音楽

2009年11月 3日 (火)

私の大好きな音楽家~フランツ・リスト

 私は中学時代にどれ程偉大な音楽家の演奏をレコードで聴いたことか、数え切れません。成長期においてクラッシックを聴くことは、その後の人生においてとても必要不可欠になりました。

 バロック期の音楽は繊細でかつのびやかなところが好きですが、モーツアルトやベートーベンとまた違った色合いのリストの曲は、聴くたびゾクゾクさせられます。僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えたほどで、もう老体になったベートーベンも絶賛したほど、有名な曲を残しています。

 奏技術に関しては、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、彼の死後100年以上経っている現在においても、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないと言われています。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていたそうです。それはオーバーな表現としても、幼少時から指を伸ばす練習をし、10度の音程も軽々と押さえられたとされます。彼の曲には両手を広げての4オクターブの音が多用されました。また速いパッセージでも音数の多い和音を多用しました。

 リストの演奏を聴いた人々の文献によれば、繊細ながら非常にRisut001 情熱的で力強い演奏をしていたとされ、演奏中に弦が切れたり、ピアノのハンマーが壊れることが度々あったといいます。そのため、最初から3台のピアノを用意して演奏をしたこともありました。1台が壊れたら次のピアノに移って演奏、といった形で・・・凄すぎません?また、リストは即興に重点を置いていたため、楽譜はおろか鍵盤すら見ずに、絶えず生み出されるピアノの音に耳を傾けて演奏をしていたと言われているものファンを熱狂させた要因であると思います。

 作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年~1850年頃)、ヴァイマル時代(1850年頃~1860年頃)、晩年(1860年頃~没年)と3つに分けられます。

 ピアニスト時代は、オペラのパラフレーズなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いいたそうです。このころの作品は、現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多くありました。ジャズの即興ピアノに近いかもしれませんね。

 ヴァイマル時代は、ピアニストとしての第一線を退きましたが、作曲家としてはもっとも活躍した時代。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られているといえます。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高く、過去に作った作品を大規模に改訂することも多かったそうです。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されています。「ピアノ・リサイタル」という形式はリストによって完成しました。

 晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になります。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増えました。特に1880年以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていきます。最終的に彼は1885年に『無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽(全音階的でない)を完成させました。

 私が初めて聴いた曲は『ハンガリー狂詩曲第2番ヘ短調』で、音楽の教科書に載っている少し神経質そうな顔をした写真と共に怖いイメージがありました。

『愛の夢』(2曲目)、『3つの夜想曲』なども素晴らしく、このような題名は交響詩といって、リストが標題音楽に交響詩というジャンルを確立したものです。『ラ・カンパネッラ』(今お聴きの曲です)で有名な『パガニーニ大練習曲』はパガニーニの原曲によりながらも独創性の強い作品なので、通常は編曲とは看做さずオリジナル作品に分類されました。

 しかしリストは同時期のショパンやワーグナー、ベルリオーズに比べ、かなり低い評価しかされていません。もともと、ショパンとは全く違うタイプで比較するほうがおかしいのですが、「交響詩」という形で実が結び、後のスメタナやドビュッシー、リヒャルト・シュトラウス、レスピーギ、シベリウスなどによって受け継がれ、多くの傑作が生まれた事も事実で、そこは高く評価されていいと思います。

 彼の曲は決して癒しを求めるものではないけれども、何かに必死に取り組む姿を連想させ、ピアニストなら誰もがその巧みな業を披露したくなるのではないかと思います。

 ここでは辻井伸行さんとフジ子・ヘミングさんの演奏でお楽しみ下さい。

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2009年10月25日 (日)

風景の中の私~松任谷由美

 悲しい時には元気を、嬉しい時には優しさをいつも音楽で教えてくれたユーミン。男性はいつまでも少年のような心を持った人が好きだと言われますが、女性だっていくつになっても少女のような心があるのだと思います。そう思わせてくれるのがユーミンでした。荒井由美の時代から『ひこうき雲』『ベルベットイースター』『魔法の鏡』などどれも思い入れの大きな曲ばかりで、自分の淡い恋心を歌に重ねていたあの頃・・・

 ヒットが続き、荒井由美と言う名が浸透してきたにも関わらず、松任谷正隆氏と結婚し松任谷性にあっさり変ったことも驚きました。
 新婚当時は歌もなんだかお惚気っぽかったことがありましたが、そこはユーミン、ちゃんと起動修正し、ユーミンらしいものへと戻ったように思いました。『帰愁』『翳りある部屋』『あの日の帰りたい』・・・青春の後姿を人は皆忘れてしまう・・・曲も素晴らしいですが、詩も私にはかけがいの無い宝物のようです。

 いくつになってもバービー人形のようスタイルを保ちたいとユーミンは常に努力の人でもあります。

 よく中島みゆきさんと比較されますが、比較するのはおかしいと思いませんか?全く違った良さがお二人ともあるのですから。好き嫌いはあるかもしれませんが、1980年代から活躍しているのです、お二人とも50代になっても全く衰えることを知らない、いえ、衰える隙が無いのだと思います。小田和正さんも、稲垣潤一さんも努力して今に至っていると思うのです。

 私は50代になっても頑張ってるミュージシャンを絶賛したいのです。勇気をもらえるのです。

 中島みゆきさんの歌は詩に考えさせられる事が多く、ただ聞き流すには勿体無い歌が多いですよね。その点、ユーミンの歌は聞いていて風景を思い浮かべ等身大の自分をその風景の中に置くことで物語の主人公になったような気にさせてくれます。青春のいろんな思い
が蘇ってきて、今の摺れてしまった自分を反省することもできます。

 何はともあれ、聞きいていて耳障りでないのが音を楽しむ上で重要だと考えます。夢を与えてくれるのも音楽のいいところですよね。

一時期は聴きすぎて少し飽食状態になったことがありますが、最近、またとても聞きたくてメディアプレーヤーでいろんな他の人の曲とシャッフルして聞いているのでした。

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2009年8月28日 (金)

私の好きな音楽家~ヨーヨー・マ

 バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番から前奏曲 ヨーヨー・マ

 例のごとく兄に勧められて聞いたヨーヨー・マ。何故こんなに癒されるのか不思議な気持ちに陥ったことを思い出します。  

 1976年に、ハーバード大学を卒業、人類学の学位を取得。ジュYoyoma001 リアード音楽院でレナード・ローズと共に学んでましたが、教師に「君に教えることはもう何もない」といわれ、コロンビア大学を経てハーバード大学に入学したという逸話があります。それでも1970年代にパブロ・カザルスの偉大さに触れるまではまだ学習を続けるべきか否かを迷っていたといいます。

 1983年にバッハのチェロ組曲を録音。1994年-1997年にかけて再録音を行いました。室内楽にも熱心であり、ジュリアード音楽院時代から親密にしていたピアニストであるエマニュエル・アックスと共演しています。

 1991年にハーバード大学から、名誉博士号を授与されました。
2000年、テレビドラマザ・ホワイトハウス(原題:The West Wing)に本人役で出演と言うお茶目な目な面もあります。
 2009年、バラク・オバマの大統領就任式典にて演奏したのは有名ですね。しかし実際に会場にスピーカーで流された音はリアルタイムのものではなく、事前に録音されたものであったことがわかり、各方面で賛否両論の声が上がりました。式典当日の気温は氷点下であり、その寒さのために楽器の音程が狂う恐れがあったため、録音を使用したそうですが。ただし、演奏そのものは実際に行われました。

 TV-CMへの出演で、クラシック・ファン以外にもすっかり人気となった、現代を代表するチェリストの一人。傑出した技巧、色むらのない豊かな音色で、叙情に溢れる感傷性、洗練された美しさ、深い表情を、自在に歌い上げています。レパートリーも広く、バロックから現代にまで及びますが、近年はプロコフィエフやショスタコーヴィチといった近現代のロシア作品に重きを置いているようです。

そしてソロと並行して室内楽にも力を注いでおり、スターン、アックスなどと共演、高評を得ています。その他、クラシックの枠にとらわれず、ジャズ・ミュージシャンや、舞踊家などとも共演、またタンゴ演奏はCFでもおなじみとなり、CDは爆発的な売り上げを記録しました。

ヴァイオリニストの父とメゾ・ソプラノ歌手の母のもと、1955年パリに生まれ、6歳でパリ大学芸術考古学研究所にてリサイタルを行いデビュー。62年に家族で渡米し、ジュリアード音楽院でヤーノシュ・シュルツ、レナード・ローズに学びました。63年バーンスタイン指揮のテレビ番組に出演した後、アメリカ各地でコンサート活動を始め、アメリカの主要音楽祭にも参加。77年からはヨーロッパにも活動の場を広げ、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど一流オーケストラとも共演を果たしているのです。

 もう、50歳半ばなんですが、名前が広く知られるようになったのは、確か、2000年代になってからですが、クラシック以外でも、エンニオ・モリコーネと共演したり、ブラジル音楽やったり、ピアソラ弾いたりした頃から好きになりはじめました。

 「シンプリー・バロックⅡ」は、とても穏やかで上品で謙虚なイメージで、きっと彼の人柄もこういう感じに違いない、と思ってしまうような演奏です。最後の2曲 「チェロ協奏曲」はポッケリーニの曲で、その他はバッハの曲。どれも仰々しいタイトルがついていますが、聞くと絶対に病みつきになること間違いありません。ただ部屋に流しておくだけで、とにかく心癒されます。

聴き覚えのある曲は、「G線上のアリア」と「マタイ受難曲」などでしょうか。ハイドン:チェロ協奏曲第1番&第2番/ボッケリーニ:チェロ協奏曲変ロ長調もいいですよ。

 ヨーヨー・マは、2000年の8月6日に広島で演奏しているんですね。自らのコンサートのため広島入りし、この日は平和記念式にも参列。
前日には広島平和記念資料館(原爆資料館)を見学ししたそうです。核被害の悲惨さに「何度見ても心を揺さぶられる」といい、「音楽は過去と未来をつなぎ、過去の苦しみをいやしもできる。その“いやし”を表現したい」と飛び入りを決めたそうです。 そういうところが、またたまりません。

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2009年7月28日 (火)

私の好きなミュージシャン~中島みゆき編

 私は今現在50代のミュージシャンの頑張りに励まされています。

50代、決して遠くない私の未来は彼らのように動的だろうかと考えた時、どうしても頭を掠めるのは彼ら、彼女らなのです。

今は『ダサい』で済まされてしまう例えば、中島みゆきの歌詞を よく聞くとこんな光景は今でも大いにあると思えるはずです。みゆきさんは、1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による第9回ポピュラーソング・コンテスト(通称ポプコン、現在のTEENS' MUSIC FESTIVAL)に「傷ついた翼」が入賞。同年9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)から晴れてレコード・デビューを果たします。そして、1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞。つづけて11月の第6回世界歌謡祭 でもグランプリを受賞した(「時代」は同年12月にセカンド・シングルとして発売)。

 これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一Miyuki002に見出されました。その後みゆきさんは川上氏を現在に至るまで師父のように仰いでおり、彼女のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されています。ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、彼女はヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンです。
 
 この70年代は、歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められています」。この作品は後年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングル・カットされなかったにもかかわらずみゆきさんの初期の代表曲のひとつとなっています。なお、『親愛なる者へ』以降、1985年発表のアルバム『miss M.』までの8枚のスタジオ録音アルバムは連続でオリコンのアルバムチャートで1位を獲得しているのです。

 

 1979年、ニッポン放送『中島みゆきのオールナイトニッポン』(月曜1部)がスタートし、番組においての軽妙な語り口がリスナーのあいだで大きな人気を集めした。ユーミンとよく比べられていたのを覚えています。1980年代前半にはミュージシャンとして更に大きな人気を集めており、1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、翌1982年の年間チャートでも6位を記録。
、また、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達しました。1983年には柏原芳恵に提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞の作曲賞を受賞したほどです。みゆきさんは多くの詩を他の歌手に提供し、その後、『おかえりなさい』でそれらの曲を自分で歌ってそれもまた、情緒があっていいなと思ったものです。

ところが、それ以降アルバム・セールスは下降線を辿り、1980年代中期から後期にかけてはサウンド・アプローチや作風そのものについてもひたすら模索する時代が続きました。当時みいゆきさんは、甲斐バンドの甲斐よしひろやクリスタルキングなどをプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、テッド・ジェンセンやラリー・アレキサンダーなどによるニューヨークでのミキシングなどに臨んでいました。また、1985年発表のシングル「つめたい別れ」ではスティーヴィー・ワンダーの吹くハーモニカを大々的にフィーチャーしています。後年になって模索に励んだ1980年代中期を振り返り、『御乱心の時代』と称しています。自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、職業作家としては工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」、「黄砂に吹かれて」などの作詞を担当しました(作曲は後藤次利)。

 そんな「御乱心の時代」は、1988年のアルバム『グッバイ ガール』のプロデュースを手がけた瀬尾一三氏との出会いによって収まることとなりました。みゆきさんにとって「これまで自分がやってきたあらゆるスタイルに対処してくれる」という瀬尾は適任らしく、それ以降現在に至るまでの全てのオリジナルアルバムでアレンジ、プロデュース、演奏に携わっています。1989年からは、瀬尾氏が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台『夜会』をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようにまりました。

「夜会」はみゆきさんにとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されています。一度でいいから行きたいねと兄(兄は熱狂的なファンです)と話しても何年経つことでしょう。札幌にはなかなか来てくれないですね。

 1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えませんでしたが、その中においてみゆきさんも例に漏れず、「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録しています。この3枚のいずれもテレビドラマの主題歌として起用された楽曲であり、なかでも安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空とMiyuki003 君のあいだに」は147万枚のセールスを記録しました。1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、現時点での中島にとっての最大級のベストセラーです。また、この時期のアルバムはシングルほど芳しい成果を上げるわけではなかったものの、それでも1980年代後半よりも安定した成績を収めました(『EAST ASIA』から『パラダイス・カフェ』までの5作は全て20万枚以上のセールスとなっています)。1996年にはベストアルバム『大吟醸』がオリコンのアルバムチャートで1位を獲得し、日本における女性ソロアーティストのアルバムチャート1位獲得の当時の最高齢記録を更新(現在この記録を保持しているのは竹内まりや)。しかし、その後1997年から1999年にかけてのCDセールスは全体的に大きく伸び悩びました。

一方で、1989年から始めた舞台「夜会」に自身がかけるウェートはより大きくなり、1995年以降に上演されたものは書き下ろしの新曲を中心に構成される、より大掛かりなものへと変貌を遂げていきました。

 2000年には、NHKのテレビ番組『プロジェクトX?挑戦者たち?』の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」が注目されました。このシングルは主にみゆきさんの作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週に渡ってランクインするという驚異的な記録を打ち立てたのです。

 中高年に応援歌のランキングを聴いたところ、『ファイト』がダントツだったというアンケート調査もあるくらいです。

女心を歌う歌手としてNO.1と言っても私じは過言ではないと思います。誰でも『化粧なんてどうでもいいと思っていたけれど、せめて今夜だけでも綺麗になりたい・・・』こんな思いをしたことがあるのは私だけではないはずです。女心を切々と歌ったかと思うと空、大地、銀の龍とテーマが大きく変ったり、でもよく聞くと弱きものが大きなものへ挑戦している姿だったりするところが彼女らしいと思うのです。

 確かに『根暗』といえるかもしれません。でも一度『夜会』を見てみて下さい。彼女がいつも歌う歌があるのですが、1秒たりとも音のずれがないことに驚くはずです。私はユーミンのほうが好きでしたが、最近じっくり詩を聞いて情けないくらい弱い女の部分を知らされたと思います。

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2009年5月28日 (木)

私の好きな音楽家~アントニン・ドヴォルザーク編

 ドヴォルザークといえば『新世界』ときますよね。でも以外と知られない曲に素晴らしい曲があります。ブラームスに才能を見いだされ、「スラヴ舞曲集」で一躍人気作曲家となりました。ベドルジハ・スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれていますね。その後、アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させていました。代表作に、交響曲第8番、交響曲第9番『新世界より』、この分野の代表作でもあるチェロ協奏曲、『アメリカ』の愛称で知られる弦楽四重奏曲第12番などがあります。これらの作品を通して、ドヴォルザークは、チェコ国民楽派を代表する作曲家であり、後期ロマン派を代表する作曲家というにとどまらず、クラシック音楽史上屈指の人気作曲家にもなりました。

 1855年、ドヴォルザークの両親はネラホゼヴェスを引き払い、Renoirbura003 ズロニツェに移って飲食店を始めました。翌年になるとドヴォルザークはチェスカー・カメニツェという町でフランツ・ハンケという教師にドイツ語と音楽を学ぶことになりました。ところが、家庭の経済状況が
悪化して音楽の勉強を続けさせることが困難となり、両親は帰郷させて肉屋を手伝わせようとしました。これにリーマンと伯父が反対し、両親を強く説得、さらには伯父が経済的負担を負う約束で1857年にドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学。経済的には苦しい学生生活でしたが、3歳年上の裕福な家庭の友人カレル・ベンドルと知り合い、楽譜を貸してもらうなどして苦学を重ね、2年後の1859年に12人中2位の成績で卒業。この時の評価は、「おおむね実践的な才能に長けている(中略)ただし理論に弱い」というもででした。カレル・ベンドルとの友情は卒業後も変わらず篤いものであり、ベンドルは後にドヴォルザーク作品を初演するなど援助を惜しまなかったのでした。創作活動では、オルガン学校在学中から習作は行っていたようですが、多くは破棄されてしまいました。

 コンクールの応募作品として最初の交響曲が書かれたのは1865年のことでした。しかし、この交響曲は生前演奏されることはありませんでした(ドヴォルザーク自身その存在を忘れていたと言われる)。1870年には最初のオペラである『アルフレート』を書き上げますが、この作品は、ライトモティーフの手法や切れ目のない朗唱風の歌唱など、ワーグナーの影響が強く表れています。同時期に作曲された弦楽四重奏曲第3番や第4番にもその影響が濃く、当時のドヴォルザークが熱心なワグネリアンであったことがうかがえます。さらに1871年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のプラハ初演に刺激されて、歌劇『王様と炭焼き』(第1作)が作曲されています。スメタナはこの作品を「まさに天才の理念に満ちた」作品と評しましたが、同時に「これが上演されるとは思わない」とも予言していました。その言葉通り、このオペラは4週間のリハーサルの末、放棄されることとなりました。

 ドヴォルザークは1871年に、作曲に多くの時間を充てるためにオーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにした。こうした状況の中、翌1872年から作曲に取りかかった作品が、彼の最初の出世作となった賛歌『白山の後継者たち』でした。1873年3月9日、『白山の後継者たち』は、学生時代の友人カレル・ベンドルの指揮で初演されました。民族主義の高まりもあり、この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得ます。この初演の際に、かつて音楽教師を行っていた姉妹のうち妹のアンナ・チェルマーコヴァーと再会し、この年の秋に結婚。1874年にはプラハの聖ヴォイチェフ教会(聖アダルベルト教会)のオルガニストに就任。この教会は伝統ある教会であり、社会的地位はかつての楽団員のそれよりも向上し、ささやかではあるが年俸が保証されることで、新婚生活の経済状態を安定させることができました。そしてこの年からかつて放棄された『王様と炭焼き』の台本を再び採り上げ、これに第1作とは全く異なる音楽を作曲し、ナンバーオペラとして完成させました。1874年11月24日に行われた初演は大成功を収め、音楽雑誌『ダリボル』には「ドヴォルザークは、その名が金字塔として際だつような地位にまで高められることだろう」という批評家プロハースカの予言が踊りました。こうしてドヴォルザークはワーグナーの影響下から徐々に離れていきました。

 アメリカの人々はこの高名な作曲家の渡米を心から歓迎しました。当時のアメリカは、音楽については新興国ではあったが、潤沢な資金でメトロポリタン・オペラやニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、あるいはアルトゥール・ニキシュが指揮者を務めるボストン交響楽団など高い水準の演奏が行われていました。しかし、自国の音楽家育成については緒に就いたばかりで、音楽院自体がその機能を十全には果たしていない状態でした。ドヴォルザークの音楽院院長就任はこうした状況打破に対する期待を持たせるものでした。1892年10月からドヴォルザークは講義を開始しました。

 1893年1月に着手した交響曲第9番「新世界より」は5月24日に完成しますが、4月14日付けの友人宛の手紙の中でドヴォルザークは「この作品は以前のものとは大きく異なり、わずかにアメリカ風である」と書いています。この作品は、ロングフェローの『ハイアワサの歌』に多くをインスパイアされたと言われています。5ヶ月間の休暇を取り、ボヘミアに帰った後チェコに着くと彼はヴィソカーの別荘に直行し、住民たちの心温まる歓迎を受け、心からくつろいだ休暇を送ることができました。同年、10月ニューヨークに戻った彼は、強烈なホームシックに襲われ体調を崩してしまいました。その一方で、この頃サーバー夫人の夫(ナショナル音楽院最大のパトロンだった)が1893年恐慌のあおりを受け破産寸前に追い込まれていたことから、ドヴォルザークへの報酬も支払遅延が恒常化しつつありました。11月8日からチェロ協奏曲に着手し、翌1895年2月9日にこれを完成させますが、これが限界だったもでしょう。。ドヴォルザークはサーバー夫人に辞意を伝え、周囲の説得にもかかわらず、4月16日にアメリカを去ったのです。

 帰国後もドヴォルザークはしばらく何も手につかない状態にありました。しかし1895年11月1日、プラハ音楽院で再び教鞭を執り始めたのです。作曲も再開され、アメリカを発つとき未完成のまま鞄に詰め込まれた弦楽四重奏曲第14番も1895年の年末には完成しました。1896年3月彼は、最後となる9回目のイギリス訪問を果たします。この直後、ブラームスからウィーン音楽院教授就任の要請を受けますが、これを断りました。アメリカ滞在や最後のイギリス訪問を通じて彼は、ボヘミアこそ自分のいる地だと思い定めたのです。この後、ドヴォルザークは、標題音楽に心を注ぐようになります。カShagaru002 レル・ヤロミール・エルベンの詩に基づく交響詩の連作(『水の精』、『真昼の魔女』、『金の紡ぎ車』、『野ばと』)を作曲したのも1896年のことです。帰国後のドヴォルザークには多くの名誉が与えられました。1895年、ウィーン楽友協会はドヴォルザークを名誉会員に推挙すると伝えました。同年ウィーン音楽省はプラハ音楽院への援助を増額する際に、ドヴォルザークの俸給を増額するようにと明記しています。1897年7月にオーストリア国家委員会の委員となりました。この委員会は、かつてドヴォルザークが得ていた奨学金の審査を行う委員会であり、才能ある貧しい若者を援助できることは彼にとってこの上ない喜びでした。さらに1898年には、それまでブラームスしか得ていなかった芸術科学名誉勲章をフランツ・ヨーゼフ1世の在位50周年式典の席で授けられています。こうして、さまざまな栄誉を身につけたドヴォルザークでしたが、彼にはオペラをヒットさせたことがないという焦燥感があったようです。そしてチェコの民話に想を得た台本『悪魔とカーチャ』に出会い、オペラ創作に邁進してゆきます。1898年から1899年にかけて作曲されたこのオペラは、1899年11月23日に初演されると大成功を収め、ドヴォルザークは、ジムロックからの要請にもかかわらず、他のジャンルには目もくれずに、次の台本を探し求めました。そして出会ったのが、『ルサルカ』でした。1900年4月に着手され、11月27日に完成したこの妖精オペラは1901年3月31日にプラハで初演されて再び大成功を収めます。でも様々な事情でウィーンで上演される機会を逃し国際的な名声を生前に受けることができなかったことで、ドヴォルザーク自身は決して満足できず、これ以後もオペラの作曲を続けますが、最後の作品であるオペラ『アルミダ』(1902年 - 1903年作曲、1904年3月25日初演)は、初日から不評に終わってしまいました。

 ドヴォルザークには、尿毒症と進行性動脈硬化症の既往があったのですが、1904年4月にこれが再発。5月1日、昼食の際気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました。死因は脳出血でした。葬儀はその4日後の5月5日に国葬として行われ、棺はまずプラハの聖サルヴァトール教会に安置された後、ヴィシェフラド墓地に埋葬されました。あまりに多忙を極めたことによる過労死ではないかと私には思えます。自分が納得出来るまで何度も挑戦する姿勢、見習いたいものです。
 交響曲も素晴らしいですが、管弦楽曲もセレナードもいいですよ。

音楽家は皆壮絶な生き方をしていますね。自分をギリギリの極限状態にまで持ってく・・・芸術家の運命なのでしょうか・・・

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2009年5月22日 (金)

フォークソングと呼ばれていたあの頃

 私が知る限り、1970年代が黄金期と言えるのではないかと思います。私はまだ幼かったけれど、兄がよく聞いていて、私も『花嫁』や『悲しくてやりきれない』『あの素晴らしい愛をもう一度』など沢山の曲を歌いました。家にはクラッシクギターはありましたが、フォークギターがなくて、それでもコードを何とか覚え、その頃には、吉田拓郎や井上揚水のレコードを買っていました。

 でも何より加藤和彦氏と北山修氏の存在は大きかったですね。加藤さんは、アマチュアフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散記念に制作したインディーズアルバム『ハレンチ・ザ・フォーク・クルセダーズ』中のオリジナル曲『帰って来たヨッパライ』に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれましたね。加藤さんは難色を示しましたが、毎朝説得に来ていた北山修の説得により1年かぎりとの約束でプロの世界に入りました。
 シングル2作目に予定していた『イムジン河』が、政治的配慮から発売禁止にされたこともありました。これに憤慨し、イムジン河のメロディを逆回転させて作った曲が『悲しくてやりきれない』であるとする説もあります。
 
 1990年代からは歌舞伎音楽を手がけました。この縁から、後のModann003 フォーク・クルセダーズ再結成コンサートでは、市川猿之助 (3代目)と共に歌舞伎の口上で幕を開けました。考えられますか?
 
『イムジン河』が初めて日の目を見た2002年には、フォーク・クルセダーズを半年間限定で新結成(他のメンバーはきたやまおさむと坂崎幸之助で、はしだのりひこは不参加)しましたね。映画『パッチギ』にて、第60回毎日映画コンクール音楽賞受賞。2005年発売のプレイステーション2用ゲームソフト「天外魔境III NAMIDA」の音楽を担当と幅広く活動しています。

 そんな加藤さんを横目に私は拓郎の熱狂的なファンになり、最初の離婚をするまでは応援していたのですが、並行するように、揚水、かぐや姫、泉谷しげる、赤い鳥、ガロ、チューリップ、送れてオフコース(彼らはフォークとは一線を博していたようですが)ユーミンと聞いていくうちに、ニューミュージックと言う言葉が現れ、一くぐりにされてしまいました。その後も松山千春、中島みゆきはフォークでしょうと言いたくなりましたが、拓郎らは、ボブ・ディランに影響された人が多かったですね。かれらの音楽は、詩を重視し、語り部のような要素があり、それがまたたまらなくいいものでした。
 最近はかぐや姫の歌の『神田川」を聞いて、「生活保護受ければいいのに」と言う人もいるそうです。情緒がないですね・・・

吉田拓郎がNHKの『ヤング101(?だったと思いますが)』に出演が決まっていた時、ちょうど婦女暴行事件で騒がれて出演禁止になった時は本当に悲しくてやりきれないおもいをしました。以降、TV出演は殆どなくなり、フォークの歌い手は一にぎりの人しかテレビに出なくなりましたね。

 唯一、深夜のラジオ番組にいるんなフォークシンガーがディスクジョッキーになり、それを眠い目を擦りながら聞いていた次第です。そんな学生時代を過ごした方は今は何を聞いているのでしょうか・・・

 今聞きたいのは、不思議と井上揚水さんの『氷の世界』のアルバムですね。『旅の宿』も時々聞きたくなるので、マイ・ミュージックに保存してはあるのですが、昔を思い出してもどうにもならないので、今時の曲を理解しようと思うのですが・・・ついていけませんね・・・でもウタダヒカルじやミスチルは好きですよ。黄金期のように歌番組はなくなってしまいましたし、どうやってみんな曲を聴いているのだろうと不思議でたまりません。昔は月間明星とか平凡を買うと新曲からやや古い曲までギターコードがついた詩がのった付録がついてきてそれで歌を完全マスターしたものでした。年齢がバレバレですね。でも今はあの頃ライバル的だった存在も仲間でワイワイやっていると小田さんが言っていたのを聞いて、なんだかほっとしています。

 清志朗さんも、好きだっただけに今だ死を受け止められないでいる私でした。

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2009年5月 7日 (木)

私がちょっと好きな作品たち~秋元 康編

 放送作家、脚本家、映画監督、作詞家、作家、漫画原作者、プロデューサー、タレント、馬主、京都造形芸術大学副学長兼芸術学部教授。ただし、本人による肩書きは「作詞家」のみ。日本映画監督協会会員。自身が取締役を務め妻(元おニャン子クラブの高井麻巳子)が監査役を務める株式会社秋元康事務所に所属。東京都目黒区出身。AKB48とSKE48の総合プロデューサー。

 でも本人曰く作詞が一番合っていると思います。あの歯の浮くようなセリフをよくぞここまで書いてくれましたと賞賛したいです。

 高校時代から放送作家として頭角を現し、『ザ・ベストテン』など数々の番組構成を手がけました。83年以降、作詞家として、美空ひばり『川の流れのように』をはじめ、中島美嘉『WILL』、EXILE『EXIT』、ジェロ『海雪』ほか、 数多くのヒット曲を生みました。
91年には、松坂慶子・緒形拳主演『グッバイ・ママ』で映画監督デビュー。企画・原作の映画に『着信アリ』シリーズ、『伝染歌』など。
TV番組『うたばん』『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの企画構成、ラジオ『秋元康のMature style』(TOKYO FM)のパーソナリティー、新聞・雑誌の連載など、多岐にわたり活躍中。アイドルユニット“AKB48”、そして、本年10月より活動を開始する“SKE8”
ただの総合プロデューサーも務めます。
著書に『一生を託せる「価値ある男」の見極め方』(講談社+α文庫)、『「選ばれる女性」には理由がある』(青春出版社)、『恋の知恵本』(海竜社)、『おじさん通信簿』(角川書店)ほか多数。07年秋に映画化された著書の小説『象の背中』(扶桑社)は、アニメ版(ポニーキャニオン)と絵本版(光文社)も制作され、大きな反響を呼んでいます。

 作詞というのは俳句や短歌と同じで、私には非常に難しい物のJansem_work06s 様に思うのですが、阿木耀子さん同様 、ただの語呂合わせをしているとも思えず、かなりのロマンティストでもああいう歌詞はなかなか出てこないと思われ、そういう意味では尊敬してしまいます。

 作詞についてはこれ以上述べられませんが、秋元氏が出した本について、少し語りましょう。

『失恋おりがみ―30日で立ち直る』という作品を読んでみました。確かに女の子の心をきゅっと締め付ける内容ですね。ココロが癒される魔法のクスリです。落ち込んだりもしたけれど1ヵ月後には、きっと、元気になれる。沁み入る写真とメッセージで綴る、今までにない“おとなのおりがみ”。恋に傷つき、疲れ、絶望してしまっているかたはダマされたと思って1日1作品、無心の境地でおりがみを折ってください。30作品を折り上げる頃には、不思議とココロが軽くなるのを実感できるはず。欧米でもブームを呼んでいる魔法の指先アート“ORIGAMI”から造形美を極めた新作を中心に厳選。切なくも優しいメッセージと写真が、明日への一歩を、そっと後押ししてくれます。と出版社 / 著者からの内容紹介があり、と不思議な気持ちになりますが、中身は素敵な内容です。少しずつ少しずつ立ち直って行こうとする気持ちと、ゆっくり時間をかけて折る折り紙。
 「立ち直れるかどうかは別として、30個折り終わった時にはやさしい気持ちになれていると思います。それが秋山さんの魔法のような気がする。」という声も。

 『おじさん通信簿』という本は、「おじさん」を楽しむことができると、年を取ることが楽しくなるというお話で、季節が変わると山の色合いが移ろうように、「おじさん」になって見える世の中もまた味わい深いといいます。おじさんライフを楽しむ著者のエッセイを収録。「スポーツニッポン」などでの連載に加筆修正した部分があります。 おじさんが、おじさんの行動の特徴と、若者とのギャップを分析したエッセイです。 従って、女性と45歳未満の男性は読んでも面白くないかもしれませんが売れているようです。
 ふんふんと同意したり、「俺はしないぞ」と反発したりしながら、短時間で読み切ってしまいそうです。そうやって面白おかしく、おじさん自身をいじっているくせに、最後の2編のエッセイ(テーマは「東京の雪だるま」と「深夜の散歩」)では感動めいた思いを残してくれるものでした。年齢と性別の条件に合致する方はぜひお読みください。もし躊躇されているならp.99のたった2ページのエッセイを立ち読みしてください。笑えて落ち込めます。

 『さよならにもルールがある』は、なぜ恋は終わるの?なぜ想い出はつらいの?それでもどうして人は恋をするの?はじまりがあれば、終わりもある恋。男性の立場から秋元康氏が、女性の立場から柴門ふみさんが、正しい恋の終わり方について解き明かします。

どうしても自分を責めてしまうとき、失恋の涙がとまらないとき、彼の愛に疑問を感じたとき、速やかに男と別れたいとき、手にとって欲しい失恋の処方箋です。

以外にも小説の世界に飛び込んだように思ったものですが、短い曲の中で言いたい事全部言えないのだから小説にして充実感を味わいたいという秋元氏の気持ち、判るような気がします。

 これからも愛のメッセージを伝えてください。

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2009年5月 5日 (火)

私の好きな音楽家たち~ビゼー編

 私にとってビゼーといえば『アルルの女』のメヌエットです。とても好きな曲の一つです。

 9歳でパリ音楽院に入学し、フランソワ・マルモンテル、シャルル・グノー、ユダヤ人ジャック・アレヴィらに師事してピアノ、ソルフェージュ、オルガン、フーガで一等賞を獲得しました。19歳でカンタータ『クローヴィスとクロティルデ』でローマ大賞を獲得。1861年にはリストの新作(リストは、「この曲を正確に弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローだけ。」と豪語していた。)のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけてリストを驚かせました。この時、リストは「私は間違っていた。3人というべきでした。正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう。」といってビゼーを賞賛したそうです。しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストになることを潔しとはしませんでした。

 歌劇などの劇音楽を作曲の中心とし、25歳のときの歌劇『真Lichtenstein_work07s 珠採り』でオペラ作曲家の地位を確立。その後フランス人の作家アルフォンス・ドーデの劇『アルルの女』の付随音楽や、歌劇『カルメン』などを作曲しましたが、1875年3月にパリのオペラ=コミック座で行われた『カルメン』の初演は、ヒロインが女性労働者だったこともあり失敗に終わりました。ヒロインの声域をそれまでに一般的だったソプラノではなくメゾソプラノに設定したことも新しさの一つだでした。
 1869年にビゼーは師アレヴィの娘であるジュヌヴィエヴ・アレヴィと結婚しました。師は既に1864年に亡くなっていました。『カルメン』初演の約3ヵ月後である1875年6月3日、敗血症のため36歳の若さで死去しましたが、のちにビゼーの音楽は世界的に認められるようになりました。早すぎる死です。

 『アルルの女』は、作曲期間が短く、また契約の関係で極めて小編成のオーケストラしか使えなかったため、作曲には大変苦労したという話が伝わっています。なのに初演の評価は芳しくなありませんでした。6年後に再演された時は大好評のうちに迎えられましたが、その時すでに作曲者ビゼーはこの世の人ではなかったのです。

 一般に知られているのは、演奏会用に劇付随音楽から数曲を選んだ組曲です。第1組曲 第1組曲はビゼー自身が初演後すぐに組曲としたものです。

第1曲「前奏曲」
劇音楽No.1 序曲から。3部構成。第1部の主旋律は、プロヴァンス民謡「3人の王の行列」に基づく。第2部のアルト・サクソフォーンによる
旋律は、主人公フレデリの知的障害の弟を表す動機によっている。第3部は、フレデリの恋の悩みを表している。                          
第2曲「メヌエット」
劇音楽No.17 間奏曲から。
第3曲「アダージェット」
劇音楽No.19 メロドラマの中間部から。 劇音楽No.18 導入曲および No.19 メロドラマ前後部から。

第2組曲
第2組曲は、ビゼーの死後、友人エルネスト・ギローの手により完成されました。ギローは管弦楽法に長けており、「アルルの女」以外の楽曲も加えて編曲。
第1曲「パストラール」
劇音楽No.7 導入曲および合唱から。
第2曲「間奏曲」
劇音楽No.15 導入曲から。中間部のアルト・サクソフォーンによる敬虔な旋律は、『神の子羊』という歌曲としても歌われました。
第3曲「メヌエット」
アルルの女といえば、この曲と連想されるほど有名な曲ですが、実はビゼーの歌劇『美しきパースの娘』の曲をギローが転用、編曲したものです。フルートとハープによる美しい旋律が展開されます。
第4曲「ファランドール」
劇音楽No.21 ファランドールから。フランス(プロヴァンス)民謡「3人の王の行列」に基づく旋律とファランドールが組み合わされ、熱狂的なクライマックスを築き上げ、「ファランドール」の軽快な旋律は、民謡「馬のダンス」に基いています。

 南フランスの豪農の息子フレデリは、アルルの闘牛場で見かけた美女に心を奪われてしまいます。フレデリにはヴィヴェットという許嫁がいるのですが、彼女の献身的な愛もフレデリを正気に戻すことはできない。日に日に衰えていく息子を見て、フレデリの母はアルルの女との結婚を許そうとそます。それを伝え聞いたヴィヴェットがフレデリの幸せのためならと、身を退くことをフレデリの母に伝える。ヴィヴェットの真心を知ったフレデリは、アルルの女を忘れてヴィヴェットと結婚することを決意する。2人の結婚式の夜、牧童頭のミチフィオが現れて、今夜アルルの女と駆け落ちすることを伝えらます。物陰からそれを聞いたフレデリは嫉妬に狂い、祝いの踊りファランドールがにぎやかに踊られる中、機織り小屋の階上から身をおどらせて自ら命を絶つというストーリーです。
 
 しかしビゼーは決して恵まれた境遇ではありませんでた。若すImai02 ぎた死のの為、それも評価されたのは死後のことでした。ちなみにビゼーは舞台作品は約30曲以上も残していますが、『カルメン』や『アルルの女』、『真珠採り』以外はほとんど知られていません。なお歌劇『美しきパースの娘』の中のセレナードをベースにした『小さな木の実』は、NHKの「みんなのうた」で放送され、音楽の教科書にも採り上げられるなど、日本では特によく親しまれている楽曲でです。私の中学の音楽の授業で、『アルルの女』を聞いて痛く感激したものです。
 ビゼーは生涯で交響曲を3曲書いたが、1859年に作曲された第2番の草稿は破棄されてしまい、第3番は作曲されたのかどうかも判然としません。その他にも管弦楽曲、合唱曲、歌曲、編曲作品などがあります。
 
 オペラ『カルメン』は、プロスペル・メリメの小説『カルメン』を基にしたもので、アンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィがリブレットを作りました。音楽(歌)の間を台詞でつないでいくオペラ・コミック様式で書かれています。全4幕。1875年、パリのオペラ=コミック座で初演されたがまた不評ででした。ビゼーは初演から間もなく死去しますが、その後エルネスト・ギローにより台詞をレチタティーヴォに改作されて上演され、人気を博すようになったと言われています。。フランス歌劇の代表作として世界的に人気がある。近年ではオペラ・コミック様式に復元した原典版である「アルコア版」による上演も行われます。一般的に『カルメン』組曲として知られているのは、フリッツ・ホフマンの選曲・編曲によるものです。第1組曲と第2組曲があります。
 異色の組曲としては、ロディオン・シチェドリンが13曲で構成した弦楽器と打楽器だけの編成のための『カルメン組曲』があります。1967年に『カルメン』をモチーフにしたバレエが上演されることになり、主演のプリマドンナだったマイヤ・プリセツカヤは最初ショスタコーヴィチに、次いでハチャトゥリアンに編曲を依頼しました、両者とも「ビゼーの祟りが怖い」という理由で断り、仕方なくプリセツカヤの夫であったシチェドリンが編曲に取り掛かることになりました。肝心のバレエの初演はブレジネフらの横槍もあって大失敗しましたが、後に海外で評価されるようになりました。

 何故このように才気溢れる一の作品が生きている内に好評を得なかったのでしょうか。ブレジネフのような共産主義者が何度も嫌がらせしてきたからなのでしょうか・・・
『カルメン』はドビュッシー、サン=サーンス、チャイコフスキーなどから賞賛され、ニーチェは『カルメン』を20回も観たと記述していますし、運命を引き受ける至高の個人としてのヒロインに、感応するところが大だったと考えられてます。それなのに何故・・・なにか判然としないものが残ってしいます。
 でもいまでは立派な作曲者として名を連ねている事が、唯一嬉しい事です。安らかな眠りを・・・・

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2009年3月31日 (火)

私の好きなミュージシャン~ジョン・レノン編

 私と同世代か少し上の方々にとってジョンの死は受け入れられなかったでしょう。ビートルズ時代からリーダーシップを発揮し、ソロになってからも衰える事のなかった人気。世界で最も成功したシンガー・ソングライターの一人であり、1960年代に世界的人気を得たロックバンドの主要メンバーでした。ビートルズ時代には、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、数多くの名曲を作り上げました。1970年のビートルズ解散後は主にソロ・シンガーとして活躍。ギネスワールドレコードでは最も成功したソングライティングチームの一人として「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲(共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲(共作が25曲)」と紹介されています。

 ビートルズ時代には、「抱きしめたい」、「シー・ラヴズ・ユー」、Jon001 リードボーカルをとる「プリーズ・プリーズ・ミー」、「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」、「ヘルプ!」、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」、「愛こそはすべて」、「アクロス・ザ・ニバース」、「カム・トゥゲザー」等、数多くの曲を残しました。ソロ時代は「イマジン」などの曲を発表する一方、妻で芸術家のオノ・ヨーコとともに平和運動家としても活動しましたね。

1980年12月8日(ニューヨーク時間)、ニューヨーク市の自宅アパート「ダコタハウス」前においてファンを名乗る男に銃撃され、40年の生涯を閉じました。

  1970年代は、メンバーのジョージ・ハリスンも参加した「インスタント・カーマ」を発表、「レット・イット・ビー」とほぼ同時期に発表されチャートを上昇しました。1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散したのちジョンは深い精神的ショックに陥りますが、これと前後してアメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法、プライマル・スクリーム療法に参加。約半年間のち、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター(ドラム)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を制作し発表(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表されされました。
 続く1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始(発表は10月)。米1位、英1位、日1位と大ヒットを記録、ソロ最高傑作との評価も高く、ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラム)、キング・カーティス(サックス)らが参加しています。またこのアルバムの2曲に参加したドラマーのジム・ケルトナーが以後セッションに加わるようになります。

 ジョンとヨーコの政治的活動は、反体制派からの影響を強く受けてはいたが基本的に中立で、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったのですが、「人々に力を!民衆に権力を!」とデモ行進をする姿を見た共和党政権は、外国人左翼勢力による国家転覆活動とみなし、国外退去命令を下しました(これに対する抗告と裁判は1975年10月まで続き、ジョン側が勝訴している)。FBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されています。

  1980年代 にはいるとほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していました。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『dジョン・レノン・アンソロジー』で発表されています。1980年11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・日1位)を発表します。この中では後にキング・クリムゾンに加入するトニー・レヴィンを起用しています。このアルバムからは「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位)、「ウーマン」(米2位・英1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米10位)などの大ヒット曲が生まれ、アルバムも全世界で500万枚以上を売り上げました。また同アルバムは1981年のグラミー賞年間優秀アルバム賞を獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べました。私はどの曲も好きですが、やはり「イマジン」と「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」が大好きです。

 またレノンは常に「ポールは弟であり、彼との確執は『兄弟ゲンJon002 カ』みたいなもので、他の奴にとやかく言われる筋合いはない」というスタンスを保ち続けていました。マッカートニーを卑下する発言をする者に対しては「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言しています。レノンとは飲み友達でオノとの別居中は共同生活を送っていたハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったといいます。またレノンは「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった。」、また「俺が音楽業界で達成した偉業はひとつ。『ポール・マッカートニー』を発掘したことだ」とも発言しています。もはやポールとジョンの間には確執なんてなかったのです。最高の伴侶と友人に恵まれ、幸せになるはずだったのに・・・あの恐ろしい惨劇・・・

 チャップマンはレノンの帰宅を待つためにその場にとどまっていました。午後10時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着。レノンとオノが車から降りたとき、チャップマンは暗闇から「ミスター・レノン?」と呼び止めると同時に、リボルバー拳銃のチャーターアームズ・アンダーカバーを両手で構え5発を発射、4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、レノンは「撃たれた」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れました。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着。ちなみに、チャップマンが使用した弾丸は.38スペシャルのホローポイントでした。銃と覚せい剤は私がもっとも憎む存在です。事件後チャップマンは現場から逃亡せず、手にしていた『ダブル・ファンタジー』を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていたそうです。彼は逮捕時にも抵抗せず、自らの単独犯行であることを警官に伝えました。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は、自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えたそうです。精神疾患だということですが、許せません。ジョンとヨーコは私立ちに多くのメッセージを残してくれました。またヨーコさんは今でも、あの時のままでいらっしゃいます。『死を無駄にしないで』と言う言葉はあまり好きではありませんが、今のミュージシャンに受け継がれていって欲しいと心から思います。

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2009年3月 3日 (火)

私の好きなミュージシャンたち~ウェザー・リポート編

 彼らの虜になったのも大学生だった頃です。バイトでお金が貯まって余裕ができると輸入レコード店へ通い、その足でジャズ喫茶に行ったものです。ジャズとロックは男友達しかいなかったので、それでも平気な顔をして苦目のコーヒーを呑みながら何を話すとも無く、聞き入っていました。今では大学の友達とは離れてしまいましたが、Weza002 気分を変えたい時は時々お気に入りのジャス喫茶に通っています。
 クルセイダーズから入っていったので、最初はかれらの音楽は、「あ、だめかも」と思ったのですが不思議です、何度も聞くうちに、耳から離れなくなりました。

 マイルス・デイヴィスの元で活躍していたジョー・ザヴィヌル(キーボード)、ウェイン・ショーター(サックス)の二人により1971年に結成され、ミロスラフ・ビトウス(ベース)を加え、デビューアルバム「ウェザー・リポート」を発表、混迷していたジャズ・シーンに大きな影響を与えました。
 1976年にジャコ・パストリアス(ベース)が参加し、バンドは頂点を迎えます。この最強メンバーの時、私にもチャンスが訪れました。最高の席のチケットが手に入ったのです。ウェザー・リポートの黄金期と言われている1976年-1981年の間は世界各地のフェスティバルへ引っ張りだことなり、ウェザー・リポートが出演するとなると観客動員数も鰻登りになった程だったことがよく解りました。

 1982年には黄金期のメンバーであったジャコ・パストリアスが脱退、Weza003 それに続きピーター・アースキンも脱退してしまい、新たなリズムセクションを迎えて活動を続けていました。でも、1986年にジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターがそれぞれのバンドを作り、ウェザー・リポートは解散しましたが、今でもファンは多くいると思います。

 1977年発表の『ヘヴィー・ウエザー』は、彼らのまさに絶頂期を画するもので全体の指揮をとるのはザビヌル。すでに故人となってしまいました・・・彼は、まるで物理学者のような風貌のオーストリア人。マイルス・デイヴィスに見出され世に出てから、ウエザー・リポートひとすじに孤高の世界を作り上げて行きました。
 キーボード・プレイはまさに独創的。シンセサイザーを改造し、鍵盤の高い方から低い方へ全く逆に並べて弾くこともできるとか。シンセを完全に自分のものとして消化しきっており、機械臭さのまったくない有機的サウンドを作り上げています。
その集大成が、アルバム一曲目を飾る『バードランド』です。まさにシンセ版ビッグ・ジャズバンドと呼べるポップな世界を構築しています。既にスダンダードとして定着しており、マンハッタン・トランスファーやクインシー・ジョーンズでの楽しいバージョンを聴くことができます。そして、このアルバムを特別のものにしているのが、ジャコ・パストリアスです。彼の存在は大きかったと思いますよ。ジャコ・パストリアスのレコードを買ったくらいですから。こういうことは珍しいのでよく覚えています。彼の偉大さはそのベース・プレイにとどまりません。作曲からプロデュースまで。その証が、本アルバムの最後を飾Jako001 「ハヴォナ」です。驚異的なベース・ソロに耳を奪われますが、本当にスゴイのはこの曲そのもの。今までに全く聞いたことのない音世界がそこに提示されています。
 ウェイン・ショーターのサックスも素晴らしいですよ。ゾクゾクしてきます。
 

 『バードランド』は思わずのってしまってジャコと一緒に声を出してしまいそうになります。
 『ブラック・マーケット』『ヘヴィー・ウエザー』『テイル・スピニン』は是非聞いて欲しい作品です。ライブの定番といわれる79年の『8:30』もきっと気に入ってもらえるはずです。2002年に発表された2枚組「ライブ・アンド・アンリリースト」は、ウエザー・リポートの全歴史の中から選ばれた未発表お宝音源で、聴き応え充分です。

 フュージョンは「スムーズ・ジャズ」といった聞きやすい音楽にどんどん変質して行きました。実に残念です。本当にフュージョン(融合)と言える革新的な音楽は、ウエザー・リポートの他にいるでしょうか。ハービー・ハンコック、チック・コリア、パット・メセニー等本のわずかしか私にはわかりません。

You Tubbeでも楽しめますよと言いながらは今You Tubeで『バードランド」を聞きながら描いています。絶好調期のザビヌル、ウェイン・ショーター、ミロスラフ・ビトウス、そして吠えるジャコ・・・一度でも生を聞けたことに感謝、感謝!!では聞きながらお別れしましょう・・・

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2009年2月27日 (金)

私の好きなミュージシャンたち~ザ・クルセイダーズ編

 私が大学生だった頃、ジャズにはまったお話はしましたよね。きっかっけとなったのが、クルセイダーズのメンバージョーサンプルの『メロディーオブラブ』でした。ジャズと言うよりフュージョンに近いのですがこの曲だけはまた特別に情緒のある曲です。日本で好まれるのも解る気がします。

 もともとはテキサス州のハイスクールで同級生だったウェイン・ヘンダーソン(Tb) ウィルトン・フェルダー(T.Sax) ジョー・サンプル(Key) スティックス・フーパー(Dr) の4人が結成したグループで、何度かグループ名を変更した後、1961年にジャズ・クルセイダズとしてアルバム「フリーダム・サウンド」でメジャーデビューしました。

 その後1971年にグループ名を「ザ・クルセイダーズ」とし、アルKuruseidazu001 バム『パス・ザ・プレイト』を発表。1972年に発表した『クルセイダーズ1』が高い評価を得、続く『セカンド・クルセイド』『アンサング・ヒーローズ』等によりジャズのみならずポピュラー・ミュージックのファン層にも浸透し、1970年代フュージョン・シーンを代表するグループとなりました。

 ジャズ・クルセイダーズのほうが良いと思われる方も多く、60年代はジャズグループとして『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス66 』などもツウの肩はお好きなようですね。

しかり、その後も次々とアルバムを発表するのですが、1976年に結成以来のオリジナル・メンバーであるウェイン・ヘンダーソンと、最初期から準メンバーとして参加しており1974年に正式メンバーとなっていたラリー・カールトンが脱退し、1983年にはスティックス・フーパーが脱退するにいたって、グループとしての形態は維持できなくなり、ウィルトン・フェルダーとジョー・サンプルのユニットに、そのつどゲストミュージシャンを参加させるというスタイルで活動を続けていきました。その活動も、1991年に発表された『ヒーリングザ・ウーンズ』を最後に事実上停止していたが、1992年に突如としてウェイン・ヘンダーソンとウィルトン・フェルダーが「ネクスト・クルセイド」を名乗ってアルバム『バック・トウ・ザ・クルーヴ』を発表。さらに1995年、「ジャズ・クルセイダーズ」名義で、アル
バム』『ハッピー・アゲイン』を発表しました。

 新生ジャズ・クルセイダーズとして数枚のアルバムが発表された後、今度は2002年にウィルトン・フェルダー、ジョー・サンプル、スティックス・フーパーによって「ザ・クルセイダーズ」名義で』ルーラル・リニューアル』が発表され、ほぼオリジナル・メンバーからなるグループ再結成(活動再開)が成立しました。ちょっと混乱しますがこれで良かったのではないかと私は思うのですが・・・

 フュージョンはおろかクロスオーバーという言葉もなかった時代から、ジャズという既成概念にとらわれずにさまざまなジャンルの音楽を取り込み、独自の音楽世界を表現しようとしてきた点に、このグループの革新性がありますね。「Mr.335」ラリー・カールトンという、のちのフュージョン・シーンを牽引するトップ・ギタリストを、グループの結成初期から準メンバーとして参加させていたところにもそれが顕われているといえます。

 バンド全体からうねり出されるブラック・グルーヴが最大の魅力。なかでもフロントに配備されたテナー・サックス/トロンボーンは重量感を4割増しにしています。そして、どこか哀愁漂うブルージーなメロディが奏でられ、アーシーな音世界が繰り広げられる・・・
もうたまりません!!
『Scratch』(74年)と『Those Southern Knights』(76年)は、そんな彼らの最高傑作。また、少し洗練された色合いだが、ランディ・クロフォード(vo)を招き、タイトル曲が大ヒットした『Street Life』(79年)も挙げておかなければ語れないほど素晴らしかったですね。まだ聞いた事の無い方は『ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・クルセイダーズ 』が今あるはずなのでそちらから入ったほうがいいかもしれません。

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2009年1月25日 (日)

私の好きなミュージシャン~坂本 龍一編

 ちょっと畑違いな場にいるような気恥ずかしさを持って今書いています。教授のことはYMO時代から好きで、音楽もよく聞きましたし、村上龍さんとの対談形式の本を解りもしないのに読んでみたり・・・CDも何枚かあります。

 クラシック音楽が根幹にはあるものの、民俗音楽、現代音楽にも造詣が深く、ヘビーメタルとカントリー音楽以外はすべて演奏分野の範疇にあります。
 幼いころから作曲を学び、東京藝術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動開始。1970年代後半よりソロとして活動する一方、メンバーとして参加した音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が国内外で商業的成功を収め、人気ミュージシャンとなる。YMO時代にテクノポップやニュー・ウェイヴの分野で活動したことは広く知られていますが、その後は一つのところに留まらず、現代音楽の手法を使った作品の発表、ロックとテクノの融合、ワールドミュージック、ヒップホップやR&Bなどのブラックミュージックを織り交ぜたポップス、オペラの作曲およびプロデュース、クラシックやボサノヴァのユニット成してのワールドツアー、近年はアンビエントやエレクトロニカのSakamoto001_3 品を発表するなど、ジャンルを超越して多彩な作品を発表しています。

 自身の音楽活動のほか、プロデューサーやアレンジャーとしても活動し、他のアーティストへの楽曲提供も数多く行っています。また、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽を担当したことをきっかけに映画音楽の作曲も手掛けるようになり、1987年公開の『ラストエンペラー』(坂本が書いたピアノスケッチ譜に基づいて、実際のオーケストレーションは、本人を含む、東京藝術大学作曲科後輩のアレンジャー川崎絵都夫、上野耕路、野見祐二、渡辺蕗子等が分担した)では日本初のアカデミー賞オリジナル作曲賞を受賞し、以降、国内外の映画音楽を手掛け、映画音楽家としての地位を築きました。

 近年は各メディアで環境問題や平和問題をはじめとした諸問題について発言する機会も多く、最近はPSE問題において、坂本も中心人物として参加した反対運動が実を結んだ。近年は「エコ」や「ロハス」といったキーワードを口にすることが多く、マクロビオティック
の実践者でもある。一時期はベジタリアンでもあったが、これは「人としての闘争本能がなくなりそうだから」という理由で後に挫折ていとか・・・

 1970年東京藝術大学入学。大学在学中、民族音楽学研究の泰斗小泉文夫氏の講義を受け、その内容の深さに坂本はそれまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられるような大きな衝撃を受けたといいいます。さまざまに遷してきたと見られる坂本氏の作風ですが、そのベースには、小泉氏から学び得た民族音楽学の知識や思想がたしかにあるようです。ただし小泉自身は作曲をしなかったので、坂本氏
に作曲技法上の影響を与えたというわけではなかったのです。また坂本氏は、大学在学中、一年ほど作曲家三善晃にも学んでいます。さらには、渋谷で開かれていた高橋悠治の勉強会にも高校・大学を通して顔を出していました。坂本氏が電子音楽に出会ったのは、そんな大学学部在学中のこと。1974年東京藝術大学の音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音響研究科修士課程に進みます。1976年修了。

 1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという友部正人の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加。タジオ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせます。翌1976年、竹田賢一と「学習団」という芸術-実践の運動体を組織し、
竹田のプロデュースの下、はじめてのアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』(土取利行とのコラボレーション)を発表。以降、りりィのバックバンド(バイバイセッションバンド)に所属した他、初期の山下達郎の楽曲(「2000トンの雨」「パレード」など)、大瀧詠一のアルバム『Niagara Triangle vol.1』などにキーボードとして参加。また、大貫妙子のLP『サン・シャワー』『ミニヨン』『ロマンティック』等にアレンジャー、プロデューサーとして参加。この時期を、後に坂本はアルバイト時代と呼んでいます。

1978年2月、細野晴臣のアルバム『はらいそ』に参加。細野の誘Haruoinoue_2 いにより、高橋幸宏とともに「イエロー・マジック・オーケストラ」(以下YMOと表記)を結成、活動を開始。10月、坂本初のソロアルバム『千のナイフ』をリリースし、ソロ・デビューも果たします。
11月、YMO名義の「イエロー・マジック・オーケストラ」を発売、続く「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」で爆発的人気を博します。またこの年、風の旅団の前身となるテント劇団「曲馬館」の音楽にも参加した。翌1979年にはYMOと並行する形で渡辺香津美、矢野顕子、小原礼、村上秀一、本多俊之らとセッションユニットKYLYNや、ほぼ同じメンバで、各パート二人ずつで演奏技術を競わせるいうコンセプトのカクトウギセッションでの活動を行います。また一部の楽曲で第二ピアノを演奏した高橋悠治のLP『新ウィーン楽派ピアノ音楽集成』が発表された(後に『新ウィーン楽派ピアノ作品集』としてCD化。また参加楽曲シェーンベルク「四手のための六つの小品」は坂本のアルバム『フェイヴァリット・ヴィジョンズ』にも収録されている)。同年から1980年にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを実施しました。

 2001年、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。同番組の企画において、親交のある国内外のアーティスト達を起用し、地雷除去のためのチャリティーソング「ZERO LANDMINE」を作曲、リリースしました。同年にはボサノヴァトリオ「Morel
embaum2/Sakamoto」を結成し、アルバム『Casa』を発表。このトリオとしての活動、および坂本がこれまで自身の音楽にボサノヴァを取り入れてきたことなどが評価され、翌2002年、日本とブラジルの友好化に寄与したとて、ブラジル政府より国家勲章を授与されま
す。2003年には、この年4月にオープンした六本木ヒルズのテーマソング「the land song-music for Artelligent City」を発表し、ネットで無料配信を行いました。

 音楽を担当した映画「ラストエンペラー」においてアカデミー作曲賞を受賞した際には、写真週刊誌フライデーにおいて『この賞を受賞したことよりもこれから仕事を選べるという点のみで今回の受賞は悦ばしい』と発言。活動の拠点を米国に移したのも「日本という小さなマーケットでCDを100万枚売るよりも、世界の10カ国からそれぞれ10万枚ずつCDを売るほうが作品のクオリティーを落とさないで済む」と雑誌「GOETHE」で述べています。

 YMOでの活動は国内外のオーバーグラウンド・ニューウェーヴに革新を起こしたが教授はそれと平行し、国内のアンダーグラウンドシーンにも接近。NY帰りの東京のパンクバンドフリクションのファーストアルバムをプロデュース、関西の女性パンクボーカリストPhew
のソロデビューシングルでのコラポレーション、山崎春美の音楽プロジェクトTACOへの参加などが挙げられます。しかし、TACOでの過激な楽曲提供はともかく、フリクションのアルバムはメンバー・ファン共に「ライブでの緊張感・硬質感が再現されていない」と不評
を買い、Phewも「(坂本は)仕事は速いがセンスは悪い」と評判は芳しくありません。国外ではNO NEW YORKで一際存在感を放っていたアート・リンゼイとの親交が有名です。DNAの頃のアートと始めて出会ったときは満足に言葉も交わせず一方的に敵意をむき出されてしまっていましたが、その後坂本が自身のソロアルバムへの参加をオファーしたらあっさり快諾、以後現在まで坂本の活動に欠かせない人物となりました。結構山有り谷有りの人生だったのですね。ただ成功したかどうかではなく、いかに積極的に動いたか、働きかけをしたかと言う点で私は教授を教授と呼び続けると思いまず。

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2009年1月20日 (火)

私の好きな音楽家たち~フランツ・リスト

 あまり馴染みの無いピアニストであり作曲家でですが、私は中学の時、リストのハンガリー狂詩曲を聴いて鳥肌がたったのを今も強烈に覚えています。素晴らしいと思いました。今まで学んできた作曲家とはどこか違う(勿論、皆個性的でしたが)、恐ろしさみたいなものを感じたのです。

 ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をしました。演奏会形式としての「リサイタル」を初めて行なった人物と言われています。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られています。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成しました。

父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年にウィーンに移住し、カール・ツェルA70 ニーおよびアントニオ・サリエリに師事します。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否されました(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみでした。(他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はありません)。そのため、リストはフェルディナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事しました。

 また1823年4月13日にウィーンでコンサートを開きそこで、老ベートーヴェンに会うことができ、ベートーヴェンに賞賛されました。
でも1827年には父アーダムが死去し、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えました。また、教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局とりました。生涯に渡るカトリック信仰も深め、思想的にはサン=シモン主義、後にはフェリシテ・ドゥ・ラムネーの自由主義的カトリシズムへと接近していったのです。

 ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残っています。また多くの女性と恋愛関係を結びました。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送ります。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマです。

マリーと別れた後、再びピアニストとして活躍しましたが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲。彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止され
ている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められませんでした。1848年にはヴァイマルから宮廷楽長として招かれました。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマルで作曲に専念しました。

 それらの事柄とは反面して、リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれました。演奏技術と初見に関しては、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないと言われていいます。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には、「指が6本あるのではないか」ということがまともに信じられていました。

 高い演奏技術で万人受けの良かったリストの演奏に、初めショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的でした。しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向が見られました。

 音楽史的には、ベルリオーズが提唱した標題音楽をさらに発展させた交響詩を創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、絶対音楽にこだわるブラームスらとは一線を画しました。彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年~1850年頃)、ヴァイマル時代
(1850年頃~1860年頃)、晩年(1860年頃~没年)と3つに分けられます。ピアニスト時代は、オペラのパラフレーズなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いた。このころの作品は、現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多くありました。

 ヴァイマル時代は、ピアニストとしての第一線を退いたが、作曲家としてはもっとも活躍した時代です。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られています。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高く、過去に作った作品を大規模に改訂することも多くありました。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されています。

 晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になりま した。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増えます。特に1880年以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていきます。最終的に彼は1885年に『無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽を完成させました。

 リストの作品は同じ曲でも第1稿、第2稿……というように改訂稿が存在するものが非常に多く、改訂稿も含めて彼の作品を全て数えると1400曲を優に超えます。また紛失した作品や断片、未完成作品もさらに400曲以上あるといわれており、彼がどれくらいの曲を作ったのかを数えるのは不可能に近いでしょう。現在は彼の作品の再評価が着実に進んでおり、レスリー・ハワードのリスト・ピアノ曲全集(全57巻、CD95枚)はその代表例です。なお、この全集(補遺1巻、2巻を除く)での演奏時間は延べ117時間(1377トラック)・・凄い
の一言に尽きます。モーツアルトやベートーヴェンのような長調の曲より短調が多いと思うのは、たまたま私が聴いた曲が短調だったのか解りませんが、ハンガリー狂詩曲(S244/R106)(全19曲。第2番が最も有名) やパガニーニによる大練習曲等は』大変気に入ってます。心穏やかになれるかどうかは・・・・聞いて判断してみてください。

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2009年1月 1日 (木)

の好きな作曲家~ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

 ベートーヴェンの曲は中学生の時病みつきになり以後、バッハ、モーツアルトと方を並べるほど熱狂したものでした。でも彼の生い立ちなどは殆ど知りませんでした。ただ心に残る作品が多いのに感動したものです。

 ここで生い立ちを少し紐解いてみることにしましょう。

 1774年頃よりベートーヴェンは父から苛烈を極める音楽の教育を受けるようになり(そもそも、父ヨハンがベートーベンを天才少年ピアニストとして売り出そうと考えたのはモーツァルトがいたからです。)、
 1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事しました。
 1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトに弟子入りを申し入れたといわれますが、母の病状悪化の報を受けてボンに帰郷。母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、仕事を掛け持ちして家計を支
え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる日々を過ごしたのです。1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノのHimawari02 即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として名声を博しました。
 20歳代後半ごろよりベートーヴェンは持病の難聴(原因は諸説ある)が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死に等しい絶望感から1802年には自殺も考えたが、『ハイリゲンシュタットの遺書』と呼ばれる文書を書くことによって、強い精神力をもって自らの苦悩と向き合い、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになりました。
 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(作家ロマン・ロランによる命名)と呼ばれる時期となります。
 
 40代に入ると、体調の悪化、恋愛事件・甥カールをめぐる養育権争い等もあり一時作曲が停滞しましたが、それらを経て作られた『交響曲第9番』や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は未曾有の境地の高さを示しました。

 中期の交響曲はスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわ
めて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随しました。

 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどでした。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となりました。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明は、音楽の歴史において重要な分岐点となります(ただし主たる収入源は貴族の援助によるものであることには注意しなければならないでしょう)。

 彼の未完に終わった『交響曲第10番』においては、キリスト教世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされています。
これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことでしたが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表されました。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や『交響曲第9番』につながったのです。

 確かに第9以外は宗教色がないですよね。宮廷好みではなく一般大衆のための曲だと明らかにそれまでの作曲者たちとの違いが解ります。
 
 そして私はピアノソナタも大好きで、父からのピアノレッスンで、音楽家としてのキャリアを積んでいったベートーベンは、生涯に32曲のピアノソナタを作曲し、ピアノを使用する楽曲を30曲近くも作曲しています。ベートーベンを音楽家に育てたのがピアノなら、ピアノはベートーベンにもっとも愛された楽器なのです。

 ベートーベンは番号付きのピアノソナタを全部で32曲も作曲していますが、その中でも特に第八番「悲愴」・第十四番「月光」・第二十三番「熱情」を「ベートーベンの三大ピアノソナタ」と呼んでいます。しかし、この通称と組み合わせは生前のベートーベンが決めたものではありません。レコード会社によって、抱き合わせにされたものが「三大ピアノソナタ」の正体なのです。
 1801年に作曲されたピアノソナタ第十四番「月光」は、ベートーベンの恋愛遍歴でも有名な楽曲です。当時、ベートーベンがピアノを教えていた伯爵令嬢のジュリエッタ・グイチャルディに捧げるために作曲したものの、失恋してしまったというエピソードが伝えら
れています。「月光」の題名は、ロマン派の詩人ルートヴィヒ・レルシュタープによって後けられたもので、ベートーベンは「幻想曲風ソナタ」として発表しています。この二つの題名をあわせて「月光ソナタ」と呼ばれることもあります。

 ベートーヴェンといえば交響曲第五番「運命」か第九と思われがちですが、彼の曲は本当に奥が深いです。何度聞いても飽きることがありません。機会があればじっくり聞いてみてください。

自由テキスト

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2008年12月26日 (金)

私の好きな作曲家たち~バッハ編

 中学校で学びましたね。私はチェンバロの音が好きでよく、FMで聞いていたものでした。一番好きなのは誰もがきっと好きであろうところの『トッカータとフーガ 二短調 (BWV 565)』と『幻想曲とフーガ ト短調 (BWV 542)』です。

 『ロ短調ミサ曲』もバッハはミサ曲を4曲作曲しましたがいずれもラテン語で書かれており、最も有名なのがこの『ロ短調ミサ曲』でバッハの宗教音楽の最高峰に数えられています。   
 
 宗教色の強い音楽ですが、私は音楽yに宗派は関係ないと思っています。そのような事は超越した次元のものだと信じています。

 バッハが最初に就職口をえたのはアイゼナッハの東75kmにDoga2 あるテューリンゲン地方の中心都市 であるワイマールの宮廷で、18歳(1703年)の春4月8日にその宮廷楽団にヴァイオリンニストとして採用されました。
 その年の8月にはバッハ一族と縁の深いアルンシュタットで再建中の「新教会」が完成し、この教会のオルガニストに就かせようと遠縁の一族の運動もあって正式の辞令をもらってこの「新教会」のオルガニストとして勤めることとなりました。何よりバッハを喜ばせたのは専任オルガニストとして自分で自由に使える楽器をえたことでした。

ここでの職務はあまり忙しくなくバッハは 自分の勉強のため、かなり恵まれた時間をもてることとななります。この時期に彼は熱心にオルガンの演奏技術をみがきオルガン作法
を詳しく研究しました。またオルガニストとしての仕事以外に聖歌隊の指導と指揮にも従事。さらにバッハの最初の妻となるマリア・バルバラともこの時期に出会っています。
 1705年の10月に北ドイツの町リューベックに旅し、当時最大の音楽家の1人だったブスクテフーデ に学んび、1707年6月にミュールハウゼンの聖ブラージウス教会のオルガニストにかなり高額の年俸で採用されました。この年の10月17日にマリア・バルバラと結婚します。

 幼少期は両親を早くに亡くしたもののこの頃の逸話として、当時長兄のヨハン・クリストフはドイツの有名な作曲家たちのクラヴ、ィーアとオルガンの作品をたくさん筆写してもっていました。 セバスチァンはこの楽譜集を見せてくれるよう熱心に頼Doga1 んだもですが、まだはやすぎるといって聞き入れてくれなかませんでした。

そこでセバスチァンは戸棚からひそかにこの楽譜集をとりだして、6ヶ月のあいだ 夜毎に月明かりのもとそれを書き写したというのです。しかしついに事が露見して苦労して書き写した楽譜は兄に とりあげられてしまいました。。この逸話が事実とすれば、視力を失うまでに至ったバッハの眼病はこの時の 無理がたたったのではないかと
思われます。 BWV-945,743,749,751,755,756,757,762等が推測されます。 (影響を受けた作曲家:パッヘルベル)
 音楽一家に生まれ名に不自由なく育っていたならば、これほどの楽曲をのこせただろうかと思い、調べてみると、やはり彼も礼拝
に用いる音楽の作曲や演奏と音楽の指導に多忙な日々を送ることとなったのに収入の点では臨時収入が以外に少なくバッハは期待を裏切られる思いだったそうです。
 1749年頃から眼疾患が悪化し手術を受けましたが、医師テイラーの技術が未熟であったため、手術後は病床に伏し、1750年に65歳でこの世を去りました。生前の彼は作曲家というよりもオルガンの演奏家・専門家として高く評価されていました。でも彼の楽曲は息子や弟子たちによって細々と、しかし確実に受け継がれ、1829年のメンデルスゾーンによるマタイ受難曲のベルリン公演をきっかけに「再発見」されて高く評価されるようになりました。

彼の遺した作品とそこに用いられた技法は、いわば西洋音楽のエッセンスを凝縮したものと言うことができるでしょう。。それゆえに、現代においてもなお新鮮さを失うことなく、ポップスやジャズに至るまで、あらゆる分野の音楽に応用され、多くの人びとに刺激を与え続けているのだと思います。バッハの時代には、ピアノはまだ普及するPhoto にいたっておらず、彼のクラヴィーア(オルガン以外の鍵盤楽器の総称)作品は、概ねチェンバロやクラヴィコードのために書かれたものとされています。その多くはケーテンの宮廷楽長時代に何らかの起源を持ち、息子や弟子の教育に対する配慮もうかがえるものとなっています。練習曲ですが、非常に美しく、また難易度も高いのだそうです。

 カンタータ、オルガン曲、クラヴィーア曲、リュート曲、管弦楽曲・協奏曲と大まかに分けられますが、この曲の中でもやはり「カノン」の部分が特に興味深く「音楽の捧げ物」と 同様に新しい演奏が素晴らしいです。 楽器の指定がないということでいろいろ
な演奏を聴くことができ、 オルガン、チェンバロ、管弦楽、ビアノなどの演奏を聴いてみると、 それぞれに特徴があり興味深い演奏で、特に選ぶとすればピアノ (タチアナ・ニコライエヴァ) 版はおすすめです。

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2008年12月18日 (木)

私の好きな作曲家~モーツァルト編

 中学校も音学で慣れ親しんだモーツアルトの曲は誰もが耳にしていると思います。長調の曲が多い中、私は交響曲 ト短調 K183 やト短調 K550 が特に好きです。勿論、『アマデウス』は観ており、事実とかなり違うことに面食らいましたが、アマデウスの生涯のうち幼少時代の彼らしさが出ていた作品だと思いました。父親の厳格さもモーツアルトにとってはかなりの重圧だったと思われます。

 1762年モーツァルト6歳の時、ウィーンのシェーンブルグ宮殿でオーストリア皇帝フランツ1世、女帝マリア・テレジアに謁見されました。この頃からモーツァルトは作曲を始めているのです。1763年から66年にかけてモーツァルトはドイツ、フランス、イギリス、オランダへの演奏の旅に出ます。まだ7歳のモーツァルトは神童といわれ、各地で絶賛を浴びることになります。
そして1769年から73年にかけてはイタリアの旅に出ました。    Dyufi01                     

 1781年25歳になったモーツァルトはウィーンに定住するようになります。
そのウィーンの下宿屋ウェーバー一家の娘コンスタンツェと1782年8月4日シュテファン教会で結婚式を行いました。
 この時代はモーツァルトにとって最も幸せな時期で、オペラ「後宮からの誘拐」、交響曲「ハフナー」「リンツ」ピアノ協奏曲20番、21番などの名曲も生まれています。1786年から88年にはオペラ「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」などの初演が大成功、そして交響曲39番,40番,41番と名作がすばらしいスピードで生み出されました。

 でも、1791年、「レクイエム」にとりかかり、そして「魔笛」の初演を行った後、モーツァルトは死の床につくことになります。
 1791年12月4日、35歳のモーツァルトは遂に息を引き取りました。モーツァルトの死因についてはさまざまな説が登場し、毒殺など殺人説まで出て来てしまった様です。
でも実際の検死結果が残されており、それには「急性粟粒疹熱」と書かれています。これは、熱と湿疹が出る病気の様です。
 それでなぜ毒殺と言われたかというと、そのころはやっていた梅毒の治療に水銀が使われており、モーツァルトの体からも水銀が検出されたからのようです。

 一時期モーツアルトが貧乏だったのは何故か・・・あんなにたくさんの名曲を出し、またオペラの成功にもかかわらず、モーツァルトの晩年は貧困で苦しんでいたと言われています。その原因ははっきりは解明されていませんが、どうもモーツァルトは無駄遣いが好きで貯蓄をしない性格だった様です。また一説にはモーツァルトはギャンブル好きと言われています。

 交響曲第25番 ト短調はモーツァルト17歳の時の作曲ですが、モーツァルトの交響曲の中でも傑作と言わています。
 交響曲40番と同じく短調で、暗く悲壮感の中に力強さに溢れている曲ですね映画「アマデウス」の中でも効果的に使用されていました。

 交響曲第31番 ニ長調もモーツァルトの交響曲の中でも最も親しまれ、傑作と言われています。
モーツァルトがウィーンに定住して始めて作曲した曲。この曲はもともとザルツブルグのジークムント・ハフナーの為に作曲されたセレナードでした。また1776年にはエリザベート・ハフナーの結婚式の為に『ハフナー・セレナード』を作曲しています。セレナードの6楽章の内、4楽章を選んで交響曲に改編しました。

 交響曲第36番 ハ長調も傑作のひとつです。モーツァルトはコンスタンツェと結婚した翌年、実家ザルツブルグからウイーンへ帰る途中リンツに立ち寄りました。。その時、リンツの音楽愛好家ホーエンシュタイン伯爵の音楽会にあわせて、わずか四日間で書き上げた
のがこの曲です。

 交響曲第40番 ト短調は三大シンフォニーの一つであり、また25番と共に短調で、悲哀の満ちた曲です。

とあげればきりが無いのですが、最近では病院の待合室などでクラッシクが流れていることが多くなり、待ち時間もモーツアルトやバッハが流れているといい気持ちで長い待ち時間も耐えられるようになりました。クラッシック全体がすきなので、家には全曲集のMDもあるくらいです。

12月は特にクリスマスソングだけでなく、クラッシックもBGMとしてお勧めです。

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2008年10月17日 (金)

私の好きなミュージシャン~宇多田ヒカル編

 私は最近の若者の曲はあまり聞かないのですが、唯一、聞くとすれば宇多田ヒカルさんも歌でしょうか。以外とノリのいい楽曲は、仕事をはかどらせてくれます。
 1998年12月、宇多田ヒカルとしてシングル『Automatic / time will tell』でデビュー。プロモーションはラジオ出演のみでしたが、FMラジオや外資系CDショップのプッシュから一気に人気に火がつきデビュー曲はいきなりミリオンセールスを記録。その結果、宇多田さんが15歳の若さで作詞作曲を手がけていること、アメリカで生活していた帰国子女であることや、かつての演歌歌手・藤圭子の娘だということなど、メディアが騒ぎ立ててしまいます。

 私は誰の子であれ、音楽的才能を認めていましたし、音を作ることを楽しむ環境にいたことが何より、羨ましかったですね。

2001年3月、2ndアルバム『Distance』を発売。発売日が浜崎あゆみのベストアルバム『A BEST』と重なり、「歌姫対決」と話題を集めしたね。

結果『Distance』の発売1週間の売り上げ枚数はオリコンで300.3万枚(邦楽Utada07アルバム初動売上1位)、プラネットで262.9万枚、サウンドスキャンで244.3万枚を記録し、日本の3大チャートのすべてで宇多田さんが浜崎さんを上回りました。最終的に双方とも売り上げ400万枚を超える大ヒットとりました。売り上げ約450万枚(オリコン)。オリコン年間アルバムチャート1位獲得。

2002年1月、米国のレコードレーベルグループであるアイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループと契約。アメリカでの芸名を『Utada』とします。2004年3月、コンピレーションアルバム『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』を発売。4週以上に渡ってオリコン1位を独走。250万枚以上のセールスを記録し、年間アルバムチャート1位となりました。2004年2月、3日/4日/7日/8日/10日に、ライブ『ヒカルの5』開催。

武道館での5日間限定ライブは定員5万人に対して100万件以上の応募があり、プラチナチケットとなった。2004年4月、元夫・紀里谷和明の初監督映画『CASSHERN』のテーマソングであるシングル『誰かの願いが叶うころ』を発売。

 2004年10月、幾多の延期を経てアルバム『EXODUS』で米国メ ジャーデビュー。収録曲「Devil Inside」シングルがHot Singles Salesチャートで57位、ダンスチャートでは1位を記録。アルバムはビルボード総合アルバムチャートで最高160位。また新人や若手アーティストが対象のTop Heatseekersチャートでは5位。2005年10月には同アルバムで全英デビュー。日本では全米発売から4週間早い2004年9月8日に先行発売され、全英語詞にもかかわらずミリオンセラーを記録するヒットとなった。オリコンチャートで1位獲得ということもされました。

 2007年7月18日、2月28日にCDリリースした『Flavor Of Life』の音楽配信が総計700万ダウンロード(内、PC向け配信:プラチナ(25万DL)、着うたフル:トリプル・プラチナ認定(75万DL))を突破し、デジタルシングル世界1位となったことを英EMIが発表。同月、オリコンが実施した「音楽ファン2万人が選ぶ好きなアーティストランキング」で2004年以来3年ぶりに1位を獲得。そして2007年10月4日宇多田ヒカルの楽曲のダウンロード数が1000万ダンロードを突破しました(1アーティストの年間配信数で1000万件突破は世界初。2007年1月から9月末までの9ヶ月間のみの集計)。これって凄い事なのでしょう?
 2007年11月には、Ne-Yoからの要望で、Utadaとコラボレーションした『Do You feat. Utada』が配信限定でリリースされ、2007年12月9日、宇多田さんデビュー10周年目に突入。それを記念してデビュー曲『Automatic』の着うたが12月7日から10日まで無料で配信され、4日間で50万ダウンロードを記録しました。
 
 本名は宇多田光ですが、デビューする際に周りから名前が堅い感じがするといわれ、本名と画数の変わらない「宇多田ヒカル」としたそうです。画数については、姓名判断において、たびたび彼女の名前は非常に素晴らしい画数であると評価されている。それを本人が知っ
ての決定となった。[7]中性的な名前のため、子供の頃はよく男の子に間違えられたという。また、彼女が産まれたときに、本名を「宇多
田苺」と名づけるという案もあったという(ライブ談)しかし、当時はUtada06 人名漢字として認められていなかった。また、名字の「宇多田」は日本でも非常に珍しく、山口県などに数件ある程度である。また、家系について宇多田の父である宇多田照實が子供の頃、長い巻物に
描かれた家系図を見せられ、由緒ある家系であることを伝えられたというエピソードがあります。

 フレディ・マーキュリーを尊敬していて。自身のサイトにおいて、好きなアーティストにナイン・インチ・ネイルズ、モーツァルト、ジミ・ヘンドリックス、バルトーク・ベーラ、レニー・クラヴィッツ、プリンス、エディット・ピアフ、コクトー・ツインズ、チック・コリア、ザ・ブルー・ナイル、ビョーク、美空ひばり、尾崎豊を挙げています。また、歌唱の面では元グルーヴ・セオリーのアメール・ラリューに強く影響を受けており、(自分の中で)師匠であると発言しています。凄い面々の名前が出てきて私の知らない名前もあり、幅があることを凄いと思ってしまいます。

 それから恋愛、そしてそこから生まれる孤独や高揚感をモチーフに、まるで日常会話の延長のように綴られる詞世界。英語と日本語が差異なく響き渡る緩急自在のヴォーカル・ワーク。そして抜群にポップでありながらも高度なアーティスト性を誇るソングライティング
。さらには、ノン・プレッシャーな雰囲気すら醸し出すナチュラルな佇まいe.t.c.…
彼女の歌は曲だけでなく、詩もとてもいい!!そう?思いませんか?最初は英語が入っているので解り難いとおもっても歌詞カードを読んで、うん、納得なのです。

 いろんな音楽を聴いてそこから自分ならこうするという固い信念がなければ、新しい曲はできないすよね。彼女もクラッシクを聞くので
すね。曲のなかに新しさだけでなく私世代をひきつけるのはそにあたりからの影響もあるのでしょうね。

 私は『Wait&See ?リスク?』あたりから聞き始め、まだ幼顔を残した彼女がこんなにもセクシーに歌えるものかと驚きをかくせませんでした。

 07年2月にはTBS系金曜ドラマ『花より男子2』イメージ・ソング『Flavor Of Lif』をリリースし久々にいい気持ちになりました。「Stay Gold」に続き、「HEART STATION」のオンエアと、レコード会社直営にて着うた(R)・RBTの先行配信が開始。今月末からはレコード会社直営のテレビCMが放送開始となり、このCMのためだけに制作されたオリジナル映像が使用されていいます。

 彼女の歌を聞くと、その歌を作った情景が浮かび、己と芸能ニュースなどには興味が無くなり、彼女の気持ちは歌で充分判る気がします。あまり回りで騒ぎ立てないで新曲を待つのもファンの勤めかもしれないと思います。

 

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2008年7月30日 (水)

私の好きな指揮者~小澤征爾編

 私が小沢氏に親近感をもったのは小学生の時『オーケストラがやってきた』という番組にほぼレギュラーで出ていた時でした。

山本直純さんが司会で、クラッシックを子供にも優しく教える番組で、毎週楽しみにしていました。小沢氏はきどらない、偉そうにしない、人懐っこい、そんな印象で、それがタクトを持つと魔術師のように荒ぶるところがまたたまらなく印象的な方でした。

 指揮者というのはそれぞれの楽器にも造詣が深く、オーケストラの一人一人の熱心に指導しておられました。
 1959年秋、フランスのブザンソンで行われたオーケストラ指揮者国際コンクールで第1位を獲得。当時ボストン交響楽団の音楽監督であり、このコンクールOzawa01_2 の審査員を務めていたシャルル・ミュンシュにタングルウッドに招かれ、そこでバークシャー・ミュージック・センターの最高賞で、優秀な学生指揮者に贈られるクーセヴィツキー賞を受賞したなどということはつゆとも知らず、ただ凄い人だと思い続けていました。

いつか指揮する姿を間近に見てクラッシックが聞けることを楽しみに大人になった私は、彼がボストンに永住したことにショックを受けました。
 
 1973年、38歳でアメリカ5大オーケストラの一つであるボストン交 響楽団の音楽監督に就任してしまったのです。当初はドイツグラモフォンとの契約でラヴェルのオーケストラ曲集、ベルリオーズのオーケストラ曲集など、ミュンシュの衣鉢を継ぐフランス音楽の録音を続けましたが、その後グスタフ・マーラーの交響曲全集(「大地の歌」を除く)など、フィリップスへの録音を行うようになりました。日本のクラシックファンにとっては、日本人指揮者の演奏をアメリカから逆輸入する形で聴くこととなり、また日本人指揮者の演奏が国際的に有名なレーベルから発売されるのは初めてでした。

 またボストンでの活動が進むにつれウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするヨーロッパのオーケストラへの出演も多くなる。ボストン交響楽団の音楽監督は2002年まで務めたが、一人の指揮者が30年近くにわたり同じオーケストラの音楽監督を務めたのは極めて珍しいことでなのだそうです。

 1998年に長野オリンピック音楽監督を務め、世界の国歌を新日本フィルハーモニー交響楽団と録音。長野オリンピック開会式では、演奏。開会式会場と世界5大陸の都市(北京、ニューヨーク、シドニー、ベルリン、ケープタウン)を衛星中継で結び、歓喜の歌を世
界同時合唱しましたね。感動しました。

 ボストンが終わったら日本に留まるものと思っていたのですが、2002年 からは ウィーン国立歌劇場音楽監督となり、不幸にも彼が帰郷したのは、帯状疱疹、慢性上顎洞炎、角膜炎と診断され、通院しながら自宅療養の為でした。体力もかなり弱まっていたとの事。
ウィーン国立歌劇場での聴衆の評価も賛否両論あり、心労が重なっていた様子。でも今また復帰し、2010年退任が決定しました。

もう娘さんも息子さんも頑張っているのだから少し楽をしてくださいな。

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2008年7月 9日 (水)

私の好きな作曲家~坂田晃一編

 坂田氏の曲で最初に聴いたのは、『目覚めた時は晴れていた』を赤い鳥が歌っていたのを聴いた時でした。後にビリーバンバンも歌っておられましたが、倉本作品に坂田氏の曲は切っては切れない時期があったことを覚えています。『さよならをするために』は作詞が石坂浩治さんでした。そして様々な賞も受け取られました。

 主題曲だけでなく、挿入曲も手掛けられ、ドラマ全体が清らかな彼の曲にあって進んでいく時、つい、涙が出そうになるくらいストーリーと音楽がマッチしていたものでした。フォー・クローバース『冬物語』西田敏行&桃井かおり『ルネッサンス』『さよなら、こんにちわ』(倉本氏のドラマの主題歌)も私はレコード買ったくらいですから。

 『おしん』『こころ』などNHKの音楽もてがけていました。最近では『菊次郎とさき』の音楽を担当。ノスタルジックなメロディと編曲が特徴的です。 華麗なる一族Photo (1974年、毎日放送)、 池中玄太80キロ(日本テレビ)の音楽も手掛けられました。そう考えると、癒しの最先端を行く作曲家なのではないかと感じるのは変でしょうか・・・

 アニメでも『草原のマルコ』『母をたずねて三千里』は泣けてきます。まだまだたくさんの作品を残しておられるのですが、多分聞き逃してしまっている作品も多くあると思います。

 私が加古隆氏や千住明氏らを好きになったのも、元はといえば坂田氏の美しいメロディをずっと探し続けていたからなのかもしれません。

 『おしん』のサウンドトラックも出ており、是非欲しい1枚です。
『さよならの夏』は日本の名曲ベスト10に絶対入る歌です。昭和51年の日本テレビ系連続ドラマ『さよならの夏』の同名主題歌で、森山良子がオリジナル。ドラマチックなメロディ、盛り上がりの部分で見せる倍賞さんの大らかな発声が心を揺るが作品です。良い作品に素敵な音楽があれば、大抵忘れられない作品として残り続けるますよね。

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2008年7月 8日 (火)

私の好きなミュージシャンたち~小田和正編

 私が小田さんを知ったのは、まだあべ静江のコンサートの前座をやっていた頃でした。オフコースが二人でピアノとギターが主だったあの頃。

 

初めて中野サンプラザでコンサートを行ったこと、多分財津さんが『オフコース万歳!!』といったことは記憶違いでは無いと思います。そのライブを自分達の曲だけでは埋められPhotoなくて、彼らが好きでコピーして覚えた海外の曲もメドレーで入っていました。今でも小田さんはエルトン・ジョンのユアソングを唄ってくれますね。

 私がジャズにはまるずっと以前のことで、友達とよくハモッていました。でもどちらかと言えばチューリップの方が受けていたし、殆どテレビに出ないことからその後の音楽活動はよく知りませんでした。オフコースが5人になっていたことすら知らなかったのですから・・・ 

 大学でジャズ友達ができれからはなおの事疎遠になっていましが、卒業してからまた熱烈なオフコースファンと遭遇し、松任谷由美などと一緒によく聴くようになったと思ったら、つかの間、解散コンサート。

 泣いてしまいました・・・『さよなら』を歌っていた小田さんが声をつまらせてしまったこと・・・

解散については色々な説があり、私としては小田さんだけでも続けて欲しい、ただそれだけでした。幸か不幸か小田さんの歌は今でも聴け、TBSで放映されたシリーズもDVDで観られ、満足はしているのですが、50と言う歳を越えて、昔以上にエネルギッシュになっていく彼の心境を知りたいというのが本音でしょうか。

 50という年齢はやはり人生の節目なのでしょうか。何かが吹っ切れたように活動を盛んにしているミュージシャンがとても目立つようになったと思うのです。ミュージシャン以外でも傾向を変えて一回りも二周りも大きく成長を遂げた方々にも、私は敬意を表したい気持ちで一杯になります。

 小田さんについては彼のHPでチェックしていますし、殆どのCD3 はそろっていますが、前にも書いたように気分で聴きたい曲が変わるため、気分のいい日は『YES・NO』『時に愛は』『ラブストーリーは突然に』『きらきら』『君が嘘をついた』等アップテンポのもの、しんみり聞きたい時は『言葉に出来ない』『もう歌は作れない』『君住む街へ』『秋の気配』といった曲風に変わります。

 同世代でフォークとかニューミュージックとか言われていた方々とも今は仲が良く、又ゆずのような新しい人たちとも確執をもたなくなったり。確実に新しい世代の後押しもしているように思います。

当時世界的に活躍していた矢野顕子さんも旭ジャーナルで『YES・NO』を絶賛してた事を思い出します。

澄んだ声で何時までも私たちに感動をください!!

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2008年6月28日 (土)

私の好きなミュージシャンたち~久石 譲編  

 日本の作曲家・歌手・ピアニストである久石作品は最初、イージーリスニングとして出会いました。
作曲家としてテレビ音楽に彼が初めて登場したのは、テレビアニメ「はじめ人間ギャートルズ」からだそうですがまさかと思っていました。宮崎駿監督の劇場用アニメ作品の音楽としては『風の谷のナウシカ』(1984年)からが本格的といっていいにではないでしょうか。

 

『ナウシカ』以後、沢山の映画に楽曲提供を行っていますが、宮崎駿監督作品が一番多く、次いで北野武監督作品や大林宣彦、澤井信一郎監督作品にも多く携わっており、その集大成として『WORKS・I』(1997年)を発表しました。

2004年、『ハウルの動く城』の音楽の作曲を担当するほか、第57回カンヌ国際映画祭において、日本の作曲家としては初となるオープニング・セレモニーの作曲と指揮を担当、注目を集めました。

 『WORKS・I』はまるで交響曲でも聴いてるかのような気持ちになり、私はとても感動を覚えました。曲に山と谷がはっきりあって小気味いいいのです。うまくPhoto 表現できませんが、イージーリスニングとか癒しの曲などと一くくりに出来ないはっきりとした主張があるのです。

 2004年には新日本フィルハーモニー交響楽団が新たに結成した新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラの音楽監督に就任。自身の楽曲だけではなく『007のテーマ』、『ミッション・インポッシブルのテーマ』、『スター・ウォーズ』」と云った有名な映画音楽からラヴェルの『ボレロ』のようなクラシック曲など、ジャンルにとらわれないスタイルでのコンサートがうけています。

 また、2005年のコンサートツアー「Symphonic Special 2005」ではステージに大スクリーンを設置しバスター・キートンの無声映画『The General』(邦題「キートンの大列車強盗」)の映像に合わせてオーケストラを指揮するといった難しい試みにも挑戦。元々は2004年の第57回カンヌ国際映画祭のイベントで久石氏が行ったものでしたが、日本でも大成功を収め脚光を浴びました。

 私は癒し系の音楽を聴き始めて、お覚えたのですが、ずっと気なる存在で、『ハウルの動く城』は見ているというより、聴いていましたね(監督、すみません・・)。それからCDを借りにいきました。今回挙げた四名は、私にはアミノ酸の入ったドリンクのよう存在です。元気な時は葉加瀬氏、落ち着きたい時は加古氏と千住氏、じっくり聞きたい時は久石氏・・・

 ちなみにSENCEと言う二人をご存知でしょうか?やはりドラマのBGMや挿入曲では聞いたことがないのではと思う程、活躍され、ジーンとするシーンでは必ず流れていたりします。なんと言っても、私がCDショップで『癒しを下さい。』といって買ったCDですから・・・(恥・・・)

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2008年6月27日 (金)

私の好きなミュージシャンたち~千住明編

 千住明氏も気になる作家の一人でした。いいなぁと感じた曲の中に千住氏の作品が多かったからです。

作曲家・編曲家・音楽プロデューサーを巧にこなす千住氏。編曲やプロデュースなど幅広く活躍し、特に野島伸司脚本・企画のドラマや近年では、中森明菜の大ヒットカバー・アルバム『歌姫』シリーズをすべて手掛け、累計100万枚の売り上げを記録させている事でもご存知でしょう。。また2007年に中森明菜が『歌姫』に続く演歌・歌謡曲のカバー・アルバム『艶華 -Enka-』を発表、本シリーズでも千住明がプロデュースを担当しました。『映像音楽の魔術師」と称されています。
ソロアルバム、メインアルバム、プロデュースアルバムは数多くあります。編曲でこんなに曲って変わるのかと絶対思うはずです。

 小澤征爾等の巨匠指揮者とのセッションも数多く、オーケストラ作品では、ヴァイオリン協奏曲『リターン・トゥザ・フォレスト』(2000)、ピアノ協奏曲『宿命』(2004)、『四季』(2004)、交響曲第1番(2005)、日本交響詩 (2005)、『ブレス・アンド・ロザリー』(2006)等、初のオペMidorifukakimizuumiラとして『隅田川』(台本:松本隆)(2007)などがあります。

  映画『226』『RAMPO~国際版』『わが心の銀河鉄道』『愛を乞うひと』『黄泉がえり』『HINOKIO』『この胸いっぱいの愛を』『涙そうそう』『象の背中』、ドラマ『高校教師』『家なき子』『聖者の行進』『世紀末の詩『ほんまもん』『砂の器』『仔犬のワルツ』『恋の時間』『風林火山』から、アニメ「機動戦士Vガンダム』「鉄人28号「「雪の女』『RED GARDEN』NHKスペシャル『世紀を越えて』、NHK「日本映像の20世紀』、またCM『アサヒスーパードライ』『コスモ石油』『パソニック ビエラ』等、音楽を担当した作品は数え切れません。

 昨年3月、千住兄妹初の共同作業(コラボレーション)によるジョイントコンサート『音楽会の絵』が開かれました。ここれは画家であり兄である博氏の絵画をテーマに、明氏が書き下ろした『ヴァイオリンコンチェルト』を、妹の真理子氏が演奏するというものでは喝采をあびましたね。

『Still Blue: Sketchpiano』『Feel Solo Selection Best Wishes テーマ曲集』など一度聴いたらその旋律は忘れられないものになるでしょう。
 癒しの曲のなかに存在不可欠の方です。『feel』『frow』などから入ってみていかがでしう。

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2008年6月26日 (木)

私の好きなミュージシャンたち~葉加瀬太郎

 『情熱大陸』の音楽で世間をあっと言わしめた葉加瀬氏。何時聞いても元気になれます。

 4歳からヴァイオリンを習い始め、東京芸術大学の学生で結成された『クライズラー&カンパニー』の中心人物として音楽界に登場。クラシックやポップスといったジャンルの垣根を越えて、壮大で心地よい音楽で人気を博しますが、1996年に解散。その後、作曲家・ヴァイオリニストとして高く評価され、アート・リンゼイ・プロデュースより『atashi』(1997年)でソロデビューを果たしました。1996年10月からのセリーヌ・ディオンのワールドツアーに参加
し注目を浴びるようになりました。

 ジャズやボサノヴァ、ラテン、その他様々な民族音楽をクラシックと溶 け込ませたような楽曲を奏でる。 また、打ち込みの音と生音とを組み合わせた楽曲を手がけ、新たな音世界を形成しました。これが聴いていて斬新なのでしょうね。私の求めている音はLautrec01これかもしれない!と思った程です。

主だった曲は
ドラリオン(シルク・ドゥ・ソレイユ) 『Time Messenger』
スーパーニュースアンカー 『Beyond the Sunset』
情熱大陸(毎日放送)OP『情熱大陸:』、ED『Etupirka』
ファイナルファンタジーXII(スクウェア・エニックス) ED:交響詩『希望』
全日空イメージソング 『Another Sky』
新生銀行イメージソング 『COLOR YOUR LIFE』
やじうまプラス (テレビ朝日) 『陽の当たる家』
ぐるり日本鉄道の旅 (BS日テレ) 『アフタヌーン・ブリース』
なんばパークスイメージソング 『Loving Life』

などテレビの主題曲が目白押しです。テンポのよさ、ノリのよさ、体中で表現するエンタテイメント性、生で聞けたら踊リ出してしまいそうですよね。でもじっくり聞かせてくれる曲もあってどちらも甲乙つけがたいんです。

彼自身の結婚式でずっとヴァイオリンを弾いていたそうです。奥様はあっけに取られていたそうですが・・・でも好きな事に夢中になってるって素敵ですよね。

映像音楽と言う新しいジャンルで活躍し進歩し続けるミュージシャンに喝采を!!

有名な「ドリッピー」にチャレンジして英語をマスターしよう!

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2008年6月25日 (水)

私の好きなミュージシャン~加古隆編

 加古氏の『パリは燃えているか』『黄昏のワルツ』は何度聴いたことでしょう。それから色々聴き始めたミュージシャンの一人です。

 幼少の頃からクラシックピアノの訓練を受け、作曲を東京芸術大学・大学院、パリ国立音楽院で学んだ加古氏。オリヴィエ・メシアンに師事し現代音楽の作曲家への道を歩むのですが、その一方で、パリ時代にフリージャズ(=即興演奏)に傾倒する、Photo という音楽遍歴を持っています。これらの体験が、彼の生み出す音楽の根幹を成しているのでしょうね。

 『クラシックに根づく美しい旋律とハーモニー』『現代音楽の斬新な感性』ジャズの持つ即興性とリズムその全てを包含し、ジャンルにとらわれない独自の音楽スタイルを築きました。自身の作品によるコンサートは世界各国に及び、オリジナルアルバムは50作品を超えます。シンプルで繊細かつ壮大なメロディーと、ピアノから紡ぎ出される透明な音の響きから、『ピアノの画家』と称されるようになりました。

 1977年、NHK土曜ドラマ「松本清張シリーズ」で初めて映像音楽を手掛けて以降、映像音楽の作曲家としての活動も盛んになりつつあった加古氏は、1995年にNHKスペシャル『映像の世紀』の音楽を担当したのを機に、映像音楽の第1人者としての地位を確立。(以降、葉加瀬太郎氏やゴンイチチ、羽毛田丈史が浮上するようになります。)

 膨大な量の映像と番組の重厚なテーマを支えるべく、1年以上の時間をかけて誕生した、約100曲にも及ぶ『映像の世紀』の音楽には、テーマ曲『パリは燃えているか』のみならず、『睡蓮のアトリエ』といった代表作も多数存在します。番組の終了後にはNHKに音楽に関する問い合わせが殺到。

 『ノルウェーの森』(1994)は加古さんの音楽を、「他のニューエイジ系のミュージシャンと識別する大きな特徴として、加古さんの音楽の持つ強い求心性があげらるのではと思っています。ニューエイジは、時に"ヒーリング・ミュージック"とか"癒しの音楽"と呼ばれて、誘眠音楽とイコールみたいな受け取られかたをされているようだけれど(そういう面もあると思いますが)、加古さんの音楽を聴いていると、逆に精神が冴えてくるような気がします。特に、このアルバムの『永遠の流れ』に加古さんに求める全てがあると言っていい」と言う声もあります。

 また、『オリジナル・サウンドトラック』発売から5年後の2000年に、Photo_7 オリジナル・サウンドトラック第2弾とも呼ぶべきアルバム『Is Paris Burning』がリリースされたことなどからも、これらの音楽が世間に及ぼした影響の大きさを推し量るこができますよね。。1997年に『ドキュメントにっぽん』の音楽を担当し、翌1998年に担当した映画『he Quarry(邦題:月の虹)』では最優秀芸術貢献賞を受賞。この間に、声楽とピアノとの共演によるアルバム『予感~アンジェリック・グリーンの光の中で~』のほか、『静かな時間』を発表。1999年ツアーをブラジル・アルゼンチン・チェコ・ハンガリー・フランスで開催し、第2回能登国際音楽祭にも出演。2000年には『にんげんドキュメント』から、『黄昏のワルツ』が誕生するほか、演奏時間50分を越える大作『組曲《映像の世紀》』が発表され、その繊細な音に心が揺さぶられる思いをしたものです。

 さらにこの年には、映画『式日』の音楽も担当し、第3回能登国際音楽祭に出演しました。
 2001年に映画『大河の一滴』の音楽を手掛け、翌2002年には映画『阿弥陀堂だより』の音楽で、第57回毎日映画コンクール「音楽賞」及び第26回日本アカデミー賞「優秀音楽賞」を受賞。
 

 2005年にはNHKスペシャル『日本の群像 再起への20年』の音楽を担当。バブル崩壊の日本経済の荒波の中を懸命に生きる人々の、苦悩と決意を託した「虹 が架かる日」は、代表作のひとつとなりました。
 聞き覚ぼえのある曲は、CFの
   「ポエジー」(収録アルバムは「代表作」の項目参照):ニッカウヰスキー(1985年)
     「ジブラルタルの風(マンドリン・ヴァージョン)」:カネボウ「デナリ」(1992年)
     「一つの予感」:「ホンダ・レジェンド」(1997年)

心に触れるさまざまな印象を映した一曲一曲から、ある予兆に近い香りが醸し出される。音楽は夢や感情移入のきっかけをつくるが、その先は導かない。人々がそれぞれの体験や記憶の中で次なるものを感じてゆく。
                           アルバム「水の前奏曲」より/ 加古隆

ジャンルを超えた音の楽しさ、美しさに出会えたような気分です。

 

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2008年6月23日 (月)

私の好きなミュージシャンたち

 このところ、HMVの試聴をしてCDは買っているのですが、私はその時々で聞きたい曲ががらっと変わってしまう傾向にあり、特に仕事をしている時は『能率アップバージョン』、ほっとしたい時は『癒しメドレー』などと名前をつけてメディアプレイヤーで編集しています。それに夏と冬でも選曲が違い、夏はバーンとはじけながら仕事をしています。冬になるとパタッと聴かなくなるのですが・・・

 私の『能率アップバージョン』にはサザン、チューブ、イエローモンキー、ビートルズ、松任谷由美のアップテンポ系、大黒摩季、あとボサノバ系、葉加瀬太郎のはじけ曲などをランダムに聞いています。上半身揺れながらビュンビュンとばせるのはなんとも快感です。会社ではそんな訳にいきませんよね・・・誰も見ていないからなせる技です。

 やはり昭和育ちの私ですから、小椋桂さんやオフコースの小田さん、財津和夫さん、などはふと聴きたくなります。この間は急にポール・モーリアやレイモン・ル・フェーブルが聴きたくなって困ってしまいました。
 近所のレンタル屋さんでは扱ってないし、かといって買うと後悔もしそうだし・・・
 それでレンタル屋さんをうろうろしているうち、見つけました。レンタルPhoto ではなく買い取りですが、有名な曲ばかり入って値段がお安い・・・これは買い!!とばかりに買いましたが、すぐに飽きてしまいました。

 私は長く歌ってくれる方が好きなので、ビートるズは小学生になる前から(それは例外で)、中学、高校、大学とさらに今でも歌っているミュージシャンが好きです。サザンや小田さん(傾向が全然ちがう!?)にはもっと頑張っていい曲を作ってほしいです。
 50歳という節目でなにかつき物でも落ちたように、頑張っている方々を見るとやはり、プロはこうあってほしい。応援してるからと言いたいです。
 昨年の暮れくらいから稲垣潤一の25周年の特集を随分長い期間ギャオでやってくれていて、それと小椋桂さんのベストアルバムをHMVで注文し、尚且つ、来生たかおのべストもで買って、メジャー系とマイナー系に分けて編集しました。これからは中島美嘉やビギン、森山直太朗らが秋口のベストテンに入りそうです。

 先日、兄がipodをくれ、深夜の仕事はそれを聴いているのですが、ドリカムはまだいいとして、中島みゆきの『恨みま~ス』~とこられたらちょっと仕事の力が抜けてしまって・・・文句も言えず、聴いている訳で・・・

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2008年6月 3日 (火)

私の好きな音楽たち~ジャズ編

 私がジャズにはまったのは大学生の時からでした。最初は日本人好みのするグループ、『クルセイダーズ』でした。『メロディズオブラブ』が大好きで軽いタッチの曲から入ったのですが、大学4年の時についにウェザー・リポートがライブをやる事を知り、お金の無かった私は月賦で友達からチケットを買いました。丁度いい席で、バッチリ見とれ、聞き惚れてしまいました。
メンバー的にも優れ者ぞろいの時だったのでラッキーでした。『@80』、最高でしたよ。

 それから、マイルス・デイビスにのめり込みジャズ喫茶にも頻繁にPhoto 行くようになりました。私が学生当時はジャズ喫茶は1日に何軒もはしごできるくらい沢山あったのですが今は殆ど無くなってしまいました。コーヒー1杯で何時間もねばり、大体のお客は瞑想にふけるように寡黙になって聞き入っていましたから、回転率は確かに悪いですよね、ごめんなさい。

 マイルス・デイビスは時代と共にモダンジャズ、ハード・バップ、フュージョンなどに移行していきどれも飽きさせない曲で楽しませてくれました。一時期、ビル・エバンスとも競演し、喜んだ矢先に1年あまりで終わってしまったことがあります。

 後にボーカルを主としたジャズを聴くようになり、サラ・ボーン、ビリー・ホリディなどに惹かれて行きました。ソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーンは勿論の事、ジャズではあまり好き嫌いがないので、一人でジャズ喫茶へ逃げ込むことは日常茶飯事のことでしたね。クラッシックを聴いている時の私ではない私が存在するかのようです・・・

 それほど、ミュージシャン自身のことは知らない私でも、ジャズはおいしいコーヒーとタバコを吸うためにはどうしても欠かせないもののようです。

 それから、これは聴いてみてこんなによいものかと思ったのが、グPhoto_2 レン・ミラーオーケストラです。『グレン・ミラー物語』を何気なく観ていて、この曲もジャズだったの?と驚かされました。それは『茶色の小瓶』と言う曲で子供の頃、オルガン教室で習った曲だったからです。モダンな演出をしてたんだなあなんて懐かしくなりました。他にもどこで聞いたか覚えていないのですが、この曲も知ってる、あ、これもと言う具合でした。

 少しジャズ漬けになってみようかな・・・

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2008年6月 2日 (月)

私の好きな音楽~クラッシック編

 私は子供のころからあらゆるジャンルの音楽を聴いて育ちました。まだ小学生になる前からビートルズをステレオの前でじっと聴いている子供でした。小学校にはいってからはNHKの『みんなの唄』のテキストを購入し、オルガンでひいたり歌ったり・・・

 それ以降は皆と同様、歌謡曲に少しはまりましたが、なんとなく物足りなくて、学校の音楽の先生から教材用のレコードを借りて何度も聴いていたものでしたPhoto 。おかげでクラッシックに興味を持つようになり、特にバッハとリスト、次にベートーベンと共通点のない作家の曲をとめどもなく聞きかじった時期を思い出します。。丁度その頃、小沢征爾氏と出会い、指揮者は楽器もこなせることに驚き、まだ日本フィルハーモニーで活躍されていた頃だったので毎週彼の出演する音楽番組を楽しみにしていました。

 モーツアルトやショパン、シューベルト、メンデルスゾーン、チャイコフスキーなどどんどん好きになりました。なかなかベートーベンからは脱皮できず、いつかは飽きるだろうと思っていたのですが、第九と第五位外は今でも好きです。『エリーゼの為に』は何度聞いても飽きません。

 最近は病院でクラッシックを流すところが増えたので、待っている間も気持ちよく過ごせるのは助かります(子守唄代わりで眠ってしまう患者さんが多いのが少し淋しいですが・・・)。

 モーツアルトはやはり、映画『アマデウス』で一期に好きになり、図書館でレコード(まだレコードだったんですよ)を借りてきて聞き入ってしまいました。クラッシックは交響曲第~番とか~短調とかという題名がどうしても覚えられず、覚えても、すぐ忘れてしまう、これ私の悪い癖(!?)なのか頭が悪いのか、どちらにしても、曲を聴くと大体は誰の曲かだけはわかるようになりました。

 ジャズやロックにはまったのは大人になってからでそれはまた今度にします。

世界の小沢氏の指揮するDVDがあれば借りようと思います。

 

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2008年3月22日 (土)

HMVは私の玉手箱

 私とHMVとの出会いはグーグル検索で無料試聴と検索した時でした。
それまでレンタルCDショップでいろいろ探したけれど、もう廃盤なのか、売れないからなのか、見つけれられない曲が沢山あって、でも聴きたいという欲求が検索に走らせたのでした。

  私は今時の曲には着いていけない方なのでつい、一昔前の思い出の曲が無償に聴きたくなるのです。そこで出会ったHMV。わぁ~、こんな曲まで聴けるんだぁ、と感激し、いろんな思い出の曲を聞きかじって、最初のうちは満足していました。

 でも、そのうち、どうしても欲しくなって、購買するようになりました。購買に際しても、この歌手のどのCDが欲しいか、試聴して比較検討するようになり、満足なミュージックライフを送っています。ネット販売ではアマゾンが代表格のようですが、私は今ひとつなじめません。ユーザーの貴重なご意見も随分参考にさせて頂いています。
 これからもずっとHMV様にお世話になると思います。こんな昔かたぎの私でも満足できるのですから、是非、もっと多くの方の味方でいてくださいね。

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