音楽

2010年5月14日 (金)

キャンセルのはしり『ミケランジェリ』

 

 ミケランジェリ家は、アッシジの聖フランチェスコの末裔と伝えられています。3歳から音楽教育を受け、最初はヴァイオリンを学びましたが、間もなくピアノに切り替えたそう。10歳でミラノ音楽院に入学。父親の主張により、一時期医学を学んだこともありました。1938年、18歳で国際イザイ音楽祭に参加。一次予選の演奏から早くも注目を集めますが、初見が苦手であったことが災いし、第7位の入選に留まります。
翌1939年、ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝し、審査員長のアルフレッド・コルトーから『リストの再来』と賞賛されました。コレが私が彼に惹きつけられる所以でしょう。

 第二次世界大戦中はファシズムに対するレジスタンス運動の闘士としても活躍しました。そういう魂がこもった音が彼の音ふだったのかもしれません。でもショパンの曲などは、そんな荒荒しさはみじんも感じません。 

 1920年にブレシア近郊の小さな町に生まれ、1955年にルガーノで亡くなった彼は、誰もがその名とその音楽を知っている、20世紀最高のピアニストです。その信じられないような精神的規律、唯一無二の完璧な技術、形式に対する禁欲的な意識、そして表現における圧倒的なスケールで、彼の芸術に感銘を受た人は多いことでしょう。もっとも、彼の演奏を実際に聴く機会があったらの話ですが。
 

 そう彼は、公演をキャンセルすることで有名でした。キャンセル魔だったことは、生前から伝説となっていました。でも、このピアノの天才の人となりについては、それ以外は誰も知りません。彼自身が「自分には私生活はない。練習しているか、研究しているか、教えているかだ」と語っているように、私生活がほとんど知られていない芸術家の一人でもあります。作家のコード・ガーベンは17年間にわたり、この謎めいた天才とともに仕事をしたそうです。

 レコード・プロデューサーとして、あるいは協奏曲の指揮者として、時には、猛烈なスピードで走る自動車の同乗者として。。。公私にわたり身近にあった者のみが知る天才の素顔と、綱渡りのような交友を綴る一方で、その芸術の真実を探求著作で紹介しています。
 私は本は一切読んでいません。この旋律に共鳴したのです。

 完璧にコントロールされた技術と高い精神性、そして作品に捧げられる献身的情熱とが結晶となった彼
の音の世界は、まさに演奏芸術の頂点を究めた表現活動であり、余人の追随を許さない高みにあったと
私は思っています。

 キャンセル魔、過敏なまでに神経質な対人関係、録音嫌いなど、彼にまつわるエピソードは尽きることがありません。本来彼は非常に強い完璧主義からコンサートのキャンセルを頻発し、次第に年間に「実際に」とり行われた演奏会が10回に満たないという例も珍しくなくなっていきました。しかし、その貴重な演奏会が更に評判を呼び、一層ミケランジェリというピアニストを伝説に押し上げていったのでした。Tanaka001

 しかもこうしたうわさ話は、時に一人歩きし虚像をいたずらに大きくしてしまった感すらありますが、
ひとたび彼の演奏を耳にすれば、その神秘的なまでの美しさは聴く者すべてを虜にし、紛れもないミケランジェリの音と音楽の世界があることを確信させてくれます。
 そしてピアノ演奏の測り知れない奥深い領域へと聴き手を導 くとともに、音楽がいかにかけがいのない表現活動であるかを再確認させてくれたのです。

 日本にも3度来日していますが殆どがキャンセル。。。どんなにファンが残念がってもこれだけは譲れない所だったのでしょう。

こんなエピソードがあります。ドイツ・グラモフォンに録音した有名なショパンの録音は僅か3時間足らずで録音されたという話です。ノーミスの完璧な演奏ができたため、録り直すことがなかったため。その代わり、録音に至るまでピアノが満足できる状態になるまで偏執的にこだわるなど、演奏会にしても録音にしても実際にピアノを弾くまでに至る準備は大変なものだったそうです。

 紹介した曲はあまり有名な曲ではありませんが、ミケランジェリという人となりが解る、というか、変に身構えなくても聴ける曲を選びました。ご堪能下さい。お顔はやはり神経質そうですが(笑)。

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2010年4月28日 (水)

バッハの偉大な演奏者『グレン・グールド』

 世界的に人気の高い、この方を私は迂闊にも知りませんでした。「私は彼を崇拝している」。。。この言葉が私を動かしました。
後日、「聴いてみて」と送られてきたCDを聴いたり、youtubbeの動画を観たりしていくうちにその素晴らしさに魅せられました。

 グールドは、一般的なクラシックのピアニストとは一風異なるレパートリーの持ち主でした。デビュー以来、グールドは活動の基盤をバッハにおいてました。その傾倒ぶりは、彼のバッハ作品の録音の多さはもとより、彼の著述からもうかがい知ることができます。Kurudo001_2

 グールドの興味の対象はバッハのフーガなどのポリフォニー音楽(複数の異なる動きの声部が協和しあって進行する音楽)のことでした。
 バッハは当時でももはや時代の主流ではなくなりつつあったポリフォニーを死ぬ直前まで追究しつづけましたが、そうした時代から隔絶されたバッハの芸術至上主義的な姿勢に共感し、自らを投影したと思われています。

 グールドのデビュー当時、バッハの作品は禁欲的な音楽であると考えられていていました。精神性の高さを重視したピアノ演奏が支持されていたのです。また、19世紀末から始まったチェンバロ復興運動の流れから、その鍵盤曲はチェンバロによって演奏するのが正統であるとの考えが広まりを見せていました。こういった事情により、ピアノに華やかさを求める演奏者・聴衆はバッハを避ける傾向にありましたが、グールドは、デビュー作「ゴルトベルク変奏曲」の録音において、旧来のバッハ演奏とは異なる軽やかで躍動感あふれる演奏を、ピアノの豊かな音色と個性的な奏法により実現したのです。

 発表当時の評価は大きく分かれました。しかしその後、ピアニストに限らず多くの音楽家に与えたインパクトは甚大であったことは確かです。その後も、様々なバッハの鍵盤作品について大胆な再解釈を行い、バッハ演奏について多くの業績と録音を残しました。
 こうして、グールドは、リヒテルが『バッハの最も偉大な演奏者』と評したように、バッハ弾きの大家としての名声を不動のものとしていきました。

 バッハの『ゴルドベルク変奏曲』を聴くことそのとたん、ゆっくりとにバッハが染まりながら広がっていいく。。。
 グールドのピアノは音一つ一つが柔らかく、そのように弾きたいがために自前の低めの椅子をコンサートホールにまで持ち込む、まるで小さな子供が弾いてるような格好でした。

 極端に猫背で前のめりの姿勢になり、時に大きな手振りでリズムを取るといった特異な奏法と斬新な演奏で世間の注目を集めました。坂本龍一氏は、この伝統的には正しくない姿勢について、上半身の力が過度にかからず、音が非常に清潔でクリアになっていると指摘しています。

 伝統的な「正しい姿勢」による奏法は、強大なフォルテを生み出すことが可能である反面、一つ一つの音の精度を下げているという考え方です。

 ピアノという楽器の中で完結するようなピアニズムを嫌悪し、自分は「ピアニストではなく音楽家かピアノで表現する作曲家だ」と主張していたのですが、第1の業績が斬新で完成度の高いそのピアノ演奏であることは異論のないところでしょう。

 もう一つ、私が驚いたのは、ピアノを弾きながら口ずさむと言う行為でした。この動画はまさに良く表していますが、スタジオ録音でも歌うので、「ノイズが入る」と注意すると、グールドは黙ってピアノを弾くことはできないとして生涯この癖が直ることは無かったそうです(笑)。しかしこの歌声によって現在弾いている曲の隠れた旋律や主題を分かりやすく聞くことができるのも事実です。

 グールドは、作曲者Kurudo002_2 のように演奏をします。演奏にあたっては、楽譜が指定したテンポ、強弱、アーティキュレーション(はっきり区別すること)、装飾記号などを勝手に変更したり、分散和音の一部を強調して繋いで新たな声部を作ったりしたそうです。また、和音を分散和音にしたり、当時のピアノ演奏の慣習になかった上方から下方へのアルペジオ(リズム感や深みを演出する演奏方法)、いわゆる逆アルペジオを大胆に使ったことでも有名でした。とりわけ、ゴルトベルク変奏曲の主題アリア第11小節の逆アルペジオは反響が大きく、その後、多くのピアニストが倣うようになりました。

 モーツァルトの演奏においては、装飾記号の無視がはなはだしく、モーツァルトの装飾性を軽蔑したと言われます。さらに、グールドは、意図的に反復記号を無視して演奏するため、当時リヒテル等から批判されていました。

 そうまでしてして貫いた彼の姿勢には頭が下がります。
『芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある』という言葉は特に有名です。

 他にもこんな言葉が残っています。

 『グールドは私にとって永遠のアイドルだ』(ウラディーミル・アシュケナージ)
 『グールドより美しいものを見たことがない』レナード・バーンスタイン)
 『結局、彼は正しかった』(ユーディ・メニューイン)

 これからは作曲者だけでなく、奏者にも多いに眼を向けていこうと思います。でもグールドは奏者ではなく作曲・編曲の名手だと私は思います。

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2010年3月29日 (月)

アルビノーニのアダージョの秘密

 私はこの曲をアルビノーニの曲と信じてきましたが、調べてみると、ジャゾットと言う音楽学者が、ザクセン国立図書館から受け取ったアルビノーニの自筆譜の断片を編曲したと称して、『ト短調のアダージョ』を出版していたことが解りました。この作品が『アルビノーニのアダージョ』として親しまれるようになると、ジャゾットの名もアダージョの編曲者としてとりわけ有名になったのだそうです。

 ジャゾットは、自分は編曲したのであって、作曲したのではないと言い張りましたが、現在では完全なジャゾットの創作であることが判明しました。自筆譜の断片が公表されたためしがなく、ジャゾットはバス声部のみが該当の部分だと述べており、しかもこの曲の版権はジャゾットが持っていたということでした。

 アルビノーニはトマゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニ(1671年6月8日 ヴェネツィア - 1751年1月17日 ヴェネツィア)といい、イタリア・バロック音楽の作曲家で、生前はオペラ作曲家として著名であったが、今日はもっぱら器楽曲の作曲家として記憶され、そのうちいくつかは頻繁に録音されています。

 ヴェネツィアでは、ビッフィ以外の音楽家との交流はなかったようですが、多くのイタリア都市においてオペラ作曲家として名を上げ、たとえばヴェネツィア、ジェノヴァ、ボローニャ、マントヴァ、ウディーネ、ピアチェンツァ、ナポリなどでは有名でした。この頃になると器楽曲をふんだんに作曲し、1705年以前に、ほとんどのトリオ・ソナタやヴァイオリン協奏曲を作曲しましたが、その後は1719年まで、独奏楽器のためのソナタやオーボエ協奏曲を作曲するに留まっています。そして1720年代から作曲家アルビノーニの足取りはつかめなくなるのです。一体何があったのでしょう。

 多くの同時代の作曲家とは異なり、教会や貴族の宮廷に地位を得ようとした形跡が見当たらず、独自の財源によって、独力で作曲する自由を得ていたと言われています。

1742年にフランスで、アルビノーニのヴァイオリン・ソナタ集が「遺作」として出版されたことから、研究者から、アルビノーニはその頃には亡くなっていたと推測されてきました。しかしながらアルビノーニは、ヴェネツィアで人知れず生き延びていたそうです。生地のサン・バルバラ小教区の記録によると、アルビノーニは1751年に糖尿病により、「79歳」で亡く、なったとあります。

『アルビノーニのアダージョ』に話を戻しましょう。よく聴くと他のバロックとは違いがあることにお気付きでしょう。この作品は、トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され、その断片は第二次世界大戦中の連合軍によるドレスデン空襲の後で、旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見されたと伝えられてきました。作品は常に「アルビノーニのアダージョ」や「アルビノーニ作曲のト短調のアダージョ、ジャゾット編曲」などと呼ばれてきました。しかしこの作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかったのです。

 こんな背景の中、私はこの曲が好きになったのは、悲哀、哀愁をおび、アルビノーニの音に対する自由を感じるからなのでしょう。雄渾多感な旋律と陰翳に富んだ和声法ゆえの親しみやすい印象から通俗名曲として広まり、クラシック音楽の入門としてだけでなく、ポピュラー音楽に転用されたり、BGMや映像作品の伴奏音楽として利用されたりしたのも、もとはアルビノーニの皇帝音楽からの逃避と考えられるのではないでしょうか。

 本当にクラッシックのお好きな方には受け入れ難いかもしれません。でも私はジャゾットの曲であろうと、この曲を愛してやみません。

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2010年2月20日 (土)

小椋佳 『40歳からの青春』

 私はまだ小学生の時から小椋さんの歌に惹かれていました。初めて聞いたのが『大いなる旅路』でした。鉄道100周年記念番組の主題歌でした。そこでは、この曲をバック音楽として吹雪の中を走ってくるSL列車の感動的なシーンが組まれてましたね。
誰が歌っているかも解らずレコードを探したのを覚えています。伸びやかな声、優しい声、そして曲も素晴らしいですが、詩がとてもいいですね。

 ここで、小椋さんのプロフィールを紹介します。

 1967年東京大学卒業後、日本勧業銀行(現みずほ銀行)に入行。同行に約四半世紀勤務、浜松支店長・本店財務サービス部長等を経て1993年退職しました。勿体無いないなあと思いましたよ。

1994年東京大学法学部に再入学。文学部思想文化学科に進み、哲学専攻にて2000年大学院修士号取得。この間、1971年自らの作詩作曲による初LPアルバム「青春・砂漠の少年」を発表しました。このあたりから詩に重みを増してきたように思います。

 3作目のアルバム「彷徨」は100万枚のセールスを突破 しました。以来、ソングライターとして、布施明、中村雅俊、堀内孝雄、美空ひばり等、多数のアーティストへ作品を提供。「シクラメンのかほり」「俺たちの旅」「夢芝居」「愛しき日々」「愛燦燦」など数多くのヒット作品があり、日本レコード大賞を始め数々の賞を受賞しましたね。

 作詩作曲・歌手活動の他、執筆活動や舞台創造も重ね始めました。『小椋佳 言葉のある風景』『思い込み』などなど、古書扱いのものもあります。
 少年少女たちの演じる音楽劇「アルゴ」や、邦楽界の歌い手たちを起用しての新歌唱舞台「ぶんざ」「一休宗純物語」の公演がその代表です。

 1998年以降、歌と語らいで綴る公演を「歌談の会」と称し、年間を通して全国各地にて開催中。2006年1月、「ぶんざ」「一休宗純物語」等に出演した高橋孝のデビュー・ミニアルバム「逢いたくて」をトータルプロデュースしています。
  2006年8月、約9年振りとなるフル・オリジナル・アルバム「未熟の晩鐘」をリリース。

 2007年3月、西本智実を指揮者に迎え、ミューザ川崎にて洗足学園音楽大学オーケストラをバックに「未熟の晩鐘シンフォニーコンサート」を行いました。
2007年夏「ぶんざ」「一休宗純物語」に出演し、「歌談の会」でも共演中の伊東恵里さんのニューアルバム「LONLEY WITH YOU」をトータルプロデュース。還暦を迎えてもなお精力的に創作活動、若手の育成に励んでおられます。

 という、多彩を発揮なさっていますね。でもまだ銀行に勤めながらギターを習い、少しずつ曲を作っていた頃が懐かしいですね。NHKで初めてコンサートを行った時、照れて、ギター演奏を間違えるなんて場面もありました。それから十何年もたち、ある雑誌でこう答えてました。

『僕は40歳を0歳だと思っています。だから10年、20年後が青春なんです。』と。いい言葉だと思いました。これからどんどん活躍するのだと、若かった私に刺激を与えてくれました。

 やはり才能がある方なのですね、子供、成人、大人の愛のテーマがちゃんとあるのです。でも青春を感じさせる歌が多いですね。
中でも、私のお気に入りは『めまい』『揺れるまなざし』『糸杉のある風景』『旅支度』・・・きりがないです。
 アルバムでは『彷徨』『残された憧憬-落書-』が最高です。

 特に気に入っている詩は『旅支度』

あなた一人の旅の仕度を
手伝う時のやり場の無さは
何処へ捨てましょう

ちょっと演歌っぽいですかね(笑)。それから『糸杉のある風景』はまさにゴッホの絵と同じ題名ですが、暗さがなく、こんな風にゴッホの
絵を観る小椋さんの感性に惹かれました。下記の詩も好きです。

ただお前がいい
わずらわしさに なげた小石の
放物線の軌跡の上で
通り過ぎてきた 青春のかけらが
飛び跳ねて見えた

そのてり返しを
そのほほに移していたお前
また会う約束などすることもなく
それじゃぁまたな と別れるときの
お前がいい

こんな小椋さんの歌をまた動画で探しましたが、無いものもあったので、この2曲でご勘弁ください。

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2010年2月13日 (土)

私の好きなミュージシャン~坂本 龍一編

 教授のことはYMO時代から好きで、音楽もよく聞きましたし、村上龍さんとの対談形式の本を解りもしないのに読んでみたり・・・CDも何枚かあります。

 クラシック音楽が根幹にはあるものの、民俗音楽、現代音楽にも造詣が深く、ヘビーメタルとカントリー音楽以外はすべて演奏分野の範疇にあります。
 

  幼いころから作曲を学び、東京藝術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動開始。1970年代後半よりソロとして活動する一方、メンバーとして参加した音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が国内外で商業的成功を収め、人気ミュージシャンとなります。YMO時代にテクノポップやニュー・ウェイヴの分野で活動したことは広く知られていますが、その後は一つのところに留まらず、現代音楽の手法を使った作品の発表、ロックとテクノの融合、ワールドミュージック、ヒップホップやR&Bなどのブラックミュージックを織り交ぜたポップス、オペラの作曲およびプロデュース、クラシックやボサノヴァのユニット成してのワールドツアー、近年はアンビエントやエレクトロニカの 品を発表するなど、ジャンルを超越して多彩な作品を発表しています。

 自身の音楽活動のほか、プロデューサーやアレンジャーとしても活動し、他のアーティストへの楽曲提供も数多く行っています。また、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽を担当したことをきっかけに映画音楽の作曲も手掛けるようになり、1987年公開の『ラストエンペラー』(坂本さんが書いたピアノスケッチ譜に基づいて、実際のオーケストレーションは、本人を含む、東京藝術大学作曲科後輩のアレンジャーが分担しました)では日本初のアカデミー賞オリジナル作曲賞を受賞し、以降、国内外の映画音楽を手掛け、映画音楽家としての地位を築きました。

 近年は各メディアで環境問題や平和問題をはじめとした諸問題について発言する機会も多く、最近はPSE問題において、坂本も中心人物として参加した反対運動が実を結んびました。近年は「エコ」や「ロハス」といったキーワードを口にすることが多く、マクロビオティックの実践者でもあります。一時期はベジタリアンでしたが、これは「人としての闘争本能がなくなりそうだから」という理由で後に挫折ていとか・・・

 音楽を担当した映画「ラストエンペラー」においてアカデミー作曲賞を受賞した際には、写真週刊誌フライデーにおいて

 『この賞を受賞したことよりもこれから仕事を選べるという点のみで今回の受賞は悦ばしい』と発言しています。

 活動の拠点を米国に移したのも『日本という小さなマーケットでCDを100万枚売るよりも、世界の10カ国からそれぞれ10万枚ずつCDを売るほうが作品のクオリティーを落とさないで済む』と雑誌「GOETHE」で述べています。

 ただ成功したかどうかではなく、いかに積極的に動いたか、働きかけをしたかと言う点で私は教授を教授と呼び続けると思いまず。

動画は『戦場のメリークリスマス』ですが、『鉄道員(ぽっぽや)』の動画も映画と重なり素晴らしいです。お好きなほうをお楽しみください。

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2010年2月 7日 (日)

『メロディーズ・オブ・ラブ』~ザ・クルセイダーズ

 私が大学生だった頃、ジャズにはまったお話はしましたよね。きっかっけとなったのが、クルセイダーズのメンバー・ジョーサンプルの『メロディーオブラブ』でした。ジャズと言うよりフュージョンに近いのですがこの曲だけはまた特別に情緒のある曲です。日本で好まれるのも解る気がします。

 もともとはテキサス州のハイスクールで同級生だったウェイン・ヘンダーソン(Tb) ウィルトン・フェルダー(T.Sax) ジョー・サンプル(Key) スティックス・フーパー(Dr) の4人が結成したグループで、何度かグループ名を変更した後、1961年にジャズ・クルセイダズとしてアルバム「フリーダム・サウンド」でメジャーデビューしました。

 その後1971年にグループ名を「ザ・クルセイダーズ」とし、アル バム『パス・ザ・Ruso01 プレイト』を発表。1972年に発表した『クルセイダーズ1』が高い評価を得、続く『セカンド・クルセイド』『アンサング・ヒーローズ』等によりジャズのみならずポピュラー・ミュージックのファン層にも浸透し、1970年代フュージョン・シーンを代表するグループとなりました。

 ジャズ・クルセイダーズのほうが良いと思われる方も多く、60年代はジャズグループとして『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス66 』などもツウの方はお好きなようですね。

 しかり、その後も次々とアルバムを発表するのですが、1976年に結成以来のオリジナル・メンバーであるウェイン・ヘンダーソンと、最初期から準メンバーとして参加しており1974年に正式メンバーとなっていたラリー・カールトンが脱退し、1983年にはスティックス・フーパーが脱退するにいたって、グループとしての形態は維持できなくなり、ウィルトン・フェルダーとジョー・サンプルのユニットに、そのつどゲストミュージシャンを参加させるというスタイルで活動を続けていきました。その活動も、1991年に発表された『ヒーリングザ・ウーンズ』を最後に事実上停止していたが、1992年に突如としてウェイン・ヘンダーソンとィルトン・フェルダーが「ネクスト・クルセイド」を名乗ってアルバム『バック・トウ・ザ・クルーヴ』を発表。さらに1995年、「ジャズ・クルセイダーズ」名義で、アルバム『ハッピー・アゲイン』を発表しました。

 新生ジャズ・クルセイダーズとして数枚のアルバムが発表された後、今度は2002年にウィルトン・フェルダー、ジョー・サンプル、スティックス・フーパーによって「ザ・クルセイダーズ」名義で』ルーラル・リニューアル』が発表され、ほぼオリジナル・メンバーからなるグル
ープ再結成(活動再開)が成立しました。ちょっと混乱しますがこれで良かったのではないかと私は思うのですが・・・

 フュージョンはおろかクロスオーバーという言葉もなかった時代から、ジャズという既成概念にとらわれずにさまざまなジャンルの音楽を取り込み、独自の音楽世界を表現しようとしてきた点に、このグループの革新性がありますね。「Mr.335」ラリー・カールトンという、のちのフュージョン・シーンを牽引するトップ・ギタリストを、グループの結成初期から準メンバーとして参加させていたところにもそれが顕われているといえます。

 バンド全体からうねり出されるブラック・グルーヴが最大の魅力。なかでもフロントに配備されたテナー・サックス/トロンボーンは重量感を4割増しにしています。そして、どこか哀愁漂うブルージーなメロディが奏でられ、アーシーな音世界が繰り広げられる・・・もうたまりません!!
『Scratch』(74年)と『Those Southern Knights』(76年)は、そんな彼らの最高傑作。また、少し洗練された色合いだが、ランディ・クロフォード(vo)を招き、タイトル曲が大ヒットし『Street Life』(79年)も挙げておかなければ語れないほど素晴らしかったですね。

 まだ聞いた事の無い方は『ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・クルセイダーズ 』が今あるはずなのでそちらから入ったほうがいいかもしれません。

 今回、『メロディ・オブ・ラブ』を動画にしましたが、本来10分ほどの即興も交えた曲をお届けしたかったのですが、10分はジャズをあまり聴かない方には苦痛だろうと思い、一番スタンダードに知られいるバージョンでお聞き下さい。

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2010年1月28日 (木)

歌に捧げた人生『本田美奈子』

 アイドル歌手だった美奈子ちゃんが本格『ミス・サイゴン』に約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた時は、正直驚きました。
 でもミュージカルやクラシカル・クロスオーバーへの進出をした時、彼女の歌唱力が評価されたことを喜ばずにはいられませんでした。

 私は美奈子ちゃんがアイドル時代から好きで、「マリリーン!!」とへそだしルックで腰を振っていても、何ていやみの無い、唄の上手な女の子として応援してきました。

 『ミス・サイゴン』での体当たりな演技も「私は演技がヘタだから」と言っていてことなど忘れさせてくれる程素晴らしいものでした。                   

まさか白血病だなんて・・・

 1986年には、ロンドンを訪れて、ブライアン・メイのプロデュースによりシングル「CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS」を制作。美奈ちゃんは武道館でのコンサートでフレディ・マーキュリーの「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」をカバーしており、このコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてメイに送ったところ、彼の方から申し出がありコラボレーションが実現しました。シングル「CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS」は翌1987年に発売され、英語版もイギリスをはじめヨーロッパ20箇国でリリースされたのです。

 ボンド企画が手がけた縁で1987年に彼女とのジョイントコンサートを行い、ジャクソン・ファミリーとも親しくなった。ロサンゼルスのマイケル・ジャクソンの自宅にも招待され、彼らのスタッフのプロデュースにより全曲英語詞のアルバム『OVERSEA』を制作。このアルバムはアメリカでも発売されました。
 またこの年の7月にはジャマイカを訪れスライ&ロビーのライブにゲスト参加し、「HEART BREAK」と「EYE言葉はLONELY」を歌いました。

このようにデビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていったのです。

ロックバンドを結成したこともありましたが、不振に終わり、少なくとも商業的には成功したとは言えず、1989年秋に解散してソロに戻った後も人気は回復しない時期がありました。彼女にとってこの頃は最も苦しい時期で、自身「歩いてきた道が突然、ガケっぷちになって行き止まりになっていた」と回顧しています。

それでも歌へのこだわりの強い美奈子湖ちゃんはバラエティー番組への出演を断り続け、ドラマや映画の仕事も最小限に絞っていました。

東宝のプロデューサー、酒井喜一郎から『ミス・サイゴン』のオーディションの話を聞かされた時も初めは関心を示しませんでしたが、全編歌で構成されたミュージカルであることを知ると目の色を変えて意欲を示すようになったそう。

1990年秋に始まったオーディションの選考は数ヵ月にわたり、翌1991年1月13日にキム役に決定すると3月以降の全ての予定をキャンセルして公演に備えました。開幕にあたっては「私は舞台では、演じないからね。生きるからね。強く生きてみせるからね」と抱負を語っていたそうです。

 2000年前後にはクラシックへの志向を強めていた彼女ですが、本格的にクラシックの楽曲を歌うようになったきっかけは2002年8月31日に東京オペラシティコンサートホールで開催された『グラツィエ・コンサート』でした。
 クラシックの楽曲を現代人に受け容れやすいスタイルで歌える歌手を探していたコロムビアのプロデューサー、岡野博行氏はこのコンサートに足を運び、終演後に楽屋を訪れてアルバムを制作することを申し入れた。元よりそうしたアルバムの制作を望んでいた美奈ちゃんは即座に快諾し、企画が進行することとなった訳です。

 『ミス・サイゴン』以来の本田の恩師である岩谷時子さんが日本Tensi004 語詞を書き下ろし毎回歌入れに立ち会って、場合によっては言葉が旋律に乗りやすいようにその場で変えるなど全面的にサポートし、編曲は井上鑑氏が担当。

井上氏を起用した理由について岡野氏は、のめり込み過ぎない一歩引いたクールさがあり、ホットでのめり込みやすい美奈ちゃんとのバランスが絶妙だろうと考えたと述べています。

 翌2004年11月25日には2枚目のアルバム『時』が発表され、没後に公表されたものも含めるとアルバム2枚強の音源が制作されました。そこ
に共通する考え方は、クラシックの名旋律を歴史的背景にとらわれず現代の感覚で歌うこと、しかし決して奇を衒うのではなく素直に楽曲の素晴らしさを大切にするということで、特にこだわったのは日本語で歌うことでした。こうしたクラシカル・クロスオーバーでの活動により、美奈ちゃんは従来のファン層とは異なる新たな聴衆からの支持を獲得したのです。

 彼女は音楽学校などで声楽を学んだ経験はありません。でも、ミュージカルに出演するようになってからは山口琇也氏や岡崎亮子さんのレッスンを受け続けました。

 特にオペラへの出演経験もある岡崎の指導はクラシカル・クロスオーバーへの進出に大きな影響のあったものと思われます。岡崎さんは最初に会った時彼女のあまりに華奢な体つきに不安になったそうですが、背中をさわってみるとしっかりとした筋肉がついていたので大丈夫だと確信したと言います。

1994年発表の「つばさ」には後半に10小節にわたって声を伸ばすロングトーンがあるのですがが、この伸びやかな声を支えていたのはその強靭な背筋だったのです。

 舞台には歌の神様がいると話し、いつも出番の前には舞台の天井を見上げて祈りを捧げていた美奈ちゃん・・・

  • 彼女の療養中に発売されたミニアルバム『アメイジング・グレイス』 のラTensi002イナーノートには手書きのメッセージを寄せ、次のように述べていいました。

『私は今まで、歌と一緒に歩んできました。…私の歌が皆さんに、歌の素晴らしさを伝えることができるよう... 1人でも多くの方の心が豊かになれるよう... という願いを込めて これからも、歌い続けたいと思います。』・・・

 38歳の若さでの急逝は社会に衝撃を以て受け止められました。彼女の遺志により朝霞で行われた通夜にはファン・関係者合わせて2700人、告別式には3700人が参列。彼女の早世を惜しむ声は絶えることがなく、没後に新たにファンになった人も多く彼女の公式ファンクラブは多数の要望により没後も存続することになりました。

 私にはまだ、テレビで流された闘病中の言葉、『たけしさん、助けてください。』が心に残っています。そしてあのアメイジング・グレースの歌声も。

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2010年1月 8日 (金)

私の好きなミュージシャンたち~久石 譲編

 日本の作曲家・歌手・ピアニストである久石作品は最初、イージーリスニングとして出会いました。
作曲家としてテレビ音楽に彼が初めて登場したのは、テレビアニメ「はじめ人間ギャートルズ」からだそうですがまさかと思っていました。
宮崎駿監督の劇場用アニメ作品の音楽としては『風の谷のナウシカ』(1984年)からが本格的といっていいにではないでしょうか。
『ナウシカ』以後、沢山の映画に楽曲提供を行っていますが、宮崎駿監督作品が一番多く、次いで北野武監督作品や大林宣彦、澤井信一郎監督作品にも多く携わっており、その集大成として『WORKS・I』(1997年)を発表しました。
 

 2004年、『ハウルの動く城』の音楽の作曲を担当するほか、第57回カンヌ国際映画祭において、日本の作曲家としては初となるオープニング・セレモニーの作曲と指揮を担当、注目を集めました。
 『WORKS・I』はまるで交響曲でも聴いてるかのような気持ちになり、私はとても感動を覚えました。曲に山と谷がはっきりあって小気味いいいのです。うまく表現できませんが、イージーリスニングとか癒しの曲などと一くくりに出来ないはっきりとした主張があるのです。
 
 2004年には新日本フィルハーモニー交響楽団が新たに結成した新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラの音楽監督に就任。自身の楽曲だけではなく『007のテーマ』、『ミッション・インポッシブルのテーマ』、『スター・ウォーズ』」と云った有名な映画音楽からラヴェルの『ボレロ』のようなクラシック曲など、ジャンルにとらわれないスタイルでのコンサートがうけています。

 また、2005年のコンサートツアー「Symphonic Special 2005」ではステージに大スクリーンを設置しバスター・キートンの無声映画『The General』(邦題「キートンの大列車強盗」)の映像に合わせてオーケストラを指揮するといった難しい試みにも挑戦。元々は2004年の第57回カンヌ国際映画祭のイベントで久石氏が行ったものでしたが、日本でも大成功を収め脚光を浴びました。                                  

 私は癒し系の音楽を聴き始めて、覚えたのですが、ずっと気なる存在で、『ハウルの動く城』は見ているというより、聴いていましたね(監督、すみません・・)。それからCDを借りにいきました。今回上げた四名は、私にはアミノ酸の入ったドリンクのよう存在です。

元気な時は葉加瀬氏、落ち着きたい時は加古氏と千住氏、じっくり聞きたい時は久石氏・・・今年の箱根駅伝のテーマ曲も彼の作品だそうです。

お聞きの曲は『WORKS』の中の「人生のメリーゴーランド」です。Hauru001

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2010年1月 7日 (木)

私の好きなミュージシャンたち~千住明編

 千住明氏も気になる作家の一人でした。いいなぁと感じた曲の中に千住氏の作品が多かったからです。

作曲家・編曲家・音楽プロデューサーを巧にこなす千住氏。編曲やプロデュースなど幅広く活躍し、特に野島伸司脚本・企画のドラマや近年では、中森明菜の大ヒットカバー・アルバム『歌姫』シリーズをすべて手掛け、累計100万枚の売り上げを記録させました。また、2007年に中森明菜が『歌姫』に続く演歌・歌謡曲のカバー・アルバム『艶華 -Enka-』を発表、本シリーズでも千住明がプロデュースを担当しました。「映像音楽の魔術師」と称されています。
ソロアルバム、メインアルバム、プロデュースアルバムは数多くあります。編曲でこんなに曲って変わるのかと絶対思うはずです。

 小澤征爾等の巨匠指揮者とのセッションも数多く、オーケストラ作品では、ヴァイオリン協奏曲『リターン・トゥザ・フォレスト』(2000)、ピアノ協奏曲『宿命』(2004)、『四季』(2004)、交響曲第1番(2005)、日本交響詩 (2005、「ブレス・アンド・ロザリー」(2006)等、初のオペラとして「隅田川」(台本:松本隆)(2007)などがあります。映画『226』『RAMPO~国際版』『わが心の銀河鉄道』『愛を乞うひと』『黄泉がえり』『HINOKIO』『この胸いっぱいの愛を』『涙そうそう』『象の背中』、ドラマ『高校教師』『家なき子』『聖者の行進』『世紀末の詩『ほんまもん』『砂の器』『仔犬のワルツ』『恋の時間』『風林火山』、アニメ『機動戦士Vガンダム』『鉄人28号』『雪の女』『RED GARDEN』NHKスペシャル「世紀を越えて』、NHK「日本映像の20世紀』、CM「アサヒスーパードライ』「コスモ石油』「パナソニック ビエラ』等、音楽を担当した作品は数え切れません。

 昨年3月、千住兄妹初の共同作業(コラボレーション)によるジョイントコンサート『音楽会の絵』が開かれました。これは画家であり兄である博氏の絵画をテーマに、明氏が書き下ろした『ヴァイオリンコンチェルト』を、妹の真理子さんが演奏するというものでは喝采をあびましたね。

『Still Blue: Sketchpiano』『Feel Solo Selection Best Wishes テーマ曲集』など一度聴いたらその旋律は忘れられないものになるでしょう。
 癒しの曲のなかに存在不可欠の方です。『feel』『frow』などから入ってみていかがでしう。
 

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2010年1月 6日 (水)

私の好きなミュージシャンたち~葉加瀬太郎

      

 『情熱大陸』の音楽で世間をあっと言わしめた葉加瀬氏。何時聞いても元気になれます。

 4歳からヴァイオリンを習い始め、東京芸術大学の学生で結成された『クライズラー&カンパニー』の中心人物として音楽界に登場。クラシックやポップスといったジャンルの垣根を越えて、壮大で心地よい音楽で人気を博しますが、1996年に解散。その後、作曲家・ヴァイオリニストとして高く評価され、アート・リンゼイ・プロデュースより『atashi』(1997年)でソロデビューを果たしました。1996年10月からのセリーヌ・ディオンのワールドツアーに参加し注目を浴びるようになりました。
 
 ジャズやボサノヴァ、ラテン、その他様々な民族音楽をクラシックと溶け込ませたような楽曲を奏でる。 また、打ち込みの音と生音とを組み合わせた楽曲を手がけ、新たな音世界を形成しました。これが聴いていて斬新なのでしょうね。私の求めている音はこれかもしれない!と思った程です。

主だった曲は
ドラリオン(シルク・ドゥ・ソレイユ) 『Time Messenger』
スーパーニュースアンカー 『Beyond the Sunset』(演奏は功刀丈弘)
情熱大陸(毎日放送)OP『情熱大陸:』、ED『Etupirka』
ファイナルファンタジーXII(スクウェア・エニックス) ED:交響詩『希望』
全日空イメージソング 『Another Sky』
新生銀行イメージソング 『COLOR YOUR LIFE』
やじうまプラス (テレビ朝日) 『陽の当たる家』
ぐるり日本鉄道の旅 (BS日テレ) 『アフタヌーン・ブリース』
なんばパークスイメージソング 『Loving Life』

などテレビの主題曲が目白押しです。テンポのよさ、ノリのよさ、体中で表現するエンタテイメント性、生で聞けたら踊リ出してしまいそうですよね。でもじっくり聞かせてくれる曲もあってどちらも甲乙つけがたいんです。

彼自身の結婚式でずっとヴァイオリンを弾いていたそうです。奥様はあっけに取られていたそうですが・・・でも好きな事に夢中になってるって素敵ですよね。

映像音楽と言う新しいジャンルで活躍し進歩し続けるミュージシャンに喝采を!!

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