私の好きな音楽家~リヒャルト・ワーグナー
御多分に漏れず、中学校の音楽の時間に学んだワーグナー。今でも聞きますね、いいのもはいいです。交響曲 ハ長調は、特に印象的で、ワーグナーは死の直前の1882年12月24日にヴェネツィアのフェニーチェ劇場で行われた妻コージマの誕生日を祝う演奏会においてこの曲を指揮しているそうです。
幼児から音楽に親しみ、特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受けました。ウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人で、生涯敬意を払った数少ない人物でした。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志しました。
それと同時に劇作にも関心を持ち、のちに彼独自の芸術を生み出す原動力となりました。10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められていました。時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲しました。
1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となりました。その後指揮者に飽き足
らず歌劇作曲家を目指したが芽が出ず、貧困と借金に苦しみました。1836年女優のミンナ・プラーナーと結婚し、彼女とはのちに次第に不和となりました。このころ「恋愛禁制」を作曲し、ケーニヒスベルクやリガで劇場指揮者をしながら転々としました。
1839年パリに移りましたが相変わらず貧しかったそうです。このパリ時代には小説『ベートーヴェン詣で』、『パリ客死』を書き、またのちに有名となる歌劇『最後の護民官リエンツィ』、『さまよえるオランダ人』を書いています。しかし、パリでワーグナーが認められることはなく、ワーグナーはフランスに悪印象を抱くようになりました。ドイツ人の音楽家は受け入れられなかったということなのでしょうか・・
失意の内、1842年ドイツに帰り、ドレスデンで上記2歌劇を上演してようやく注目されました。翌年ザクセン王国宮廷劇場指揮者に任命されました。1844年にはイギリスで客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当。葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、多才を発揮しました。1845年には『タンホイザー』、1848年には『ローエングリン』を作曲し、好評を博しました。
『歌劇ローエングリン』より「婚礼の合唱」は今や結婚式には欠かせない曲ですね、そう、これはワーグナーの曲なのです。
彼独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げました。例えば、匿名で『音楽におけるユダヤ性』を書いて、メンデルスゾーンやマイアベーアらを金銭づくのユダヤ人だから真の芸術創造はできないとして非難し、この反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことと相まって、はるか後にナチスに利用されることとなりました。しかし、彼のユダヤ人嫌いは一貫したものではなく、晩年にユダヤ人の指揮者を起用したり、親交もありました。超大作『ニーベルングの指環』を書き始め、また『トリスタンとイゾルデ』を1859年に完成しました。
1860年からはヨーロッパを演奏旅行します。このときリストの娘で指揮者ビューローの妻コジマと恋愛関係になります。
経済的困窮は極まるばかりでしたが、 64年バイエルン国王ルートヴィヒ2世の強力な援助を受け、作曲に没頭します。 70年にはコジマと正式に結婚し、その後自作上演のためのバイロイト祝祭劇場を建て、念願の「ニーベルングの指輪」四部作などを上演していきました。
その後「パルジファル」 を完成してバイロイトで初演しますが、翌年83年2月13日、ヴェネツィアにおいて心臓発作に襲われ息を引き取りました。
ワーグナーの芸術は、作品の規模の大きさばかりでなく、土台となっている知識の広さによっても特徴づけられます。彼は自分で舞台作品の台本を書きましたが、そこでは一般にいわれるゲルマン神話ばかりでなく、ギリシア神話をはじめとして、シェークスピア劇などありとあらゆる世界文学が下敷きとなっています。
そうした台本がそのまま作曲上の試みとして音楽に移し変えられているところに彼の作品の特徴があるといえます。
動画の音楽は一番有名で私も大好きな『ワルキューレの騎行』です。
ワルキューレは神々の長であるヴォータンが知の女神エルダに生ませた9人の女神です。その役割は世界中の戦場におもむき、地上の英雄を探し出してつれてくるという役割。天翔ける天馬に乗ってワルキューレが集まってくるのですが、イメージでは空のあちこちを自在に飛び回る馬に乗ったワルキューレたち、その馬には世界の英雄が
同乗してものすごいスピードで攻め寄せてくる、そういうイメージで聞いてみて下さい。
当時のドイツに生まれていなければ、彼はもっと違った人生があったのかも・・・と考えてしまいます。
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