書籍・雑誌

2010年5月12日 (水)

私の好きな作品たち~F・スコット・フィッツジェラルド編

 私は翻訳された作品しか知らないのですが、村上春樹氏の『ノルウェイの森』の主人公も、そして『ライ麦畑で捕まえて』の主人公もなぜか『グレート・ギャツビー』を読んでいてそれに感化された方も多いのではないでしょうか。

 春樹氏は自分が読んだだけでは飽き足らず、一昨年、御自分で翻訳してしまわれましたね。確かに訳し方で随分印象が変わるので、私の兄はこの翻訳家はいいよなんて言って洋書を読んでいましたっけ。

 私も春樹氏の影響で『グレート・ギャツビー』を読みました、が、私が読んだ頃は第2期の映画化が終わった直後で、ロバート・レッドフォード、ミア・ファローが脚光を浴びる形になりましたが、アカデミー賞衣装デザイン、編曲賞を受賞しました。監督はジャック・クレイトン氏でした。

   貧しさの中から身を起こし、裕福になったジェイ・ギャッツビーRobato_001 は、フィッツジェラルド、あるいはアメリカそのものにつきまとう、金や野心、貪欲さ、進歩主義信仰などの強迫観念を象徴しているようです。
「ギャッツビーは、緑の灯火を信じていた。お祭り騒ぎは、年々かげりを見せはじめているというのに、未来は明るいと信じていた。いざ、その時が来て、明るいはずの未来が素通りしていっても、たいした問題ではない。明日になれば今日より速く走ることができるし、
大きく手を広げることもできるから…そしてすがすがしい朝が――」
   夢の実現と崩壊を描いたこの小説は、「アメリカンドリーム」に一種の警鐘を鳴らす作品なのでした。
  この小説は、デイジー・ブキャナンに対する、ギャッツビーのかなわぬ思いを描いたラブストーリーでもあります。2人の出会いは、物語の始まる5年前。若きデイジーはケンタッキー州ルーイヴィルの伝説の美女、ギャッツビーは貧乏な将校でした。2人は恋に落ちますが、ギャッツビーが海外出征している間に、デイジーは、粗暴だが非常に裕福なトム・ブキャナンと結婚してしまうのです。
 戦争から帰ってきたギャッツビーは、なりふりかまわず、富とデイジーを追い求めることに没頭し、やがて、当初は目的にすぎなかった富が、デイジーを手に入れるための手段になっていく・・・「彼女の声は金でいっぱいだ」これは、ギャッツビーが、この小説の中で
も特に有名なシーンで発する賛辞の言葉です。

 言語が違ってしまうと醸し出す雰囲気も当たり前のように変わるものですが、村上さんの描くギャツビーは、まさしく僕のイメージのギャツビー、いえ、アメリカで学ぶフィッツジェラルドの描こうとしたギャツビーそのものなのです。
 フィッツジェラルドの著作の中では、構成力と登場人物の性格づけという意味においても最高傑作かと思います。

 1920年代は間違いなくフィッツジェラルドが最も輝いたときでした。1922年に出版された二作目の長編小説『美しく呪われし者』は未熟な部分もあった前作に比べ格段の進歩を遂げていました。そして1925年には『グレート・ギャツビー』が出版されています。

 後世、この作品によってフィッツジェラルドは、1920年代アメリカのいわゆる「ジャズ・エイジ」や「フラッパー」の象徴としてのみならず、20世紀アメリカ文学全体を代表する作家の一人として認められるようになります。しかし発表当時は、流行作家が背伸びして書いた文学寄りの作品という程度の受け取られ方で、批評家の受けは良くても、支持層であった若い読者にはあまり歓迎されず売れなかったそう。

 この世紀の名作が正しい評価を受けるのはフィッツジェラルドの死以降であり、生前には絶版になった時期Sizuka003_2 すらあるそうです。この頃フィッツジェラルドは執筆の合間をぬってヨーロッパに旅行に出かけています。パリや南仏のリヴィエラではアメリカを抜け出してきたアーネスト・ヘミングウェイらと出会っているのです。

 しかしフィッツジェラルドは1920年代の終わり頃から4つ目の長編に取りくみ始めましたが、生活費を稼ぐ為に収入のいい短編を書かざるを得ず執筆は遅滞していました。

 1929年のウォール街での株価大暴落に端を発する世界恐慌、さらには1930年には妻のゼルダが統合失調症を発症し彼の生活に暗い影が差し始めます。1932年にゼルダ夫人はボルチモアの病院に入院し、フィッツジェラルドは一人で家を借りて長編小説に取り組み始めました。この作品の主人公である、若く将来を約束された精神科医ディック・ダイバーは彼の患者であった富豪の娘ニコルと恋に落ちます。

 不安定な妻に翻弄され転落していく主人公を美しい文章で描いたこの作品は、『夜はやさし』と題して1934年に出版されました。批評家の中には『グレート・ギャッビー』でなくこの作品こそが彼の最高傑作であると考える人もいます。
 しかし恐慌下のアメリカでフィッツジェラルドは既に過去の人となっており、作品の売り上げは芳しいものではなありませんでした。絶望からしだいにはアルコールに溺れるようになっていきました。

春樹氏の場合には 彼自身がどこかで言っていましたが 翻訳、自作の短編、自作の長編、エッセイを書き分けていくことで自分のバランスを取っているとのこと。その意味でも 翻訳を抜きにして春樹氏はは語れないと思うようになりました。そんな春樹氏が始めに訳したのが『マイ・ロスト・シティー』でした。

 春樹氏の翻訳の仕事の中では カーバーの紹介が一番目立ちますが 実はフィッツジェラルドから始めたというのは案外知られていない事実ではないかと思います。最近でこそ ギャツビーを訳したことで 村上とフィッツジェラルドの関係が目立つようになりましたがついこの間までは あまりり知られていなかったのだと思います。もっとフィッツジェラルド氏の短編集なども翻訳していただきたいものです。

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2010年5月 4日 (火)

私の好きな作品たち~森絵都編

 私が初めて触れた森さんの本は、なんと『にんきものの本シリーズ』の『にんきもののひけつ』という絵本でした。それも立ち読みで・・・。

 でもその印象が強かったので普通の童話作家ではないと思い、また、ネットで調べてみました。すると直木賞をとっていることが解り、『永遠の出口』あたりから「オトナ」を意識した作品を手がけるようになり、『いつかパラソルの下で』が直木賞候補になるなど、本好きにとっては、新刊チェックがはずせない書き手の一人であることが解りました。
  
 児童文学の世界では既に数々の文学賞を受賞している人気作Jannsenn02 家の森絵都さん。一般文芸に進出したのは最近ですが、前作の『いつかパラソルの下で』は直木賞候補にもなり、話題を呼びました。

『風に舞いあがるビニールシート』は「市井でこつこつと一生懸命働く人たちをテーマに書いてみたい」ということで生まれた短篇集です。国連難民事務所に勤務している表題作の主人公・里佳は上司のエドと恋愛し、七年間の結婚生活の末、二年前に離婚。そのエドがアフガニスタンで死に、立ち直れないでいる彼女を、エドが救った難民の少女に会ったという記者が訪ねてきて……。
 我が儘なオーナーパティシエのために雑務をこなす秘書、捨て犬の世話をするボランティア、時間に追われる社会人学生、仏像に魅入られた修復師。温かなユーモアに満ち溢れた筆致で紡ぎだされるハートウォーミングでちょっぴり泣ける一冊です。

 森絵都という作家は、少なくとも今までは、いわゆる「オンナコドモ」向けの作品を多く書いてきた作家でした。でも、このことから想像されがちな「感覚派」の書き手ではない気がします。
 
 彼女は、「甘い」だとか「切ない」だとか、曖昧なニュアンスにいたずらに使うことをしませよね。そういう感覚の薄い皮膜の奥にあるもっと硬質で確かな「何か」を突き詰めていこうとする、文章も「思いつき」で書かれたものではなく、語彙の選び方ひとつとっても、かなり練られていると思うのです。辛くても辛くても苦しくても、それでも生きていくんだ。寂しくなんかないんだ。 周囲に壁をつくって一人でひきこもって過ごしていた主人公が強く、強く自分の力で生きていくようになるまでの流れがとても自然です。これは『リズム』で感じたことです。

 登場人物たちのセリフ以上に、描写によってメッセージを伝えてくれる稀有な書き手だと感じます。
 素直に読めば読むほど、スッと受け入れられると思います。

 重いテーマを軽やかに、心に染みる物語として、森さんは読者の前に差し出してみせた。ストーリーテリングの力、生き生きとした会話、丁寧な心理描写、じーんとくるエピソード。何よりも読者が、限られた情報を頼りに「真」として生きる「ぼく」と一緒に、少しずつ「真」自身を、周りの人を理解していくしかけが効いている。いろいろなことを知った「ぼく」がとりかえしのつかない「真」の人生を思って涙するのと一緒に、読者も同じ痛みを味わうことになるのだ。終盤、「自殺」を「殺人」と置き換えた「ぼく」の言葉が、説教くさくも空疎にも軽はずみにも響かず、すとんと心に収まるほどに。さて「ぼく」の再挑戦は、失われた「真」の人生は・・・
 さまざまな色合いを秘めた人たちで構成される『カラフル』な世界。その魅力的で複雑な世界を生き抜くヒントがぎっしり詰まった作品ですね。

 『つきのふね』はあの日、あんなことをしなければ…。心ならずも親友を裏切ってしまった中学生さくら。進路や万引きグループとの確執に悩む孤独な日々で、唯一の心の拠り所だった智さんも、静かに精神を病んでいき・・・。近所を騒がせる放火事件と級友の売春疑
惑。先の見えない青春の闇の中を、一筋の光を求めて疾走する少女を描く、奇跡のような長編です。

 私の好きな作品ばかり紹介しましたがまだまだあります。ふと考えさせられる作品ばかりだと思い、お勧めしようと考えました。

ちょっと苦手と言う方は物語や翻訳作品をお勧めします。ギスギスした日常から開放されることも大切ですよね。

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2010年4月17日 (土)

高嶋哲夫『イントゥルーダー』

 サントリーミステリー大賞を授与したときから読み始めたのですが、魅力的な作品を書いていらっしゃる方です。

 年々実力を発揮している高嶋さん。
 
 25年前の恋人に『あなたの息子が重症です。』こんなことを言われて動揺しない男性はいないでしょうね。
妻がいて、年頃の娘がいる、無視できぬ地位と名誉もある、そんな東証一部上場の東洋電子工業副社長にしてスーパーエンジニアの羽嶋浩司は、その日初めて自分に息子がいることを知ったのです。

 浩二の経営する東洋電子工業は現在TE2000という、完成すれば間Bekusnnsuki001 違いなく世界最高の演算速度を実現させるであろうスーパーコンピュータ開発の真っ只中で、もうすぐ完成し、プレスリリースを迎えるというところまで来ていました。東洋電子工業の最高技術責任者CTO(chief technology officer)である浩二もこの時期は文字通り寝る間もないほど多忙な日々を迎えていました。そんな中での奈津子の電話だったが一度も会ったことがないとは言え自分の息子の慎二が重体であることを聞くのです。

病院に駆けつけた浩二は、慎二が新宿区歌舞伎町でひき逃げ事件に遭ったことを知らされます。。。

 この息子の松永慎二はユニックスというソフトウェア開発会社に勤めていました。ユニックスは7年前に設立された会社で顧客管理システム、製造業関連の技術計算などのシステムを幅広く手がけており浩二も注目していた会社です。元々コンピュータ分野の資質があったのか、遺伝によるものなのかは分からないが松永慎二のコンピュータの知識は切れ者のみが集うと評判のユニックスでも一目置かれる存在でした。母子家庭に育った慎二は幼少の頃、自分の実の父が東洋電子工業の羽嶋浩二であることを知り、父を目標に日々努力し続けていました。

 深夜の新宿の路上で轢き逃げ。少なくないドラッグの影響。慎重で潔癖症な慎司には似つかわしくない最期……。
 
 羽嶋は慎司の足跡を追った。慎司のアパートを訪ね、慎司の友人を訪ね、恋人を名乗る2人の女性と知り合い、多くのことを知っていきます。

 パリのインターナショナルスクールに通い、日本に帰ってからはアメリカンスクール。羽嶋と同じ大学の同じ学部に入り、東洋電子工業を受験したこと、チェスが強く、手先が器用で模型作りが上手く、女の子にはモテたが冷たい部分もあったこと、礼儀正しくよい青年だという人も、冷酷で無慈悲な人間だという人もいた自分の息子の過去に引き込まれていく父の姿に痛々しささえ感じました。
 
 知れば知るほどにわからなくなる人間像に、父は戸惑いを隠せません。いったい、慎司とはどういう人間であったのか。
 
 原発建設を巡る汚職、暴力団、流行のドラッグ、スーパーコンピュータへのイントゥルーダー(侵入者)……慎司を取り巻く陰謀の源を追い、彼の人生を追体験する中で、羽嶋は「父親」になっていきます。一度も会うことなく死のうとしている息子のためにできることは何なのか考え始めます。事故原因を調べるうち、裏に原発建設計画の存在が浮かび上がり、彼にも魔の手が伸びてくるのです。

 巨大な組織悪に対し個人が戦いを挑むという構図。サイコパス(神経病質)全盛の時代にあって、アナクロとも言える正統な「社会派」ミステリーを世に問いたところに、この新人作家の意気が感じられます。

 そして終盤、慎二と浩二にAndei009 しか分からない息子から父へのメッセージを目にしたとき、物語に感動が生まれます。主人公とは言葉を交わさずじまいだった息子への父親としての愛情も無理なく描かれています。ドラマ化された時、『25年目の父子愛』とサブタイトルがついたのがよく解ります。
 
 高嶋さんはは原子力工学を熟知しており、現存する原発に関して事実であるかどうかは別として、工学的見地での小説としての記述に間違いは無いのでしょう。

 問題は、この小説の筋書きがフィクションとして読み過ごせるのかどうかだと思います。個人的な感想としては、小説の中に散りばめられた個々の事件は別としても、大枠の経緯や結果としての事実関係があまりにも現代の問題と酷似しており、今読み返してみると
衝撃を覚えずにはいられません。

 
 理工系の作家さんの作品はは数字で割り切れる、割りと淡々としている風に私は思っていたのが、そうではないと確信させてくださったのが高嶋さんや東野圭吾さんでした。

 『M8』、『トルーマン・レター』なども読みたい作品です。

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2010年4月 2日 (金)

藤野 千夜『夏の約束』

 女性作家が苦手な私でも芥川賞では女性作家さんの登場は避けて通れません。それがこの方男性だったのは驚きでした。そして偶然なのか1966年生まれの作家さんが多いことにも驚かされます。

 ゲイのカップルの会社員マルオと編集者ヒカル。ヒカルと幼なじみの売れない小説家菊江。男から女になったトランスセクシャルな美容師たま代……少しハズれた彼らの日常を温かい視線で描き、芥川賞を受賞した表題作に、交番に婦人警官がいない謎を追う「主婦と交番」を収録した、コミカルで心にしみる作品集『夏の約束』。

 著者のプロフィールに作品のキャラクターの重なり具合は、ホモセクJannsenn047 シャルなカップルが手を繋いで歩いている場面を小学生がはやし立てたり、トランスの美容師を話している姿を見た同僚が「あれ女性?」としつこく聞いてくるような、社会を生きていく上で波風の立つ部分もしっかりと描写されているので、全てではないにしても、「私小説」めいた部分があるのかといった所感を読んだ人に抱かせられます。

 けれども通読すれば、そういった生きる上での苦労めいた話以上に浮かび上がって来る、優しさを尊ぶ空気のようなものが感じられて、「社会派」とか「ジェンダー」とかいったカタめの単語を並べなくても、楽しめる小説だというとこが解りました。

 ホモセクシャルにトランスセクシャルといった登場人物たちの性癖にばかり注目が集まりがちなのは、本編でもそういった点がシチュエーションに絡んで来るし、作者自身のプロフィールがプロフィールだから仕方がないのでしょう。

 でもそこを抜いても人間たちの慈しみ合う関係の気持ちよさのようなものが全編に空気のように漂っていて、弱肉強食やら勝ち組負け組なんて言葉がもてはやされる、このギスギスした世の中に光明を与えてくれているような気がするのです。

 男と女という性の枠組を越えたところに生れる、若い人々の日常と夢の行方を追った作品で、摩擦に傷ついたり苛立つことはあっても、それを受け止めて生きる姿勢を自然のうちに備えているのではないでしょうか。その開かれた雰囲気が作品の風通しをよくし、一般社会に通じるものがありますね。

 作者の登場人物の関係がハマり過ぎたと言って投げたり見送ったりせず、虚心坦懐に読み、街に暮らす大人たちの優しさを欲しお互いに寄り添い生きていく様に、明日を楽し生きる方法を見つけようと思います。そんな作品でした。
 
「『夏の約束』は、一読するとあまりにも軽すぎて、これではいささか……と首をかしげそうになるのですが、このように軽妙に書ける技量の背後には、したたかな文章技術というツボを刺す長い鍼が、本人が意識するしないにかかわらず隠されているものだ。」
というのが宮本輝さんの書評でした。

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2010年3月20日 (土)

水上勉『飢餓海峡』

   私が彼を知ったのは『飢餓海峡』のテレビ化されたものでした。

 昭和二十二年九月二十日十号台風の最中、北海道岩内で質店一家三人が惨殺され、犯人は放火して姿を消します。その直後嵐となった海で、青函連絡船の惨事が起き、船客五百三十名の命が奪われました。死体収容にあたった函館警察の刑事弓坂は、引取り手のない二つの死体に疑惑を感じます。船客名簿にもないこの二死体は、どこか別の場所から流れて来たものと思えます。そして岩内警察からの事件の報告は、弓坂に確信をもたせました。

 事件の三日前朝日温泉に出かけた質屋の主人は、この日網走Minakami_001_2 を出所した強盗犯沼田八郎と木島忠吉それに札幌の犬飼多吉と名のる大男と同宿していました。
 質屋の主人が、自宅に七八万円の金を保管していたことも判明。弓坂は、犬飼多吉の住所を探しましたが該当者は見あたらず、沼田、木島の複製写真が出来るまで死体の照合は出来ませんでした。

 でも弓坂は漁師から面白い話を聞きます。消防団と名のる大男が、連絡船の死体をひきあげるため、船を借りていったというのです。
 弓坂は、直ちに犬飼が渡ったと見られる青森県下北半島に行き、そこで船を焼いた痕跡を発見。犬飼が上陸したことはまちがいなく、その頃、杉戸八重は貧しい家庭を支えるために芸者になっていたが、一夜を共にした犬飼は、八重に3万4千円の金を手渡し去っていきます。八重はその恩人への感謝に、自分の切ってやった爪を肌身につけて持ってました。女心ですね。
 

 そんな時、八重の前に犬飼の件で弓坂が現われましたが、八重は犬飼をかばって何も話しませんでした。八重は借金を返済すると東京へ発ち、一方写真鑑定の結果死体は沼田、木島であり二人は、事件後逃亡中、金の奪い合いから犬飼に殺害されたと推定されました。その犬飼を知っているのは八重だけ。
 

 弓坂の労もむなしく終戦直後の混乱で女は発見出来なかったのです。それから10年、八重は舞鶴で心中死体となって発見されます。でもこれは偽装殺人とみなさます。東舞鶴警察の味村刑事は女の懐中から舞鶴の澱紛工場主樽見京一郎が、刑余更生事業資金に3千万寄贈したという新聞の切り抜きを発見。八重の父に会った味村は、10年前八重が弓坂の追求を受けたと聞き、北海道に飛び、樽見が犬飼であるという確証は、彼が刑余者更生に寄附したことでした。弓坂と味村は舞鶴に帰ると、樽見を責めましたが、しらをきる樽見の大罪は、八重が純愛の記念に残した犬飼の爪と、3万4千円を包んだ、岩内事件の古新聞から崩れていいきました。

 「飢餓海峡 それは日本のどこにも見られる海峡である。その底流に我々は貧しい善意に満ちた人間のどろどろした愛と憎しみの執念を見る事が出来る」・・・沁みる言葉です。

 飢餓が犯罪を生み出すのではなく、飢餓そのものが犯罪なのであると言います。八重にとって小学校を出て直ぐに娼妓として花家に売られ、まともな恋愛を一つもしていなかった彼女にとって、外出先で知り合い、心の交流が出来たこの多吉という男は特別な存在だったのでしょう。

 多吉、八重、弓坂という人間が、飢餓が生み出した善良な部分でなら、この作品で飢餓が生み出した悪徳の部分は、津軽海峡で死んだ二人の殺人犯でしょう。独り占めを目論み共食いし合Aoki003った2人ですが、これこそ飢餓が生み出す人間不信であると言えるのではないかと思います。そして、手に入るものなら何でも手に入れろ!という姿勢がありました。

 この作品の素晴ら しいところは、そういった飢餓の中でさえも善良な意思、「優しさ」を持った主人公でさえも殺人を犯してしまうという怖さを描ききった所にあると思います。

 自分の幸せと他人の幸せを両立する多吉と、自己犠牲の中で幸せを放棄して、ただひたすら多吉の事を思いながら生き続ける八重との違い。そう2人の間には、もはや渡り様のない海峡が存在していたのだとと思います。一方は、それを知っており、一方はそれを知らなかった・・・ここから悲劇は起こるといってもか過言では無いでしょう。

「誠に悲しいことです。お互いに人間と人間が信頼し合えないなんて・・・あんたは八重さんさえも信じなかった」
「樽見さん。あんたが歩んできた道には草も木も生えんのですか?」

 青函連絡船に乗り、津軽海峡上で恐山を前にして、般若心経を唱える弓坂。そして、樽見は花を海に投げるフリをして、投身自殺するのです。
 その時の樽見の気持ちを考えると、非難したことが後悔されます、そしてどんな思いで死んでいったのか、私などには想像出来ない葛藤があったのだと思います。
 漆黒の海原が波打ち、闇となり、樽見の殺人の罪をも呑み込んでいく・・・この余韻が私にさまざまな思いを去来させるように・・・

 まだまだ読みたい作品は沢山あり、作者の人柄も好きになりました。そういえば、男性で水上ファンと言う人がいました。一番好きだと言っていた意味が解るような気がします。

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2010年3月16日 (火)

野坂昭如『火垂るの墓』

 作家、歌手、作詞家、元参議院議員と多彩な顔をもつ野坂氏。 『火垂るの墓』は野坂昭如氏の実体験が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含む小説です.。

 1945年9月21日、清太は省線三ノ宮駅構内で衰弱死します。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には節子の小さな骨片が入ったいました。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。。。

  太平洋戦争末期、兵庫県御影町現在の神戸市東灘区Monet07)に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の未亡人である西宮市の親戚の家に身を寄せることになります。

 当初は共同生活はうまくいっていましたが、戦争が進むにつれて争いが絶えなくなります。2人の兄妹は家を出ることを決心し、近くの池のほとりにある防空壕の中で暮らし始めますが、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていくのです。当時の様子がうかがえます。清太は、畑から野菜を盗んだり、空襲で無人の人家から物を盗んだりしながら生き延びます。やがて日本が降伏し戦争は終ります。敗戦を知った清太は、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受けます。もはや親というものが存在しないと言う現実を突きつけられ、一体どれ程心細かったか、幼い兄妹は泣く涙さえ枯渇してしまっていたことでしょう。 

 節子の状態はさらに悪化し、清太は銀行から貯金を下ろして食料の調達に走りますが、既に手遅れで、幼い妹は終戦の7日後に短い生涯を閉じました。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を後にして去っていきますが、彼もまた栄養失調に冒されており、身寄りもなく駅に寝起きする戦災孤児の一人として逝去しました。悲しすぎます。

 6月5日の神戸大空襲により自宅や家族を失ったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出などはすべて作者の経験に基づくものらしいです。   

 また野坂氏は戦中から戦後にかけて二人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、 血の繋がりはないのですが)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実だそうです。 野坂氏は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒をみなくてはならHaruoinoueなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたと認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったといいます。これを知った時、自分ひとりで精一杯な時、周りが疎ましく思える心の余裕の無さを感じずにはいられませんでした。

西宮から福井に移り、 さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死していたそうです。

 こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めてこの作品を著したと言われています。 その意味では二人を冷たく突き放した親戚の小母もまた、自分が生き抜くことだけで精一杯で妹を死なせてしまったという野坂自身の悔恨が投影された姿であると言えるのかもしれません。

 私はこれを単に自伝的といってすまされない、当時の情景を思い浮かべてしまいます。誰もがもがそういう苦しい体験をしてきたのだと思うからです。ただ言葉に出来ないで苦しんでいる方々にとって、この小説はやはり何かを投影したものなのでしょう。

 私はこの作品に出会うまで変な歌を歌う変な人なんて思っていました。こういう作品がこれからずっと忘れられないで残って欲しいと切に願う私です。

 『火垂るの墓』は必見の価値ありです。

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2010年3月12日 (金)

『海辺の光景』

 安岡章太郎氏のこの作品は昭和三十四年に発表された中篇で、著者の代表作の一つに数えられています。

 この中篇は、母が危篤であるとの知らせを受け取った主人公である信太郎が、母親の入院する海辺の病院へと到着してから、彼女が亡くなるまで九日間を描いた作品です。

 作者の安岡氏は作中の主人公同様、高知県出身であり、昭和三十二年に高知の病院で母親を亡くしていることからも、彼は多分に自己の体験を投影しByakuyakou てこの小説を書いたものだと思われます。安岡氏は幾つかの短編で落ちこぼれの息子とその母親との関係を描いていますが、この『海辺の光景』は母子の関係を描いた一連の小説の総決算とも言えるでしょう。

 今回読むと、主人公の母に対する罪悪感の象徴に思えます。落ちこぼれの自分への嫌悪、母の期待にそえなかったことが主人公を追い詰めいていきます。

 或る精神科医が「概して子供の神経症は父親が原因、統合失調症は母親が原因。」と述べています。

 『海辺の光景』という題名が示すとおり、海の情景描写がこの小説では重要な役割を果たしていました。しかし、情景描写は冒頭と最後の部分を除いて、小説内には多くは現れてきません。9日間の出来事は病院内を舞台としており、その閉鎖的な環境が、母の死を前にした信太郎を追い詰めていくことになるのです。

「海は相変わらず、絵のような景色をひらいていた。波はおどろくほど静かで、正面に小さな丸い島が黒い影になって浮かんでおり、右手には岬がなだらかに女の腕のような線を描いてのびている。そして左手には桟橋の燈がキラキラとまたたくのである。
それはまったく景色という概念をそっくり具体化したような景色だった。ほかには何ものも入り込む余地はなかった。一度見てしまうと、もはや眺めているということさえも出来ないものだった。」
 
 ここで窓のまわりにただよう灰白いものがこれから訪れ、母の死を連想させます。これまで母を見舞っていた伯母はバスでY村へと帰ってしまい、母の前にいる親族は信太郎と父の2人となります。

 母親は明らかに末期であり、その状態は「もはや人間的なものを全身から完全に剥ぎとられてしまっていた」と描写されています。

 伯母が再び病院に戻って来た後、看護人が母親に液体状の食事を与えている最中に、母親はついに息をひきとりました。医者は11時59分という時間を淡々とカルテに書き移していきます・・・・

 この母親の死の後、信太郎は病院の外に、9日ぶりに出、これまで風景として見てきた外部の自然に、信太郎は足を踏み出します。
 そして、顔を上げると、今まで風景としてみてきた海辺の光景が目の前に飛び込んでくるのです。
 
「岬に抱かれ、ポッカリと童話風の島を浮かべたその風景は、すHigashiyama_work25s でに見慣れたものだった。が、いま彼が足をとめたのは、波もない湖水よりもなだらかな海面に、幾百本ともしれぬくいが黒ぐろと、見わたすかぎり眼の前いっぱいに突き立っていたからだ。……一瞬、すべての風物は動きを止めた。頭上に照りかがやいていた日は黄色いまだらなシミを、あちこちになすりつけているだけだった。風は落ちて、潮の香りは消え失せ、あらゆるものが、いま海底から浮かび上がった異様な光景の前に一挙に干上がって見えた。歯を立てた櫛のような、墓標のような、くいの列をながめながら彼は、たしかに一つの”死”が自分の手の中に捉えられたのをみた。」

 印象深い終わり方だと思います。信太郎の前の海の光景は、彼に対して圧倒的なものとして襲ってきます。かつての「絵のような」といった抽象的な描写とは対照的に、ここでの海は信太郎の身体に迫ってくるものとして描かれています。

この情景の中で、信太郎は今まで実感の湧かなかった母親の死を、確かに手の中に感じ取っているように思いました。肉親との別離は辛いですが、そのとき後悔しないでいられるか、やれるだけのことをやったかは人それぞれで何ともいえないと思います。

 でも後悔する人のほうが圧倒的に多いような気がします。肉親の死くらい辛いものは無いと私も思うのです。後悔しないで親を見送るなんて絶対不可能です。親を超えたつもりでも超えられない血が流れているのではないでしょうか。
 本当に優れた作品です。
 

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2010年2月26日 (金)

藤田宜永『愛の領分』

 夫人はあの小池真理子女史。実は知りませんでした。初期はフランスを舞台にしたフィルム・ノワールを思わせるような犯罪小説や冒険小説を手がけ、その後、主に推理小説および恋愛小説を執筆するようになり、都会的なセンスと人情の機微を描く優れた心理描写で、熟年の愛を描いた『愛の領分』にて第125回直木賞を受賞しました。

 妻に先立たれた仕立屋の淳蔵は、かつての親友高瀬に招かれ「長く患っている妻に会いに来て欲しい」といわれ、高瀬のそのコトバに淳蔵は戸惑いを覚えながらも時間の流れを感じるのです。そして淳蔵が高瀬夫妻に会うために故郷である町Kaii23 を訪ねる事で新たな歯車が動きだします。佳世と出会った淳蔵は年齢差を超えて惹かれますが、過去の事実が二人の恋情をより秘密めいたものにしていくのだったという『愛の領分』。
 

  昔自分を捨てた女は様変わりし、自分を愛した男の記憶だけを頼りに生きていた・・・その醜悪にもみえる高瀬の妻の言動、そして運命の悪戯のように、昔の知り合いの娘である佳世との出会い心を惹かれてしまう・・・妻を亡くした男と男に自殺された過去を持つ女。 
 歳を重ね愛する重さを経験すればするほど、人は臆病になっていく・・・不倫でもないのに秘密の匂いがする、と宣伝文に評されるように藤田氏の書く愛は、奥に潜むこもった体の熱や汗を感じさせます。

 『どんなに立派なものでも、着物に合わない帯がある。帯に合わない着物がある。(中略) そんなふたりを結びつかせてしまったのは、俺だけど、やっぱり、愛にも領分があるって思うんだ』

 この言葉に私はとても惹きつけられました。

  一人息子を育てながら静かに仕立て屋を営む男、友人、その妻でかつての不倫相手、そして友人の元愛人の若い絵描きの女。この4人の愛憎を細かに 綴った作品です。住む世界が違うとか、考え方が違うとか、そういうのではなく、男と女には「愛の領分」があるということを教えてくれた気がします。
 
 紳士服の仕立てという孤独な仕事が丁寧に描かれています。職人気質の登場人物は藤田氏の作品に多く登場しますよね。かつての恋愛相手が病気になり、すさんでいく姿は読んでいて酷な感じがしました。でもこれは「大人の恋の物語」であると同時に「老い」に差し掛かるときの冷静と情熱の狭間で揺れる人たちを良く捕えていると思いました。中年男の静かな情念の描き方は凄いと思います。

 過去の傷も、燃える思いも、晩年を迎えつつある人生の感慨も、静謐な日常の中に閉じこめるだけの抑制があり、大人の恋愛小説として久々にいいと思った作品です。信州の上田が舞台です。塩田平、別所温泉、前山寺等々、「信州の鎌倉」と称される詩情豊かなこの上田の地で、中年男女の密やかな恋が描かれています。

 この時間の長さからYukuaki 推し量ることができるように、淳蔵にとってかの地は不幸な思い出をもった場所でしたが、そこで画家の佳世との中学生の時以来となる出会いをきっかけに、物語が動き出します。お互いに秘密を抱えながらの不安定な交際。静かに燃える二人の姿は、落ち着いたたたずまいのこの町と見事に調和していました。

 作家の渡辺淳一が直木賞の受賞に際して『文章につやが増してきた。久々に正統な恋愛小説家が現れた』と評したと言われています。

 孤独な日々を送る男と女が偶然出会う。25年ぶりの再会が、お互いの危うい過去を明らかにしていきます。許すこと、忘れること・・・登場人物たちの苦悩と官能が、軽井沢の美しい自然を背景に繰り広げれます。大人の愛情模様を描いたものなのに老いていくことも辛さのほうが前面に出てしまって辛くなってしまう場面も多々ありました。

 長い時間の流れの中に横たわる深い男と女の情愛や嫉妬を,丁寧な構成と柔らかい言葉、そして時に情熱的に描かれてる、これは妻の小池さんの影響もあるのかと考えさせられました。

 自身の小説について、『女性の描き方が現実的で、女の人に対する ファンタジーがない』と自己分析する藤田氏ですが、『愛の領分』は何よりも淳蔵という得恋の五十男がとてもとく書かれていると思います。

 独特の世界に生きる人間ならではの、価値観、喪失感、切れ味の良い決断が小気味良く伝わってきました。青春を通り過ぎたものだけが知る愛の哀しみを描く作品だと思います。

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2010年2月22日 (月)

松浦寿輝『花腐し』

『花腐し』が芥川賞受賞作の松浦氏。

 書のタイトルにもなっている『花腐し』とは、万葉集の和歌である「春されば卯の花腐し・・・」からとったもの。せっかく咲いたきれいな花をも腐らせてしまう、じっとりと降りしきる雨のことを表現しているといいいます。そして、その和歌が示しているように、本書の中には多くの水のイメージ・・・というよりも、絡みつくような湿ったイメージと、そこから湧き上がる腐敗のイメージがあります。

 同棲した祥子の死から10数年、栩谷は、友人と作ったデザイン事Shagaru018 務所が行き詰まって倒産に追い込まれ、礼金ほしさに、多国籍な街、新宿・大久保のアパートで一人頑張っている伊関の立ち退き交渉に行きますが、したたかな伊関に誘われてビールを飲みながらついつい話し込むことになってしまいます。部屋には少女が眠っていて、伊関は幻覚作用のあるキノコを売っているらしいのです。。キノコの腐臭に酔った栩谷は、少女と交わり、祥子に似た姿を見かけるのです。生死の境が溶けていくような妖しさを、男の現在と過去とを重ね合わせ、その精神の彷徨の一夜を雨の中に描いた、古風で知的な文体の小説です。

 祥子との関係について、栩谷は次のように言います。「そうか、とだけ呟いて黙ってしまった俺の冷たさに祥子はきっとひどく傷ついたのだ。あの『そうか』、一つをきっかけに俺たちの関係は腐りはじめたのだ。腐って、腐って、そして祥子は死んで、俺の方もとうとうこんなどんづまりまで来てしまったということなのだ」。

「40代も後半に差し掛かって、多かれ少なかれ腐りかけていない男なんているものか。とにかく俺の会社は腐ったね。すっかり腐っちまった」と言うと、伊関が「卯の花腐し・・・」と呟きます。「春されば卯の花腐し・・・って、万葉集にさ」と言います。

「卯の花腐し」は、陰々と降り続いてウツギの花を腐らせてしまう雨のことを言うそうです。卯の花月、すなわち陰暦4月の季語です。あたりの腐臭を立ちこめさせる「卯の花腐し」には、ひたすら陰気な鬱陶しさしかありません。今の日本にはそうした雨がじくじくと降り続いているように思われると、松浦寿輝は言います。確かに「花腐し」は、廃屋寸前の木造家屋やら、蒼い光の中で栽培されるキノコやら、幽で甘い時代の腐臭に覆われています。

腐るという感覚の中に、この主人公の過去の風景が混濁していく。それは、同棲相手の女性とのささいな思い出であったり、幼い日の心象風景であったりと、正に詩人的な感覚で語られています。

 著者は、現役の東大大学院総合文化研究科教授でもあり、古井由吉選考委員は、「東大も変質した、東大教授になっても、やっぱり往生できないんでしょう。」と、冗談交じりに話したそうです。

 本書の中では、常に雨が降りつづいています。伊関という陰気な男が居座っている古びたアパート、春をひさぐ女たち、近代的な高層ビルや、その影の中にひっそりとたたずむ繁華街、そこに渦巻くさまざまな人間の情念、そして栩谷という名の、くたびれた中年男そのもの・・・
  そのすべてを腐らせようとするかのように、そこにあるのは徹底した負のイメージ、けっして何ものも生み出Sag21 すことのない、自然からかけ離れた世界のイメージですが、面白いことに、人工物によって築かれた世界のなかで、ただひとつ、降りしきる雨のみが自然の産物なのですね。

 言葉を発明し、自分たちの文明を発展させていった人類は、実に様々なものをつくり出し、そのことによって豊かな社会を築いてきたと信じてますが、私たちが生み出したものは、何も目に見えるものばかりではなく、目に見えないもの、実体のないもの・・・たとえば時間、感情、意識や無意識、心といったものにもわざわざ名前をつけ、あたかもそういったものが存在するかのように思い込んでいるのかもしれ無いと思いました。

 立ち退きを迫る栩谷をアパートの中に招き入れた伊関は、そうした人間が名付けたものたものを『怪異なお化け』と呼んでいます。私たち人間が生み出したものに、いったい如何程の価値があるのかと問うている気がします。

 私たちは自然によって生み出されたものを真似て、造花をつくり、犬や猫そっくりのロボットペットをつくることはできるようになりましたが、それらは結局ところ、本物を超えることのできないのだと。

たったひとつ、私たちが生み出すことのできる生命の奇跡・・・自分たSag19 ちの分身でもある子供は、しかしこの日本においては徐々に出生率が減少しており、それ以前に行なわれる性の営みさえ、人間は古くからひとつの商品、娯楽として切り売りすることを暗黙に了解しているのではないでしょうか。

 自然の中で生きることを拒否し、経済という目に見えない約束事、亡霊のような存在にがんじがらめにされてしまった私たちの姿は、たしかに伊関が言うとおり、すでに亡霊の仲間入りを果たしてしまった存在なのかもしれません。

 本書に治められているもうひとつの作品『ひたひたと』は、その亡霊の存在をより前面に押し出したもので、時間の概念から解放された人の記憶の残留・・・澱のように沈殿している影の部分がさまざまに変化しながら、何者でもないものとして物語を語る、という構成になっているようです。

 澱・・・私にとっても永遠のテーマです。いつまでも澱の中にいてはいけない、澱の中から今私達がすべき事・・・澱のなかではなく川の様に流れ、水の中でころがることが必要なのではないのか・・・

『転がる石にはコケはつかない』そんなことを考えました。

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2010年2月17日 (水)

善と悪『決壊』

 恐ろしいほどにタイムリーだった小説・平野啓一郎さんの『決壊』。
私達は、秋葉原で起きた連続殺傷事件・・・一種の「無差別テロ」に戦慄しました。
このような事件がなぜ起きたのか、なぜ起こりえたのかに当惑し、恐怖したこと覚えています。

 長編小説『決壊』は、この秋葉原の事件を彷彿とさせるような、あるいは秋葉原の事件を予見するような連続殺人事件を描いています。
 
『決壊』の主人公の沢野崇は、国会図書館に勤める、有能で知的なPikaso001 調査員です。独身ですが、女性にはよくもてて、何人も恋人がいたりします。2002年10月、京都の三条大橋で、バラバラ遺体の一部が、犯行声明付きで発見され、やがて、その遺体が、沢野の弟で会社員の良介のものであることが明らかになります。良介が、殺害される直前に崇と会っていたこと、良介の妻佳枝が、良介が密かに作っていたブログにたびたびアクセスし、コメントとっていた人物を義兄の崇ではないかと考えていたこと等が原因となって、警察は、崇を犯人だとほぼ断定するのですが・・・
 
 事件は、日本各地で次々と起き、それどころか海外にまで飛び火した、連続殺人へと発展します。崇への疑いは、11月に実行犯の中学生北崎友哉が逮捕されたことで、晴れることになるのですが、事件の拡大は止まりません。クリスマスイブには、お台場のフジテレビと渋谷で連続的に爆破テロまでが起きて・・・
 
 この小説と「現実」との意図した、あるいは意図せざるをえない、数々の共鳴には驚かざるを得ません。たとえば、良介殺害の実行犯友哉は、「孤独な殺人者の夢想」なるブログを開設していますが、それは、秋葉原事件の加藤智大容疑者によるネットの掲示板への大量書き込みを連想させます。無論、友哉が中学生であるのは、酒鬼薔薇聖斗(を始めとする少年殺人犯)を意識してのことでしょう。
 
 無差別的なテロや殺人の正当性を哲学的に語る「悪魔」と名乗る人物が登場しますが、彼の主張は、加藤智大容疑者の「世界そのものへの怨恨」や、オウムの「ポア」の思想に通じています。秋葉原事件に関して、ターゲットとなった「秋葉原」という場所の象徴的な中心性を考慮に入れざるをえないのですが、『決壊』のテロの標的となっているお台場や渋谷は、秋葉原と表裏関係にあるような、東京のあるいは日本の中心ではないのでしょうか。

 『決壊』が「現実」とのこうした共鳴を通じて格闘しているのは、「悪」の存在をどのように解釈し、それにどう対処すればよいのかという問題提起にあると思います。 
そして、責任能力や精神病の問題から警察の取調べの問題まで現代日本で騒がれる犯罪関係、法律関係のあらゆる問題が本作内には凝縮され扱われているとも言えるでしょう。
 
 もし「人を殺してはならない」という規範に代表されるような普遍的な「善」が存在するとすれば、連続無差別殺人や無差別テロのような極端な悪が、どうして可能なのか? 異常ではないように見える普通の人が、どうしてこれほどに極端な悪を犯すことができるのでしょうか。悪とは、善とは、と、こんなことが覆される世の中に絶望したくもなります。

でも、人は一人で生きているのではないし、関係性の中でしか私たちは生きられないと思うのです。そして今更ながらに、人はそれを自覚しなければならないのだといことが、一番私に伝わってきたことなのです。そうすることで人は自らの裡にある「悪」を殺すことが出来るのではないかと。

 主人公をとりまくPicaso6 日常を描写した幕開けから既に不穏な雰囲気 。どんな事件が起きているという訳でもないのに、登場人物たちが生活の中で感じている不安は、読者である我々が今現在抱えているもやもやしたものと同様であり、その分析力やおよび筆力に脱帽します。

 携帯やネット問題、雇用や生活不安、教育、政治等現代社会が抱える負の要素をうまく一人一人に背負わせて交互に語らせる展開は、スリリングで、つい熱が入ってしまいました。
 
 特に、絶対に好きになれないだろうエリート公務員でモテモテの「崇」は作者の代弁者のようです。論理の肥大化した「悪魔」と徐々に複数の事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起してきて同一人物か?と思わせるミステリー要素も抜群だと思います。

10年の時を経てこのような作品を書けるようになるとは、さすがに芥川賞を23歳で取っただけの価値を持っている作家さんだったのですね。

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