と超人の間にかけられた橋のような、過渡的な存在であり、乗り越えられないといけない存在なのであると、ニーチェは考えました。

★人間がこれまでの弱い人間を乗り越えるとき、神とその愛、同情により作られていた世界観は終わりを告げます。 ニーチェはこれを、「神は死んだ」と表現しました。 神の死んだ世界で生きていくのは、人間を乗り越えた超人です。 この超人は、意志、自由、創造力、孤独、自分自身への愛といった特質を備えた人間です。 同情されなくても、他人に思いやられなくても、生きていける存在。

★キリスト教的な世界観をもっていた時、人々は、自らの人生の終焉を、審判の日とそれ以降の天上での生活に落ち着ける事が出来ました。
 しかし、それら世界観が崩れたとき、大きな精神的危機が襲いかかってくることになります。 ニーチェは新たにとって代わる世界観を永劫回帰と考えました。 これは、生がまるで何回も同じ場面を繰り返していると考える世界観です。 
事実、この永劫回帰の世界観に陥ることは、現代における無宗教で「自分主義」の人々にとって深刻な問題なのではないかと僕は思います。 

 

★信じるものは無い、生はただ進むことのないルーティンでしかない、となれば、人生が虚無に思えてきます。 
 このような、神から脱却したのちにも虚無に陥らないための方法としてニーチェが主張した事は、自らと自らの人生を愛することでした。
 もし自分の生が永遠の円環の輪の中で逃れられないものなのMojiriani015 だとしたら、その人生を受け入れるためには、この永遠の円環である人生を愛さねばなりません。 他人への愛は、その自分への愛の中にこそ存在するべきものなのだとニーチェは考えたようです。 そして、本書の中では、その自分を愛することから得られる喜びがうたわれています。
 
 本書その他を読む限りでは「人間は乗り越えられなければならない」というのは、ニーチェの価値判断であり、論理的な帰結ではなかったように思われます。 でも、本当に乗り越えられないといけないのでしょうか 人間の持つ弱さを抱いて、お互い弱さを援け合いながら生きることは、それはそれで素晴らしい人生なのだと思います。 

 ニーチェが、吐き気を催すような奴隷道徳と批判しようと、人間の弱さというのはそんなに簡単に変わるものではないので、今は、自らを超克することを考えつつも、周りの人と援けあって生きていくことこそが一番なのだと思います。 もっとも、1000年後には、分かりませんが。

 

 ★この作品は数社から日本語訳がでていますが、岩波のが一番分かりやすいかもしれません。 ただ徹底的にこの作品を理解したい方は、ちくま書房が出している訳本が、注が豊富でよいかと思います。 文章の内容はとにかく難解で読み解きにくい内容となっています。
 

 ただこの本によって大いなる勇気を与えられる人も多いかと思います。
個人的感想としては、確かに思想的には深く、人間としての生き方に対して深い示唆を与えてくれる作品であるとは思いますが、何か現実性に欠けているような気がしました。
 

 特に永遠回帰の思想については人それぞれさまざまな感情を抱くでしょうが、結局のところ、人間はここまで飛躍した思想を得られない限り、生きる意味を見出せないのかもしれませんね。

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2009年7月30日 (木)

私が気になる作品~『思考の整理学』

 実は立ち読みしちゃった本なんです。自己啓発本は苦手で買う気になれなかったので、つい、紀伊国屋さんで1時間近くこの本とにらめっこしてしまいました。

 タイトルの通り、どのように思考を整理していくかについて書かれた本でした。が、まとめるとなると、なかなか難しいものです。

まず、なにゆえ思考の整理をするのか、その目的から。コンピュータが進化してきた今日、人には知識の蓄積よりも独創力、創造力が求められますが、世の中には自力飛行のできないグライダー人間が多いといいいます。思考を整理するのWhistler01 は、飛行機人間になるためだと言います。

・見つめるナベは煮えない
これは面白い表現だと思いました。頭の中に素材と発酵させるための酵素を入れ、しばらく忘れる。思考を熟成させるには寝させることほど大切なことはない。しばし忘れるのは、いちずに考え続けると視野が狭くなるから。

・思考の手
知識は系統的に集めること。アイデアは逃さないよう、鞍上、枕上、厠上どこでもメモれるようにしておく。忘れて、しかも忘れないようにするために、記録しておくこと。

 アイデアを脈のありそうなものとそうでないものに分けるためにメモからノートに移す。これを数回繰り返す。時の試練を経て、なおかつノートに残っているアイデアは、”使える”アイデアになっているということ。

 知識は最初は増やさなくてはならないけれど、折り返し地点からは捨てて、洗練されなければならない。捨てること、自然に廃棄していくのが忘却、意識的にするのが整理。整理とは、その人の関心、興味、価値観に基づいて行われます。思考の整理には忘れることがもっとも有効ということ。

 整理できた知識はまとめなくてはならない。物知りとは、ただ知識を保有しているだけ。まとめるためには、まず書いてみる。書いているうちに頭の中で筋道が立ち、思考の整理が進むということ。

・着想するには気心が知れていて、縁の薄い者同士が集まると、触媒効果で新しい発見が期待できる。似たもの同士では互いに影響しあうことが難しい。だから、ひとつの組織だけで育ってきた純粋培養はよろしくない。新しい風を入れて、刺激しあう必要あるということ。

・考えるときの心得は、ものを考えるには、力んではダメ。ぼんやりと考える。ほかにやることがありながら考えられる、三上(鞍上、枕上、厠上)、三中(無我夢中、散歩中、入浴中)がよい。そして、自分の経験、知見に基づいた、自分だけのことわざ・格言をつくること。

以上、ざっとまとめてみましたが、常にメモをとることまではよしとして、熟成のさせ方はたいへん参考になりました。
 やはり思い詰めて考えるのはよくないのですね。段取りをよくして、早くナベに材料と調味料を入れ、見つめずに放っておく。頭の片隅は常に置いておきながら、見つめない。これが、あっと驚く発見・発明につながるポイントなのでしょうか・・・
もちろん「忘れる」ことも負けず劣らず大事なことであると言います。

 「テーマはシソグル・セソテンス(一文)で表現されるものでなくてはならない」 という注意があり、おもしろいと思ったから記憶に残っています。はじめにのべたように、 テーマを説明させたら、十分も十五分もしゃべっているようでは、とても、シングル・セソテンスでまとめるなどという芸当ほできません。一文で言いあらわせたら、その中の名詞をと 隼弓管する。とは何でもないはずです。思考の整理の究極は、表題ということになります。

 自分の考えに自信をもち、これでよいのだと自分に言いきかせるだけでは充分でない。他の人の考えにも、肯定的な姿勢をとるようにしなくてはならないと言います。どんなものでもその気になって探せば、かならずいいところがある。それを称揚する。 よくわからないときにも、ぶっつけに、「さっぱりわかりませんね」 などと水をかけるのは禁物。「ずいぶん難しそうですが、でも、何だかおもしろそうではありませんか」とすれば、同じことでも、受ける感じはまったく違ってきますね。
 
 すぐれた教育者、指導者はど こかよいところを見つけて、そこへWatteau02 道をつけておく。批評された側では、多少、けなされていても、はめられたところをよりどころにして希望をつなぎとめることができるのです。 全面的に否定してしまえば、やられた方ではもう立ち上がる元気もなくなります。自分でダメ だと言うのでさえひどい打撃です。ましてや他人からダメだときめつけられたら、目の前 が真暗になってしまいます。

 ピグマリオン効果 ほめると伸びる

三上を唱えた欧陽修は、また、三多ということばも残しています。これもよく知られたことばです。 三多とは、看多(多くの本を読むこと)、作多(多く文を作ること)、商量多(多く工夫し、推敲すること)で、文章上達の秘訣三ヵ条でです。

 こういう断片的な知識、大部分が耳学問です。それを散らしてしまわないで、関連ある もの同士をまとめておくと、ちょっとした会話のタネくらいにはなります。知らない人は、大変詳しいと感心してくれるかもしれないというのです。知識というものは、心掛け次第で、と
くにまとめようとしなくても自然にまとまってくれるものらしいのです。

 われわれには二つの相反する能力がそなわっています。ひとつは、与えられた情報などを改変しよう、それから脱出しようという拡散的作用であり、もうひとつは、バラバラになって しゆうれんいるものを関係づけ、まとまりに整理しようとする収蝕的作用です。

 かりに十人の人に、三分間の話をするとしましょう。あとでその要約を書いてもらう。結果は十色に違っているはず。まったく同じまとめになることはまずありません。こういう場合は、正解?はない、ことになります。正解とは、すべての人がほぼ同じ答を示しうる場合
でないと 考えられません。数学には正解があるけれども、右のような要約では正解は存在しないのです。おも しろいもの、よくまとまったものはあります。これが唯一という正しい答というものはあり得ないのですね。

 このエッセイは20年前に書かれたものですが、今でも色あせていないと思います。多方面で使える思考だとつい思ってしまった私でした。
尚、立ち読みだったので、文章が正しいかどうかは自信がありません。すみません。

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2009年7月25日 (土)

芥川賞候補作品~『白い紙』

 シリン・ネザマフィさんの『白い紙』は、イラン・イラク戦争下で、首都テヘランからイラクとの国境に近い田舎町にやってきた(父が戦争医師として最前線の病院に派遣されたので)女子高校生の「私」が、同級生のハサンという成績優秀な男子生徒に淡い恋心を抱き、信仰深くもないのにモスクに通ったり、突然の空爆に慄いたりする「戦時下」の日々を過ごしながら、何も書かれていない「白い紙」のような未来に思いを馳せる、というような小説です。

 「戦争から四年も経っている」という記述があるので1984年頃Munku2 という設定でしょう。シリンさんは1979年生まれとのことなので、親に近い世代の経験を伝え聞いたことが素材になっているのかもしれません。というか、驚いたのはこの小説の「私」やハサンとほぼ同年代
だということです。私とは全然違う経験を描いているともいえるが、異性と話すときにどぎまぎしてぎこちなかったりとか(この田舎町では学校で「男女が喋ることは禁じられている」とのことですが)、大学受験して都会に行くことを考えたりとか、そのあたりは「同時代的」な共通性を感じたりもしました。

 ネタバレになりますが、この小説の最後で、ハサンは結局、テヘランの大学に行って医者になるという夢を蹴って、兵士として戦争に行く若者たちを集めたトラックに乗るという道を選択します。「前途有望な若者がなぜいかにして自ら戦争に行くことを決意するか」と
いうのがこの小説のテーマだともいえるのでしょうが、その伏線として、イラクの軍が国境を越えて侵入し、「味方の軍の半数が殺され、半数が銃を置いて逃げた」戦闘のエピソードが語られています。ハサンの父はこの戦闘に参加していました。そして「逃げた」者の一
人となりました。

「俺は昨日まで戦争に行っている英雄の息子だった……」 ハサンは突然大きな空笑いをした。

「こんな狭い町で……みんなに知られてしまう……恥をかく毎日が」

 何を言えばいいか、分からない。

「俺はかまわないけど……もうすぐテヘランに行って、大学に入って……いいのかもしれない……」 先までの静けさと打って変わって、ハサンが喋る。肝心なことを言わずに、ただ喋るだけ。

「だけど、母はこれからもずっとここに住むし、俺がいなくなったら相当辛いと思う」

 私がこの小説を読んで思い出したのは、こうの史代さんの漫画『この世界の片隅に』、島本慈子『戦争で死ぬ、ということ』(2006年)、佐谷眞木人『日清戦争――「国民」の誕生』(2009年)などでした。「戦時下の日常」で人々がどういう暮らしをしているか、空爆の
衝撃がいかに日常を中断させ「無知の恐怖」(情報飢餓)をもたらすか、戦争の「熱狂」がどんな風に作られ広がっていくか、戦争に行った夫や父からの手紙を残された家族がどんなに心待ちにしているか、息子を戦争に送り出す母親たちがどれほど心配し悲しみに暮れているか…。

 「戦時下」に生きる人々にとって、戦争とは、それに賛成したり反対するよりも前に、今ここにある圧倒的な現実として、自分たちを巻き込み押し流していく強烈な渦のようなものとしてあります。イラン・イラク戦争の場合、イラク軍の一方的な侵攻によって始まったという経緯からして、「防衛戦争」という意味合いが強いといわれています。父が戦場から逃げ出したことは、家族にとって「恥」であり、「みんなに知られてしまう」と「相当辛い」という「国民感情」があるのは当然ともいえます。

 この小説は体制批判の小説でもなければ、反戦小説でもありません。「私」や他の人物たちは、所与の状況を当たり前の日常のように受け入れています。ただ、そこに、「白い紙」に落とされたインクの染みのように、困惑や違和感、恐怖や悲しみが印されていくのです。

「この紙に名前を書いた人が、神に会える喜びと幸を迎える」 鉢巻のお兄さんが今度は白い紙を宙に回しました。

「兵士として、名前を登録するリストだ。さー、勇者よ。国のため、神のため」 人ごみが動き始めます。中にいた男性が名前を書きに一斉に前に出ます。指先が燃えている、心臓の音が喉から聞こえる・・・女でなかったら紙に名前を書いていたでしょう。横を覗くとこの
手からあの手に回される紙を、ハサンが唇を噛んだまま、見つめているのです。
 二十一台もの大きなトラックが消え去りました。

 土埃に包まれている黒チャドル姿の女性たちがお互いを強く抱きしめ、泣いていいます。チャドルが頭の半分までずり落ちているハサンのお母さんが、真っ赤に腫れ上がっている顔に小さくなった目を細め、去っていく息子の最後の姿を目に焼きつけようとしているのです。
 濃い緑のトラックの列が視界から消えました。何百人もの白い紙を乗せたまま、黒い排気ガスとともに、走り去った・・・

 イランと言えばその昔はペルシャ、ペルシャと言えば「千夜一夜Munku4 物語」で、私が読んだ唯一のイラン産の物語です。バートン版であれマルドリュス版であれ、アラビア語原典の英語訳もしくは仏語訳からさらに日本語に重訳されたものだから、手間暇がかかっています。しかるこの受賞作はイラン人がイランにおける生活を日本語で書いているのだから。

 ところが舞台がイランである上に登場人物がすべてイラン人で、日本語で書かれたこと以外は日本とは無縁であったせいか、まるで翻訳を読んでいるかのように感じたこともしばしば。非漢字圏出身者による初めての文学賞受賞作品という話題性がなければ、多分接することがなかっただろうにと思うだけに、この作品の伝えてくれるイランという国の生活実態がけっこう面白かったです。
 主人公である女子学生の父親は戦争医師として、最前線に近い病院に派遣されているが、週末には女子学生とその母親が首都テヘランから疎開してきた田舎町に戻ってきて、町医者よろしく住民を診察する。そして患者をなんと紅茶などでもてなすのです。

 所変われば品変わるで、随所に出てくるイランの生活風習が面白かったり。しかし男女の引かれ合う心の動きとか、男子学生が田舎町からただ一人の医学生として、夢に描いていた道がこれから開かれようとするその瞬間に、戦士として戦場に赴くことを決意するが、その心の葛藤などはいわば万国共通のテーマであって、エキゾチックな味わいを別にすると、類型的な小説仕立てに終わっているように感じました。

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2009年7月22日 (水)

私の好きな作品たち~道尾秀介編

 最近知った作家さんなのですが、これが間髪入れず面白かったですね。今回直木賞候補と聞き、やはり来たかという感じです。

私が最初に面白いと感じたのが、『向日葵の咲かない夏』でした。

 ここ一年ほどのあいだに、このN町で、犬や猫のおかしな死体001bear が立てつづけに見つかっていました。その数はぜんぶで八体にものぼっています。すべての死体には、二つの共通した特徴があり、一つは、後ろ足の関節、人間でいえば膝の部分の関節が、すべて逆方向に曲げられているということ。そしてもう一つは、死んだ犬や猫の口に、白い石鹸が押し込まれているということでした。

 明日から夏休みという終業式の日、小学校を休んだS君の家に、プリントと宿題を届けることを引き受けた僕(ミチオ)は、彼が家の欄間からロープを垂らして首を吊っているのを発見した。慌てて学校に戻り、岩村先生が警察と一緒に駆けつけてみると、なぜか死体は消えていました。そこでいつも親身になって話を聞いてくれる、近所に住んでいるトコお婆さんに相談してみるとそこであの力を使ってお告げをもらったところ、トコお婆さんは、小さな、掠れた声で、こう囁いた。臭いが――それだけだったのです。

 一方、S君の死んだあの日の朝、古瀬泰造は隣接するクヌギ林の中からS君の姿を目撃していました。それとともに、S君の声も聞いていましたが、それを聞いたときには、ただの独り言だと思っていました。しかし、あとで思い返してみると、あれは、誰かに話かけていたのではないか、と考えるようになります。

 それから一週間後、ミチオ兄妹の部屋へ突然の訪問者が現れた。S君の生まれ変わりと称する蜘蛛でした。そして、「さてはあいつ、僕を殺したあと、死体を持ち去ったな…。僕は自殺なんてするもんか。僕は、殺されたんだ」、と蜘蛛のS君は訴えました。半信半疑のまま、ミチオと妹のミカはS君に頼まれ、S君の死体を探すことと真相を探る調査を開始しました。
 ミチオ少年の調査パートと、古瀬泰造のパートが平行して、ストーリーは進行して行きます。人間的に破綻している人物たちが次々に登場するのですが、これがホラー部分よりも怖かったりするのです。その人間の暗い情念というか怒りのパワーというか負のエネルギーは、読んでいてざわざわとしてくるものがありました。

 そんな歪な世界で、あいつが怪しいと思わせて、ぱたりと一転、こいつだったのかと惑わせて、またぱたりと一転。よくこれだけ二転三転させるものだと感心してしまった私。そして複線の使い方もさすがに上手いです。そんなわけで早々と謎解きは放棄していたので、ラストを楽しみに読んで行くとこれまでうやむやな物事が次々に明らかになっていくのが、これががとっても読後感がわるいんです。ピタッとはまるのだけど、ここには快感がない。しかし、読み終えてすぐさま冒頭部分を読み返すと、ここに快感があったりするのです。まい
りました。

 そして今回注目の『鬼の跫音』です。

 心の中に生まれた鬼が、私を追いかけてくる。―もう絶対に逃げ切れないところまで。一篇ごとに繰り返される驚愕、そして震撼。ミステリと文芸の壁を軽々と越えた期待の俊英・道尾秀介、初の短篇集にして最高傑作といえるのでは・・・

 『ラットマン』が最高傑作と思っている方も多いでしょう。ですが期003bear 待を裏切らない傑作であるのは間違いありません。
 そもそも作者はホラー大賞でデビューした経歴があるだけに、今回はホラー色の強いミステリばかりです。少年視点の物語が多く、読んでいてワクワクします。。少年視点のホラーは、ニューウェイブの三津田信三さんもよく書いていますが、ホラーの質で言えば、そちらかというと乙一タイプのホラーですね。

 ミステリとしては「鈴虫」「悪意の顔」がとっても面白かったです。
 
 「鈴虫」は作者が得意とするミスリードが冴え渡った一品で、真相読むと読者の考えがいかに手玉にとられていたかがよく分かります。ここまでのものが書けるのは、現役作家で道尾さんしかいないと思います。
 「悪意の顔」は論理では割り切れないホラーの性質と、ミステリに求められる合理性が見事に結実した作品で、最後の最後までどちらにも振れているあいまいな物語です。どんでん返しの冴える作品です。これは「世にも奇妙な物語」でドラマ化したら面白いんじゃないかなと思いました。

 「冬の鬼」などは、日記を過去へさかのぼっていき、ゼロ地点でなにが起こったかを徐々に明らかにして行く構成がホラーとしての恐怖を煽っています。最後の一行もすばらしく、確かにある人物のとったある行いは確かに合理的で説明がつくんだけど、それはいわば狂人の論理というやつで、一般人にはとうてい真似できない。この「どこかズレてる」感覚を一瞬の驚きで表現してみせた良作。

 「よいぎつね」は過去と現在、自分と他人、の境界線をあいまいにして、万に一つの偶然を自然に描いてみせた作品。これは幻想性、ホラー色が、ひょっとしたら収録作中一番強いかもしれません。こういう表現ができるのが小説の強みなんですよね。ほかの表現媒体ではなかなかうまくいかないと思います。小説書きとしての上手さを見せ付けた作品です。

 「助・iけもの)」は、後味の悪い作品で、これも作者らしさが表れたものといえるでしょう。ラスト直前までは親子の仲直りを描いた、なんだかんだでハッピーエンドないい話になりそうだったのに、ラストでは道夫秀介の暗黒面がいかんなく筆を振るいます。親子のギク
シャクした関係、ふとしたきっかけで、自分と同じ境遇の人物が引き起こした事件を調査することになった少年、旅を通じて自分を見つめ直す姿、そして取り返しのつかない突きつけられる現実、などなどこれは書きようによっては純文学の傑作になり得そうです。

 「箱詰めの文字」は収録作中一番残念な出来で、読み終わってからも「結局なんだったんだろう」という余韻を残してはいるものの、ミステリとしてもホラーとしても爆発力不足な印象をぬぐえません。ミステリとしての真相がとって付けたようで、その不発が尾を引き、最後のホラーとしての趣向もいまいちに終わっている感じです。

 全編に渡って「鴉」が凶事の象徴として登場し、さらに「Sさん」なる人物が物語に絡んできます。これらによって、全編が共通した陰鬱な雰囲気で統一されているのも悪くないですね。
 本書は、読者の意表をつく大胆な構成と 人間の暗部を鋭く抉り出す描写に定評がある著者による初の短編集だと思いました。

短編という形式のため 大がかりな構成上のトリックは見られませんが そのかわり、人が心の闇におぼれる瞬間と、 それに抗うことができない悲しさを鋭く切りとります。 個人的にとりわけ印象深いのは 刑務所で作られた椅子に刻まれたSという名前です。それを手がかりに、椅子を作った受刑者と彼が起こした事件を探る『(ケモノ)』 徐々に明らかになる事件の秘密や、「驚愕のラスト」もさることながら、 Sや事件にかかわった人々の苦悶が伝わり、 「罪」というものについて深く考えさせられます。
 誰もが持っている狂気や暗部と それが引き起こす悲劇を真正面から見据えた本作。 決して楽しい作品ではありませんが 著者のファン以外の方に限らず多くの人に読んでいただきたい著作でした。

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2009年7月20日 (月)

私のすきな作品たち~朝倉かすみ編

 このところ、女性の小説も積極的によむようになりました。というのも私の年齢層と近い主人公がでてくるのが気にってたまらない、そして今の若者の考え方ももっと理解したいと、同じ女としてかんじているからです。

 朝倉さんは、北海道小樽市出身、札幌市在住しています。それだけでちょっと親近感。2003年『コマドリさんのこと』で北海道新聞文学賞受賞。2004年『肝、焼ける』で小説現代新人賞受賞。2009年『田村はまだか』で吉川英治文学新人賞受賞も持ち主です。

 私が一番きになるのは『ロコモーション』です。この結末は、幸Kaii002 せ? 不幸せ? 吉川英治文学新人賞『田村はまだか』では止まらない。「週刊現代」「週刊新潮」「産経新聞」その他メディアで「強烈な読後感」と絶賛の一冊です。朝倉かすみの衝撃的才能。最新書下ろし長編。

 彼女の名はアカリ。この街でいちばんさびしい女のひと。いちばん気になる女のひと。

 小さな街で、男の目を引くカラダを持て余しつつ大人になった地味な性格のアカリ。
色目を使われたり「むんむんちゃん」などのあだ名を付けられたりしない静かな生活を送りたくて、大きな街に引っ越し、美容関係の仕事を見つけました。でも新しくできた屈託のない親友、奇妙な客、奇妙な彼氏との交流が、彼女の心の殻を壊していく・・・。
読む者の心をからめ取る、あやうくて繊細でどこか気になる女のひとの物語です。 自分でも気付かないほど微妙だけど、ずっと澱となってたまっていく心の動きが、朝倉さん特有の適度に乾いた文体とリズムで描かれています。 これがピンポイントに私の心を突いてきました。

 例えば、幼児の頃家に訪れた外国人宣教師の真似をして意味もなく罪悪感を感じる場面、こんなあだ名で呼ばれたら嬉しいと、心の中で微笑む場面。……まだたくさんそういう場面があるので、二つぐらい例を挙げても赦されるでしょう。
小説と同じ場面を経験したわけではないですが、主人公のこの心の動きは、あの時の私だ、知っているこの感じ!と、私は思わず本から顔を上げて、しばし呆然としてしまいました。 少なくとも、私はそうでした。

 主人公の微妙な心の揺れが少しずつ積み重なっていき、それに呼応しながらストーリーは変化していきます。その塩梅が絶妙。優れたサスペンス、心理劇を見ているようです。 そして後半、主人公は全く予想もしない方向に進んでゆくのです。驚きますよ。

 他人の人生と心の内をのぞき見たような緊張感と興奮がありました。
でも、作品自体くどくどしていないし、重苦しくもない。なんなのでしょう、この洒落っ気と哀しさの同居の妙は。

『田村はまだか』とはテイストが違いますが、個人的にはこっち『ロコモーション』が好きです。粘土を握りしめて握りしめて、さらに握りしめた上で、にゅるっと「それでも生きていきまっしょい」という肯定的なテーマが見えてきます。そんな感じがたまりません。

『田村はまだか』は確かに面白いです。2009年吉川英治文学新人 賞受賞作。かつて「孤高の小学六年生」と言われた男を待つ、軽妙で感動の物語です。

 深夜のバー。小学校のクラス会の三次会。四十歳になる男女五人が友をHaruoinoue002待つ。大雪で列車が遅れ、クラス会同窓会に参加できなかった「田村」を待つ。 「田村」は小学校での「有名人」だった。有名人といっても人気者という意味ではない。その年にしてすでに「孤高」の存在でした。貧乏な家庭に育ち、小学生にして、すでに大人のような風格があったのです。

 そんな「田村」を待つ各人の脳裏に浮かぶのは、過去に触れ合った印象深き人物たち。今の自分がこのような人間になったのは、誰の影響なのだろう----。四十歳になった彼らは、自問自答します。最初は5人それぞれがバトンを受け渡しながら「田村くん」との思いでを中心に物語を進めて行くのかと思いきや、それは第一エピソード「田村はまだか」のみ。

 後はバーでクダを巻きながら各人が語るそれぞれの人生のエピソードで「田村くん」とは直接には関係がありません。 ただ、そんな彼らを外から眺めるバーのマスター(こちらも何かと「訳あり」)の存在感と誰からともなく発せられる「田村はまだか」というコールが物語の輪郭に効果的なアクセントを加えています。

何となく「イイ話OR泣ける話」っぽい売り方をされている雰囲気もありますが実際はそれほど甘い話ではなく、その部分を期待外れと感じる方も多いのではないえしょうか。
 人生の折り返し地点辺りに差し掛かった男女5人、きれい事だけで済ませられるはずもなく、語られるエピソードは赤裸々であったり身も蓋もなかったりします。 ただし、決して嫌味な話ではなく、説教臭さもほとんどありません。
 それでいて描かれるエピソードはどこか「ぬるり」としたリアルさがあって読ませます。
個々のエピソードは好き嫌いが分かれるところですが筆力は確かな物を感じさせますし脇のキャラの造形も上手い(特にバーのマスターと会社勤めをしながら「隠居している」二瓶さん)。

「田村さん」の到着をめぐるラストエピソードの展開には意見が分かれそうですが落とし所としては後味の良さを含めて面白い構成になっていますね。

人生の約半分が過ぎて感じる自分の将来ポジションについてのあきらめ、子供時代についての懐旧等自分自身同世代ゆえに登場人物の思いに共感するとともに、そのリアルさに心を抉られるような感じです。

ラストはちょっと甘い感じですが、同世代への応援歌として受け止めたいです。

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2009年7月19日 (日)

私の好きな作品~北村薫編

  やりましたね、直木賞受賞、おめでとうございます。
『鷺と雪』は読もうかどうか迷った作品でした。北村さんはベテランの域に達しており、山本周五郎賞選考委員を務めるベテラン作家だったこともあり、取ってしまえば当然といえば当然なんですよね。でも『鷺と雪』はやはりよかったです。

 北村さんは埼玉県生まれ。早大卒業後、高校教師の傍ら、ミステリーの評論、編集に携わり89年、「空飛ぶ馬」で作家デビュー。91年「夜の蝉」で日本推理作家協会賞、2006年「ニッポン硬貨の謎」で本格ミステリ大賞。96年以来、6度目の候補で直木賞を射止めました。

 受賞作は、上流階級のお嬢様とハイカラな女性運転手の周りKaii5 に巻き起こる事件と不気味な騒乱の予感を、昭和前期のモダンな世相を背景に描き出す作品集です。選考委員の浅田次郎さんは「難しい時代を勇気をもって描き、人物も生き生きしている。余分な表現のない短い文章で読者の想像力を喚起させるうまさを感じた」と評価しました。

 『街の灯 (本格ミステリ・マスターズ)』『玻璃の天』に続く、花村英子とそのおかかえ運転手・ベッキーさんが主人公のミステリー・シリーズ第三弾。本書所収の3短編は、それぞれ昭和9年から11年にわたる3年の物語です。

 最初の『不在の父』はある華族の男が失踪し、今はルンペンとして暮らしているらしいという不思議な物語です。それは事実なのか、そしてそれはなぜなのか…。

 『獅子と地下鉄』が描くのは東京三越本店近くの和菓子店の少年が夜中に上野で補導されるという事件。少年はなぜひとりそんな行動をとったのか…。

 『鷺と雪』は英子の学友が銀座で撮った写真に、台湾にいるはずの許嫁(いいなずけ)が写っていたという怪異談。ドッペルゲンガーは果たしているのか…。

 こうした個々の短編は、日常に潜むささやかな、そして罪のない謎を扱った一話完結の物語です。しかし、北村氏がこのシリーズで真に描こうとするのは複数の短編を貫く、堅固で大きなストーリー・アーク(物語の弧)です。
 昭和の初期、巨大な時代の力がうねり、人々を飲み込もうとしています。押しとどめようもない波濤を前に、市井の人々は無力であるか、もしくは気がつかない。しかし一方で、この「鷺と雪」の登場人物である軍人たちのようにわずかですが、なんらかの挙に出ようと決意する者たちがいます。
 「真実とされていることも、時には簡単に覆る」(96頁)その時代にあって、それでもベッキーさんは「わたくしは、人間の善き知恵を信じます」(242頁)と語ります。彼女の孤高ともいえる姿勢に、心洗われる思いがします。

 北村さんはこのミステリー・シリーズで果たして昭和のどこまでを描くのか、そして物語の弧はどこまでつながるのか。楽しみであると同時に、昭和のたどった道を知る身にはつらく痛ましい物語が立ち現れてくるであろうことを感じて、心さびしい思いがするのもまた事実です。

  北村薫の作品はいつも楽しく、今回は昭和初期の設定なのに、登場人物には隣人のような親しみを感じました。また、元ネタとなっている事件の選択もいいですね。。大事件ではありませんが、非常に趣のある事件で、それを見つめていた人や時代がやさしく書いてあります。
『日常の謎』には殺人事件のような強烈な動機がないだけに、つい、ミステリーとしての完成度を求めてしまいます。完成度の高さに思わず唸ってしまう作品が多いだけに、『鷺と雪』にミステリーを求めすぎると期待がはずれてしまうかもしれ無いと思うのは考え過ぎでしょうか
・・・現代ではありえない浮世離れした、とよく評される北村薫さんの描く女性達。 芯が強くて、やや引っ込み思案で、「自尊心」があって、・・・とこれは私の感想ですが。英子嬢は、昭和初期の背景にはしっくりときます。学習院に通うお嬢様なのだから、やや浮世離れしているのが似つかわしいのです。
『鷺と雪』は、ほのかな恋心を頂いていた青年将校と、思わぬ遭遇。 時代という竜巻の気配。漠とした不安を感じずに入られません。

 この小説は三部作の最後となるシリーズで日本が大きく傾いていく前夜を女学生とそれを護る女性運転手という二人が事件(事件というほどに大変なものではないが)を解き明かしていく物語でです。

いささか時代背景もあり、華族の悩みみたいなものは理解しがたい部分はあるが、物語を通じて何か我々が最近どこかに忘れてきた大事なもの、それは家族を思うことや社会のあり方や、利己的ではない抑制の効いた人間関係などが、やはり大切なんだということを決して説教じみて語るのではないところがいいと思ってしまいました。

長いシリーズの後半部分なんでいよいよ最後のクライマックスがどこへたどり着くのかが、この本の一番最初のエピソードで分かってしまうのも仕方ないのでしょう。是非とも「街の灯」、「玻璃の天」とあわせて読んでいただくことをお勧めします。

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2009年7月18日 (土)

私が気になる作品~『終の住処』

 これは磯崎憲一郎さんの芥川候補作品です。磯崎作品のテーマはこれだっとかズバッと言いにくいのが磯崎作品の特徴なのですが、それでもやっぱり磯崎作品は大体どれも「時間」というのが通底していると思います。時間に喰われる、あるいは時間が助けてくれる。そ
ういうことですね。

 とにかく、傑作です。時間のとびかたも良かったですよね。突Higaiyama006 然、「次に妻が彼と話したのは、それから十一年後でした」。はあ?イグアナの話も『眼と太陽』の遠藤さんの話を彷彿とさせられました。蟻にもう絶対に女は抱かないと誓う場面も良かったですし、太っている(外見からはわからない)女性と浮気をして、それを母に告白したときに「その女の子が太っているということだけは、完全にあなたの思い違いなのだと思うわ」と言われるシーンも印象的で象徴的でした。

 場面場面の細部がよく記憶に残る作家は好きです。印象に残りやすく、すぐにでも再読したくなるので。妊娠した奥さんがカレーとサンドウィッチを食べるとこもドキッとしましたね。こういった細部の良さは主人公の徹底した視線にあるのでしょうね。目を逸らさずに
見ること。そして、それが世界をつくっていること・・・

 イソザキノアニの作る小説の主人公たちは世界に、宇宙にいる一要素でしかない、それは交換可能なものとしてあります。とはいえ大事だから何度も言いいますが、その一要素が歴史を作るのです。だからついに家を建てるわけですね、「終の住処」を。

 家というのは元々が人間よりはるかに寿命が長いものです。だから人間が家を建てようなどという傲慢を抱いてはいけない、家によって、ある定められた期間、そこに住む人間が生かされているだけなのですから。
 これは家を地球に置き換えるとじつに面白いんです。「絵画」のラスト、地球最後の描写が思い出されました。磯崎さんはいつも本気を出していので、毎回、前作の解説となるような作品を出されて、より大きくなっていると思います。そして、前作が最新作や他の作品の解説ともなっています。虎と鏡。時間の迷宮。これだけ大きな作家です。芥川賞をとらなくても大きな作家なのです。

 メディアで注目されているのは芥川賞候補のシリン・ネザマフィさんの「白い紙」ではないでしょうか。顔写真入りで報じていた新聞も見かけました。文學界新人賞を授賞された作品ですから期待できると思うんですが、どうも、作者がイラン人女性で漢字圏出身者です
らないという話題性が先行しているような気がしないでもありません。「白い紙」を収録している『文學界』は多くの図書館に置いてあるでしょうから、私も機会があれば読みたいと思いますが、期待と不安がゴッチャになっています。
 実は、密かに私は磯崎憲一郎さんの「終の住処」に期待しています。
 
 2007年「肝心の子供」で第44回文藝賞受賞。2008年「眼と太陽」で第139回芥川賞候補になっているのですから。

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2009年7月17日 (金)

私の気になる作品たち~西川 美和編

 今回、『きのうの神さま』で直木賞好捕となった西川さん。『ゆれる』で世界的な評価を獲得し、今、最も注目を集める映画監督が、日常に潜む人間の本性を渾身の筆致で炙りだした短編集です。『ディア・ドクター』に寄り添うアナザーストーリーズです。 もともと脚本家であった西川さんが見たものとはなんだったのでしょう。

 前回の「ゆれる」は映画はもちろん、小説も大変良かったので、2作目となる新作小説も、早々と読んでみました。

あとがきによると・・・。
僻地の医療を題材とした映画を作りたいということで、取材を始 めたということです。すると編集者の方に、取材の支援をするので同じような題材で小説を書いてみませんか・・・という誘いがあったそうです。それで今回の小説に至ったとか。取材は映画の脚本の素材にもなったけれど、映画の時間軸で語りきれなかった数々のエピソードや人々の生き方をこの本で甦らせたということでした。

 小説は、5つの短編から構成されています。関連性はあまりなGohho39 いのですが、どのお話も丁寧な心理描写と舞台になる町の情景が美しいです。前回の映像でも感じられたのですが、文章でも随所に人物描写の鋭さがみられる作品でした。人間、負の感情も色々と持ち合わせているわけですよね。どの章の主人公も、出来事に直面するたびに色々なことを考え、思ったりしているわけです。それが実に人間くさく、面白かったです。
 また、表紙の写真も素敵です。これは逆向きなのでしょうか。表紙をめくると、同じような写真が白黒であります。これは表紙とは逆の写真。なんとも不思議な構成です。

「1983年のほたる」
主人公は小学生の私。田舎の村に住んでいます。自分は人とは違うと思っているがよくわからない。最近、受験のために遠くの塾にバスで行きだしました。村の中では一番だと思っていても外に出れば私なんてそんなに特別でもありません。友だちも村のことも、色々考えます。そんな私が帰るのは最終便のバス。あるとき、そのバスの運転席、一之瀬時男という人に名前で声かけられます。私は彼が苦手でした。

「ありの行列」
主人公は若い医師の男。とある離島にある診療所の代診となった彼。そこにいる老医師の診察に付き合い小さな島の医療の現状を知る。

「ノミの愛情」
主人公は私。もと看護師。夫は市民病院に勤める小児心臓外科医。非の打ちどころのない医師だが、私にはいろいろと不満がある。

「ディア・ドクター」
父が倒れた。父は大学病院の外科医だった。入院した病院にあの人=兄は来るのだろか。兄のことを思い出す私。

「満月の代弁者」

男は今日での僻地の医療現場を離れる。彼の変わりに年配の新任医師はすでにやってきている。引継ぎをするために一緒に、患者のもとを訪ねる男。男は色々なことを新任医師に語る。

「ディア・ドクター」での兄弟と父親の関係。「ノミの愛情」での妻と夫の関係が面白かったです。

以下・・「ノミの愛情」の本文から

私の未知数はあの夫に全てやってしまった。あの虚勢と誇りとを混同し続ける夫の、高潔な生業と、品行方正な人間性とを、守るため、それが世界のため。
けれど未知数を放棄した代わりに、そんな完全無欠の男が家族に見せるだけのほころびを、かつて私は確かに、舌の先でなめて喜んでいたではないか。
小さな秘密の急所に歯をあてて、大きな大きな象の背中に乗っているノミのような
気分だったではないか。

これは、家庭に入った主婦の立場からみればわかると言う思いと同時に、女性の恐さも感じるお話です。らせん階段をどんな思いで、磨くのか想像すると恐いです。冒頭で、お隣でかっているレトリバーの犬、トーマス君が登場し、彼(犬)の人生と自分を重ね合わせているところも、面白いです。

 映画監督西川美和の新作「ディア・ドクター」は、心優しさとさほんわかとしたユーモアにくるまれながらも実に奥が深い、色々と考えさせられる映画でした。文句なく今年のベスト1を狙える傑作ですが、まずは映画を観てから、と封印していた直木賞候補の原作も早速購入。作家としても大変な才気を感じさせる彼女の待望の新刊です。映画の余韻も冷めやらぬ中読み切りました。

 少女期における微熱的な心の揺らめきと得体の知れない嫌悪感、無医村での代診医が遭遇する老人の町の孤独、思慕する偉大な父親への深い愛情に囚われもがく男。ちょっとした行間から醸し出される感情の綾。 何気ない日常の隙間から漏れ出してくる深層心理。
 彼女らしい人間凝視と洞察力の見事さは相変わらずです。 彼女自身があとがきで触れているように、本書は飽くまでも、本編の脚本、プロット構築のプロセスから企画、生まれた映画の内容とは別の創作。ただ、伊能治、大竹朱美、鳥飼りつ子と言った映画でのキャラクターは登場し、彼らの後日談ならぬ過去が語られます。
そして、映画では殆ど触れられる事がなかった伊能と年老いた父との関係、彼が肌身離さなかった父のネーム付ペンライトへの想いに、新たな切なさがこみあげてきます映画を観て感動した方は押さえておいていい作品だし、本書をまず読んだ方は、是非映画本編をご覧になる事をお薦めしたいですね。

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2009年7月15日 (水)

私の好きな作品~『1Q84』

 待ってました。なぜか賛否両論あるようですが、私は今までの集大成的でとてもいい気持ちで読めました。1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行しました。
 そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説です。そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのです。私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。

 「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、「そうではなかったかもしれない」現在の姿なのですね。

 本書を読んでの第一印象は、これまでの村上春樹の集大成にSchim_work09s なっているというものでした。『羊をめぐる冒険』『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』『海辺のカフカ』「納屋を焼く』など、すべての要素が入っています。そして、これまで彼が明確にしなかったも
のが、本書ではっきり道筋をつけたのだなあと感じました。だから、村上春樹であって、村上春樹でない印象を受けてしまうのです。

 つまり、答えを出さないでいてくれたところに、自分に気持ちが代弁されてると感じていたので、その話の先はこうでした、と見せられることで、違和感があったのかもしれません。
 この『1Q84』に続編がなければ、中途半端に答えを出されて宙吊りにされたような気持ちになってしまいます。どうせ明確にされた
のなら、いつものような止め方ではなく、その先を教えて欲しいと思ってしまったのも事実ですが・・・
ただ、そう感じさせることが村上春樹の狙いであるようにも感じ取れますね。そこはテーマとつながるだろうから、詳しくは言えませんが、読んで感じたこの気持ちが、恐らく主人公たちも薄々感じているものなのではないかという気がします。

 また今回出てきた動物(犬以外)が、彼がこれまでに書いた「羊」ではなく、何故「山羊」なのか、というのも青豆、そしてひいては天吾に絡んでのことなのでっしょう。ここで「山羊」だったということで、村上春樹が敬愛する、とある作家のテーマ(もっと大きくいえば、文学史的なテーマ)に近づけようとしている気がします。いや、近づけたのではなく、どうしてもそこに行き着いたのかもしれません。

春樹氏が、これまで様々な作品を生み出しながらも、実は全くブレておらず、彼の言いたいことはこういうことだったのか、と本書で判明した気がしています。けれどどそれが本当なのか、続編か、続編がないなら、別の新作を読むまでは、この『1Q84』に対する気持ちに決着がつかないと思いました。

 あだ名のような名前の主人公が 現実とも虚構ともいえる世界の中で考え、他人と語り合い、世界と折り合いをつけて行く物語は これまでの著者の作品と同一です。著者が本書で取り上げたテーマのうちのひとつ過去のできごとの解釈を私は評価したいです。
 主人公の男女二人はともに恵まれない少年少女時代を送っていました。

男は自分の父親の死期に際して父親の元を訪れ、 父親への憎しみを感謝に替えて今後の人生を生きようとする・・・

女は自分の犯した過ちから過去を完全に断絶し、会えるはずの家族にも会わず自らの命をも絶とうとする・・・

 過去のできごとは事実として存在するのですが、その意味の解釈は何通りもあるのだと思います。過去のできごとの意味合いを替えて過去との折り合いをつけ、未来もうまくやっていけると気づく男 。
 過去のできごとを頭から否定し 未来へのつながりも絶とうとする女。過去と他人は変えられないが未来と自分は変えられと思いたい。
 過去の事実は変えられないが過去の事実の解釈は変えられる・・・過去の延長が未来ではないのだから。過去にどんな事実があろうとその解釈の仕方で未来は必ず変えられると私は思いました。

これは春樹氏のメッセージだと思います。

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2009年7月14日 (火)

私の好きな作品たち~貫井 徳郎編

 私が最初に読んだのが『慟哭』でした。

★ 作者は、精緻で冷徹な文章で、男の堕ちていくさまを書いています。作者の主人公に対する観点は、愛情というより徹底的なまでの観察眼でしょう。だか らこそ、心痛む残酷な事件や描写にもめげず、登場人物にそこまで感情移入することなく、成り行きを見守る一歩引いた感覚で事の次第を追っていくことができたのだと思います。特にカルト的な宗教団体の緻密な描写には目を見張るものがあり、普段目に触れるものではないだけに、想像上の世界だとしてもすごく興味を引かれてページをめくる手が止まりませんでした。しかし、最初は一歩引いた感覚で見られていたものが、人物を取り巻く環境が酷くなればなるほど、その感情が激しさを増せば増すほど、だんだんと心に、あくまで客観的に書かれている男の感情が、食い込んできたのです。感情を前面に出した小説よりも、事実を客観的に述べて、読者にその感情を類推させる類の小説のほうが、実は読者へ与えるショックは大きいのかもしれなません。最後、慟哭は、まさにそうとしか言いようのない、強さで、大きさで、私を襲ってきました。

 

★ この小説の内容からしてこういう言葉は似つかわしくないのかもしれませTadanori003んが、すごく、面白かったです。なかなか忘れない作品になると思いましたし、しばらくはミステリーといえばこの作品を思い浮かべるでしょう。まだ読んだことのない人は、小説の裏表紙に書かれているあらすじさえ読まずに、この作品を読んでほしいと思います。この作品を読む前には、ただ、おもしろいミステリーだという前知識以外は邪魔になる気さえします。クライマックスで「あっ」と言わざるを得なません。 衝撃が走る・・・完全に作者に踊らされました。

 この『慟哭』がデビュー作なんて、凄すぎますよね。さすがに第4回鮎川哲也賞の最終候補作に残っただけの作品です。 

2006年『愚行録』で第135回直木賞候補。2009年、『乱反射』で第141回直木賞候補となりました。

★ この『乱反射』はどんな作風になっているのかというと、本書は、法的には罪にも問えないちっぽけな悪事の集積が、大変な事態を生み出す顛末を描いています。凄いと思うのは、章題でカウントダウンすることで、緊張感をじわじわ高めているところ。ネタバレを避けるために詳述しませんが、幼児を襲う奇禍の正体は、おぼろげながらもかなり早い段階から予見できます。そのため、「取り返しの付かない事態」の準備を作者が着々と進めているのが、手に取るようにわかってしまうのです。作者は事件への過程を描く中で、事件の伏線をリアルタイムで張り巡らせていきます。読者はそれを、まざまざと見せ付けられるのです。これは色々な意味でたまらないですね。少なくとも第「0」章に至るまでは、良い意味でイヤな感じの読書が楽しめることを保証します。

 

★ というわけで、幼児が死ぬところで話が終わっても、『乱反射』はかなり読ませる佳作になっていたはずです。しかし本書はこの後、幼児が死んで以降に、さらに深みのある話が続くのです。幼児の両親は、自分の子の突然の死に納得が行かない。なぜ自分の愛息は、死なねばならなかったのか。特に父親・聡は、自身が新聞記者であることもあって、背景に何かあるはず、何かないとおかしい、そうでなければ我が子があまりにも不憫だと切実な感情をもって事件の背景を調査します。しかし調べても調べても、人々の、ほとんど無意識の「ちっぽけな悪事」しか出て来ないのです。これでは社会的に制裁を加えることすら難しいではないか・・・。愕然としつつも聡はなおめげずに、本人たちに直接対面し、事故と彼らの行動の因果関係を伝えて、糾弾します。

 

★ この結果、幼児の死の原因を作った人々は、自分の行為が何をもたらしたか自覚することになるのです。これはなかなか面白い展開だと思いました。 自覚のないまま、登場人物が事故・事件の原因を作ってしまう、という話は、実はそれほど珍しくありません。しかしほとんどの場合、彼らは自分が事件・事故の片棒を担いでいたことを最後まで知らないことが多いのです。ところが『乱反射』は違います。知ってしまうどころか、被害者の父親(広義では、この父親も被害者自身に他ならない)から直接、非難されるのです。
 この指弾を受けての各人の周章狼狽と、それを通して父親が徐々に形成していくある種の諦念が、本書最大の読みどころであり、本書の真のメッセージもここにこそ込められていると思います。

 

 ノワール小説やサスペンス小説であれば、この後に幼児の親がTadanori002 ブチ切れて「加害者」を殺して回る、などといった更なる波乱があってもおかしくないのですが、『乱反射』において、貫井徳郎の筆は、ここで止まるのです。いえ、あえて止めたと言うべきでしょう。派手な展開はエンターテインメント性を高める反面、本書で提起されたような「ちっぽけな悪事」を濃やかに拾うには、あまりに大味です。貫井徳郎氏はこれを避けて、あくまでも身近でより現実的で、ゆえに全くスカッとしない苦い落着を用意し、真のテーマに肉薄するのだと思います。
 果たしてこの物語に救いはあったのか。悲劇を避けるためには何がどうあるべきだったのか。扱われている問題は(幼児の死という結果はともかく)非常に「ありがち」なだけに、読者全員が無関係ではいられないはず。モラルの欠如が叫ばれる現代社会において、一度とっくり考えてみてもいいテーマと言えるでしょう。

というわけで、本書は「黒貫井」を強調しつつも、後半は一転して、卑近であるがゆえに重いテーマについて、「本当にこれでいいのか」と読者に強く訴えかけてきます。世の中なんてこんなものと皮肉に嘯くような前半と、次第に真面目な問いかけが浮かび上がってくる後半の対比は、非常に鮮やかで素晴らしいです。貫井氏の新たな代表作として、お勧めしたい作品です。

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2009年7月10日 (金)

私の好きな作詞家~北原白秋編

こんな梅雨の季節には、童話や童謡がなぜか懐かしくなります。詩人・歌人。童謡作家でもある北原白秋氏の詩は、優しく、鬱陶しい気分を変えてくれます。

こんな詩がありましたね。

夏の日なかのヂキタリス、
釣鐘型に汗つけて
光るこころもいとほしや。
またその陰影(かげ)にひそみゆく
蛍のむしのしをらしや。

そなたの首は骨牌(トランプ)の
赤いヂヤツクの帽子かな、
光るひもなきその尻は
感冒(かぜ)のここちにほの青し、
しをれはてたる幽霊か。

ほんに内気な蛍むし、
嗅げば不思議にむしあつく、
甘い薬液(くすり)の香も湿る、
昼のつかれのしをらしや。
白い日なかのヂキタリス。

 これは『蛍のイメージを綴った詩です。真夏のヂキタリスの花、その釣鐘状の花の中に隠れ、ぼうっと光る蛍の愛しさ。

 蛍の首のその赤は、トランプのジャックの帽子の色だ。また弱々しい光るその尻は風邪でもひいてるように空ろだ。
消えかかった幽霊のようにボヤッとしている。

その気弱なニオイを嗅ぐと妙に蒸し暑く、甘い薬の香りが漂ってくるようだ。けだるい真夏の白い日中にヂキタリスが咲いている。

そういった意味の詩なのだと思います。夏になるとこんな光景を、観たことも無いのに頭に浮かびます。詩は私にはよく理解できませんが、これが曲をともなって1つの歌になった時、イメージがパアーっと明るくなり、哀愁をおびてその歌の風景が浮かびます。

白秋氏は、 詩集 、 歌集、句集、 童謡・作詞、校歌・応援歌と幅広く人々が口ずさめる詩を残してくれました。

、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の唱歌『待ちぼうけ』などはつい人を待っている時に口からでていることがあります。

詩を自分で書けたら、と白秋氏を羨望のまなざしで見ている雨の日でした。

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2009年7月 7日 (火)

私の好きな作品~『第三の時効』

またまた横山さんの作品におぼれている私です。ひさびさのサスペンスですね。

 15年前、本間ゆき絵がレイプされ、その夫が殺害されるという事件が起きた。捜査は捜査一課二班が担当しながらも、犯人と思われる武内は逃亡し何も手掛かりのないまま時効成立の時を迎えようとしていた。捜査一課一斑・森隆弘は捜査一課長・田畑から時効成立防止のため、助っ人として二班の捜査に参加するよう命じられる。武内は海外渡航した記録があるため、表向きの時効の1週間後に真の時効(第Kaii21 二時効)が存在するというのだ。この事件のカギを握っているのは、武内との間に産またゆき絵の子供・ありさ。その事実を知っているはずの武内が、第一時効の成立後に彼女と接触を試みるだろうとの予測していた。しかし、二班班長・楠見は初め森に事件とは関係ない判事の素行調査を命じる。森は不満を感じつつ判事の調査をし、その後任せられたありさの張り込みを続けた。が、とうとう第一時効成立の瞬間を迎える。ここからが本当の勝負だと刑事達は息巻くが、めったに現場にも現れない楠見との連携が取れぬまま着々と第二時効が迫っていた。

  表題にもなってる本作ですが、タイトルどおり時効、すなわち公訴時効期間が問題になってます。そして殺人の時効15年が第一の時効で、海外渡航による時効停止期間が第二の時効となっています。では第三の時効とは何か? 法的にも論理的にもアクロバティックな荒業です。現実にはほとんど不可能でしょうが、本作の場合には伏線もちゃんと張ってありますから納得です。 

 ただ、作品は内容とは別のところで少々引っかかりを覚えました。
 本作では殺人の時効期間が15年として扱われています。初出時(平成14年)は確かにこれで良かったのです。しかし、実は平成16年に刑事訴訟法が改正されまして、殺人の公訴時効は15年から25年になりました(刑訴法250条)。で、文庫版は平成18年に出版されましたので作中と現在の法律との間で齟齬が生じていることになります。このことを以って本書は間違ってる、みたいなことを言うつもりは全くありません。殺人の時効が15年だった時代は確かにあったわけですから、それが25年に訂正されてたりしたら逆に興醒めというものです。
 でも、法律に詳しくない方が本作を読むと、殺人の公訴時効は今でも15年なんだなぁ、とは思っちゃうでしょう。それはよろしくないと思うのです。ですから、こういう場合には解説でフォローするか、もしくは巻末に注釈などを入れるとかするべきだったと思いますし、二刷以降(アイヨシの手元にあるのは初刷)からでもやるべきだと思います。
 細かいことと思われるかも知れません。ただ、助産婦→助産師とか精神分裂病→統合失調症なんかの変更にはすごい素早い対応がされたように思うのですが、それに比べると今回の場合は2年前の法改正であるにも関わらずちょっと鈍感なようにも思いました。

囚人のジレンマ
 本書収録の短編の中のマイベストはこれです。
 囚人のジレンマを物語の軸に、一班、二班、三班がそれぞれ担当する事件と、三つ班を監督する立場にある田畑第一捜査課長の組織人としての苦悩 が描かれています。複数の事件が同時進行するモジュラー形式は警察小説ならではの醍醐味ですが、それを読
者に分かりやすく伝える著者の手法には卓越したものがありますね。 部下が無能だと上司が苦労するのは当然ですが、有能なら有能で上司の苦労は絶えないという、結局組織人である以上苦労からは逃れられないわけですが、だったら、有能でいいから事件を挙げてくれという田畑課長はカッコいいと思います。報われないでしょうけど・・・ 横山作品の警察短編としては珍しくホロリとさせられるものがあります。情と論理の交錯が物語を奥深いものにしていることに驚かされます。

密室の抜け穴
 これもまた巧みです。被疑者はいかにして刑事たちの監視を逃れて密室から脱出したのか? 密室ものというよりは消失ものといった方本格ミステリ的には正確かもしれませんが、その謎が会議室という密室で解かれるという二重の密室の趣向が憎らしいほど見事に決まっています。解決に至る論理性と意外な真相は本格ミステリとしても傑作だと思います。それでいて、会議室の中で行なわれる責任のなすりあいという真剣勝負は手に汗握るものがありますし、イヌワシの雛のたとえで物語を引っ張る展開も見事です。ちなみに、岡嶋二人の短編に同じタイトルのものがありますが(『記録された[→fukkan.com]』収録、講談社文庫)、内容的に両者は全くの別物ですので念のため。

ペルソナの微笑
 間接正犯というのは、他人の行為を利用して自己の犯罪を実現する正犯のことでHaruoinoue、法律用語なわけですが、そんな一般にはなじみのない概念も横山氏にかかればすんなりと読めてしまう作品に仕上がるのですから不思議なものです。
 操る側が操られる側になる入れ子構造とでもいうべき物語の構図が後期クイーン問題を彷彿とさせる、というのは考えすぎでしょうが、なかなかに味わい深い作品だと思います。

モノクロームの反転
 一家三人殺害、しかも一人は小学校に上がる前の子供ということで、田畑課長は三班だけでなく手の空いていた一班も事件に投入します。
 一プラス一がいくつになるのかが問題になるわけですが、お約束どおり、一班と三班は手柄を競い合います。縄張り争いに情報の断絶といった露骨なまでの殺伐とした争いに、いっそ清涼感を覚えつつも、最後になって一班班長朽木と三班班長村瀬の間で行なわれるやりとりにホッとさせられます。なるほど、モノクロームの反転とは良くぞ名付けたものです。もちろん、一義的には目撃証言の真実を暗示したものではあるのですが、巧妙なタイトルだと思います。

 以上、各短編それぞれが傑作です。
 加えて、それぞれの短編の通奏低音として流れているのが各班同士の対立です。一班の班長朽木は犯人の心理に容赦なく緻密に迫る正攻法のやり手、二班の班長楠見は女性を物扱いするフェミニストならずとも非難したくなるダメ人格ですがその思考は冷徹そのもので違法スレスレの手段も辞さない策略家、三班の班長村瀬は事件の真相が早見えする天才肌と、それぞれの班長が有能にしてキャラが立っています。こうした捜査班内部の争いはこれから先もとても楽しみなので、ぜひ少しでも早い時期に続編が出ることを切にお願いします。

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2009年7月 5日 (日)

私の好きな作品たち~大森寿美男編

☆久々の脚本家のお話です。コメディから時代劇まで幅広いジャンルをこなす、スペシャリストです。10代で演劇活動を始め、劇団「自家発電」を旗揚げし、作・演出を手掛けました。1990年代前半には渡辺えり子主宰の「劇団3○○(さんじゅうまる)」の公演「1の1の6」(1990)、「クレヨンの島」(1991)、「月に眠る人」(1993)等に出演。1997年には「男的女式(おとこてきおんなしき)」が第3回劇作家協会新人戯曲賞にノミネートされました。同年オリジナルビデオ「新・静かなるドン」で脚本家としてデビューしました。

『泥棒家族』(NTV)、『トトの世界~最後の野生児~』(NHK BS2)にKawaguti03 おいて“社会に対する確かな視線”が評価され、当時史上最年少33歳で第19回(2000年度)向田邦子賞を受賞しました。

 『泥棒家族』は、ごく普通に暮らしている家族が、泥棒を仕事にしていることを知ったひとり息子の困惑。戸野島家に旅行に出ていた祖父の久作(津川雅彦)が帰ってきた。光彦(長谷川純)は父の洋介(舘ひろし)、母の奈津子(南果歩)とともにだんらんを楽しむというもので、そんなある日、光彦は友人の映子(盛内愛子)の父親から娘に近づくなと言われました。訳が分からない光彦は、家の秘密を探り、大量のかぎを見つける・・・・

 これが、普通実は自分の親もおじいちゃんも泥棒だとわかったっら、すごくシリアスで、おもたい内容のはずなんですが、すっとぼけてユニークなセリフの連発で、シリアスに全然ならないんです。おじいさんは孫をあとつぎにするべく、昔ながらの技を教えようとすけるのですが、孫はその気にならなりません。父は「自分からこの仕事を好きになってもらってやってほしい」とゆっくり見守るスタンス。息子は自分の家族が泥棒の仕事をしてることを、納得できなくてお父さんに問いただすけど「職業に貴賎はないだろう?」と言いかえされてしまうわけです。

 おじいさんもお父さんも泥棒とゆう仕事にポリシーを持ってなんだか職人みたいなふうな描き方なんですね。仕事部屋で、マンションのマスターキーをせっせと作っていたり、(あのアイカギ作りのキカイでが・・・・と研磨してる)、ねらいを定めた家の写真の現像とかてるのが、妙に感心してしまいました。プロですね。
 

この泥棒一家と対照的に描かれてるのが、刑事の一家です。刑事は津川を刑務所の常連として知っていて、軽蔑してるけど、実は自分の家庭は崩壊しているのでした。娘の万引きをきっかけに夫婦仲がわるくなり、妻が家出中。この娘は本当はいい子なので、両親のことを気に病んでいます。そして、ハセジュンの彼女でもあるんですね。この刑事は仕事熱心なのはいいけど、家庭をかえりみないタイプで、奥さんになかなか素直になれない。このちゃんとした世間からみたらいい家庭が実はバラバラで、泥棒で世間に顔向けできないけど家族円満ってゆう対比がとってもおもしろい設定だったです。泥棒が刑事の家族の心配を本気でしてたり。最後は泥棒一家の息子が彼女のために一肌ぬいで、彼女の両親を和解させるのですが。
 キャストを見ても、ハセジュンやその彼女がまだまだ子供っぽさのほうが濃い顔だちなので、あどけなさがとてもこのドラマにはあってましたね。舘ひろしも、こんな地味で、おかしみのある男の役もできるんだ~と、認識をあらためました。(あまり舘ひろしのドラマって
見たことなかったから)あと、藤井君や、シルヴァが泥棒に入られた住人役でてましたね。

 ただ面白いだけでは終わらないのが向田邦子賞です。故・向田邦子さんのテレビ界における偉業をしのび、その名を永く放送界に記録すると共に、テレビドラマの脚本の質的向上と発展を期すために1982年に制定された。毎年、最も優れた脚本作家を年間賞の形で表彰しています。そこにノミネートされるだけでも大変なことなのに、賞を取ってしまう、これは、私が脚本家さんをこよなく愛している証でしょう。

☆『トトの世界~最後の野生児~』は、1999年、週刊「漫画アクション」にて連載、その斬新なストーリーで人気を博したさそうあきら氏の話題作を新進気鋭の脚本家、大森さんが果敢にもドラマ化に挑戦。心に傷を抱える少女・真琴が、言葉を話せない野生の少年・トトに出会います。少年は真琴から言葉を教わり、真琴は少年から忘れていた大切なものをもらい、そして、自分を取り戻してゆく…。現代を生きる人にコミュニケーションの原点、そして言葉の持つ意味を深く問いかける珠玉の物語です。

☆向田賞を取った方は殆ど、NHKの大河ドラマに携わっていますよね。大森さんは『風林火山』で話題になりましたね。

☆私が好きな作品はこのほか、『星になった少年』は暫くみなかったので編集に携わっている事を知りませんでしたが、よかったですね。
 
☆『一番大切な人は誰ですか?』もいい作品でしたよね。東京郊外の鴨下町の交番に一人の警察官(巡査部長)松ヶ谷要(岸谷五朗)が赴任してきます。初めての街、しかし、結婚して間もない妻の路留(牧瀬里穂)と新しい生活切り開いていく希望にあふれた街であったはずでしたが.....。ある日、商店街をパトロールに出た要は、ある女子中学生を見かけて驚いてしまう。彼女は、小南(小林涼子)、別れた妻東子(宮沢りえ)についていった娘だったのでした。東京郊外の鴨下銀座商店街を舞台に、前妻と娘に偶然再会してしまった警察官の要とその妻路留、前妻の東子と娘の小南の4人の心の葛藤を描いたホームドラマでした。

暗くなりがちなストーリーを脚本の大森寿美男の軽妙で味のある台詞によって、ちょっとほろ苦くもユーモアと暖かみのあるドラマに仕上がっています。特に要のことがまだ心の中にありながらも、一人の働く女性として生きていく、どこかか弱さを残した芯の強い女性を演じているりえさんの演技が印象的でした。

その宮沢さんも撮影後の会見で「東子という女性に出会えて本当に良かったです。」と述べています。
 交番の住所録から東子を訪ねた要は、東子の友人坂下(内藤剛志)から離婚してから洋裁店を経営している東子の苦労を聞かされます。
また、東子の経営するアトリエTOCOのシャッターがベンゼンで落書きされ不安になっていた東子と娘の小南に、要は次第に心を動かされていく・・・そして「あんな落書きされて、一人で商売いていくのが怖くなった。」と言った東子の言葉を思い出した要は、自らバイクで向かってくる犯人に飛び掛り拘束。一方、路留は川辺でお互い偶然素性を知らない小と出会い親しくなりますが、小南は路留の持っていた「鬼平犯科帳」の本から路留が父の新しい妻だと気づいてしまいます。路留もまた偶然見つけたアルバムから小南が要の娘であることを知ることに。東子は自分の店を手伝うようになった若い川口という男(忍成修吾)に店のお金を全て盗まれてしまいます。川口はコンビニ強盗の容疑者でした。要への想いを断ち切れていない東子は、盗難のショックと寂しさから思わず要に抱きついてしまいます。そして「要ちゃん、助けてよ!」とすがる東子に、要は「助けるよ。お前をこんな目にあわせた奴、許しておかないから!」と言って東子を抱きしめる
のでした。
 一方、お互いの素性を知った路留と小南は心の中でわだかまりを持ちながらも仲良くなり、小南は要の家に出入りするようになります。そして、母を励まそうとした小Hosino003南は路留の提案で「アトリエ・トーコ」のホームペ-ジを立ち上げます。早速八丈島から仕事の依頼が入りますが、小南が路留と付き合っていることを知った東子はショックを受け、路留から携帯を渡された小南を見た東子は激しく動揺し小南を責めてしまいました。そして東子は要に「あなたが来たおかげでメチャクチャクチャ。」と言って怒りをぶちまけました。そして、「どうすれば今の小南と君を助けられる?」と東子にところにやってきた要に、落ち込んでいた東子は「私が寂しいときどうするんだった!」と言ってキスしてしまって・・・ショッピングセンターで見知らぬ男小沼(村田充)からデジタルカメラをもらって いた小南は、小沼に拉致されその自宅に監禁させられてしまうのです。小南からのメールで事態を知った要は小南を助け、小沼をボコボコに殴ってしまい謹慎処分を受ける。謹慎中に八丈島に逃避行した要と小南、小南は父へのわだかまりをぶつけ「(離婚を)何でもないと思っていた自分が一番嫌いだった」と訴え、自分を救った父に「ありがとう!」と言うのです。そして八丈島から帰った要は思わぬ光景を目にします。何と東子の家に路留が来ていたをしてしまのでが・・・。路留を捜す要はケンカに巻き込まれ警察手帳を失くしてしまい、どうにか路留を見つけた要に、路留は自分の胸のわだかまりをぶつけたりします。要は「一人で辛くなるな。君には俺がいるんだ!」と言い、路留も「ごめんね。辛くさせて!」と言って家へ戻るのです。警察手帳が見つかり八丈島への辞令がくだった要は最後に東子に会いに行きました。「ありがとう!東子でいてくれて。」と言った要の頬をはった東子は「もうこれで思い残すことは無い!」と要に告げ、二人は涙を流しながら別れるのです。

☆DVDがあったらもう一度観たいです。これからもっと羽ばたいて欲しい脚本家さんです。

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2009年6月28日 (日)

私の好きな作品立たち~カズオ・イシグロ編

 特に好きな作品を選べといわれると、やはり『日の名残り』でしょうか。1993年に英米合作で映画化され、ジェームズ・アイヴォリー監督・アンソニー・ホプキンス主演『日の名残り』として公開されましたね。

 第二次世界大戦が終わって数年が経った「現在」、執事スティーブンスは新しい主人ファラディ氏の勧めでイギリス西岸のクリーヴトンへと小旅行に出かけます。前の主人ダーリントン卿の死後、親族の誰も彼の屋敷ダーリントンホールを受け継ごうとしなかったのをアメリカ人の富豪ファラディ氏が買い取ったのですが、ダーリントンホールでは深刻なスタッフ不足を抱えていました。ダーリントン卿亡き後、屋敷がファラディ氏に売り渡される際に熟練のスタッフたちが辞めていったためでした。人手不足に悩むス Annri006 ティーブンスのもとに、

 かつてダーリントンホールでともに働いていたベン夫人から手紙が届きます。ベン夫人からの手紙には現在の悩みとともに、昔を懐かしむ言葉が書かれていました。ベン夫人に職場復帰してもらうことができれば、人手不足が解決すると考えたスティーブンスは、彼女に会うために、ファラディ氏の勧めに従い、旅に出ることを思い立つ。しかしながら彼にはもうひとつ解決せねばなない問題がありました。彼のもうひとつの問題、それは彼女がベン夫人ではなく旧姓のケントンと呼ばれていた時代からのものだった。旅の道すがら、スティーブンスはダーリントン卿がまだ健在で、ミス・ケントンとともに屋敷を切り盛りしていた時代を思い出します。

 今は過去となってしまった時代、スティーブンスが心から敬愛する主人・ダーリントン卿は、ヨーロッパが再び第一次世界大戦のような惨禍を見ることがないように、戦後ヴェルサイユ条約の過酷な条件で経済的に混乱したドイツを救おうと、ドイツ政府とフランス政府・イギリス政府を宥和させるべく奔走していました。やがて、ダーリントンホールでは秘密裡に国際的な会合が繰り返されるようになりますが、次第にダーリントン卿はナチス・ドイツによる対イギリス工作に巻き込まれていくのでした・・・

再び1956年。ベン夫人と再会を済ませたスティーブンスは、不遇のうちに世を去ったかつての主人や失われつつある伝統に思いを馳せ涙を流すが、やがて前向きに現在の主人に仕えるべく決意を新たにします。屋敷へ戻ったら手始めに、アメリカ人であるファラディ氏を笑わせるようなジョークを練習しよう、と・・・

 事からイメージされるのは、推理小説の登場人物くらいで、あまり現実感がないので、イギリスのお屋敷の一流の執事たるものは、どうあるべきかという読み物として読んでしまうと単なるボヤキ、あるいは「執事の品格」になってしまいます。

時代背景が、第一次世界大戦と第二次大戦の挟間で世界が大きく動く歴史をふまえて読むと、もう少し、理解ができるものと思います。 ダーリントン卿にお仕えした執事の仕事の達成感と寂しさ、ダーリントン卿が失脚して、新しくアメリカから来たファラディ様に仕え、イギリス流とは違ったジョークを勉強しなければならない苦痛感・・・

執事のスティーブンが、ファラディ様の好意で休暇を取り、フォードを借りて、かつて一緒に働いた女中頭ミス・ケントン(ミセス・ベン)からもらった手紙を頼りに、彼女に会いに行く物語。スティーブンの執事としての人生・スティーブンとケントンの恋物語・ダーリントン卿の衰退とイギリスの衰退という時代背景がうまく溶け込んでいます。
 執事が物語を淡々と語るので、物語に引きこまれていきます。 こうした静かなイギリス的なものを読むのもいいのかもしれません。

 その時だったと存じます。男がこう言ったのは――「人生、楽しまなくっちゃ。夕方がいちばんいい。私はそう思う。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が一番いい時間だって言うよ」 「たしかにおっしゃるとおりかもしれません」と私は言いました。
 私はここに残り、今の瞬間を――桟橋のあかりが点燈するのを――待っておりました。先ほども申し上げましたが、楽しみを求めてこの桟橋に集まってきた人々が、点燈の瞬間に大きな歓声をあげました。その様子を見ておりますと、あの男の言葉の正しさが実感されます。
 たしかに、多くの人々にとりまして、夕方は一日でいちばん楽しめる時間なのかもしれません。では、後ろを振り向いてばかりいるのをやめ、もっと前向きになって、残された時間を最大限楽しめという男の忠告にも、同様の真実が含まれているのでしょうか。(本文から)

 『浮世の画家』で超一流の絵師だったはずの主人公を描いたイシグロさん。物語はその彼が抱く「悔恨」の念を軸に紡がれて行きます。まるでメトロノームでテンポを測りながら書いたように、冷静で崩れることのない文章。戦後の日本をここまで微細に英語で描き上げた作品があったことに驚かされました。一方で、イシグロ・ワールドがこの作品で一つのスタイルを確立したことが読み取れます。ここを起点にして、The Remains of the Day や The Unconsoled や When We Were Orphans が造り出されて行ったたのだな、というのがよく解りま
す。後の作品に較べると少し小ぶりなところはありますが、何かのエキスパートである主人公が心の中にある小さな塊に胸を痛めることでストーリーが展開して行きながら、背景に時代、社会、民族といった問題が大写しに現れ出でる、という構図はこの作品でも見事です。

ミュージシャンになりたかったイシグロさんが、ひょんなことから作家になって、最初に書いた二つの作品が日本を舞台ものにていた、ということに大きな親近感を抱いた私でした。

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2009年6月27日 (土)

私の大好きな作品~『気くばりのすすめ』

Kennji  鈴木建二氏をご存知でしょうか?元NHKエグゼクティブアナウンサー(理事待遇)。1988年、定年退職。「目線」を造語したことで知られます。兄は映画監督の鈴木清順氏です。

 何故私が鈴木さんが好きなのか・・・今で言うと久米宏さんや古舘伊知郎さんのような存在といえばいいのでしょうか。非常に頭がよく、頭も切れて、笑いのセンスもある、まさに理想的な存在です。その鈴木さんが大分以前、書かれた本なのですが、今でも多くの人に読まれている『気くばりのすすめ』と言う作品です。

 コミュニケーションをとる上で大切なことの一つである"気くばり(思いやり)"。本書では、著者自身の経験、会社、家族などのシチュエーションから、気くばりとはどのようなことかや、人間関係を円滑にするためのヒントが具体的に書かれています。

書かれている内容はすぐに実践できるものも多く、ちょっとしたことから自分を変えたい、"あの人"との距離を縮めたいを考えている方には是非読んでいただきたい本です。

 「母と父が愛を絆として結ばれたおかげでこの世に誕生して以来、人生の全ては出会いによって編み上げられていく」・・・気くばりのバックボーンに"感謝"や"敬意"を感じませんか?

 「人間的価値というものは、平凡な事柄の連続である日常生活の中で学び取られるものであって、その集積がその人間の全人格をあらわすのである」・・・習慣こそ才能ですね。私はこれを"人生の大数の法則"と呼んでいます。

 「話をすることは人間関係をつくるもっとも重要な基本だが、話というと、しゃべることと錯覚していることが多い。話は話す人と聞く人がいてはじめて成立する行為なのである。そして、話すことよりも聞くことのほうが大切なのである。」・・・全ての人がとは思っていませ
んが、人ってどうしてこんなにお喋りなんでしょうか?それはさておき、何事も相手が必要なことを忘れてはいけません。
 
 「自分の気持ちを声の大きさで表現することは、かえって損することに気がつかないのである。」・・・こっそりと、ささやくように話すと相手はその話に重要さを感じ、特別な扱いを感じるそうです。これは使えそうです。

 「拶の"挨"という字は、「開く」という意味であり、"拶"は「迫る」という意味だ。つまり挨拶というのは、「心を開いて相手に迫る」ことなのである」。・・・なぜ挨拶を始めにするのか。その意味を理解できました。挨拶はコミュニケーションの中で一番大切なことだと思いまし
た。

このように、最近あまり使われなくなった言葉の一つに「気くばり」があります、この本を読んでいただければ分かりますが、日常生活における気の使い方、考え方がいかに大事であるかということが歴史などを例として面白く簡単な言葉で描かれています。中学生、高校生ぐらいの方からでも十分に楽しめると思うので是非、読んでもらいたいですね。

 鈴木さんは台本は決してスタジオには持ち込まず、すべて丸暗記していました。また、スタジオの入口で渡された台本は、3回目を通すだけで丸暗記できるという逸話も残されています。ただし、セリフについては、台本に書かれている記述のほかに、自分で取材した資料の検討を行い、推敲を重ねた上で、自分の言葉に置き換えて放送に臨んでいました。こうした姿勢は、「台本を見ながらそのまま放送する番組
ほど、視聴者にとってつまらないものは無く、アナウンサーとしてもプロとは言えない。また、他人の書いた台本に書かれた事は、たとえ完璧に調査したものであっても50パーセントの事実でしかなく、それに自分で調べた事実を加える事で100パーセント以上の事実にして、初めて自分の言葉で話す事が出来る。ましてや、何が起きるか分からない中継放送では、台本自体不要である」と言う持論によって導き出されたものでした。こうした芸当は「職人芸」と呼ばれ、「最後の職人アナウンサー」と言われたほどです。

 私も気配りできているかどうか、いつも気にかけているようで、なされていないと感じることが多いので、いつも気にかけていたいものです。

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2009年6月23日 (火)

私の好きな作品~『町長選挙』

 伊良部一郎医師の人気シリーズ第3弾。残念ながらまだ文庫化されていませんが、人気ぶりからして時間の問題でしょう。本書は従来のテイストに加え、話題性と社会性を盛り込んでおり、伊良部医師もいよいよ表舞台にご登場かという印象を強く与えてくれました。某新聞社の会長兼球団オーナーの威厳ぶりや時代の風雲児と呼ばれた某社社長の人哲学などを描いた「オーナー」や「アンポンマン」といった作品は、懐かしい感慨めいた雰囲気に満ちていました。「カリスマ稼業」もおそらく同様ででしょう。

 話題性を優先する大衆メディアは報道内容が偏重し、十分なRock031 論議や総括をすることなく、次なる話題に飛びつき読者の関心を巧みに誘導する効能を有しています。むろんメディアのみの責任ではありませんが、メディアの作用は実に大きいですよね。かつての某IT企業による球団獲得・その後のラジオ放送社買収騒動事件は多くの人にとってすでに「過去のもの」として記憶されているでしょう。「時価総額世界一」と豪語された人生哲学も今では嘲笑の対象とみなされているのかもしれません。本書はいずれもそうした主題を「過去の話題」としてではなく、そこに潜む人間の深層心理とともにヘビーな作風というよりは新鮮な趣をもった内容として再生されてくれているような気がしました。

 本書は表題の「町長選挙」の他に「オーナー」「アンポンマン」「カリスマ稼業」という4つの作品が収録されています。

 『オーナー』は京グレートパワーズ(読売ジャイアンツ)のオーナーである、大日本新聞(読売新聞)社長の田辺満雄(渡辺恒雄)は新聞社の社長というだけでなく政財界に幅広く影響力を持っています。自身がマスコミの社長ではあるもですが、マスコミに諂うことを嫌い、1リーグ制導入を容認する発言で選手会およびファンにも嫌われていました。ナベマンというどっかの料亭のよーな渾名を付けられ連日マスコミの取材攻勢に合っていましたが、ある日突如として暗闇が怖くなってしまったのです。

 医者に見てもらうことを決めたナベマンは知り合いの日本医師会の委員長でもある伊良部総合病院の医院長に連絡を取り付けます。

てっきり自分のレベルなら自宅まで往診してくれるものと信じて疑 わなかったのですが、「いやだよーん」と拒否されてしまところなどとてもおかしいです。普通なら通院などありえないのですが、外出先の通り沿いに伊良部総合病院があったため顔を出してみることにしてしまいました。伊良部の元を訪れたナベマンは伊良部が自分に敬意を示さないどころか、命令口調で問診をすることに立腹していました。更に「例の」マユミちゃんの「とりあえず注射」を不覚にも打たれてしまいます。
 当然のように伊良部に憤りを覚えたナベマンはパニック障害を忘れようと努力あしますが症状は更に悪化してしまいます。そして、旧知の会社社長の退任パーティに参加した際、会場で伊良部の姿を見かけます。伊良部は大勢の前で「パニック障害、なおった?」とわけのわからないことをごちてナベマンをあたふたさせますが、パーティの帰り取材にあった際、またもやパニック障害に・・・
果たしてナベマンは病気を治せるのか?エンディング付近はいつの間にか「イイ話し」になっているところがさすがです。

 『アンポンマン』は、ITベンチャー企業ライブファスト(ライブドア)社長の安保貴明(堀江貴文)は今や飛ぶ鳥を落とす勢いでその事業を拡大しており、テレビでその姿を見ない日はありませんでした。安保貴明という名前より、世間的にはアンポンマン(ホリエモン)という呼び名が浸透しています。そんな安保は「稼いで悪いか?( 稼ぐが勝ち )」のサイン会でひらがなの「ま」が書けない自分に気づきます。秘書の美由紀(乙部綾子)は字が出てこない安保の様子を以前にも見ており一度治療を受けるように勧めていました。

 美由紀の進言もあり、安保は伊良部総合病院に出向きました。キーボードがなければひらがなさえも書けなくなった安保への伊良部の診断は若年性アルツハイマー。IT業界の寵児とも呼ばれるアンポンマンは診断内容を甘受できるわけもありませんRock184。非生産的な作業は安保は最も不快視するため、ひらがながかけなくても何の問題もないと判断し、業務を続けるが公開討論テレビ番組に参加しても文字が浮かばない安保。状況はますます悪化していくのです・・・そして治療のため(?)に伊良部が安保を連れて行ったところは・・・最後にキチンとアンポンマンが自信を取り戻すのはこのシリーズの定番なのですが、ホリエモンの現況を考慮すると今となっては、ある意味自信を取り戻さない方がよかったのかも・・・と思ってしまいます。

 『カリスマ稼業』は悪く、マネージャーの久美に精神安定剤を貰うように依頼しました。久美はバンド仲間で精神科の看護婦を務めている友人がいるので貰ってくることにしましたが、その友人こそがなんとマユミちゃんなのです。久美はクスリを貰ってくるため伊良部総合病院にいったのですが、注射を打たれて帰って来てしまいました。自然体が売りの白木でしたが、寝付けないのと同時に最近痩せなくてはいけないという強迫観念に囚われていました。
 午前中人前で過食気味に食べたお菓子を消化すべくどこか運動できるところを探していました。そしてたどり着いたのが伊良部総合病院だったのです。
 

 白木は早速エクセサイズマシンを病院内で組み立て運動を開始。普通なら「何やってるの?」というところですが、伊良部はこともあろうにそのマシンを白木から取り上げて自分で運動しはじめてしまいます。伊良部に暴言を吐いて病院を辞した白木でしたが、ふと我に返ると自分でも精神的におかしいなあと思い始めていました。
 

 数日後、白木に熱血大陸( 情熱大陸 )の取材が舞い込んできます。自然体であることを見せようとした白木だったが、ひょんなことから伊良部総合病院の精神科に通っていることがばれてしまいます。白木は次回の役作りのためと取り繕ったが是非とも取材したいとのオファーを断りきることができず、撮影クルーと一緒に伊良部の元を訪れてしまったのです・・・
 このラストもなかなか秀逸です。白木もこれで肩の荷が下りたことでしょう。でも、伊良部の功績というよりもマユミちゃんの活躍じゃないのでしょうか?・・・

 そして『町長選挙』です。この作品だけは有名人が出てきません。東京から数時間かけて船を乗り継いでやっとたどり着く離島、千寿島。
 ここでは小倉と八木という農業と土建屋という二者が有力者であり、日々熾烈な戦いが繰り広げられていました。その千寿島に東京都の職員として就職した宮崎は離島研修ということで赴任してきました。
 千寿島では町長選挙の真っ只中であり、役場でもその話題で持ちきりです。この島では小倉か八木かどちらについているかによってその後の待遇も変わってくるといいます。

 宮崎もその例に洩れず、両陣営からどちらにつくのかはっきりしろと言われ困惑気味。
そこに、父の意向(と見栄)により2ヶ月間千寿島に赴任することになった伊良部と日給3万円で離島赴任を受け入れることになった、マユミちゃんがやってきます。小倉、八木両派は伊良部の父が医学会での重鎮であることを知り、実弾(賄賂)攻撃に走ります。
 

 宮崎も両陣営から実弾を掴まされ、悩んでいましたがが、貰えるものは貰っちゃえという伊良部の発言に少なからず心が揺れるのです。
 前回の選挙結果は5票差という僅差だったため、小倉・八木も死に物狂いでした。選挙で重要となる浮動票として両者で読めていないのは島に住む老人達でした。千寿島の老人達はしたたかで「自分達に最終的に利益をもたらす公約を掲げる方に投票する」と最後までどちらに着くか表明していませんでした。

一方老人の心を最も掴んでいたのは、実は伊良部でした。伊良部Rock179 は病院で特に治療をするわけでもなく、老人達の話し相手になっていただけででしたが、それが老人達には嬉しかったようなのです。小倉、八木達は老人達の浮動票を確保すべく、更に伊良部に接触を図ります。ヒートアップした島を伊良部は治療できるのか・・・

 伊良部と時の人達の会話も想像していてかなり可笑しかったのですが、やはり表題の町長選挙のノリが本来の伊良部なのかなと思いました。
 しかし、伊良部一郎の産みの親、奥田英朗は凄いですね。このキャラをどう見せるかというところにかなり神経を割いているのではないでしょうか?伊良部は既に奥田英朗の机の上から飛び出して一人歩きを始めているように思います。
 全編一話完結のお話しなので、今まで「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」を読んでいなかった人でもこの「町長選挙」から読んでみても全く問題ないです。ホントにおかしな精神科医の登場ですね。

 私、伊良部先生のキャラ、大好きです。

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2009年6月22日 (月)

私のやや好きな作品たち~池澤 夏樹編

Kaii12 両親(原條あき子と福永武彦)の間に、疎開先の帯広で誕生ししました。これは存じませんでしたが、また同郷の作家現るです。そして『スティルライフ』で芥川賞を受賞しました。この作品を読むと村上春樹氏の初期の作品を思い出してしまうのは私だけでしょうか・・・

 バーのシーンでチェレンコフ光の話が出てくるのですが、これはちょっと出すのが早すぎると思いました。春樹氏なら、作品の虚構性を読み手に十分アピールしてから、このような話を切り出すでしょう、おそらく。しかし、池澤さんは唐突にこんな話を始めているように思えてなりません。ここで読み手の気を惹こうという戦略なのかもしれませんが、少なくとも私は戸惑うだけでした。
 

 それでも文章は整っているし、ストーリー展開も自然ではあるので、おおらかな心で読み続けることにしましたが・・・
 しばらくは詩的な表現を散りばめた文章が続いていたのだが、途中で「ぼく」が佐々井の株の売買を手伝うようになってから、いきなり話が泥臭くなって、文章のトーンも変わってしまっていますね。前半までの張り詰めたような透明感が、ここへ来て一気に下世話になってしまっているのは、非常に残念に思いました。そして2000年9月に刊行された池澤夏樹氏の『すばらしい新世界』は、環境と現代社会、ボランティアのあり方、サステイナブルなテクノロジー、そして、人の生き甲斐、といった現在、もっとも注目されるべきテーマが、静かに淡々と描かれていて、まさに‘現在の小説’だと感じることができました。そこで象徴的に描かれているのが、本の表紙にもなっている風力発電の風車だ。風力発電の技術者である主人公が、NGOの依頼で小型の風力発電機を開発しネパールの奥地に赴き、そして、その体験が徐々にサラリーマン技術者の内面を徐々に変えていく・・。静かな語り口の中にも、しっかりと現在の社会と向き合おう、という作者の姿勢が感じられた。芥川賞を受賞したかっての代表作でもある『スティル・ライフ』とは、ずいぶん作風が変化しています。また、久々に発

 表された小説でもありました。この間、池澤氏の中に何が起きていたのでしょうか。

 「英語で言うと、かつて僕の基本姿勢は、脱離だったと思います。一歩Higasiyama001 離れる。渦中から身を引いて、外に身を置く。『スティル・ライフ』はまさに、一歩外に出る話でした。僕は、どうしてもあの話からしか始められなかった。現代の日本に対する違和感というか、居心地の悪さが強くて、自分は典型的な現代日本人ではないだろうと考えていた。ちょっとずれた置にいて、ちょっとすねている、そっぽを向いて
いる。ところが、それからほぼ10年近くたって、そろそろすねていられなくなった。理由の一つは、 『楽しい終末』(93年・文藝春秋刊)を書いて、世の中全体に蔓延している悲観論、終末論を一つ一つ検証していったこと。その途中から、僕自身、これは希望の不足している時代だ、と感じていた。

 しかし、それに対して安易な希望を安売りしてもしょうがない。「誠実に見ていく限り、あまり希望はない」というこを『楽しい終末』で突き詰めて書いたら、次の話を非常に書きにくくなってしまった。つまり、「明るい未来はそう簡単には見つからない」と話を書いた以上は、そうそう明るい未来の話は書けない。かといって、小説や文学というのは、基本的に希望で書くものだ。

 なんらかの希望が必要。そうすると、自縄自縛の状態になって、言ってみれば作家としてフリーズしてしまったというところ。で、そこからどう抜け出そうかと、安直でない出口を探して、とりあえず、ずっと旅を続けた。沖縄に引っ越しをしたというのもその一
で、移動してみる、違うものを見る、それから、やっぱり普通に暮らしている人たちを見る。『楽しい終末』の最後は、「絶望ではない、待つしかないじゃないか。事態が良くなるのを待つしかない。その、待つという姿勢において、生きるということがあるんじゃないか」
と考えた。あの本の最後で『ゴドーを待ちながら』を引いたのはその為だった。で、待ちながら何をしたかというと、そんなに終末論にとらわれずに、普通に、どちらかといえば、慎ましく生きている人たちを見る。そういう旅をした、と思う。この長い旅の中から二つの話が出てきて、一つは『花を運ぶ妹』(文藝春秋刊)。これは、昔僕が書いたものと同じように、南の方の島を舞台にして、そこで本当の絶望と絶望の底で、いかなる神かわからないけど、とりあえず心を祈りの姿勢に持ち込むこと、その先に救いがあらわれるかどうか・・そんな話を書いた。もう一つが『すばらしい新世界』だった。」と言います。

 『素晴らしい世界』は、池澤氏らしく、物語は沖縄で始まり北海Kaii007 道で終わります。その間はネパール奥地のナムリン王国が舞台。風力発電技師の林太郎がナムリンの風を灌漑エネルギーに変えるためにネパールに出張します。これがカジマヤー(琉球語で風車)計画。
 といってもプロジェクトX"ヒマヤラの奥地に風車が回った"篇というわけではなく、物語はもっぱら林太郎と妻アユミとのメールのやりとりで、"現代の諸相についての二人の考え"が語られる展開です。例えば、「ボランティア・NPOと企業」であり、「インテリ世代の子育て」であり、「チベット仏教」などについてです。
 一つの夢のあるプロジェクトを縦軸に、異国でのエピソードをきっかけとした思索が横軸に交差して、爽快感とともに物語を読み終え
ことができました。池澤氏の物事を見る眼に今回は共感できた気がしました。

 『きみが住む星』は、世界を旅する主人公が離れ離れになって待っている恋人に各地から送る手紙と写真という形式で書かれています。
手紙なので短い文章です。淡々としてるけど、時々恋人に対する気持ちがちらりとのぞくところがロマンティックです。
世界を旅する。そういう雰囲気がいいですね。といっても、世界各地の名所が登場するわけでもなくて主人公の詳しい説明も舞台の設定の説明もなく毎回幻想的な話になっています。
 花を踏まないように歩く馬の話。ある国の風習で一生に一度は誰もが外国に行く国。旅立って、2週間で戻る人もいれば、何年か行く人もいる、一生戻らない人もいる。そんな摩訶不思議な話です。

 

『きみのためのバラ』は、8編が収められたこの短編集は言葉の持つ癒しの力への信頼と期待が交錯する作品集であると思います。

『レシタションのはじまり』は、アマゾン奥地のジャングルで出会った原住民達の不思議な呪術の物語。意味はわからなくとも聞くだけで癒されるその言葉。重要なのは、意味がわからなくても効果はあるのですが、動物には効果がないこと。つまり、何かしらの意味を相手が伝えようとしていることを解する者であれば、その言葉は限りない癒しの効果を持つのです。意味が伝わることではなく、伝えようとすることに意味があるんですね。それは、表題作の『きみのためのバラ』でも同じで、主人公は、メキシコであった女性にほとんどゃべれないスペイン語をもどかしく思いながらも、一言だけ「君のためのバラ」と言って花を渡す。伝わらない気持ちを伝えようとする行為、それ自体に
意味があるのです。

『都市生活』『ヘルシンキ』『20マイル四方で唯一のコーヒー豆』では、いずれも登場人物はほとんど見ず知らずの初対面の相手にきわめてプライベートな告白を一人語りのように語ります。語ることで癒され、そしてそれを聞く者も、聞くことで癒されてゆく。そして、その
物語を読む私も、少しだけ癒された気分になりました。

  『花を運ぶ妹』・・・イラストレーターとして世間に認められている兄・哲郎。一年の半分を旅で過し、インスピレーションの源にし始めた哲郎はヘロイン中毒に転落していく。バリでおとり捜査に引っかかり、人権もないような留置所へ。ルボンヌに留学し、語学を生かし
てテレビクルーのコーディネートや通訳をしている妹・カヲル。兄を助けるために妹はバリへ飛ぶ。彼女も23歳で、どうしていいかわからないまま。哲郎とカヲルのそれぞれを交互に語りながら哲郎の旅の話、彼を救い出そうとするカヲルを追っていきます。
 それぞれのシーンで書き込まれる世界情勢や、アジアや欧米への思索、絵画や美学、

 生や死の哲学は読み応えがあります。
 物語の根底には、西欧とアジアの違いを浮かび上がらせようとする意図があります。現在は欧米がアジアを「理解する」という、ヨーロッパ優位の姿勢ばかりが目立ちますが、これからはアジアが欧米を「理解する」時代になってくると示唆しています。そこには哲学さえも含まれます。池澤夏樹の一文にそれが現れている。

  あるいは、ここのデーヴァターを世界唯一の美と認めて
  他のすべての美を捨てる。マルローはあのままパリを
  捨ててここに住めばよかった。しかし彼は西洋人だから
  捨てることを知らなかった。(431ページ)

 兄と妹の物語はそれぞれが、自分と家族、世の中との距離や、生活、人生を取り戻す癒しの物語になっています。
 単純なバリ礼賛、アジア礼賛ではなく、欧米の価値観とただ相容れないだけ。どちらが優れいているということではありません。

こういう誤解を招かないのも、池澤哲学の優れているところと思います。

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2009年6月21日 (日)

私の好きな作品たち~太宰治編その②

 先々週の土曜日に大様のブランチのBOOKコーナーで太宰大先生の企画があり、つい、引き込まれて観てしまいました。それによると、太宰氏は短編や明るい話題の本がまだまだあるということで、紹介されていました。ほほうと思いましたが、希望を持ちたくて氏の作品を選ぶ方は少ないと思うのですね。でも決して絶望の淵にいる人が読んで生きる気力が無くなる作品ではなく、その微妙なところがなんとも美しいんです。

 『もの思う葦』は初めて読んだ時は太宰らしさがないと思いましたKaii011_2 が、今、改めて読むと、太宰氏の、弱さを美学とする精神が好きで、それは受け入れられるものではないのかもしれないし、 弱さで食べてはいけないし、誰も守ることすら出来ないかもしれないけれど彼の文学には、希望があると思えてきます。思ってはいたけれど、怖くて言えない、そう口の中で噛み潰していたものが、 氏の文章の中で堂々と訴えられている気がしました。 それにどんな慰めよりも、救われます。 太宰氏の精神が余すところなく収録されている一冊だと感じる事が出来ました。

 彼は至って明るく振舞っていました。どんな苦痛が胸の内にあろうとも。そういう子供時代を過ごし、作家になっても本当に津軽が好きだったと思わせる逸話が残っています。

 『津軽』が書かれたのが、育ての親越野たけとも30年ぶりに再会を果たした旅の後であることに注意すべきでしょう。。「私」はここで、「津軽人としての私をつかまうとする念願」で旅に出ながら、「生きかたの手本とすべき純粋の津軽人」を発見できなかった失望を語っていいます。「誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。」と言う「私」は、津軽の「現実」に、なによりも一方的に母と子の関係を仮構していた越野たけに失望していたに違いありません。そのことはもちろん、「私」の側の問題でしかなかったのですが。その結果、「とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。」と、津軽の「現実」を無視しているような言葉をさえ吐くようになるのでですが・・・
 旅の手帳に二度も繰り返して書いたという、「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」という言葉は、この作品の成り立ちを説明しています。津軽の「現実」から、「現実は決して人を信じさせる事が出来ない」という言葉が生
み出されたとすれば、「信じるところに現実はある」という言葉からは、作品『津軽』が生み出されたことになります。『津軽』は、「信じるところにある現実」として仮構された世界にほかならなかったのです。

 東郷克美氏は太宰氏の『晩年』『右大臣実朝』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』などを中心に、作者・太宰治が、「太宰治」という虚像を作り上げ、その虚像を演じていく様子が解き明かされているといいます。作者・太宰は「太宰治という物語」を仮構し、その仮構された「太宰治」を作者みずからの実生活が追いかけて行く。そのためには「現実世界で徹底的に敗北すること」が必要であったとして、著者は太宰の生い立ち(母の不在)や転向に現実世界での敗北を見出し、そのことが作品に与えている影響を解明しています。

 初期の「魚服記」「思ひ出」などが、それまでの作品とは別人のものであるようなのは、否定すべきものとされた「津軽的なるもの」が、転向によって容認され、そこに文学的源泉を求めようとしたからだとされる。「地主一代」「学生群」(昭和5年)から、「魚服記」「思ひ出」(昭和8年)への変貌に対して、これほど説得力のある説明を聞いたことがありません。
 しかし、この「津軽的なるもの」ももちろん仮構された世界であって、現実世界に訣別して仮構された世界に生きる、作家「太宰治」がこの本では追求されていくことになる。著者は国文学の研究者のようであるが、この本のあとがきで、「今でもどんな対象であれ、何らかのかたちでそれに私的なモチーフを仮託できるのでなければ、何も書けないたち」(292ページ)と述べているように、著者の問題意識がこの本を研究というスタイルに収まらないものとしており、そのことが読む者に感銘を与えているのだとおもいます。太宰治の作品を読み解こうとする者にとって、必読の書だといえる・・・こう語ります。

また、平野謙氏は太宰の文学と「時代の影響」について、次のようKaii002 に書いています。「太宰の三期がそれぞれ左翼崩壊の時代、戦争の時代、戦後惑乱の時代にそれぞれ対応すると、私は最初に書いたが、この時代の影響をやはり軽視すべきではないと思う。そのたぐいまれな生活喪失の文学が資性によるか環境によるか時代によるかは容易にさだめがたいが、前期の錯乱、中期の健全、後期の敗亡はそれぞれ時代の影響によつて、そのように顕現した、と思いたい。すぐれた芸術家は、すべて運命の子であると同時に時代の子ででもある。」

 それほど長くはない生涯なのに、こんな明確に区分できる時代を生きていたことが、何か幸せなことに思えてきます。でも、時代の影響だけだとしたら、太宰の文学は時代とともに滅んでしまったに違いないでしょう。

 太宰の作品が現在でも古びないのは、時代の影響と同時に、太宰の「資性」がその文学を支えているからではないでしょうか。だから、太宰の作品から「時代」だけを読み取っても、「資性」だけを読み取っても、太宰を理解したことにはならないのでしょう。

 『斜陽』や『人間失格』の背後には「戦後惑乱の時代」が、『津軽』や『お伽草紙』の背後には「戦争の時代」が横たわっているのと同時に、それらの作品を支えているのは太宰の強烈な「資性」であるような気がします。ところが、太宰が生きた時代から遠ざかるほど、「時代の子」としてよりも、「運命の子」としての側面が大きく見えてきます。太宰氏と同時代の者が感じていたようには、氏が生きた時代を感じることはできないとしても、「時代の子」としての側面が太宰の文学を支えていることも、忘れてはならないと思えます。
亀井勝一郎氏は、著者と太宰治との交友は、太宰が三鷹に引っ越してきた昭和14年からはじまり、戦後の昭和22年まで続いたといいいます。三鷹の太宰の住居は、著者の住む家から歩いて15分位のところにあったそうです。
この本は太宰の死(昭和23年)の直後から、15年の間に書かれたもので、身近にいた人特有のべっとりとした感じもなく、距離をおいて見た太宰の作品と人となりが記述されています。距離をおいて見た太宰の姿は、たとえば出自の問題として、次のように捉えられています。
「旧家には格式の高い、きびしい倫理の血が流れているが、同時にそれと矛盾して、濃い淫蕩の血も流れているものである。崩壊の感覚と抑制の意志と、この二つのものが互に戦いを挑み、そして傷つくのだが、太宰の作品に血痕のように刻印されているのは、この争闘の傷痕である。頽廃の子という自覚とともにあるきびしい倫理観念、或は「家」における秩序の観念を見のがすことは出来まい。」(「太宰治の人と作品」)

「旧家」にある、「きびしい倫理」と「淫蕩」との「争闘の傷痕」、つまり社会的な秩序とそれに対する反抗の「傷痕」が、太宰作品には刻印されているということだと思います。もちろん、それは単なる「反抗」ではなく、「きびしい倫理観念・「家」における秩序の観念」に対する愛憎の意識(「崩壊の感覚と抑制の意志」)だったことに注意するよう、著者は喚起しているようにみえます。

 そして、身近に見た太宰の印象については、次のように描かれています。
「それに彼と話すのは、なかなか骨が折れるのだ。言葉のなまりこHigashiyama_work18s そ東北弁とはいえ、この繊細な神経家は、わずかな言い廻し、ふとした比喩、ちょっとした悪口にでもすぐ傷つくのだ。人の傷痕にふれることは、罪悪にはちがいない。他の話をしながら、無意識裡に人を傷つける場合もあるでしょう。太宰氏にはそれがこたえるのです。親しいものほど悪人視される可能性が多くなります。彼は自分を理解してくれる人のないことをかこつが、もしよく理解してくれる人が出たら、彼はその人を最も憎むだでしょう。神経を余り使う必要のない、自分を甘やかしてくれるような、低能な女が、孤独者にはふさわしいのである。」(「太宰治の思い出」昭和23年9月、155ページ)
 ここには、「自分を理解してくれる」「自分を甘やかしてくれる」人を求める、「孤独者」太宰治の内面の核心が描かれています。

 著者が、距離をおいた位置から、また間近から描き出した太宰の姿は、太宰の作品を理解する手がかりを与えてくれるはずです。

 長々書いてしまいましたが、太宰氏の作品にははずれが無いということを言いたかったのです。そしてあまり陽の当らない作品にも目を通すべきだと今回つくづく思いました。

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2009年6月20日 (土)

私の好きな作品~『きのうの世界』

    アマゾンで買いたい本を探していたら、ふっとこのタイトルが目に留まりました。調べてみるとなかなか面白そうなのでここで紹介したいと思います。

「いつの頃からだったのでしょう、あなたにとって世界がつまらない「日常」になってしまったのは……。そう、あなたが子どものころの世界は違っていた……。町はずれの木橋、森陰の祠、古びた水道塔、境内に鎮まる苔むした石……

世界は何か不思議を隠しているような、そんな匂いに満ち満ちていたはずでした。あなたがいつも「あたりまえ」と思っていたきのうまでの世界が実は不確Yumeji_004 かなもので、自分がそう思っていただけにすぎない、もしかしたら本当は別の全く逆の世界があって、あなたに対して隠されているだけなのかもしれない……

そんな漠然とした不安に包まれた足もとがおぼつかない感覚。それは恐ろしいようでいて決して不愉快なものではなかったはず。そう、あなたの毎日、あなたの時間は、その秘密を解き明かすためにこそありました。

そして、あなたは感じていたはずです。いつも見慣れた街角や、駅、家の裏手の何気ないものやちょっとした出来事に秘密の鍵があることを、毎日通りですれ違う優しそう笑顔のなおばあさんや、時々見かける近所の物静かなおじさんが、その秘密の扉の開き方を知っているかもしれないということを……。」
  本書は、あなたがいつのまにか忘れていた、そんな「世界を疑う」密やかな楽しみを思い出させてくれる本です。                            

 本書のストーリーはどこか、音楽にも似ていますね。
それは、たとえて見るならば「循環形式」で描かれたクラシック音楽のようなものかもしれなません。「循環形式」とは、ベートーベンやリスト、ワーグナー、セザール・フランクといった第一級の作曲家が得意とした手法。

 一見無関係に見える複数の楽章のテーマやモチーフが、実は相互に深いところでつながっていて、最後にすべてが絡み合いひとつになって戻ってくることによってその本来の姿が圧倒的な存在感とともに立ち現れるような、楽曲全体が巨大な円環に回帰するような高度な作曲スタイルをいいます。
 

 最初は、たわいのない、ちょっとした疑問、どこか腑に落ちない、心の隅にひっかかった小さな棘のようなものだったはずなのに、ストーリーが進むにつれて、“あなた”をはじめ、様々な登場人物が発する言葉や体験する出来事が、すれ違い、記憶の中で重なり、響き合うことで、何かとてつもない秘密が、世界の闇のようなものが、隠されているのではないかという疑問が、次第に予感から確信に変わっていきました。それは、未知なる体験というよりは、どこか既視感を伴うなつかしくも楽しい感覚まもです。

 そう子どものころに誰もが一度はもったに違いない不思議な体験の記憶につながるものです。子どもたちは、世界の秘密の一番近くに住んでいるのでしょう。なぜなら、世界の秘密は、きっと無垢な感性でしか見ることができないものだから・・・そして、秘密を持つ世界は美しいものです。
                                                      
                            
   
 恩田陸さんの超絶的な「かたり」の技巧が炸裂している作品です。ミステリー、ホラー、ファンタジーといったあらゆるジャンルの要素を鏤めつつ、あらゆるジャンル小説として中途半端です。でも、この作品は、そもそもどんなジャンル小説でもないように感じました。読み方いろいろあるし、結果としてこの作品を気に入る人もそうでない人もいると思いますが。

 私はこの小説を視点に関する技巧を凝らし、物語世界を俯瞰する 視点とは何なのかについて思いを凝らした物語として読みました。というか、読み終えてそう感じ入りました。目次を見ても、この小説にとって視点が重要であることが明示されていると思います。

この小説の冒頭は二人称という珍しい視点ではじまります。しかも、中心となるHosino003「あなた」が知り得ないこともどんどん語られ、二人称としての整合性が簡単に破られていきます。違和感のある描写の行間に登場人物を「あなた」と呼ぶ「語り手」の存在が暗示されているように感じました。                            

 19章と3つの「幕間」からなる物語は、変幻自在に視点を変えていきます。物語としてのクライマックス、今日と昨日を隔絶するある大掛かりな出来事が描かれたあと、短い2章を添えて、物語は締めくくられます。この2章では、主にある一人の人物について語られますが、それぞれの章で視点が切り替わります。そして、最後の1ページで、さらに語りの視点が異様なものに変容します。

 最後の1ページに現れたこの視点こそが、冒頭である人物を「あなた」と呼んだ語り手の視点なのだろうと、解釈しました。そうした異形の視点の存在そのものが、この物語を象徴しています。「これ」を「このように」書こうとする着想が凄まじいし、素晴らしいと思います。

 郷愁的な情景を描くのが巧みで、“ノスタルジアの魔術師”と称される。ファンタジーの賞からデビューしたが、ジャンルの枠にとらわれず、SF、ミステリー、またはクロスジャンルの作品と、幅広く執筆している恩田さん。

『ユージニア』で第133回直木賞候補にも上げられ押しも押されぬ作家となりました。そしてこの作品も直木賞候補でしたね。私はあまり読んでいないのですが、これを期にお気に入りに入れようと思います。

 『光の帝国―常野物語』も良かったのでいずれ書きたいと思います。

夏休み早期特典プランのある宿。じゃらん。

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2009年6月19日 (金)

 私が気になる作品~『利休にたずねよ』山本兼一編

 売れているようですね、この作品。直木賞候補だからばかりではないようです。

 掌にすっぽりおさまる緑釉りょくゆうの平たい壺。唐三彩の緑よりはるかに鮮烈な色と優美な形を持つ壺を、利休は最期の日まで懐に抱いていました。壺の底には「あの女」の形見、小指の骨と桜色の爪があったのです。切腹のその日、利休は花のない無窮花ムグンファ(木槿むくげ)の枝を床の間に飾り、秀吉から遣わされた使者を待っていました・・・

 堺の魚屋に生まれ、町衆の間に発達した侘び茶の伝統を茶道Higashiyama_work15s にまで高め大成させた千利休。織田信長、豊臣秀吉の御茶頭おさどうを務め、権力の中枢まで上りつめた希代の美の司祭であった利休が、なぜ秀吉の逆鱗に触れ切腹の命を受けねばならなかったのか、真相は謎に包まれています。
 罪科はあきらかな言いがかりでした。陳謝して命乞いをすれば生きながらえる道もあったのですが、利休は一言の弁明もしなかったと伝えられていいます。本当の謎は、利休という男の心です。利休が命を賭しても守りたかったものは何だったのか。そも利休とは何者・・・。
  十九のとき与四郎(のちの利休)は、売り物として土蔵に囚われている高麗の美しい娘に恋をして駆け落ちをしました。しかし助け出そうとした娘は落命してしまいます。大胆な設定の大団円に向かって、物語は利休切腹の瞬間ときから時間を遡さかのぼっていきます。
「悔しいが、ただ者でないことは認めねばなるまい。あの男は、こと美しさに関することなら、誤りを犯さない。それゆえによけい腹立たしい」秀吉は利休の才気に魅入られ、畏れを抱いていました。
 利休は思います。「美の深淵を見せつけ、あの高慢な男の鼻をへし折ってやりたい・・・」と。

 大徳寺の禅僧・古渓宗陳は「利休居士ほど摩訶不思議な茶人はおりませね。天にゆるりと睡ねむり、清風に吹かれているような方と存じます」と評します。「なぜ日本人は、あんな狭苦しい部屋に集まり、ただもそもそと不味まずい飲み物を飲むのかね」宣教師ヴァリニャーノには茶というものが奇怪な風習にしか見えません。
「あの男は、じぶんが天地の中心にいるかのごとく、倣岸不遜な顔をしている」石田光成は人を見下したような利休がどうしてもゆるせないらしいのです。「あなたには、わたくしよりお好きな女人が、おいでだったのではございませんか」妻の宗恩は思わず訊いてしまいました。各人各様の利休が浮かび上がります。しかし、近づけば消える逃げ水のように利休の正体はつかみどころがない。その技、その振る舞いに幻惑された各々の感情だけが置き去りにされています。
 「侘び」と言いながら、そのじつ自由奔放。超然としていてひとつの像をむすばない利休という存在。そのはてに、高麗の娘との狂おしい恋物語が語られます。娘を殺あやめたのは利休でした。彼岸の美しい無窮花ムグンファのようなその女とKaii013 逢うために、利休は一畳半という牢屋のような茶室を生み出しました。求道のはてにたどり着いた数奇屋の空間は、時空を超える装置でした。
 言葉の通じない二人の心の通い合いがとても美しい。利休はきっとほんとうに、そんな永遠を求めていたに違いない。新しい利休像に迫る筆者の御点前は見事だと思います。

 飛び抜けた美的センスを持ち、刀の抜き身のごとき鋭さを感じさせる若者が恋に落ちた・・・。堺の魚屋の息子・千与四郎。後に茶の湯を大成し男・千利休のことです。女のものと思われる緑釉の香合を肌身離さず持つ利休は、おのれの美学だけで時の権力者・秀吉に対峙し、気に入られ、天下一の茶頭に昇り詰めていく。利休は一茶人にとどまらず、秀吉の参謀としてその力を如何なく発揮。秀吉の天下取りを強力に後押ししました。しかし、その鋭さゆえに、やがて対立。秀吉に嫌われ、切腹を命ぜられのです。

本書は、利休好みの水指を見て、そのふくよかさに驚き、侘び茶人という一般的解釈に疑問を感じた著者が、利休の研ぎ澄まされた感性、色艶のある世界を生み出した背景に何があったのかに迫った長編歴史小説です。

著者の山本兼一氏は、直木賞候補になること2回。いま最も勢いのある時代小説作家でしょう。気骨ある男を描いて定評がある山本氏の新境地は必読の価値ありと思いました。

 利休切腹の日から始まって利休のうちに「美」という病を生ぜしめた若き日の事件へと時間をさかのぼっていきます。この間、多くの人物の目を通して様々な角度から利休の追い求める美の姿を浮かび上がらせていくさまは、細かな伏線や言葉遣いという技術的な意味でもなかなかに良く練られた小説です。 読ませるのです。著者の伝えたいことが強いせいかあざとさは感じませんでした。

大事なのは歴史的な事実ではなく、 前半を読んでいるときには、寂があるのは荒ぶるものがあってこそと感汁ことが出来ました。 中盤を読んでいるときには、美の絶対性と同時にその脆さ・危うさを感じるほどでした。 そして最後に、人間を突き動かすものは、実はしょうもないことであったりするということを感じました。話してしまえばしょうもないこと。 ただ、内に沈んだことで恐るべき力となって人を突き動かすもの。 歴史に名を残したような人物・事件であってもそのようなものは多い。美もまた美しくないものから生まれているのです。いえ、「美」自体が気づいてしまえばさして美しくもないもの、なのかも知れないとさえ思えてきます。
 この小説には綻びもあります。矛盾も。どんな大人物の人生であっても、所詮人生などうたかたにすぎません。
 しかし、うたかたにすぎなくとも、しょうもないものから始まっていようとも、美しいものは美しいのであると感じることの出来る作品でした。

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2009年6月17日 (水)

私の好きな作品たち~安部工房編

 私が詩の作品をはじめて読んだのは高校生のある夏の日でした。何でもいいから読んで、感想文を書きなさいということで、私が図書館でタイトルを眺めていた時、安部工房氏の写真を見つけました。それがクラブ活動の顧問も先生にそっくりで、思わず本を棚から抜き出していました。
 人間を物質的・即物的に見たとき、必然的にそれには値段がついてきます。値段のついていない「もの」の方が、希でしょう。『R62号の発明』では、主人公の機械技師は、その命を売り、『第四間氷期』では、主人公の妻の胎児を、無理矢理買い取られる。逆に、『耳の値段』『手段』は、「保険」という、現実社会で唯一認められている人間の格付けを利用して、儲けようとする話です。そう聞くと嫌な話なのかなと思われがちですが、そういう観点からものを観ると逆に人間の尊いものが見えてきたりするということなのだと思いました。

 私は特に『他人の顔』が好きですが、あの物語も自分を偽っTadanori007 て暮らしていたはずが妻には見抜かれていたという、人間は簡単に全てを変える事は出来ないのだということを学んだ気がします。安部氏のモチーフを一言でいえば、「存在論」ということができると思います。なかでも『他人の顔』は、人間にとって必要不可欠な「顔」を題材とし、人間存在の不安を容赦なく揺さぶる作品だと思うのです。また、安部氏はしばしば理系の作家といわれますが、本作品における精緻な科学的記載はまさに作者によってのみ可能であり、新鮮な読後感を与えています。そして、個人的感想ですが、作品の後半部でエピソード的に語られる少女の映画が印象的であり、作品全体のテーマを暗示しているように思われました。

 「顔を解体すること、これは決してささいなことではない。狂気に陥る危険も多分にある。精神分裂病者が自分の顔についても他人の顔についても等しく、顔の感覚をなくすと同時に、風景の感覚、言語と支配的な意味作用の感覚を失うのは偶然だろうか。つまり、顔とは一つの強力な組織作用なのだ」(訳書p.213-214 原書p.230.)

一方、「他人の顔」のラストはこうです。

「ともあれ、こうする以外に、素顔に打ち克つ道はないのだから、仕方がない。むろん、これが仮面だけの責任ではなく、問題はむしろぼくの内部にあることくらい、知らないわけではないのだが……だが、その内部は、なにもぼく一人の内部ではなく、すべての他人に共通している内部なのだから、ぼく一人でその問題を背負い込むわけにはいかないだ……そうだとも、罪のなすりつけはお断りだ……ぼくは人間を憎んでやる……誰にも、弁解する必要など、一切認めたりするものか! 足音が近づいてくる…… だが、この先は、もう決して書かれることはないだろう。書くという行為は、たぶん、何事も起らなかった場合だけに必要なことなのである」(p.283-284.)

「凡庸さ」は、顔の支配の終わりは「非人間性」を目指すところにある、これを、安部公房氏は、すでに24歳のとき、こう書いているのです。

 「終った所から始めた旅に、終りはない。墓の中の誕生のことを語らねばならぬ」(終りし道の標べに 1948)

このように、すでに何もかも見ていたように感じさせる他ない安部氏は、世界史を超えてどこかを(どこかへと)疾走=失踪し続けていたんだと思います。

 これで感想文を書いたのですから、先生は、私を異端児だと思ったかもしれません。

 次に好きな作品は、『砂の女』です。阿刀田高氏は「小説の一番の面白さは、謎が提示され、それが深まり、最終的にそれが解けてゆくことだが、この作品はその構造を持っている。砂がもう一つの主人公になっていて、砂は日ごとに変わり、独特の模様を描き、無機的である。生きているような様相を持っているし、何もないように見えながら、生命体を隠していたりして、非常に不思議な存在の砂に目をつけたいうところが、この小説の面白さじゃないかと思う。人間の自由とは何なのか?自分たちが接している日常とは何なのか?と、根本から問いかけるような側面があって、男と女の根源にも問いかけるようなことも持っている。これだけ小説の望ましい姿が詰め込まれている作品は、なかなか見当たらない。このぐらいの小説を生涯に一つ書けたら、死んでもいいぐらいに(同作品に)惚れている」と評しています。

 『砂の女』を含む安部氏の作品群の中で良く取り上げられる状Tadanori004 況設定が、言うまでもなく「不条理」です。今の今まで「常識」、「当たり前」と思っていた「生活していく上での前提条件」が、ある些細な出来事から崩壊し、自分が主体的に生活をコントロールしていた筈が、逆に生活から従属的にコントロールされる側に転落し、その状況を主人公(人間)がどう受け入れ、克服していくか・・・今までの生活の「何気なさ」、違和感無く口を広げている「不条理」への入り口、誰にでも起こりえると感じさせる「不気味さ」、この点が他の作家の作品にはない、氏の作品独特の醍醐味であると感じています。
 本作は「不条理な出来事」が切っ掛けで、「今までの価値観ではあり得ない状態」に追い込まれる処までは他の安部作品と同様のテーマの展開ですが、そこから主人公がその状況を受け入れ、「今までの価値観の上に構築された生活」を捨て、「不条理な条件の上に成り立っている現状と共に生きていくために必要な条件」が記載されている点が他の作品と比べて知的に抜きん出ていると思います。力で強制されたただけでは、人間は慣れ親しんだ価値観を捨てることはできないこと、一度は脱出の「希望」を持ち、それが失敗することで「絶望」を経験し、それでも脱出の希望を伺いつつ生活していくのであるが、彼の地で「生甲斐」を発見したとき、主人公が「その生活と共に生きていく決意」を固める・・・見方を変えると人間の価値観を丸ごと取り替えるために必要十分な状況設定が記載されていると読むこともでき、その点で、恐ろしい小説であるとも言えるでしょう。

世界二十数カ国語に翻訳された云々の謳い文句を気にする必要はありませんが、その事実は文化的背景に関係なく普遍的に万民を考えさせる内容を本作品が備えていることを示していると思います。 未読の方は是非、『他人の顔』同様読まれることををお勧めします。

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2009年6月14日 (日)

私の大好きな作品~村上春樹・『1Q84』編

 もう読まれましたか?私、まだなんです。先週『大様のブランチ』を観て、どの書店も完売状態と知り、うれしいやら悲しいやら・・・読んだ方によると、村上ファンにはたまらない上下2冊になっているらしく、テレビでも絶賛されていましたね。

 この物語は、男女の話が交互に展開されていきます。1章が女性の話。2章が男性の話。そして3章が女性の話。4章が…という形で。最初は何の関連もない男女の話が同時並行的に語られ、徐々にその男女間につながり (関係性) が見えてきます。

主人公の名前はあえてふせておきます。しょっぱなに 「名前」 のHirosi001 エピソードが出てきた時点で私は心をとらえられました。「1Q84」という小説が私を引き込んだ最初のきっかけが、名前でしたから…。
名前という、一見小説にとってさして重要とも思えない要素で読者を引き込むなんてさすがだな、と感服してしまいました。
そして、その男女が暮らしているのは1984年なのですが、それが何かの拍子で1Q84年という世界に入り込んでしまうのです。
普通ではないことが次々と起こり、1Q84年の中へ、深く深く入り込んでしまう。そしてもう、その世界から抜けられない。入り口はひとつ。出口はない…。謎だらけでとても複雑な1Q84年。春樹氏の文章はとても読みやすく読者を引き込み、スラスラとページをくくらせますが、内容はけっこう難解です。今まで読んだ彼の作品と比べても、難しい…と感じました。後戻りのできない1Q84年に引きずり込まれた男女は、それぞれの役目を全うするしかありません。自分に与えられた任務をこなすしかないのです。最終的に、女性はある決断を迫られます。
選択肢は2つ。究極の選択です。そして彼女は・・・・という選択をします。
この彼女の決断は、とても切なかったです。そして、物語は 「謎」 という余韻を残して終わります。この後どうなるんだろうか? という謎を。その余韻はリアルに、波紋のように広がります。まるで今現在も、1Q84年は私たちの知らないどこかで継続しているかのような感覚を、私の中に残したまま、小説「1Q84」は最後の1行を迎えました。

 本当に読んでない私には謎です。でも村上ワールドを一つ一つ思い出し、私の描いている村上ワールドって他の方々と共有できりものなのか少々不安な面も無きにしも非ず。再三村上氏のことは取り上げてきましたが、今回の『1Q84』は久しぶりの長編ですし、今まで書いてきた作品と何らかのつながりがあるのではないかと思えてならないのです。

 私の言葉では語ることはできないので、読んだ方のレビューを紹Sasakura_work06s 介したいと思います。

 ・彼の小説はあまり万人向けとは言えないと思う。 ミステリー小説のように起承転結はあまりなく、謎は謎のまま放置されるケースも多い。 また本作のリトルピープルやかつての羊男、または空から魚が降ってきたり、 とにかく非現実的なこと、超常現象的なことが必ずといっていいほど盛り込まれている。 極めて不自然で非現実的なことが。 それでありながら文体はいささか比喩がオシャレすぎるきらいはあるが、 リアリティーがあり、生活感があり、存在感がある。 また彼が意図的に用いる芸術や文学、音楽などの表現も一般的な日本人には なじみにくいものが多いように思う。 多くの読者は村上氏の美しい文体に魅せられるのだろうか?  ちょっと過激で奔放な性描写に惹かれるのだろうか? 物語に非現実性と文体のリアリティーのギャップを愉しむのだろうか? 解説本を読むと驚くほど出てくる謎かけを探すのだろうか? それともただ流行っているから興味がわくのだろうか? 個人的には大好きな作家だし、本作もとりあえずBook 1は面白かった。 しかしこれほど売れるのは不思議だなあ・・・・・

・「なぜこの本を手に取ったのか?」ということが、読み終わってからわかった。 共時性のような、ひらたく言えばタイミングがこの物語とピッタリ重なったんだな、と。 あらすじを書くのは無粋だと思うのでしないけれど、この作品をひとつのミステリーとして読む人もいるだろうし、社会主義的思想やカルト宗教に対する作者の問題提起であったり、それに代表されるようなひとつの時代の終焉を見る人もいるだろう。また、ラブストーリーだと思う人や、村上春樹自身の父へのレクイエムとして物語を聴く人、または数々のメタファーに示唆された個人の魂レベルでの変容から、普遍的なレベルでの『人(主に日本的近代人?)』の元型のようなものを象徴する(筆者がしたいように感じる)物語でもあると思う。 ほんとうに数学的で多次元的な物語。 主人公たちの年齢が“今年30になる”ということで同世代のシンパシーを感じるだけではなく、今まで走ってきた子ども時代から脈々と続くレールのポイントが切り替わって“新しいわたし”になっていく感覚は、個人のレベルだけではなくこの年齢特有のものとして、とてもリアルに感じた。特に、主人公の『親』に対する想いの変化は、反抗期を体験したことのある人なら誰しもが感じることなのではないかと思う。
 読後に感じたのは、「わたしたちの人生は(誕生から死へ)常に一方向にしか進まないレールのようなもので、一度ポイントが変わったら二度と引き返せないということ。それでも、途中で途切れることなく続いてきたレールの、生まれの呪縛を受け入れることによ
ってそれは呪縛ではなくなり、自分で選び取った能動的な“わたし”になること。」 「気づいたときには既に過去は過去でしかなく、動いてももうレールを逆戻りすることはできない過去を受け入れるということは、過去に囚われることではなく、大切なのは現在の“わたし”が過去をどう昇華させて自分のものとして大切にしていくかということ。」 そして、 「現在を大切にするために、傷つくことを恐れてばかりいるのではなく、自ら選び取る責任を負うこと。」
 初期の作品からこの作品までで若輩者のわたしが失礼ながら思うのは、村上春樹という人の心の変容(進化)だけれど、その変容の過程を普遍的な物語に書き換えて、あとから生きる若者たちに示してくれている気がする。「決して独りではない」というメッセージ
をくれている気がする。卵を大切にする人だから。 やっぱりこの人はやさしい。 

・よくも悪くもこれまでの村上作品の「おいしかったおかず」を詰め合わせた作品のように感じました。パラレルワールドは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だし、純愛要素は「ノルウェーの森」だし、カルト宗教は「アンダーグラウンド」だし。それを評して「新しい文化的挑戦」がないという人もいますが、僕はこの幕の内弁当はとてもおいしく食べさせてもらいました。どなたかのレビューにもありましたが「村Yoake001 上作品なら安心だ」と手にとる多くの人たちに幕の内的な安心感を与えられると思います。何の物語かわからない作品を手にとらせる芸当ができる作家が果たして日本にいや世界に何人いるでしょう?このレベルまで文学的高みに立ち得た村上春樹氏に対し、敬意を持たずにはいられません。 BOOK2である以上作品の続きは存在していくんでしょう。いろんな謎がまだ残されたままです。「物語に拳銃が出てきたら発射されなければならない」なら、この残された謎も発射されるべき銃弾だと思うのですが。 どっかで村上春樹氏は「長編というのは短編と違って、長い間その小説世界につきあってくれた読者に対する責任というものがある」というようなことを述べていましたが、もしまだ氏がその責任を感じているとするならば、近いうちにBOOK3,4は書かれることでしょう。 ただもし続編がないとしても、この小説は自分をどこかへ連れて行く力を持った小説として記憶に残る小説になると思います。自分が今いる現実より一段階深いフェイズでこの物語と対峙しなければならない、そんなオーラがある小説です。お天気のいい日に屋上でのんびりと読むような小説ではなく、地下の部屋でじっくりと静寂の中で読むような小説といえるのではないでしょうか。 とはいえ、気になる点がないわけではありません。華麗なるレトリックのスパイスが、少々トゥーマッチのような気がするのです。一個一個のレトリックはすばらしい、村上春樹らしい美しいレトリックなんですが、それが一ページに何個もでてくる場合もあるのは、スパイス過多のカレーのように、正直、もたれます。でももちろんそれがこの小説がもたらす圧倒的な小説的美味を損なうわけではありませんが。個人的にやや気になるなというレベルでの話です。

などなど・・・なるほど、いろいろな感想がありますね。たしかに幕の内的要素は強いだろうなとは思っていました。その前に『世界の終わりにとハードボイルドワンダーランド』を読み終えた時、続編が出るかもしれない、楽しみと思ったことを思い出します。

 ですのでこれらのレビューはあくまでも参考にさせて頂き、読ませて頂こうと思います。とはいえ、何時書店に並ぶやら・・・というか、何時私が読める状態になれるかどうかが問題ですが・・・。

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2009年6月11日 (木)

私の好きな作品たち~見延典子編

 あまりご存知ない方も多いと思いますが、私と同郷北海道の作家さんです。桃井かおりさん主演の『もうほお杖はつかない』を書いた方なんです。最初、映画の紹介にしようと思っていたのですが、第27回新田次郎文学賞に、第一文学部卒業生である見延 典子さんの『頼山陽』が選ばれたので、これは書くしかないでしょうと思った次第です。やはり同郷というだけでも嬉しいのもですね。

 北海道札幌市生まれ。北海道札幌南高等学校時代に小説『指』Bobu002 で北海道新聞社主催・第11回有島青少年文芸賞において佳作に入りました。作家になれると確信し、早稲田大学第一文学部に入学。文芸科の卒業論文に200枚の小説『もう頬づえはつかない』を書いた。その後、担当の教員が雑誌早稲田文学に紹介し、掲載されました。のちに講談社から出版され、50万部を超える大ベストセラーになりました。本作は桃井かおり主演で映画化され、ヒットしましたね。観ていない方のためにおさらいしましょう。

 早大生のまり子(桃井かおり)は、アルバイト先で知り合った同じ大学の橋本(奥田瑛二)と、三十過ぎの芽の出ないルポライターの恒雄(森本レオ)という二人の男とつき合っていました。まり子は現在橋本と同棲中で、その前は、恒雄と恋愛関係にあり、彼のために薬剤師になる夢を捨て大学も変えたことがありました。彼女は恒雄のことで札幌の母と喧嘩して、以来、仕送りもなく、今は大家の中年男高見沢の妻・幸江の経営する美容院でバイト中。ある日、橋本と同じアパートにいる明美という女から、二人が以前、関係していたことをまり子は聞きました。そんなとき、突然恒雄が戻ってきたのです。彼は故郷で働といいます。そして、まり子と橋本の関係を知って怒る恒雄に、彼女は抱きついていく。その現場を見た橋本は恒雄と争いになり、まり子の前から去っていく・・・暫くして、橋本は故郷鹿児島で就職を決めてまり子の前に現われます。
 その頃、あの橋本と争った日以来、行方をくらましていた恒雄も戻ってきて、まり子は雄と久しぶりのセックスをするが、以前のような気持にはなれなませんでいた。それは、恒雄が自分の夢を追うばかりで、彼女の立場を考えようとしないからです。一方、橋本もまり子を連れて故郷に帰りたいと言います。自分のことしか考えない二人の男に、まり子はひとりで生きていく決心をするのでした。ひとりで生きていく・・・そこには、底はかとない心と身体の痛みがありました。恒雄の子を身ごもり、堕胎する決心、女にとってそれがどれほど苦痛か、耐え難いことか私は観ていてついのめり込んでいました。そして、病院から帰ってたまり子は冷蔵庫の前に座り込み、殆ど空の中から」り出し、むしゃむしゃ食べ始めるのです。妊娠中はつわりで何も食べられなかったというのに・・・

 大学に入って自由を得て少し背伸びして頬杖なんかついているとこの映画のような結末が待っていたりするものです。人事とは思えない映画に意気消沈している私がいました。

その後、見延さんは結婚し、広島へ行ってしまいましたが、次々と女性ならではの視点で作家活動を続けていたのですね。

 『愛の炎』は、夫・猛の彫刻家として再出発を図りたいという意思を汲んで、天女村に移住することを決めた妻のよう子と息子の連。猛のスランプ脱出をGanntona04 願いながらよう子自身も風光明媚な村で過ごすうちに焼物を再開させることとなります。しかし猛はスランプを抜け出せず、たまたま応募した作品が入賞したよう子のことを同じ芸術家として激しく嫉妬することに・・・その一方で連を通じて知り合った農業主の次郎とよう子が村人たちの噂となります。破局へ向かう結婚生活と新たに強まる愛と生命の絆を描いた作品です。
 昼メロドラマチックなノリの大人のラブストーリーです。この作品の展開で深く絡んでくるのがずばりお金。交通事故の賠償問題、夫が失踪した後に逼迫していく生活、逢瀬のときに相手にかける負担などそのたびごとによ子に起こる感情の揺れ動きがお金のやりとりで如実にあらわれてきます。そして後半部分になると”300万円”という金額が次郎とよう子にれぞれ違う意味をもたらすようになります。お金で買われた愛は少々生臭いけれども、お金を介在しての感情の動きはリアルさがあって訴えかけてくるものを増すような感覚があります。よう子が次郎から金銭的な援助をうけないと決意するのも「恋人であって愛人ではないんだ」という気持ちの現れのような感じがします。なんだかそんなところが大人のラブストーリーを匂わせます。たまには読書で昼メロしてみるのもいいんじゃないでしょうか。

 『三人姉妹』では、夫の浮気にこらえきれなくなって広島の実家に戻った長女・葵、パトロンがいなければ成り立たない画家という職業に嫌気がさしている東京に住む次女・ネム、子供が出来たせいで教師という夢をあきらめて札幌へと渡った三女・あんず。30代を迎えた朝比奈家の三姉妹が母の死をきっかけにして女性として再びよみがえっていく姿を描いた作品です。女系で続いているからなのか女性によって支えられてきたのが朝比奈家。幼い頃に父親を亡くし祖母と母の頑張りによって育った葵、ネム、あんず、大樹は常に朝比奈家の女性の力を感じているようです。本来跡取りとなるはずの長男の大樹はそんな様子に安心感を抱いているのかコックになる夢に向かって前進中。そして結婚しても遠く離れても朝比奈家のことを常に気にかけていた三姉妹もまた朝比奈家の呪縛から逃れて母親として女性として自由に生きていこうとしはじめます。そのきっかけとなっているのは年下の男性との旅行中に起こった母親の事故死です。朝比奈家を守るためだけに生きているとばかり思っていたはずの母親が女性としての顔を捨てずにいたことが三姉妹にとっては大きな衝撃だったのでしょう。母親の死や人生をそれぞれの胸で謎解きしていきます。そうしてそれぞれの答えをもって新しい出発をしていく姿に名前のとおりの花のように美しさや凛々しさを感じられます。三人それぞれに違う個性が顕著なので読んでいて飽きることがありませんでした。

 『聖なる河』は、義父と2人の異父弟、そして唯一血のつながっGantona01 ている母という家庭の中にぬぐいきれない違和感を感じて育ったのが主人公の今日子。義務のように通っているなんとなく高校で盛り上がった嘘か本当かわからないマチ子の恋物語。彼氏を紹介してくれるというので友人達と興味半分に訪れた結果、今日子はマチ子の彼氏のサトルと肉体関係を結ぶようになります。そのことがきっかけになって堕ちていく今日子の人生を描いた作品です。義父と異父弟に囲まれた生活は不自由したものではなかったけれど、なぜか居場所をつかむことが出来なかったことが今日子が堕ちていく根本的な理由のようにみえます。安らぎの場所や自分にだけ注がれる絶対的な愛情を今日子は求めていたんだろうなぁと。そんな安住の地をサトルの腕の中に見つけ、高校を中退して一人暮らしを始めることになります。でもやっと安心できると思った場所はサトルの裏切りによってガラガラと崩れていきます。里美の相談にのったりできる今日子は高校生としては大人びて
いたけれども社会的にはまだまだ未熟だったということを突きつけられているのに今日子はそのことに気づくことはありません。そんなところにもまた未熟さを感じてしまいます。せめて高校を卒業して自分で生活ができるようになっていれば、1人で生きていけるしたたかさを蓄えられていたんじゃないでしょうか。主人公をラストまでとことんまで落とし続ける作品は本当に暗いものです。男と女のあり方を問う作品だと私は思いました。

そして『頼山陽』。 『日本外史』の作者としてあまりにも著名であり、かつ江戸時代きっての文人であった頼山陽の生涯を描いた長編小説です。広島在住の作者が地元中国新聞に長期にわたって好評連載した同名の小説に大幅に加筆して刊行されたもので、上下巻で900ページ、恐らく原稿用紙で2700枚以上にのぼるであろう大作です。
 頼山陽の著作は、漢文で書かれているために、現代の我々には大変馴染み難く、私も実際の作品はほとんど読んだことがありません。しかし、20年以上前に刊行された中村真一郎氏の『頼山陽とその時代』で、このある意味では同時代人にとっても型破りであったろう、スケールの大きな巨人の一部を垣間見た思いでした(これは、中村氏の著作のことを言っているのではなく、当時の自分の理解の程度を指してます)。だから、この長編小説で久しぶりに頼山陽の姿に再会した訳ですが、冒頭21歳の山陽が狂気にとりつかれたように脱藩して京へ上り、連れ戻された幽閉・廃嫡となる第一部の立志編から作者の入念・細緻な筆に引き込まれて、ほとんど滞りなく一気に読むことが出来ました。

「わしは三都のいずれかに出て、文で名をあげる」と大言壮語して、儒者の一家である頼家の人々を困らせる山陽は、しかしまた余人に無い強烈な意思とエネルギーで自己実現しようと放蕩と放浪を繰り返します。
 下女であった梨影を妻としながらも、妻女江馬細香との不思議ともいえる師弟愛を続ける山陽は、徐々に京において詩書画において名を
上げつつ、多くの文人との交流を広げてゆく。そして、働き者の妻梨影のお蔭もあって生活が安定してゆくにしたがい、山陽は永年書き続けた『日本外史』をようやく完成することができ、それによって一気に名声が上がるのです。
 『日本外史』は、尊王論を柱にした源平以降の武士の歴史ですが、漢文による壮大な日本史を在野において完成させた山陽の仕事は、当時にあっては偉業とも言えるものであったろうことはこの小説に描かれた各藩の反響からもよく分かります。また、幕末の尊王論への影響が大きかったことは紛れもない史実です。でも、この小説に描かれる山陽は、同時に書画骨董などに旺盛な物欲つまり蒐集癖があり、一度狙った書画は絶対手に入れるように執念を燃やすなど、周囲にとっては迷惑な人間だったようにも見えますが、それを補ってあまりあるほど友情に篤く、また周囲もほっておけないTkamio001 魅力ある文人だったように思います。さらにはこの親あってこの子あり、山陽の母静(梅?)の山陽に対する愛情の深さ、そしてそれにこたえるような山陽の親孝行は大変微笑ましかったです。
また、当時山陽ほど家の束縛を嫌い、自由気ままに自分の目標に向って進んだ自由人も珍しいですが、人間として成長するにしたがい、自分がいかに父や叔父たち、そして母や友人たちに支えられていたかに気がついて、それに感謝するとともに「人が人として自由かつ幸福に生きられる世であってほしいと切なる願望」をもって、多くの著作を書いてきたという作者の山陽像は、十分共感できるものです。

 それにしても、江戸時代詩書画ともこれだけ盛んだった漢文の文化は、現代ではほとんど忘れさられているのは、明治の急激な西洋文明の導入と、太平洋戦争敗戦による第二の開国のためなのでしょうか・・・

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2009年6月10日 (水)

私の好きな詩人~ライナー・マリア・リルケ編

 私が詩はあまりわからないのですが、『マルテの手記』は読んでおいたほうがよさそうです。リルケはプラハの人です。軍人であって鉄道屋の父はリルケの母と離婚すると、少年リルケをザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に放りこみました。やむなく陸軍士官学校までは進みましたが、ここでついに挫折。しばらく商業学校に通いつつ詩作をはじめ、プラハ大学で法律と芸術を習ううち、悲しくなって『ヴァークヴァルテン』という詩集を自費出版をしました。少女がこの名をもつ草に変身して恋人を路傍で待つという伝説に因んでいます。リルケはこの詩集を貧しい人々に配ったり病院へ送ってみました。それからミュンヘンに行き、ベルリンに転居。『家神奉幣』『夢の冠』『降誕節』を出版し、それを自分で祝って『わが祝い』を書きました。寂しすぎる詩です。リルケはロシアに旅行にでます。そのとき20世紀がやってきました。25歳でした。
 ロシアはひたすら荒涼とし、ひたすら広聊としていました。リルSag18 ケはクレムリンの復活祭の鐘の音を聞くうちに、これが自分の復活祭だと思うようになりました。リルケはこのあとも鐘の音について何度も綴っているのだが、この言葉の音感のようなものには凍てつくように鋭いものがあります。ただその音を共有してくれる者が見つかりません。
 それでもロシアには新たに感じるものがありました。のちにリルケはイタリアを「かつて神がいた国」と名付けるのですが、ロシアは「やがて神がくる国」だったのです。この独特の直観はついに『時祷詩集』という大作になりました。暗闇ですら会える神との逢着を歌っていました。
 リルケが少しは人間の温度と出会うのはロシアから帰って、女流彫刻家のクララ・ヴェストフと結婚してからです。ヴォルブスヴェーデに住みました。リルケはその中途半端がかえって苦手だったようです。ただクララとともに出会った芸術家たちの交流には気が惹かれて、それがのちのちまで尾を曳いたのです。それならヴォルブスヴェーデにそのまま住めばよいだろうに、リルケはここで単身でパリに行ったのです。すべてを残してパリに孤独を求めに行っている・・・などとんでもないことをするものかと思いますが、それがマルテとしてのパリなのです。マルテとしてのリルケには、今度は寂しさよりも厳しさがほしかったのです。だからリルケは4年にわたってロダンのアトリエに出入りして、芸術家の苦悩にふれました。内面に入っていったのです。リルケ自身にロダンを勝るものだってあったというのに、それでも自分より大きい厳しさが必要だったのです。ロダンだけではない、セザンヌのアトリエにも出入りしました。リルケは生涯一書生であらんとしたにちがいありません。
 しかし、やはりリルケはリルケなのです。ロダンやセザンヌに感得した言葉は『形象詩集』という結晶になる・・・とうてい美術批評家には書きえません。とくに日本の美術批評にはまったく見当たらない炯眼が輝いるのです。けれどもそれを書いてしまえば、またリルケは温度から遠ざかるのです。そこで徹底してみたのが、パリを命の行方として凝視することでした。こうして『マルテの手記』が綴られたのです。

詩というよりも小説であり、物語というには詩魂が透徹されすぎていSag25 ました。第1行目がこうなのだす、「人々は生きるためにみんなここへやってくるらしい。しかし僕はむしろ、ここでみんなが死んでゆくとしか思えない」。これではパリはルンルン気分で歩けないでしょう。。ボードレールやコクトーをなんとかしても、リルケのパリが残響すれば、とても歩けるものじゃないと思えてきます。

 『マルテの手記』におけるパリ観察は、デンマークの貴族の家に生まれた無名詩人マルテが見たパリということになっています。リルケはデンマークの詩人たち、たとえばヤコプセンやヘルマン・バングが好きだったので、デンマーク生まれの若者を自分の分身にしました。しかしマルテにとってのパリは、死ににくるための街なのです。実際にも手記に登場するパリは、そこがノートル・ダム・デ・シャンであれオテル・ディユ病院であれ、明るいはずのチュイルリー公園ですら、なんだか死に方の見本のような細部観察で成り立っているといえます。 

 リルケは似たような感想を、新たな恋人となったルー・アンドレアス・サロメへの手紙にも書きつらねています。とくに「パリは困難な都会です。ガレー船です」というセリフは有名ですね。パリはリルケにとってもマルテにとっても「いとわしいもの」で、つねに「行きあうすべてのものたちからたえず否定されている」ような街だったのです。そもそもこの手記は「僕は見る目ができかけているのだろうか」という疑問の萌芽から始まっています。そのうえで、ひたすら心を観察するという手記になっています・・・できるだけ正直に、できるだけ
偽りなく・・・。そこには国木田独歩の日記『欺かざるの記』のような日本人はいません。あくまでヨーロッパの、オーストリアの、ブレーメン地方の、幼年学校や士官学校が育てた青年の、そのような人物によるパリにおける赤裸々な手記なのです。
 

もっと俯瞰的なことをいうのなら、リルケが見たパリは20世紀がその後に作り出すすべての資本主義都市の行方を見定めたものだったのでしょう。

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2009年6月 5日 (金)

私の好きな作品たち~井上ひさし編

 1934年11月16日山形県東置賜郡川西町( 旧小松町) に生まれ、上智大学外国語学部フランス語科卒業。在学中から、浅草のストリップ劇場フランス座の文芸部兼進行係となり、台本も書きはじめた方です。
  戯曲『うかうか三十、ちょろちょろ四十』が芸術祭脚本奨励賞を受賞。放送作家としてスタートします。64年には、その後5年間におよぶNHKの連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』(共作)の台本を執筆。現代的センスによる笑いと風刺で多くMoji5 の人々に愛されました。
 69年には、劇団テアトル・エコーに書き下ろした「日本人のへそ」で演劇界にデビュー。
 72年には、江戸戯作者群像を軽妙なタッチで描いた『手鎖心中』で直木賞を受賞。同年『道元の冒険』で岸田戯曲賞と芸術選奨新人賞も受賞しました。
  以降、戯曲、小説、エッセイなど多才な活動を続けて、戯曲「しみじみ日本・乃木大将」『小林一茶』で紀伊國屋演劇賞と読売文学賞(戯曲部門)、小説『吉里吉里人』で日本SF大賞、読売文学賞(小説部門)、また『私家版日本語文法』『自家製文章読本』『井上ひさ
しの子どもにつたえる日本国憲法』などもベストセラーになっています。
  最新刊は『ボローニャ』と『ロマンス』。
 84年にはこまつ座を旗揚げ。「頭痛肩こり樋口一葉」「きらめく星座」「闇に咲く花」「雪やこんこん」「人間合格」「黙阿彌オペラ」「連鎖街のひとびと」「兄おとうと」「円生と志ん生」他多くの戯曲を書き下ろして上演しました。  「昭和庶民伝三部作」でテアトロ演劇賞、「シャンハイムーン」で谷崎潤一郎賞、「太鼓たたいて笛ふいて」で毎日芸術賞・鶴屋南北賞を受賞しています。
  小説、「腹鼓記」「不忠臣蔵」で吉川英治文学賞、「東京セブンローズ」で菊池寛賞をも受賞。改めて幅の広い活躍に目が離せませんね。
  87年には、蔵書を生まれ故郷の川西町に寄贈して図書館「遅筆堂文庫」が開館。ここでは、こまつ座主催での生活者大学校を開校しています。
  こまつ座公演以外にも、新国立劇場に「紙屋町さくらホテル」「夢の泪」他を書き下ろしました。戯曲「化粧」「藪原検校」「父と暮せば」などは海外公演でも高い評価を得ています。2001年には、知的かつ民衆的な現代史を総合する創作活動で朝日賞を受賞。2004年、文化功労者に選ばれました。2007年、『私はだれでしょう』(こまつ座)、『ロマンス』(こまつ座&シス・カンパニー)を書き下ろして上演しました。戯曲『父と暮せば』は英・独・伊・中国語対訳本を刊行(8月にはロシア語刊予定)。これまで、フランス、ロシア、中国、イギリス、カナダ、アメリカ、ドイツなどで上演、リーディングされています。

 とにかく賞を総なめしているこの方、私が知ったのはよく巨泉さんと11PMに出ており、作家として知ったのは『手鎖心中』でした。勿論『ひょっこりひょうたん島』もかすかに覚えていますが・・・

 文体は軽妙であり言語感覚に鋭く、『週刊朝日』において大野晋氏、丸谷才一氏、大岡信氏といった当代随一の言葉の使い手とともに『日本語相談』を連載、『私家版日本語文法』など、日本語に関するエッセイ等も多いのが私が好きなわけでもありますが、 自他ともに認めるたいへんな遅筆で有名であり、書き下ろし戯曲が公演に間に合わず休演させることも度々で、それを逆手にとって自ら「遅筆堂」という戯号を用いることもあります。特に戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした「パズル事件」は悪名高いのです(笑)。

 休演や初日延期の事態になった場合の損失には私財を投じて補填してそうです。1983年に自作の戯曲のみを専門に上演する劇団「こまつ座」を創立、みずからを座付き作者と名乗りました。ちなみに親交のある永六輔氏によると「遅筆がひどいのでパソコンで字を書こうと考えていると話していたが、どちらにしても同じだからやめなさいと説得し、結果やめていた」と明かして、遅筆は字を書く以前の問題だといいます。ただし字は丁寧で大変読みやすく、編集者を手こずらせることはないそうです。

しかし、その戯曲の完成度の高さは現代日本おいては第一級のものであり、数々の役職を含め、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立している。特にデビュー以来40年近くにわたって話題作を提供し続けていることは、他分野の創作も含めて異例の息の長さだといえるでしょう。私は議曲を見に行くと言う事が無いのですが、一度でいいから「こまつ座」で観てみたいです。
 また、政治活動を行ったり、無防備都市宣言を支持しており、「Mojiriani005 (真の国際貢献をなすめには、)例えば医学の世界で、日本が世界最良の病院となるようにし、ノーベル医学賞は毎年日本人が貰い、日本人が癌の特効薬を開発し、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになれば、ブッシュさんもプーチンさんも世界中の富豪も、日本に診療してもらいたくなり人質同様になれば、そんな日本を攻撃できない、してはいけないと思うようになる。」などと極めて大胆な発言をしていました。

そのような活動、思想、主義のため、何度か匿名による脅迫を受けたこともります。とりわけ第二次世界大戦における昭和天皇の戦争責任について、数々の戯曲で問題提起をし続けています。一方で今上天皇の園遊会に招待されて参加したこともあり、親と子は別の人格であると言う考えからも親近感を抱いているようにも捉えられます。このようなことは別にして、作品、作品。

 日本語は難しいです。母国語であるはずの日本語が一番解り難いと思うのです。当然、母国語だから読み書きや会話はできるのですが、その仕組みを意識して使っているわけではないですよね。私にとってこの程然様に不可思議な日本語をざっくりと解して大まかな理解に到達させてくれたのが『私家版日本語文法』でした。言語の仕組みの本など大抵は退屈なものなのですが、本書は読んでいて笑いがこみ上げてきます。

 『東京セブンローズ』は、国語とはなにか? 国家とは、市民とは?昭和二十年、根津の団扇屋主人による日記。そこには戦下の市民の真実と、戦後の占領軍による日本語ローマ字化計画が綴られていた ・・・時は終戦間際から終戦直後。舞台は東京下町。一介の団扇屋の親父が書き綴った日記帖、という体裁です。陰惨この上ない筈であったろう街の人々の生活が生き生きとユーモラスに描かれ、この時代を体験していない自分にも何やら懐かしい思いが浮かんできます。やがて人々は時代の歯車に乗って数奇な運命を辿り、ついにはGHQを向こうに回しての大作戦。物語の面白さは言うに及ばず。全編に井上ひさしの日本語に対するこだわり・愛着・美意識がこれでもかというくらいにギッシリ詰め込まれています。タネもシカケもてんこ盛り。至福の読書時間を約束してくれる快作です。     今や井上さんだけが、「日本語の問題」を、最高の日本語で、つねに適切な主題と意匠と惑溺するような感覚と起爆するような批評をもって、痛快きわまりない物語にできる唯一人の作家だということなのです。
 なぜ井上さんにそれができて、あとはあらかたダメになったかということを言うのも(石川淳氏・福田恆存氏・三島由紀夫氏以降、作家はしだいに日本語を勉強なくなっているようにおもので・・・)、ひとつの井上ひさし論だろうけれど、それではブンとフンを分断してしまうようなもの、肩凝りと頭痛を分離してしまうようなもの、愛嬌と愛国をとりちがえてしまうようなもの、それは勿体ない・・・
 それよりも井上の「日本語の問題」にはどんな素材も主題も細部もが吸収できる台所が用意されているということ、それが今日只今の日本人にとって重要な用意だということを説明していったほうが、井上さんになぜこんなことを“おねだり”したくなっているかの、説明
になりますね。そして、それがそのまま『東京セブンローズ』がどれほど凄い小説なのかという傍証になるはずなのです。

 また『父と暮せば 』は、先の大戦と原爆をテーマに、生き残った者たちについて語られた戯曲ですが、さまざまな立場の人が、さまざまに思いを抱いて読む脚本であると、思います。少し読んでは本を閉じ、自分の体験した震災や別れや、自分自身の心の動きと対話して、一段落つけなくては先へ進めなかったからです。そして、読み終えた今、心の蓋をとられた娘のように激しく動揺し、悲鳴のような嗚咽をあげて泣き伏してしまいMojiriani011ました。まだまだ、全然、この脚本の本当のところを汲み取れてはいないだろう、と思えるのに、です。これは本当に、人間すべての上に落ちてきた悲劇について書かれた作品でした。震災も戦争も知らない人でも、この悲劇を自らの上から払うことは出来ないでしょう。国も言葉も肌の色も習慣も、どんなに違う人たちがいようとも、人間と呼べるすべての人が、我がこととして受け取ることの出来る、優れた作品です。

 『吉里吉里人』では、一農村が吉里吉里国として日本から独立を 宣言。日本政府の妨害を如何に対処し目的を達成するか。吉里吉里人達が繰り出す奇想天外な対抗策とその行く末がこの小説の骨子であって、私が読み進む上での大きな誘因だったのですが、それだけを追うと大きな肩すかしを食らうでしょう。 読後に私の心に残るのは、そこかしこに散りばめられたエピソードに秘められた著者の持つ縦横無尽の博学さと、農業や医学や政治など諸制度に対する主張の根源性でありました。著者が抱く理想郷の片鱗を寄せ集めた結果が吉里吉里国なのだと思います。 やっつけ仕事の様に感じるどたばた喜劇の進行と猥褻表現と鋭い言語感覚と炸裂する知性と、ごった煮のアンバランスさにすっかり飲まれてしまいました。

  私はもっと読んでいるはずなのですが、ちょっと頭の中がごっちゃになってしまっています。しかし、彼の作品が好きな理由は日本語、国語を愛して止まない作品が多いことからも言えるのです。
 
 

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2009年6月 1日 (月)

私がやや好きな作品たち~川端 康成編

 何故好きの前に「やや」がつくかは、私は川端作品をまっさらな気持ちで読んだことがなく、いつも映画やテレビが先行していて、画像がちらついて純粋な気持ちで読めなかったことにあります。全てがそうではありませんが、『雪国』は駒子は岩下志麻さんで奔放に生きた女性としか捉えられない・・・決して作品の中ではそれだけの女性でなかったと思うのですが、そういう先入観があるのです。でも、冷静になって読むと文章の美しさはやはり類を見ないものがあります。

 15歳までに両親、祖父母、姉を亡くし、書簡を交わし合った三島自殺の2年後の昭和47年にガス自殺した享年72歳の著者の当時抱いていました。死生観と美の感覚が如実に表現されていると感じました。 村上春樹氏は「人生というのは負けるにKaii5 決まっているゲームを闘っているようなものです」と読者に答えましたが、 学識があり無為徒食で裕福な暮らしを続ける家族持ちの島村、島村と同じ雪国への列車に乗り合わせた美しく透徹な陰を持つ娘の葉子、彼女が懸命に看病する重病らしき男、彼女らと同じ雪国の町に住み島村を待ちわびる芸者の駒子、この4人もまたそのような世界に生きます。 彼らの生は死を、それは肉体だけでなく心の死を内包し、健気に純粋にそして一途に芸者としてその範疇の中で生きる駒子と彼女を取り巻く島村、葉子、病の男の生き様が、儚く、虚しく、慎ましく、時に退廃的に、また一瞬の美の煌きと生への野心、そして死・別れの翳を伴って描かれます。

 ノーベル文学賞を受賞した本書の価値を私では上手く表現できませんが、負けるに決まっている人の人生が持つ意味、或は人生そのものを、川端氏は自身の死生観と美感を持って描こうとしたのではないでしょうか。 私自身もっと人生を経れば本書の持つ深みにより近づける気がします。読後感はその人の年齢や人生経験により大きく異なるでしょうが、一読に値する深みのある日本文学です。
 この「雪国」が、芥川賞を受賞した川上未映子氏の137回芥川賞候補作の主人公(=恐らくは著者の分身)の大切な思い出として描かれたことに、時空を超えた日本文学の不思議な巡り合せを感じました。駒子は、東京へ酌婦として売られ、囲われ者になり、その後また借金のため芸者になるというとても辛い人生を送っていますが、男と(金で一夜を買われる芸者としてではなく)対等に恋する女として生きようとします。こうした悲しい芸者の人生が主題なのではないかと私には思えます。東京に住む、財産はあるが行動力のない男と不倫関係に陥る田舎の貧乏な芸者駒子は、どうにもならない愛と人生に対して、苦しみながらも、何もかも受け入れて生きています。この人生は現代人から見ればとても哀しいのですが、戦前の新潟の山奥の貧しい女がどう頑張ってみても、どうにもならないことを彼女は知っていたのです。ある意味、強い女の一面が表に出すぎて悲しさが裏返しになっているような・・・。直裁な愛情の爆裂を意図的にカットすることによって読者を迷わすことなくコースを導いていきます。

ノーベル文学賞候補には始め谷崎潤一郎氏が挙げられていました。この谷崎氏を法然とするなら、川端氏こそ親鸞なのでしょう。川端康成は文章という魔法を使って雪国での日常を美しい叙情の世界へ変えてくれます。
 その淡々とした流れには、まさに雪のなかでゆっくり紡いでいくような繊細さがあって、それは折にふれて女の白い首筋のような脆い妖しさを引き出します。 淡々と物語を読み進めていくうちに「果たしてこれは現実なのか、それとも夢か」という疑問が浮かんでくることでしょう。それが真価なんだと思います。その瞬間に今ある日常は揺らいで、『天の河のなかへ体がふうと浮き上がってゆく』のです。
 また、この作品の特徴のひとつとして「どのページからでも物語に引き込まれる」というのがあります。邪道かもしれませんが、私はこの小説を読み返すときははじめから終わりまできっちり読み通すことはあまりなく、気に入っている場面をぱっと開いてそこから読み進めていきます。この読書態度はどうあれ、それでも十分物語に入っていけるぐらい細部に魅力があります。日常の真価は細部に宿るもので、この雪国という小説はその命題を十分に体現しているものといえるでしょう。

 それから、川端作品は多くありますが、私が好きなのは、『眠れる美女』です。「眠れる美女」発表は1961年、川端氏自殺は1972年でした。書いてから死ぬまでに9年の開きがありますが、私はこれを読んでいて川端氏自殺直前の作品か?と思いこんでしまってました。そういう雰囲気が纏われている、死に近い作品だったからです。
 老人達が、ぐっすり眠っている若い美女と一夜を過ごせるという宿。そこに紹介されて向かう江口老人は60代後半ですが、まだまだ男として終わっていないと思っています。彼は全裸で眠り続ける若い美女と添い寝しつつ、今までの人生で出会った女たちを思い出しながら夜を過ごす・・・そんな表題作『眠れる美女』。雪国で知られる名文句のように、川端氏の読みどころはやはり感覚に訴えてくる描写にあったように思いますが、この「眠れる美女」における風景描写は回想シーンで用いられる個所が何度Kaii15 かあったとはいえ、それほど頻度が高く用いられたわけではありません。そこにあるのは老人の悲しみ、懐かしみ、罪の意識、そして破壊衝動だと思います。これらの起伏に富んだ感情が淡々と綴られ、読者はただその人の意識に恐怖も覚えるとはいえ、死に繋がるのであろう悲しみが、重く感ぜられて素晴らしいといいたくなるのです。こういう空間を作り出す小説は数少く、間違いなく傑作にしか生み出せない力でしょう。本作は三島由紀夫氏が太鼓判を押したことで評価されるきらいが多いようですが、川端ファンの中でもやはりこれが最高だと評す人も多いと思います。

 年齢を重ねて読んだところ、全く違う印象を得ました。決して目覚めない美少女たちと床を共にするという行為は、肉体を重ねる以上のエロティズムを感じさせますが、若い女の体をくまなく眺め愛で添い寝することは、この上ない征服欲だと思います。しかも女は全くそれを知りません。老人達だけが知っている秘め事なのです。そして流石文豪川端康成、世俗的欲望を描いた官能小説でありながら、語り口は極めて美しいと思います。

 川端氏を『雪国』や『伊豆の踊子』で見切ったと勘違いしてはいけないと思います。川端氏は簡単に見切れる様な底の浅い男性ではないと私は思います。『みずうみ』『古都』なども是非読んでいただきたい傑作です。

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2009年5月29日 (金)

私の好きな作品たち~武田泰淳編

 武田泰淳氏とくれば『ひかりごけ』と『富士』を連想してしまいます。

『ひかりごけ』はまず、構成が意外なしくみになっていますね。
 最初は淡々とした小説のように始まっていて、文筆家の「私」が羅臼を訪れたときのことを回顧しているように見えます。なぜ、こんな北海道の果てに来たのかわからないままに、その最果ての漁村の光景の描写がつづいたあと、これはヒカリゴケを見る途中の話だということがわかってきます。「私」は中学の校長に案内され、自生するヒカリゴケの洞窟に入ました。ヒカリゴケはこの世のものとはつかない緑色の光をぼうっと放っています。 帰途、校長が「ペキン岬の惨劇」の話をします。漂流した船の船長が乗組員の人肉を食べ、なにくわぬ顔で羅臼にやってきたという話です。「私」は札幌に来て、知人を訪れました。札幌ではちょうどアイヌに関する学会が開かれていて、そこに出席していた知人は、その学会で昔のアイヌ人が人肉を食べていたという報告があったことに憤慨していました。校長と知人の話に関心をもった「私」は『羅臼村郷土史』を読みます。

 ここから話は昭和19年の事件の記録に入っていきます。事件Hirosi002 を報告している記録者の言葉に、「私」はどこかひっかかるものを感じます。
 ここで「私」は、現実の作家(これはまさに武田泰淳のこと)に戻ってしまい、野上弥生子の『海神丸』や大岡昇平の『野火』を思い出しつつ、この事件を戯曲にしようと試みます。ここが奇妙なのです。読者はすっかり事件に関心をもたせられるのですが、そのとき急に、この話はかつて野上弥生子が『海神丸』で描いてみせた話だということを知らされ、さらに大岡昇平氏の『野火』のテーマにつながるという文学的な話題に転換させられるのです。
 これは妙なことですよね。読者は作者の用意してくれた虚構の船から突然に降ろされて、武田泰淳氏の作家としての現実的な問題意識につきあわされるからです。ところが、そこで武田氏は、ほんとうに戯曲を書いてみせ、読者はそれを読むことになっていく・・・まるで、ほんとうはこの戯曲が最初に書かれ、そのプロローグとしてここまでの物語があとから加わったというふうなのです。

 こうして息をのむような迫真の戯曲が始まります。それも意外な構成で、第1幕は難破した船で生き残った4人の船員が洞窟にいて、そのうち船長と西川が二人の人肉を食べると、西川の首のうしろにヒカリゴケのような淡い光が浮かび上がるのです。西川は罪悪感にさいなまれますが、船長が自分を食べようとしているのを察知して、海に身を投げようとするのですが、船長は結局のところ西川を追いつめて食べてしまのです。
 第2幕は法廷の場。船長が被告になっている。ところが、おそろしいことに、ト書には「船長の顔は洞窟を案内した校長の顔と酷似していなければならない」と指定されています。船長は検事や裁判長を前に、「自分が裁かれるのは当然だが、自分は人肉を食べた者か、食べられた者によってのみ裁かれたい」と奇妙なことを言います。一同が呆然としいるなか、船長の首のうしろが光りはじめる。船長はさあ、みんなこれを見てくださいと言うが、誰も光が見えません。そのうち船長を中心に舞台いっぱいにヒカリゴケのような緑色の光がひろがっていったところで、幕・・・

 この作品のテーマは必ずしも新しくはありません。しかし、『野火』や『海神丸』では人肉を食べる罪を犯さずに踏みとどまった人間が主人公になっていて、そこに一種の「救い」が描かれているのに対して、この作品では最初から最後まで安易な救済をもちこまず、徹して宿命の行方を描こうとしました。
 そこに浮かび上がるのは不気味な人間の姿そのものなのです。これはひとり武田氏にして描きえた徹底であると思います。

 その後、随分たって、日本人による人肉事件がおこって、世界中に報道されました。フランスでドラムカンに人間を煮詰めて食べたという、いわゆる佐川事件です。そして、これを唐十郎が『佐川君からの手紙』として作品にしましたね。
 人肉を食べること、これをカニバリズムというそうです。カーニバルとはそのことでです。本書は人間の文学が描きえたカーニバルの究極のひとつなのでしょう。『海神丸』『野火』とともに忘れられない作品です。
 ちなみに『海神丸』は1922年の作品で、私が知るかぎりはカニバリズムにひそむ人間の苦悩を扱った文学史上初の作品だと思います。野上弥生子は日本が生んだ最もスケールの大きい作家の一人で、いまこそ読まれるべき女流作家ではないでしょうか。高村薫・宮部みゆきからさかのぼって、山崎豊子・有吉佐和子・円地文子・平林たい子らをへて野上弥生子に戻るべきかもしれません。
 武田泰淳という人、いまの日本の文学がすっかり失った文学者と思いきや、結構ファン層が広いことにおどろいています。

 そして『富士』は、第二次大戦中、富士のふもとの精神病院を舞台とした小説です。主要人物に憲兵が出てきたり、戦争に参加できないことを悔やむてんかん患者が出てきたり、自分を宮様だと自称する虚言症患者が出てきたり、と、大戦中の「日本」の精神分析を試みているような要素が強く入っています。特に宮様患者の言っHokusai006 ていることは天皇制を巡る本質を突いているようなところがあって、興味深く読みました。この作品で作者が描いてみせた日本人の特質というのは、現在も何も変わっていないので、こういう読み方は今でも有効だろうと思います。
 もちろん、そういう「日本」批判だけがこの小説の魅力ではなく、例えば正気と狂気の境界をキリスト教的心理と共に描くクライマックスの凄まじさは、私に取って多分一生忘れない読書体験になるでしょう。
 なお、カヴァー裏表紙でこの作品を「大乗」の作品と埴谷雄高が書いていますが、このストーリーの救いようの無さは全く逆だと思います。(ドフトエフスキー好きの埴谷にとって宗教がどういうものだったのかは私はよく解りませんが。)むしろ、解説で斉藤茂吉の息子が指摘しているように「諸行無常」の作品と言った方が僕の読み心地にはあっていました。

 戦時下の精神病院を舞台に繰り広げられる人間模様。この小説には沢山の重要な現代に通じる課題が詰まっています。異常と正常の境目は? マイノリティーとマジョリティーの関係は? 天皇に対する自由な意見を言えない情勢とは? 男と女の位置関係は? 女の性欲は抑圧されるべきものなのか? …数え上げればキリがありません。それらが、当時のおそらくは一般的な統一見解であった何ものかが、精神病院という舞台では、時に逆転してしまうというアイロニー。登場人物がたくさん出てきますが、それぞれのキャラクターが確立されており、長編小説だが息つく暇なく読みふけってしまいます。結末は、少し意外な印象をきっと多くの読者にもたらすでしょう。

 この2冊を読むときっとまた武田氏の本を探しているでしょう。

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2009年5月25日 (月)

私の好きな作品~『楢山節考』

 私がこの作品に出逢ったのは小学5年生の学芸会の時でした。そうです。演劇で『楢山節考』をやったのです。やってる本人達はきっと意味もよく解らないで演じていたと思いますが、なんと観客の中で泣いている声が聞こえてきて・・・そのときやっと、私達って凄いものを演じたんだと感じました。

 あれから何十年かして映画化された時、観る事は出来なかったのですが、家に本があり、読んでみることにしました。なんて切なく悲しい作品なんだろうと姥捨て山ってこういうことなのかと心が叫ぶのです。その後映画を観ました。

 信州の山深い寒村を舞台に、死を目前にした人間の生き方を描いた作品です。深沢七郎の同名小説と「東北の神武たち」の映画化で、脚本・監督は「ええじゃないか」の今村昌平、撮影は栃沢正夫がそれぞれ担当しました。

 おりんは元気に働いていたが今年楢山まいりを迎えようとしていHuukei005_2 ました。楢山まいりとは七十歳を迎えた冬には皆、楢山へ行くのが貧しい村の未来を守る為の掟であり、山の神を敬う村人の最高の信心でした。山へ行くことは死を意味し、おりんの夫、利平も母親の楢山まいりの年を迎え、その心労に負け行方不明となったのです。春。向う村からの使の塩屋が辰平の後添が居ると言って来ました。おりんはこれで安心して楢山へ行けると喜びます。辰平にはけさ吉、とめ吉、ユキの三人の子供とクサレと村人に嫌われる利助と言う弟がいて、それがおりんの家・根っ子の全家族です。

 夏、楢山祭りの日、向う村から玉やんが嫁に来た。おりんは玉やんを気に入り、祭りの御馳走を振舞います。そして悩みの、年齢と相反した丈夫な歯を物置の石臼に打ちつけて割りました。夜、犬のシロに夜這いをかけた利助は、自分が死んだら、村のヤッコ達を 一晩ずつ娘のおえいの花婿にさせるという新屋敷の父っつあんの遺言を聞きます。早秋、根っ子の家にけさ吉の嫁として、腹の大きくなった雨屋の松やんが混っていました。ある夜、目覚めたおりんは芋を持って出て行く松やんを見ました。辰平はもどって来た松やんを崖から落そうとしたが腹の子を思いやめます。数日後、闇夜に「捕山様に謝るぞ!」の声がしました。雨屋の父つっあんが焼松の家に豆かすを盗みに入って捕まったのです。食料を盗むことは村の重罪であった。二代続いて楢山へ謝った雨屋は、泥棒の血統として見なされ、次の日の夜、男達に縄で縛られ生き埋めにされました。その中におりんに言われ雨屋にもどっていた松やんも居たのです。新屋敷の父っつあんが死に、おえいは遺言を実行していたが利助だけはぬかしました。飼馬のハルマツに当り散らす利助を見かね、おりんはおかぬ婆さんに身替りをたのみます。

 晩秋、おりんは明日山へ行くと告げ、その夜山へ行く為の儀式が始まりました。夜が更けて、しぶる辰平を責め立てておりんは楢山まいりの途に着きました。裏山を登り七谷を越えて楢山へ向う・・・楢山の頂上は白骨と黒いカラスの禿げ山。辰平は七谷の所で、銭屋の忠やんが又やんを谷へ蹴落すのを見て茫然と立ちつくす、気が付くと雪が舞っていました。辰平は猛然と山を登り「おっ母あ、雪が降ってきたよう! 運がいいなあ、山へ行く日に」と言い、おりんは黙って頷くのでした。

 主人公はおりんという女性ですが 本当の主人公は「村の掟」でBobu002 あると読んみました。その掟は村人が作りだしたものなのでしょうが それが自立した生き物 のように村の中を彷徨い、人々を従わせていく姿が本筋だと思うのです。食物を 盗んだ一家に対する処分、結婚と再婚の作法、そうして60歳を超えたら 神の住む山にその老人を捨てなければならないという棄老。 村人が「神」と呼んでいるものは「村の掟」に他なりません。

 おりんはその「神」にむしろ嬉々として従っていきます。自らの死を準備していく 姿には奇妙な明るさと強さがあるのです。本作がじめじめした親子の情愛譚に 留まらないのは その明るさと強さが放つ「光」が眩しいからでしょう。岩陰で雪を身にまといながら念仏を唱える場面は おりん自身が神になった様を思わせます。 戻ってきた息子に対して無言で手を振って返させているのは もはやおりんではないもかもしれません。そうかんじたのは私だけでしょうか。
 何時から“死”は、忌み嫌われる遠い存在になったのでしょう。核家族化が進み、親族の死に立ち会う機会は失われました。食卓に並ぶ食材も予め手が施されたものばかりだし命を奪っている感覚は薄いし・・・ニュースで事件や事故を見聞きしても、所詮は他人事。5分と経たずに忘れてしまう現代。まだ子供の頃のほうが、死は身近だったかもしれません。昆虫をいたずらに殺したし、ザリガニなんか胴体をへし折ってザリガニのエサにしていました。今となっては、随分可哀想なことをしていたと後悔しています。でも命の尊さを知る経験だったとも思います。
 忘れてしまった死の感覚は、恐怖に繋がります。分からないから怖い。なるべく遠い存在であって欲しい。カワイイ子猫は抱きしめたいけど、死んだ瞬間から見たくもないということ。でも間違ってますよね。生と死は隣り合っているはず。本作を観て気付きました。子殺しに姥捨て。村人にとって死は日常です。死産や幼子を亡くすことは珍しくなかったし、姥捨てだって、いつか自分にも番が回ってくるのです。村人は死に鈍感なのではなくて、不可避なものとして受け入れているのだと感じました。もちろん自分は今の日本が好きです。自分と他人の命を尊重できる社会がやはりいいに決まってます。でも「人の命は地球よりも重い」なんてスローガンがもてはやされるのも違う気がします。逃げずに、真摯に死と向き合うこと・・・それが生を尊ぶことだと思いました。ときに可笑しく、ときに辛くやるせない、村人たちの生と性。自分の歯を打ち砕いた婆さんの想いも、倍賞にとばされて狂ったとん平さんの気持ちもよく解りま。日本人の文化風俗とその根底にある想いを通じて、生について考えさせられました。

 命は誰にも左右されてはいけないと思わずにはいられない作品でした。

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2009年5月20日 (水)

私がやや好きな作品たち~乃南 アサ編

 アサさんを知ったのは直木賞受賞作『凍える牙』でした。でもあまり熱心には読んでなかったので今回開いてみて新たな発見がありました。深夜のファミリーレストランで突如、男の身体が炎上した!遺体には獣の咬傷が残されており、警視庁機動捜査隊の音道貴子は相棒の中年デカ・滝沢と捜査にあたります。やがて、同じ獣による咬殺事件が続発。この異常な事件を引き起こしている怨念は何なのか?野獣との対決の時が次第に近づいていた・・・。女性刑事の孤独な闘いが読者の圧倒的共感を集めた直木賞受賞の超ベストセラーです

主人公はシリーズ化されている音道貴子。このシリーズの長く続きましたね。ミステリーなんですが、この小説、男社会で働く女性の声を代弁もしてるような…ごく普通の女性が男社会で扱われる理不尽さ、腹立ちを貴子は噛み締めながら動くその描写が上手いですね。
 また逆に、男の側から、こんなところに女が加わって、ってい003bear_2 う思いや苛立ちも・・・更に家族とのしがらみ、悩みなんかも等身大に描いてる所為か、貴子にしても相棒を組むベテラン刑事・滝沢も読んでて共感できます。そして、この小説のポイントとなる野獣・ウルフドックの疾風(ハヤテ)。終盤、貴子と疾風が首都高を駆け抜けていく様は最高の画になるんじゃないかと思いました。

ぱっと思いつくところでは柴田よしきのRIKOシリーズもそうだし、横山秀夫の「顔」とか、女性刑事が出てくる小説もかなりありますが、だいたい女性刑事は一人で、男性社会に放り込まれて奇異な目で見られ、認めてもらえず、悔しい思いをしながら日々奮闘します。そして事件を解決。そんな内容が多かったように思います。そういうのは男性に受け入れられない、理解されない理由かもしれないなと思いつつ、私自身、そういうテーマの小説は「またか」と思うし、同じ女性として共感はするけれど、自分がそこまで仕事がんばってるわけでも女性だけど男性と対等に見られたいとか思って日々戦ってるわけでもないので、もう別にすすんで読みたいとも思わないテーマでした。

 この作品はそれがまた典型的にすぎる気がして。離婚暦があり男性不信気味の主人公、音道貴子と、相棒として組まされる、典型的なベテランたたき上げ刑事の滝沢。滝沢はいまどきあるのかってくらいの女性蔑視で、女だからと貴子を軽視し、なおかつどう扱っていいかからないものだから彼女を無視してかかり、貴子はそんな滝沢に反発しつつも懸命に捜査をしようとする。その二人が徐々に気持ちを通わせていく様子はそれなりに読応えはあったけれど、こういう作品の平均的見本として示していいくらい典型さがあって、私自身もそこにはあまり面白みは感じられなかませんでした。

でもすごく面白かった、とやっぱり思えるのは、犯人像です。というよりは、犬の存在でしょうか。音道がかかわる今回の事件。レストランで男がいきなり燃えはじめる。発火装置をつけられて燃やされたその男、他殺ということで捜査がはじまるが、遺体を検分し、大きな獣が噛んだ噛み痕があることがわかります。そして、海の近くで突然大きな獣に別の男が噛み殺され、連続殺人事件として、捜査は続きのです。音道と滝沢は、その大きな獣はウルフドッグという、狼と犬との混血ではないか、その線で捜査を進めるが、調べるうちに、音道はいつしかまだ見ぬその犬の存在が気になって仕方がなくなります。彼に会いたい。そう思うようになるのです。そして、音道は白バイに乗っていた経歴があり、現在も機動隊として任務を行っています。いざというときには、バイクに乗ってその獣を追いかけねばならない・・・・

 飼い主に忠誠を誓い、飼い主不在になっても飼い主の思いを遂行しようとする孤独な犬と、孤独な女刑事の魂の共鳴。大げさだけれど、そういうストーリー展開に私はすごく引き込まれた。この作品の主役は女刑事ではなく、犬だ。その犬の立ち居振る舞いは崇高で気高く思えて、彼の行動には私も目が離せなませんでした。人間の都合のいいように仕込まれてしまう彼だけれど、彼自身がそういう人生選んだようにも思えます。主人に仕える人生を。最後にはとにかく泣けました。犬好きだったから面白く読めたのかもしれないな、とも思います。ウルフドッグ・・・どんな犬だろう。狼みたいに美しいんだろうな。と、ホワイト家族のお父さんにそっくりな柴犬を見ながら思ったり・・・・それはともかく、どうやらシリーズもののようです。音道貴子のストイックな仕事ぶりは気になるけれど、もう犬は出てこないだろうし・・・。また気が向いたら読出み体本の中の1冊です。

 また『幸福な朝食』では、読み始めてまず気付くのは、独特の時間感覚によるストーリー展開です。説明も無しに登場するミカ。読み手の潜在意識にこっそり不安の種を植え付けます。そしてルームメイトの弓子の壮絶な死で、不安の陰は確実に延びてきます。その不安は、終盤の主人公 志穂子の狂気と正常との間の揺らぎへの長い伏線になっています。ストーリーにはさほど特別の山があるわけではありませんが、芸能界や演劇の世界でうごめく登場人物のそれぞれの心理描写、互いに相手の心の奥底を読むシーンが、緊張を生んでいます。人形のミカは、我が子供であり、解決できない自分自身の性格でもあります。ミカに象徴されるのは、人格の分裂でありながら、結末では自己回帰のための重要なポイントになっています。粗削りのような部分もありますが、 各所の意味合いに二重性を持たせているのも著者の魅力でしょう。著者のその後の活躍を十分示唆しています。

 そして『涙』は、昭和39年東京オリンピック前夜。一方的な別離の電話を最後に、挙式を翌月に控えた萄子の前から、婚約者・勝が姿を消した。刑事である勝には、ある凄惨な殺人事件の嫌疑がかけられていた。潔白を信じる萄子は、勝を探し出す決心をするが、同じ頃、勝への復讐を誓った男も行動を起こしていた―。川崎、熱海、焼津、筑豊、飛田、そして沖縄・宮古島へ―。すれ違い、裏切られ、絶望と希望の間で激しく揺れながら続けた孤独な旅の終わりに、萄子が見たものは・・・
 乃南アサさんらしいサスペンスとして描かれていますが、全国各地と舞台が変わる中、萄子の揺れる思い、そして娘を殺害された韮山の思いが複雑に交錯し、更に事件背景が徐々にわかるに従い、物語も段々と佳境へと突入する展開は最後まで目が離せませんでした。事件の真相はラストで明らかにされます、勝がなぜ姿を隠さなければならなかったのか、そして事件の背景には何があったのかは、登場人物の思いと共に本文でじっくりと味わえます。最後のエピローグで、もう少し韮山のその後と勝のその後を描いてほしかったものですが、物語としてはしっかりと堪能できましたし、一気に読まされたサスペンで、面白かったです。

また、『結婚詐欺師』は、2007年にWOWOWのドラマWで内村光良主演でテレビドラマ化されました。

 もっとちゃんと読んでいれば、最初から面白さが解ったのかと少し後悔しています。

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2009年5月19日 (火)

私が驚いた作品~『奇跡の脳』

 ジル・ボルト テイラー女史の『奇跡の脳』はもう読まれましたか?気鋭の女性神経解剖学者が、脳血管の生まれつきの異常があったために、ある日脳卒中を起こしました。なにしろ自分の専門領域なので、脳の機能がしだいに侵されていくのを、自分で体験する破目になります。「四時間という短い間に、自分の心が、感覚を通して入ってくるあらゆる刺激を処理する能力を完全に失ってしまうのを見つめていました。(中略)そして、人生のどんな局面をも思い出すことができなくなってしまったのです」
 
 養老孟司氏の書評によると、『その発作の間も、さすがに科学者Ratur001 である。自分の認知力が壊れていく様子を、しっかり記憶しておくように、必死で自分にいい聞かせる。そういう人だから、回復した後で、こういう本が書けたのである。病巣ははっきりしていた。左脳の中央部から、出血がはじまったのである。それによって、典型的な左脳の機能である言や、自分を環境から区別し、自分の位置を把握する方向定位連合野が働かなくなっていく。そうすると、残る右脳の機能が正面に表れてくる。それはどういう世界であったか。なんと著者はそれをまさに「悟り」の境地、ニルヴァーナと呼んでいる。自分が宇宙と一体化していく。脳が作っている自分という働き、それが壊れてしまうのだから、いわば「自分が溶けて液体となり」、世界と自分との間の仕切りが消えてしまう。つまり宇宙と一体化するのである。
 いわゆる宗教体験、あるいは臨死体験が脳の機能であることは、いうまでもない。しかしそれが世間の常識になるまでには、ずいぶん時間がかかっている。神秘体験としての臨死体験が世間の話題になった時期に、私は大学に勤めていたから、取材の電話に何度お答えしたか、わからない。あれは特殊な状態に置かれた脳の働きなんですよ。
 脳卒中結果、著者はすっかり変わってしまう。いわば右脳の働きに「目覚めた」のである。無理な理屈をいい、批判的になり、攻撃的になる。それはしばしば左脳の負の機能である。もちろん左脳の機能がなければ、さまざまなことができない。しかしリハビリを続け、左脳の機能を回復していく過程で、著者はそうした負の部分を「自分で避ける」ことができると気づく。個人的にお付き合いするとしたら、私は病後の著者と付き合いたいと思う。発作前の著者は、おそらく典型的な、米国の攻撃的な科学者だったに違いないからである。本書の後半を、ほとんど宗教書のようだと感じる人もあるかもしれない。でも、脳から見れば、宗教も特殊な世界ではない。脳がとりうる一つの状態なのである。本書を「科学的でない」という人もあるかもしれない。それは科学の定義によるに過ぎない。科学をやるのは脳の働きである意識で、意識は一日のうちのかなりの時間「消えてしまう」ていどのものである。その意識という機能の一部が、科学を生み出す。しかも科学を生み出す意識という機能は、「物理化学的に定義できない」。
 科学的結論なら信用できる。そう思っている人が、いまではずいぶんいるらしい。しかしその科学を生み出す意識がどのくらい「信用できるか」、本書を読んで、ご再考いただけないであろうか。訳文はこなれていて、じつに読みやすい。専門的な部分を最後に解説としたのも、親切な工夫だと思う。脳研究やリハビリの専門家に限らず、人生を考えたい人なら、だれでも読んでいい本である。』とありました。なるほど・・・

 テイラー,ジル・ボルトさんはインディアナ州インディアナ医科大学の神経解剖学者。ハーバード脳組織リソースセンター(脳バンク)で精神疾患に関する知識を広めるために尽力しつつ、ミッドウェスト陽子線治療研究所(MPRI)の顧問神経解剖学者として活躍しています。1993年より、NAMI(全米精神疾患同盟)の会員でもあり、タイム誌の「2008年世界で最も影響力のある100人」に選ばれました。インディアナ州のブルーミントン在住。

 私も、脳卒中で左脳の機能に障害を受けたが意識は失っていなかったと聞き、さすが科学者と思ってしまいました。生物学的には人は感じる生き物だけれど考えもする、という順序らしいです。彼女は脳卒中で言葉がしゃべれず動けない時、なんと幸せだったというのです。それだけではありません。その中では深い安らぎがあり、魂と宇宙の一体感さえあり、感情が自制でき、世界観までが変化していました。
 8年後、ジルは手術とリハビリによって奇跡的に回復します。そして、左脳が動かなかった間、負の感情を持った人が治療をすると辛く感じ、愛や喜びという感情こそが、人にいい影響を与えることもわかったと言います。また左脳が回復するにつれ、感情を自分でコントロールするより、他人のせいにする方が自然に思われたのだといいいます。
 本書には、脳卒中の回復のためにどうやって病状を理解してもらいたかったか、という脳科学者ならではの不思議で貴重な付録がついています。私は感情の行方を他人のせいにしていないだろうか・・・私は本当の自分についてどれくらい知Gohho006 っているだろうか・・・そんな疑問も投げつけられた気がします。
 痴呆や認知障害で社会生活に支障をきたした方々と(又、広い意味で動物等の生命に対しても)接する機会は私を含め一般の方も多いかと思いますが、どう接するべきか、について役に立つのではないかと思いました。 著者は左脳の障害で、右脳の深い心の平和(涅槃)状態を体験されたと書かれています。でも逆の体験談もあるということですので、損傷部位で個人差があるのでしょうか。右脳にはまだ解明されていない複数の扉があるのかもしれませんね。 個人的には認識の働きの記述の部分、至福状態や、認知機能の肉体の境目感や時間感がなくなったり等が、心のはたらきを勉強するのに読んだブッダの実践心理学等を振り返り、面白いものだと感服してしまいました。右脳を使うようになって多幸感が得られ、涅槃も感じられるという 言葉で便利になった世の中は、人間らしさを奪ってるのではないかとさえ思えてきます。ただ、ラマチャンドラン『脳の中の幽霊』(p.43)には、「左脳に卒中を起こした患者は、不安や抑うつに陥ったり、回復の見込みについて気をもむことが多いもの。これは左脳が損傷を受けたために右脳が優勢になり、あらゆることに悩むようになったからだと思われる。」とありますが、著者の状態はまったく逆のようです。右脳が優勢になったにもかかわらず、そのダメージをまったく受けていませんね。いくら脳の専門家だとしても、脳卒中患者本人の書く体験記をどこまで信用できるか悩ましいのも本音です。

 でもまず一読をお勧めします。かなり売れているようですし・・・

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2009年5月18日 (月)

私の好きな作品たち~島崎藤村編

 『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となり、ほかの作品に、日本自然主義文学の到達点とされる作家島崎氏。

 『若菜集』も素敵な作品ですが(といってもどこまで理解出来ているやら・・・)、小説家の彼の作品は、あの時代だったからなのか、悲惨な物語が多いですよね。

 『夜明け前』は幕末から、明治国家もようやく完成されつつあるHaruoinoue002 明治19年までを扱っている歴史小説です。私にはさしずめ重厚な大河小説の感がしました。
 藤村氏は「夜明け前」を「中央公論」に第1回を載せてから約7年の歳月をかけて連載し続けました。作品の想を起こしてから脱稿するまでの期間を考えると藤村の文字通り畢生の作品であり、そして、最後の長編小説です。巨人島崎藤村氏は昭和18年の夏、風が涼しいの言葉を最後に永眠しました。数え年で享年72歳だったそうです。

 『夜明け前』の主人公は青山半蔵。舞台は中仙道の宿の1つ馬籠です。青山半蔵は藤村氏の父と藤村自身がモデルであるといわれています。青山家は馬籠村に代々続く庄屋・本陣・問屋を兼ねた旧家でした。半蔵は父吉左衛門から受け継いで青山家の当主となります。
 物語は嘉永6年の黒船来航から始まり、明治19年、半蔵の死で終わります。馬籠村は中仙道の重要な宿であり、青山家はその村のトップの存在でした。村人の世話、そして役人との交渉は青山家の仕事でした。幕末から幕府崩壊まで、馬籠の宿は多くの歴史的事実を目撃しました。孝明天皇の妹である皇女和宮が将軍家茂に降嫁するため京都から江戸に向かうのに、一行は中仙道を使い、馬籠を通過する行列は、それまでのいかなる大名の行列より長いものでした。馬籠村を通過するのに数時間もかかったといいます。この行列の光景は半蔵一家の人たちの目に永久に焼き付けられました。
 水戸浪士たちの天狗党も馬籠に来ます。攘夷を旗印にした天狗党の浪士たちは水戸から京都へと上るのに、中仙道を西に向かい馬籠の宿に逗留。本居宣長、平田篤胤に心酔している国学の徒であった半蔵は、幕府から賊徒の扱いを受けている天狗党の浪士たちに思想的に共鳴。幕府崩壊時には東征軍いわゆる官軍が馬籠を通過。そして、明治維新とともに馬籠を通過する人間は減り、馬籠の宿も衰退していくもです。

 明治になり、半蔵も村の要職をはずされました。彼は教育に活路を見出そうとしました。半蔵は新しい時代である明治にたいして心の底から期待をしていたのです。それは明治は王政復古のもとに古に復るからです。自然に帰る・・・これが本居宣長が目指すことででした。自然とは「大和言葉」が支配する世界のことです。半蔵は自然と明治を重ねたのです。しかし、明治の世は王政復古といいながら半蔵の待を次々に裏切っていました。明治の世は急速に近代を目指したのです。国学は無残に廃れていきました。「大和言葉」のために戦っていった先輩たちのことを思うにつけ半蔵の胸は痛みました。
 半蔵は心身ともに疲れ果て、いつしか精神に異常をきたしてしまいました。彼は菩提寺の万福寺に火をつけたのです。半蔵なりの廃仏毀釈だったのかもしれなません。これよりのち、半蔵は座敷牢に入れられ、狂死してしまいます。王政復古を謳った明治は半蔵には言葉だけに過ぎなかったのです・・・

 この長編が大作なりえたのは平易な文章によってかかれたことが大きいと思います。。美しい日本語のお手本のような文章で『夜明け前』は書かれています。そして、平易な文章で書かれたこの作品を格調高くしているのは作者の目の置き所です。作者の目線は下から上に向いているのです。庄屋や村人を含めた人々の動きから歴史の流れを見ているのでしょう。薩長の下級武士によってなされた革命としての明治維新の視点はこの作品にはありません 『夜明け前』は人々の日記をもとに書かれました。藤村氏は人々の声に耳を傾け、そして彼らの声から幕末・明治維新という歴史の大きなうねりを書いたのです。東京・板橋を経て、碓井峠から京へ向かう中仙道。幕末から明治への激動期、中仙道の要衝、木曽路の馬籠宿を舞台に、宿の当主・半蔵の生涯を描き切っています。宿を仕切る公的な役目に生涯の大半を捧げながら、自らの信念にも誠実でありたいという半蔵の引き裂かれる思いが、時代の奔流の中で、痛いほど伝わってきます。そして待ち望んだはずの時代に裏切られてしまった半蔵の苦悩は、歴史の酷薄さ描いて余りあると言えるでしょう。激しい攘夷運動のあとに待っていたものは、“散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする”と唄われたほどの西欧化の波でした。
 待ち望んでいた王政復古を果たすも、民衆の暮らしはいっこう楽にならなりません。その煩悶のなかで、木曾街道・馬籠本陣の当主 青山半蔵は56年の生涯を閉じます。半蔵とは作家・島崎藤村の実父でだったのです。父祖の代からの街道沿いの生業と暮らしぶりをつぶさに再現しながら、嘉永年代から明治半ばまでのこの国の歴史と、そこに翻弄されるしかなかった人間の生き様を描き出しています。日本史に疎いため手に取るのに時間がかかりましたが、ヒロイズムや情緒に流されることのない淡々とした筆致は、かえって一層の迫力を持ってその時代をあぶりだしていました。

また『破戒』では、明治後期、被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松は、その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育ちました。その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎をひた隠しに慕うようになります。丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもありましたが、その思いは揺れ、日々は過ぎていきます。やがて学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に猪子が壮絶な死を遂げます。
 その衝撃の激しさによってか、同僚などの猜疑によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまいます。そして丑松はアメリカのテキサスへと旅立ってゆくと言うお話で、この作品(特に丑松が生徒に素性を打ち明ける場面)は、住井すゑの『橋のない川』でも取り上げられ、誠太郎をはじめとする登場人物の間で話題に上っています。この中で誠太郎は、丑松が素性を打ち明ける際、教壇に跪いて生徒に詫びていることを批判的に捉えています。『橋のない川』も『破戒』同様、部落差別を扱った作品ですが、両者の差別に対する考え方あるいはスタンスは正反対と言ってよいほどに異なります。

事実、現在の差別問題に関する認識、見解、解放運動のベクHaruoinoue トルは様々で、この問題のある一定以上の捉え方は非常に難しいものとなっています。問題の性質が性質なだけに、腫れ物を触る行為になりかねないのがこの問題の理解を深めるにあたり障壁になる部分であるともいえるでしょう。『春』でもそうなのですが、1929年には、『現代長編小説全集』第6巻(新潮社)の「島崎藤村篇」で「破戒」が収録されました。ここにおいては、藤村はこの作品を「過去の物語」としています。これは当時、全国水平社が部落解放運動を展開し、差別的な言動を廃絶しようとする動きがあったことを意識しています。これも一部の組織から圧せられて、やがて絶版になったといいます。水平社は後に言論の圧迫を批判し、『破戒』に対しても「進歩的啓発の効果」があげられるとし、評価していますそして1938年に、「『破戒』の再版の支持」を採択しました。
 こうして翌年『定本藤村文庫』第10篇に「破戒」が収録されたが、藤村はその際に一部差別語などを言い換えたり、削除しています。これを部落解放全国委員会が、呼び方を変えても差別は変わらないとして批判。1953年、『現代日本文学全集』第8巻(筑摩書房)の「島崎藤村集」に、初版を底本にした「破戒」が収録された。委員会は、筑摩書房の部落問題に悩む人々への配慮のなさを指摘し、声明文を発表しました。1954年に刊行された新潮文庫版『破戒』も、1971年の第59刷から初版本を底本に変更しています。

 1899年(明治32年)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。秦冬と結婚し、翌年には長女・みどりが生れました。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回とします。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図りました。1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛されました。ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになります。
この頃の藤村の回りでは
・父親と長姉が、狂死したこと。
・すぐ上の友弥という兄が、母親の過ちによって生を受けた不幸の人間であったこと。
・後に姪のこま子と不倫事件を起こして、次兄のはからいによって隠蔽された。兄の口から、実は父親も妹と関係があったことを明かされた。 ・・・こんな小説にしてくれとばかりに相次いで起こった出来事が藤村氏を憂鬱にさせたのでしょうね。どんなに辛かったか計り知ることは藤村の作品が語ってくれます。恐ろしい血をひいたとどれだけ苦しんだか、再読してもいい本だと思います。

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2009年5月17日 (日)

私の好きな作品たち~北山 修編

 私が北山さんでイメージしていたものは、ミュージシャンとしての北山さんでした。学生時代は関西フォークブームの出発点となる「ザ・フォーク・クルセダーズ」の元メンバーで、1970年前後のフォークブームでは関西、京都フォークの中心的人物の一人として活躍してましたよね。『戦争を知らない子供たち』『あの素晴しい愛をもう一度』『風』『花嫁』『白い色は恋人の色』『レッツゴー!サザエさん』などの作詞でも有名です。『戦争を知らない子供たち』で日本レコード大賞作詞賞を受賞。『さらば恋人』は堺正章の歌で大ヒットを記録しました。
 1968年、大島渚監督の映画『帰ってきたヨッパライ』にフォークルとして出演。特に1969年~1971年あたりまでの活躍は目覚ましく、全共闘世代の若者たちの精神的支柱、イコンでもあっりました。その頃の著書に、『くたばれ!芸能野郎』『戦争を知らない子供たち』『さすらい人の子守唄』『ピエロの唄 北山修青春詞歌集』などがあります。正直『変わった人だけど存在感の或る人』としか思っていませんでした。本屋で時々目に知る程度で買って読もうとまで思わなかったのですが、どこか心にひっかかっていました。まさか精神科医を目指してロンドンへ留学したなんて思ってもいませんでした。なので以降、かれの遍歴には、日本の精神科医、心理学者、医学博士、作詞家、ミュージシャン。京都府立医科大学医学部卒。九州大学教授。日本精神分析学会会長。専門は精神医学、精神分析学。となるわけです。
 凄い事ですよね。なにが精神分析に駆り立てたのか解りませんが、著書だけでも

1986年『他人のままで ある精神科医の部屋』
1993年『北山修著作集 日本語臨床の深層』
2000年『みんなの精神科』
2004年『みんなの深層心理分析』
2007年『劇的な精神分析入門』
    『現代フロイト読本 1』などがあります。

 『劇的な精神分析入門』では、「ようやく私のような者でも、〈私〉が生きてここにいることにそれなりの意義があるのだと思える本ができ上がった。この本Kaii001 にオリジナリティがあるとすれば、源は精神分析本来の劇的観点と、精神科医としての経験、そして舞台人としての私のささやかな体験そのものであり、その間にこそ私の個性的な立脚点があるからだ。加えて、症例や私自身の内的世界を詳しく語らないままで、若き日のエッセイや歌詞など、私自身のすでに公開されたところを活用することが、〈私〉に関する問題や視点の提起を容易にさせたのである。つまり、パーソナルコミュニケーションの極致にある精神分析と、マスコミ活動という両立し難いものの接点で私は随分と格闘してきたが、その結果や成果がここに書き込まれていると言える」(「あとがき」より)

 今日、精神分析の臨床は、患者やクライエントの症状の意味を分析することから、人が生きることを抱え、共に考え、そして失敗することへとその力点を移しています。意識と無意識、外と内、人間と動物、大人と子ども、日本語と外国語、普通と普通でない……〈私〉を分かつ社会の二分法や二重性をこえて、〈私〉が本来の在り方を確保するために。「心の台本を読む」「治療室楽屋論」など、人生の営みを演劇的なものと捉えてみること、そして〈私〉の心の台本に気づき、読み取り、かみしめること。かつて舞台人として楽屋を愛した著者の、独創的で体験的な〈私〉の時代の精神分析論なのです。はじめは、本を手にとり「劇的」というとちょっとびっくりしながらよみはじめましたが、だんだんと、違う意味だったのだと気づきました。読了後「劇」への見方が変わりました。

「自分を使う」ということ。セラピストの姿勢は硬直したものではなく、セラピストも変化があり「動き」として捉えるという見方。 また、「劇」という視点が加わり、文脈を書き直していく作業を助ける仮の共同作業だということが、よく伝わってきました。
  Clの中での【楽屋で文脈を書き直すCl】←→【劇を演じ直すCl】という関係性を支えるものが、Thの中での【共同作業として言語化に参加するThとしてのTh】←→【自分のこころの傷をあつかいその気づきを台本として参考にするひと】の関係性なのかなと思いました。
 誰もが感情をあつかい、心の傷とその周辺とつきあっていくという点で、同じ作業をしているのであり、役割は違っても一つひとつの劇を味わう。また、過去も大事にしながら、自分の中であつかうことができるようになってその過去も、ある意味変えられる。このようなあたたかさを感じました。

 北山 修 (編集), 松木 邦裕 (編集), 藤山 直樹 (編集), 福本 修  (編集), 西園 昌久 (監修) の『現代フロイト読本 1』では、フロイトは大変たくさんの論文を発表しており、人文書院のフロイト著作集では11巻 にまでなっています。これらの論文を全部読むことはかなり骨の折れる作業ですが、 とても実りのあるものでもあります。本書はたくさんあるフロイトの論文から主要なもの を取りげ、それぞれの要約や解説、現代的な意味や視点が書かれています。そして、著者はすべて日本精神分析協会の会員であり、いわゆる精神分析家の先生方となっています 。その為、臨床的な視点からのものが多くなっています。

 本書はフロイトの主要論文が網羅されており、非常に読みやすく、含蓄深いものばかり ですが、これだけを読んでフロイトを理解できたとは思わない方が良いと思います。というのも、フロイトの言ったことを著者たちなりの「翻訳」をしているところもあります。
 またフロイトを読むことは各自の体験とのすり合わせの中で生きてくるものであり、単に 知識と技術を習得するためのものではないからです。フロイト論文をロールシャッハの図版に見立て、そこから連想を広げ、自分なりのフロイト理解をしていくことが極めて臨床的な営みへと通じていくものと思います。ですから、本書を入門的に読むとしても、そこで終わらず、できればフロイトの論文を実際に読むことをお勧めしたいと僕は思います。
 
 フロイトは、オーストリアの精神分析学者で、オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジーの家庭に生まれ、神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開しました。
 非常に詳細で精密な観察眼を示す症例報告を多数残した科学者でもあります。それらは、現在においても次々と新しい角度から研究されています。
 フロイトの提唱した数々の理論は、のちに彼の弟子たちによって後世の精神医学や臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えました。弟子たちは、フロイトの考え方のどこかしらを批判した上でこれを受け継ぎ、様々な学派に分岐し、それぞれ独自の理論を展開していきました。フロイト自身がこの精神の病理という分野に大きなスポットライトを当てた業績は誰にも否Kaii013定できないものがあります。フロイトの時代の医学では精神病理の治療はほとんど進んでおらず、脳内のメカニズムを解明する可能性はほとんど存在しなかったのです。一方でフロイトが、良質な科学者がそうであるように、現象を重んじ、しばしば理論を修正していっていたといいます。彼の判断の基礎には臨床的な経験があり、彼はそれ等を重んじたのです。そのこと自体は称賛に値します。しかし、現代の精神医学においては、フロイトの理論自体が高く評価されているとはいえません。その理由としては、嗜好性の強い独特の性的一元論に代表される、およそ通常の現代人の感覚にそぐわない違和感のある内容という事があげられます。

 性的一元論は、そもそも彼自身の心の病理からくるとする意見もありますが、当時のヴィクトリア朝時代の抑圧性の非常に強い時代にあっては、まさに紳士を自認する人間たちが性的な領域を否認することに、フロイトは欺瞞を感じたのでした。性理論の形成に関しては、当時の抑圧の強い時代において、フロイトがその観点の強調に革命的意味を持たせていたことを念頭に置く必要がありますね。また、例えば心的外傷(トラウマ)といった考えは、現代においても通用するものです。
 でも、性理論への偏向自体はとりもなおさず、フロイト自身の政治的な立場から自身の主張を一つのものの見方に限ってしまうことになり、科学者としての彼の姿勢に非難があがる結果にもつながりました。さらに、それ以後の精神分析や心理学の発展により、フロイトの主張とは異なる新たな見解や方法が生み出されてきた歴史的経緯もあります。

 また、『こころを癒す音楽 』ではこの本は、心理療法家が書いた「その人にとっての癒し(ヒーリングミュージック)の音楽」に関する語りの本です。
 出てくる曲は、クラッシックだけでなく、ポップスにジャズなど、さらに童謡、歌謡曲なども含まれています。 それぞれの曲で癒される理由は、人それぞれでありますが、中には、自分は、心理治療の専門家だからと、その曲に癒されているという理由を自己分析されている人もいます。また、科学的に癒しとなっている音楽を調べてみたという人もいました。
 また、編著の北山修氏が大学の研究室でまとめられた「ミュージック・デザイン・プロジェクト」の結果も本書にまとめられています。
 本書を読んでみて、あ~わかる わたしもこの曲を聴くと落ち着くと感じたもの、語られているものを読ん で、共感できる感じるものたくさんありました。 音楽というのは「音を楽しむもの・音が楽」であり、けして「音が苦しむもの」ではありません。 けれども、人生に疲れたとき、迷うときには「音が苦」になってしまうこともあるかもしれません。でも、 癒される音楽を聴いているうちに、 「音が苦」から「音が楽」に変わっていくと思います。 この本から、癒しの音楽が見つけたり、癒される理由を感じ取ると、これから先、なにかあったときに
心のよりどころになるではないかと感じました。これからも心の闇を持つ人々に光を与えてください。

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2009年5月16日 (土)

私の好きな作品たち~泉鏡花編

『日本橋』を取り上げて少し(かなり長い?)泉鏡花氏の文体に触れたいと思います。値維持、対象、昭和を駆け抜けた鏡花氏から学ぶべき事は大きいですね。妻子は旧かな使いから始まり、途中で新かな使いにかわったのでその後の作品のほうが親しみやすいのですが、私がみつけた小文は『遊学』(中公文庫)に収録してありますが、そのときは、「あたしはね、電車が走る街にお化けを出したいのよ」「お化けは私の感情である、その表現である」と言ってみせた鏡花氏の、「一に観音力、他に鬼神力」ともいうべきを覗き見ました。
 そのころの泉名月さんの回顧談を読んだせいもあって、オキシフルを浸した脱脂綿で指を拭いているとか、お辞儀をするときは畳に手をつけないで手の甲を向けていたとか、ナマモノは嫌なので料亭でも刺身を細い箸で避けていたといった、Hirayama003 過度の潔癖美学を全身に張りめぐらせていた鏡花が、そのように“見えないバイキン”を極端に怖れているのに、その対蹠においては、変化しつづける見えない観音や、人を畏怖させる鬼神をあえて想定したことに、関心をもっていました。
 そういう鏡花氏の実在と非在を矛盾させるような「あはせ」と、見えるものと見えないものを交差させるような「きそひ」とが、おもしろかったのです。

 当時は鏡花の大変なブームがおこっていました。身近な例をひとつ出すのなら、、新装再刊が始まっていた岩波の鏡花全集だけはせっせと買っているというような、そういうことがよくいたのです。
 舞台や映画でも、ジュサブローや玉三郎(なぜか二人とも“三郎“だった)が、しきりに『夜叉ケ池』や『天守物語』や『辰巳巷談』を流行らせていました。昭和50年代だけで、玉三郎は15本以上の鏡花原作舞台に出ていたはずです。『日本橋』も入っています。またこれより少し前の三島由紀夫氏も五木寛之氏も、鏡花復権を謳っていました。金沢には泉鏡花賞もできて、半村良やら唐十郎やら澁澤龍彦やらが鏡花に擬せられていました。
 鏡花の幻想世界のアイコンをプルーストやユングやバシュラールふうに読み解くというのも、そこらじゅうに散らばっていて、曰く、あの水中幻想の奥には火のイメージがある、曰く、鏡花には「無意識の水」が湧いている、曰く、鏡花の蛇は自分の尾を噛むウロボロス
というよりも多頭迷宮なのではないか、曰く、奇矯な破局を描くことが鏡花にとっての救済だったにちがいない、曰く、鏡花の緋色や朱色には処女生贄への願望が‥‥。ほんとですか?というほどの散らかりようでした。
 たしか、メアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』さえ持ち出して、鏡花の汚辱の美にみずから埋没していった評者もあったかとか・・・。
  
 あれから何年たったでしょうか。新たな印象は、そのころさまざまな日本の職人芸に魅せられていたのですが、そういう工芸象嵌の感覚に近かいものでした。しかし、たんなる象嵌なのではありません。鏡花における象嵌細工は仕上げは凄いのに、どこか現実とも幻想とも食い違うようなものになっていて、しかもそういう精緻なものがわざと投げやりにまた意想外に、どこかに邪険に放置されているというような、そんな印象なのでです。というだけでは解り難いと思いますので、『歌仙彫』という短い作品を例にすると、

 この話は、矢的(やまと)某という、技術は未熟なのは承知していたが矜持はすこぶる高い青年彫刻家がいて、その将来の才能に援助する夫人が遠方にいるという設定になっています。ところがいい彫刻はなかなか作れません。これは青年に憧れの夫人を表現したいという羨望が渦巻くせいか、焦燥感のせいか、それとも実は才能がないせいなのか、そこは定かではない。そんなあるとき、久々に夫人が工房を訪れた夫人は、桔梗紫の羽織をその場の材木にふわりと掛けた。その羽織のかたちが美しい・・・以来、青年は、その羽織のかかった材木をそのまま展覧会に出したいと思い、ついでは目黒の郊外を連れ立って歩いたときの夫人の声をそのまま彫りたいと思ってしまっていました。が、そんなことを思えば思うほどますます作品は手につかない。夫人は、私、体が弱いので、菖蒲の咲くころには、と言いました。青年は苦しんで酒を呑み、金がなくなると小遣いかせぎの六歌仙の小ぶりの人形など作って、一つできれば、出入りの研ぎ屋のおじいさんにお金にしてもらうようになっていました。それが二つ、三つと出来上がるたび、おじいさんは必ず代金をもってきてくれます。
 礼を言うと、「わしが売ってるのじゃない、別の人じゃから」と言う。誰が買ってくれるのか、じいさんの住処が深川あたりと聞いて、そのへんをぶらついてみるのだが、見つかりません。そんな深川の昼下がり、近くの冬木の弁天堂で休んでいると、とんとんと若い娘
が額堂に入ってきて風呂敷包みを開いた。なんと、そこには自分の人形がいる。業平、小町、喜撰、遍照‥‥。
 思わず駆け寄って、「研ぎ屋さんから手に入れたのですか」と尋ねると、「いえ、姉さんに‥‥」。
 青年がその姉さんに是非会いたいと言えば、妹は、ちょうど近くHirayama006 で用足しをしておりますので、では連れて参りますからと行ってしまいました。待つうちに日が暮れて、弁天堂の真っ黒な蛇の絵が浮き出して、こちらを睨んだかに見えたとき、堂守から声をかけられました。そのお堂にいる所持のない場面を、鏡花はあの独特の文体で、こう書いた「時に、おのづから、ひとりでに音が出たやうに、からからと鈴が鳴つた」。とたん、「勁(うなじ)の雪のやうなのが、烏羽玉の髪の艶、撫肩のあたりが、低くさした枝は連れに、樹の下闇の石段を、すッと雲を掴むか、音もなく下りるのが見える」。
 これでついに一切の事情が明かされるかと思うと、そうではありませんでした。鏡花はにべなくも、「かうした光景(ようす)、こうした事は、このお堂には時々あるらしい」、と結ぶばかりなのです。この不思議な感覚の消息は、ユングやバシュラールでは解けまい。観音力・鬼神力も適わない。鏡花は、何も説明していないのです。はたして姉が夫人なのやら、その姉の正体が何であるのかも、説明していません。
 それでいて、われわれはここに一匹の夫人の妖しい容姿が君臨していることを知ります。また、この青年の彫塑の感覚が並々ならぬものであり、青年はただただ夫人の感覚を想定することによって、世のたいていの力量を凌駕できていることを知るのです。青年は桔梗紫の羽織すら、きっとふわりとしたまま木彫できるのでした。鏡花氏とは、このように、精緻でありながらもどこかの「あてど」に放擲されるという印象なのです。この「あてど」は鏡花の「黄昏」をめぐる思想にも裏打ちされています。
 鏡花はあるところで、「たそがれの味を、ほんとうに解してゐる人が幾人あるでせうか」と書いて、「朝でも昼でも夜でもない一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です」と言ってたそうです。

 さらに、「善と悪とは昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、そこには、滅すべからず、消すべからざる、一種微妙な所があります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさういふ黄昏的な世界を主に描きたい」と。これが「ほか」「べつ」の、あてどのないところへの「投企」というものなのです。
 しかし、印象はこれだけでは終わらりません。鏡花にとってはさらに大事なことになるのですが、この「ほか」「べつ」「あてど」には、異性というものに託した一切本来が、たえ刻々に変成しているということです。
 これは最初に言っておいた、鏡花にとっての異性は、芸者であって母であり、夜叉でも菩薩でもある形代なのだということに、つながっています。鏡花氏は大変な多作に加えて、長編もありません。自身、代表作を書きたいとも思っていなかった人です。まるで川の流れのように、一雙の舟にのって流れていた・・・鏡花から一冊を選ぶのが難しいのも、このせいだと新たにかんじました。 そこで、こちらの感想も書きたいことも、一作ごとに浮沈し、変化し、目移りします。また、そうさせたいのが鏡花氏自身だったのです。
 私もこれまでの目移りをいくつか例にしても、なるほど、視点はいつも蝶のごとくにひらひらとし、舟のごとくに揺れていました。
 たとえばのこと、『歌行燈』の恩地喜多八が身を侘びて博多節を流すあたりも書きたいし、湊屋の芸妓お三重こそを鏡花の憧れともしてみたいとか・・・。

 『高野聖』では、その鏡花アニミズムの朦朧画のような気味もよく、旅の説教僧が参謀本部の地図を広げる冒頭や山の女との出会いについても、言ってみたいことがあます。聖性と恐怖とエロス、そしてイニシエーション。これらはホラー小説に欠かせない要素ですが、「高野聖」にはそれらが見事に揃っています。深山の奥に住む謎の美女と若い僧のストーリーは、その設定の見事さにより、読者の好奇心を刺激します。怖いものみたさを喚起そいます。 いかにも怪しいシチュエーションは、「これは事件が起こる」と予感させるしそれは性的な誘惑を伴うはずであると確信しながら、ページをめくるのです。 泉鏡花はすごいストーリーテラーだと思います。
 読者はこの女は怪しいと感じながら、一方で惹かれていくのです。(読者は動物に変えられる男たちと一緒だ。) クライマックスは谷底での女の誘惑ですが、そこでは恐怖とエロスが渾然一体になり、最後に聖性(信仰)が勝利します。
エンターテイメントとしての完成度は相当なものだと思います。日本文学最高の幻想小説かもしれません。

 泉鏡花氏は今だに愛されている作家さんです。もう学校でも教えていないかもしれませんが、『高野聖』くらいは読んでおく事をお勧めします。面白い言葉が沢山出てくるのも魅力です。

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2009年5月12日 (火)

私の好きな作品たち~ジョン・ハート編

 ジョンハートは1965年、ノース・カロライナ州生まれ。現在も同州に在住。幼年期を作品の舞台となったローワン郡で過ごしています。
 デイヴィッドソン・カレッジでフランス文学、大学院にて会計学と法学の学位を取得しました。会計、株式仲買、刑事弁護など様々な業種で活躍しましたが、やがて職を辞し、作家を志します。アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀新人賞にノミネートされた『キングの死』で華々しくデビューし、その後、第二作となる『川は静かに流れ』で同賞の2008年度最優秀長篇賞に輝いた人です。 

 五年前にアダムは殺人の濡れ衣を着せられた。証人は義理の母であるジャニス。裁判では無罪になりましたが、ローワン郡の小さな町では、それでも“人殺し”として認知されてしまいまいた。アダムの父で農場主のジェイコブもまた、アダムの無罪を信じずに、アダムを勘当します。
 そんな故郷に、アダムは、友人のダニーからの電話で、三週間Picasso_work01s 悩んだ末に帰ります。しかし当のダニーは行方不明。そしてアダムにとってはもう一人の父と言うべき、ジェイコブの親友であるドルフの孫娘であるグレイスが暴行に会います。
 事件の背後には原子力発電所に係わる土地買収が絡んでいるように見えるのです。そして容疑者としてダニーの父・ゼブロンが疑われました。更に見つかったダニーの死体。警察はドルフを逮捕し、ドルフも殺害を自供してしまうのです。ドルフの無罪を信じないアダムは真実を突き止めようと頑張ります。
 これは先ず、五年前、回りが疑いの目を向ける中で、変わらずにいたダニーとの友情が描かれてます。この五年間、手紙一つ出さなかたかつての恋人で、刑事のロビンとの愛情の物語でもあります。
 でも何より家族の物語です。五年ぶりに戻った我が家。
継母のジャニィスは、五年前の事件で見た犯人はアダムであると心底信じ込んでいるよう。義弟のジェイミーと、義妹のミリアムは、複雑ながらアダムに親愛の情を示します。しかしジェイミーにはかつての良さはなく、ミリアムは心を病んでいます。
 妹と言うよりも娘のような存在であるグレイスも変わっている。ドルフに対する特別な思いがあるアダム。

そして父親のジェイコブ。頑固ですが正直で一徹。その父と、再び親子になって行こうとする過程は心に染み渡ります。その父親もまた悩みを抱え、間違いもありました。
謝辞で著者ジョン・ハートが述べているように、この小説は、ミステリーの形をとりながら、実は、『僕』自身や『僕』を取り巻く人々の友情や恋愛、そして兄弟や親子の絆を哀しくやるせなく描いた、謎解きは二の次といってもいい、家族をめぐる物語です。

 やるせない思いと家族の絆、信じることの素晴らしさを知った一冊でした。ミステリアスな部分を充分に残し、家族の愛が風のように吹いていった、そんな心境です。

 他にも『キングの死』は、失踪中の辣腕弁護士が射殺死体で発見されました。被害者の息子ワークは、傲慢で暴力的だった父の死に深い悲しみを覚えることは無かったが、ただ一点の不安が。父と不仲だった妹が、まさか…。愛する妹を護るため、ワークは捜査への協力を拒んだ。だがその結果、警察は莫大な遺産の相続人である彼を犯人だと疑います。アリバイを証明できないワークは、次第に追いつめられ… 

 主人公は著者と同じ弁護士で、主人公の一人称で書かれた作品です。主人公の父親が、これまた弁護士で、資産家で大金持ちで、社会的地位は申し分ない男、しかし、家庭内ではどうしようもない暴君、絶対的君主であり、まさに「キング」でです。その主人公の父親が失踪して1年半後、死体で見つかり、父親殺しの容疑者の嫌疑が、その長男である主人公にかかるところからこの物語は始まります。
 主人公の一人称で語られている作品なので、読み手は彼が犯人でないことが手に取るように判ります、そして、自分の妹が犯人ではないかというある確信から、主人公の聖戦が始まるのです。

 友人だと思っていた検事を敵に回し、切れ者女刑事との精神的壮絶バトルを展開し、幼なじみで結婚後も関係を続ける天使のような恋人の心を傷つけ、若き弁護士としては理想的な麗しくセクシーな妻と軋轢を起こし、たった一人残った家族である妹とそのガールフレンドに、父親に似ているということから、徹底的に無視され、そんな四面楚歌のなか、主人公は自分の無実の証明のために闘うのです。
 画像の表紙は階段の上に君臨するのがキング(父親)であり、段下の左腕は、(主人公とその妹の)母親の腕です。この表紙が象徴する
「華麗なる一族」の、物語です。
 

人は何に寄り添って生きるべきなのかを考えさせてくれる感動の大河ロマン&ヒューマン・ミステリです。著者は、作家に転職して多くの読み手を救うことになるのでしょう。

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2009年5月11日 (月)

私の気になっている作品~『チャイルド44』

 これはトム・ロブ・スミス氏は発表した作品なのですが、舞台はスターリンが君臨していた頃のソ連。ソビエト社会主義共和国連邦なんて言葉、段々と忘れられていくのでしょうね。国家保安省でエリートの立場に立つレオ。スパイ事件を追いかけている最中に上司の命令で一日だけ部下の息子が死んだ事件の捜査に向かう。おかしいとは思いつつ事故として片付ける。するとその間に件のスパイが逃亡してしまう。そこからレオの人生は暗転。左遷された先で見た事件は事故として処理した事件と酷似している。そこからストーリーは回り始まり・・・

 帝政ロシア、じゃなくてミスタークレージーこと、スターリン支配下が舞台のソ連、しかもサイコスリラーとくれば設定だけでドキドキものです。最近少しずつ出てきているとはいえ、鉄のカーテンの向こう側の世界、そこでの「事件」を扱う小説は極めて少ない中、『チャイルド44』はすごいの一言でも終わりそうです。体制下を生きるとはどういうことかを説明するだけで上巻の340ページかかり、先に書いた第二の事件が始まるのにそれだけ費やしたのです。それに飽きるかというと全くそんなことはなありません。ソ連に生きる、特にスターリンという腐った太陽の下に生きるとはどういうことか、ひしひしと伝わってきます。

 兵士たちは何回も出撃しているうちに精神を病んできます。もう辞Dorakuroa01 めたい。でも「俺は精神を病んでいる」と申告すると、「自分の心が病んでいると分かるということは精神を病んでない」とされ、申告しなければずっと出撃を強制されるのです。深刻なジレンマのこと
を「キャッチ22状態だ」なんて言ってみるとちょっとした物知り気分が味わえます。「チャイルド44」は殺される子供の数が44人ということです。
 一つ、とても印象的だったのは、ソ連は完璧な体制なので犯罪者など出てくるはずがないので、犯罪者というのはソ連の体制外の人間(障害者、西側の人間)に限られるという考え方なんですね。だから民警は本来必要な事ではないので低いステータスしか与えられないという現実に、ソ連らしいというかなんともやるせないような切ないような感を覚えました。

しかし、民主主義&資本主義を唱える国でも「自分たちの芝生で行われていることは常に正しく隣の芝生で行われていることは常に間違っている」という流布した考え、転じて「自分がしていること、自分たち(家族・親戚→友人→狭いコミュニティ内のメンバー)がしていることは正しく、それ以外の人たちのしていることはたまに間違っている」という考えもまた我々(の定義が難しいが)の間で共有されています。恐ろしい事です。

 本書の中心で扱われている少年少女大量殺人事件は実際にあった事件に着想を得て書かれていますが、決してノンフィクションではありません。本書を著者が書こうとした意図はやはり謎解きの殺人ミステリーというよりも残虐な連続殺人犯を野放しにする狂った社会システムに支配された共産主義国家旧ソ連の姿を描く事にあったのでしょう。そこには人間愛など皆無で裏切りや欺瞞、罪の捏造、邪魔者の処刑による抹殺等々非道で醜悪な描写に多く筆が費やされ、大袈裟でなく一頁に一度は苦々しく遣り切れない思いが込み上げて来ます。そんな腐り切った社会の中で体制の側に立って非道な行いに手を染めて来た国家保安省の捜査官レオがあまりに酷すぎる悪行の実態を知って真実に目覚め、やがて権力の座から引き摺り下ろされて初めて己の所業を悔い改め、死を賭して連続殺人犯人を追い詰めようとする姿に感動を覚えます。そして心の拠り所で真実の愛と信じていた妻ライーサを一転して殺す寸前まで行く程の強烈な愛憎劇の凄まじさに圧倒されます。悪役ではワシーリーとザルビン医師のサディズムに満ちた異常性格が際立ち嫌悪感が募りますし、中盤で鮮やかに反転するスパイ小説としての仕掛けが見事です。終盤近くの列車からの脱走シーンは映像を意識したあざとさも感じますが、胸がすく痛快な見せ場です。

この国家は連続殺人の存在を認めません。ゆえに犯人は自由に殺しつづける――。スターリン体制下のソ連。国家保安省の敏腕捜査官レオ・デミドフは、あるスパイ容疑者の拘束に成功。だが、この機に乗じた狡猾な副官の計略にはまり、妻ともども片田舎の民警へと追放されます。そこで発見された惨殺体の状況は、かつて彼が事故と遺族を説得した少年の遺体に酷似していた・・・なんと皮肉めいた運命なのでしょう。20年後、刑法も、刑事訴訟法も、憲法も、自由を守るものではないソビエト。
 人が簡単に逮捕され、有罪判決で処刑される現実。 お互いが密告におびえ、監視しあう、夫婦、同僚、上司でさえも。 足下の安全はまったく薄氷を踏むのと同じ。 そんな描写がリアルです。

 これは映画化されているようなので、是非観てみたい作品です。でも残忍すぎて描写は難しいかもしれませんんね。

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2009年5月10日 (日)

私のお勧めの作品~『悪魔はすぐそこに』

 ハードゲート大学の数学講師ピーターは、横領容疑で免職の危機にある亡父の友人ハクストンに助力を乞われました。だが審問の場で、ハクストンは、教授たちに脅迫めいた言葉を吐いたのち変死しました。次いで図書館で殺人が起き、名誉学長暗殺を仄めかす手紙が舞い込みます。相次ぐ事件は、ピーターの父を死に追いやった8年前の醜聞が原因なのか・・・

 アガサ・クリスティやアントニイ・バウチャー、アントニイ・バークリーら、そうそうたる面々にその実力を認められ、代表作『兄の殺人者』、『五番目のコード』などで本格ミステリファンの心をわしづかみにした英国ミステリ作家D・M・ディヴァインの本邦初訳作『悪魔はすぐそこに』をご紹介します。
 巧妙なミスディレクション、伏線の妙、端正な構成――高度な技術によって形作られたミステリの骨格に、成長小説やロマンスの要素が盛り込まれているため、極めて完成度の高い本格でありながら、大変読みやすいというディヴァイン作品の特長が堪能できる一冊です。
 ハードゲート大学の若き数学科講師ピーターは、チェスの最中に亡父の友人である同僚のハクストンから助力を請われた。横領の嫌疑を掛けられて免Shagaru009 職の危機にあるというのだ。しかし教授たちによる審問の場で、ハクストンは脅迫めいた言葉を口にしたのち、不審死を遂げます。次いで図書館で学生が殺され、名誉学長の暗殺を仄めかす脅迫状が学長宛に舞い込んできました。彼は式典のために近く大学を訪れる予定でしが・・・。ハクストンは、自分が失職するようなことがあれば、高名な数学者であったピーターの父を狂死に追い込んだ、女子学生の死の真相を明かしてやると仄めかしていました。彼女は非合法の堕胎手術を受けて死亡し、ピーターの父こそが彼女の情人であると疑われていたのです。もしかして教授たちの中に真犯人が? でも、ハクストン殺しの疑いをかけられたのはピーターの婚約者ルシールでした。ハクストンを忌み嫌っていた彼女の抱える事情とは? ルシールの同居人カレン、聡明な法学部長ラウドンらとともに、ルシールへの嫌疑を晴らすべく事件を追うピーターですが・・・。
  
 この『悪魔はすぐそこに』は、ディヴァインの残した13の長編中、第5作です。社会思想社から出ていたのは、1・3・4・6番目の作品でしたから、空席がひとつ埋まったという感じ。『ロイストン事件』は第3作、人気の高い『五番目のコード』が第6作なので、『悪魔はすぐそこに』は充実期に入ってからの作品という位置づけになると思います。もっとも彼の場合、処女作の『兄の殺人者』の時点ですでに、かなりの完成度に到達してはいるのですけど。

 今回、『悪魔はすぐそこに』を読んでみて感じたことの第一は、『ロイストン事件』のプロットをグッと洗練させたような物語だな、ということでした。巻末解説で法月綸太郎氏も書いていますが、彼の描くキャラクターや人間関係には一定のパターンがあり、プロットの組み立てに合わせて、それぞれの役割がシフトするような書き方になっています。言い換えると、“ディヴァイン劇団”という、性格俳優ぞろいの劇団があって、上演する演目が変わると、配役も変化するような感じでしょうか。ある作品では俳優Aが犯人、俳優Bが探偵役、俳優Cが謎の人物……だったのが、別な作品ではAが探偵、Bが被害者、Cが犯人、というふうにシフトしていく、ということです。
 そして、その俳優たちがみんな名優ばかり、というのが、ディヴァインの最大の特徴でしょう。つまり、ひとりひとりが血の通ったキャラクターとして生きており、ミステリなのに作り物じみた感じがしないのです。といって、昔の一部の社会派ミステリのような、乾いた芝居にもなっていません。登場する男女の間の、微妙な距離感がうまく描かれているだけでなく、そういうロマンスがプロットの中に違和感なく溶け込んでいて、物語が適度に潤っているんです。そのあたり、ジル・マゴーンによく似ていると、前から思っていたのですが、『悪魔はすぐそこに』を読んで、さらにその意を強くしました。
 どんでん返しの妙や、サプライズの作り方のうまさも、ディヴァインとマゴーンに共通するポイントです。この2人が違うのは、ロイド&ヒルというシリーズ・キャラを持っていたマゴーンに対し、ディヴァインには複数の作品に登場する探偵役がいない、ということぐらい。ディヴァインを絶賛したというアガサ・クリスティの影響が良く言われますが、彼の作品はクリスティ作品より“大人の読み物”として優れています。反面、いわゆる“稚気”に欠けるところがあるので、それが地味な印象につながっているのかもしれません。

 『悪魔はすぐそこに』の舞台は、超一流とは言えないものの、かなりの権威を持った大学。時代設定は、この小説の発表年と同じ、1966年です。物語の主人公のひとりピーターは、25才という若さで数学科の講師に昇進しており、男子学生寮の長も兼任しています。   また、美女講師・ルシールと婚約しているという、誰もがうらやむ恵まれた境遇にありますが、それらすべてが、6年前に亡くなった父親の威光によるものなのでは、というコンプレックスも持っています。

 もともと大学職員だったという作者ディヴァインの経験が十二分に活かされているようで、教授・講師・職員・学生などを含む大学内の複雑な人間関係が、見事に活写されています。登場人物は非常に多数で、裏表紙の見返しにまで一覧表がのびていますが、端役に至るまで個性がハッキリ描き出されているため、ゴチャゴチャした印象は全く受けません。それどころか、とても読みやすくて、ページを繰る手がもどかしいほどです。訳文もスムーズで、社会思想社のときの野中千恵子さんの訳より、適訳になっているような気がします。創元推理文庫は引き続き、ディヴァインの作品を出してくれるようなので、大いに期待したいところです。

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2009年5月 9日 (土)

私の好きな作品たち~樋口 有介編

 サントリーミステリ大賞の読者小を貰った樋口さん。順調に筆を滑らせていらっしゃるようで安心しました。

やはり、この賞を取った方たちのその後を見ると殆どの作家さんが活躍しているので嬉しいです。ただミステリー大賞そのものがなくなってしまったことは遺憾に思います。

 その樋口さんの作品『ぼくとぼくらの夏』は、主人公の戸川春一はMojiriani_013 フォルクスワーゲンを乗り回している巨人ファンの刑事を父に持つ三多摩地区の高校生。ある夏の日、同級生の岩沢訓子が変死し、それをキッカケにテキ屋の酒井組の娘である酒井麻子と急接近する。春と麻子は訓子の死因を判明するために奔走するが、ひょんなことから酒井組の用心棒である秀松から麻子の母親と戸川刑事が高校時代恋仲になって駆け落ちしたという内緒話を聞かされ2人はビックリする。しかし、追い討ちをかけるように今度は別の同級生である新井恵子も変死。戸川刑事は春や麻子たちの担任である村岡先生に事情聴取するが、その戸川刑事自身が村岡先生に一目惚れしてしまう・・・というお話なのですが、すっと世界に入っていて、変な癖も無い物語に最後まで楽しませていただきました。このときは大賞を逃しているわけですが、おそらくストーリーがあまりにもありふれていたからだったからとしか考えられません。
 むしろ、本書の価値は文体と女性の描き方にあると思いました。 文体は、かなり1991年版に比べて直したのだろうと思いますが樋口氏の昔の文体は、あまりにもハードボイルドっぽすぎた気もします。それが本書では、くさいというほどではない、でもロマンチックなも
のとなっています。読みやすいし、引き込まれます。
 男性から見て魅力的な女性を描く、けれども女性の恐ろしいところも示してみせるというのも、著者の一貫したテーマですね。この点に関しては、比類のない腕前!!。だまされていると分かっていながらも、ヒロインに恋をしてしまう。 処女作とは思えない作品でした。

 「俺は、あんたたちみたいに、さっさと村を見捨てて出ていって、昔の感傷のためだけに戻ってくるようなヤツは嫌いでね」
作中英輝の冬子への発言。エロゲは、ある意味過ぎ去ってしまった青春への懐古でもある。懐かしさをも込めて、田舎を舞台にしたと考えるとこの発言は、なんというか。プレイヤーへの当て付けと考えると面白いかもしれなません。

 ダムによる廃村。――そんな大人な事情ではなく、私と、私たちの世界の喪失なんてあんまりだ。という貴理の訴え。しかし主人公は夏にしか、この村を訪れない。英輝との意識の違い。冬子との男女間、意識の違い。
しかし、どちらにせよ表ルートでの、主人公にしろ貴理にしろ、終盤の冬子へ吐く愚痴は、まさにそういった純朴性の脱却、村を捨てるという行為に他ならない気もする。どちらにせよ、村は廃村なのですが・・・
 裏ルートはずっと冬子の視点からです。そしてその視点は『僕ら』にずっと近いように思います。貴理や英輝たちの、幼さに対するある種の怒り、面倒くささ。そういったものを共有しているように感じました。そしてそれでいて主人公に惹かれて。そしてあっさりと。だからこれは裏ルートでありながら、ちゃんと、僕と、僕らの夏なんだと思います。

「綺麗なだけじゃないよ。良い思い出なんかにしたくない。」・・・思い出よりもこれからを大事にと言うメッセージのようでした。

「ここに戻ってきたときは、もう全てを失ったと思っていたわ」わたしはその手をギュッと握りしめた。「でもそんなことは、全然なかったのよ。」「そうなんですか?」「そうよ」「・・・失ったものは、取り戻せるんですか?」「はじめから、なくしてなんていないの。ただ若い頃は焦って、忘れているだけなのよ」純朴性からの脱却じゃない。回帰だ。18禁であるからこそ、裏ルートは映えるんだ。だから、表ルートでは、埋めた物は掘り起こされない。必要がないからだ。主人公は冬子さんです。裏ルートがお勧めです。表ルートの歯がゆい初恋に面白みを感じれない人はむしろしっかりと裏ルートをやりましょう。冬子さんみたいな方が嫌いな方もいますでしょうから、その辺りの引き際を。自分は十分に満足しました。潮騒も、期待します。

 『夏の口紅』では、15年前に家を出たままの親父が、死んだ。ひとりっ子のぼくに残されたのは、2匹の蝶と、妹と名乗る女の子だった。この不思議な女の子との出会いで、大学3年のぼくの夏休みはとびきり暑くなりそうだ・・・書下し青春小説です。
 主人公の設定など他の作品と似ているところも多いのですが、本作品はミステリー要素はほとんどなく(謎の多い亡き父親の遺言の意図、見知らぬ姉の探索というテーマではあるが)、大学生である主人公の成長物語かつ恋愛物語です。品のいいユーモラスな話、クールかつ行動的な主人公、ちょっと変わっているが魅力的なヒロイン、年上のガールフレンドやファニーな母親など女性との掛け合いの多さなど、著者の得意技が十二分に発揮されています。この瞬間に目の前を通り過ぎていく青春という時間を静謐に、時に熱く 見つめる主人公の内省的な視線こそ、永遠に古びないものなのですね。私は好きです、この作品。

 『月への梯子』では、入居者の一人が殺され、続いて住人全員が消えたアパート。大家のボクさんは謎解きを始め、やがて自分を取り巻くものが善意だけではなかったことを知る…。「知る」ことの哀しみが胸に迫る書き下ろし長篇ミステリーです。主人公の40歳のボクちゃんは母の後を次ぎ、アパートを経営していました。知能は中学生くらいなのですが、ご近所でも人のよいことで知られていたはずが、事件が起きて探偵まがいのことをし、だんだん人の裏側と表面の違いに戸惑ってしま・・これは知能の問題だけではなくて、人間、
表裏一体だという教えを学んだ気がします。読み終えて憂鬱な気持ちになるのはその為ではないでしょうか。ぼくちゃんが唯一まともな人間にみえてきます。(まともとは差別用語ですね。失礼しました。)

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2009年5月 8日 (金)

私の好きな作品たち~樋口一葉編

 中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学んだ一葉。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「十三夜」「にごりえ」といった秀作を発表文壇から絶賛されました。わずか1年半でこれらの作品を送りましたが、25歳(数え年、以下同様)で肺結核により死去去れています。
またも早すぎる死をみとどけならなくまりました。『一葉日記』も高い評価を受けています。

 家が没落していくなかで、自らが士族の出であるという誇りを終生Higuti001 持ち続けましたが、商売が失敗したのもそれゆえであるとみるむきもあります。生活は非常に苦しかったために、筆を折ることも決意しましたが、雑貨店を開いた吉原近郊での生活はその作風に影響を与えました。井原西鶴風の雅俗折衷の文体で、明治期の女性の立ち振る舞いや、それによる悲哀を描写しているのです。『たけくらべ』では吉原近くの大音寺前を舞台にして、思春期頃の少年少女の様子を情緒ある文章で描いいています。ほかに日記も文学的価値が高いとされています。
『たけくらべ』は勝気な少女美登利はゆくゆくは遊女になる運命をもつ少女で。 対して龍華寺僧侶の息子信如は、俗物的な父を恥じる内向的な少年ででした。 美登利と信如は同じ学校に通っていますが、あることがきっかけでお互い話し掛けられなくなってしまうのです。
 当時吉原の遊郭は、鳶の頭の子長吉を中心とした集団と、 金貸しの子正太郎を中心とした集団に分かれ対立していました。 夏祭りの日、長吉ら横町組の集団は、 横町に住みながら表町組に入っている三五郎を正太郎の代わりに暴行します。 美登利はこれに怒るが、長吉に罵倒され屈辱を受けます。
 ある日、信如が美登利の家の前を通りかかったとき下駄の鼻緒を切ってしまうのですが 美登利は信如と気づかずに近付くが、これに気づくと、恥じらいながらも端切れを信如に向かって投げました。でも信如はこれを受け取らず去って行く・・・美登利は悲しみますが、やがて信如が僧侶の学校に入ることを聞きます。 その後美登利は寂しい毎日を送りますが、ある朝水仙が家の窓に差し込まれているのを見て懐かしく思います。 この日信如は僧侶の学校に入ったのです。遊郭に身を投げようとした時の一葉の気持ちを考えると貧しいことへの鬱憤が貯まります。

 一葉は書き溜めていた作品「雛鶏」を改題して発表したといいいます。翌1896年、一括掲載された際には森鴎外や幸田露伴ら当時の文壇において着目され、鴎外の主催する「めさまし草」において高い評価で迎えられたましたが・・・一葉はこの頃結核が悪化し、同年11月には死去しているのです。再掲載時の原稿は口述して妹の邦子に書き取らせたものであり、「一葉」と署名された上下に別人による加筆があり「樋口一葉女」と記されています(発表作品における一葉の署名は一般に「樋口夏子」か「一葉」)。没後に『一葉全集』が刊行され、「たけくらべ」をはじめとする作品は現在に至るまで広く親しまれることとなりました。

 『大つごもり』は短編小説で、18歳のお峰が山村家の奉公人となってしばらくした後、お暇がもらえたため、初音町にある伯父の家へ帰宅。そこで病気の伯父から、高利貸しから借りた10円の期限が迫っているのでおどり(期間延長のための金銭)を払うことを頼まれ、山村家から借りる約束をします。総領である石之助が帰ってきますが、石之助とご新造は仲が悪いため、機嫌が悪くなり、お峰はお金を借りる事ができなませんでした。そのため、大晦日に仕方なく引き出しから1円札2枚を盗んでしまうのです。
 その後、大勘定(大晦日の有り金を全て封印すること)のために、お峰が2円を盗んだことが露見しそうになり、お峰は伯父に罪をかぶせないがために、もし伯父の罪にとなったら自殺をする決心をしました。ところが、残った札束ごと石之助が盗っていたのであったというお話です。 
 
 『たけくらべ』も『大つごもり』もどこか悲哀がただよっていつように思います。18歳で出会ってから24歳で死ぬまで、ずっと慕いつづけた半井桃水への恋心の変遷と煩悶を、美しく昇華して表出したのが『たけくらべ』。
 裕福だった少女時代から、坂を転げ落ちるように極貧生活に突入、立身出世の望みはかなえられないという深い絶望感を、強く、深く表出したのが『にごりえ』。その最後、お力が、捨てた男の手にかかって(?)死んでしまうという結末は、一葉自身の1年後の無念な病死を予期したようで、暗示的です。それにしてもこの作品群の魅力は何なのでしょう?貧しく不幸な人々、極貧ゆえに遊女や妾になる以外生きるすべがない女性たち、現代人にはもはやありえない必死な生きざま。これが明治の一般庶民、もしくは社会的底辺の人たちの姿だったのでしょうか。特に女性の場合、そういう不自由さとか不幸な境遇を甘受せざるを得ない、諦めとやるせなさを痛いほど味わってきたケースが多かったかもしれません。鴎外の「雁」や、川端康成が好んで描いた不幸で美しい女性達。そういう美しさと哀しさがいつも背中合わせになっている日本の女性の系譜が樋口一葉の作品世界にもあります。女性だけでなく男性達もなかなかうまく描かれているのも見事です。客観小説たりえていますね。文語体の読みづらさも多少ありますが、美しくリズム感のある味わいのある文章として楽しめるので、焦らずゆっくり読む気になれば苦になりません 。
 
 一葉は早くから、零落し転居を繰り返す自分の人生を、彷徨し行く手を阻まれる<漂う舟>のイメージと重ね合わせていました。一葉は晩年の病床で

「身はもと江湖の一扁舟、みづから一葉となのつて葦の葉のあやふきをしる」

と雑記に書き込んでいます。流転する舟の意識は一葉の生涯を貫いていましたから、これが筆名の発想になったと考えるのが最も妥当ではないかと思われます。

 一葉は学業半ばの11歳で進学を断念。小学校も満足に卒業してKaiii021 いません。歌塾「萩の舎」入門後は和歌や王朝文学や習字を学びますが、小説を書くようになって、自分がいかに物事を知らないかに気づき、以後せっせと上野にあった東京図書館へ通います。当時一般の閲覧室とは別に婦人閲覧室があり、一葉はそこで調べものをしたり、貸し出しを利用して本を読んでいます。
 小説を書き始めたころ一葉が図書館から借りた本は、依田学海『十津川』、饗庭篁村『むら竹』、黒岩涙香の著作集、湯浅常山『雨夜のともし火』、藤原明衡編の詩文集『本朝文粋』、松平定信『花月草紙』、『日本書紀』『日本外史』『吉野拾遺』『十八史略』『小学』
『太平記』『今昔物語』などで、日記に出てきます。小説の師だった半井桃水からは、蔵書や桃水の著作本を借りています。
明治25年9月、「うもれ木」を書き上げると、翌日には次の作品の種探しに図書館へ行き、『奇々物がたり』『くせ物語』『昔々ものがたり』『各国周遊記』『雨中問答』『乗合ばなし』などを借りています。図書館の本とは別に近松の浄瑠璃や『源氏物語』に親しみ、一葉が進学を断念したあと父が買い与えた『万葉集』『古今集』『新古今集』等は愛読書でした。

雑誌では「文学界」「文芸倶楽部」「早稲田文学」をよく読み、一葉の小説の批判文を掲載した雑誌「めざまし草」「明治評論」「青年文」の名が日記に出てきます。新聞は「改進新聞」「読売新聞」「東京朝日新聞」を図書館や知人からの借用、一時購読などで読んでい
たようです。一葉の妹邦子さんはのちに「とにかく姉は勉強家でした」と語っています。

もっと作品を読まなくてはいけない作家さんの作品だと思いました。

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2009年5月 6日 (水)

私の好きな作品たち~笹本 稜平編

 サントリーミステリー大賞受賞作『時の渚』を読まれましたか?

内容は、ある事件の容疑者に妻子を車で跳ねれられ殺された刑事・茜沢はその捜査から外されます。われを忘れた茜沢は上司の制止も振りきり、辞表を叩き付け歯牙ない探偵稼業へ。そこに、かつての上司の紹介で余命少ない老人・松浦から人探しを依頼されます。その人とは、35年前に生後間もなく見ず知らずの女性に託したわが子。松浦のかすかな記憶の中の糸を頼りに人探しを開始する。一方、かつての上司・真田からある事件に茜沢の妻子を跳ねた容疑者・駒井が関係しているかもしれないことを告げられ、人探しと平行して駒井の周辺も探りはじめる。そして茜沢が追っている二つの獲物が微妙に関係していることが分ってくる。そして、その獲物は次第に重なりはじめる‥‥。

前半は淡々とハードボイルドな探偵小説といった印象。50ページSample_pic_06 ほど読んで、「結末が読めちゃった」と思ったのだが甘かったですね。後半に待っていたのは怒涛の展開。二転三転する展開に読むのを止められずに一気に読んでしまいました。
 感心したのは人物描写です。登場人物がリアルにイメージできるし好感が持てます。このあたりに作者の技量が表れてのでしょうね。後半のメインテーマは親子の絆。読んでて目頭が熱くなりました。さすがにミステリー大賞受賞だけのことはあります。

 このたび初めて読んだ笹本氏はどちらかというと「ハードボイルド」タッチの小説を書く作家のようで、この作品も謎解きミステリというよりもハードボイルドテイストの探偵小説というようなムードの小説なのですが、「いかにも・・・・・」のいやらしさがほとんど感じられませんでした。
 登場人物も自然な感じで嫌味が無く、わざとらしくなく、共感しやすいまともな人達で、文章もきちんとしていながら固すぎず、話の展開もうまいし、とにかく大変に上手なストーリーテラー振りだと感じました。
 親子の情の深さについて切々と語られる最終章部分では、どうにも涙が止まらず読み進むのに苦労しましたが、全体的にすらすら読めてしかもキチンとした重みを感じつつページを括ったのでした。
 話の展開は「そんなにも偶然が重なるものだろうか」との疑問が浮かばないわけでもないのですが、ふと思えば、人生はすべて「驚くべき偶然の積み重ね」で成り立っているものということを思い出し、文章や台詞回しの自然さが、そんな余計な邪念を払い落としてもくれるのでした。

 ダブル受賞した『太平洋の薔薇』は、不定期貨物船パシフィックローズ号は、最後の航海の途上にありました。船長は柚木静一郎。彼もまた、船乗りとしてこれが最後の仕事だった東南アジアを航海中にハイジャックされてしまうというあらすじです。

 現場は海賊の多発地域。
しかし、犯人グループの要求は奇妙なものだった。パシフィックローズ号を中心に日本、ロシア、アメリカなど色々な立場の人間が登場し、話が進むにつれて相互が絡み合っていく展開が良い(終盤放っておかれるキャラクターもいますが)。戦艦や潜水艦の小説を読んだことはありますが、老朽貨物船でこれほど興奮が生み出せることが興味深かったですね。
 ただ、物語の全貌が見えた終盤以降は失速しています。敵が急に弱くなっているし、ラストのまとめ方が甘い印象は否めなせん。。それでも全体的なクオリティは高いのです。これだけのボリュームが詰め込まれた世界を味わえるというのも、小説ならではの魅力でしょう。できれば映像化をして欲しくないです(削らなくてはいけない部分が多いだろうし、映画がダメだと原作も不当に貶められるので)。
 作品を読んで、歴史の勉強にもなりました。たとえば「20世紀前半、ヨーロッパで国家から大量虐殺(ジェノサイド、ホロコースト)された民族は?」という質問に、あなたはどう答えるでしょうか。ほとんどの人が「ユダヤ人」と回答するでしょう。でも、ユダヤ人だけではありません。アルメニア人も同じような目に遭っていたのです。このアルメニア人虐殺問題が、作品のキーワードの1つとなっています。
 この小説は大藪春彦賞を受賞しています。あまり気にかけていなかった賞なのですが、受賞作のリストを見ると馳星周【漂流街】 、福井晴敏【亡国のイージス】 、垣根涼介【ワイルド・ソウル】、雫井脩介【犯人に告ぐ】 、近藤史恵【サクリファイス】を過去に読んいたら・・。いずれも一定以上のレベルにある作品です。今後はチェックしていきたいものです。

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