音楽

2009年12月20日 (日)

私の好きな音楽家~リヒャルト・ワーグナー

 御多分に漏れず、中学校の音楽の時間に学んだワーグナー。今でも聞きますね、いいのもはいいです。交響曲 ハ長調は、特に印象的で、ワーグナーは死の直前の1882年12月24日にヴェネツィアのフェニーチェ劇場で行われた妻コージマの誕生日を祝う演奏会においてこの曲を指揮しているそうです。

 幼児から音楽に親しみ、特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受けました。ウェーバーは若きワーグナーにとって憧れの人で、生涯敬意を払った数少ない人物でした。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志しました。

 それと同時に劇作にも関心を持ち、のちに彼独自の芸術を生み出す原動力となりました。10代から盛んにピアノ作品を作曲しており、初期ロマン派の語法の積極的な摂取が幼いながらも認められていました。時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲しました。

1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となりました。その後指揮者に飽き足

らず歌劇作曲家を目指したが芽が出ず、貧困と借金に苦しみました。1836年女優のミンナ・プラーナーと結婚し、彼女とはのちに次第に不和となりました。このころ「恋愛禁制」を作曲し、ケーニヒスベルクやリガで劇場指揮者をしながら転々としました。
 
 1839年パリに移りましたが相変わらず貧しかったそうです。このパリ時代には小説『ベートーヴェン詣で』、『パリ客死』を書き、またのちに有名となる歌劇『最後の護民官リエンツィ』、『さまよえるオランダ人』を書いています。しかし、パリでワーグナーが認められることはなく、ワーグナーはフランスに悪印象を抱くようになりました。ドイツ人の音楽家は受け入れられなかったということなのでしょうか・・

 失意の内、1842年ドイツに帰り、ドレスデンで上記2歌劇を上演してようやく注目されました。翌年ザクセン王国宮廷劇場指揮者に任命されました。1844年にはイギリスで客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当。葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、多才を発揮しました。1845年には『タンホイザー』、1848年には『ローエングリン』を作曲し、好評を博しました。
 『歌劇ローエングリン』より「婚礼の合唱」は今や結婚式には欠かせない曲ですね、そう、これはワーグナーの曲なのです。

 彼独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げました。例えば、匿名で『音楽におけるユダヤ性』を書いて、メンデルスゾーンやマイアベーアらを金銭づくのユダヤ人だから真の芸術創造はできないとして非難し、この反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことと相まって、はるか後にナチスに利用されることとなりました。しかし、彼のユダヤ人嫌いは一貫したものではなく、晩年にユダヤ人の指揮者を起用したり、親交もありました。超大作『ニーベルングの指環』を書き始め、また『トリスタンとイゾルデ』を1859年に完成しました。

 1860年からはヨーロッパを演奏旅行します。このときリストの娘で指揮者ビューローの妻コジマと恋愛関係になります。
経済的困窮は極まるばかりでしたが、 64年バイエルン国王ルートヴィヒ2世の強力な援助を受け、作曲に没頭します。 70年にはコジマと正式に結婚し、その後自作上演のためのバイロイト祝祭劇場を建て、念願の「ニーベルングの指輪」四部作などを上演していきました。
  その後「パルジファル」 を完成してバイロイトで初演しますが、翌年83年2月13日、ヴェネツィアにおいて心臓発作に襲われ息を引き取りました。

  ワーグナーの芸術は、作品の規模の大きさばかりでなく、土台となっている知識の広さによっても特徴づけられます。彼は自分で舞台作品の台本を書きましたが、そこでは一般にいわれるゲルマン神話ばかりでなく、ギリシア神話をはじめとして、シェークスピア劇などありとあらゆる世界文学が下敷きとなっています。
そうした台本がそのまま作曲上の試みとして音楽に移し変えられているところに彼の作品の特徴があるといえます。
   

 動画の音楽は一番有名で私も大好きな『ワルキューレの騎行』です。

ワルキューレは神々の長であるヴォータンが知の女神エルダに生ませた9人の女神です。その役割は世界中の戦場におもむき、地上の英雄を探し出してつれてくるという役割。天翔ける天馬に乗ってワルキューレが集まってくるのですが、イメージでは空のあちこちを自在に飛び回る馬に乗ったワルキューレたち、その馬には世界の英雄が
同乗してものすごいスピードで攻め寄せてくる、そういうイメージで聞いてみて下さい。 
 
 当時のドイツに生まれていなければ、彼はもっと違った人生があったのかも・・・と考えてしまいます。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年12月13日 (日)

私の好きな音楽家~ドメニコ・スカルラッティ

 メロディを聞くと誰もが何処かで聞いている作曲家、スカルラッティ。Wikipediaによると同年にJ.S.バッハ、ヘンデルのバロック時代の代表的作曲家が生まれていますが、スカルラッティもその時代の鍵盤曲に新しい用法を取り入れた重要な作曲家なのです。
 マリア・マグダレーナ・バルバラ王女のために書かれた個性溢れるチェンバリズムが繰り広げられる555曲の練習曲が、そのテーマ性と展開によって後に「ソナタ」と呼ばれて親しまれています。

 スカルラッティは鍵盤作品の作曲者として有名ですが、それらはチェンバリズムを追求する明確な方向性が見出されるため、広く鍵盤楽器一般のためでなく、特別なもの以外はチェンバロで演奏する効果に限定されると言えます。
 鍵盤作品以外に、歌劇や宗教曲なども遺していますが、残念ながらあまり知られてはいません。

 ドメニコ・スカルラッティの音楽活動は、大きく2つの時期に分けて考えることができます。第1の時期は父アレッサンドロ・スカルラッティが亡くなる1725年、あるいは彼が妻を迎えるために帰国した1728年までとされます。
 この時期の彼の作品は、教会音楽やオペラ、室内カンタータが中心で、様式的には父アレッサンドロら当時のナポリ楽派の影響を強く留めており、オペラと宗教音楽の作曲家として活躍しています。
 第2の時期は1729年、ドメニコ・スカルラッティがスペインに移り住んだ年に始まるとされています。彼が残した550曲余りのチェンバロ・ソナタは、その大部分がこの時期に書かれたものと推定されています。ただし、それらのソナタは、イタリアで一般的であったトリオ・ソナタでもソロ・ソナタでも無伴奏ソナタでもない、通奏低音の書法からかけ離れた形式で書かれていました。
 
 ドメニコ・スカルラッティの真の創造的な仕事は、スペインでの第2期、そして560曲近く残されたこれらのソナタにこそあったと言って良いでしょう。スカルラッティ自身によって練習曲と呼ばれていた、これらの1楽章形式のソナタは、1738年に『Essercizi per Gravice
mbalo チェンバロ練習曲集』として30曲が出版されています。その後、40曲ほどがイギリスで出版されますが、残りの大部分は何冊かの手縞譜として後世に伝わったのでした。

 スラルラッティのソナタは、ウィーン古典派以降の他楽章形式のソナタとは違って、多少の例外はあるものの、ほとんどが単一楽章で単純な二部形式という構成になっています。でも、提示される2つの主題はしばしば対立する傾向にあり、様々な動機を組み合わせた、あたかもモザイク模様を見るような旋律の積み重ねは、表現や手法的には古典派前期のソナタのスタイルに近いものだと言えるでしょう。

 スカルラッティは、1729年に出版した『チェンバロ練習曲集』の序文に「これらの作品のうちに深刻な動機でなく、技術的な工夫をこそ見て欲しい」と記しています。彼のソナタは、確かに構成上の無駄を一切省いた極端にシンプルな楽曲ですが、その中に示された楽想の多様性には、目を見張るものがあるからです。

 そして、イベリア半島という、強くアラブの影響を受けた土地の音楽、ボレロやファンダンゴ、セギディーリャといった、民族色の濃いスペイン・ポルトガル特有のリズムや旋律の影響を、ソナタのあちらこちらに聴き取る事も可能でしょう。イベリア半島の民族音楽の刺激
があったからこそ、スカルラッティは独創的な仕事が出来たと言ってもよ良いのかもしれません。
 550曲余りのソナタは、その作品数が膨大であるがゆえに“玉石混淆”の様相を呈しています。けれど「珠玉」という形容が当てはまる作品もまた、数多く存在しているのです。

 ドメニコ・スカルラッティが残したソナタは、現在では職業ピアニストにとっては指慣らしやアンコール・ピースとして、ピアノの初学者にとっては練習曲として使用されています。これは、スカルラッティのソナタの中に、ピアノの演奏に必要な近代的な技法が追求されて
いるからでしょう。後世への影響はどうであったにしろ、『近代的鍵盤楽器奏法の父』とも呼ばれのももっともだと、ソナタを聴くたびに思わせられます。

 J.S.バッハの平均律とは全く性格を異にしていますが、それ故にこそ、J.S.バッハと比肩し得るほどの、後期バロック鍵盤音楽の貴重な財産のひとつとなっているのが、ドメニコ・スカルラッティのソナタ集なのです。

 時々、無償に聞きたくなる素晴らしく、優しく、それでいて力強い音楽です。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年12月 1日 (火)

私の好きな曲~『ツィゴイネルワイゼン』

 言わずと知れたこの有名な曲の作者をご存知でしょうか。スペイン、バスク地方のパンプローナに生まれた作曲家、ヴァイオリン奏者のパブロ・デ・サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』です。何度聴いても涙が溢れます。いくつかのハンガリー民謡・大衆音楽の旋律を組み合わせて作曲されていて、オリジナルはヴァイオリンと管弦楽なのですが、ヴァイオリンとピアノで演奏する機会も多いですね。
 
 作曲家としてのサラサーテの作品は、ほとんどヴァイオリンと管弦楽(もしくはピアノ)のための作品であり、スペインの民謡や舞曲の要素を盛り込んだ国民楽派に位置付けられ、その代表がジプシー(ロマ)の民謡による「ツィゴイネルワイゼン」であり、ラッシュ、フリッシュなどの特徴を取り入れています。他の作品はあまり演奏されることがないほど、突起したサック品だということが解ります。
 
「ツィゴイネルワイゼン」とは「ジプシーの歌」という意味のドイツ語ですが、その名の通り民族的で、華麗なテクニックが楽しめる作品です。

協奏曲の3楽章に相当する3部からなり、

●ハ短調、4分の4拍子。悲しげながらも堂々とした旋律。管弦楽の斉奏のあと独奏が主題を表します。非常に装飾音符が多く、見せ場には事欠きません。

●ハ短調、4分の2拍子。いわゆる逆付点(16分音符+付点8分音符のリズム)が印象的な旋律を、弱音器を付けたヴァイオリンが奏でます。
ハンガリー民謡にそのまま題材をとっています。ここは泣かせどころですね。

●イ短調、4分の2拍子。いきなり急速なテンポとなる。通常の右手のピチカートと技巧的な左手のピチカートを併用しおています。

 あまりの巧みさにヴァイオリニストには憧れの曲であり、自分がいかに巧みな業を持っているかをまるで競争するかのように、広く知られる曲ですね。

『パブロ・サラサーテ国際ヴァイオリン・コンクール』という、スペインのナバラ州パンプローナで開催される若手ヴァイオリン奏者のためのコンクールもあるほどです。

 サラサーテ自身が演奏した1904年録音のレコードが残されていて、この録音には、途中でサラサーテの声とも言われる謎の呟き声が入っていることで知られています。またこのレコードの呟き声をモチーフとし、内田百閒が小説「サラサーテの盤」を書いており、さらにその小説を元に鈴木清順が「ツィゴイネルワイゼン」という幻想的な映画を制作していいます。ここでも神秘的な音楽が相乗効果をあげました。

 8歳のときに初めての公演をし、10歳のときにスペイン女王イサベル2世の前で演奏を披露しました。その後パリ音楽院で学び、13歳のときヴァイオリン科の一等賞を得ます。1860年代ごろから演奏家としての活動を始め、1865年には一番初めに仲良くなったサン=サーンスと演奏旅行をしました。サン=サーンスはサラサーテに「序奏とロンド・カプリチオーソ」、「ヴァイオリン協奏曲第3番」などを献呈しています。サラサーテはまた、ラロの「スペイン交響曲」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」、「スコットランド幻想曲」の初演者、被献呈者でもあります。サラサーテの華麗な名人芸は、チャイコフスキーやブラームスなどにも影響を与えました。「カルメン幻想曲」も素晴らしい曲です。ジプシー民謡が彼にどれ程の影響を与えたかがよく解ります。情熱と悲壮を秘めたこの音楽は聴くたびに哀愁と悲哀を心に残って、虜にされてしまいます。でも力強さがもろくなりそうな心の支えにもなる、8分程度の曲ですが、リスト同様、勇気を与えてもくれます。この曲は一生の宝の一つです。

1908年9月20日、慢性気管支炎のためビアリッツ(フランスのバスク地方の町)で死去しました。偉大な曲を残して下さったことに感謝したいと思います。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年11月 3日 (火)

私の大好きな音楽家~フランツ・リスト

 私は中学時代にどれ程偉大な音楽家の演奏をレコードで聴いたことか、数え切れません。成長期においてクラッシックを聴くことは、その後の人生においてとても必要不可欠になりました。

 バロック期の音楽は繊細でかつのびやかなところが好きですが、モーツアルトやベートーベンとまた違った色合いのリストの曲は、聴くたびゾクゾクさせられます。僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えたほどで、もう老体になったベートーベンも絶賛したほど、有名な曲を残しています。

 奏技術に関しては、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、彼の死後100年以上経っている現在においても、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないと言われています。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていたそうです。それはオーバーな表現としても、幼少時から指を伸ばす練習をし、10度の音程も軽々と押さえられたとされます。彼の曲には両手を広げての4オクターブの音が多用されました。また速いパッセージでも音数の多い和音を多用しました。

 リストの演奏を聴いた人々の文献によれば、繊細ながら非常にRisut001 情熱的で力強い演奏をしていたとされ、演奏中に弦が切れたり、ピアノのハンマーが壊れることが度々あったといいます。そのため、最初から3台のピアノを用意して演奏をしたこともありました。1台が壊れたら次のピアノに移って演奏、といった形で・・・凄すぎません?また、リストは即興に重点を置いていたため、楽譜はおろか鍵盤すら見ずに、絶えず生み出されるピアノの音に耳を傾けて演奏をしていたと言われているものファンを熱狂させた要因であると思います。

 作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年~1850年頃)、ヴァイマル時代(1850年頃~1860年頃)、晩年(1860年頃~没年)と3つに分けられます。

 ピアニスト時代は、オペラのパラフレーズなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いいたそうです。このころの作品は、現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多くありました。ジャズの即興ピアノに近いかもしれませんね。

 ヴァイマル時代は、ピアニストとしての第一線を退きましたが、作曲家としてはもっとも活躍した時代。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られているといえます。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高く、過去に作った作品を大規模に改訂することも多かったそうです。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されています。「ピアノ・リサイタル」という形式はリストによって完成しました。

 晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になります。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増えました。特に1880年以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていきます。最終的に彼は1885年に『無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽(全音階的でない)を完成させました。

 私が初めて聴いた曲は『ハンガリー狂詩曲第2番ヘ短調』で、音楽の教科書に載っている少し神経質そうな顔をした写真と共に怖いイメージがありました。

『愛の夢』(2曲目)、『3つの夜想曲』なども素晴らしく、このような題名は交響詩といって、リストが標題音楽に交響詩というジャンルを確立したものです。『ラ・カンパネッラ』(今お聴きの曲です)で有名な『パガニーニ大練習曲』はパガニーニの原曲によりながらも独創性の強い作品なので、通常は編曲とは看做さずオリジナル作品に分類されました。

 しかしリストは同時期のショパンやワーグナー、ベルリオーズに比べ、かなり低い評価しかされていません。もともと、ショパンとは全く違うタイプで比較するほうがおかしいのですが、「交響詩」という形で実が結び、後のスメタナやドビュッシー、リヒャルト・シュトラウス、レスピーギ、シベリウスなどによって受け継がれ、多くの傑作が生まれた事も事実で、そこは高く評価されていいと思います。

 彼の曲は決して癒しを求めるものではないけれども、何かに必死に取り組む姿を連想させ、ピアニストなら誰もがその巧みな業を披露したくなるのではないかと思います。

 ここでは辻井伸行さんとフジ子・ヘミングさんの演奏でお楽しみ下さい。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年10月25日 (日)

風景の中の私~松任谷由美

 悲しい時には元気を、嬉しい時には優しさをいつも音楽で教えてくれたユーミン。男性はいつまでも少年のような心を持った人が好きだと言われますが、女性だっていくつになっても少女のような心があるのだと思います。そう思わせてくれるのがユーミンでした。荒井由美の時代から『ひこうき雲』『ベルベットイースター』『魔法の鏡』などどれも思い入れの大きな曲ばかりで、自分の淡い恋心を歌に重ねていたあの頃・・・

 ヒットが続き、荒井由美と言う名が浸透してきたにも関わらず、松任谷正隆氏と結婚し松任谷性にあっさり変ったことも驚きました。
 新婚当時は歌もなんだかお惚気っぽかったことがありましたが、そこはユーミン、ちゃんと起動修正し、ユーミンらしいものへと戻ったように思いました。『帰愁』『翳りある部屋』『あの日の帰りたい』・・・青春の後姿を人は皆忘れてしまう・・・曲も素晴らしいですが、詩も私にはかけがいの無い宝物のようです。

 いくつになってもバービー人形のようスタイルを保ちたいとユーミンは常に努力の人でもあります。

 よく中島みゆきさんと比較されますが、比較するのはおかしいと思いませんか?全く違った良さがお二人ともあるのですから。好き嫌いはあるかもしれませんが、1980年代から活躍しているのです、お二人とも50代になっても全く衰えることを知らない、いえ、衰える隙が無いのだと思います。小田和正さんも、稲垣潤一さんも努力して今に至っていると思うのです。

 私は50代になっても頑張ってるミュージシャンを絶賛したいのです。勇気をもらえるのです。

 中島みゆきさんの歌は詩に考えさせられる事が多く、ただ聞き流すには勿体無い歌が多いですよね。その点、ユーミンの歌は聞いていて風景を思い浮かべ等身大の自分をその風景の中に置くことで物語の主人公になったような気にさせてくれます。青春のいろんな思い
が蘇ってきて、今の摺れてしまった自分を反省することもできます。

 何はともあれ、聞きいていて耳障りでないのが音を楽しむ上で重要だと考えます。夢を与えてくれるのも音楽のいいところですよね。

一時期は聴きすぎて少し飽食状態になったことがありますが、最近、またとても聞きたくてメディアプレーヤーでいろんな他の人の曲とシャッフルして聞いているのでした。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年8月28日 (金)

私の好きな音楽家~ヨーヨー・マ

 バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番から前奏曲 ヨーヨー・マ

 例のごとく兄に勧められて聞いたヨーヨー・マ。何故こんなに癒されるのか不思議な気持ちに陥ったことを思い出します。  

 1976年に、ハーバード大学を卒業、人類学の学位を取得。ジュYoyoma001 リアード音楽院でレナード・ローズと共に学んでましたが、教師に「君に教えることはもう何もない」といわれ、コロンビア大学を経てハーバード大学に入学したという逸話があります。それでも1970年代にパブロ・カザルスの偉大さに触れるまではまだ学習を続けるべきか否かを迷っていたといいます。

 1983年にバッハのチェロ組曲を録音。1994年-1997年にかけて再録音を行いました。室内楽にも熱心であり、ジュリアード音楽院時代から親密にしていたピアニストであるエマニュエル・アックスと共演しています。

 1991年にハーバード大学から、名誉博士号を授与されました。
2000年、テレビドラマザ・ホワイトハウス(原題:The West Wing)に本人役で出演と言うお茶目な目な面もあります。
 2009年、バラク・オバマの大統領就任式典にて演奏したのは有名ですね。しかし実際に会場にスピーカーで流された音はリアルタイムのものではなく、事前に録音されたものであったことがわかり、各方面で賛否両論の声が上がりました。式典当日の気温は氷点下であり、その寒さのために楽器の音程が狂う恐れがあったため、録音を使用したそうですが。ただし、演奏そのものは実際に行われました。

 TV-CMへの出演で、クラシック・ファン以外にもすっかり人気となった、現代を代表するチェリストの一人。傑出した技巧、色むらのない豊かな音色で、叙情に溢れる感傷性、洗練された美しさ、深い表情を、自在に歌い上げています。レパートリーも広く、バロックから現代にまで及びますが、近年はプロコフィエフやショスタコーヴィチといった近現代のロシア作品に重きを置いているようです。

そしてソロと並行して室内楽にも力を注いでおり、スターン、アックスなどと共演、高評を得ています。その他、クラシックの枠にとらわれず、ジャズ・ミュージシャンや、舞踊家などとも共演、またタンゴ演奏はCFでもおなじみとなり、CDは爆発的な売り上げを記録しました。

ヴァイオリニストの父とメゾ・ソプラノ歌手の母のもと、1955年パリに生まれ、6歳でパリ大学芸術考古学研究所にてリサイタルを行いデビュー。62年に家族で渡米し、ジュリアード音楽院でヤーノシュ・シュルツ、レナード・ローズに学びました。63年バーンスタイン指揮のテレビ番組に出演した後、アメリカ各地でコンサート活動を始め、アメリカの主要音楽祭にも参加。77年からはヨーロッパにも活動の場を広げ、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど一流オーケストラとも共演を果たしているのです。

 もう、50歳半ばなんですが、名前が広く知られるようになったのは、確か、2000年代になってからですが、クラシック以外でも、エンニオ・モリコーネと共演したり、ブラジル音楽やったり、ピアソラ弾いたりした頃から好きになりはじめました。

 「シンプリー・バロックⅡ」は、とても穏やかで上品で謙虚なイメージで、きっと彼の人柄もこういう感じに違いない、と思ってしまうような演奏です。最後の2曲 「チェロ協奏曲」はポッケリーニの曲で、その他はバッハの曲。どれも仰々しいタイトルがついていますが、聞くと絶対に病みつきになること間違いありません。ただ部屋に流しておくだけで、とにかく心癒されます。

聴き覚えのある曲は、「G線上のアリア」と「マタイ受難曲」などでしょうか。ハイドン:チェロ協奏曲第1番&第2番/ボッケリーニ:チェロ協奏曲変ロ長調もいいですよ。

 ヨーヨー・マは、2000年の8月6日に広島で演奏しているんですね。自らのコンサートのため広島入りし、この日は平和記念式にも参列。
前日には広島平和記念資料館(原爆資料館)を見学ししたそうです。核被害の悲惨さに「何度見ても心を揺さぶられる」といい、「音楽は過去と未来をつなぎ、過去の苦しみをいやしもできる。その“いやし”を表現したい」と飛び入りを決めたそうです。 そういうところが、またたまりません。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年7月28日 (火)

私の好きなミュージシャン~中島みゆき編

 私は今現在50代のミュージシャンの頑張りに励まされています。

50代、決して遠くない私の未来は彼らのように動的だろうかと考えた時、どうしても頭を掠めるのは彼ら、彼女らなのです。

今は『ダサい』で済まされてしまう例えば、中島みゆきの歌詞を よく聞くとこんな光景は今でも大いにあると思えるはずです。みゆきさんは、1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による第9回ポピュラーソング・コンテスト(通称ポプコン、現在のTEENS' MUSIC FESTIVAL)に「傷ついた翼」が入賞。同年9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)から晴れてレコード・デビューを果たします。そして、1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞。つづけて11月の第6回世界歌謡祭 でもグランプリを受賞した(「時代」は同年12月にセカンド・シングルとして発売)。

 これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一Miyuki002に見出されました。その後みゆきさんは川上氏を現在に至るまで師父のように仰いでおり、彼女のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されています。ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、彼女はヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンです。
 
 この70年代は、歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められています」。この作品は後年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングル・カットされなかったにもかかわらずみゆきさんの初期の代表曲のひとつとなっています。なお、『親愛なる者へ』以降、1985年発表のアルバム『miss M.』までの8枚のスタジオ録音アルバムは連続でオリコンのアルバムチャートで1位を獲得しているのです。

 

 1979年、ニッポン放送『中島みゆきのオールナイトニッポン』(月曜1部)がスタートし、番組においての軽妙な語り口がリスナーのあいだで大きな人気を集めした。ユーミンとよく比べられていたのを覚えています。1980年代前半にはミュージシャンとして更に大きな人気を集めており、1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、翌1982年の年間チャートでも6位を記録。
、また、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達しました。1983年には柏原芳恵に提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞の作曲賞を受賞したほどです。みゆきさんは多くの詩を他の歌手に提供し、その後、『おかえりなさい』でそれらの曲を自分で歌ってそれもまた、情緒があっていいなと思ったものです。

ところが、それ以降アルバム・セールスは下降線を辿り、1980年代中期から後期にかけてはサウンド・アプローチや作風そのものについてもひたすら模索する時代が続きました。当時みいゆきさんは、甲斐バンドの甲斐よしひろやクリスタルキングなどをプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、テッド・ジェンセンやラリー・アレキサンダーなどによるニューヨークでのミキシングなどに臨んでいました。また、1985年発表のシングル「つめたい別れ」ではスティーヴィー・ワンダーの吹くハーモニカを大々的にフィーチャーしています。後年になって模索に励んだ1980年代中期を振り返り、『御乱心の時代』と称しています。自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、職業作家としては工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」、「黄砂に吹かれて」などの作詞を担当しました(作曲は後藤次利)。

 そんな「御乱心の時代」は、1988年のアルバム『グッバイ ガール』のプロデュースを手がけた瀬尾一三氏との出会いによって収まることとなりました。みゆきさんにとって「これまで自分がやってきたあらゆるスタイルに対処してくれる」という瀬尾は適任らしく、それ以降現在に至るまでの全てのオリジナルアルバムでアレンジ、プロデュース、演奏に携わっています。1989年からは、瀬尾氏が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台『夜会』をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようにまりました。

「夜会」はみゆきさんにとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されています。一度でいいから行きたいねと兄(兄は熱狂的なファンです)と話しても何年経つことでしょう。札幌にはなかなか来てくれないですね。

 1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えませんでしたが、その中においてみゆきさんも例に漏れず、「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録しています。この3枚のいずれもテレビドラマの主題歌として起用された楽曲であり、なかでも安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空とMiyuki003 君のあいだに」は147万枚のセールスを記録しました。1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、現時点での中島にとっての最大級のベストセラーです。また、この時期のアルバムはシングルほど芳しい成果を上げるわけではなかったものの、それでも1980年代後半よりも安定した成績を収めました(『EAST ASIA』から『パラダイス・カフェ』までの5作は全て20万枚以上のセールスとなっています)。1996年にはベストアルバム『大吟醸』がオリコンのアルバムチャートで1位を獲得し、日本における女性ソロアーティストのアルバムチャート1位獲得の当時の最高齢記録を更新(現在この記録を保持しているのは竹内まりや)。しかし、その後1997年から1999年にかけてのCDセールスは全体的に大きく伸び悩びました。

一方で、1989年から始めた舞台「夜会」に自身がかけるウェートはより大きくなり、1995年以降に上演されたものは書き下ろしの新曲を中心に構成される、より大掛かりなものへと変貌を遂げていきました。

 2000年には、NHKのテレビ番組『プロジェクトX?挑戦者たち?』の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」が注目されました。このシングルは主にみゆきさんの作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週に渡ってランクインするという驚異的な記録を打ち立てたのです。

 中高年に応援歌のランキングを聴いたところ、『ファイト』がダントツだったというアンケート調査もあるくらいです。

女心を歌う歌手としてNO.1と言っても私じは過言ではないと思います。誰でも『化粧なんてどうでもいいと思っていたけれど、せめて今夜だけでも綺麗になりたい・・・』こんな思いをしたことがあるのは私だけではないはずです。女心を切々と歌ったかと思うと空、大地、銀の龍とテーマが大きく変ったり、でもよく聞くと弱きものが大きなものへ挑戦している姿だったりするところが彼女らしいと思うのです。

 確かに『根暗』といえるかもしれません。でも一度『夜会』を見てみて下さい。彼女がいつも歌う歌があるのですが、1秒たりとも音のずれがないことに驚くはずです。私はユーミンのほうが好きでしたが、最近じっくり詩を聞いて情けないくらい弱い女の部分を知らされたと思います。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年5月28日 (木)

私の好きな音楽家~アントニン・ドヴォルザーク編

 ドヴォルザークといえば『新世界』ときますよね。でも以外と知られない曲に素晴らしい曲があります。ブラームスに才能を見いだされ、「スラヴ舞曲集」で一躍人気作曲家となりました。ベドルジハ・スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれていますね。その後、アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させていました。代表作に、交響曲第8番、交響曲第9番『新世界より』、この分野の代表作でもあるチェロ協奏曲、『アメリカ』の愛称で知られる弦楽四重奏曲第12番などがあります。これらの作品を通して、ドヴォルザークは、チェコ国民楽派を代表する作曲家であり、後期ロマン派を代表する作曲家というにとどまらず、クラシック音楽史上屈指の人気作曲家にもなりました。

 1855年、ドヴォルザークの両親はネラホゼヴェスを引き払い、Renoirbura003 ズロニツェに移って飲食店を始めました。翌年になるとドヴォルザークはチェスカー・カメニツェという町でフランツ・ハンケという教師にドイツ語と音楽を学ぶことになりました。ところが、家庭の経済状況が
悪化して音楽の勉強を続けさせることが困難となり、両親は帰郷させて肉屋を手伝わせようとしました。これにリーマンと伯父が反対し、両親を強く説得、さらには伯父が経済的負担を負う約束で1857年にドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学。経済的には苦しい学生生活でしたが、3歳年上の裕福な家庭の友人カレル・ベンドルと知り合い、楽譜を貸してもらうなどして苦学を重ね、2年後の1859年に12人中2位の成績で卒業。この時の評価は、「おおむね実践的な才能に長けている(中略)ただし理論に弱い」というもででした。カレル・ベンドルとの友情は卒業後も変わらず篤いものであり、ベンドルは後にドヴォルザーク作品を初演するなど援助を惜しまなかったのでした。創作活動では、オルガン学校在学中から習作は行っていたようですが、多くは破棄されてしまいました。

 コンクールの応募作品として最初の交響曲が書かれたのは1865年のことでした。しかし、この交響曲は生前演奏されることはありませんでした(ドヴォルザーク自身その存在を忘れていたと言われる)。1870年には最初のオペラである『アルフレート』を書き上げますが、この作品は、ライトモティーフの手法や切れ目のない朗唱風の歌唱など、ワーグナーの影響が強く表れています。同時期に作曲された弦楽四重奏曲第3番や第4番にもその影響が濃く、当時のドヴォルザークが熱心なワグネリアンであったことがうかがえます。さらに1871年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のプラハ初演に刺激されて、歌劇『王様と炭焼き』(第1作)が作曲されています。スメタナはこの作品を「まさに天才の理念に満ちた」作品と評しましたが、同時に「これが上演されるとは思わない」とも予言していました。その言葉通り、このオペラは4週間のリハーサルの末、放棄されることとなりました。

 ドヴォルザークは1871年に、作曲に多くの時間を充てるためにオーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにした。こうした状況の中、翌1872年から作曲に取りかかった作品が、彼の最初の出世作となった賛歌『白山の後継者たち』でした。1873年3月9日、『白山の後継者たち』は、学生時代の友人カレル・ベンドルの指揮で初演されました。民族主義の高まりもあり、この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得ます。この初演の際に、かつて音楽教師を行っていた姉妹のうち妹のアンナ・チェルマーコヴァーと再会し、この年の秋に結婚。1874年にはプラハの聖ヴォイチェフ教会(聖アダルベルト教会)のオルガニストに就任。この教会は伝統ある教会であり、社会的地位はかつての楽団員のそれよりも向上し、ささやかではあるが年俸が保証されることで、新婚生活の経済状態を安定させることができました。そしてこの年からかつて放棄された『王様と炭焼き』の台本を再び採り上げ、これに第1作とは全く異なる音楽を作曲し、ナンバーオペラとして完成させました。1874年11月24日に行われた初演は大成功を収め、音楽雑誌『ダリボル』には「ドヴォルザークは、その名が金字塔として際だつような地位にまで高められることだろう」という批評家プロハースカの予言が踊りました。こうしてドヴォルザークはワーグナーの影響下から徐々に離れていきました。

 アメリカの人々はこの高名な作曲家の渡米を心から歓迎しました。当時のアメリカは、音楽については新興国ではあったが、潤沢な資金でメトロポリタン・オペラやニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、あるいはアルトゥール・ニキシュが指揮者を務めるボストン交響楽団など高い水準の演奏が行われていました。しかし、自国の音楽家育成については緒に就いたばかりで、音楽院自体がその機能を十全には果たしていない状態でした。ドヴォルザークの音楽院院長就任はこうした状況打破に対する期待を持たせるものでした。1892年10月からドヴォルザークは講義を開始しました。

 1893年1月に着手した交響曲第9番「新世界より」は5月24日に完成しますが、4月14日付けの友人宛の手紙の中でドヴォルザークは「この作品は以前のものとは大きく異なり、わずかにアメリカ風である」と書いています。この作品は、ロングフェローの『ハイアワサの歌』に多くをインスパイアされたと言われています。5ヶ月間の休暇を取り、ボヘミアに帰った後チェコに着くと彼はヴィソカーの別荘に直行し、住民たちの心温まる歓迎を受け、心からくつろいだ休暇を送ることができました。同年、10月ニューヨークに戻った彼は、強烈なホームシックに襲われ体調を崩してしまいました。その一方で、この頃サーバー夫人の夫(ナショナル音楽院最大のパトロンだった)が1893年恐慌のあおりを受け破産寸前に追い込まれていたことから、ドヴォルザークへの報酬も支払遅延が恒常化しつつありました。11月8日からチェロ協奏曲に着手し、翌1895年2月9日にこれを完成させますが、これが限界だったもでしょう。。ドヴォルザークはサーバー夫人に辞意を伝え、周囲の説得にもかかわらず、4月16日にアメリカを去ったのです。

 帰国後もドヴォルザークはしばらく何も手につかない状態にありました。しかし1895年11月1日、プラハ音楽院で再び教鞭を執り始めたのです。作曲も再開され、アメリカを発つとき未完成のまま鞄に詰め込まれた弦楽四重奏曲第14番も1895年の年末には完成しました。1896年3月彼は、最後となる9回目のイギリス訪問を果たします。この直後、ブラームスからウィーン音楽院教授就任の要請を受けますが、これを断りました。アメリカ滞在や最後のイギリス訪問を通じて彼は、ボヘミアこそ自分のいる地だと思い定めたのです。この後、ドヴォルザークは、標題音楽に心を注ぐようになります。カShagaru002 レル・ヤロミール・エルベンの詩に基づく交響詩の連作(『水の精』、『真昼の魔女』、『金の紡ぎ車』、『野ばと』)を作曲したのも1896年のことです。帰国後のドヴォルザークには多くの名誉が与えられました。1895年、ウィーン楽友協会はドヴォルザークを名誉会員に推挙すると伝えました。同年ウィーン音楽省はプラハ音楽院への援助を増額する際に、ドヴォルザークの俸給を増額するようにと明記しています。1897年7月にオーストリア国家委員会の委員となりました。この委員会は、かつてドヴォルザークが得ていた奨学金の審査を行う委員会であり、才能ある貧しい若者を援助できることは彼にとってこの上ない喜びでした。さらに1898年には、それまでブラームスしか得ていなかった芸術科学名誉勲章をフランツ・ヨーゼフ1世の在位50周年式典の席で授けられています。こうして、さまざまな栄誉を身につけたドヴォルザークでしたが、彼にはオペラをヒットさせたことがないという焦燥感があったようです。そしてチェコの民話に想を得た台本『悪魔とカーチャ』に出会い、オペラ創作に邁進してゆきます。1898年から1899年にかけて作曲されたこのオペラは、1899年11月23日に初演されると大成功を収め、ドヴォルザークは、ジムロックからの要請にもかかわらず、他のジャンルには目もくれずに、次の台本を探し求めました。そして出会ったのが、『ルサルカ』でした。1900年4月に着手され、11月27日に完成したこの妖精オペラは1901年3月31日にプラハで初演されて再び大成功を収めます。でも様々な事情でウィーンで上演される機会を逃し国際的な名声を生前に受けることができなかったことで、ドヴォルザーク自身は決して満足できず、これ以後もオペラの作曲を続けますが、最後の作品であるオペラ『アルミダ』(1902年 - 1903年作曲、1904年3月25日初演)は、初日から不評に終わってしまいました。

 ドヴォルザークには、尿毒症と進行性動脈硬化症の既往があったのですが、1904年4月にこれが再発。5月1日、昼食の際気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取りました。死因は脳出血でした。葬儀はその4日後の5月5日に国葬として行われ、棺はまずプラハの聖サルヴァトール教会に安置された後、ヴィシェフラド墓地に埋葬されました。あまりに多忙を極めたことによる過労死ではないかと私には思えます。自分が納得出来るまで何度も挑戦する姿勢、見習いたいものです。
 交響曲も素晴らしいですが、管弦楽曲もセレナードもいいですよ。

音楽家は皆壮絶な生き方をしていますね。自分をギリギリの極限状態にまで持ってく・・・芸術家の運命なのでしょうか・・・

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月22日 (金)

フォークソングと呼ばれていたあの頃

 私が知る限り、1970年代が黄金期と言えるのではないかと思います。私はまだ幼かったけれど、兄がよく聞いていて、私も『花嫁』や『悲しくてやりきれない』『あの素晴らしい愛をもう一度』など沢山の曲を歌いました。家にはクラッシクギターはありましたが、フォークギターがなくて、それでもコードを何とか覚え、その頃には、吉田拓郎や井上揚水のレコードを買っていました。

 でも何より加藤和彦氏と北山修氏の存在は大きかったですね。加藤さんは、アマチュアフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散記念に制作したインディーズアルバム『ハレンチ・ザ・フォーク・クルセダーズ』中のオリジナル曲『帰って来たヨッパライ』に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれましたね。加藤さんは難色を示しましたが、毎朝説得に来ていた北山修の説得により1年かぎりとの約束でプロの世界に入りました。
 シングル2作目に予定していた『イムジン河』が、政治的配慮から発売禁止にされたこともありました。これに憤慨し、イムジン河のメロディを逆回転させて作った曲が『悲しくてやりきれない』であるとする説もあります。
 
 1990年代からは歌舞伎音楽を手がけました。この縁から、後のModann003 フォーク・クルセダーズ再結成コンサートでは、市川猿之助 (3代目)と共に歌舞伎の口上で幕を開けました。考えられますか?
 
『イムジン河』が初めて日の目を見た2002年には、フォーク・クルセダーズを半年間限定で新結成(他のメンバーはきたやまおさむと坂崎幸之助で、はしだのりひこは不参加)しましたね。映画『パッチギ』にて、第60回毎日映画コンクール音楽賞受賞。2005年発売のプレイステーション2用ゲームソフト「天外魔境III NAMIDA」の音楽を担当と幅広く活動しています。

 そんな加藤さんを横目に私は拓郎の熱狂的なファンになり、最初の離婚をするまでは応援していたのですが、並行するように、揚水、かぐや姫、泉谷しげる、赤い鳥、ガロ、チューリップ、送れてオフコース(彼らはフォークとは一線を博していたようですが)ユーミンと聞いていくうちに、ニューミュージックと言う言葉が現れ、一くぐりにされてしまいました。その後も松山千春、中島みゆきはフォークでしょうと言いたくなりましたが、拓郎らは、ボブ・ディランに影響された人が多かったですね。かれらの音楽は、詩を重視し、語り部のような要素があり、それがまたたまらなくいいものでした。
 最近はかぐや姫の歌の『神田川」を聞いて、「生活保護受ければいいのに」と言う人もいるそうです。情緒がないですね・・・

吉田拓郎がNHKの『ヤング101(?だったと思いますが)』に出演が決まっていた時、ちょうど婦女暴行事件で騒がれて出演禁止になった時は本当に悲しくてやりきれないおもいをしました。以降、TV出演は殆どなくなり、フォークの歌い手は一にぎりの人しかテレビに出なくなりましたね。

 唯一、深夜のラジオ番組にいるんなフォークシンガーがディスクジョッキーになり、それを眠い目を擦りながら聞いていた次第です。そんな学生時代を過ごした方は今は何を聞いているのでしょうか・・・

 今聞きたいのは、不思議と井上揚水さんの『氷の世界』のアルバムですね。『旅の宿』も時々聞きたくなるので、マイ・ミュージックに保存してはあるのですが、昔を思い出してもどうにもならないので、今時の曲を理解しようと思うのですが・・・ついていけませんね・・・でもウタダヒカルじやミスチルは好きですよ。黄金期のように歌番組はなくなってしまいましたし、どうやってみんな曲を聴いているのだろうと不思議でたまりません。昔は月間明星とか平凡を買うと新曲からやや古い曲までギターコードがついた詩がのった付録がついてきてそれで歌を完全マスターしたものでした。年齢がバレバレですね。でも今はあの頃ライバル的だった存在も仲間でワイワイやっていると小田さんが言っていたのを聞いて、なんだかほっとしています。

 清志朗さんも、好きだっただけに今だ死を受け止められないでいる私でした。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2009年5月 7日 (木)

私がちょっと好きな作品たち~秋元 康編

 放送作家、脚本家、映画監督、作詞家、作家、漫画原作者、プロデューサー、タレント、馬主、京都造形芸術大学副学長兼芸術学部教授。ただし、本人による肩書きは「作詞家」のみ。日本映画監督協会会員。自身が取締役を務め妻(元おニャン子クラブの高井麻巳子)が監査役を務める株式会社秋元康事務所に所属。東京都目黒区出身。AKB48とSKE48の総合プロデューサー。

 でも本人曰く作詞が一番合っていると思います。あの歯の浮くようなセリフをよくぞここまで書いてくれましたと賞賛したいです。

 高校時代から放送作家として頭角を現し、『ザ・ベストテン』など数々の番組構成を手がけました。83年以降、作詞家として、美空ひばり『川の流れのように』をはじめ、中島美嘉『WILL』、EXILE『EXIT』、ジェロ『海雪』ほか、 数多くのヒット曲を生みました。
91年には、松坂慶子・緒形拳主演『グッバイ・ママ』で映画監督デビュー。企画・原作の映画に『着信アリ』シリーズ、『伝染歌』など。
TV番組『うたばん』『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの企画構成、ラジオ『秋元康のMature style』(TOKYO FM)のパーソナリティー、新聞・雑誌の連載など、多岐にわたり活躍中。アイドルユニット“AKB48”、そして、本年10月より活動を開始する“SKE8”
ただの総合プロデューサーも務めます。
著書に『一生を託せる「価値ある男」の見極め方』(講談社+α文庫)、『「選ばれる女性」には理由がある』(青春出版社)、『恋の知恵本』(海竜社)、『おじさん通信簿』(角川書店)ほか多数。07年秋に映画化された著書の小説『象の背中』(扶桑社)は、アニメ版(ポニーキャニオン)と絵本版(光文社)も制作され、大きな反響を呼んでいます。

 作詞というのは俳句や短歌と同じで、私には非常に難しい物のJansem_work06s 様に思うのですが、阿木耀子さん同様 、ただの語呂合わせをしているとも思えず、かなりのロマンティストでもああいう歌詞はなかなか出てこないと思われ、そういう意味では尊敬してしまいます。

 作詞についてはこれ以上述べられませんが、秋元氏が出した本について、少し語りましょう。

『失恋おりがみ―30日で立ち直る』という作品を読んでみました。確かに女の子の心をきゅっと締め付ける内容ですね。ココロが癒される魔法のクスリです。落ち込んだりもしたけれど1ヵ月後には、きっと、元気になれる。沁み入る写真とメッセージで綴る、今までにない“おとなのおりがみ”。恋に傷つき、疲れ、絶望してしまっているかたはダマされたと思って1日1作品、無心の境地でおりがみを折ってください。30作品を折り上げる頃には、不思議とココロが軽くなるのを実感できるはず。欧米でもブームを呼んでいる魔法の指先アート“ORIGAMI”から造形美を極めた新作を中心に厳選。切なくも優しいメッセージと写真が、明日への一歩を、そっと後押ししてくれます。と出版社 / 著者からの内容紹介があり、と不思議な気持ちになりますが、中身は素敵な内容です。少しずつ少しずつ立ち直って行こうとする気持ちと、ゆっくり時間をかけて折る折り紙。
 「立ち直れるかどうかは別として、30個折り終わった時にはやさしい気持ちになれていると思います。それが秋山さんの魔法のような気がする。」という声も。

 『おじさん通信簿』という本は、「おじさん」を楽しむことができると、年を取ることが楽しくなるというお話で、季節が変わると山の色合いが移ろうように、「おじさん」になって見える世の中もまた味わい深いといいます。おじさんライフを楽しむ著者のエッセイを収録。「スポーツニッポン」などでの連載に加筆修正した部分があります。 おじさんが、おじさんの行動の特徴と、若者とのギャップを分析したエッセイです。 従って、女性と45歳未満の男性は読んでも面白くないかもしれませんが売れているようです。
 ふんふんと同意したり、「俺はしないぞ」と反発したりしながら、短時間で読み切ってしまいそうです。そうやって面白おかしく、おじさん自身をいじっているくせに、最後の2編のエッセイ(テーマは「東京の雪だるま」と「深夜の散歩」)では感動めいた思いを残してくれるものでした。年齢と性別の条件に合致する方はぜひお読みください。もし躊躇されているならp.99のたった2ページのエッセイを立ち読みしてください。笑えて落ち込めます。

 『さよならにもルールがある』は、なぜ恋は終わるの?なぜ想い出はつらいの?それでもどうして人は恋をするの?はじまりがあれば、終わりもある恋。男性の立場から秋元康氏が、女性の立場から柴門ふみさんが、正しい恋の終わり方について解き明かします。

どうしても自分を責めてしまうとき、失恋の涙がとまらないとき、彼の愛に疑問を感じたとき、速やかに男と別れたいとき、手にとって欲しい失恋の処方箋です。

以外にも小説の世界に飛び込んだように思ったものですが、短い曲の中で言いたい事全部言えないのだから小説にして充実感を味わいたいという秋元氏の気持ち、判るような気がします。

 これからも愛のメッセージを伝えてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)