書籍・雑誌

2009年12月19日 (土)

私の好きな作品~『ノルウェイの森』

 この作品は、『世界の中心で愛を叫ぶ』のおかげで影が薄くなったかもしれません。どちらも純愛小説ですが、私は『ノルウェイの森』に大きな衝撃を受けてしまったので、このお話をしようと思います。上下巻で出ましたが、上巻はすでに『蛍』と言うタイトルで文庫本で読んでおり、下巻が出るとはその頃思いもしませんでした。

現在の語り手「僕」が14~15年前の、大学生の時の記憶をたどHigashiyama_work28s る形で物語が進行します。そして大学生の時の「僕」は高校生の「僕」につながり、「彼女」と「僕の親友」の関係へと展開していく・・・
 高校生の時に「僕の親友」が理由不明のまま自殺を遂げ、「僕」と「彼女」が受けた精神的な打撃が明確な形を取らないままジワジワと忍び寄るような形になっていました。精神的な打撃の中身は恐らく「死」に対する意識であり、この「死」に対する意識はおそらく現在の「僕」をも捕らえていると思われます。「死は生の一部として存在する」という一文がこの作品を支える構造として機能しているような気がします。

 また、ここで語られている「僕」と「彼女」の関係はいわゆる恋愛関係にあるとは考えられないですね。作品中には「僕」側の気持ちが冷静に語られていますが、相手を想うことの喜び、一緒にいることで生じる生の喜びが2人の関係には欠落していると思われ手仕方がないのです。このような関係を中心に置いて展開される作品世界が描き出しているものは、「親友の死」によりもたらされた計り知れない恐怖、そしてその恐怖により世界の一部が不可逆的に変質してしまった(「彼女」の方は本当に精神に異常を来してしまった)人物についてだと思いました。 

 『螢』では僕と彼女、それから彼女の恋人の3人で物語が展開したましたが、『ノルウェイの森』では『螢』に比べてかなりたくさんの人物が登場します(永沢さん、ハツミさん、緑、レイコさん)。これら登場人物は過去の回想部分を展開する上でそれぞれ重要な役割を果たしていますが、実は直子と「僕」の関係に本質的に関わってくるのは緑だけでなのです。緑は不幸な身の上を持った女性であるにも関わらず生へのエネルギーが非常に大きく、直子と対照的であり、この生へのエネルギーが結局は「僕」を救うことになる・・・。緑の登場が「螢」とは大きく異なる点であり、物語の展開に非常に大きな働きをしていますね。また、ハツミさんの存在とその死については「死」の取り扱いを考える上で重要かと思います。

 直子のルームメートであるレイコさんは「僕」と直子をつなぐ存在として位置づけられ、特に直子の状態を的確に把握する上で不可欠の重要なキャラクター。物語を読むとレイコさんは直子が持つ「死」の要素の影響は受けていないように見えますが、これは何故?直子と「僕」をつなぐ役割だけを担っていると解釈することもできますが、レイコさんは直子と同じ世界に住んでいるためであると考えることもできるのではないでしょうか・・・

 直子自身が有する「死」の要素を中心に物語が展開されます。この「死」の要素が直子自身を消滅させ、キズキを失望させて自殺させたのです。そして直子と対局にある女の子「緑」により「僕」は直子を捕えていた「死」から逃れられたのではないでしょうか。直子がもはや回復の望みがない入院をしたことは『螢』でも暗示されていますが、その原因をどこに求めるのかが「螢」と『ノルウェイの森』ではこのように食い違いが出てきたのは面白いと思いました。『ノルウェイの森』では直子の背景がより鮮明に描かれており、ある意味では解釈は容易でしたが、やはり直子の死は私には大きなショックでした。この子は生きていられないとずっと私の頭から消えませんでした。

 「螢」の時と同様、この作品には「死」が身近に存在しています。直子の「死」の意識は「螢」に描かれているものとほぼ同様であるが『ノルウェイの森』では直子が自殺するところまで描かれています。 ところで、直子の他にハツミさんの存在と死についても注目すべきです。永沢さんの態度がどうであれ、ハツミさんは永沢さんのことを好きだと明言。彼女は永沢さんが本気で変わると思っていたのでしょうか。それは物語の中では語られず、彼女は「人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った」のです。ここでハツミさんの心境について考察する必要は無いと思いますが、「僕」がハツミさんを特別な女性と認めていたにも関わらず救済できなかったこと、「そしてそれは僕の多くの知り合いがそうしたように」とあるように、「僕」が自分の周りに死が徘徊していると考えた点に注意を払う必要があるのでは?。ここから「僕」もまた「死」にHaruoinoue 取り囲まれている存在であり、その考えや行動が「死」に侵食される危険性が覗いているのです。キズキの死、ハツミさんの死は直子の死と共にこの物語全体の背景を構成していると考えられますが、『ノルウェイの森』では緑の存在が「僕」を「死」の危険性から救い出すべく拮抗していると考えられます。
 それからこの物語では性の描写が露骨になります。登場人物すべてが性交渉について罪悪感のようなものは持ち合わせていないかのように
思えます。しかし性的な接触が満足を与えているかというとそれは全く逆で、かえって喪失感のような寂しい雰囲気が漂っている・・・。
だからこの物語では生の喜びとしての愛や性的な交渉という解釈は成立しないのでしょう。その理由はこの物語の基調が「死」を背景」と
しているからであると考えられますね。

 レイコは、大学4年時に発病し、精神病院に入院するが、退院後、家族、さらには社会から精神障害ゆえに偏見と冷遇にあい、24歳で再発。その後、精神病院に再入院しますが、退院後も社会から身を潜めて生活していました。そんな中、理解ある夫と結婚し、一児をもうけますが、31歳に知り合いの家族から、過去の精神病院入院歴を暴かれ、周囲への被害妄想と幻聴に悩まされるようになります。最終的には、自分から夫、子どもから離れ、京都の施設に7年も入所していました。直子をはじめて訪れた僕と二人きりになったレイコは、自分の身の上話を聞かせます。その際、レイコの語りは、この小説のひとつのテーマである「精神を病むということ」とはどういうことなのか、つまり人間として「まとも」であるとはどういうことなのか、という問題を扱っているのだと思いました。
 
 小説の中で、レイコは「この施設にいる患者は皆、自分が不完全であることを知っているから、お互いを助け合うの。私たちはお互いの鏡なの。そして、お医者は私たちの仲間なの。私たちのような病気にかかっている人には専門的な才能に恵まれた人が結構多いのよ。だから、ここでは私たちはみんな平等なの」と述べ、僕に「第一に相手を助けたいと思うこと、そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないと思うこと。第二に正直になること」を勧めます。レイコの語りを借りながら、作者である村上春樹は、精神を病んでいるとされた人の方が「まともな」感じ方や考え方をするのに対して、いわゆる世の中の「まともな」人たちは「僕」から見ると、異常としか思えない、といった逆説的な主張をしているのではないでしょうか。

 それは、後述するように、この小説の一番の特徴である、「生と死、そして病気と病気でない二つの世界の内包、あるいは連続性」に関係してくるテーマなのです。
 僕に語るレイコの態度は、長い療養生活の後、自己の精神の病あるいは障害を受容し、そして人生の真理や教訓を獲得した人間として、死の世界に導かれる直子と生命感あふれる緑の間で苦悩する僕に生きる指針を与えてくれます。直子の自殺後、レイコは直子の洋服を贈与されたことで、死んだ直子の分身として施設から僕の住む外の世界へとやってくきて「強くなりなさい、もっと成長して大人になりなさい」と僕の成長への脱皮を支持する存在となるのです。その後、レイコ自身も、外の世界へ復帰しようとします。

 京都の障害施設の設定に作者の障害者観が投影されていると考Kaii22 えられます、ここで大事なことは、作品の時代背景が1960年代から70年代を前提とし、その時代に前記の療養施設の作者の発想は先駆的なのでしょう。おそらく作者は、1960年代に欧米で流行した反精神医学、すなわち、従来の伝統的精神医学が狂気イコール病気と仮定してきた視点への異議申し立て的な思想を取り入れた可能性があるるそうです。そして、先に述べたレイコの語りにみられる『精神の病の中にもまともさがあり、まともな人間にも病がある』という逆説的ですが、それゆえに両者の共存の必要性にも触れています。
 
 最後に、この著作は、反復される大切な人々の自殺や死、それに対極的に存在する瑞々しい生を織り混ぜた作品であり、僕を中心とした喪失と再生の物語でだと思いました。小説全体が、生と死、動と静、障害と非障害、施設と外の世界など異なった世界を内包し、そして相補的に連続させた一つの作品となっていることが特徴です。

村上氏の物語は、失意と自閉の時代に、人間同士の理解、他人や社会との接触とは如何なるものかを提示していると思いました。

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2009年12月17日 (木)

私の好きな作品~『博士の愛した数式』

  80分間に限定された記憶、ページのあちこちに織りこまれた数式、そして江夏豊と野球カード。物語を構成するのは、ともすれば、その奇抜さばかりに目を奪われがちな要素が多いですよね。しかし、著者の巧みな筆力は、そこから、他者へのいたわりや愛情の尊さ、すばらしさを見事に歌いあげます。

博士とルートが抱き合うラストシーンにあふれるのは、人間の存在Gohho009_2 そのものにそそがれる、まばゆいばかりの祝福の光・・・。3人のかけがえのない交わりは、一方で、あまりにもはかない・・・それだけに、博士の胸で揺れる野球カードのきらめきが、いつまでも、いつまでも心をとらえて離さないのです。

 博士は64歳。数学(整数論)専門の元大学教授。数学と子供と阪神タイガース(特に博士が事故に遭った当時、阪神の選手だった江夏豊投手(背番号は2番目に小さい完全数である28))をこよなく愛しています。(ちなみに私はジャイアンツファン・背番号7のセンター野手です。)

 47歳のときに巻き込まれた交通事故により、新しい記憶が80分しか持続しないようになってしまいます。大切なことを記したメモ用紙を体中につけている。書斎のクッキー缶の中に、野球カードや思い出の写真等をしまっていて、他者と接することが苦手で、何を話して良いか分からなくなったとき、言葉のかわりに数字を持ち出すのが癖。特技は、文章や単語を逆さまから読むことと、一番星を見つけること。ニンジンが嫌い・・・

 こんなに素晴らしく面白い作品を今更ながら読みました。読んで数字や数学が本当に美しく感じ取れるようになれたことには驚きました。
 「私」の奔走ぶりも素晴らしいですね。ちょっと目を放すと何がなんだかわからなくなる、そんな中、博士に献身的につくしていきます。

 例えば認知症にかかった親を介護する時、こんな温かい気持ちで過ごせるかと言われたら、同じ悪戦苦闘の中で穏やかに優しくと、言えない現実もあると思います。でも同じ事を何度も何度も繰り返すことを「私」は穏やかに見守っていますね。「私」も最初はどうするべかかなり悩んだと思います。3人が穏やかな暮らしができるようになったのもそれぞれの努力もあったと私は思いました。

 全国の書店で働く人々が選ぶ本屋大賞の大賞作品として第1回受賞作となったそうです。文庫化されると、史上最速の2ヵ月で100万部を突破。2006年1月の映画化という販売促進策で奏功が決定的になりました。ちなみに大賞受賞時の得点は202点だそうです。

 この作品は映画にもなりましたが、どちらも甲乙付けがたいと思います。小説内にいくつもの数式や、証明といったものが出てきますが、むしろ美しいものとして感じられる不思議な作品です。それは、文体や、描写からにじみでるこの小説の雰囲気といったもので、そしてそれを何よりも表しているのが、80分しか記憶の持たない、ひどく優しい博士の存在でした。

 そして子供をとても大切にしている、素晴らしい質問をしたと思わせる才能を持った博士・・・80分しか持たない記憶を持った博士の内面は・・・忘れてしまうという恐怖があってしかるべきなのですが、飄々と生きているように思わされてしまうのは博士の回りに対する優しさは記憶の奥で忘れられない唯一のことだったと思えてなりません。 読み終えた時に、じんわりと暖かい気持ちになれる、そして前向Hakase_001_2 きに生きることの大切さ、それが小説のもつ絶対の力であると私は思っていますが、この本にはそれがあふれています。

 50万部のベストセラーに輝いた、小川洋子原作の同名小説を、『雨あがる』の小泉堯史監督が映画化した作品です。数式という言葉に拒否反応を感じる人は、この作品をぜひ観るか読むかしてみてほしいです(私もそうでした)。

何気なく周りに存在する数の不思議は、人間同士の絆や生きる喜びさえも伝えてくれるといいます。ルートの母の靴のサイズを「24」と聞いて、「潔い数字だ」と微笑む博士。そんワンシーンからも、この物語に込められたユーモアと、温かな人間の姿が見て取れるはず。

 自身は「数学が大の苦手」という寺尾聰氏が、記憶障害の博士という難役を深みあるキャラクターに仕上げており、家政婦役の深津絵里さんは、それに寄り添いながら爽やかな演技を見せています。(goo映画より抜粋)

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2009年12月15日 (火)

私の好きな作品~『花の降る午後』

 宮本氏と言えば、川三部作を思い浮かべられる方が多いと思います。私も三部作を読んでから、次々と読みふけった時期がありました。

 何故『花の降る午後』を選んだかというと、中でもとりわけ37歳の未亡人の働く姿や憂いに満ちた姿が印象的だったからでしょう。

 最愛の夫を癌で亡くし、神戸の老舗レストランを女手一つで切りKaii2 もりする典子が主人公で、仕事は厳しく人の良いシェフ、実直で有能な支配人、懸命に働くウェイターたち・・・。お店を継いで4年間を振り返ると彼女はとても満ちたりる。
 そんなある日、生前の夫から買ってもらい今はお店に掛けていた絵画を貸してくれという青年が現れた。彼の名は高見雅道。その『白い家』という絵の作者だった・・・。一方、店を狙う魔の手が伸びてきていた。典子に訪れた恋、そして』闘いが始まる。

といっても、ミステリーではありません。作者曰く『幸福物語』です。宮本氏は、善良な一生懸命に生きている人々が幸運にならなければ、この世の中で小説など読む値打ちはきっとないでしょうからとあとがきに書いています。

 考えてみれば終わりの1ページを読み終えて、この後、どうなってしまうのだろうと言う余韻が本や映画で気になることが、楽しみで読み続けてきたように思います。物語が終わって登場人物が消え、私だけが残る、でも最初の立ち位置とは同じではないことに気づくのです。

 人の心の喜怒哀楽を通過してきたことで、人生の大事なことと、そうでないことが際立って見えるのでしょうね。宮本氏の作品はまさに文芸の芸と呼ばれるところだと思うし、それはたんにテクニックというものではなく、読者への優しさや愛情の表われではのではないかと考えさせられました。

 お店への災難も悪人と思しき人物が実は騙されていたり、典子の強い見方が物語に表面的には顔を出さないで災難を解決してくれたりと人間関係はかなりややこしいのですが、もう一方で典子と高見の恋愛は結末が見えないのです。

 一番気になるのがこの二人の行方ですが、レストランをとるか、恋人をとるかは読んでいて、気が気でなりませんでした。

どちらをとっても愛情と言うしがらみがついてくる・・・宮本氏が典子の目線でとらえているのも面白いですね。女性では書けない文体も沢山出てきて、典子をとても魅力的に見せてくれます。
 
 年下の高見はこういいます。

『しがらみを捨てるっていうのは煎じ詰めれば人生から降りることになるよ。人生からおりた人間の未来に花が咲いたためしは無い。』と。

  随分解ったようなこと言うななんて一瞬思いましたが、そうではKaiii021 なかったようです。充分愛情があるからいえた言葉なのですね。男と女が完全な幸福を描けないのは、平和な結婚生活も恋愛中の恋人同士でも常に潜在的な危機にさらされているからなのでしょう。いつ、死や病気が襲い掛かるか知れないですものね。

 高見は一度パリに行きますが、戻ってきて、そっと道にたたずみ、典子のレストランを見上げます。典子もはやる気持ちをおさえられないけれど、ここで抱き合ってどうなるのか、過去のしがらみも恋愛感情も消えはしないのだから。

物語が終わっても典子は悩み続けるのでしょう。そんな気がします。美しい女は悩むことでますます美しくなるのではないでしょうか。こういう女性に花は午後と言わず夜になっても降り続けるのでしょう。ここで鼻持ちならない女性になるものですが、宮本氏の描く女性はどこまでも賢く、誠実です。

 映画化もされたようですが、そちらではレストランのスキャンダルをめぐって話が進み、あの絵の裏から夫の手紙が出てきて隠し子がいることなどスリリングな展開がされるようです。そこでは典子の燐とした姿を垣間見れるでしょう。どんな終わりになっているのか興味がありますが。

 久々に読み返してみて、典子という女性にはやはり花が降るに値すると感じました。『花の降る午後』と言うタイトルも意味がようやく解った気がします。

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2009年12月12日 (土)

懐かしの作品~『さらばテレビジョン』

 1978~80年の頃書かれたものなので、もう古書扱いでしょうか。倉本先生がまだ東京にいらっしゃて、せっせと脚本を書いては世に送り出していた頃、知り合った俳優さんのことや日記と題してエッセイを書かれたものです。倉本先生といえば『北の国から』が有名ですが、私はむしろ富良野に移住される前のせこせこした生活に中で書かれた「2丁目3番地」、「3丁目4番地」、「さよならお竜さん」、「ガラス細工の家」「前略おふくろ様」「ホンカンシリーズ」、単発のドラマで芸術祭参加作品などきりがなく、ドラマKuramoto も今と違って長期に渡って放送されれていました。

でももうテレビはおしまいだと言われた時期でもあります。今思えば、今よりずっといい作品が多かったし、バラエティなどはドリフターズやコント55号くらいしかいなかった、役者にスポットをあてられた私にとっては黄金期でした。

 本の冒頭に『6羽のかもめ』の最終回の言葉が載っています。

『テレビの於けるドラマの歴史はくさされっぱなしで終わったんだ。その通り!!テレビドラマに芸術はなかったさ!徹頭徹尾、芸術はなかったさ!俺の愛したテレビドラマは最後迄下等な娯楽品としてーー下品なーー悪趣味な代物だったさ。さらばスタジオ!さらば視聴率!そしてさらばテレビジョン!だがな、一つだけ言っておくこがある。(カメラのほうを指差す)あんた!テレビの仕事をしてきたくせに本気でテレビを愛さなかったあんた!(別を指差す)良くする事も考えずに批判ばかりしてたあんた!あんたたちにこれだけはいっておく!あんたたちは決してテレビを懐かしがってはいけない。あの頃はよかたなんて後になってそういうことだけは言うな。言う資格がない。
 懐かしむ資格のあるものはあの頃懸命にあの状況の中でテレビを愛し、闘った奴。それから楽しんでくれた視聴者たちーー』

  ドキッとする言葉で始まります。どれ程現場が荒れていたか創造を絶する言葉ですね。確かにそういう風潮があったことも思い出せます。
でも倉本先生や向田邦子さん、早坂暁さんなどが懸命にドラマに費やした日々でもあるのです。娯楽といってしまえばそうかもしれません。
 でも命のあるドラマでしたよね。芸術性がなかったかと問われるとKuramoto003 無いとはいえないと私は思うのです。ドラマを愛した人は確かにいたのです。

 私は本を読むきっかけはテレビだと言えるでしょう。それも好きだと思うドラマは殆ど倉本先生のものでした。向田邦子さんのように本と言う形で残っているとは知らず、書店でアルバイトをした時に多くの倉本作品にまた出会えた時の感激は今も覚えています。

 この作品では『心やさしき役者たち』という題でも数々の有名な役者さんとのエピソードも載っています。
 先日亡くなられた大原麗子嬢のことを読み直し、涙があふれました。飛行機が苦手な先生に、いつも優しく「麗子が守ってあげるからね。」と声をかけてくれた麗子さん。「私はこんなことでは死なない運命なんですって。」と無邪気に言っていた優しい微笑みが浮かびます。

 大滝秀二さんは北海道に入った瞬間からホンカンになりきってしまう、これも大滝さんらしいお話です。

 私は今まで「私の好きな俳優たち」と題していろんな俳優さんを取り上げてきましたが、元はと言えば、倉本先生の作品に出ている方が多かったように思います。倉本先生らしい優しい役をされたからなのでしょう。

 おかしかったのは、石坂浩二さんのエピソードでしょうか。何故か先生が付き添いで浅丘さんの家に行く車の道中で、石坂さんが何て言えばいいのかボソボソつぶやいているところ。
『頂きたいんです、頂かせてください、下さい、下さいな、変だな。頂戴させてください、頂戴させていただきたいンです、アアだめだ!!』これで石坂さんは先生に頭が上がらなくなったことでしょう。

まだお嬢さんだった仁科明子さんのお話も素敵です。

 この題の後にショートショートというかエッセイ風の読み物がついていて、今ある先生がどんな方だったのかを知るにはとてもいい本だと思います。富良野に来られたことは雑踏の中から自然に帰りたかった、自分を取り戻したかったという思いが強かったかもしれませんが、後を追うように著名人や作家さんが北海道付近に来られたことは何だか妙な気持ち
です。山田太一さんは「私は東京で頑張る」と言った言葉が頭をよぎります。

 

今また新しい脚本家さんが多く誕生し、向田邦子さんが亡くなられてから発足された向田邦子章を取る方々に大いに期待しています。いつまでもヒューマンドラマを愛して止まない私の願いです。

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2009年12月 9日 (水)

私の好きな作品~『パズルパレス』

 アメリカ国家安全保障局(NSA)が暗号解読のため開発したスーパーコンピューター「トランスレータ」。 これによって暗号の解読が成功すれば一般国民のプライバシーの侵害および、政府による弾圧に繋がるという懸念があったため、NSAは表向きには解読に失敗したと発表した。が、しかし、それは秘密裏に運用され、テロリスト達の 電子メールの暗号を解くことで、数々のテロを未然に防いでいた。パズル・パレスとはNSAのニックネーム。地球上で最も優れた暗号学の頭脳が集まる場所のこと。

  ある休日、暗号解読課主任スーザン・フレッチャーは突然NSAに召集Pazuruparesu001される。 プライバシーの観点からトランスレータの運用をよく思わない元スタッフによって開発された、解読不能の暗号化技術「デジタル・フォートレス」(電子要塞の意)が発表され、暗号を解くパス・キーがオークションに掛けられたというのだ。
 もし、トランスレータにかけても解読できないこの暗号化技術が世に広まれば、アメリカはテロを防ぐことが困難になる。開発したエンセイ・タンカドはパス・キーを協力者にも預けていたため、実力行使に出る事も出来ない。オークション中止の条件はただ一つ、「トランスレータの存在を外部に発表する事」であった。説得を提案するスーザンであったが、開発者のタンカドが既に心臓発作で死亡した事、そして、恋人のデイヴィッド・ベッカーがパス・キーを含むであろうタンカドの遺品を回収しに旅立った事を知らされる。スーザンは、協力者がタンカドの死を察する前に、その正体を突き止めなければならなかった・・・

 私達が夢物語だと思っているような巨大な国家機関や、この地球すべてのマクロを司る宗教組織など、巨大組織をダンブラウンさんは、いつも舞台に選ぶのには感嘆します。『天使と悪魔』ではバチカンであったし『デセプションポイント』ではアメリカ合衆国政府と国家
偵察局でした。

 こうした組織は、その存在意義や活動があまりに多岐にわたるため、なかなか物語のベースには乗らない・・・これをまるまるメイン舞台にしてしまうという物語は無かったように思います。きっと、これらの機関は特にここ20年で肥大化したという事もあり、なかなか想像力が追いついていたのかもしれません。でもダンブラウンさんは、これらの巨大機関をメインの舞台としています。10年前に書かれた作品なのにです。凄いです。

 そこに属する働く人々のミクロの物語を等身大に描くことなど出来るはずがないと思っていた私は驚きました。

 人間社会には何処にでもあるような話を、力量がない作家だと、マクAnnri008_2ロの重みに比較して、ミクロの関係性のレベルが変だとバランスが悪くなり、そんな思いでマクロの機関を運営なんか出来ないと思っていたのですが、、ダンブラウン氏は違いました。

 場面が目まぐるしく切り替わり、息つく暇もない上巻。ああ終わったと思わせといてぜんぜん終わらない下巻。やや強引な展開や、登場人物の立ち位置がよく分 からない箇所もあり、全体的に粗削りな印象を受けたことも事実です。と言っても、続きが気になってつい読みすぎてしまうスリル感は著者の得意とするところなんですね。

 あまりに肥大化してその存在が意味不明になりがちで、霧のように良く見えない巨大機関を、それを支える人の動機にもどして、その組織設立の理念みたいなものをを繰り返すことにより、この複雑怪奇なマクロのシステムが支配する現代においても等身大の人間たちが、ミクロの人間関係に投影し、その組織の本義を支え得るために苦しんで戦っているのだ、ということが生き生きと描き出されているのには脱帽です。

 最後の最後で、個人的なミクロの復讐と、そもそもその組織合衆国にとって、世界にとって、意味ある組織であるためにはそのままでいいのか?という問いを突き付けられる物語構成になっていることが何より読んで良かったと思える瞬間でした。

 謎解きは他の作品に較べると少ないですが、安心して読めるので私は好きです。

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2009年12月 6日 (日)

永遠の悲劇~『ハムレット』

 最初に読んだのはたしか小学生でした。父親の亡霊、オフェーリア、『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。』、『尼寺へ行け!』etc・・・こんな風に断片的にしか覚えていなかったのに二度と読むことの無かった作品なのです。

 長いお休みを頂いて、何が読みたかったかというと、何故かシェShekusupia001 ークスピアだったのです。かのつかこうへい氏が横目でシェークスピア全集を観ながら、『オレはあんな綺麗な言葉は使えない!!』と言わしめたことも有名な話ですよね。で、読み直してみました。できれば翻訳ものじゃなく英語で読めたら良かったのですが・・・

 『ハムレット』ほど批評家を悩ましてきた劇は類を見ないでしょうね。毎年発表されるおびただしいほどの批評、論文がでるらしいことからも分かります。決定的な解決はありそうもない・・・にも関わらず、というより、だからこそ、人は問い続けるのでしょう。

 だから、むしろ、はじめから人間の内面宇宙を問うことをテーマにした劇として見た方がすんなりと受け入れられるのではないでしょうか。しかし、人間の内面宇宙そのものが、すでに迷宮だと思うので、人は永遠に問うことをやめられないのではないでしょうか。だから、『ハムレット』論も永遠に終わることはないでしょう。こうした堂々巡りが『ハムレット』の最大の魅力なのです。すっきりとした答えが出ない、不思議な作品でした。

 しかし、この作品により、人類が初めて人間の内面と正面から向き合うことになるのだから、『ハムレット』が人類の精神文化に与えた影響は計り知れません。シェイクスピアもかなり力を入れて執筆しているように思います。
 ある学者の計算では、シェイクスピアはそれまでの作品で使った ことのない単語を約600語、この作品につぎ込んでいるそうです。しかも、その多くは英語の歴史でも初めて使われる意味や言葉でした。斬新な経験を表すには斬新なことばを必要とします。シェイクスピアは、人類がまだ経験したことのない宇宙を前に、その天才を振りしぼるようにして、新しいことばを生み出していったのだと思います。

 1997年、『ハムレット』は映画化されていますね。お芝居ではすっかり御なじみです。

 大まかなあらすじは、2ヶ月前に死んだ先王が亡霊となって毎夜現れる、と友人ホレーシオから知らされるハムレット。父親である先王の死、また母ガートルードと現在の王との結婚により心を痛めていたハムレットは亡霊に会いに出かける。先王の亡霊は、弟である現在の王に毒殺されたことをハムレットに打ち明け、復讐をするよう告げる。
 乱心したふりをするハムレットと、彼を心配する王と王妃たち。内大臣ポローニアスは、娘オフィーリアへの恋心がハムレットの奇行の原因ではないかと考える。王とポローニアスはハムレットとオフィーリアを会わせ、彼の悩みの原因を探ろうとするが、ハムレットは彼女に尼寺に行くよう言い放つ。Hamuretto002
 そんな中、芝居を行うため役者たちが城を訪れる。ハムレットは芝居に王と王妃を招き、役者たちに先王の最期とそっくりの暗殺場面を演じさせる。王は動揺し、その場を去る。母である王妃に呼び出されるハムレットだが、彼は彼女の再婚を強く責め、壁掛けの後ろに隠れていたポローニアスを刺し殺してしまう。王は手に負えなくなったハムレットをイギリスに行かせることを決める。
 父ポローニアスの死にショックを受け、狂乱するオフィーリア。兄レアティーズは父の復讐のため王のもとを襲撃するが、王はポローニアスの死がハムレットの仕業であることを打ち明ける。
 イギリスへ向かう船上、ハムレットは王がイギリス王宛てに書いた手紙を読む。そこにはイギリスに到着したらすぐハムレットを処刑するよう依頼する内容が書かれており、王の裏をかくためハムレットは1人デンマークに帰国する。ホレーシオと墓場にやって来た彼は、オフィーリアの埋葬現場に出くわし、彼女が小川で溺れ死んだことを知る。父への復讐に燃えるレアティーズから決闘を申し込まれるハムレット。
2人は王や王妃たちの前で決闘を始める。王はハムレットを殺害するため毒入りの酒を用意していたが、王妃が息子の幸運を祈って乾杯をするためその酒に口をつけてしまい、彼女は命を落とす。レアティーズは毒を塗った剣でハムレットを傷つけ、自らもその剣で傷を負う。王の策略を打ち明け、死ぬレアティーズ。ハムレットは王を刺し、毒入りの酒を飲ませて殺害。ハムレット自身も、ノルウェー王子に王位を継がせると言い残し死ぬというものなのですが、そこにはストーリー以上にハムレットの苦悩が細やかに表れていますね。
 ここでも『復讐』がキーワードでした。

どういうふうに読み込んでも、まだまだ拡がりがある、という奥行き の深さをもつものが、古典と呼ばれるのであれば、「ハムレット」はその筆頭格でしょう。

 シェイクスピアのどこが面白いのですか、と聞かれれば、即座に、台詞が面白いと答えるでしょう。ストーリーもたしかに面白いのですが、シェイクスピアはそれまでに書かれた詩、物語、劇を種本として自作を書きました。

しかし、シェイクスピアの作品が数え切れないほどの人々に愛読されているのはなぜか?

 台詞にその答えがあるのでしょう。台詞がストーリーに深みを与えているのです。台詞が拓き出す世界は無限の広がりを見せ、シェイクスピアと讃えたのだと思います。

 シェイクスピアは舞台のために書いたのであり、書斎での読書には向かKlimt06ないのではないかと思ったほどです。だから、まだシェイクスピアの生の舞台を見ていない人は、今すぐにでも見に出かけなければならないと思います。とにかく舞台で語られる台詞を聞くことが大切だと感じずにはいらませんでした。そうすれば、たとえわずかにせよ、台詞が本来持っている力に気づくのでしょう。そういう私も生舞台は観ていませんが、いつだったか教育テレビで見たことがあります。それは現代劇に近い形でしたが。

 シェイクスピアの言葉は、舞台に放たれると、突然、生き生きするのではないかとつくづく思いました。
 また、シェイクスピアの台詞があまりいろいろなことをいっぺんに言おうとしていることが私達に混乱を招くのではないかとも感じました。丁寧に意味を拾おうとするとその深さにどっぷりはまって動けなくなると思います。シェイクスピア世界の凝縮度についてゆけていないでしょう。これはじっくり一生かけて取り組むべき問題なのだと思います。10年、20年経って読み直すと、思いもよらない発見をすることがある、それを痛感しました。それがまた面白いのです。シェイクスピアが私たちの成熟を測る尺度になる、他の作家の作品でも言えることですが。

『血の匂いのする、色好みの下司下郎め!残忍な裏切り者め、情欲まみれの卑劣漢め!さあ、復讐だ!』(『ハムレット』より)

『ジュリエット:おやすみ、おやすみ!別れがあまりに甘い悲しみだから、朝になるまでおやすみを言いつづけていたい。』(『ロミオとジュリエット』より)

 これですもん、つかさんは照れて言えませんね!!

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2009年11月 2日 (月)

私のお勧めの作品~『横道世之介』

 これも大様のブランチの受け売りなのですが、かなり評判になりそうな吉田修一さんの本です。

 18歳の世之介君が大学へ入って様々なことと出会い、成長していくストーリーです。世之介君は何処にでもいそうな一見目立たない存在なのですが、読んでいるといとおしKaii16くなるキャラクターなんですね。自己主張をあまりせず、『呑みに行く?』といわれれば『うん』と答えてしまい、素朴で人懐っこい性格は、こんな人いたなあと思わせてくれる、思い出させてくれる人物です。

1980年代のお話なのですが、20年後の現代にも繋がっていてそこが面白かったりします。20年前の出来事と同時に登場人物達の現在が挿話としてさしこまれ、世之介君の輪郭を埋めこんでいくと言う形がいいのでしょう。

 田舎から上京し、ワンルームマンションで戸惑いながらクラス1年間。単に皆に流されているだけのように見えて、流れを作ってるのは世之介君のほう。
 ふっと気が付くと世之介君の存在が大きくなっていると思ってしまう回りの皆。結局彼の存在を認め、再認識しているのです。なんだか酸素のような存在と私は思ってしまいました。

 恋愛も田舎にいた時に好きだった同級生のことを思い出しながらも、年上の片瀬千春に憧れ、東京湾の残土処理業者として成功した家のお嬢様祥子に惹かれていくところなどは少しハラハラします。

 何せ携帯もパソコンも無い時代なので、ジンワリ個々の距離感があるのが妙に懐かしいのです。私の学生時代がまさにそういう状況だったので頻繁に公衆電話を使うことが時々面倒になることもあったりして・・・だから友達より、自分のマンションの周Higashiyama_work24s りの住人と仲良くなれたりしたんだと思います、世之介君のように。

 彼は、損得や、成功するかどうかの値踏みをしない人です。とにかくそっちへ行き、飛び込んでみる、それが何なのか解った時、世之介君は、変わらないのに大人になっていったような感じがします。

 何て事のないというか、起伏の無い作品なのですが、読み終わったあと、無償に愛しくなる作品です。ここまで人を惹きつける要因は何なのでしょうね。

 時が経って思い出の風景の中で輝いている人がいたら、それが私にとっての横道世之介なのかもしれません。

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2009年10月31日 (土)

私の大好きな作品~『蒲田行進曲』

 1982年、もうそんなに前のことだったのかと思わせられるほど、私の中では色あせない物語です。直木賞をとったことで、興味を持ち読んだのですが、もうたまらなく面白かったというか趣があったので、つい映画も観てしまいました。もともとつかこうへい氏のお芝居から端を発していたので、お芝居で観るのが一番面白かったのかもしれませんが、生憎その頃はお芝居に興味はなかったし、つか劇団も殆ど知りませんでした。      

 あらすじはご存知の方も多いと思いますが、何せ25年以上前のお話です。時代劇のメッカ、京都撮影所。今、折りしも「新撰組」の撮影がたけなわである。さっそうと土方歳三に扮して登場したのは、その名も高い“銀ちゃん"こと倉岡銀四郎である。役者としての華もあり、人情家でもあるのだが、感情の落差が激しいのが玉にキズ。こんな銀ちゃんに憧れているのが大部屋俳優のヤス。ヤスの目から見れば銀ちゃんは決して悪人ではない、人一倍、仕事、人生に自分なりの美学を持っているだけだ。ある日、ヤスのアパートに銀ちゃんが、女優の小夏を連れて来た。彼女は銀ちゃんの子供を身ごもっていて、スキャンダルになると困るのでヤスと一緒になり、ヤスの子供として育ててくれと言うのだ。ヤスは承諾した。やがて、小夏が妊娠中毒症で入院するが、ヤスは毎日看病に通った。その間、ヤスは、撮影所で金になる危険な役をすすんで引き受けた。小夏が退院して、ヤスのアパートに戻ってみると、新品の家具と電化製品がズラリと揃っていた。だが、それとひきかえにヤスのケガが目立つようになった。それまで銀ちゃん、銀ちゃんと自主性のないヤスを腹立たしく思っていた小夏の心が、しだいに動き始めた。そして、小夏はヤスと結婚する決意をし、ヤスの郷里への挨拶もすませ、式を挙げて新居にマンションも買った。そんなある日、銀ちゃんが二人の前に現われた。小夏と別れたのも朋子という若い女に夢中になったためだが、彼女とも別れ、しかも仕事に行きづまっていて、かなり落ち込んでいるのだ。そんな銀ちゃんをヤスは「“階段落ち"をやりますから」と励ました。“階段落ち"とは、「新撰組」のクライマックスで、斬られた役者が数十メートルもの階段をころげ落ち、主役に花をもたす危険な撮影なのだ。ヤスは大部屋役者の心意気を見せて、なんとか銀ちゃんを励まそうと必死だった。“階段落ち"撮影決行の日が近づいてきた。ヤスの心に徐々に不安が広がるとともに、その表情には鬼気さえ感じるようになった。心の内を察して、小夏は精一杯つくすのだが、今のヤスには通じない。撮影の日、銀ちゃんは、いきすぎたヤスの態度に怒り、久しぶりに殴りつけた。その一発でヤスは我に帰った。撮影所の門の前で、心配で駆けつけた小夏が倒れた。“階段落ち"はヤスの一世一代の演技で終った。(goo映画より)

 物語は勿論面白いのですが、何より、セリフがいいんです。映Kamata_001 画は映画用につかさんが書き直しているのですが、小説でも笑ってしまうセリフ、例えば、銀ちゃんのあまりに派手な格好をヤスが褒めると、『オレの場合、センスがセンスしちゃってよう。』なんて言ってみたり、ヤスはヤスで小夏を養う為に火達磨になっても『オレの場合、背中に哀愁が出てるってその分ギャラが高いんです。』・・・『顔なんて写ってないくせに』と小夏につっこまれたり。

 一番印象深くて心に響いたセリフが、ヤスが階段落ちを決めてから毎晩飲んだくれていた時、小夏は『私、この生活気に入ってるのよ、何が不満なの?』と問われて、ヤスは背中を向けて『優しくされるほど、苦しいんだ、切ないんだよ。』とポツリと言った一言です。

 邪険にされることに慣れていたヤスにとっては、優しさが一番嬉しくもあり辛くもあったのだと思います。銀ちゃんも階段落ちが決まってから目をあわせてもくれない、それが淋しくて仕方がなかった・・・最後に渇を飛ばされた時、『銀ちゃんはそうでなくっちゃ!』と喜ぶ姿は長年大部屋で培ったものであり、ヤスの本当の優しさの表れだったと思います。

 小夏も小説の中では昔『二十四の瞳』のヒロインをやったほどの女優で、最後の最後まで銀ちゃんを愛していた、けれど主体性の無かったヤスのひたむきさにいつしか心がヤスへと向かう、女ってそいうとこありますよね。小夏流で言うと『どう観ても不細工な顔』でも新しい出発のため、銀ちゃんのマンションの大掃除を終え、シャワーを浴びて泣き崩れるところは小夏も辛いんだという境地につかってしまいました。

 愛することと愛されること、狭間に立って苦しむこと、尽くすことと尽くされることに慣れてしまうこと、そういうことを考えさせられる作品でした。

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2009年10月29日 (木)

私の好きな作品~『ライ麦畑でつかまえて』

 これを初めて読んだのは25歳でした。遅すぎたと後悔しました。友達がまさにこの作品に感化された生活をしていて、ちょっと憧れもあってサリンジャーを一通り読みました。異質な世界ではあったし、言葉は汚いし・・・でも未成年ならホールデンの気持ちが解るのだろうなと思ったものでした。私もいつの間にか感化されていた事は否定できません。今も人気のある小説であることは否めないでしょう。村上春樹氏が翻訳し直したことでも物議を醸し出しました。

 私は野崎氏の翻訳しかまだ読んでいないのですが、春樹氏のLichtenstein_work09s サリンジャーへの並々ならぬ思い入れが解るだけにいつか春樹氏の翻訳も読んで観たいと思っています。

 大戦後間もなくのアメリカを舞台に、主人公のホールデン・コールフィールドが3校目に当たるボーディングスクールを成績不振で退学させられたことをきっかけに寮を飛び出し、実家に帰るまでニューヨークを彷徨する3日間の話です。
 自身の落ちこぼれ意識や疎外感に苛まれる主人公が、妹に問い詰められて語った夢:自分は、広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気付かずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間になりたい・・・が作品の主題となっていると思います。このクライマックスシーンを導くために主人公の彷徨のストーリーが積み重ねられているようです。

 1945年発表の短篇「気ちがいのぼく」(原題:I'm Crazy)を敷衍した内容となっており、主人公がニューヨークを放浪して家に帰った後、いくらか月日が経過してから「君」に語りかける構造になっています。ブロークンな口語体で主観的に叙述されているため、事実とは異なると思われる表現や支離滅裂な文体が見られます。(参考文献より)

 今では、その当時の若者言葉を記録している本として、参考文献にされています。ある米映画で『お前はいつまでもホールデンだな』と茶化されているシーンがありました。どのようにこの話を参考文献にしているのかとても興味深くもあります。その独自な文体に加え、欺瞞に満ちた大人たちを非難し、制度社会を揶揄する主人公に共感する若者も多いのですから。

 しかし攻撃的な言動、アルコールやタバコの乱用、セックスに対する多数の言及、売春の描写などのため、まだピューリタン的道徳感の根強い発表当時は一部で発禁処分を受けています。若者の熱狂的な支持と体制側の規制は、アメリカの「暗部」の象徴としての役割を負うことになりました。ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンも、レーガン元大統領を狙撃したジョン・ヒンクリーも愛読していたそうです。

 全世界の若者に与えた影響は凄いもので発表以来60年近く経った今でも版を重ねています。累計発行部数は全世界で6000万部、アメリカで1500万部を超え、2003年時点でも全世界で毎年25万部が売れるといいます。2002年には野崎訳の累計発行部数が250万部を突破しました。

 単なる、世間知らずの若者が大人への通過儀礼への葛藤を描いPubne た本ではなく、主人公には何気ないものが、インチキに見えたり逆に取り留めのないことがまいったなどという主張を独断的に展開していく姿に、現代的な孤独のヒーローを感じる読者が多のでしょうね。ヒーローといっても、ケンカは弱く、スポーツもさして出来ず、成績不良な落ちこぼれなのですが、ある一貫した主義・主張がある気がするのは何故なのでしょうか。

 ホールデンは純粋で傷つきやすい人間だと感じました。頭もいいし、モラルもあります。しかし彼自身はまったく逆のことを言い、逆のことをしようとする・・・簡単に言ってしまえば、彼は理想と現実の相反するものに苛まれているのだと言う評価もあります。眼の前にある景色に割り切れない思いを感じ、それを未熟な彼は消化できないのでしょう。そういう青少年は今も確実に悩んでいるのです。だからモラトリアムという言葉も使われたのでしょう。

 また、父親も、重要な位置をさしているのかも知れません。父親は同性の先輩として、こうした自己形成の不全な子供に対し、何らかの役割を負わねばならなかったとも言えるのかもしれません。
 しかし間違いなくホールデンの父親はそうした義務を放棄しています。彼を息子を全寮制の学校に放り込み、放校になってもまた新しい学校に放り直すだけ・・・。最初の学校からドロップアウトしたとき、父は息子が何故そんな不始末をしでかしたかを考えたのでしょうか・・・もちろんそれなりの悩みはあったのかもしれません。しかし行動としては何も示してやらなかった、少なくともホールデンが感じるようなことは何もしなかったのは確かでした。仕事にばかり入れ込んで、自分を振り返ることも無い背中ばかりの遠い存在、それが父親なのだと思っていた、これは悲しいことです。誇れる父親がほしいのでしょう。ホールデンが学校という枠の中に納まりきらないのも、社会を斜めに見ているのも、既存の権威を馬鹿にするもの、ある意味父親に対する反抗もあったのではないでしょうか。
 
 でも父親だけが原因ではないと私は考えます。今の日本社会の父親は多かれ少なかれ、家族の為に奔走してる、そのために子供と向き合う時間が少ないと言う現状で子供たちがみんな現実逃避している訳ではないのですから。

 たぶん兄のD・Bという人間は、ホールデンにとっては父よりもずっと身近で、目標になるほど先を行く存在であったのだろうと思います。しかし兄はシナリオ書きとしてハリウッドに行き、たぶんその仕事があまり上手くいっていなかった・・・。そんKayama_work05s な姿を見て、彼は自分がこれから経験する挫折を予感してしまったのかもしれません。

 こうしたホールデンの心理的な混乱が象徴されているのが、タイトルになっている“The Catcher in the Rye”です。将来の目的を見出せない彼は、ライ麦畑の中で遊ぶ子供たちを、崖に落ちる危機から救う“Catcher”になりたいという意味不明な夢想を幼い妹に話して聞かせます。このとき、子供たちというのは、もちろん話し相手のフィービーも含まれますが、幼い頃の自分と、もちろん死んでしまった弟のアリーをイメージしていますね。平和で何の疑問も無かった少年時代、彼は世界が自分を受け入れない存在だとは知らなかったのだと思います。すべての子供たちが、いまの自分のように、途方も無い深みに落ちてしまわないようにしてあげたい・・私はホールデンが自分を捕まえて欲しいと願っていると思っていましたがそうではないのですね。
 またこの作品では主人公の語りの中で物語が進むのですが、今のあらすじは、あくまでもホールデンの外側に視点を据えているだけとも思えます。

 内側の視点はもっと難しい(サリンジャーを知ることが難しいように)に違いありません。私はそここまで踏み越えることが出来きたのでしょうか・・・
 『キャッチ・インザ・ライ』は読み手によっていくらでも解釈が出来、ヒーロと思う方とアンチヒーローと思う人がいて、それでいいと思います。

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2009年10月27日 (火)

私の好きな作品~『ゴッホ殺人事件』

 おなじみ高橋克彦さんの作品です。「写楽殺人事件」「北斎殺人事件」「広重殺人事件」ほか、高橋克彦氏の小説にみられる着想のあざやかさ、物語の展開の鋭さには脱帽です。「写楽殺人事件」を読んだ時は正直、今までには無かった着想だと関心させられました。
 日本とヨーロッパを舞台にした美術界の謎を中心に物語が進むこの「ゴッホ殺人事件」でもしかりです。
 
 今や世界中で知らぬ人の無い「ゴッホ」という天才画家。「ひまわり」Gohho40 「黄色い部屋」「アルルの跳ね橋」「星月夜」…彼の絵を一度も目にしたことが無い人間を探す方が困難ですよね。生前に売れた絵はたったの一枚である…という彼の絵は、今や一枚10億~15億という天文学的価格で取引されているそうです。
 
 ゴッホは、数々の恋愛事件、ゴーギャンとの諍い、耳きり事件、精神錯乱…そして自殺。また、四歳年下の弟・テオとの美しい兄弟愛で知られますね。テオは当時パリ屈指の大手画廊に勤め、兄であるフィンセント・ゴッホを経済的に援助し続けていたことでも有名です。
 ここで疑問が起こります。弟は大手画廊に勤めながら、何故、兄ゴッホの絵が売れなかったのでしょう・・・ ここも読んでいて惹きつけられる部分です。

 写楽や北斎が頭を過ぎります・・・

 この「ゴッホ殺人事件」舞台はパリ。オルセー美術館の美術修復家、由梨子はオランダ人の父を持つハーフ。ある日、母が突然自殺し隠し金庫の中からあるリストが見つかる。どうやらゴッホと関係のあるリストのようだ。オルセー美術館のゴッホ専門家のキュレーターに問い合わせると、どうやらそれはナチスが押収し、公開されていないゴッホの作品50点のリストだということが発覚する・・・

ゴッホは自殺だったのか?
50点のリストは本当にゴッホの作品なのか?
そして
これだけ愛されている画家、ゴッホの作品がなぜ生前は一枚の絵も売れなかったのか?

という美術史上で依然として謎の部分にも触れられています。このGohho3 ミステリー、どこまでがフィクションでどこまでが真実か、解らなくなくなります。とにかく読んでいて難しいけれど面白いのです。

 後半では「浮世絵シリーズ」で活躍する浮世絵専門家の塔馬も登場。シリーズ探偵である塔馬双太郎の悲しい過去の清算もファンには見逃せません。絵画をテーマとして大ベストセラーになった「ダビンチ・コード」も面白かったですが、それと同じくらいこの本も面白いと私は思いました。
 複雑なトリックなどはありませんが、「ダビンチ・コード」よりも絵そのものにこだわっていることが感慨深いですね。しかも扱っている画家はダビンチに負けず劣らず高価な値の付くゴッホです。それと、ナチスのがらみの話も興味深いのです。ナチスが押収した美術品というのは美術家の中ではそれだけで評価に値するほどの正確さがあったとのこと。

母親の死の謎を追うはずだったのが、ゴッホの未発見の絵の存在にかかわってくることで、ゴッホの生涯の謎の解明にせまることになっていく展開が面白いです。

 ゴッホの秘密めいた生涯を知りたい方には是非お勧めです。

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